勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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未来ニュース:10月22日衆院選の結果、自民公明が三分の二の議席数を確保

今回の衆議院選挙。終わってみれば「大山鳴動してネズミ一匹」という状況だった。既存勢力の自民党は過半数を維持、さらにこれに公明党を併せ三分の二を確保した。また共産党も微増だが議席数を増やした。一方、希望の党は予想に反して惨敗に近い状態、議席も60を割るという惨憺たる状況だった。意外だったのは民主党から締め出しを食らった一派で構成される立憲民主党で、予想外の健闘だった。

さて選挙序盤戦、台風の目といった感すらあった小池百合子と希望の党だったが、なぜこんな体たらくな結果になってしまったのだろう。これを今回はメディア論的に分析してみたい。

小泉が教えた勝利の方程式=ブレないこと

小池が希望の党を立ち上げて世間の注目を集めたとき、多くの人間が「これは何か凄いことが起きそうだ」と色めき立った。小池は先の都議選で都民ファーストの会を立ち上げ、自民党中心の都議会から覇権を奪うことに成功する。これに注目したメディアは一斉に1つの経験則を引用した。それは「都議選の結果は次の国政選挙にベタに反映する」というもの。それゆえ、小池が希望の党を立ち上げたとき、政治の流れに何か変化が起きるのではという感覚が頭をよぎった人間は少なくないはずだ。そして党立ち上げ直後に党CMを公開。しかも、このCM企画は既に三月に立てられていたとのアナウンスで「小池百合子は政権奪取に向け周到な準備を行っている」というイメージを世論に植え付けることに成功した。

実際、自民党員たちからも危機感を感じさせるコメントが頻出した。どう見ても新しい風が吹きそうな気配だったのだ。

さて、こうした「風」について、われわれは既にいくつか経験している。ひとつは「郵政民営化選挙」と呼ばれた2005年の衆院選だ。首相の小泉純一郎が議会を解散した理由は「郵政民営化」の是非を問うものだった。本人は徹底した民営化の推進派。しかし自民の郵政族は抗戦に打って出た。そこで選挙で勝負ということになったのだった。

この時の小泉の戦略は見事と言うほかはなかった。「郵政民営化は行政改革の本丸」と言い放ち、あたかも郵政民営化が全ての問題を解決するようなアピールを行ったのだ。これはたとえば衆議院比例区の小泉による政見放送の際もまったく同じだった。郵政民営化以外は一切語らなかったのだ。さらに、郵政族と呼ばれた民営化反対の自民党議員には刺客と称して対抗馬を立て、その多くを敗北させた。

しかし、このやり方、実はかなり詐欺まがいであったことも確かだ。まず郵政民営化=行政改革という図式。よくよく考えてみればそんなことはありえない。実は、行政改革の内実は不透明なままだったのだ。さらに郵政民営化自体も、実のところ有権者の多くは理解していなかった。また、敵が野党ではなく自民党内部であったことも実に不思議なことだった。

矛盾だらけの小泉戦略。ところが、これを確信犯的に小泉は推進し、一切ブレることがなかった。こうした選挙に向けての畳みかける攻撃。自民郵政族はさながら「悪代官・越後屋」、小泉は「御老公」、刺客は男なら「弥七」、女なら「お銀」という単純な水戸黄門型劇場図式で、反対派を「抵抗勢力」として、これを攻撃していったのだ。小泉は「ブレないこと」そして「次から次へとサブライズを出し続けること」という戦略を推進していった。有権者たちは政権内容では無く、全くブレない小泉の姿勢とサプライズの連続に陶酔していた。こうして小泉劇場は成立したのだった。

東国原が教えた勝利の方程式=徹底したしがらみ排除

2006年末に実施された宮崎県知事選に東国原英夫(当時そのまんま東)が出馬する。当初泡沫候補と呼ばれていたのだが、あれよあれよという間に県民の支持を取り付け、知事に登り詰める。東国原の戦略には小泉のブレない姿勢にプラスして「しがらみ排除」があった。それまで宮崎県知事はいずれも「しがらみ」にまみれていた。2代前の知事は談合事件で逮捕されて失職、一代前はシーガイアを誘致して県民に多大な借金を負わせた挙げ句、外資系企業に二束三文でこれを売却した。前任の知事も談合疑惑で辞任(後に逮捕)している。

そこで東国原は「しがらみ排除」を前面に押し立てて選挙戦を展開した。もともと支持基盤を持たないのでしがらみも何もあったものではない。だが、芸能界出身。芸能人からの応援を得ることは可能で、事実、以前ユニットを組んでいたたけし軍団の大森うたえもんが応援に駆けつけると手を挙げたことも。ところが、東国原はこうした芸能界からの応援を一切拒絶したのだ。なぜか?論点が「しがらみの排除」だったからで、自らそのことを身をもって示そうとしたからだ。そう、東国原は完全にしがらみがなく、しかもブレていなかった。そして、それ東国原劇場を誕生させていった。

小池百合子の失敗

さて、小池百合子である。小泉=東国原的な手法を今回の衆議院選で使おうとしたのはどう見ても明かだ。つまり「劇場」を演出すること。実際、小池は「ブレないこと」「しがらみ排除」この二つを戦略に置いていた。ブレないことについては、小池は常にひるむことなく攻めの姿勢を見せ続けた。たとえば弱いところ、都合の悪いところを突っ込まれたときには、かならず「微笑み返し」あるいは「逆質問」という戦略に出ていた。そして前述したように、様々な仕掛け=サプライズが周到に用意されていて、それが次から次へと繰り出されるといったことを大衆に期待させるような演出を展開していた。しがらみについては、そもそも政治モットーが「しがらみ排除」だった。これは言うまでもなく森友・家計問題に対する異議申し立てだった。いいかえれば安倍は、閣僚は「お友達」、政策も「忖度」にまみれた「しがらみマン」で、この疑惑を選挙で払拭しようとしていたのだけれど、そこに小池はツッコミを入れたのだ。もちろんカウンターをあてる自分は「しがらみ無し」という立場で。このコントラストは東国原のやり方と同じだ。

ところがこの二つがガタガタと音をはじめて崩れ去っていく。事の始まりは言うまでもなく民進党代表前原誠司との連携だった。この連携で民主党党員は無所属になり希望の党から出馬することを前原は宣言したのだが、小池は「三権の超経験者は排除」という姿勢に出る。政策が異なるから、これらの民進党員とは共闘はしないという姿勢を示したのだ。これで民進党は分裂し、一部の枝野幸男を中心とする排除予定者たちが立件民主党を立ち上げる。すると有権者は「なんだ、希望の党、全然ブレてんじゃん」「周到な準備なんか、実はなかったんじゃないの?」「希望の党は単なる呉越同舟集団。それ自体がしがらみ」というイメージを抱いくようになってしまった。
いや、立憲民主党が立ち上がろうが、ある意味、実は問題はなかった。小池は立憲民主党の候補者に対して、徹底した対決姿勢を示し、小泉の時のように刺客ならぬ対立候補を全てに立てると明確に言い放てば良かったのだ。そうすればブレないだけで無く、サプライズにもなった。

ブレに関してはまだある。最大のブレは「国政でアンタは何をするつもりなんだ?」の答を言わなかったことだ。自分は最後まで国政に打って出ないと言い張っているのはブレないように思えるが、では「じゃあ、仮に希望の党が政権を取ったら誰が首相になるの?」についての答がなかった。それは小池のビジョンがブレていること、仕掛けの底が浅いことを言わずもがなに露呈してしまうことになる。

ホップ=都議選での都民ファーストの会の勝利、ステップ=希望の党の立ち上げと民主党や維新の会との提携と、ここまではよかったのだが、次のジャンプとなるブレない形での次のサブライズを出すことには失敗したのだ。前述したように三権の長経験者排除は徹底すればこれはサプライズになった。そして最後まで国政にでないといいながら、公示日に「やっぱり出ます」と言いえば、これは究極のサプライズ=ダメ押しのスーパージャンプになっただろう。「都政を放り出したんだからブレている」と思いたくなるが、これもやり方次第で劇場を演出しこれを加速させるサプライズには十分になり得た。たとえば「私は都政をやらなければいけないと思っていました。道州制的な新しい政治のあり方が今求められていると考えたからです。しかし、そのためには地方自治体の集合体としての国会を構築する必要がある。そこでやむを得ず都知事を辞任し、国政に打って出ることにしました。ただし、都政を放り投げたのでありません。私の政治のあり方を理解しこれを継承してくださる候補者が見つかったので、その方に安心して都政をお任せし、私は国政に打って出ることにしたのです。その方は○○さんです」とやればよかったのだ。ちなみにこの○○は「橋下徹」でも「東国原英夫」でも構わない。ところが、ただ国政に出ないだけなので、「じゃあ、アンタは国政を真面目にやる気があるのか」「希望の党の目的がわからない」ということになった。これで党のイメージは拡散。完全に有権者はシラけてしまった。小池は「緑色をトレードマークとする政治改革の旗手」から、ただの「緑のきつね」に堕していった。

冷酷なメディアの肌感覚

メディアは、こうしたムーブメントには敏感だ。人々がワクワクしそうなことについてはすぐに飛びつく。逆に言えば、そうでもないものについてはさっさとスルーする。なんと言っても世の耳目を引くことがマスメディアの仕事。視聴率が取れること、発行・出版部数が増加することが至上命題だから、この辺についての感覚は敏感だ。

希望の党が立ち上げられたとき、メディアはこれを一斉に取り上げた。大きなムーブメント起こること=劇場が発生する気配をメディアは感じたのだ。そう、ワクワクを人々と共有しようとしたのだ。ところがここ二週間というもの、政治、とりわけ選挙が取り上げらることは実に少ない。たとえば先週(10月第三週、投票日の1週間前)、ワイドショーがいの一番に取り上げた項目の中に選挙はなかった。取り上げられたのは仁所ノ関親方が自転車運転中に倒れたこと、煽り運転にまつわる高速道路での死亡事故、「空のF1」と呼ばれるエアレースで室屋義秀が年間チャンピオンになったことなど、ほとんどどうでもよい話ばかりだっ。つまり、この時点で選挙への関心は失われていた。いいかえれば選挙はとっくに終わっていて、結果はもう決まったも同然だったのだ。

投票に行かない無党派層

選挙への関心の無さは当日の投票に如実に反映された。史上最低の投票率を記録したのだ。小泉純一郎は「無党派層は宝の山だ」と言い放った。つまり無党派層がキャスティングボードを握っている(支持政党なしは6割近い)。ただしこの層は「何か面白いことがないか」と言った具合に関心がかき立てられなければ投票には向かわない。それゆえ無風状態では投票所に向かう層は決まっている。公明党、共産党のほとんどの支持者、そしてあらかたの自民党支持者だ。新しい風を期待する人々、つまり無党派層のほとんどは投票所に足を運ばない。だって、つまらないんだから。ワクワクできないんだから。そしてこれは当日台風が接近し、投票所への二の足を踏んだこともさらに追い風になった。

選挙は民意を反映しない

となると、今回の自民党の勝利は安倍政権の信任ではないと考えるのが妥当だろう。ただし安倍政権としては「これで森友・家計問題は禊ぎが払われた」「憲法九条改正はオッケー」「消費税10%も認められた」と解釈するだろう。これは最悪の構図といえないこともない。ただし、こういった、いわば「悪循環」を招いた元凶は、やはり小池百合子にあると言わざるを得ないだろう。彼女が政治改革をぶち上げながら、実のところ全てを壊してしまった(民主党に及んでは木っ端微塵に砕け散った。アダ花的に立憲民主党が健闘したのは反小池票を集めただけ?)というのが正直なところなのではなかろうか。


ということで、僕のこの原稿が明日ハズれていることを望むばかりである(本日は10月22日の投票日)。

ネット選挙は選挙への関心を高めることはなかった

今回の参議院選挙で注目されたのは、ご存知のようにネット選挙だ。もちろん「ネット選挙」と言っても、インターネットによる投票が可能になったわけではなく、選挙期間中、インターネットを利用した選挙運動が可能になっただけに過ぎないのだけれど。基本的に期待されたのは、ネットによって候補者の主張を有権者が入手しやすくなり、それが選挙への関心へと繋がる、とりわけネットに親和性の高い若年層の投票率が伸びるというものだった。

しかしながら、フタを開けてみればそんなことは全くなかった。いや、それどころかむしろ投票率は低下した。もちろん、その原因にネット選挙があるとはいうことではないだろうが、少なくともネット選挙が投票率、選挙への関心を惹起する作用がなかったこと。これだけははっきりしたといえるだろう。

ネット選挙への、この過剰な期待はメディア論的にはまったくもって的外れなことは選挙前に本ブログで指摘しておいた(「ネット選挙で投票率は上がりません!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/7/19)。また、この時点で僕は投票率が下がること、それによって自民党と公明党、共産党が躍進し、民主党が大敗することも指摘しておいた。そして、これは完全に正解だった。……ただし、だからといって僕の予測が優れていたとは決して言わない。投票率が低ければ必ず投票に行く層、つまり組織票を持つ党が勝利するのは当然だからだ(今回メディアの当落予想がほとんど当たったのも、こういった事情によるのではなかろうか。つまり、誰でもちょっと冷静に考えれば当てられるほど予測がきわめて簡単だった)。いいかえれば、ネット選挙には選挙への関心を掘り起こす効果がまったくといってよいほどなかったのだ。

山本太郎のプッシュ&プル戦術は「鬼に金棒」

ただし、ネット選挙が変革を起こしていないかと言えば、必ずしもそうではないだろう。多少なりとも地殻変動を起こしていると考えることも可能だ。ただし、それは政治に関心のない層=投票に行かない層を掘り起こすというのではなく、既存の投票に行く層の投票行動変化を起こさせたという点で。そして、そのうちの無党派層を取りこむというかたちで。いいかえればネット選挙は「椅子取りゲームの秘策」としての機能を果たしたのだ。

その典型例として、ここで取り上げたいのは東京選挙区の山本太郎だ。そこで山本の例をを同選挙区で落選した鈴木寛との比較で考えてみよう。二人とも積極的にネット選挙を展開したが、前者は当選、後者は落選した。じゃあ、なぜ山本は当選し鈴木は落選したのか。前者は政治経験ナシのズブの素人、後者は文部科学副大臣という経歴、高校無償化、原発問題への迅速な対応といった業績があるというのに。一般的には、当然ながら鈴木が勝ちのはずなのだが。

その理由は意外と単純なところにあると、僕は考えている。まず山本はタレントとして抜群の知名度を誇ったこと。それゆえネット選挙をやった場合、その知名度ゆえに有権者が容易に関心を持ち山本のサイトにアクセスするというプル要因が発生する。また反原発という、ほとんど一つの主張で選挙を展開したことも有権者のイメージを明確化させ関心を惹きつけることに成功している。だが、これらはさしあたりネット選挙とは関係がない。むしろ、どちらかといえばマスメディアを通じて認知されたプッシュ的な要因だ(※メディアの「プッシュ機能」と「プル機能」の詳細については前述した「ネット選挙で投票率は上がりません!」で展開しているのでそちらをご参照願いたい)。

これに山本の場合、ネットを上手く活用するという要因が働いた。つまりオフィシャルサイトで訴え、ツイートし、リツイートされ、YouTubeに動画がアップされ(これは山本ではなく有権者が勝手にアップした)というかたちで、前述のプッシュ要因に触発された有権者たちが勝手にアクセスし、また拡散した。ようするに「祭り」を展開したのだ。これで、無党派層が煽られた。あるいは選挙に関心がない層も多少なりとも関心を寄せたかもしれない。

一方、鈴木はそうではない。まずプッシュ要因がない。政治に関心がない層にとっては、鈴木の実績など見向きもしないというか知らないので、これらの層にはリーチしない。そこにネット戦術をかける。するとどうなるのか……いうまでもなく、プッシュされていないのだから、そもそもネット戦術に関心を寄せるきっかけすらない。また実績があっても争点がハッキリしない。厳密に言えば、ハッキリしていたとしてもプルされず、やっぱりリーチしない。当然、ネット戦術はひたすら空回り状態になる。鈴木はとっておきのプッシュ手段として楽天の三木谷浩史を応援団に担ぎ出したが、これ自体はネット選挙とは関係ないベタな選挙戦術の一つでしかないので、新味がない。やはり有権者の関心を煽ることはなかったのだ。

あらためて山本と鈴木をまとめてみよう。山本の場合「鬼に金棒」という表現がピッタリだ。つまり、知名度、反原発のみのスローガンというプッシュ=鬼に、巧みなネット戦術(こちらも争点が結局、反原発に収斂した)というプル=金棒がセットになって投票意欲のある無党派層を獲得した。一方、鈴木の場合は「鬼に金棒」ならぬ「人間に竹刀」程度。まず、知名度が圧倒的に低いゆえプッシュ要因が弱い。さらに民主党内の公認をめぐってのゴタゴタというネガティブなプッシュ要因もあった。そして焦点が山本ほどハッキリしておらず(これは鈴木自身がハッキリしていないというのではなく、山本の一本調子に比べると見劣りするという意味だ)、比較的普通な展開でこちらもプッシュ力が弱い。こうなると、たとえ山本と同様のネット選挙を展開したところで、それは「金棒」ではなく、ようするにせいぜい「竹刀」程度の効果しか期待できない。そして、その竹刀には前述したようにプッシュ機能がないためにひたすら空振りとなったのである。

ネット選挙が示したマタイ効果

今回のネット選挙における山本太郎と鈴木寛のコントラスト。実は現状でのネット選挙の特性を如実に示したものと僕は考える。それは一言で表現すれば「マタイ効果」、つまり「富めるものはより富み、貧しいものはより貧困に」という事態だ。要するに現在のネット選挙それ自体は有権者の関心を煽る効果がきわめて薄い。そのことは、今回の投票率の低さがある意味証明したといえいる。ただし、プッシュを持っている側、そしてネットを操作する術に長ける側にとっては強力なアドバンテージになる。山本は知名度、そして反原発というミニマリズム的なプッシュを持ったお陰で、多くの投票意志のある無党派層をプルさせる、つまりネットにアクセスすることを可能にした。いいかえれば山本は選挙におけるメディア利用のエキスパートだったのだ(ちなみに同様の資質、つまりタレントという有名性を備えていたにもかかわらずダメだったのは、やはり同選挙区だった桐島ローランドだった。知名度が山本より低く、ワンフレーズの主張もなく、そしてネット選挙にも長けていなかった)。

ようするに、ネット自体は現状では客寄せのための必要条件となる機能がきわめて弱いことになる。だが、山本のように必要条件を備えている候補者がネット戦術を十分条件として利用したとき、これは強力なツールとなると言うことなのだ。だから必要条件を揃えていない鈴木のネット戦術は機能しなかった(桐島は弱い必要条件しかなく、かつ十分条件はまったくダメだった)。

だが、よく考えてみればネットのこういった特性は選挙という項目だけにとどまらないだろう。例えばブログ。多くのアクセスを確保できるのは有名人に限られ、一般人がそれを可能とする場合には、それ相当のメディアリテラシー=ブログリテラシーを備えていなければならない。これはSNSや一般のウェブサイトについてもまったく同様だ。いいかえればネットの効果はあくまで十分条件として、つまりプル的な要因としてしか、現状では機能することが難しいのである。

新しいメディアが出現する際に繰り返される「同じこと」

こういった、今回のネット選挙をめぐる「空騒ぎ」。メディア論的視点から見れば「あいかわらず」という言葉がしっくりとくる。

新しいメディアが出現する際、必ず発生する議論。それは「技術決定論」に基づく二つの見解だ。技術決定論とは「技術が社会を規定する」という考え方。つまり、新しい技術が出現すると、その技術の特性に基づいて人間の行動様式が変容し、社会も変化していくという考え方だ。その際、その変化の有り様について最初に想定されるのが、きわめて肯定的なものか否定的なもののどちらかになる。肯定的なものは、いわば「カーゴ信仰」的なとらえ方。新しい技術がわれわれの生活を快適な方向に導いてくれるというものだ。一方、否定的なそれは、新しい技術によって人心が乱れ社会がおかしくなっていくというものだ。例えば60年代のテレビの普及時、テレビは当初床の間に置かれていた。床の間に置かれるものは我が家の「お宝」、つまり「すばらしいもの」「何かを実現してくれるもの」だ。その一方で、テレビのブラウン管に装着するフィルターもバカ売れした。これは「そこから発せられるものが目に危険」、つまり「アブナイもの」だ。だが次第にテレビは床の間から外され、フィルターも売れなくなった。技術決定論的な呪縛が外れ、テレビというメディアを等身大で相対化してみることができるようなったからだ。そして、テレビは最終的にこういった当初とはまったく異なる認識で現在認知されるようになっている。

現在、ネット選挙についての議論は、まさに新しいメディアが導入された際に沸き起こるこの技術決定論的な文脈にある。しかもその多くが肯定的なもの、つまりカーゴ信仰的なものとしてネット選挙を捉えている。

しかし、最終的にメディアは様々な要素が折り重なって、当初の技術が想定したものとは異なるかたちで定着、浸透する。だから肯定的な議論も否定的な議論も、それ自体では間違っている。ということは、今後ネット選挙が普及し、その機能が相対化、定着した際には、まったく異なった認識のされ方、利用のされ方がなされていると考えるのが妥当だろう。

ということは、現在のネット選挙をめぐる議論、数年後には「ああ、あんなふうにしか当時は考えられなかったんだなぁ」、そして「今回のネット選挙で、その機能を最もクリアカットに示した出来事が山本太郎の当選だったんだなぁ」と考えるようになっているのではなかろうか。僕はそう考えている。

ネット選挙解禁?

21日は参議院選挙投票日。今回、話題になっているのがネット選挙の解禁だ。これでもって候補者の主張がネットを通じてダイレクトに伝わり、投票率、とりわけ若年層のそれが上昇することが期待されている。で、例によってテレビもこの文脈で選挙を煽っているのだけれど……残念ながらメディア論的に考えた場合、今回のこの「ネット選挙」でも投票率が上がることはまったくもって期待できない。良くて通常通りの50%後半、ただし6月の都議会議員選挙の低投票率(過去二番目の低さ)ということを鑑みれば、もっと悪くなるかもしれない。まあ、すくなくとも前回(57.9%、2010年)を上回ることはないと見た。

毎日新聞と立命館によるTwitter調査は、掘る穴を間違えている
僕と同じような議論、つまりネット選挙に疑問を呈している世論はある。その典型が毎日新聞と立命館大学が合同で行ったTwitter上の選挙に関するツイートの分析だ。ここでは候補者とTwitter利用者が今回の選挙についてツイートした単語の数を比較している。それによれば候補者が多くつぶやいたのが演説、選挙、駅、街頭。一方、有権者=Twitter利用者は日本、憲法、原発、TPPといった具合。つまり候補者が発したいコンテンツと有権者が欲している情報がかみ合っていないことが指摘されている。毎日が展開した記事はここまでだが、要するにこれは「候補者と有権者のニーズがかみ合っていないからネット選挙がうまく機能しない」という立ち位置に言外に含まれているとみた。ということは、両者のニーズがかみ合えばネット選挙は投票率の上昇に繋がるという文脈になる。

この調査に代表される、ネット選挙に関する世論。しかし、メディア論的に考えると、分析の場所=掘る穴がまったく間違っている。言い換えれば、メディア論的には「候補者と有権者のニーズがかみ合ったところでネット選挙は投票率に影響を及ぼさない」となる。なぜか。

プッシュ・メディアとプル・メディア

すでによく知られている用語だがメディアは大きく二つに分類することができる。「プッシュ・メディア」と「プル・メディア」だ。プッシュ・メディアは受け手が情報に自ら主体的アクセスすることなく、メディアの方から情報をプッシュ=提供してくるメディアをさす。典型的なのはスタジオアルタの掲示板で、新宿駅東口駅前で待ち合わせをしていれば、情報が勝手にこちらに入ってくる。またスマホのプッシュ機能も「お知らせしてくれる」ので、これに入る。テレビをつけっぱなしにしてダラダラと見ていると、知らないうちに情報が頭の中に入ってくるなんてのもテレビのプッシュ性だ(ただし、これらは一般的な傾向で、受け手の状況に応じてメディアはプッシュにもプルにもなる)。一方、プル・メディアは受け手が任意に情報にアクセスに行くメディアだ。つまり、情報を知りたいので、そのメディアに向かう。Googleで情報調べをするなんてのがその典型だ。当然、こちらは任意で情報にアクセスするのでプッシュ・メディアよりアクセスする側の主体性・任意性が高くなる。

インターネットは原則プル・メディアに位置づけられる(YouTubeをヒマつぶしにダラダラと見ているような場合は、これには該当しないけれど)。つまりインターネットアクセスのためのディバイスを開き、必要なサイトにアクセスし、必要な情報を引き出す。ということは、その情報が掲載されているサイトにアクセスに行く前に、受け手は先ず何らかの情報を知ろうとするモチベーションがなければならない。

宮崎県知事選挙で有権者がそのまんま東のサイトにアクセスしたのはサイトが魅力的だったからではない

選挙でウェブサイトがうまく機能した例をひとつあげよう。それは2007年1月に行われた宮崎県知事選挙だ。この選挙で泡沫候補と呼ばれたそのまんま東(後に東国原英夫)が圧勝する。これには様々な要因があるが、そのひとつとして東がサイトでマニフェストを公開したことがあげられる。つまり、公示前にオフィシャルサイトで県知事候補としては初めてといってもいいマニフェスト公開を行ったのだ(当然だが、選挙期間中はサイト更新がストップしている)。

ただし、これが功を奏したのは東のマニフェストが有権者のニーズに応えたからというわけでは、必ずしもない。つまり東のニーズと宮崎県民のニーズが合致したというのではない(後に東自身もコメントしているように、 よく見てみれば、このマニフェストも結構イイカゲンだった)。そうではなくて、たけし軍団で宮崎出身のそのまんま東というタレントが立候補したということに有権者は関心を持ったのだ。つまり、サイトが魅力的だったのではなく東という存在が魅力的(=関心を惹起する)だったのであり、こういったプッシュ要因が、結果として東のサイトに人々を向かわせた=プルさせたのだ。だが、これはいいかえればサイトそれ自体では関心を惹起するとことはないということになる。これがプル・メディアの宿命なのだ。プルメディアはまずアクセスする側に動機がなければならない、これが前提となる。

これとまったく同じ図式が今回のネット選挙にも該当する。つまり、どんなに有権者のニーズに沿ったサイトを構築したところで、そもそも候補者のサイトにアクセスする動機=プッシュ要因がないのだから、そこにアクセス=プルすることはないということになる。いいかえれば毎日新聞+立命館の分析に典型的に見られるような世論が展開している今回のネット選挙に関する議論は完全に的が外れている。インターネットは有権者に政治的な関心をかきたてるカーゴでは決してないのである。

ネット選挙は、やっぱりネット投票のこと!

じゃあ、ネット選挙が投票率をアップさせる可能性は全くないのか?といえば、「いや、そうでもない」と考えることはできる。ただし、まったく別の視点から考えればの話だが。それは、現在まだ実施されていない「ネット投票」を実施することだ。現在の投票システムは投票所に有権者が出向いて投票するというもの。当日投票が難しい有権者のために期日前投票が準備されているが、これとて役所に出向いていかなければならない。つまり「面倒くさい」のである。これがプル要因を阻害する。あるいは選挙に向かうことを躊躇させる。つまり「自分は必ず選挙に行く」と決めている層(公明党・共産党の支持者や自民党の一部の有権者が典型)はともかく、「まあ、選挙に行ってもいいかな?」と軽く思っている層は、天候が悪くなったり、別の用事ができたり、あるいはただただ単に「面倒くさいなあ」と思ったりすると、これが投票に向かうのを止める方のプッシュ要因となり、投票所に向かうことを思いとどまらせてしまう(ということは、今回の選挙結果はすでに見えているということでもある。自民党の圧勝、公明党、共産党の躍進、維新が以外にダメ、民主党が大敗北。でねじれ国会は解消する)。

ところが、ネット投票ともなると、こういった、いわば「ライト有権者」たちもまた投票しようというプル要因が現れる。なんのことはない、投票所に出向くという「面倒くさい」作業が取り払われるからだ。だから、ネット投票すれば当然ながら投票率が上がることになる。ただし、それはやっぱりネットが政治への関心を惹起したからというわけではない。これまで取りこぼしていた有権者をインターネットというシステムによってすくい取ることが可能になるだけだ。とりわけ若年層がこれに該当するだろう。

で、この場合、政党の構成がかなりかわるだろう。「出向く」までの動機がない有権者を取りこむということは、いわゆる「浮動票」「無党派層」の投票率を高めることに繋がる。だから、もう少し政党勢力がばらつくだろう。そして選挙に「プル」な集団が有権者の中心である共産党や公明党の議席数が減少する。

結局、ネットは政治的関心を高めない

ただし、ネット投票による投票率のアップは、底引き網に例えれば網の目が細かくなり、小魚まですくえるようになるだけのこと。ということは、たとえネット投票が実施されたとしても、くどいようだが政治への関心それ自体を惹起するわけではないので、当初こそ、こういった「面倒くさがり」の有権者を確保することはできるが、やはり現在の政治への無関心がそのまま進む限り、また投票率は漸減していく。

政治に対する関心を高めるためには、もっと別のところを掘っていく必要がある。つまり、有権者の政治的関心をあおり立てるようなプッシュ的な要因を探し当てる必要がある。そして、それはインターネットそれ自体には決して存在しない。少なくとも現状においては。

選挙戦って、やってるの?

4月10日は都知事選を含めた統一地方選投票が”いよいよ”行われる。”いよいよ”というのはもちろん皮肉だが(^_^;……いったい、本当に、今、選挙が行われているんだろうか。もちろん公職選挙法に基づいた政見放送を視聴することはできる。ところが、それ以外、メディアは統一地方選のことをほとんど取り上げていないのだ。たとえばメディア的に盛り上がる都知事選が最たるもので、ニュースはもちろんのことワイドショーでもほとんど取り上げられることがないというのが現状なのだ。

こうなっているのは、いうまでもなく東北関東大震災による。テレビはもっぱらこの震災の報道をやり続け、一方で統一地方選についてはほとんど取り上げることがない。

選挙はメディア的に媒介されている

で、全然盛り上がっていないのだけれど、それは言い換えれば、これまでの選挙が、実に「メディア選挙」であったかを裏付けると言うことでもある。僕たちは、選挙についてテレビ越しにその情報を知り、関心を喚起し、投票に向かっていたのだ。

ところが、今回、メディアは選挙を盛り上げない。ということは、イコール選挙が盛り上がらないと言うことを意味する。となれば、その結果はどうなるだろうか?

メディアの絡まない選挙は無風になる

先ず考えられるのが、投票率がものすごく低くなると言うことだ。たとえば、都知事選のこれまでの最低投票率は87年の43.19%。この時は現職の鈴木俊一への対抗馬が無く、ほとんど信任投票みたいになってしまったので盛り上がらなかったわけなのだけれども、今回の場合、ヘタするとこの最低投票率を大幅に更新するのでは無かろうか。

87年に比べれば争いになる候補者たちはいる。東国原英夫、そして渡辺美樹あたりがこれになる。とりわけ東国原は宮崎での絶対的な支持を獲得してきた実績を持つ。しかしそれでも、大震災のメディアにおける破壊的な力からすれば、モノの数ではない。40%を下回るなんてこともあるかもしれない。

東国原の勝ち目はない

おそらく、この自粛ムードの中で投票に行くこと自体が自粛される。となると、浮動票の源泉である無党派層が選挙に行かない。ということは、投票に行くのは支持層がハッキリしている場合だけ。ということは保守系が勝利する可能性が高い。ということは、選挙によってメンツの変更はほとんどないのでは無かろうか(当然、公明党が安定した戦いをするだろう)。

都知事選の場合、本来ならば台風の目となり、石原と大バトルを繰り広げるはずであった東国原は、この自粛ムードの中で自らの武器を失ってしまった。東国原の武器は、自らのメディア性だ。報道、とりわけテレビのそれを活用して無党派層に強くアピールする。四年前の宮崎県知事選の時がそうだった。マニフェストを掲げ、これを自らのパフォーマンスに乗せて訴え続け「そのまんま東劇場」を起こしたのだ。

ただし、東国原のパフォーマンスはメディアがそれを取り上げることによって、初めて成立するものでもある。で、今回はこれが震災によって取り上げられない。ということは、“メディアの魔術師”である東国原は手足をもがれたも同然。やることナシなのだ。だから、石原に対する勝ち目はないだろう。二人の間は本来なら僅差になり、場合によっては東国原に目があるという可能性も考えられたが、こうなるとちょっと無理。石原とは結構な差がつくのでは無かろうか。

統一地方選線は、異常なし、となる。

タレント候補が軒並み落選

前回の参議院選挙で特筆すべきことが起きた。それは、大量のタレント候補者が出馬したことだ。岡崎由紀、江本武孟、原田大二郎、中畑清、三原じゅん子、谷亮子、石井浩郎などなど。ところが、当選したのは谷、三原、石井の三名に過ぎなかった。かつてタレント候補と言えば、その知名度を生かしてかなりの割合で当選したし、自民党などの有力政党の公認や推薦を受ければ、まず当選という状態だったのだが……これはどうしたことなのだろうか?

タレント候補の出現

戦後タレント候補の始まりと言えば、実質的には青島幸男をあげることができるだろう(それ以前にも浪曲師の石田一松がいたが)。68年、放送作家、そしてタレントとして意地悪ばあさんの主役を演じるなど、抜群の知名度を誇った青島は無所属で参議院全国区に出馬し、石原慎太郎に次ぐ2位で当選を果たした。また同選挙で立候補したもう一人の無所属タレント候補・横山ノックも全国区下位で当選を果たしている。それ以降、支持政党なしの無党派層の増加に伴い、メディアの露出による知名度が有効と考えた政党は、次第にタレントを指名し、立候補させるというパターンを一般化させていった。これを象徴する事態は、青島と横山が最終的に知事にまで上り詰めたことだった。

ところが、この知名度の有効性が今回の参議院選では功を奏さなかったのだ。

知名度=票田の消滅

この原因は何か。これを今回当選したタレント候補三人で考えてみよう。谷、 三原 、石井に共通すること。それは党の公認を受けていること。谷は民主党、残りの二人は自民党だ。つまり、タレントであったとしても有力政党からの後ろ盾がないことには当選はおぼつかないことを意味している。

この中で興味深い存在は三原じゅん子だろう。というのも三原は80年代前半ポスト山口百恵として注目を浴びたが、その座は結局松田聖子に奪われ、その後カーレーサーなどを経験したものの、芸能界においてはさして目立った活動のない、ある意味「過去の存在」だったからだ。当然、全国を相手のする比例区では分が悪い。そこで彼女は子宮頸がんを煩ったが、この経験を生かし子宮頸がんワクチンの無料化、不妊治療への保険適用を政治敵主張にするなど、女性を意識した政策を展開。また、女優を引退するという「退路を断つ」宣言をし、さらには介護施設の経営にも乗り出すなど、かなり周到な準備を整えて選挙を迎えているわけで、やっていることは、ようするに普通の政治家と変わるところはない。

言い換えれば、タレント候補の政治におけるメディア性はもはや失われつつあると言うことだ。ひょっとすると、そのうち谷亮子クラスでも当選が難しい時代がやってくるのかもしれない。

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