勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:野球

ファイターズからロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷翔平の活躍がめざましい。いきなり三試合連続ホームラン、さらには二勝(一つは七回までほぼパーフェクト)、打率も四割近くでエンジェルスを一人で引っ張っている感すらある。日本のメディアは「アメリカ中を震撼させるスーパースターの誕生」「Otani-San」「Sho Time(「翔」と”Show”のもじり)」といったアメリカメディアの大谷フィーバーを取り上げている。

しかし、このアメリカでの人気、本当なの?そこで、地元の人間に訊いてみた。

結論から先に言ってしまえば全体的にはウソ、限定的には本当だ。

まずウソから考えてみよう。こうした「人気沸騰」という現状を日本のマスメディアは、アメリカのでの野球人気を無根拠に日本のそれと同じとみなしてところにある。つまり全国的に人気がある(最近は凋落気味ではあるが)。ところがアメリカでは野球は、もはやそんなに人気の高いものではない。アメリカ人にとって一番人気はもちろんアメフト、二番目は大学のアメフト、三番目はバスケット。野球はグッと下がってその次の次くらいといったところだろう。だから、一般には大谷のことはほとんど知られていない。アメリカは多民族国家でそれぞれの嗜好も多様だ。そして人口も32000万強で日本の2.5倍。しかも国家もだだっ広い(カリフォルニア州だけでも日本より大きい)。だから、日本人みたいに国民一丸となってスポーツを楽しむというのはほとんどない(スーパーボウルを除いては。これもハロウィーンやクリスマスみたいな“年中行事”的な位置づけだけれど)。もちろん、オリンピックにしてもさしたる関心を持っていない。「開催されはじめれば、まあ見る。アメリカの選手限定」といった程度だ(例外は1994年リレハンメルオリンピックの女子フィギュアくらい。これはスキャンダルだったから)。

そうはいっても州単位ではJリーグみたいにご当地チーム的な人気があるんじゃないのか?つまり地域おこしの道具になっている。残念ながらこれもまた違う。たとえばドジャースであっても、それに関心のない南カリフォルニアンにはどうでもいい存在だ。より限定的な話をすると、先の平昌オリンピック・スノーボード女子ハーフパイプで活躍した韓国系アメリカ人クロエ・キムはロサンゼルス南の都市トーランス(人口13万、韓国人と日本人の割合がそれぞれ一割程度)出身だが、彼女が金メダルを獲得してもトーランスで記念式典やパレードが催されることはなかった(日本は必ず開催する)。

さて大谷である。ロサンゼルス・エンゼルス所属だが、ホームグランドはロサンゼルスから高速で南に40分ほど下ったアナハイム(ディズニーランドで有名)にある(正式名は”ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)。大谷が暮らすアパートはさらに南のアーバインだが、どちらでも大谷フィーバーが起きているといることはないらしい。つまり、扱いはクロエ・キムと同じなのだ。というか、これがアメリカ人の関心の持ち方なのだ。まずは個人主義。

しかし、日本では、大谷は「アメリカ中を震撼させている」ことになっている。そして、それを傍証する報道やスタジアムでの熱狂が伝えられている。いったい、これはどうしたことか。

その答えが「限定的には本当」ということになる。南カリフォルニアンで野球好き、かつエンジェルスファンの間では大谷は大人気なのだ(ちなみにこのエリアはトヨタ、本田、エプソン、ヤマハ、三菱など、日本企業のアメリカ本社が多数存在し、当然日本人もそのファンの一部構成している)。僕がトーランスに暮らしていた時は、たとえば和食店では「マエケンが勝ったら天丼半額」みたいなことをやっていた。

日本では、こうしたアメリカでの「一部の限定的な熱狂」を取り上げ、これをキー局や大手新聞・雑誌などのマスメディアが取り上げることで、大谷はあたかも「アメリカ中を震撼させるスーパースター」であるかのように仕立てられている。確かに映像や記事は存在するのだが、これを大仰に報道しているわけだ。このような「メディアが事実を作り上げること」をメディア論ではメディアイベントと呼んでいるが、ここで行われている報道は、まさにこれに該当する。ということは、大谷がこ10勝以上をあげ、3割、ホームラン10本以上を打ってベーブルースの記録を抜いたとしても、それに興奮=震撼するのは3億人の内の野球好き、しかも南カリフォルニアンの一部だけということになる。

まあ、日本人としてはこれを楽しめばよいわけで、それはそれでよいかな?という気もする。ちなみに、アメリカで本当にスゴい日本は日本食とポケモンだ。この二つは明らかに「アメリカ中を震撼させている」。ただし、前者は都市部に顕著であることも加えておかなければならないけれど(ド田舎へ行ったら寿司すらなくなる)。ということは本当にスゴいのはピカチュウってことになるのだろうか?これは本当に、スゴい!知らない人間がいない(これにマリオを加えてももちろんオッケー)。

大谷の存在は現状では、そして未来においてもアメリカでは絶対にピカチュウにはかなわない。ポケモンより知名度が落ちるセーラームーンやワンピース、NARUTOよりもはるかに下。これが正しい認識の仕方だろう。

でも、やっぱり大谷の活躍はワクワクする。せっかくだからこのメディアイベントに乗っかってしまおうか?

前回は、マー君こと楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手が大リーグヤンキースに行き、これを地元との連携を深める工夫をすることで、むしろマー君の海外での活躍が地域活性化、ひいてはプロ野球の活性化を可能にする可能性があるという議論を行った。こういったアイデア。実は、長期低落傾向にあるプロ野球の改革のためには有効な手段のヒントとなるのではなかろうか。

企業やメディアの広告媒体としか見られていなかったプロ野球

これまで、プロ野球はもっぱらマスメディアや企業の広告媒体的な側面で運営されてきた。たとえば、その典型は戦後の読売新聞社主・正力松太郎による読売グループの販売・視聴率戦略としての読売巨人軍の存在だ。正力はプロ野球球団の中でも巨人を徹底的にクローズアップし、さらにその中でも長島、王の二人を前面に押し出すことでテレビ(日本テレビ)を普及させ、読売新聞の販売部数を伸ばすことに成功した(要するに現在の言葉を使えばキラーアプリ、キラーコンテンツという考え方を心得ていた)。そして、これに追随するかたちでプロ野球に鉄道やメディア、食品、不動産企業などが乗り込んできた。

これによってプロ野球は60年代の高度経済成長ドラマの後押しをするような機能を果たすことにもなった。「巨人の栄光は日本の経済成長の証し」みたいなあやしげなドラマがリアリティを持ったのだ。その典型的なカリカチュアライズはマンガ「巨人の星」で、根性で刻苦勉励すれば、やがて栄光を掴むことが出来る、というドラマが当時の人々の心性に宿り、これが翻ってエコノミックアニマル的に、あるいは社畜的に働く日本人を作り上げる役割の一端を担うことになった。高度経済成長=プロ野球という図式が出来上がり、ここに企業が乗っかれば、そのビジネスモデルは成功し、膨大なファン=支持層を獲得することが可能だった(まあ、成功したのはもっぱら読売だったのだけれど。そして、もちろん、巨人主導だったのだけれど)。

あまたあるスポーツの一つでしかなくなったプロ野球

しかし90年代後半あたりから、この戦略は功を奏さなくなる。情報アクセスの易化が起こることで情報の受け手は自らの嗜好に応じて任意に情報を摂取するようになり、それによってスポーツへの嗜好も多様化。かつてのように「スポーツならプロ野球」「野球なら巨人」といった図式が崩れてしまったからだ。サッカー、バレー、パスケット、スケート、スキー、モータースポーツ、相撲……今や人々が「見る」スポーツは実に様々で、そんな中、野球は、もはやあまたある観戦スポーツの一つでしかなくなってしまったのだ(かつて観戦スポーツと言えば野球、相撲、プロレスの三つだけほぼ集約されていた)。

これはプロ野球が、マスメディアによる一元的な宣伝媒体としては機能しなくなったことを意味する。プロ野球を広告媒体として利用することの旨みが失われた。つまり、企業イメージや販売・視聴率アップのために球団を抱えたところで費用対効果が得られないという状況が生まれたのだ(ただし、プロ野球球団はスタンドアローンでは、それまでもそのほとんどが赤字だった。親企業としては球団経営の費用を広告費用の一部という認識で捻出していたのだ。これは、球団を通じて企業が全国的に知れ渡るという前提に基づいていたためだ。だが、この図式が崩壊した)。前述の巨人で言えば、かつては数十%の視聴率を誇っていたが、現在では一桁、さらにはキー局でも放送されない試合が増えているといった状況だ。

地域活性化のメディアのしてのプロ野球

当然、プロ野球球団としては収益モデルを変更する必要がある。そこで、現在、その方向性として推進されているのがJリーグのスタイルを踏襲した「地域密着」だ。

プラバタイゼーション、情報の多様化によるアクセスの易化(中央・大都市圏の消費的情報へのアクセスの集中)、流通網の整備による空間の規格化(コンビニ、ショッピングモール、ファーストフード、大手家電、ファミレスなどによって全国中の空間が均質化してしまう、いわゆる「ファスト風土化」)によって、地域は地域である根拠を失ってしまった。だが、それゆえにこそ、地域に暮らす人間にとっては地域に住まうことの存在根拠が欲しい。そして、これを記号的に集約するものとして93年、全国各地に誕生したのがJリーグの各球団だった。その理念はチェアマン・川淵三郎によって提唱された「Jリーグ百年構想」。「地域に根ざし、地域活性化の媒体=メディアとして機能することで運営を確保する」というJリーグの考え方は功を奏し、鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田、浦和レッズ、アルビレックス新潟、大分トリニータといった球団が地域活性化に貢献することになる(Jリーグはチーム名には親会社ではなく、全て地域の名前がつけられている。Jリーグ開始当初、「企業か地域か」という点でJリーグと揉めたチームがヴェルディだった。リーグ側としてはチームのホームタウンである「川崎」を冠した「ヴェルディ川崎」を要求したが、命名された名前は頭に企業名がかぶせられたプロ野球的なものだった。そして当初それをゴリ押しをしたのが巨人のオーナーである「読売」(渡辺恒雄)であり、実際チーム名が「読売ヴェルディ」であったことは、観戦スポーツの将来のあり方についての当時の立ち位置の違いを示すものだ)。

この成功を見てプロ野球も地域活性化メディアとしての球団経営に乗り出す。パリーグの日ハムや楽天イーグルスがそれだ。これらの球団は、いずれも新天地としてのホームグラウンドをローカルエリアに求め、地域活性化と球団運営の健全性の両立を図ろうとしている。現在では、それなりに地域に根付いているが(以前、北海道民のほとんどが巨人ファンだったが、現在は日ハムファンだ)、やはり資金繰りは容易ではない(プロ野球選手の年俸はJリーガーに比べるとはるかに高い。また球場使用料などの諸経費が足を引っ張る)。

それゆえにこそ、今回提案したマー君のようなビッグネームを海外に放出することで経済的安定を図り、なおかつ地域活性化をより強固にするというやり方は、「企業イメージ」ではなく「地域イメージ」の活性化としての球団経営という新しいプロ野球のあり方という文脈からすればきわめて適合的なのだ。

マー君をヤンキースに行かせよう!そして仙台をマー君グッズでいっぱいにしよう!

大活躍するプロ野球選手はすべからく大リーグへ!

ご存知のように楽天ゴールデンイーグルスの「マー君」こと田中将大投手が歴史的な記録を打ち立て続けている。CSも含めて昨年からすでに29連勝。向かうところ敵なしのマー君だが、当然ながらメジャーリーグから大きな注目を浴びている。ポスティングシステムを利用すればその入札額は60億円にも及ぶとか?ダルビッシュの50億円を踏まえれば、この数字は結構リアリティがある。

前述のダルビッシュではないが、日本のプロ野球選手は球界で頂点を極めるまでに活躍をすると、すべからく大リーグへと言う図式が出来上がっている。野茂を嚆矢として(記録上は村上雅則がいるが)、イチロー、佐々木、松井、松坂、上原、岩隈といったように実力人気ともに併せ持った選手が次々と大リーグに挑戦していくのは、年棒の高さもさることながら、やはり「大リーグで勝負してみたい」という選手の憬れによるところが多い。
だが、その一方で、これは国内のスター選手の流出でもあり、これがプロ野球人気の陰りに影響を与えていると考えることも出来る(もっとも、人気低下はこれよりもプロ野球機構のシステムが時代にマッチしなくなっているところの方が影響としては大きいだろうが)。

で、今球界ぶっちぎりのマー君が大リーグに行ってしまえば、日本のプロ野球はますます人気を低下させるのではないか?そして楽天もまた下の弱小チームに逆戻りするのではないか?だから、プロ野球界のためにはマー君の海外流出はなんとしても阻止するべきではないか?と考えたくなる。行くな!マー君!

しかし、メディア論的に考えれば、これは逆だ。マー君を放出することで、むしろ楽天、そしてプロ野球界、さらに東北地方は活性化する可能性がある。「えっ?なんで?」と思われるかもしれないが、やり方さえちゃんとすれば、必ずそうなると僕は考える。

ということで、今回は「マー君放出によるプロ野球の、そして東北地方の活性化」という議論を展開してみよう。

マー君の経済的効果

マー君を大リーグに放出するのなら、最もふさわしい球団はヤンキースだ。現在、ヤンキースは投手の台所が苦しい状況。だから主軸となる投手がなんとしても欲しい。ここにマー君が入団すればいきなりエースとなることは間違いない。

で、ヤンキースならば、当然、60億くらいは出すだろう。ポスティングシステムだから、そのカネは楽天イーグルスに転がってくる。楽天とすれば、この金を使って国内の有力選手をトレードしたり、育成制度にカネを注いだり、施設の充実を図ったり、広報に使うことが出来る。つまり、マー君を放出したカネで球団全体を強化することが出来る。

「楽天=東北のマー君」が大リーグで活躍する、という図式

ただし、これだけだと、ただ「カネ欲しさにマー君を手放した」ということになってしまう。つまり、朝三暮四的な発想の域を出ない。

そこで、楽天としては田中投手を手放しても「マー君」は手放さないというやり方を採る。つまり、ヤンキースに行っても楽天としてはずっと、記号としての「マー君」を保持するのだ。まず、マー君には日本球界に復帰する際には楽天で何らかの活躍をしてもらうこと(選手でも指導者でもいい)を確約させる。そして、東北の地元メディアはニューヨークに特派員を派遣し、マー君の活躍を逐次テレビや新聞で流す。当然、楽天の広報でもマー君をずっと取り扱うのだ。こうなると田中将大投手は「アメリカ大リーグ、ニューヨークヤンキースで大活躍する”楽天のマー君”(厳密には「東北のマー君」だが)」ということになる。

一方、田中将大投手にも引き続き「楽天のマー君」としての活躍をしてもらう。シーズン中には、試合ごとに東北向けのコメントをしてもらう、あるいは東北からヤンキースに観戦に来たファン用のボックスシートをマー君のポケットマネーで用意する。シーズンオフには当然、仙台に凱旋帰国し、地元のイベントに参加する。ちなみにポスティングシステムで充実させた施設にはマー君の痕跡を残す。たとえばトレーニングセンターを建設するなら「田中トレーニングセンター」なんて冠付きの名前をつけてしまう。マー君はシーズン中はアメリカで、シーズンオフは東北で大忙しということになるのだ。そして地元東北も年がら年中マー君で盛り上がる。

マー君が地球の裏側から東北を活性化

こうなると、マー君と東北=楽天の間に相互活性化の循環が発生する。つまりマー君が活躍すればするほど、マー君は「東北の星」「東北の誇り」となり、東北のファン、楽天ファンはマー君を応援したくなる。しかも、それは世界のヤンキースでアメリカをきりきり舞いさせるマー君。そこに自らをアイデンティファイさせれば、東北に、そして自分に自信を持つことが出来る。「アメリカでがんばるマー君、東北のわれわれもがんばらねば!」となるわけだ。

一方、マー君の方も常に東北がバックアップする体制ゆえ、安心して大リーグに打ち込むことが出来る。当然、マー君の東北へのアイデンティファイ率も高まっていく。こういう循環を作り出せれば、だれもがトクをしてしまうのだ。東北は地域活性化、マー君は野球へのモチベーションがそれぞれ付与されるのだから(ちなみ、これを部分的にすでに実行しているのが中日と巨人だ。中日は大リーグに渡った選手を中日スポーツで追い続けているし、巨人はヤンキースで活躍した松井秀喜を徹底的に抱え続けるという方策を講じている)。

ところで マー君をめぐる、こういったアイデア。実は、長期低落傾向にあるプロ野球の改革のためには有効ではないだろうか?後半はプロ野球のこれからのあり方について考えていく。(続く)

高野連はなぜ「ご理解」を求めたのか

花巻東高の千葉翔太選手が夏の甲子園大会で行ったいくつかの行為が物議を醸している。一つは塁上から相手のサインを読み取りバッターにジェスチャーで送っていたこと。そしてもうひとつは「カット打法」。ボールをカットし続け、好球かフォアボールを狙う技法。双方とも高野連の高校野球特別規則に抵触するということで、高野連側から注意され、どちらも使えなくなって準決勝では敗退したといわれている(まあ、これをやめたから敗退したと必ずしも言い切れるわけではないけれど)。これについて前者はともかく、後者については概ね世論は同情的であり、一方、注意を促した高野連には非難が浴びせられるという図式になっている。

さて、今回の騒動をメディア論的に、かつ安心理論的(安心理論とは、全てを肯定的に捉える”屁理屈”のこと)に考えるとどうなるか?それがこのタイトル、つまり「高野連は正しい」という結論になる。「なにをふざけたことをほざいているのか?」といきり立たれた方もおられるかもしれないが、怒りをおさめてしばらくお付き合いいただきたい。意外と、これはハッピーエンドになり得る出来事なのだ。

先ず高野連の「ご理解」という事実上の「注意警告」について。高野連の役割は野球を通じた教育といった側面を持っていることは言うまでもない。いわば「清く、正しく、たくましい」青少年の育成と言ったところだろうか。だから勝利至上主義、技術至上主義よりも努力が重んじられるという傾向がある。いわば「スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦う」といったところが理念。だから、まあ素直じゃなけりゃいけないみたいな文脈もあるだろう。実際、高校野球では高校生が審判にクレームをつけるなんてことはありえないし、テレビ中継の際、判定のきわどいようなプレーは決して再生されることはない。もちろん相撲みたいにスローモーションで微妙なところを再生なんてこともやらない。いわば、ちょっとカビたようなかつての「青年育成」的な立ち位置だ。

こういった高野連の方針=理念からすれば、当然、千葉選手のやった二つの行為は×か△になる。「正々堂々」とはしていないし、夏のクソ暑いときにひたすらピッチャーの球数を増やして疲弊させるなんてのは「卑怯」だ。それが技術的にいかにスゴイものであろうと、だ。ちなみに千葉選手に対する注意は試合中でなく、試合後に行われているのだが、まあこうった立ち位置からすれば、このようなシチュエーションもあるだろう。だから、高野連を後出しジャンケンみたいに非難するのはあまり意味がない。

だが、これの高野連の対応はプロ野球に馴染んでいる多くの野球ファンからすれば噴飯物。見ている側はプロ野球のように駆け引きのスペクタクルが見たい。また努力を技術に昇華した千葉選手の技術も見たい。だから、高野連には一斉に非難が上がった。古びている、保守的すぎるってな感じに。

ところが、である。高野連が高野連であるためには、こういった花巻東への一連の対応は絶対にやらなければならないことでもある。どんなに古くカビたものであろうとも高野連はそれなりに高邁な理念を抱き続けてきたわけで、それが結果として高校野球という「国民的スポーツ」を築いてきたことも確かだからだ。もし、こういったカビたような理念は古いと言ってどんどんルールや黙契を変更していったならば、それは結局他のスポーツ、そして高校生のやるスポーツとの差異がなくなってしまう。そうなった際には、高校野球はこれまでの高校生のスポーツの中でも特別なものであるという地位から引きずり下ろされてしまうはずだ。

あたりまえだがスポーツにはルールがある。そしてそのルールは各スポーツで恣意的に決定されている。そして一つのスポーツにもさらに下位分類があり、分類されたそれぞれのジャンルでまたルールは異なっている。またそれぞれにも黙契がある。だから野球の一分野である高校野球にも、一般のプロ野球のルールの他に、前述したような「青少年の育成(カビた)」といった理念、そして黙契があり、これがスポーツの一ジャンルとして、しかも他のスポーツよりも特化されたものとしての地位を確保し続けることを可能にしてきた。ちなみに、そのルールは前述してきたように、それぞれのジャンルで恣意的に決定されているので、科学的根拠や道理などというものは原則関係がない(ただしカビすぎると日本大相撲協会や全日本柔道連盟のように構造的腐敗を来してしまうのだけれど。で、実は今回、最も懸念すべきことは高野連のカビた構造がヘンな状況になっているのではないかということなんだが)。

で、高野連はこういった高校野球の伝統を守ろうとするがゆえに、今回花巻東にご理解≒注意警告を促すという行為に出たわけで、構造維持といった意味ではきわめて「まっとう」な対応をしたと考えてよいのである。

千葉翔太選手の取り分

でも、それじゃあ千葉選手の努力、そして技術はどうなるんだ?いくらなんでも可哀想ではないか?まあ、これはいわばプロ野球マンガの「巨人の星」で星一徹が従軍して肩を壊し、それでも巨人軍で野球を続けようとして魔送球を生みだし、これがいわば走者のアタマにボールをぶつけるような黙契に抵触する技術だったので川上哲治に促されて(つまり「ご理解」を求められて)野球界を去っというのと同じ図式になる。つまり、どんなに素晴らしい技術であっても、高校野球で「それをやっちゃあ、おしまいだよ」の範疇に収まってしまうのだ(収まるかどうかは高野連が決めている)。これはプロ野球が舞台になっているが、高校野球になぞらえマンガを例に出せば「ドカベン」の殿馬一人のような選手は許されないということになる(秘打「花のワルツ~」\(^_^))。

準決勝でカット打法を封印され、役割を果たせず敗退、試合後泣きじゃくり過呼吸にまで至ってしまった千葉君の心中を察するにはあまりあるところである。だが、千葉君、今でこそがっかりしているかもしれないが、実は今回いちばんトクをしたのは千葉君なのだよ。キミは試合に負けて勝負に勝ったのだ。なぜって、キミは甲子園で殿馬をやってくれたクリエーターなんだから。もう、キミの人生の肩書きには「カット打法の千葉翔太」という記号がしっかりと刻まれている。当然、この後の大学進学は引く手あまただろう(ひょっとしてプロ野球?)。だいたいカット打法と言ったところで並の人間が出来るような技術じゃない。もうすでにYoutubeではキミのカット打法の映像が35万回以上も閲覧されているものすらあるくらいなんだから。

で、もしこの打法に高野連がクレームをつけなかったらどうなっていたか?花巻東は彼の技術を擁して延岡学園に勝利したかもしれない。しかし、それなりの注目しか得られなかっただろう。ところがこれに高野連がケチを付けた。そしてメディアが一斉にこのことを騒ぎ立てた。その結果、今や千葉選手は今大会でも断トツのヒーローだ。しかも「卑怯な選手」というより「技術を封印された同情すべき選手」として。そう、キミの打法に歴史的痕跡を刻印してくれたのは、他でもない高野連、そしてメディアなのだ。それは92年に星稜の松井秀喜が明徳義塾から五打席連続敬遠をされて敗退したが、その後、この事実が松井という人物を野球の歴史に刻んだのと同じことだ(一方、その時の明徳の選手たちはバッシングの嵐で酷い目に合った。もう忘れ去られているが、次の試合は観客席から非難囂々。モノも投げ込まれるという始末で、選手は完全にビビり、大敗してしまったのだ)。そう、繰り返そう、千葉君、キミはメディア論的には試合に負けて勝負に勝っている。

そして、みんな幸せになりましたとさ

さて、今回の騒動、今後どうなるか?おそらくカット打法についてはかなり明確なガイドラインが示され、もはや千葉翔太的な打法はご理解≒注意警告どころか完全な禁止事項になるだろう。でも、そうすることによって高野連は高校野球を高校生のスポーツとしては特化されたものであることを維持できるようになる。ちなみに、スポーツを楽しむ側からすれば、こういった「わけのわからないルール」「不条理なルール」というのは、そのスポーツに関心を寄せるモチベーションとしても、実は機能する。たとえば、これはプロ野球で考えればよくわかるだろう。今や計測技術が進んでいる時代。審判なんておかずに機械計測した方がよほど正確なハズだ。あるいは審判を置いたとしても補助的な存在にしておいたほうがルールとしては厳密でフェアなものになるはずだ。ところが相変わらず審判によって試合が進行する。なぜか?実はスポーツは、こういった「人間的営為」、つまり人間が裁くことによる不確定要素が混入することによってスペクタクルを築き上げ、オーディエンスたちの関心を惹起するものであるからに他ならない。「あのジャッジはおかしい」なんて議論が展開されるということも、実はマクロ的な視点からすればスポーツという「観客を必要とするジャンル」を形成する一つの要素なのだ。ようするに、このイイカゲンさ、不確定性が、実はたまらなく面白い(余談だが、僕は箱根駅伝の際、箱根登山鉄道を止めずにいつものダイヤ通り運行させるべきだと思っている。メチャクチャ面白い勝負の綾となるはずだ。実況中継が「あ~っ、ここで遮断機が下りてしまった~っ」なんてやるわけだ)。

一方、千葉翔太選手は、もう問題ない。高校野球史に残る選手としてカット打法という金字塔を打ち立て、これからも野球の世界の中で輝き続けることが考えられるからだ。来年、彼がどこかの大学(おそらく六大学のどこかが引っ張るに違いない)で試合に登場したとき、メディアは彼を大注目することはもう約束されている。しかも、その時にはどれだけカット打法を繰り広げようがお咎めなし。いや、僕たちは彼がどんな技術で、どれだけボールをカットし続けてくれるかに興味津々となるに違いない。

そう、今回の騒動。今のところは同情だ非難だと騒がれている状態だが、結局のところ関わった人間がいずれもトクをするウィンーウィンの出来事だったのだ。つまり高野連、千葉翔太選手、そして僕たち高校野球の観客。

はやく千葉君のこれからの活躍が、見たいなあ!

天才と秀才が分野を切り開く

天才と秀才の違い、そしてその役割について考えている。

「ある分野、あるジャンルに天才と秀才が現れたとき、それは一分野=ジャンルとして定着する」こんな法則があるように、僕には思える。そしてその出現の順番は必ず天才→秀才の順だ。つまり天才がジャンルを開拓し、秀才がこれを体系化する。ここではロックを創り上げたビートルズの二人を取り上げよう。天才はジョン・レノン、秀才はポール・マッカートニーだ。

ビートルズがセンセーショナルなデビューを遂げたのは1962年。当初はどう見てもジョンのバンドだった。そして楽曲もレノン=マッカートニー(実は、当初のクレジットはマッカートニー=レノンだった)とあるものの、ジョンの楽曲の方が多く、シングル・カットされるものもジョンのものだった。”Please Please Me””From Me to You””She Loves You””I Wanna Hold Your Hand””A Hard Days Night”といった楽曲がそれ。これらに共通してみられるのがストレート・アヘッドな構成だ。カンタンに言い換えれば、深いことは考えず、ノリノリで、一気にまくし立てるようなパターン。どう見ても作曲に時間がかかったという感じではなく、鼻歌まじりで出てきたアイデアをそのまま曲にしてしまったといえばよいだろうか。ジョンは細かいことなど考えず(面倒くさがりだったのはツトに有名)、とにかくノリで作ってしまったという感じだ。そして、それがスゴい。曲のフレッシュな感覚とグルーヴィさは何十年たっても色褪せることがない。

しかし、中期以降のビートルズの楽曲をチェックしてみると、その多くがポールの楽曲になっている。”Let It Be””The Long and Winding Road””Get Back””Hey Judo”などなど。ビートルズは中期以降、ライブを取りやめ、コンセプトを重視したアルバム制作に精力を傾けていくが、こういった流れの中で手の込んだ作業を徹底的にやり込んだのがポール(そしてプロデューサーのジョージ・マーティン)だった。たとえばアルバム「アビー・ロード」のB面のメドレーは、そのほとんどをポールが手がけている(ちなみに、この手法はソロになってからのアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」のB面でも見ることが出来る)。ポールはジョンの才能を認めつつ、それに追いつこうとさまざまな手法を身につけ、手の込んだ作品を創り上げていったのだ。

一方、後期のジョンは冴えない。歌曲もいくつかは存在するが、ポールの作品の中に埋もれているという感じだ。これは、結局、ジョンが音楽を対象化するという作業ができなかったからだろう。ノリだけ、感性だけで曲を作り続けるわけで、前回のイチローの言葉を借りれば「ヒットを説明できない」、つまり「楽曲を対象化して説明できない」ということになる。一方の、ポールは曲を徹底的に分析したわけだ。

このことは解散後にリリースされたアルバムを聴くとかなりよくわかる。70年代、ポールは楽曲をリリースし続け、70年代で最も成功したミュージシャンとなった。一方、ジョンの方もアルバムを出すが、散漫なものが多く、息子のショーンが誕生した七十年代後半はハウス・ハズバンドとしてその活動を停止させてすらいる。

「いやそんなことはない。”Imagine”といった歌曲もあるではないか。そしてジョンは偉大なミュージシャンのナンバーワンとして位置づけられてもいる」とツッコミを入れることもできるのだけれど、実はジョンが神格化されたのは80年に暗殺されて以降の話だ。そして、その神格化(“Imagine”を傑作化する作業も含む)をプロデュースしたのが、ジョンのもう一人のパートナーだったオノ・ヨーコであったことは言うまでもない。

こうやってみてみると、天才ジョンを巡ってジャンルやシステムが二つ立ち上がっていることがわかる。一つは言うまでもなくビートルズとロック。天才ジョンが立ち上げ、秀才ポールが「ビートルズ」というブランドを構築した。そしてもうひとつは「ジョン・レノン」というブランド。これもまた天才ジョンが立ち上げ、秀才ヨーコが構築した。

天才=秀才というセットによるジャンルの成立図式は枚挙にいとまがない

こういった天才=秀才の組み合わせは、ジャンル成立に欠かせないのかもしれない。今回、はじめに挙げたV9という巨人の歴史を作った天才=長嶋と秀才=王、パーソナルコンピューターの世界を駆逐した天才=スティーブ・ジョブスと秀才=ビル・ゲイツ、昭和のしゃべくり漫才を完成させた天才=横山やすしと秀才=西川きよし、ディズニー王国を創り上げた天才=ウォルト・ディズニーと秀才=ロイ・ディズニーl、江戸時代を築いた天才=織田信長と秀才=豊臣秀吉・徳川家康などなど。

やはり、天才が立ち上げ、秀才がこれを制度=体系化するという図式があるようだ。言い換えれば、もし片方だけだったなら、そのジャンルは成立しない。前者だけなら、その輝きは一代限り、後者だけなら何も生まれない。

そういった意味でイチローは、野球史がこれまで構築してきた様々なアイデアをまとめた存在として歴史に刻まれることになるのではなかろうか。

↑このページのトップヘ