勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ジャズというジャンルはない

現在「ヨルタモリ」は大まかな設定があるだけで、まだそのスタイルが固まっているとは言い難い。だから出来にかなりのバラツキがある。その典型はゲストとの絡みで、第二回の井上陽水(陽水はタモリの親友)はとにかく丁々発止の展開だったが、第三回の上戸彩はどちらかというと宮沢りえがフォローしていたという感が強い。堂本剛の際にはタモリが蘊蓄を披露するという点で興味深い展開を示したが、第五回の松たか子は、どうも少し話が空回りしていた(一方的な展開。ちなみに、これは松のせいというわけではないだろう。以前、松が「タモリ倶楽部」で空耳アワードの審査員として登場した際には、まさに丁々発止と渡り合っていた。状況によって出来が異なってしまうのは、後述するが、要するに「ジャズだから」)感も否めない。まあ、これもその内ダラダラとやっている内に収まりどころが決まってくるのではなかろうか。ただし、どんどんとスタイルを変えながら(その一方で番組の形式は、いつものように究極のマンネリパターンを目ざすのではないか?)

そして、今回の「ヨルタモリ」。ある意味タモリの哲学が前面に出されたものでもある。それをいわば「吐露」してしまったのが第四回だ。その哲学は「ジャズ」の一言で表現することが出来る。この回でタモリは吉原という一関でジャズ喫茶を経営する人物を演じているが、これは一関に実在するジャズ喫茶「ベイシー」のオーナー・菅原昭二氏をモデルにしていることは明らか(菅原氏は早稲田出身で早稲田のジャズサークル“ハイソサエティ”の座長を務めていた、日本のジャズ界では知る人ぞ知る人物。何度も一関にカウント・ベイシーを呼んでいることでも有名だ。ちなみにタモリが演じる吉原という人物のヅラ=髪型は最近の菅原氏をリスペクトしてか?)。この吉原という人物を通して、タモリはジャズについて次のように語る。


「ジャズというジャンルはない。ジャズな人がいるだけだ。」

「ジャズをやっている人で、ジャズでない人がいる」(クラッシック畑の人間がジャズを演奏した場合を一例としてタモリは挙げている)

「音楽やんなくてもジャズな人がいる」


さらに「ジャズとは何か?」については「スイングしていること」と答え、その具体例として”博多のラーメン屋のオヤジがリズミカルに首を振りながらチャーシューを次々と盛りつけていく動作”を挙げている。いわばジャズは「グルーヴ感」や「うねり」と言ったところにポイントがあると言いたいのだろう(ちなみに、この発言は第五回でもやっている)。

タモリがやっているのはモード・ジャズ

この”ジャズ談義”。タモリ、実は吉原という人物を借りて自らの芸風を語っている。

ジャズの典型的なスタイルのひとつとしてモード・ジャズがある。これはテーマ(これで音階=モードとメロディを提示する)を決め、コードを単純化あるいはある程度無視して演奏枠を確保し、これらを基調にしながら、各パートが自由にアドリブを繰り広げるというもの。それ以前のビ・ハップ、ハード・バップのコード進行に基づいた手法よりも自由度が高いが、半面、より多くの技量と想像力=アドリブ力を必要とする。実は、このスタイルを番組コンテンツに援用したのがタモリの手法なのだ。たとえば「タモリ倶楽部」では、毎回お題=テーマが決められ、同じパターンで番組は展開するが、その都度、准レギュラー的なゲストが複数名登場(なぎらけんいち、水道橋博士、ガタルカナル・タカ、江口達也な、どきわめて技量とアドリブ力の高いパーソナリティが出演する)、ここにそのお題にちなんだエキスパート(「書道の墨の達人」といったようなきわめてマニアックな人物)がスペシャルゲストとなり、テーマ≒音階に基づきながらグダグダと番組を成り行きで進行する。言い換えればお約束=コードがほとんどない。その間、タモリは、まさに「適当」にアドリブをやりつづける。そしてこの時、メンバー同士の丁々発止の渡り合いは、互いを配慮すると言うよりも、互いのアクションにインスパイアされるというかたちで進行する。言い換えれば、誰もが気ままにアドリブを飛ばし、次にそれを打ち消すカウンターがタモリや他のメンバーから繰り出され、さらにこれへのカウンターが続きという具合に、相互インスパイアによってアドリブが果てしなく提示される中で、番組はひたすらグルーヴし続けるのである。

「ヨルタモリ」はクインテットによるジャズ

このスタイルは「ヨルタモリ」においても何ら代わるところはない。いや、むしろ徹底されていると言ってもいい。わかりやすいようにジャズのクインテット(五重奏)、60年代後半のマイルス・デイヴィスのグループになぞらえて説明してみよう。当時のユニットはマイルス(tp)、ハーヴィー・ハンコック(p)、ウェイン・ショーター(ts、ss)、ロン・カーター(b)、トニー・ウイリアムズ(ds)といった布陣。「ヨルタモリ」でベースを奏でるのは宮沢りえだ。第一回目から堂々としたママぶりで、落ち着き払い、全くブレることがない。さながらR.カーターのウォーキング・ベース。見事にタイムキープしながら通奏低音を奏で続ける。これで番組の「枠」が安定する。一方、もう一つのタイムキーパー、ドラムスを担当するのが能町みね子だ。能町の役割は時に脱線するアドリブとインタープレイを元のペースに戻すこと。常に冷静で、タモリのアドリブにアクセントを入れるという「ツッコミ」的な役割も演じる(まさにT.ウイリアムズ的!)。また、能町は時に画面の外に飛び出して茶の間の側に立ち、タモリのバカバカしいアドリブを冷笑するような態度をとるのだが、これがタモリの暴走を防ぐとともに、結果としてタモリが展開する密室芸のパフォーマンスを相対化し、その面白さを語る役割を担うことになっている。知識人ゲストはH.ハンコックあるいはW.ショーター(実際、2人ともインテリだ。ただし、2人ともレギュラーだが)の役所で、宮沢と能町のタイムキープに彩りを添える。言葉は少なめだがトークに芳醇さを加える。これにスペシャルゲストが加わってメンバーとアドリブを繰り広げる(ちなみに当時のマイルス・クインテットでスペシャル・ゲストを迎えるというシチュエーションはない)。

タモリは言うまでもなくマイルスだ。このメンバーをバックに好き勝手に吹きまくるのである。しかもメンバーにも勝手にやらせているようでいて、その実、キチッと仕切ることも忘れない。タモリ=ホスト、その他のメンバー=ゲスト及びスタッフという「権力関係」の中で番組が展開されるので、結果としてタモリがいなくても、その場は「タモリ・ユニット」として稼働し続ける(これはマイルスがよくやった手口だ)。その典型が番組冒頭の5分間で、なんとこの間、タモリは登場しない。にもかかわらず、タモリ独特のダラダラ、ゆるゆるとした雰囲気=グルーヴ感が流れている(これは「笑っていいとも!」でタモリが登場しないコーナーでも同じだった)。

タモリは楽器を持たないジャズマン

だから、基本的なタモリ・モードは存在するが、面子でその雰囲気はガラッと変わるし、時にはうまくいかないこともある。面子の技量にかなりグルーヴ=スイング感は左右されるからだ(これまでのゲストでベストは当然、気心の知れた井上陽水だった)。モードを使いこなせない人間がメンバーに入ったときには、そのインタープレイはしばしば破綻を来す。だが、それでいいのだ。いつアタリでいつハズレ、いつスイングし、いつポシャる。どんなアドリブが出る……こんなことが予想不可能に展開する。これこそが、実はタモリのモード・ジャズの醍醐味なのだから(これもまたスイング感をメタ的に構成する)。この先の見えない状況がどうなるかとドキドキワクワクで待ち構えるようになれば、あなたは、もうすっかりタモリワールドに引き込まれていることになるのだ。そして、それこそが、実はタモリの芸の原点である密室芸の本質=ジャズということになるのだろう。

で、これを可能にしているのが、タモリの「適当」という哲学なのだ。「適当」である限りスイングが止まることは、恐らくないだろう。失敗?成功?そんなものはどうでもいい。先ずは「スイングすること」なのだ。


つまり、

”タモリは楽器を弾かずスイングするジャズマン”

なのである。


「いいとも!」でやっていたジャズはお昼向けのかなり基礎的なジャズ。だからみんなある程度わかったけれど、夜向けの「ヨルタモリ」は本格ジャズ。だからジャズがわからない人には「ヨルタモリ」はわからない。

評価が二分する「ヨルタモリ」

10月からタモリの新番組「ヨルタモリ」がスタートした。3月に「笑っていいとも!」を終了して以来のタモリによる新レギュラー新番組。当然ながら期待は高まっていた。で、フタを開けてみると……その評判は「すばらしい」「くだらない」と真っ二つ。どうやら、ちょっと「つかみづらい」という印象が、こういった評価のバラツキを生んでいるようだ。今回は、この評価が二分することの理由が、実はタモリの芸風に依存している、そしてそれこそがタモリの魅力であるという前提で論考を進めてみたい。

「ヨルタモリ」の進行

先ず番組の進行を確認しておこう。とある東京の右半分、湯島辺りにあるバー”White Rainbow”が舞台。レギュラーはママの宮沢りえ、常連客のエッセイスト・能町みね子、そしてタモリ。ただし、タモリは別人として登場する。扮するのは、現在のところ大阪で工務店を営む坂口政治、または一関でジャズ喫茶を経営する吉原という人物だ。ここに毎回、2人のゲストが登場する。1人は文化人系で、これまで劇作家・宮沢章夫、音楽家・大友良英などが登場。もう一人はスペシャルゲストで、第一回は不明だが(スタッフの1人?)、二回目以降は井上陽水、上戸彩、堂本剛、松たか子が出演している。

展開は、能町、文化人系ゲストがすでに一杯やっているところにスペシャルゲストが登場。5分ほどトークを続けたところでタモリ扮する人物が登場する。そこでしばらくトークを続けるのだが、途中、タモリは電話やトイレといった所用で二回ほど席を外す。その間、残りのメンバーがテレビを見るのだが、これがタモリが演じるショート・コント。現在のところ「世界音楽紀行」「国文学講座」「ドッキリマル秘報告」「ワールドショッピング」がある。
この間、タモリ扮する人物が、わけのわからない蘊蓄を傾けながらトークを続け、最終的に終電に間に合わないからと言って途中で店を出て行く(その際は、ツケ)。

内容はこれだけだ。しかも、途中の会話が脈絡なく続く。言い換えれば適当な始まりと終わりがあるだけで、とにかくダラダラと続くのだ。なので、番組の一貫性や物語、仕掛けを予期して番組に臨むという、視聴者の一般的な構え=コード(たとえば「水戸黄門」なら勧善懲悪で、最後に印籠が出るという「お約束」の進行)を完全に裏切っている。言い換えれば大雑把な「枠」が用意してあるだけ。だから、こういったものがないと落ち着かない視聴者には中身が読みづらく、スゴくイラつくコンテンツに仕上がっている。

タモリは終わった?

そしてこの一般的な構え=コードは、タモリ自身にも向けられている。50代半ば以下の視聴者にとってタモリとは「笑っていいとも!」のイメージがデフォルト=コードとしてある。「ヨルタモリ」は、まあ適当に(「適当」はタモリの座右の銘)ダラダラやっているのは同じだが、「いいとも!」は昼の番組だったこともあり、タモリ、そして番組にはほとんど毒がなかった。つまり、タモリは無難に(つまり「適当に」)やっていた。ところが「ヨルタモリ」は、これを裏切っている。言うならば「毒」がある。エッジな展開だ。しかも長寿番組「タモリ倶楽部」より、ある意味、一層毒を吐いている。わけのわからなさ、エッジな人間の登場、エロネタの満載、大衆受けしそうもないようなギャグ(たとえば「国文学講座」でタモリ演じる季澤京平教授はどうみてもただのスケベなのだが、これをアカデミックな蘊蓄でオブラートしてしまうのでなんともいえないリアリティが生じる。ちなみにこれは、おそらく、かつてタモリが演じた中洲産業大学教授の文系教授への転換だろう)。「タモリはもう終わったな」なんて書き込みが2ちゃんねるでなされるほど。

我らがタモリが帰還した?

「君子豹変」したかに思われるタモリ。ところが、僕のように50代半ば以上でタモリのデビュー当時からタモリを見ている人間にとって、このパフォーマンスは少しも「君子豹変」ではない。むしろ、これは「本質」だ。タモリの芸のルーツは「密室芸」。新宿三丁目ゴールデン街で、わけのわからない文化人やゴロツキを相手に、メディアでは決して映すことが出来ないギリギリ、いやギリギリを超えてしまった芸をやるというのが基本。テレビに登場したイグアナ芸やハナモゲラ語は、いわばその象徴化された存在(もっともテレビ向けにある程度、毒を抜いていたが)。赤塚不二夫と2人で裸になりながらローソクショーをやるなんてことを毎夜繰り広げていた人間なのだ。70年代、パーソナリティを務めた「オールナイトニッポン」でも数々のアブナイコーナーを用意し、当時のオタクたち(当時、まだそんな言葉はなかったが)を驚喜させていた(NHKのラジオニュースを切り貼りしてマッシュアップしてしまうなんて著作権無視のコーナーすらあった。バレて中止させられてしまったけれど、そのことすらネタにするという「エッジさ」だった)。こんなタモリを知っている人間は、82年に「笑っていいとも!」が始まって、司会者としてタモリが登場した際には、むしろそちらの方を「君子豹変」とみていたはずだ。つまり、当初はスゴイ違和感で「いいとも!」を見ていた。

ただし、タモリの「適当」感覚にとって、そんなことはどうでもいいこと。メディアに流されながらもダラダラと「いいとも!」を続け、気がつけば三十年を超える国民的番組となり、今やタモリはカリスマ。オーディエンスからも「タモリさん」と「さん」付けで呼ばれる尊敬すべき人物になった。

ところが、この「ヨルタモリ」では、こうやって培ってきた社会的評価を全く無視するかのように、かつての密室芸を再び展開しはじめたのだ。ハッキリ言って視聴者無視というか「いいともタモリ派」をバッサリ切り捨てている。そんなことをしたら視聴率がどうなるのか?いいや、タモリはそんなことはお構いなしである。仮にお客が離れても、それは「適当」だから、そりゃそれでいいとでも思っているのではないか。かつてタモリはNHKの番組「ブラタモリ」で秋葉原を取り上げたとき、この街を褒め称え「振り返らない街」と表現したが、それは要するに自らのことを表現しているということになる。つまり、タモリもまた「振り返らない」。

そして、多くの視聴者がこの番組に違和感を感じる中、「タモリ原理主義派」の50代半ば以上のタモリ・フリークたちは、この「密室芸」「大衆無視」の復活をおそらく大歓迎しているだろう。それは、いうまでもなく「イグアナタモリの帰還」に他ならないからだ。実際、「ヨルタモリ」でのタモリのパフォーマンスはすっかり三十年以上前に戻っている。原理派からすれば、三十数年ぶりにタモリに対する「違和感」を解消したのだ。

ただし、タモリは「振り返らない」。そうやってノスタルジックにタモリを歓迎している年配層もまた「適当」にいなしていくのだろう。

でも、なぜタモリは回帰したのだろう?それはタモリがジャズだからだ!(続く)

前回の記事「みのもんたをめぐるジェラシーの連鎖」http://blogos.com/outline/70419/?axis=p:5について、一日の内に多くのコメントが寄せられた。僕の意図をきちんと読み取ってくれたコメントがある半面、まったく意図から逸れたものもあり、半々といった具合だった。ただ、この記事ではみのもんたという有名人=記号をめぐって、これをわれわれがどのように取り扱うべきかについての提案を行ったのにもかかわらず、それがまったく理解されず、むしろそのようにみのを扱ったのではこちらが伝えようとしたこととは正反対というか、「それはまずい」という理解になってしまうコメントが存在したのは残念だ。本ブログはメディア社会論、つまりメディア論という概念を用いながら社会のさまざまな事象を分析し、人々のメディアリテラシーの向上に少なからず貢献しようという前提で展開している。なので、今回は今一度、前回の議論を、いわば「解題」のかたちで説明してみたいと思う。内容をよくご理解いただいた方には、さらに詳しい説明、ご理解いただけなかった方には再度視点を変えて説明ということになる。

みのもんたはメディア的存在

僕が前回指摘した内容を要約すれば以下の通り。みののセクハラ疑惑と息子の逮捕という事件の言説は、事件そのものよりもみのもんたというメディア的存在に対するオーディエンス、そしてマスコミのコンテクストに基づいて形成されている。だから、この疑惑や事件の対象になっている「御法川法男」(みのもんたの本名)というリアルの人物が、メディア上に形成されている「みのもんた」という記号、つまりヴァーチャルな存在によって恣意的に切り刻まれているということを先ずは踏まえて、これらを読むべきである。「みのもんた」については態度がデカい「いけすかないやつ」というコンテクストがメディア上で形成されており、にもかかわらずメディア上でセレブとして扱われている。それゆえ癪な存在、つまりジェラシーを抱いてしまう存在というイメージが成立している。だから「いけすかないやつだから、スキが見つかって叩けば面白い」。そして、今回の事件は格好のトリガーとして機能した。で、こういった「勝手に持ち上げて、勝手に引きずり下ろす」ようなベタな図式は、もうネタにするほどでもないほど使い古されているので、ネタにすらならないんじゃないの?といいたかったのだ。つまり、マスゴミといわれることすらある低レベルの報道を繰り返す連中のクリーシェ=思考が停止した定型的な取材パターンに付き合うな、と。

ところが、コメントの中にあったのは「なぜ、オマエはあんなセクハラタレントの肩を持つのか」「こんなやつを擁護するオマエはセクハラのことがわかっていない。オマエこそセクハラに気をつけろ」「みのは芸能界を私物化している」的な発言だった(くどいようだが全体の半分程度)。で、こういったかたちで僕の今回の記事を批判したコメントこそが、実は、僕がいちばん「やるべきではない」と指摘したかったことなのだ。というのも、こういったコメントはマスゴミというお釈迦様の手のひらの上で操られているだけと考えるからだ。

これらの議論の前提にあるのは明らかにメディア上のヴァーチャルな存在であるみのもんたに関するこれまたマスゴミ的な言説によって染められた文脈=コンテクスト、つまり「みのもんたはメディア上で構築した権力を利用してやりたい放題のことをやっている」という立ち位置だ。しかも、これらのコメントは、自らがこういったコンテクストに立脚しながらこちらを批判しているという自覚が全くない。つまり「思考停止」(そういえばTwitterには僕に対して「どんだけ思考停止って言葉が好きなんだ?」という批判もあった(笑))。そして、こういったコンテクストが「うまいことやっているみのもんた」という存在に対するジェラシーに基づいている可能性があることにも気づいていない。

わかりやすいように、まず僕のみのもんたに対する立ち位置を明らかにしておこう。僕は小学生の頃、文化放送でみのもんたのラジオ番組を聴き始めた頃(72年)から彼の存在を知ってはいる(「Come together」という短めのピンの番組だった)。かといって、みののファンというわけではない。つまり、特に思い入れはない。で、今回の二つの事件。セクハラについては、 みのはセクハラをしているかも知れないし、していないかも知れないと考えている。 つまり、みのがやっているのかやっていないのかについてはまったく判断基準を持っていない。 なぜって?あたりまえだろう。本当のことを知らないのだから。そして、こういった立場はメディアを通じてのみ、みのを見ている人間ならばまったく同条件のはずだ。だって、ディスプレイ越しにしか、みののことを知らないんだから。ようするに証拠をもっていないのだから非難も擁護も出来ないはずなのだ(二つ目の件、つまり息子の逮捕については前回も述べたが、31歳という、とっくに社会人の息子の不祥事に親の責任は問えないという立場だ)。まあ、もちろん仲間内で話題のネタとして利用する分には一向に構わないが、ネット上、とりわけこういったブログとりまとめサイトは公論の場なのだからある程度責任を持った発言が前提される(BLOGOSは2ちゃんではありません)。

にもかかわらず、みのをなぜ非難するのか。その結論が、メディア上の「いけすかない」というみのに対する文脈、つまり「うまいことやっていやがるみの」に対するジェラシーに基づくということなのだ。

唯一の証拠=映像の確証性の無さ

僕が、こうやって「証拠がない」と言ったとき、反論として想定されるのは、テレビ「朝ズバ!」で流された通称「セクハラ」とみなされる映像だ(YouTubeで見ることが出来る)。そう、確かにみのは吉田明世アナの尻の上、腰の部分に触れている。「これこそ動かぬ証拠である」というわけだ。だが、こういったとき、「映像」は事実であっても、しばしば「真実」ではなくなる。たまたま男性が女性の身体に触れた瞬間を切り取り、それをセクハラだと決め込むようなやり方は、かつて3FETと呼ばれた写真週刊誌がやった典型的手法と代わるところはない。たとえば芸能人がドラマなどの打ち上げでパーティを開き、その引け際、たまたま女優と男優二人が先に出てきたところを撮影し、あたかも「密会」に仕立てると行った手口は常套手段として行われてきたのだから。これは、取材する側に先ず「スキャンダルやゴシップという特ダネが欲しい」というコンテクストがあり、そのコンテクストに合わせて写真という事実が切り取られたのである。実際には単なる打ち上げという「真実」が、たまたま二人だけが映っているという「事実」によってねじ曲げられたというわけだ。こういうやり方が典型的な「マスゴミ方式」と呼ばれるものだろう。あることないことでっちあげるわけだ。で、映像・画像という証拠で正当化する。


で、みのもんたのこの映像=事実を見た瞬間、「これはセクハラである」と即断してみのを断罪するというのは、まさにこの「マスゴミ方式」をみのを批判するオーディエンスもまた踏襲しているということになる。しつこいようだが、映像だけを見ていたとしても、一般の人間はその背後の真実を見てはいないはずだ(見ているとすれば、それはオーディエンスではなく業界でみのとかかわってきた当事者たちだ)。しかも映像は一秒にも満たない。それを「いけすかない」というコンテクストに基づいてみのを断罪する。こうやって「みの、けしからん」「それを擁護するやつもけしからん」というとき、そういった発言をする当人は、実は「世界でいちばんエラい神様」になってしまっている。つまり、自分は天の上から全てお見通しと思って疑わないのである。で、これこそが「思考停止」の典型ではなかろうか。

さらに、もっと過激なものもある。いわゆる「陰謀史観」に基づくみの批判だ。みのは芸能界を牛耳る帝王であり、全てのことがやりたい放題という文脈、いわばM資金、フリーメーソンばりのスゴイ力を持っているというもの(まあ、ひょっとしたらそうかもしれないが(笑))。やはり、これもまったく根拠がなくメディア的に媒介されたコンテクスト=みののイメージを無批判・無意識に援用していることはいうまでもないだろう。そして、こういったコンテクストが無造作に適用されたのが息子の逮捕についての「みの責任論」に他ならない。これじゃ、USJでバカをやった学生に対する責任が大学側に求められたのと大してかわらない。果たしてみのはそんなにエラいのか?この文脈だとナベツネや安倍首相すら凌駕する巨大な権力っていう面白いことになってしまうのだけれど。

全ては確たる証拠に基づく

まあ、ここまで書いておくと「どうして、オマエはそこまでみのもんたの肩を持つのか」というツッコミをいれられそうだ。そう、確かにみのもんたは、とんでもない人間かも知れない。しかし、実際にそうであるかどうかは、さしあたり、ここでは問題ではない。批判するなら事実を持ってこなければならないからだ。たとえば、正直、僕も「この人、ちょっと」と思わないでもない。しかし、だからといってみのをバッシングすることは出来ない。それこそ「半沢直樹」ではないが、悪を叩くためにはキチッと証拠で固めて「倍返し」しなきゃならないわけで(みのが「悪」かどうかはわかないが)。そういえば島田紳助(この人も芸能界を牛耳ったとよく言われていた)は確たる証拠を提示され、芸能界を去ったはずだ。

いちばんの問題は、くりかえすが、こういったマスゴミ式のベタな図式にわれわれが振り回されることだ。もはや、何度も繰り返されてきたワンパターンのクリーシェ=常套手段。いくらなんでも、もう乗り越えるべきだろう。「悪の限りを尽くし人々を苦しめてきた輩が、ちょっとしたことをきっかけにひっくり返される」的な安直なマスゴミ的図式に無批判に従っているようでは、本当の悪など倒せはしないのだから。いや、これは口がスベった。もとい、真実など見抜けないのだから。

ネタがもっと面白いものを笑い飛ばしましょ!ただし、仲間内で。

オマケ……なぜ文章をちゃんと読まないのか

ちなみに、ブログに対するコメントについて加えておけば、記事をよく読むこともせず批判するものがあるが、問題外だろう。残念ながらこういったコメントが、結構多い。コメントの中には「(僕が)「女性アナが(みののセクハラを)意に介していないなら、問題無し」(と指摘したの)は、その通りですが、先生は「女子アナは、なんとも思ってない」という前提で話進めてますよね」」というものがあったけれど、これなどは、文章を丁寧に読むこともせず展開したものの典型。ここの下りはセクハラがどういったかたちで成立するのかについて展開したもので「された側がセクハラと感じたらセクハラになる」という原則を述べたに過ぎない。しかしながら、そう読めてしまうのは、彼らの文章読解能力が低いからなのだろうか?(僕のブログは「メディア社会論」なので理論的に展開することを旨としている。だからちょっと難しくなるときもあるが、偏差値50くらいの大学が出題する現国の問題が解ければ十分に理解可能な程度の文章にしているつもりだ)いや、そうではないだろう。読解能力が低いのではなく、要するにこれもメディア的に無意識にすり込まれたみのもんたについてのコンテクストが原文=テクストをねじ曲げて読むように仕向けているからではないか。つまり「飛ばし読み」。僕にはそう思えるのだが。まあ、どちらでもよいが、先ずは文章をしっかりと読んでいただきたいと思う。

タモリの芸風からマンネリズム=ワンパターンがいかに重要であるかを考えている。タモリは、番組においては大まかな決まり切った進行を制作側に任せ、そのシナリオ上で自由に立ち回ることに魅力があることを前回は確認した。今回はこれを踏まえ、その内実、つまりマンネリズム=ワンパターンの番組制作上(そしてすべてのコンテンツ)における役割について考えてみたい。ただし、それはマンネリズム=ワンパターンという図式を解体することでもあるのだが

「タモリ倶楽部」は究極のマンネリズム

再びタモリの番組について考えてみたい。おそらく、もっともタモリのスタイル=芸風が反映されている番組は「タモリ倶楽部」だろう。この番組は、ほとんどシナリオというものがない。テーマが決められ、そのテーマについて関係があるような、無いような人物たちが登場し、ダラダラと話を続けるだけだ(ただし、誰もが話術に長けている。ちなみに全てロケ)。テーマは思いつくものならなんでもいい。鉄道がその代表的なものだが、どこかの場所についてのことであっても、グッズであっても、人物であっても、現象であっても、もう、ほんとうになんでもいいのだ(鉄鍋とかハイサワーとかインド人がやっている飲み屋とかがテーマになったこともあった。稜線なんてのもあったが、これはおそらく「ブラタモリ」のヒントになっているのではなかろうか)。典型的なのが「酒飲み」の特集で、ラーメン屋でどうでもいい酒を飲んだり、中野・新井薬師にある日本銘酒会の酒屋・マチダヤで何種類も酒を飲んだりするだけ(試飲する場所も店の向かいの空き地だった)。 で、これは要するに「どうでもいい設定」というワンパターンの形式があるだけなのだ。 いいかえればほとんどコンテンツ無し。ところが、こうやって雑に、そしてゆるくやればやるほど番組はむしろ面白くなる。それぞれが勝手に語り、それにツッコミを入れる。

また、一般のトーク番組だと聞き手と話し手、仕切り手と仕切られる側が分離していることが多いが(「徹子の部屋」「さんまのまんま」がその典型。それぞれ黒柳、さんまが仕切っている)、「タモリ倶楽部」の場合にはこれがほとんどない。ひたすらジャムセッションが繰り返される。だが、こういった「コンテンツ無きに等しいコンテンツ構成」のおかげで、登場人物によって無限のパターンを繰り出すことが可能になる。しかもタモリが仕切らないのでタモリの押しつけがましさもない。強いて表現すればタモリが押しつけるのは「押しつけがましさ」ならぬ「押しつけがましさ無しさ?」といったところ。さながら羊飼いのように出演者を遊ばせるのである(だから、しばしば休んでいる)。言い換えれば、タモリ自身にすらコンテンツがない。

マンネリズムはワンパターンではない

タモリのこの展開は、まさにマンネリズムの極致といっても過言ではない。しかし、面白いことに、これは実はワンパターンではない。むしろ万華鏡のように変化するパターン。そしてそれが番組のダイナミズムを生み、フレッシュさを維持するポイントとなっている。

これは「マンネリズム=ワンパターン」という図式で番組を捉えることが誤りであることを示唆している。マンネリズムは確かに一見するとワンパターンだ。だが、こういったワンパターンを安定して提供することでコンテンツを消費する側は、このパターンに親密性を覚え、アクセスビリティを高めていく。つまりコンテンツそれ自体よりも、コンテンツを作り上げている形式=メディア性に馴染んでいく。だから先ずはワンパターンを作り上げることは、実は重要なのだ。

問題はその先だ。そういったパターン=形式上で番組がどのように展開するか?これが番組の魅力のキモとなる。たとえば「ドラえもん」。そのパターンは九割以上が同じもの(問題状況の出現→解決手段の提示→一旦解決→悪用→因果応報)。そしてこのパターンは子どもですら身体的に馴致可能な素朴なものだ。だから作品に親しみを覚え、ドラえもんに飛びつく。つまり、ワンパターン。しかし、そのワンパターンの中で様々なバリエーションが展開される。毎回異なったひみつ道具が出され、これが様々なシチュエーションで用いられていくのだ。つまり全く同じパターンで様々な展開=変化を生み出す。こうなるとむしろワンパターンの方がいろんな表現がしやすいということになる。そう、これこそがマンネリズムのすごさに他ならない。ちょっと他の長寿番組を見てみよう。ずーっと続けられてきたので有名なのは「水戸黄門」「笑点」「生活笑百科」あたりだが、これらは全てワンパターン。ただし、どこでどのような条件で印籠が出るのか、大喜利で林家木久扇はどんなバカをやるのか、上沼恵美子はいかに荒唐無稽なウソをつくのかといったかたちで形式を踏まえたバリエーションが展開する。この差異が見たくて視聴者はチャンネルを合わせるのだし、これが無限に登場することで継続してこれを見続け、最後は番組を見ることが水みたいな「日常」へと転じてしまうのだ。

つまり、番組を成立させるにあたっては二つの条件が必要ということになる。


1.必要要件としての”コンテンツに対する安定した形式”

2.十分条件としての”形式を踏まえた展開”


前者は原則ワンパターンでなければいけないが、後者は常に変化していく必要がある。これが可能となったとき「マンネリズム=ワンパターン」という図式は崩れる。マンネリズムは永続する魅力的なスタイルに転じるのだ。一方、”2=形式を踏まえた展開”がワンパターンになったときにはまさにこの図式が当てはまり、視聴者たちは飽きてしまい、「ワンパターンだから飽きた」ということになって、番組から離れていく。こうなってしまった典型が「水戸黄門」だ。これは同じ時代劇の必殺シリーズと比較するとよくわかる。必殺は1こそ完全にワンパターンだが、仕事人が頻繁に入れ替わり、繰り出す必殺技も変化していくことでバリエーションの展開に成功している。危機に陥ったのは1の維持が難しくなる恐れがあった中村主水役の藤田まことが死去したときだったが、仕事人の一人である渡辺小五郎役(渡辺もまた中村同様昼行灯というキャラクター設定だった)の東山紀之にこの役割を移すことで切り抜けている。一方、「水戸黄門」の場合、役割設定を固定しすぎ、展開のバリエーションが出尽くしてしまった。

そして、この究極のスタイルがタモリの番組に他ならない。タモリはものすごくシンプルでわかりやすい必要条件(ほとんど展開というものがない形式)を用意して視聴者を惹きつけ、そこにゲストを頻繁に入れ替えるとともに、自らもでしゃばらない程度に「適当」に仕切ることで、見事にマンネリズム=ワンパターン図式を打破している。だから、これからも賞味期限切れになることなく、本人が引退しない限り、タモリは延々とテレビに出続けるだろう。(逆に言えば、さんまやワイドショーのパーソナリティ(みのもんた、小倉智昭など)は仕切っているぶん自らの力量が求められ、最終的には2=十分条件がワンパターンになって飽きられてしまう可能性がある。小倉などはその典型だろう)。

でも、こうやってみるとやっぱりタモリの演出はジャズだなあ!

やっぱり、タモリのマンネリズムは偉大なのである。

長寿番組三本を持つタモリ

タモリは二十五年以上続く長寿番組を「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」「ミュージックステーション」と三つも抱えている。そしてこの三つの番組、大して視聴率が浮き沈みすることもなく延々と続いてきた。これら番組に共通することがある。ワンパターン、そして究極のマンネリであること。本来ならマンネリ=ワンパターン化してしまったものは飽きられるはず。ところが、タモリの場合、決してそうはならない。なぜだろう?

僕もタモリが担当するこの番組を開始当初から飽きることもなく、ずっと見続けてきた。というより、飽きるとか、飽きないとかという軸が全くない状態で、ほとんど日常、ほとんど水のように、ただダラダラと見続けてきたのだけれど……。でも、僕のようにタモリの長寿番組にダラダラと付き合ってきた人間は多いのではないか。そして、それこそがタモリの人気の秘密なのではないか。

そこで、今回はタモリの人気の秘密について考えてみたい。ただし、今回の最終的な目的はタモリ個人の人気を明らかにしようとすることにあるのではない。まあ、それもあるが、一番のねらいはタモリが延々と続けるワンパターン=マンネリズムということばの意味についてメディア論的に考えるところにある。そして、そのための典型的な存在としてタモリを分析しようというわけだ。実は「究極のワンパターン=マンネリズムは最もワンパターンでない」という逆説的な結論、そして「ワンパターンこそ最も偉大な作風・芸風」であることを明らかにしていきたい。

アシスタントや脇役が重要な役割を占める

先ずはタモリの芸風をい見てみよう。上記にあげた3番組(そして、これまで担当してきたほとんど全ての番組)はいずれもほぼ同じパターンで構成されている。構成作家やディレクターによる大枠の構成と進行が用意され、その他はほとんどタモリにお任せというやり方だ。ただし、この「お任せ」というのはタモリにひたすら仕切らせるというのとはちょっと違う。多くは横に進行役としてのアシスタントを用意する。たとえば「ミュージックステーション」では女子アナが、「笑っていいとも!」ではテレフォンショッキングのコーナーを除けば、すべて他のタレントが(SMAPメンバー、爆笑問題、関根勤など)、そして「タモリ倶楽部」では週替わりで准レギュラーのタレント(空耳アワーではソラミミスト・安西肇)が、また「タモリのボキャブラ天国」では小島奈津子が、「トリビアの泉」ではこれを高橋克実と八嶋智人が、「ブラタモリ」では久保田由祐佳がその役を担っている。

ただし、この構成は骨太ではあるが、やはり大雑把。枠だけが用意されるというパターンだ。そして、この「ゆる~い」構成の中、タモリもまたゆる~く番組を展開していく。ただし前者は「カチッとしたゆるさ」、つまり大枠だけはしっかりしているという形式、後者は本当にゆるいそれだ。タモリの座右の銘は「適当」で、スローガンも「明日やれることは今日やらない」と、まさにこのゆる~い展開を確信犯として展開していることを臆面もなく言い放っている。実際、番組中もよく休んでいるし、他のタレントから「休むな!」と指摘されることもしばしば(笑福亭鶴瓶がよくこうやってつっこんでいる)。しかし、このゆる~い展開こそが、実はタモリの本領、そしてマンネリズムの極値=キモになっているのだ。

タモリの芸風はジャズの「モード手法」

タモリは早稲田時代ジャズ研に属し、トランペットを担当していたが、仲間から「マイルスのトランペットは泣いているが、オマエのは笑っている」と指摘され演奏者を断念。MCに回ったという経歴を持っている。しかし、タモリをジャズマンとして捉えると、その芸風はむしろくっきりと見えてくる。とりわけ前述のマイルス・デイビスがビバップを基に完成したと言われる「モード手法」(典型的なスタイルは59年のアルバム”Kind of Blue”で聴くことができる)に例えるとよくわかる。ビバップはコード進行やメロディ、ハーモニー、リズムに合わせて各パートがアドリブを展開するのだけれど、こうすると結局のところリこれらに拘束されて自由な表現ができない。そこでこれらをある程度無視して自由に演奏するというスタイルが採られた。これがモード手法だ。

ただしそうした場合、もし全員がコードなどの規則を無視して演奏したらこれはメチャクチャになる(モード手法の後に現れたフリージャズがこれに該当する)。だから、自由に演奏できるのは原則的にはソロパートを取っているときで、それ以外はコードやリズムをキープする必要がある。

タモリのやり方はまさにモード手法と呼ぶのがふさわしい。アシスタントにリズムやコードキープ、つまり進行を任せ、自らはソロイストとして自由にアドリブを展開する。しかも、しばしばこれらは無視だ。だがアシスタントがキープし続けるので自由にアドリブが展開できる。

ただし、ここで面白いのはタモリは必ずしもソロをやりっ放しというわけではないところだ。つまり、時にはバックに回ってコードやリズムをキープし、アシスタントやゲストにソロを取らせる。これがタモリが「休んでいる」時なのだ(実際全く何もしていない=演奏していないで時間が進行することもしばしばある)。だが、こうすることでジャズのインタープレイ(ソロを交互に取り合う)と行ったスタイルが出来上がる。

で、こうすると面白いことが起こる。要するにタモリはジャズバンドのリーダーとしての役割を担うが、ユニットを組んだ他のメンバーに自由にやらせることもできるわけで、その結果、メンバーを入れ替えることで同じワンパターン=形式でありながら、相手のパーソナリティも生かし、無限にパターンを創り出すことが可能になってしまうのだ。

しかも、それぞれのアドリブを展開する場面を用意するだけではない。時にはアドリブに関しては素人的な存在まで無理矢理ソロを取らせ、その能力=パーソナリティを開花させてしまうという離れ業もやってみせる。たとえはNHK「テレビファソラシド」では、ベタにNHK的な女子アナの大御所・加賀美幸子アナに、「ボキャブラ天国」では小島奈津子アナにツッコミを入れ、アドリブを取らせてしまった。そこに、観客=視聴者たちは新しい意味=面白さを発見するのだ。

フリーな側面も

また、そのアドリブはモード手法にあったスタイルとも少し違っていて、ややもするとフリージャズ的な側面もある。モード手法の場合、ソロパートの順番はだいたい決まっている。たとえば60年代当時(“Kind of Blue”は59年)のマイルス黄金期のクインテットだったらトランペット(マイルス)→テナー(W.ショーター)→ピアノ(H.ハンコック)→ベース(R.カーター)→ドラムス(T.ウイリアムズ)→トランペットという順番。ソロを取っていないとき、各パートはバックでコードとリズムを刻み続ける。ところが、タモリの場合は相手がソロを取っているときに介入し、その場でインタープレイを展開する。つまり、つまり相手がトピック=アドリブをすると、これにヒントを得て、今度はそれに関連するトピック=アドリブを語り出す。そして、同じトピックのコントラストがそこで生まれるのだ。 

ひたすら「適当」

ただし、この仕切り方もまた「適当」。こういった掛け合いをするとき、一般のパーソナリティ(たとえばみのもんた、明石家さんま、小倉智昭)などとは異なり、決して相手の話をまとめて「場を締める」ということをやらない。相手のアドリブに対してタモリはその変奏をやってみせるだけなのだ。だから、二人は主題こそ同じだが全く別の話をする。その結果、相手との対話において自らがイニシアチブを取りながら仕切ることをしていない。言い換えれば無理矢理まとめに持っていくことは絶対にしない。しかも、話は唐突に終わる。だから、仕切りが「適当」なのだ。だがこの時、場はタモリ色に染まる。相手に適当に喋らせ、それに対して自分も適当に答える。場はリラックスしたムードに包まれ、それがさらに次の話=アドリブをインスパイアーしていく。そして、このムードが視聴者側にも伝染する。見ている内に、だんだんこの「ゆるゆる」「ダラダラ」ムードのパターンへの中毒症状が現れるのだ。

こういった「適当」な、無責任と言ってもいいほどの「仕切っているようで仕切っていない、仕切っていないようで仕切っている」というタモリ風演出(つかみどころがないゆえ爬虫類=イグアナということになるのだろうか?)が、今回取り上げた三つの長寿番組(そして全てのタモリの番組)に共通しているワンパターン、マンネリズムの魅力なのだ。そして、このマンネリズム、実は長寿番組と呼ばれる全てに共通している。じゃあ、それは何か?次回はこの構造についてみてみたい。この時、われわれが魅力を感じているのは、実は番組の内容=コンテンツではなく形式=フォルム=メディア性なのだ。(続く)

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