勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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銀河高原ビールの総本山、沢内銀河高原


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沢内銀河高原だけで飲める生ビール。写真はヴァイツェン



沢内銀河高原ホテル

久しぶりに岩手県和賀郡沢内村(現和賀郡西和賀町)にある沢内銀河高原ホテルを訪れた。訪れたのは四年ぶり、宿泊は七年ぶり。沢内村は日本有数の豪雪地帯。ここに96年ビール工場併設のこのホテルは建設された。ビールはご存知、銀河高原ビール。今や大型スーパーに行けば、必ず置いてある、あの本格ドイツ・ビールの製造元だ。銀河高原ビール、開始当初は地ビールブームの後押しもあって好調に事業展開し阿蘇、飛騨、那須と工場を増設。ところが地ビールの収束と共に失速。二度の事業清算の後、現在存在する工場は、ここ沢内だけだ。つまりあなたの近所で購入できる銀河高原ビールは全てここで生産されている。

事業縮小を受け、ホテルも様変わりした。かつてはレストランが二つあり、一つは大きな吹き抜け、もう一つは工場併設で、開放的な気分とビールの製造工程を間近に見る、二つの気分を堪能することができた。ところが、現在レストランは吹き抜けのあったところ一つのみ。光熱費のことを考慮したのか吹き抜けは低い天井とパーテーションで区切られた普通のレストランになっていた(暗い)。現在、工場の方に一般客は立ち入れない。

また、かつてはトナカイを飼っており、ソリにお客を乗せるというアトラクションが人気だった。クリスマスの時にはスタッフがサンタに扮し、一面雪世界の星空の中をトナカイに乗ったサンタが通り過ぎるという、すばらしい演出を見ることができた。このトナカイも死んでしまい、今は寂しい限りだ。

失速した銀河高原ビール。でも生き残っている

さて、銀河高原ビール。たったひとつの生産拠点となってしまったが、しぶとく生き残っている。でも、なぜ銀河高原ビールは失速してしまったのか、そしてなぜまだしぶとく生き残っているのか。今回はこれについて考えてみたい。ちなみに、これは94年以降誕生した地ビールの栄枯盛衰の歴史について語ることでもある。

最初に考察の結論を述べておこう。ひとつは、銀河高原ビールが失速したのは銀河高原ビールの責任では全くない、しかし必然的結果」というもの、二つ目は「銀河高原ビールがしぶとく生き残っているのは銀河高原ビールの質による必然的結果」というもの、そして、三つ目は「銀河高原ビールがこういった運命を辿っているのは、実は日本という食文化と大きな関わりがある」といういこと、の三つだ。

個人的に銀河高原ビールを評価しておけば

僕の銀河高原ビールに対する立ち位置をはっきりさせておきたい。個人的にはこのビールは国内ではベストのビールと評価している。最も出回っている”小麦のビール”はちょっとバナナの香りがするクリーミーなビールで(ヴァイツェン酵母を最後に濾過していないので少々濁っている、どうみても本場ドイツで飲むビールそのもの。しかも、ドイツビールの中で評価してもトップレベルに位置する高品質。この評価はその他の“白ビール””ヴァイツェンビール”“ペールエール”についても同様だ。日本国内で様々な地ビールが売られているが、その洗練度と本格さではちょっと格が違うと考えている。”小麦のビール”は飲み始めて十数年。阿蘇白水に工場があったときには近場の溫泉に宿泊し、そこから歩いて工場に飲みに行ったこともあった。まあ、要するに銀河高原ビールの熱狂的なファンの1人である。

銀河高原ビール、なぜ当たったのか?

96年創業当時、銀河高原ビールは絶好調だった。前述したように、その後、日本国内に四つの製造拠点を構えるほどに成長していく。ただし、これはビールの味とは関係のない「地ビール・バブル」の波に乗ってしまったからだろう。94年、酒税法の改正に伴い地域の産業興しの一つとして注目されたのが地ビールだった。その結果、国内のあちこちに地ビールが誕生する。地ビールは地元の名称が冠せられたたり(たとえば”オホーツクビール””那須高原ビール””綾の地ビール”)、地元の産物を原料に使ったりしたすること(”こしひかり越後ビール”(エチゴビール)、”ゴーヤーDRY”(ヘリオスクラフトビール))などが特徴だ。

とにかく、当初はその物珍しさもあって注目を浴びた。銀河高原ビールもそういったビールの一つだった。

失速した地ビール

その原因1:価格が高い

しかし、こういったバブルがはじければビールとしての正当な評価が下されるようになる。そして地ビールはここで曲がり角をむかえる。つまりすっかり売れなくなってしまったのだ。

その原因は、まず、価格が高めに設定されていたことだった。一般のビールより三割、ものによっては倍以上するものもあった。だが、この価格はスケール・メリットがもたらす必然的結果だった。前述した酒税法の改正では最低製造数量基準が2000klから60klに緩和されることで、地ビールはビール製造への自由な参入が可能になったのだけれど、それは少量であればあるほどコストに跳ね返るということでもある。だから、大手のビールよりも価格を高く設定しないことには経営が成り立たないのだ。となると、懐の痛む地ビールを、そう毎日地元の人間が飲んでくれるということにはならない。だから新奇性が失われていけば、彼らは飽きて手を出さなくなり、その後は自分は飲まず贈答用くらいしか、購入する理由がなくなってしまったのだ。

その原因2:味がどこも同じ?

二つ目は味それ自体の問題だ。あちこちの地ビールを飲み比べてみればわかることなのだけれど、実はピルスナー、ヴァイツェン、エール、ケルシュといったビールの味はどこも似たり寄ったりなのだ。これは仕掛け人=技術者たちがごく一部で、この人間たちが少しずつ味を変えて、あちこちでビールの開発に携わったという経緯がある。だから結局、飲んだときに「なんだかなあ~」とか「そのへんの地ビールの味」ということに評価にだんだんなってしまったのだ。

その原因3:ビール純粋令を踏襲した地ビールは日本の食文化に馴染まない

三つは味と食のマッチングの問題だ。地ビールは原則、本格的なビールを志向している。そのほとんどはドイツが法令で定めているビール純粋令、つまり麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする製法で作られている(前述した”こしひかり越後ビール”のようなものは例外。これは米を原料にしている)。だが、この製法でビールを製造した場合、日本の大手メーカーが製造するビールよりもモルト感、甘み、苦みが強くなる。こういった味付けは、総じて味も見た目も「透明感に乏しい」という印象を与えることになる。で、こういった味付け、実は日本の食とは合わないのだ。

日本の代表的なビールを考えてみよう。80年代までならキリンラガー(当時は、単に“キリンビール”と呼ばれていた)、80年代後半以降はスーパードライ、そして一番搾りだ。これらは全てビール純粋令を踏まえていない。米やコーンスターチが添加されている。キリンラガーは苦くてそこそこ甘いがドイツビールのようにボディが強くはない。これが80年代までの日本人の食生活である「塩分強め、そのくせあまり脂っぽくない食事」にマッチングしていた。一方、スーパードライ・一番搾りは アルコールちょっと高めで、辛口。ボディは少々軽めで、苦みも少ない。これは食の洋風化に伴った「塩分ひかえめ、以前より脂っこい食事」にマッチしたのだ

さて、一連の地ビールの味だが、これは現在の食文化にマッチしたスーパードライ・一番搾り、そしてこの味を踏襲した発泡酒や第三のビールが主流のビール類市場では、まったくもって主流の一角をなす要素を踏まえていないものとなる。合う料理は、やっぱり洋物、突き詰めてしまえばソーセージ、ザワークラフト、ポテトといったドイツ料理なのだ。あるいは、つまみなしで飲む。

結果として、地ビールバブルが終わったときには、こういった経済的要因、技術的要因、食文化的要因三つによって地ビールというカテゴリーは後退せざるを得なくなってしまったのである。つまり「高い、平凡、食い物に合わない」。すでに製造をやめてしまった地ビールも、実はかなり多い。そして、そういった逆風を受けて銀河高原ビールもまた縮小を余儀なくされていった。

ところが銀河高原ビールだけは、未だに全国の大手スーパーで購入が可能なのだ。なぜだろう。(続く)


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サントリーのコンセプトの結晶・Green Espresso



サントリーはくっきり

サントリービールの快進撃について考えている。今回は最終回。全体をまとめてみたいと思う。

プレミアムモルツ、金麦。どちらにしてもサントリーの戦略は一貫している。商品に明確なイメージを付与し、そのイメージの魅力=記号で売る。そしてその魅力をアップするためにイメージを徹底させるためのおびただしい戦略が組まれるのだ。しかも、これは意味の一元化に主演していくという点で共通している。つまり、広報展開をやればやるほどイメージがくっきりしてくる。これは同じビール類を提供しているサッポロと好対照で、サッポロの場合黒ラベルを「大人」というコンセプトで売り続けているのだけれど、何のことやらさっぱりわからない。それに対してサントリーはイメージ作りを徹底的に煮詰めたかたちでやり、最終的にはビール類を取り巻くライフスタイルまで提案している。

抹茶をエスプレッソのイメージで売ると缶ボトルがむしろお茶っぽくみえる?

ちなみにこういった「イメージくっきり戦略」は近年のサントリーの他の商品にも反映されている。その典型が抹茶のGreen Espressoで、これは抹茶を苦み、そして苦みの先にある甘みとのつながりでエスプレッソと関連づけてしまった。そしてボトルも黒と緑と抹茶とエスプレッソの混合。ただし、これをペットボトルで提供したら真茶のイメージは「青汁」みたいでダメだ。だがこれを缶ボトルにすれば中は見えないので青汁感は払拭出来る。さらにアルミボトルを広口にすることでお茶を湯飲み、あるいはデミタスカップでいただくといったイメージも演出。さらにボトルのキャップには「上下に五回振ってからあけてください」と断り書きがあり、その通りにやるとボトルの中の抹茶が泡だって、抹茶を点てたようになる。実に巧妙な商品戦略と言えるだろう。

で、まとめてみると、サントリーの強みは一番手ではないゆえにスキマ市場を狙い、イメージを明確化した後、ライフスタイルを提案し、固定客を獲得するという点では一貫している。そう、これがサントリービール類が快進撃を続ける理由だったのだ。

正直なところ、実は味の区別が結構難しいビール類(だから、今回は味そのものには一切言及しなかった)。だからこそイメージ戦略が大きくものを言う。そのことをサントリーは熟知しているのでは?僕はそんなふうに考えている。


金麦のCM


金麦の戦略(下-2)

金麦の戦略が家庭に振られていることを前回は示していた。そして家庭で待つ妻を檀れいが見事に演じ、しかもそのあまりの見事さに女性たちの反発を食らったことも指摘しておいた。しかし女性たちが反発するのにも、実は一理ある。それはこのCMが著しくジェンダー・バイアスに抵触する展開になっているからだ。そして、そのバイアスが金麦を金麦に惹きつける材料になっているからだ。

なぜBitter Sweet Sambaが使われているのか

金麦のCMで一貫して用いられている音楽が”Bitter Sweet Samba”だ。これはニッポン放送の深夜番組、オールナイト・ニッポンのテーマソングとして長く親しまれてきたもので、深夜放送に親しんだ世代ならなじみ深い、懐かしい曲だ。ただし、前回示しておいたように、金麦が想定する購買層は30代。まあ現在オールナイトニッポンを聴いている層もいるだろうが、時代的には深夜放送が最も盛況だった70年前後をイメージさせることは間違いないだろう。そして、こういったイメージを、実は現在の30代も持っている。つまりBitter Sweet Sambaは昭和四十年代に消費者をタイムスリップさせるツールなのだ。

金麦に魅力を感じる男性は、実は男尊女卑

でも、なぜこのCMは昭和四十年代にわれわれを引き込もうとするのか?それはこの時代のライフ・スタイルをイメージさせようとするからだ。四十年代は高度成長期。男性はサラリーマンとしてバリバリ仕事をし、一方、妻は専業主婦としてさながら銃後の守りのように家事に勤しんだ。つまり「男は外、女は家」という区分が明確だった時代だった。この時代のムードの中に視聴者を巻き込もうとしているのだ。実際、壇が演じているのは可愛い、それでいて家庭をしっかり守り、そして男性に傅く「男性にとって都合のいい妻」なのだ。当然、そこには当時の男尊女卑の感覚が流れている。つまり、CMの中で壇が演じる妻に女性がいらだちと怒りを感じるのは、壇自身と言うより、彼女が演じている、こういった「劣勢の女性」に対してなのだ。

あり得ない「古風で可愛い女性」への憧れ=金麦

しかし、これが逆に男性たちには魅惑的なものに映る。今やこんな男尊女卑みたいな、そして専業主婦みたいな女性はほとんど存在しない。男と女は当時に比べたらすっかり関係はフラットになった(もちろん依然として女性の方が劣勢に置かれてはいるのだけれど)。だから、実際に家に帰ったところで、こんなかわいらしい、それでいて従順な「飼われている」ような妻なんか絶対に待っていない。しかし、金麦を購入すると、こういったファンタジーに浸ることができるように思えるというわけだ。

これはかつて自動車がワゴンを売り始めた頃の戦略と全く同じだ。あんな洗車も大変なデカいクルマのどこが便利と言えるのだろうか?でも、売れた。それはワゴン車に家族を乗っけるとファミリーを感じることができるという記号=ファンタジーを売ったからだ。たとえばホンダのオデッセイに使われていたのはアダムス「ファミリー」だったし、ステップワゴンのコピーは「子どもと一緒にどこへ行こう」だった。で、実際のところ、この馬鹿デカいクルマを転がす機会が一番多いのは父か母が1人で買い物に行くようなシチュエーションばかりだったのだ。しかし、こういった「あったらいいな」といった夢が、これらワゴンの売り上げに拍車をかけたのだ。金麦もありもしない貞淑な妻というイメージで製品を売ることに成功している点では全く同じやり方なのだ。(続く)





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極めてエロティックな記号を隠し持っている金麦のCM「食べようat home」

金麦の戦略(下-1)

家庭に振った台詞の数々

金麦のCMは徹底して家庭に振っている。つまり家で飲む日常のビールというイメージにターゲットを絞っている。ちょっとこれまでのCMのキャッチコピーを並べてみよう。

かえってくる、おかえり、ご苦労様、がんばって、帰ろう、晩ご飯何がいい?、金麦と待ってる、この笑顔と金麦があれば、よろこんでくれるかな?おいしいのつくるぞ!遅い遅い、たまには早く帰ってこい、今年もがんばりました、こたつ、差し向かい、飲もう、おいしいね、食べよう、好きって言って、あのね、ふーふー、あたし待ってるから、明日はおでんにしよう?、私のあなた、リッチモルト、食べようat home

これらコピーには全て特徴がある。このコピーを発しているのが最後の「食べようat home」というコピーを除いて、すべて檀れいであるということだ(檀が選ばれたのは宝塚出身というゴージャスなイメージを彷彿とさせるという側面もあるだろう。これは金麦の高級感を演出している)。

妻と手料理を金麦を飲みながら差し向かいで、そしてその後には……

壇は1971年生まれなので、現在40歳。しかし、ここで演じている役割は30代前半だろう。壇はTVから茶の間に向かってこれらの台詞を語りかけるのだけれど、壇がTVの向こうに想定している相手は男性、そして夫だ。だから壇は当然、妻という設定になる。家族構成は結婚して二人の生活が馴染んできた頃。子どもはまだ無い。だから夫婦は仲むつまじい。妻は夫がやってくるのを待っているのだ。そして待っている妻が用意しているのは夕食と金麦だ。そこで出される愛妻料理。つまり設定はベタな日常。だから洋食よりも和食=家庭料理のステレオタイプがセレクトされている。しかも鍋やおでんと言った「こたつで差し向かい」で団らんを楽しむと言った料理も頻繁に登場する。そこで壇は子どもっぽく「ディスプレイのこちらにいる夫」に媚びを売り続けるのだ(壇のアップの多用も効果的だ)。

そして、金麦と食事の後には、明らかに夫婦の夜の生活が想定されている。このメタメッセージ性は最新のCMでより明らかだ。上のポスターを見て欲しい。ここでは壇が夜空から飛んで来て家を抱えている。身に纏っているのは寝具を彷彿とさせる衣装だ。だから飛んで来て家を抱えている壇はベッドで枕を抱きしめて、ベッドにやってくる夫を待っているようでもある。そしてご丁寧に壇の肢体に重ね合わせるように”食べよう”とあり、その下に”at home”とある。

「食べよう」の二つの意味

檀と”食べよう”を重ね合わせることには意味がある。それによって二つの視点が生じるからだ。料理を食べるときは「食べようat home」と二行で”Let’s”、つまり「いっしょに2人で食べよう」と、妻が夫に投げかけている言葉。もう一つは壇の肢体に重ね合わせた「食べよう」一行だけを読ませるもので、この時には夫が妻に投げかけている思いになる。そしてこれら視点はそれぞれ異なる意味を含意することになる。前者は「家で妻と金麦を飲みながら手料理を食べること」であり、もうひとつは「そのあと、家で可愛い妻を食べよう=ベッドを共にすること」なのだ。

ようするに、ここで売ろうとしているのは金麦ではなく、妻との生活に他ならない。そして、その生活を演出する、あるいは実現すると思わせる魔法のツールが金麦になるわけだ。

そして、こういったビールの先のライフスタイルを売っている相手は、やはり30代の男性、そしてその妻。彼らは就職してそろそろ仕事に油が乗り始めた頃。役職も与えられつつあるということで仕事もおもしろくなっている。その半面、給料はまだまだ。でも30年ローンでマンションを購入してしまった。だから主体的にも、現実的にも(つまり経済的側面からも)バリバリと仕事をやることになる。で、当然お金はない。だからいつも飲むならビールじゃなくて第三のビールだ。でも金麦はゴージャスなイメージ。で、仕事バリバリやって、家に帰ってくるとゴージャスなビールと愛妻が待っている。だから妻と金麦のある生活は幸せな生活の証しということになるのだ。こうやってイメージができれば、もはや味など大した問題にはならない。つまり、ここで売ろうとしているのは味ではなく、ライフスタイルなのである。金麦を購入するとこういう生活が待っているというわけだ。

女性から総スカンを食った檀れい

で、こういった生活を彩る典型的な愛妻像を壇は見事に演じている。ただし、壇の演技の見事さに、これが「媚び媚びだ!」「男にこびへつらう雌猫だ」みたいな文脈が現れ、このCM、そして壇自身が女性たちから総スカンを食うというオマケまでついたのだけれど。しかし、この女たちから総スカンを食うという壇の演技には、もう一つ深い意味がある。それはこれが極めてジェンダーに関わるものになっているからだ。(続く)


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サントリーのHPにあった金麦の写真。ラベルの下には”Rich Malt”とある。そして缶に添えるように金麦がつがれたグラスが映されているが、このグラスのビールの色ももちろん「金」をイメージさせるようになっている。

金麦の戦略(中)


サントリービール類の快進撃についてCM・広告の視点から分析を進めている。今回はいよいよ金麦CMの分析に入ろう。
現在第三のビールではキリンののどごしに次いで二位のポジションを獲得している金麦。それに際してCMが担った役割は極めて大きい。CMのポイントは二つ。「プレミアムモルツという虎の威を借ること」、そして「徹底した家庭に振った戦略」だ。

「金」が第三のビールの安っぽさをかき消す

先ずプレモルのイメージ借用について。名前はそのものズバリ「金」麦。そして缶ラベルの金麦と書かれた文字の周辺には金色の麦が巻かれている。つまりプレモルの「金賞受賞」の金だ。そしてさらに今年からはラベルの下に”RichMalt”という文言が付け加えられた。これもプレミアムモルツの「モルツ」を拝借している。

で、こういった晴れの日の、お祝いの日の、非日常の日のビール・プレミアムモルツの弟分として金麦を位置づけることで第三のビールの安っぽさというイメージを払拭し、高級感を演出することに成功している。実はついこないだまで、僕は金麦が発泡酒だと思っていた。というのも第三のビールみたいな安っぽい売り方をしていないので、ビールではないにしても発泡酒だろうと勘違いしていたのだ(サントリーはジョッキ生という、ベタに安っぽい第三のビールも発売していたので、なおさら、そう勘違いしていたのだけれど。でも、これって、僕だけではないんじゃないだろうか?)。

非日常の金と日常の金

その一方で、プレモルの弟分ということでもあるので、二つはTPOを別にする必要がある。前述したようにプレモルは特別の日、お祝いの日といった「非日常」に振ったビール。居酒屋、バーと言ったハレの場所で仲間と飲む、そして家で飲むならごちそうとともに(チェコとドイツのアロマホップ使用を謳うことでヨーロッパのイメージを加えてある)といったキャラクター付けがなされている。

ビール市場を食う?

金麦は弟分なので、当然、金の高級感を維持しながらもプレモルとは別のイメージが必要。しかも格下で(ただし第三のビール安っぽさをイメージさせないレベルで)。そのためには上に示したプレモルの要素の反対を付加すればいいわけだ。つまり「日常」=”ケ”(「ハレ」と「ケ」のケね)。言い換えれば居酒屋でなく家庭で飲むというわけだ。そして、これは日常のビールとして市場を席巻しているスーパードライや一番搾りの市場を、価格の安さを武器にして(しかも高級感はそのままに)奪う狙いもある。つまり、金麦がターゲットとしているのは他の第三のビールの市場ではなく、こちらなのだ。プレモルでビール市場の非日常用を確保し、金麦で日常用を確保しようというわけだ。で、現在、ビールは年々第三のビールに食われている状態にあり減少傾向を続けているので、これは実に理にかなったやり方なのだ。実際、金麦か食っているのはこのビール市場だろう。

そしてこの「家庭に振る」という戦略で重要な役割を果たしているのがCMなのだ。(続く)


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