勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ワールドカップ・ロシア大会。初戦で日本が勝利した。奇跡というか、大番狂わせというか、ラッキーというか。国内は大騒ぎ、海外でもメディアによれば話題になっているという。中でも注目を浴びたのが決勝ゴールをヘディングで決めた大迫勇也だ。香川、岡崎、本田はそろそろ賞味期限切れ。スター不在で人気にも陰り。ハリル監督の解任、ワールドカップに向けて行われた試合での負け続きなどもあって、今大会はハッキリ言ってかつてと比べれば期待度は圧倒的に低かった中で、大迫のこの「快挙」はメディアにとっては盛り上げるには格好の材料。もはや今大会は「大迫の大会」であるかのような演出が施されつつある。

そしてそのキャッチフレーズとして持ちだされたのが「大迫半端ないって!」だ。高校時代の対戦相手選手(滝川二高)が敗戦時に大迫を評したコメントだそうだ。で、この二日、あっちこっちのテレビ局でこの言葉が何度となく持ちだされ、上記のいわれが展開され、すわ流行語大賞にノミネートかと思わせるほどのメディア露出になっている。

しかし、である。

どうも、今回ばかりは胡散臭いという感じが否めない。言い換えれば「無理矢理流行語にしよう」という魂胆が見え見えに思えるのだ。

その理由について比較対象を引き合いに出しながら展開してみよう。取り上げるのは平昌オリンピックで一躍流行語となった言葉、女子カーリングチームの「そだね~」だ。

言葉が流行語として扱われるための条件は①社会的・時代的状況を踏まえていること、②使われる状況が既存の文脈とミスマッチであること、③言葉が新鮮なこと、④様々なシチュエーションで応用可能なことなどが該当する。

「そだね~」はこの4つ全てがあてはまった。①はオリンピック期間中であったこと、②はスポーツ競技の最中に選手が発する言葉からは全くもってミスマッチであったこと。卓球の福原愛の「サー」とか張本智和の「チョーレイ」はこの文脈では全くミスマッチ感はない。典型的な「スポーツ選手の雄叫び」だ。ところが「そだね~」は全く不自然というか脱力系。サウンド的にもマッチョ感はゼロ。だからミスマッチなのだが、それが却って女子チームの愛くるしさを引き立て、奇妙な「ミスマッチのマッチ感」、言い換えれば新しいスポーツ競技観戦空間を作り出した。③は言葉自体の新しさだ。アクセントを前に置くこの言葉は、北海道以外の人間にとっては未知の言葉。極めて新鮮だった。そして④だが、ご存じの通り私たちはその後様々な場面でこの言葉を使いまくった。とっても応用しやすかったのだ。

一方「大迫半端ないって!」の方はどうだろう。①はワールドカップゆえ該当する。そして日本チームへの不安感を払拭すると言う効果を備えている分、ここは強力だ。しかし②以降があてはまらない。②については、ようするにただ単に「大迫スゴい」と言っているだけなので、ごくごく普通の使い方なのだ。また「半端ないって!」という言葉は、これまでにも散々使われてきた。つまり、使い古されている「半端ないって!」の前に「大迫」が加わっただけ。だから③としても魅力は薄い。そして④については致命的だ。「半端ないって!」の前に「大迫」が加わることで、様々なシチュエーションでの応用が全く利かないのだ。たとえば大迫の代わりに別の名前を入れるとする。「加藤半端ないって!」「田中半端ないって!」「片桐半端ないって!」……これは、「半端ないって!」の前に人やモノやコトを付け足す、普段使われている「半端ないって!」でしかない。全然新しくないのだ。言い換えれば、この言葉は「大迫+半端ないって!」で初めて話題性が成立する使用範囲が極めて限定された流行言葉なのだ(まあ、流行語大賞の中には東国原英夫の「宮崎をどげんかせんといかん!」という極めて利用範囲が限定された言葉もあったが、これは東国原ブームが1年近く続いたことで押し切ってしまったことが担保になっていた)。

だから、結論として、この言葉が有効なのはワールドカップ期間中だけということになる。いや、もっとハッキリ言ってしまえば、日本チームが快進撃を続けている間だけだ。ということは一週間も持たないかも知れない恐れすら考えられるのだ(つまりH組残り二戦に敗退し、予選リーグ敗退した場合。そうならないのを祈るばかりだが)。

ワールドカップをなんとしてでも盛り上げ、視聴率を稼ごうとするメディアのあざとさがこの言葉の背後に垣間見えるような気がしてならない。テレビで「大迫半端ないって!」という言葉が繰り返えされる度に不快感を感じるのはのは僕だけだろうか。

「大迫半端ないって」って、メディアが無理矢理流行語にしようとするゴリ押し加減が「半端ないって!」

「ヌーハラ」とは「ヌードル+ハラスメント」。麺(ヌードル)を食べるときに他の客に迷惑(ハラスメント)になることを意味する造語。で,今回は文化人類学的に「ヌーハラ」を定義してみた。


1.日本全土の場合


定義:ラーメン・蕎麦・うどんを音を「たてずに」すすること。

日本では麺は音をたてて食べるのが正しい、そしておいしい(パスタ除く)。これがわからないヤツは麺屋に入ってはいけない。つまり音をたてないようなヤツは麺屋の暖簾をくぐる資格はない。それこそ他の客にとってはヌーハラである。かくして店内はズルズルズル~ッ!とうるさい音が響く。落語家・柳家小三治は「時蕎麦」で扇子を箸に見立てて蕎麦をすすってみせたが、もちろん「エアー」。これが名人芸だった(あたりまえの話だが小三治の「時蕎麦」を聞いた後,客の多くが蕎麦屋へ直行した)。で、客はさっさと食べてさっさと出ていくので、滞在時間が短い。店の回転が速いので麺料理の料金は概して割安になる(一部、神田や長野では、ごく少量の蕎麦で馬鹿高い値段を設定している、けしからん「強者そば屋」もあるが。これも別の意味でヌーハラだろう。ある意味「麺文化」をナメている)。


2.アメリカの大都会(ロスのダウンタウンやマンハッタン)の場合


定義:なし(ヌーハラの定義は存在しない)

異文化融合、つまりメルティング・ポットなので「音をたてるのを不快に思う人」は「音をたてる人」がいてもをガマンするし、「音をたてないのを不快に思う人」は「音をたてない人」がいてもをガマンする。相互尊重、文化相対主義的視点。いわゆる”happy medium”。麺の音は互いに「聞く」「聞かない」フリをするのがマナー(あるいは”don’t care”。こっちがホントかも?)。日本の麺のことについてはそれなりに認識している(日本では麺を食べるとき,音をたてる、つまり「麺をすする」ことを知っている)。かくして店内は「ズル、ヌル、ピチャ」と中途半端な音がこだまする。で、滞在時間がやや長い(音をたてない客は食べるスピードが遅い)ので客の回転がやや遅く、麺料理の料金はやや高になる。ちなみにアメリカ人はカップラーメンを音を「たてずに」モグモグとすする。カップヌードルの場合だと麺がスープをすってしまい,途中からスープが見えなくなる。スタジアムでアメフト観戦しながらこれ食べていた客は(スタジアム内で販売されているところがある)、試合に集中しすぎてずっと食べなかったので、カップから麺が膨れあがっていた。で、その後「べったら焼き?」「カップ焼きそば?」化したカップヌードルを完食していたが……。


3.アメリカ・ミズーリの田舎(ラーメン屋があったとすればだが)の場合


定義:音を「たてて」すすること

絶対にダメ。ラーメンだか蕎麦だかなんだか知らないが,麺を食べるのに音を立てるなんてのはもってのほか。音を立てるようなヤツは麺屋(あったとすればだが)に入ってはいけない。かくして,音は全くしない。カップラーメンの存在はよく知っているが、これはラーメン屋のラーメン、蕎麦、うどんとは別のカテゴリー。これら麺類とカップ麺を同一線上で考えることはできない。っていうか,存在自体をよくわかっていない。あったとしても恐らくマズい(こういう場合、韓国人経営が多いので,味も二重三重にキテレツなものになることが間々ある。昔の海外での日本料理店を知っている輩すれば「なつかしい味(笑)」)。アメリカで日本の麺類は原則、「都会の食べ物」(カップラーメンを除く。アメリカ中にある大手スーパー・ウォルマートではマルちゃんのカップラーメンが一個¢30以下で売られている)。


4.パリ、オペラ座の前のラーメン屋の場合


定義:音を「たてて」すすること。絶対にダメ。

ラーメンはすこしづつ箸でレンゲに乗せ,箸で回転させながら(つまりスパゲティを食べるときのスプーンとフォークの使い方に同じ)二十分以上かけてすこしづつ口に運んでいく。ラーメンは美味しいから受け入れるが,自分流儀、つまりパリ風に必ずカスタマイズする。で、そういったものだけが受け入れられる。伸びて,ぬるいラーメンや蕎麦、うどんがここでは「グルメな味」。これが解らないヤツは麺屋に入ってはいけない。で、とにかくダラダラと話し続ける。必然的に滞在時間が長いので麺料理の料金はバカ高になる。かくして,音は全くしない。カップ麺も全く同様の流儀で食す。日本人が「ヌーハラ」の典型とするような食べ方。


かくして日本を代表する食文化(この場合はラーメンを軸とする麺文化)は世界を制覇したのである。食され方もいろいろ。ここ以外でも、まあいろいろあるだろう。タイだと麺をグチャグチャにして食べるなんてやり方もある。現在、滞在しているロスの隣のトーランスのラーメン屋では,子供にラーメンを食べさせようと親が丼からラーメンをテーブルにぶちまけ、これを子供が手で掬って食べていた(冷ましてたのね(^0^;))。ラーメンはグローバル化。当然、食べ方もグローバル化、ヌーハラの定義もグローバル化しているわけで……嗚呼、安藤百福に感謝!!

26万人の米アニメオタクがロスに集結


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ロサンゼルス、コンベンションセンターで7月1~4日にかけてアニメエキスポ2016が開催された。これは日本アニメーション振興会が主催するイベント。第一回は1992年で、この時の入場者数は1700名程度だったのだが、今回は四日間で、なんと26万人がここを訪れた。もちろん、北米最大のフェアだ。日本のアニメは今や「ジャパニメーション」と呼ばれ、世界的にも知られているところとなったが「じゃあ、実際、アメリカではどうなっているんだろう?」と、最近のアニメにはあまり詳しくない僕も、日本独自のこの文化(かつてサブカルチャーと呼ばれたそれ。もはや、とっくにメインカルチャーになっているが)がどうなっているんだろうかと、中を覗いてみることにしたのだが……いやはや、驚きました。アニメ、マンガ、ゲーム関連の企業ブースが立ち並び、シアターやホールではシンポジウムが開催され、さらにはメイドカフェ、漫喫まで準備されている。こちらの予想より遙か先を行っていました。

訪れたのは7月3日。友人の「混んでいるから早めに行った方がよい」とのアドバイスに従って午前十時過ぎには中に入ったのだけれど、すでにセンター内は大量のオタクでごった返していた。会場周辺には二万台の駐車スペースが確保されていたのだけれど、これも正午には満杯。とにかくスゴい勢いなのだ。

会場内には夥しい数の日本語表記が、そしてブースからはアニメ声優とアニソンの日本語が鳴り響く。……ところが会場にやって来たアニメオタクやブースを運営している人間からは日本語は一切聞こえない。すべて、英語。アジア系の入場者もいるが、もちろん全員が英語。そして、やはり夥しいほどの数のコスプレイヤーがいる(もちろんカメラを向ければポーズを決めてくれる)。で、残念ながら、その多くが、こちらに造詣がない自分にはなんのキャラクターか判別が付かない。うずまきナルトやルフィ、悟空、初音ミク、ジブリキャラなんてのもいるけれど、こういったメジャーキャラは完全にマイノリティ。で、あちこちに”OTAKU”というロゴが誇らしげに貼られている。


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会場はまあコミケ的なのだけれど、そこはアメリカ流、どちらかというと巨大なパーティー会場といった趣が強く、それぞれのブースで、それぞれのお気に入りキャラに入れ込んでいる。ここにもはや「物見遊山」的なムードは一切ない。もちろん、今の日本のコミケと同様、かつてのオタクの暗いイメージもない。その成熟度はジャパニメーション、アニメオタク、コスプレオタクの裾野の広がりを強く感じさせる。どうみても、ここに来ているアメリカの若者はプロパー、つまり完全なオタクなのだ(スターウォズ・R2D2の実物大リモコンを持ち込んで通路で動かしていたなんて勘違いもあったが、これはご愛敬と行ったところだろうか。多分、絶滅危惧種(笑))。

米国発のオタク文化?

実感したのは、こうしたジャパニメーションの海外進出は、もはやクレオール化していて独自の文化と化しつつあることだ。起源はもちろん日本だけれども、ローカライズされてしまっていて、もはや別の文脈で解釈、あるいはカスタマイズされている(「オタク」という言葉が”OTAKU”と表記されているのはその典型。ただしこの表記がなされたのはすでに二十年近く前になるけれど、それがさらに一般化して”OTAKU=cool”という認識が定着しているのだろう)。

その中で気になったブースを二つほど取り上げてみたい。もちろん日本のアニメ文化がローカライズされるという意味でだが。両方のブースとも結構な数の客が群がっていた。

一つはジブリキャラクターの浮世絵化?鳥獣戯画化?のブース。広重の東海道五十三次絵の世界を設定にして、ここにジブリキャラが広重風で描かれているといった趣向。下の写真は「千と千尋の神隠し」の千とハクのこれまた和風の絵。この組み合わせは思いつかなかった。


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もう一つは、なんとディズニーキャラクターを引用したモノ。ブース運営者の名称は「18+」。つまり「18禁」=成人指定の作品群で、ディズニーアニメのキャラクターがエロに描かれているのだけれど(ディズニー以外もいろいろありました)、ようするにこれは二次創作ややおいという日本の伝統とディズニーという米国の伝統の合体といったところだろうか。下の写真は『アナと雪の女王』のエルサのエロバージョン。いわば、二次創作ややおいの形式=フォルムが米国の内容=コンテンツによって拝借され、米国独自のスタイルに変貌しているといってもよいのかもしれない。


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正直なところ、これらがメイドインUSAなのかメイドインJapanなのかは解らない(ネットで調べてみたが、該当するサイトは米国のそれだった)。だから、僕の勘違いであったならばオタクのみなさんにお詫びをしなければならないけれど、これがメイドインUSAのものであったとするならば、ジャパニメーションやアニメ、マンガ、コスプレオタクの文化は、その起源である日本を離れ、独自の文化を築きつつあることになる。すくなくともアニメEXPO2016の異常なほどの賑わい、訪れるオタクの本気度から察する分には、これがメイドインJapan生まれのメイドインUSA文化と了解してもよいのでは……そう思わずにはいられなかった。

もし、こうやって文化というモノが輸出され、輸入された文化の中に流し込まれ、一般化したとするならば、実を言えばそれこそが日本文化の世界への浸透であることの証明ということになるんだろう。日本車(米国の通りは日本車がマジョリティ)、寿司→SUSHI、ラーメン→Ramenといった、もはや米国では日本を感じさせることすらなくなりつつある文化のように。(ちなみに、これら定着したメイドインJapanも、米国では、ちょっと日本のそれとは違っている)。

大学も、今や学級崩壊?

今、大学ではスゴイこと(ヤバい意味でだが)が起こっていることをご存じだろうか。

「スゴイこと」とは、大学の教育システムを根幹から揺るがすような事態をさしている。それは「授業が成立しない」「教育をきちんと施すことが出来ていない」ということ。もちろん小学校の学級崩壊みたいなものとは、チト違う。小学校の学級崩壊の場合は、生徒が勝手に授業中に徘徊したり、サボったり、あるいは親の都合でサボらせることで授業が成り立たなくなることをさしているのだが、大学の場合は、学生が出席したくても授業に出席できないという事態が発生しているのだ。

始まる時期は大学三年の十一月頃から。つまり、就職活動が始まったときからで、これ以降、学生たちは就活に振り回されて授業に出席することが事実上困難になっていくのだ。

ゼミの現状は悲惨

例えばゼミ。何人かは就活で出席できない。これでゼミが歯抜けになっていく。つまり4年生は必ず何人かは欠席しているという状態になる。ただし就職活動は学生にとって将来を決める重要な活動。だから、教員としては「やるな」とは言えない。で、4年生のゼミは原則、卒論作成となるので、もう全体でゼミを開くことはやめて、個別指導にしているところも(もっとも、これをいいことに、指導を全くやらない教員もいるが)。

本格的な就職活動の開始は三年次の2月。で、これ以降は就活一色になるわけで、当然四年の一年間はほとんどゼミ活動といったものが不可能(とりわけグループワーク)。ということは大学における教育は大学三年までで実質終了(卒論除く)。当然専門教育は短大レベルになる。

だが、こういった事態は、実は日本の現在、そして招来を揺るがしかねない大きな構造的問題もたらす可能性を孕んでいるとも言えるのではなかろうか。

就活の前倒しが生んだ大学教育の崩壊

現在、大学に入学してくる学生の学力、そして社会力は、かつてに比べるとかなり低下している。それは言うまでもなく”ゆとり教育”のお陰だ。一例として、僕の教えている学部(偏差値50程度)の英語力をあげれば、五文系が言えない、発音記号が読めない、be動詞と一般動詞の区別がつかないといった状態。たとえば「あなたはペンを持っていますか。はい」という英作文をさせると”Are you have pen? Yes, I have”なんて回答がいくらでも出てくるといった具合(be動詞と一般動詞の混在、不定冠詞がない、doとhaveの混同)。また社会力についても同様で、とりわけコミュニケーション力の欠如は著しい。グループワークをやると全くチームワークが取れない、いや、その前に人と話し合いをすることに恐れをなしたりする学生が結構、存在する。

こんな”バカ学生”(厳密には「バカ」ではなく、「未開拓」な学生と表現した方が正しい。まともに教育を受けていないのだから。そういった意味で、彼らは被害者だ。言い換えれば開拓すれば才能が芽生える人間が大半。ただし、ここでは申し訳ないが、わかりやすいよう「バカ学生」と表記する)が三年間、ほとんどなんの教育も施されることなく(これは大学側の責任でも、もちろんある)就活をやるのだから、ようするに”バカの二乗”になる。つまりボーっとして大学に入ってきて、なんにもしないうちに就活が始まるのだ。

就活前倒しのお陰で、大学教育は実質破綻している。「バカのママだったバカは、バカのママだった」ということになり、これが大量に社会に出て行くわけで、そりゃ日本が韓国や中国に抜かれるのも無理はないと思えないでもない。日本社会、日本経済が萎えていることの主要因の一つとして、ゆとり教育と就活の前倒しは指摘することができることは、間違いないだろう。

就活の紳士協定を強化して復活せよ

これに対する対策は一つは、かつてあった就職活動についての企業間の紳士協定を強化したかたちで復活すること。もう、これは絶対にやらなければ、ダメ。そうしないと日本は崩壊するだろう。

96年まで、就職については紳士協定が企業間で結ばれていたのだが、協定破りがあまりに多いためにこれが破棄され、それが結果として就活の前倒し状況を生んでしまった。そして前述したように大学教育の形骸化を生んでいる。ただし、紳士協定が破棄された理由は「紳士的でない企業」が頻発したから。いいかえれば、これはあくまでもマナーみたいなレベルでの拘束力しかなかった。だから結果として破綻したわけで。

ということは、やるのなら「紳士協定」ではなく立法化しないと意味がない。具体的には就職開始日を八月一日とし、この規定に反した企業は一年間の新卒募集停止とかの処分をする。開始日八月一日というのが適切なのは、これによって四年前期までの大学教育の充実化が図れるため。つまり、これまで三年次の一月までだった教育がさらに半年延びる。学習期間は13%程度増加する。また、八月以降は卒論指導の期間とすれば、就活と卒論作成が同時になるわけで、個別指導という状況にも対応できる。でもって、「これで日本も安心だ!」と言うことに(くどいようだが、その期間を大学側がちゃんと教育できればと言う留保が当然付くが。で、ダメなんだけど)。

そうなればよいのだが……しかし、現状はそうなってはいない。では、現在の就活システム、そしてゆとり教育の中で大学教育は、いかなる立ち位置をとるべきなのだろうか?

そこで現状を把握し、教育側がとるべき立ち位置について押さえておこう。(後編に続く)

若者の「○○離れ」について考えている。前回までで、この現象が実は「多様化による関心対象の分散化」によって、そのように見えるだけであることを指摘しておいた。そしてバイクと旅行離れの原因について述べた。で、今回は、その他の「○○離れ」についても考えてみよう。

洋画離れ:家で見る

これは本当だ。ただし、映画館に行かなくなっただけのこと。映画館に行かなくてもすぐにレンタルできるわけだし。で、結局洋画、邦画にかかわらず、話題となっている映画を若者たちは、家でキッチリ見ている。で、映画マニアもたくさんいる。

読書離れ:実は読んだり書いたりする量は膨大になっているのだが

本は本当に読まなくなった。ただし、これは文字を読まなくなったのとは違う。つまり読書量=文字量という図式は間違っている。というのもネットを通じて電子化した文字をべらぼうに読むようになったし、またケータイ・スマホを通じて文字もべらぼうに書くようになったからだ。ということは、以前の人間よりも、はるかに読み書きする文字の量は圧倒的に増えたのだ。ただし本に書かれている文章のスタイルと、ネットのそれとは異なっている(最もわかりやすい特徴は文章一つ一つが短くなっていることだろう)。これはメール打ち、そしてネットの情報が短い文で展開されていることによる。だから、かつてのリテラシーとは全く異なったリテラシーが形成されるようになった(つまり「短文リテラシー」が向上し、「長文リテラシー」が衰退した)。ただし、かつてのリテラシー、つまり「本を読むこと=文字を読むこと」こそが「正しいリテラシー」とみなすジジイたちにとっては、これはリテラシーの低下に見える。だから、ジジイたちは、かつてのこういった立ち位置に基づいて「本離れ=文字離れ」を嘆くのである。

新聞離れ:他のメディアと競合し、価値観が相対化されてしまった。

僕が大学の頃(80年代)、アパート暮らしの学生たちはカネもないのに新聞を購読するということを、かなりの人間がやっていた。新聞は数少ない「社会の窓」だったからだ。しかし、今や新聞は独占的な社会の窓の役割から引きずり下ろされている。むしろ社会の窓はインターネットだろう。事件が勃発すると、僕たちは先ずYahoo!などのポータルサイトのホームにアクセスする(というか、今では、そこから事件を知る)。そして、さらに出来事の内容を調べるべくGoogleへ向かい、知りたい項目を検索する、あるいはYouTubeでチェックをはじめる。また、周りの人間がどう考えているかTwitterやFacebook、2ちゃんねるでチェックする……ってな具合に、僕らはネットを通じて社会を知る。ということは、翌日にならないとやってこない新聞などもはや「用なし」といった状況になってしまったのだ。また、かつては新聞はオピニオンリーダー的な役割も果たしていた。つまり、論説委員が出来事を解説するなんてことをやっていて、まさに「社会を知る窓」的な機能を果たしていたのだけれど、これもテレビやネットなどの他のメディアに持って行かれた。また、論説自体も相対化されてしまい、ネットやテレビで流されるオピニオンの一つに成り下がり、権威を喪失して、僕らが敢えて新聞の論説にアクセスしようというようなモチベーションも失ってしまった。実際、僕の教え子でアパート住まいの連中で新聞を定期購読している学生なんて皆無だ。(続く)

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