「中学3年までの英語」学習のために必要なもの
前回までは、英語を「理屈―感覚」「教養―実用」という二分法をやめ、双方を統合したものとして扱うこと、量より質を重視すること、さらに「英語―国語」二分法ではなく「言語」というレベルで扱うことをコンセプトとして提示した。
今回はこの方法論、つまり具体的な学習法を示したい。それが「中学3年までの英語」だ。具体的には以下を学習項目とする。
1.品詞分類(ただし日本語)
2.五文型
3.発音
これらを徹底するために使うもの
1.中学3年までの文法を網羅した学習書(残念ながら無いのだが)
2.リーダーの教科書
3.文型のフレーズをならべた学習書(例えば森沢洋介『どんどん話すための瞬間英作文』ペレ出版)
これらを使って習得するのは「英語単語の運指パターンの身体化」だ。で、上の三つの項目は、それぞれやるのではなく、同時に進めていく。
品詞分類
まず品詞分類を学ぶ。ただし、英語じゃなく日本語。名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、助動詞、接続詞といった品詞を現在の大学生の多くが分類できない(これって、かつては小学校の学習項目だった(現在は中学校))。だから、作成した文章がわけがわからなくなるんだろうけれど。そこで、とにかく英語なんかどうでもいいから、日本語でこの品詞分解を徹底的にやらせる(ただしこの時、「形容動詞」などの細かい項目は無視してもいい。実は品詞分類は単語がそれぞれ独立している英語のほうがはるかにやりやすいので基本だけをやる。だから逆に、英語で品詞分類ができたら、それを日本語文法にあてはめるほうが英語・日本語双方を学ぶのにやりやすいのだ)。ちなみに「国文法を子どもに教えるのは難しい」と考える人間もいるかも知れないが、実はそうでもない。最初に文章から名詞だけを抜き出させ、それができたら動詞だけを抜き出させ、それができたら……というかたちで段階を踏んでやっていくと、たいていはできる。なんて言ったって、もっと高度で文法的に難しいRPGのルールを簡単にクリアする能力が、ほとんどの子どもには備わっているんだから。要するに教え方が悪い、というか「難しい」という偏見に基づいて、ちゃんと教えないのが国文法を理解できない子どもを生んでしまっているのだと僕は思っている。
五文型
国文法に続いていよいよ英語に入るのだけれど、最初にやるのは英語の運指のパターンである五文型だ。この時、主語、述語、目的語、補語、修飾語を同時に教える。で、これも高校までの英語教育ではオマケ程度にしかやられていないので、大学生のほとんどは文型分けができない。しかし、五文型は英語のもっとも重要な基本構造。これが身体化されていなければ、英語を理解するなんてのはちょっと無理。前回示した、やり方も知らず身体全体でスペース・インベーダーに悪戦苦闘するインド人みたいになる。つまり、理屈なし、ほぼ感覚だけで英語文法を学ぶという、きわめて費用対効果が少ない学習になる(機械的に書き換え問題を練習するなんてのがその典型的な学習方法)。 で、大学生のほとんどが、英語に関してはこの「クラゲ=骨なし人間」の状態なのだ。
とはいうものの五文型、理屈がわかりづらい。そこで二つの指導を行う。
一つは「とにかく五文型をそらんじさせる」。つまり第一文型「SはVする」、第二文型「SはCである」、第三文型「SはOにVする」、第四文型「SはIOにDOをVする」、第五文型「SはOがCであるとVする」「SはOがCするのをVする」と五文型を暗記させる。その際、当然ながら品詞分類も同時にやさせる。ちなみに、こうやって五文型をそらんじさせることは「理屈の身体化」だ。それができたら、今度は、それぞれの例文を10文くらいそらんじさせる。これには前述の『どんどん話すための瞬間英作文』が役に立つ(それぞれの文型について10の例文がある。左頁が日本語、右頁が英語という構成)。ちなみにこの時、本書に添付されているCDを利用して発音も同時に覚える(どれも声を出して暗記することは必須。こうしないと理屈が感覚に昇華されない。身体化とは考えなくても口が勝手に答えを喋ってしまうというレベルを指す)。ちなみに、各項目の暗記(瞬間英作文)ができるようになったなら、今度はこれをシャッフルしてやる。各文型のフレーズをごちゃまぜにして出題し、瞬間的に口から英語を発せられるようにする。ちなみに、この時、競争させるのがコツ。ストップウォッチを使ってタイムトライアルなんてのも、楽しく学べるやり方の一つだ。
リーダーを徹底的にやる
で、これに慣れてきたら、今度は新しい文法項目として「句と節」を教える。ただし、この二つは品詞がわかっていないと決してわからない項目なので、それ以前の項目が固まった時点で加えていく。
これをやる教科書が、実はリーダーなのだ。重要なのは先ず和訳させることで、教科書の英語をその場で訳させるのだが、その際、現在どこを訳しているのかを全て指さしさせながら訳させる。こうやると次第に英語を日本語に訳した際、どういった順番で訳すのか、どの単語がどの訳に対応しているか、その単語の品詞が何かを理屈で確認でき、さらにそれが身体化するようになる。ちなみに、その時子どもたちが発見するのは「英語は後ろから訳しあげるもの」ということ。中高時代に教員から「英語は前から訳さないとダメ」と説明を受けた人間は多いだろうが、これは全くのマチガイだ。もちろん、最終的に前から理解しなければならなくなるのは当然だが、先ず理屈、つまり「日本語と英語は順番が異なっている」ことを明確に理解してから、英語の配列を身体化=感覚かしていくという段取りが大切なのだ。いきなり前から訳せっていわれても、それは人間の学習能力からいって無理がある。
ただし、中学校のリーダーの教科書は、詳細を教員が説明することになっているので、教科書での自学習は無理。そこで中学校までの文法を網羅した文法の学習書を用意すればいいのだが、これがなかなかよいものがない。ちゃんと理屈を説明してくれている良質の文法書は『Forest』(桐原書店)だが、これは中学生のレベルとはちょっと違うので、むしろ教員が子どもたちに文法を理屈で説明する際の参考にする。
先ず理屈を教えることは重要だ
ここまで展開してきたように、母国語でない語学には理屈から入ることが重要だ。たとえば中一で学ぶ英語に”Let’s”がある。”Let’s play tennis”なんてのが例文の典型だが、これは文法では命令文の一つに位置づけられている。命令文は「主語Youを削除する」ことで成立する。これにPleaseを前につけると丁寧、Let’sをつけると呼びかけになるという説明だが、ちょっと気持ち悪い。文法的にpleaseは副詞、ということはLet’sという単語も副詞になるのだけれど、なんでアポストロフィーがついているの?という疑問が残ってしまう。実はLet’sは副詞はなく”let”という許容の使役動詞と”us”の短縮形で、前述の文章を短縮形ではないかたちで表現すれば”Let us play tennis.”となり、この文章はletを動詞、playを補語とする第五文型となる(ベタに訳せば「私たちにテニスをさせることを許容しましょう」。自分たちに対して自分たちが許容するのだから、これが熟語化して「~しましょう」となる)。つまり他の命令文とは構造が違うのだ。
この説明、ややこしそうに思えるかも知れないが、僕のところの学生(英語中二レベル)に、この理屈を教えると、ほとんど「目からウロコ」の状態になる。「なんだ、そうだったのか。だったら早く言ってくれたらよかったのに」。人間、理屈もないのに無理矢理暗記させられるのはやっぱり嫌なのだ。おかげで、彼は苦手な五文型の使役パターンがスッキリと頭に入るようになった(こんな説明を『Forest』ではやってくれる)。
さて、こういった理屈から感覚へ、つまり言語の構造を納得してもらい、そこから身体化作業をするという方法を中学3年までの学習レベルでやるとどうなるか……現世御利益的な効果を上げておけば、私学だったら六大学の下くらいまでは到達可能になる(単語と熟語の語彙数を増やす必要あり)。明治、立教、法政レベルは、早稲田の英語のように倒置・省略・挿入だらけの悪文を試験問題として並べることはほとんどやっていない。それは、中学3年までの英語の学習内容ということになる。
実は、ここで学んでいるのは言語学
しかし、もっと御利益が高いのは、文法がわかり、かつ会話もきれいな発音でできるという点だ。ようするに言語学の構造を基本にこれを理屈で学び、身体化していくことで、英語力を総合的に身につけてしまおうというわけだ。ちなみに、こういった学習方法を提案しているのがグロービッシュだ。これはネイティブでない人間が英語を使いこなすために、簡単な文法と1500の単語で全てを表現してしまう考え方。量と項目を減らし、これを血肉化するミニマリズム的な学習方法こそが最も効果的だし、やる気も起こるし、使える英語になる。
日本語も同時に学べる
ちなみに、これは日本語文法を相対化しつつ学ぶ契機にもなる。
僕の仕事の一つは、学生たちの文章チェック(レポートや卒論など)だが、とにかく酷い文章が多い。内容はともかく、文法がまったくもっておかしいのだ。
たとえば「従業員専用口とは、一般客は入れません」といったねじれ文が頻発する。この間違い、英語に直すとよくわかる。「従業員専用口とは」と文章が始まる場合、この係り結びは「である」となる。で、これは第二文型=S+V+Cに該当する。ということは、この文は「従業員専用口とは(S)一般客が入場を許可されていない出入口(C)である(V)」としなければならない。これを英語に直せばA service entrance(S) is (V)a doorway(C) which guests are not permitted to enter(M).”となる。あるいは文の後半を尊重すれば「従業員専用口には(O)一般客は(S)入れません(V)」と第三文型=S+V+Oになり、これは”Guests(S) cannot enter(V) a service entrance(0).”となり、それに従って日本語ものそのどちらかを採用しなければならなくなる。つまり、英語で単語の運指がわかると、それを立ち位置に、今度は日本語の文章構造が明瞭化し、日本語の文章が上達するというわけだ。
こうなると文章読解、文章作成について英語と国語が同時に、しかもそれぞれが相対化されたかたちで効果的に学習可能となる。つまり、これは「英語」でも「国語」でもなく、「文法」でも「会話」でもなく、「理屈」でも「感覚」でもない。それぞれを総合した「言語」の学習なのだ。
情報量を減らし質を高めると言うことは、ミニマリズムに徹し、それを身体にたたき込むまでやること。これが実は本当の意味での「ゆとり教育」、そして「深みのある教育」。学習項目が身体化されていれば、人間は必然的に、これを使って様々な表現をしたくなる。だから楽しい(そうでないものは「やらされ感100%」みたいな感覚になり、英語嫌い、国語嫌い、読解嫌い、作文嫌いになる)。
ここまでクドクドと説明してきたノウハウ。僕は学生たちに実践しているのだけれど、言語、そして英語というものがこんなにオモシロイものだったのかと、ものすごい集中力で取り組んでくれている。
ちょっと、英語、そして国語のやり方も目の付けどころを変えるべきなんじゃないだろうか。もちろん、これは様々ある学習方法の一つを提案しているに過ぎないのだけれど。