勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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「一期一会」コミュニケーション

新しく求められ始めた「つながり」について考えている。前回は、この「つながり」が相手と関わる際に「自らがご主人様となって、相手をモノのように扱う」心性が前提されること、そしてその具体的なやり方のひとつが「相手の動きだけを抜き取ること」であることを指摘しておいた。

今回は、これ以外の、新しい「つながり」を獲得する具体的な方法として二つ目をあげてみたいたいと思う。それは「一期一会的コミュニケーション」だ。これは、ほんのひとときだけ、共通のネタ、関心を通じて匿名の人間が集結し、大いに盛り上がったら解散する。そして、後腐れナシというやり方だ。いくつか例を挙げてみよう。

バックパッカーたちの瞬間的盛り上がり

例えばバックパッカーのゲストハウスでのコミュニケーション。バックパッカーたちは原則、海外のゲストハウス(最近は国内もあるが)を、行き当たりばったりで渡り歩く。ただし、これは『地球の歩き方』などにちゃんと掲載されているところに向かうので、当然そこには同じように日本人バックパッカーが投宿している。そこで、同じ旅行者として意気投合。食事をしたり、酒を飲んだり。時には次の目的地に一緒に出かけたりすることも。ただし、その関係が長続きすることは少ない。ほとんどはその場限りの盛り上がり。時が過ぎれば散会する。

こういった関わり合いは「旅の恥はかきすて」という、古くからあるモノのイイがピッタリ来るだろう。ここでは多少プライベートなことを話したり、恥をさらしたりしたところで、どうせもう二度と会うこともない。だったら、好き勝手に相手と関わってしまおうという心性が働くわけだ。後腐れがないと無意識のうちに知っているので、大いに盛り上がる。そう、いずれ会うこともない他者と関わっている瞬間は、強い「つながり」が感じられるというわけだ。

一過性ボランティアたちの「つながり」

また、震災ボランティアもこれに該当する。阪神淡路大震災の頃からすでに発生していることなのだが、震災となるとどっとボランティアが出現する。ただし、このほとんどが一過性だ。つまり、震災直後にこそものすごい勢いでやってくるが、ほとぼりが冷めてくると、逆にボランティアがどっと引いていくという現象も発生する(実際、東北大震災のボランティアの数は、現在完全に不足した状態になっている)。こういったボランティアを本格的なそれと区別するために「一過性ボランティア」と呼んでおくことにしよう(ちなみに、誤解を招かないようお断りしておくと、僕はこれ自体が悪いといっているわけでは決してない。やらないより、やってくれた方がよいのはあたりまえなのだから)。

こういった一過性ボランティアたちの狙いは、災害地に共通の目的を持ってやってくることで、やはりバックパッカーと同様「盛り上がること」にある(阪神淡路大震災時ボランティアとして集結した若者たちの中には現役のバックパッカーがかなりいた)。つまり災害地に対峙し、被災者、そして他のボランティアと協働することで「つながり」を感じることができる(しばし、祭りに参加しているような感覚も伴う)。ただし、これが長期に及ぶと「しがらみ」が発生する。だから、ある程度関わったらもう終わり。つまり、この時、やはりボランティアに対して「やる、やらない」の決定はあくまでも、こちら側の任意ということになる。そう、「自らがご主人様」「相手をモノのように扱う」という心性は、ここでも保持されているのである。

さて、ここまであげた二つの他にもう一つ、そして最もわれわれが利用している、それゆえビジネスシーンで頻繁に用いられる「つながり」がある。(続く)

情報ソースの多元化による価値観の相対化は、人々の一元的な価値、すなわちマナーを崩壊させ、KYな人間を多数出現させるに至った。しかし、こういったマナー崩壊は、その半面で「家族の絆」「お互いに対するやさしさ」の強化を推進しもしている。さて、今回は二つの強化の側面の前提になる議論の後半、「やさしさ」について考えてみよう。これがKYとどう絡んでくるのか?

「介入するやさしさ」から「介入しないやさしさ」へ

「家族の絆」の強化と全く同じメカニズムで進むのが「やさしさ」だ。精神科医の大平健は『やさしさの精神病理』(岩波新書)の中で、70年前後に誕生した「やさしさ」という言葉が、90年代になってその意味を変容させたと指摘している。70年代、「やさしさ」の意味するところは「他者に介入するやさしさ」だった。たとえば、友人が何かトラブルや心の悩みを抱えていて落ち込んでいたとする。これに対する他者=仲間の対応スタイル=やさしさは、前者の場合「他者に介入するやさしさ」だった。つまり、相手の悩みの領域に立ち入り、その悩みを開示させ、その悩みを自らの悩みとして共有し、これを解決していこうとするようなやさしさだった。ところが90年代になると、これが「他者に介入しないやさしさ」となる。たとえば友人が悩んでいたとしたら、仲間は友人のそばにいてあげるけれど、そっとしておく。あるいは、悩みの内容を一切問うことなく、一緒に酒やカラオケに誘って気分を盛り上げてあげる。

大平の指摘した「他者に介入しないやさしさ」は、その後、僕たち日本人のやさしさのデフォルトとなって現在も続いている。このやさしさは、他者の価値観を尊重しつつ、互いを共有させるという、一見、美しい「やさしさ」。「他者に介入するやさしさ」の「うっとおしさ」「うざったさ」のない洗練されたやさしさだ。しかし、これもまた副作用を伴っている。

他者の内面に介入しないと言うことは、常にやさしさが儀礼的なものとして振る舞われることを意味する。それは結果として、他者がいつまでたっても不可知な存在のままということでもある。言い換えれば、本音を話すことがないから、相手はいつまでも不気味な存在であり続ける。しかし、このやさしさを僕たちは選択した。でも、なんでこんなことを僕たちはやり始めたのか?

価値観多様化の中で、一元性を形式的に偽装する手段としての「やさしさ」

前回取り上げたように、情報化に伴う一元性の崩壊と価値観の多様化によって、僕らは「孤独」と「行動基準の喪失」を抱えることになってしまった。それによって、かつてあったような共通する一元的な価値観、つまり常識やマナーから互いを予測することが不可能になってしまっている。だから、常に他者は「不可知」な「得体の知れぬ」「恐ろしい」存在。ヘタに手出しをすれば襲いかかってくかもしれないと考えてしまうようにすらなったのだ。

ただし、それでも僕らは人間、つまり社会的な意味を求め続ける動物だから他者と関わっていたいと思うことは変わらない。そういったときに相互に介入することなく互いが関わることを可能にする一つのスキルが「介入しないやさしさ」なのだ。つまり、お互いの内面的領域に立ち入らないで、表面的な話題やノリといったところに互いの焦点を合わせることで互いが場を共有し、「仲良くなっている」ことを実感すると共に、その一方で個人を尊重することが出来る。具体的にはカラオケで盛り上がったり、ちょっと昔だったらみんなでイッキをやったりなんてのが典型的な例。とにかく相手を褒め称えたり拍手したりしていさえすれば、相手は気持ちよくなるとともに全体が盛り上がり、その背後で相互の内面には介入しないで済む。

言い換えれば一元的な価値観が失われた結果、こういった介入しないやさしさという”形式”が互いの一元性を保証するスキルとなったのだ。やさしさとは、互いが不可知な中で孤独と行動基準の喪失を回避する技術。そして、ここでは内容ではなく「形式の一元化」によって内容=互いの価値観が一致することを偽装するという詐術が行われているのだ。

他者の不可知化の昂進とKY空間の出現

しかしながら、これも「家族の絆」同様、強烈な副作用を備えている。というのも、こういった形式的な、そして儀礼的な側面ばかりが強調されるやさしさというスキルは、使えば使うほどその内容に立ち入ることを二重、三重にシールドするという技術を涵養してしまうからだ。いいかえれば、やればやるほど他者の内面は一層不可知になる。

だが、人間関係は、そういった儀礼的、表層的なレベルだけでは決して済むことはない。利害が絡んでくれば、当然、相互の内面やプライベートな事情に立ち入ることを余儀なくされる。しかし、そうなった時には、もはやそのスキルは全くないわけで……結果されるのは、むき出しの感情によるヒステリックな衝突だ。そしてその解決手段は……法律に頼るしかなくなってしまう。で、こういった衝突状況を第三者が目撃すれば、それが結果として強烈なKY空間に見えるというわけだ。

だから、こういったやさしさを備えている人のやさしさは、ヘタに近づくと危険なものと考えた方がいい。そのやさしさに甘えて、関係性を一歩踏み出し、利害関係に抵触するようになった瞬間、その人はクレーマーに転ずるといった事態が、かなりの確立であり得るのだから。(続く)


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クラウド上に書類が一括管理される状況をプレゼンするS.ジョブス



”Appleが次期発売予定のMacBook Airで目論んでいるのはパソコンからハードディスク(以下HDD)を撤廃し、HDDの時代に終止符を打つこと。その決定打を打つために、現在発売を見合わせている。そしてその決定打こそがiCloudというクラウドサービスだ”

こんな前提でパソコン(この場合はノートパソコン)の未来について考えている。
で、はiCloudとHDDの廃止にはどういった関連があるのか。

iCloudのサービスの中でHDDとの関連で特筆すべきものとして フォトストリーム、 てiTunes、そして書類管理があげられるだろう。とりわけフォトストリームとiTunesのクラウド化はHDDのアイデンティティに大きな影響を与えることが考えられる。

写真管理は、まずiCloudで

まずフォトストリーム。これは最新の写真1000枚を30日間分自動保存するサービスだ。要するに撮影した写真はHDDを通すことなく、こちらに保存されるわけでディスクの容量を使用することはなくなる。ユーザーとすれば三十日以内にこれをどこかに置けばいいわけだ(とはいうものの30日しかおけないのはちょっとセコい。これだと他のクラウドに置くとか、HDDに置くとか、ディスクに焼くとかしなければならないので。おそらくAppleは有料のクラウド・サービス提供を予定している。こうなればパソコン内のディスク容量を使うことは全くなくなる)。

音楽データをHDDに取り込まなくてもいい

iTunesも同様だ。これはオプションのiTunes Matchというサービス(年額24.99ドル)が力を発揮する。このサービスはiTunes Storeでダウンロード購入した楽曲だけでなく、すでに他のところで購入した自前の楽曲とiTunes Storeにストックされている1800万曲の楽曲を照合し、重複する曲をiTunes Storeから直接ストリーミングのかたちで再生可能になるサービスだ。しかも楽曲はすべて256kbpsの高音質AACのDRMフリーファイル形式に置き換えられる(既存のものはこの半分の128kbps。だからこのサービスを受けるとライブラリーの楽曲の音質が全て向上する)。こうなると、こちらも音楽ライブラリーを持ち歩く必要がなくなるというわけで、HDDのディスク容量を使用することはない(楽曲参照のためのデータ用のスペースを除き)。

実は十分な容量の書類ファイルのバックアップ

さらに書類のバックアップについては5GBのクラウドサービスが提供される。ちょっとこれはセコい、余りに少ないと思うかもしれないが、この5GBに音楽や画像データといった大容量ファイルは含まれないわけで(それぞれiTunes、フォトストリームに置かれるため)、テキスト・ベースを中心に考えれば、一般には必要十分な容量だ。

HDDに記録させるものは、少なくなる

で、このうちHDDに収納しようとするもの(つまりネットに接続しないで利用するのが基本となるもの)はアプリと書類と言ったところではないだろうか(もちろん、これもネット環境に繋がっている状態の時にはアップデートも含めて自動的にバックアップされる)。となればトータルで必要なディスクの容量はたいしたことはなくなる。現在のMacBook Airが搭載する64GBとか128GBで十分あまりあるという容量になってくるわけで、こうなるとガタイがでかくて電力食い、かつアクセス・スピードの遅いHDDはもはや不要となってしまうのだ。むしろSSDの方が軽い、速い、電力使用量が少ないという点ではるかに便利だ(まあ、価格もいずれこなれてくるだろうし)。

オートマチックな「データどこでもドア」環境の出現

さて、これがさらに発達していけば、データというのは、そのほとんどがクラウド上におかれ、様々なマシンで適時データをダウンロードし、アップロードするという環境が出来上がることになる。しかもユーザーはダウンロード、アップロードという行為に一切関知することなく、これが自動的に行われるのだ。

こういった「データどこでもドア」的環境はコンピュータ・ディバイスの新しい使い分けを生むだろう。リビングで寝っ転がりながらのんびりアクセスするならiPadで、移動中にささっとアクセスするならiPhoneで、そしてデスク上でアクセスし、じっくり取り組むならパソコンでといった具合に。となれば、それぞれのディバイスは互いの役割を食い合うのではなく、むしろ共存共栄という状況を生み出すことになる。つまり、互いが互いを必要とするようになる。

この時、MacBook Airはこういったクラウド・コンピューティングで、じっくりデータと関わり合うためには最適のパソコンとみなすことが出来るだろう。軽量・コンパクトで、速くて、バッテリー持ちがよい。次期MacBook Airでは通称”SandyBridgeと呼ばれるインテルの高速プロセッサCore i 5-2537Mの搭載が予定されているが、これが搭載されれば、そのスピードは一層速く、しかもバッテリーの持ちも長時間化することが予想されている。つまりMacBook Airは既存のハードとしてのモバイル性を強化することになるが、これにiCloudと絡むことによって、そのモバイル性が飛躍的に向上することになる。ひょっとするとMacBook Proが喰われてしまうかもしれない。

だが、そうなったとき、僕らは新しいコンピューティングの有り様を目の前にすることになるだろう。

メタ・クレオール?……もう一つのクレオール

さて前回までの宮崎タイ料理店の繁盛の構造について、おさらいしておこう。流れはをまとめれば1.クレオール文化の普及→2.一部プル型人間によるオーセンティック文化の導入→3.多くのプッシュ=消費型人間によるオーセンティック文化のクレオール的導入、の三段階で文化が受容されるという、ややこしい事態が発生していた(ただし1と3の主体は、ほとんど差がないのだけれど)。僕はこの3つめを「メタ・クレオール」「ひっくり返しのクレオール」とでも呼ぼうかと思っている。


ハヴィトゥスとディスタンクシオンが未だに成立しているローカル

階層構造がまだ完全に相対化されていない地方では、こういった「80年代型消費」、つまり上から目線獲得のためのスノッブ消費がまだ息づいている。役人やメディア関係者がエラくて、この連中が上から目線でそれ以外の人間を軽蔑的な目で見下げるってなことがかなりヘーキやられているので(お役所に行ったときの地方公務員の高ビーな感じは、ちょっとスゴイ)、彼らがそれを維持するためにはスノッブ性を備えた情報は”都合のいい道具”になるのだ。実際、宮崎というローカル地方にいる十年間の間、僕はお役所が経営する大学の教員だったので「大学+役人」という二つのブランドを抱えた”な~んちゃってセレブ”(実は、とってもビンボー)として、実際の自分の中身なんか関係なく、結構ちやほやされた(ちなみに現在、住んでいる関東圏では、こういったことはほとんど、ない。僕は単なる”しがない大学のチンピラ教員の一人”でしかない)。

こういった階層構造を、仏社会学者P.ブルデューは著書『ディスタンクシオン』の中でハヴィトゥス(語源は”習慣”)と言うことばで説明している(まあフランスなので、正しくは「階級構造」なんだけど)。自分たちがその階級に所属していることを確認するために、その階級にふさわしい振る舞いを常に行い、子供たちにもその振る舞いの教育を施す。たとえば上流階級だったら聴く音楽はR.シュトラウスとかマーラーとかワーグナーってなコムズカシイ感じにし、これをハヴィトゥス化=習慣化することで、自らに対して、また子供たちに対してその階級に属していることを自覚させるのだ(これは「文化再生産」と呼ばれる)。一方、労働者層はマーラーなんて難しいものじゃなくてJ.シュトラウスのワルツみたいなポップなものを聴くことで、やはりその階級に所属することを確かめる。で、この上流階級がマーラーみたいな高尚なものを聴くことで、下流階級に対して「おめ~らなんかとは、身分が違うんだ」と上から目線をする(こっちの方は「卓越化(=ディスタンクシオン)」と呼んでいる)。まあこういったことをやっているとブルデューは指摘したわけだ。

さて、日本の場合は階級社会じゃなく、階層社会。ということは上流、中流といったレベルへの階層移動が容易なわけで、となると階級的担保がなくても、ハヴィトゥスを選択することで、自らのポジションを設定できる。で、前述したように地方は階層構造が中央のように相対化されていない。だから地方の場合、このハヴィトゥスの選択が上流階級であることの幻想を抱く、つまり「なーんちゃって上流」になるためには有効な装置として機能する。で、情報的に階層が上となるハヴィトスを備えた情報ってのが……中央の情報やマイナーな消費的情報なのだ。そう、そして当然タイ料理もこの範疇に入ることになる。だから、僕は、前回のような憶測を宮崎のタイ料理店の繁盛の理由としてやってみたのだ。

もちろん実際のところどうなのかは確認していないのでわからない。ただし、少なくとも宮崎暮らしているあいだ、僕がこういった現象を何度となく見ることがあった。それだけは確かだ。

クレオールも一筋縄ではいかない!

こうやって考えてみると、インターネットに象徴される情報インフラが中央、地方に関わりなく平等に浸透したとしても、同じように受容されるわけでは決してないということになるだろう。そして、この場合には、ローカルにおいては、クレオールを巡って階層構造を維持するためにオーセンティックな情報が機能するという逆立状態が出現してしまっていることになるのである。

残念ながら、現在、この店はない。2009年、繁盛したまま閉店している。

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(路にはみ出すバー。タイ人と欧米人がごちゃまぜ)



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(歩道にはみ出すマッサージ。店内左は今年流行のフィッシュ・スパ)



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(Tシャツ、今年のニューモード)



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(ビール缶でつくられたトゥクトゥクのおもちゃを物色する欧米人の子ども)


通りを歩くことが、できない

タイ・バンコク・カオサンの賑わいは、カオサンという安宿街をバンコクでも知られた観光地にまで押し上げるようになった。そう、賑わい見たさ(ファラン=白人が闊歩していることがファッショナブルに思えたこともある)に、ここにタイ人の若者たちが押し寄せるようになったのだ。だから、レストランやバーは必ずしもバックパッカー向けというわけではなくなった。店の中を覗いてみれば、半数以上がタイの若者。こういった風景がごくごく一般的なものになったのだ(さすがにゲストハウスに宿泊するタイ人はまだまだ少ないが)。そんな中で、周辺を構成する店舗もどんどんと変化している。

企業経営の店舗が増える

以前あったのは、まず民家(80年代終わりくらいまで)。あるいはこれをゲストハウスに改造したもの。そして、やはりこれを改造したバーやレストラン。さらに旅行代理店、そして何故か銀製品屋と仕立屋(当然インド系の経営)。だがレストランやゲストハウスは、次第に企業が展開するようになる。そして、90年代後半からはコンビニがオープン。一方、かつてはかなりの数に上った銀製品屋が減少。代わってインターネット・カフェやクラブが建ちはじめる。前者はバックパッカー向け、後者はどちらかというとタイ人若者向け。2000年以降はマックやスタバと言ったファースト・フードも進出した。さらに各国料理も充実していく。イスラエル、インド、ネパールなど。本格的なピザ釜でピザを提供するところも登場。気がつけばカオサンは、世界のどこなのか、わけのわからない”インターナショナル・プレイス”へと変貌していた。

飲食物以外のものもいろんなものが登場している。マッサージ店は路上にベッドを堂々と置き営業している。昨年にはiStudioというアップルの製品を専門的に扱う見せもオープンした(一年持たなかったが)。ちなみに今年の旬はFish Spaだ。マッサージ屋が店の前に小魚の水槽を置き、客がこれに足を入れると、魚が皮膚表面の老廃物を食べてくれるというエステで、その珍しさで結構、流行っている(まあ、これはまさに”流行り物”。三年後には、もうないな、これは)。

ネカフェが減少

一方、減少が顕著なのは、なんとインターネット・カフェ。95年に初めてネカフェが登場して以来、カオサン通りにはどんどん増殖していったのだが3年ほど前にその増加がストップしたかと思うと、今度はどんどんなくなりつつあるのだ。その理由は簡単。これが商売としては成り立ちづらくなったから。

メールやIP電話などの需要もあって、90年代後半以降、バックパッカーにとってインターネットという存在は欠かせないものになった。ただし、当時はまだインターネットに関するインフラは整っていない。パソコンも標準ではネット対応でなかったし、回線も電話回線で非常に遅かった。もちろんWi-Fiなんてものもない。しかし電話や手紙に代わるメール、そしてネット回線を使った格安のIP電話という手段は極めて便利。それゆえ、バックパッカーが連絡手段としてネットを早くから選択したことは極めて当然の成り行きだった。だからカオサンについたら、まずネカフェというスタイルが定着していた。

しかし、ネットのインフラがここ数年で充実。その波は当然カオサンにもやってきた。ゲストハウスやカフェでWi-Fiを配置したところが現れただけでなく、タイのプロバイダ(Trueなど)と契約して気軽にネットにアクセスすることが可能になったのだ。あっちこっちでフリーの電波を飛ばしているところも(通称”野良電波”)。となるとネカフェ自体が、公衆電話的な立ち位置に立たされることになった。つまりケータイの普及で公衆電話が減少したように、Wi-Fiなどのネット環境の充実でカフェもまたその存在根拠を失っていったのだ。

屋台や露店も変化した

路上の屋台も同様だ。当初合ったのはパッタイ、ソーセージ・春巻き、フルーツなど。ところが、これにカクテル、シェラスコなんてのも登場した。タイ人向けのイサーン屋台(ソムタム、ガイヤーン、サイクロ・イサーンなどタイ東北地方の料理を提供する)、さらにはこれもイサーンものなのだがタガメやイナゴ、芋虫などの虫(食用)を売る屋台まで。虫屋台は最近では欧米旅行者にも「ゲテモノ・チャレンジ」の感覚で、結構トライされている。実は昨年、僕のゼミ生たちが、虫屋台で購入したいろいろな虫をカオサンにいるバックパッカーたちに食べさせてみるというビデオを作成したのだけれど、かなりの欧米人が快く協力してくれた。

そして今年ホットな新しい店は、なんと日本料理店なのだ!(続く)

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