勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:映画レビュー


(※注意:最初にお断り。本稿はネタバレ満載です。しかもオイシイところが。なので、映画を見終わった方にお奨めします。)

エイブラムス版スターウォーズは合格!

スターウォーズⅦ/フォースの覚醒が予想通りというか、爆発的な勢いで観客を確保している(日本では同時期の妖怪ウォッチに観客数で敗北するという、笑わせる事態もあったが)。今回の作品では生みの親のG.ルーカスは関与していない(ルーカスは自らを「私は離婚した父( ”I am a divorced father”)」と称し、「離婚した父親は元妻に連れて行かれた子供の結婚式には出ない」といって、今回の一連のイベントにプレミアを除き参加していない)。代わってメガホンを握ったのがM:i:Ⅱやスタートレックの製作、監督で知られるJ.J.エイブラムス。40年近い歴史があり、熱狂的なファンを抱えるスターウォーズシリーズを担当することは大変だ。なんのことはない、どうやっても批判の的になるからだ。マニアたちはスターウォーズの世界を熟知している。ちょっとでも話がそこから逸脱すれば、それこそクレーマーのように非難の嵐を起こす。

しかし、今回のエイブラムスのスターウォーズ。僕は合格とみた。それは過去を踏まえつつ未来を見ることを強く意識していたからだ。それぞれについて見ていこう。

過去をどう踏襲するか

まず過去を踏まえる、あるいはスターウォーズの世界をリスペクトするという点について。本シリーズを熟知しているのであれば言うまでもないことだが、このシリーズはエピソードⅣ(77)から始まり、Ⅴ(80)、Ⅵ(83)と続き、その後16年を経てⅠ(1999)、Ⅱ(2002)、Ⅲ(2005)が製作された。当初はⅣしか作られる計画がなかったのだが、大ヒットを遂げた結果、続編が作られ、さらにその後もファンの強い熱望によってⅣの前編が製作された。当然、物語の歴史としては遡るが、製作としては後発となったⅠ~Ⅲについては、膨大な情報と辻褄合わせが作品の中心的な作業となり、少々窮屈な感は否めなかった。

だが本作については、こういった「辻褄」面での縛りは少ない。新たなトリロジーのための種をまくことがむしろ中心の作業になる。だがエイブラムスは、しっかりとシリーズの遺産を踏襲し、なおかつリスペクトまでしている。そういった側面はたとえば物語上のいくつかの設定の中でもしっかりと見て取ることが出来る。ここでは、その典型なシーンとしてハン・ソロが死ぬ場面を取り上げてみよう。

ハン・ソロは海賊、一匹狼のならず者だ。そして無敵。だから戦いで敗れるという状況を設定することは難しい。ただし、弱点も持っている。そして、それがソロの最も魅力的な部分なのだが。それば人間くささ、情にもろいというところ。木枯らし紋次郎、ブラックジャックと同じで「関わりがない」と言いながら、最終的には情にほだされて関わってしまう。エイブラムスはこの性格をしっかりと踏まえソロを葬っている。というのもソロは戦わずして殺されてしまうからだ。
ソロを殺害する相手は、何とソロの息子、カイロ・レンだ。レンはレイアとの間にもうけた息子ゆえ、当然フォースを備えている。ただしフォースの闇に落ち、帝国軍が再建したファースト・オーダーに加わり、亡きダースベイダーを慕っている。する必要もないマスクをつけ、あたかもダースべーダーを気取り、フォースの闇の力をもって銀河系を最高指導者スノークの下で支配しようとしているのだ。これにソロは待ったをかける。

ソロが行ったのは戦わず、丸腰に近い状態(レンはライトセーバーを持っている)で、レンに「やり直そう」と説得するという行為。それによってレンは涙を流すが、次の瞬間、レンはライトセーバーでソロの体を貫いてしまうのだ。デッキから奈落へと落ちていくソロ……。

まさに、情にほだされた挙げ句、命を失うわけで。やはりこういったかたちで命を落とす以外にはソロが殺されるというパターンはあり得ない。エイブラムスはリスペクトをもってソロに最高の最後の場面を用意したと言っていいだろう。

エピソードⅤとⅦにおけるクライマックスの相同性

そして、この親子が対峙するシーンはエピソードⅤ「帝国の逆襲」のクライマックスとほとんど同じ風景、そして設定も同じものになっている。「帝国の逆襲」のクライマックスはルークとダースベイダーの一騎打ちのシーンだ。ここでルークはダースべーダーに腕を切り落とされ、事実上の敗北となる。ところがベイダーはルークへとどめを刺さず、帝国軍に加わって自分と銀河系の支配をしようと説得する。そして、その理由がわからずルークがベイダーに問い詰めた時、ダースベイダーは、このシリーズの中で二番目に有名な台詞を吐くのだ。つまり”I am your father.”(一番有名なのは、もちろん”May the force be with you”)。そのことを認めることの出来ないルークは自らデッキから奈落へと落ちていく。

そう、2つはまったく同じシーン。そして父と子の確執の末、息子が父を拒絶するという構図になっているのだ。ただし、ルークはジェダイであることを譲らないために、レンはフォースの闇の存在であることを譲らないために。つまりダースベイダー=ハンソロ、ルーク=レン。ただし、立ち位置が全く逆。これはお見事!


未来に向けての種まき

ソロの死は、これまでのスターウォーズシリーズでばらまかれた様々な要素の在庫一掃を象徴的に現している。こうすれば、もはやソロにまつわる過去の話は全て精算される。その一方でソロの背後にある様々な設定はそのまま継承可能となる。ミレニアム・ファルコン号、チューバッカ、R2-D2、C-3P0、そしてルークとレイアは温存されているのだ。恐らく今後、旧シリーズの人物キャラクターは何らかのかたちで順番に映像から姿を消していくだろう(ルーク→レイアの順あたりか?)。

こうやって過去の清算は着々と済まされていった。ただし、今度は未来に向けての種まきをしなければならない。スターウォーズ・シリーズは第一作からすでに38年が経過している(僕は現在55歳だが、最初の映画を見たのは高校生の時だ)。当然、配役、そして観客双方の世代交代が行われなければ、このシリーズは維持されない。だから、新しい種まきをしなければならない。それが女性キャラクター、レイだ。

映画のタイトル「フォースの覚醒」からもわかるように、本作はレイがフォースの能力に目覚めるまでを描いている。そしてサブストーリーは「親さがし」だ。フォースの能力を備えるものは、当然、親もまたフォースを備えていなければならない。それゆえフォースに目覚めることは、親が誰なのかを同定するヒントが与えられると言うことでもある。レイのフォースへの目覚めはカイロ・レンとの戦いの中で生まれる。レンがフォースの力を使って人間を思うがままに操作する(たとえばフォースの力によって、反乱軍のパイロット、ポー・ダメロンにルークの居場所を示すMAPのありか(BB8の中)を喋らされたがその典型)。レンは同じようにレイに向かってフォースの力で襲う。だが、窮地に追い込まれたレイは、逆にそこで自らのフォースを発揮してしまう。こうやってレイはフォースに目覚める。

だが、ご存じのようにフォースは扱うのが難しい。場合によってはフォースの闇に落ちてしまう。その典型がダースベイダーことアナキン・スカウォーカーであり、カイロ・レンなのだ。レンが闇に落ちていることは、事がうまく運ばない時にライトセーバーを振り回したり、フォースを乱用して周辺のものを片っ端から破壊するといった行為によって表現されている。一方、レイは正当なジェダイ・マスターへの道を歩むことを予感させるふるまいを見せる。レンとレイの戦いで、レンは感情にまかせてセーバーを振り回し続けるが、レイは窮地に立たされると却って冷静になり、感情を押し殺した状態でレンに対峙、そして勝利する。スターウォーズの第一作が公開された時、フォースは字幕では「理力」と訳されていた。これ自体はイケてはいないので、その後「フォース」ということになったのだが、この「珍訳」は理性的にフォースを操作しなければジェダイマスターになることはできないゆえのものだったのだろう。レンとレイのコントラストは、明らかに新しいトリロジーの未来を垣間見せている。

さて、それではレイとは何者か?エピソードⅦでは遂に明かされることはなかったが、フォースを使うのだから、これは恐らく要するにソロとレイアの間に設けられたもう一人の子供ということになるのだろうか。名前も「レイア」から「ア」を省いただけの「レイ」だし(笑)(そういえば「レン」というのも「レイア」の「レ」と「ハン・ソロ」の「ン」を合わせただけってことか?)。そうだとすれば、この映画は兄妹対決ということになるのだが、この辺は続編がどうなるかを期待したい。(カイロ・レンが生きていればの話だが。第2デススター?が破壊される寸前にスノークが瀕死のレンを救出して、晴れてマスクを付けないと生きていけない存在、つまりダースベイダーになるなんてシナリオがあったりするかもしれないが。ま、これじゃⅢの「シスの復讐」とまったく同じになってしまうが……)。

女性を軸とした物語展開

レイをソロに変えてこのシリーズの中心に据えることは、作品の新しい種まきとしてきわめて重要だ。これまでのスターウォーズシリーズは結局のところ男性中心の物語だった。レイアが男勝りであると言っても、それはあくまで「男勝り」。結局はソロやルーク、アナキンといった男性が中心に作品は展開されてきた(レイアは黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』に登場する男勝りのお姫様・雪姫がモデル)。ところが、今回のトリロジーは違う。レイは完全な主役だ。

さて、ソロの死はイコール、ファルコン号の船長を交代を意味している。今回のヒロイン・レイだ。それはラストシーンでチューバッカとファルコン号を操作していることで明確に示されている(先頃、ディズニーのD23のイベントで、アメリカの2つのディズニーランドでスターウォーズのテーマランドが建設されることが発表されたが(建設は2017年から)、その際登場したエイブラムスは「ファルコン号はライトセーバーより重要」とコメントしている)。レイはジェダイ・マスターとソロを兼ね備えたキャラクターとして、以降のシリーズを支配することになるのだろう。フィンやポーはその脇役ということになる(つまりヤッターマンのドロンジョ様とボヤッキー、トンヅラー?)。こうすることで役者はかつての三人ソロ、ルーク、レイアのキャラクターを踏襲しつつも総入れ替えということになる。

親が子へと伝えてきたスターウォーズの物語。若者や子供たちはもう、話を親から聞く必要はない。新しく映画を見ればよいのだ。そして、それは彼らのためのスターウォーズとなるのだ。もちろん、旧世代も目を細くしながらこれを眺めるのだけれど。そして、こういったファミリーエンターテイメントを膨大な費用を使って展開していいるのが、今やスターウォーズのオーナーであるディズニーなのだ(だんだんディズニーが帝国軍に思えてきたが(笑))。

エピソードⅣのリセット、そして未来へ

最後に、この作品が明らかに第一作・エピソードⅣ「新たなる希望」のリメイク的な色彩を帯びていることはスターウォーズを見てきたものなら誰でも分かるだろう。第2デススターは登場するわ、惑星がやられるか第2デススターがやられるかというったクライマックスが登場するわ、前述したレイがフォースに目覚めるわ(これはⅣでルークが目覚めるのと同じ)。R2-D2はBB-8に進化するわ(これはテクノロジーの進歩も影響しているだろう。BB-8はきわめて愛らしい仕草を見せ続ける)。恐らく次回はレイの家族構成とルークの隠遁生活、そしてレンが闇に落ちたことの理由が明かされるということになるのだろうか。

スターウォーズはルーカスの下を離れ、新しい世界へと旅だった。つまり「フォースの覚醒」はシリーズの「新たなる希望」だったのだ。


原題とは違う邦題

ディズニーが配給し、現在はディズニーの一部となったピクサー映画。その邦題、つまり日本語タイトルについてずっと気になっていたことがある。そして、今回のピクサーの新作『インサイドヘッド』もまた、この「気になっていること」が露呈したことになったのだが。

最近のピクサー映画、そしてピクサーがディズニーに買収されて、ピクサーのヘッドであったJ.ラセターがウオルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズのチーフ・クリエイティブ・オフィサーとなってからの作品群(長編)のうち、邦題が原題とは変更されたものをあげてみよう。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
『塔の上のラプンツェル』→Tangled
『メリダとおそろしの森』→Brave
『アナと雪の女王』☆→Frozen
『ベイマックス』☆→Big Hero 6
『インサイドヘッド』→Inside Out

                ※☆はディズニー作品

邦題は「の」ばっかり

ラセターが短いタイトルを好むのがよくわかる。そして毎回、この短いタイトルの中に映画のメッセージを凝縮させて詰め込むという芸当をやっている。つまり、タイトルに作品のメッセージの本質がしっかり込められているのだが、なぜかこれが日本版となると完全に骨抜きになり、突然「お子様向け」映画に映るようになってしまう。ちなみにタイトルが原題と変更させられたこれら9作品(2004年以降)のうち、なんと6作に共通する文字がある。それは「の」だ。『レミー「の」おいしいレストラン』『カールじいさん「の」空飛ぶ家』『プリンセスと魔法「の」キス』『塔「の」上「の」ラプンツェル』『メリダとおそろし「の」森』『アナと雪「の」女王』。僕はこれ、どうみてもジブリ映画の悪影響じゃないかと踏んでいる(笑)(ジブリ映画は「~の」というタイトルだらけだ。ちなみにラセターはジブリ作品のいくつかにエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している)。


原題のメッセージとは

そこで、今回はピクサーを中心とするラセター作品群の本質をタイトルから紹介してみたい。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
”The Incredibles”だからそのまま訳せば「インクレディブル一家」となる。この作品はMr.インクレディブル=ロバート・パーが主人公ではなく、一家が力を合わせてインクレディブルをトラウマとしてこれを倒そうとするシンドロームを撃退する。だからファミリードラマなのだ。

『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
ラタトゥイユはフランスの田舎料理。そして刑務所などの、いわゆる「臭い飯」の意味もある。本作ではドブネズミという衛生上はきわめて好ましくない生き物だが料理好きのレミーが才能のない見習い料理人リングイニ(実は天才シェフ・グストーの息子)と協力して最高のラタトゥイユを作る。タイトルには田舎料理やネズミであっても天才の息子であっても本質は変わらない。料理のジャンル、ネズミや天才シェフという形式ではなく、内容こそが重要という意味が込められている。

『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
亡き妻・エリーとの思い出の詰まった家の立ち退きを強いられ、カールは家に風船を付けてエリーとの約束である南米のパラダイスフォールへ向かう。つまり家をUpさせるわけなのだが、事の本質、つまりupの本当の意味はカールがエリーとの過去の思い出の中に浸っているのではなく、次の冒険に旅立っていくことにある。そして、その旅とはパラダイスフォールへ向かうことではなく、日常をラッセルというたまたま知り合ったアジア系の子どもと楽しく過ごすところに求められる。それはエリーとの日常が冒険であったように。つまり、ここではカールの人生、日常、そして冒険の意味がup、より厳密に表現すればアップデートされる。(詳細については本ブログ「『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析する」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61239970.htmlを参照)

『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
本作ではプリンセスでない普通の貧乏な黒人ティアナが主人公。彼女は魔法でカエルに変えられてしまうが、それによってプリンセスの本当の意味、成功の本当の意味、パートナーの本当の意味を知る。タイトルは「プリンセス」(夢)と「カエル」(現実)が見かけでしかないこと。二つが同じレベルにあること。これを、両極端の存在である二つ(プリンセスとカエル)をコントラストとして提示することで示している。

『塔の上のラプンツェル』→Tangled
tangledとは「こんがらがって」という意味。ラプンツェルは髪の毛が長いことによって、自らの人生が「こんがらがって」しまっている。ニセの母、ニセの言いつけ。だが夢を持ち続け、それを最終的に長い髪の毛を切り落とすことによって実現する。つまりこんがらがりをほどく。

『メリダとおそろしの森』→Brave
メリダは男勝りのじゃじゃ馬娘。とにかく元気で勇敢、つまりbrave=勇者、勇敢な存在。ただし、その元気さは無鉄砲の元気さ。言い換えれば「野蛮」でもある。ところが自らの野蛮さが招いた母がクマに変貌させられてしまう事態を契機に愛他心とは何かを自覚し、Braveは本当のものとなっていく。つまり、この作品のタイトルは「勇敢とはどういうことを意味するのか」

『アナと雪の女王』(☆)→Frozen
Frozenとは「凍てついた」という意味。北欧の街アレンテールはエルサのコントロールの効かない魔法によって凍てついてしまうが、こちらはやはり形式。本当に凍てついているのは自分の殻に閉じこもっているエルサの心性、そしてプリンセス物語を本当と思い込んでいる、つまりこの物語に凍てついているアナの心性。この二つが愛他心を獲得することで解凍されていくのがこの物語の展開。ちなみにオラフは雪の精だが、夏を愛するという犠牲心、そして愛他心のメタファーで、frozenの逆のmelt=溶けることが最高の幸せと考えている。

『ベイマックス』→Big Hero 6
これもThe Incredibesと同じく、六人のヒーローが力を合わせて敵を倒していくという物語。実は決してヒロとベイマックス二人の話ではない。どちらかというとイメージすべきなのは『アベンジャーズ』だ。


『インサイドヘッド』→"Inside Out"の本当の意味

そして、今回の作品『インサイドヘッド』だ。
この意味は「インサイド=内側」「ヘッド=頭」、つまり頭の内側を意味しているのは明らか。ただし、英語では普通”inside head”という表現はしない。二つの単語の間に前置詞を入れて”inside of the head”とかになるはずだ。だから、これは日本語英語と判断してよいのではないか。まあ、それはよいとして、この邦題の理解からすれば「頭の内側で起こっていること」となる。実際、登場する11歳の子ども・ライリーの頭の中の「ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリ」五つの感情が、この作品を展開するキャラクターとなる。
だが原題”Inside Out”は似たような音だが全く意味が異なっている。これは熟語で「ひっくり返し、裏返し、裏表」。そして、この作品もこの裏表が重要なテーマとなっている。

この裏表は三つある。
一つは、最もわかりやすい表=ライリーという人物、裏=ライリーの感情を司る五つのキャラというinside out=裏表。これはとりあえず『インサイドヘッド』という訳でも一応理解は可能だ。

二つ目は、大きなテーマである、これらの感情がどのように機能しているのかについてのinside out=裏表。ヨロコビはとにかくライリーを喜ばせることに夢中だ。そしてそれが正しいことと信じて止まない。ところがただ喜ばせようといろいろやっただけではライリーの心は動かない。動かすためには怒らせたり、ビビらせたりすることも必要。そして最も重要なのが悲しむこと。ヨロコビが作る記憶は輝くボール、一方カナシミが作る記憶は青のボール。輝くボールにカナシミが触れるとボールの色は青色に変わる。ヨロコビはそれをさせないようカナシミにボールに触れることを禁じるが、結果としてこのボールにカナシミが触れ色が青に変わることで、輝くボールはいっそう輝くことになる。その結果、大切な記憶は喜びや悲しみ、怒り、むかつき、ビビりと表裏一体になっていることにヨロコビは気づくようになる。つまり喜びは悲しみのひっくり返し。表裏一体、感情の裏表なのだ。

ライリーの主体は誰か?

そして三つ目。これはきわめて哲学的な命題だ。気づきにくいテーマでもある。それは「この映画の主体は誰か?」という問題についてのinside out=裏表だ。

作品の中でヨロコビはライリーを喜ばせようといろいろと感情を起動させる装置をいじる。そして他の感情を管理している。ところがカナシミは時にヨロコビの言いつけに反するように、触ってはいけないというボールや装置に触れてしまう。そして、その理由をカナシミ自身が説明できない(このへんのイライラする、うざったいキャラクターの声を大竹しのぶが絶妙の吹き替えで展開している)。

なぜカナシミはヨロコビの意に反して、そして自らの意にも反してこういった行動をとってしまうのか?

それは、この五つの感情があくまでもライリーの感情であるからだ。しかしながらヨロコビはそのことに気づいていない「ライリーを喜ばせることはよいこと」という立ち位置に基づいて、そのことの是非を振り返ることもなく、これを推進していく。この時、ライリーの主体はライリー自身ではなくヨロコビという感情になってしまう。これは感情と理性という二元論を設定し、その二つの合力で主体の意志が決定するという前提を是とするならば「感情の赴くままに行動する」という危険な行為になるのだ。このままではライリーは単なる快楽主義を求める存在でしかない。

だから、時にカナシミが自分の意志ではわからないようなことをやってしまうのは、要するにライリーという主体が無意識のうちに意志を持ってカナシミをコントロールしてしまうから。そしてこの五つがライリーの感情であるとするならば、こういった感情の運用の仕方(され方)こそが子どもの、そして人間の成長、振る舞いにとっては最も健全で正しいものとなる。いいかえれば、ライリーの感情の中で最も誤っている行動をとっているのが、実はヨロコビなのだ(ヨロコビが正しいと思っていたとしたら、あなたの認識も同様にinside out されている。竹内結子の元気いっぱいの吹き替えに(これまた絶妙だが)ダマされてはいけない(笑))。そして、映画の最後、そのことをヨロコビは理解する。

そう、この作品の三つ目のinside outとは、この映画が五つの感情が主体と思わせておいて、結局のところ、実はライリーの側にあるというひっくり返しなのだ。そしてそのひっくり返しもまた真。つまり主体の意志にとって理性と感情は表裏一体、つねにinside outされつづけるものとして存在しているのだ。

というわけで、今回もまた邦題によって原題が隠蔽されることで、作品のメッセージが読み取れなくなっている。

ラセター印の作品のメッセージを読み取りたければ、先ず原題のタイトル分析から入ってみるのをオススメしたい。

※ちなみに、今回映画のはじめに監督のピート・ドクターによる日本人向けの解説が入っているのだけれど、なんとこの時、ドクターは作品のことを「インサイドヘッド」と読んでいる。う~む、商魂たくましい!

メチャクチャよく出来ているが……引っかかる!

やっとのことで、遅まきながらディズニーアニメ映画『ベイマックス』を見てきた。現在Yahoo!の映画欄でレビュー評価は4.3と高得点、興行ランキングも第一位。つまり質量ともに高く評価されているわけで、当然期待しつつ出かけたのだけれど……確かに、すばらしい出来だった。徹底的に練った脚本、キャラクター設定の妙、いわば「スーパー戦隊もの」として息もつかせぬ畳みかける展開、それでいてディズニーのファミリー・エンターテインメントのイデオロギーをしっかり踏襲し、さらに最後には泣かせるシーンまで。いやいや、それだけではない。グローバルなビジネス展開を見据えて”サンフランソウキョウ”というサンフランシスコと東京をゴッチャにした街を舞台にする周到さ、そして兄弟愛(ヒロとベイマックスの関係は、死んだヒロの兄・タダシとヒロの関係のメタファー)、仲間との友情……とにかくこれでもかと情報を詰め込み、これをキレイに並べて一本のストーリーとして展開しきってしまうところは、もう見事という他はない。

ただし、である。ちょっと僕は「引っかかって」しまったのだ。そして、これはPixar→ディズニーというJ.ラセター的世界に共通する「引っかかり」なのだが(とりわけ、最近ますます「引っかかって」いる)。で、今回はその完成度が高いだけに、余計「引っかかって」しまったのだけれど。ちなみに僕の『ベイマックス』のレビュー評価は★四つだ。これだけきっちり手をかけて作られているのに★五つとしないのは、まさにこの「引っかかり」にある。今回は、この「引っかかり」をテーマに『ベイマックス』、そしてディズニー=Pixar=ラセターの手法と未来を考えてみたい。

『ベイマックス』を絶賛し、ジブリに引導を渡したブログ

映画を見に行く前「『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った」(http://anond.hatelabo.jp/20150104012559)というブログを読んだ。これは日本のアニメがなぜダメになって、ディズニーがスゴイことになっているのかを論じたものなのだけれど、要約すると日本は「作家主義」つまり宮崎駿、庵野秀明、細田守というカリスマ=天才が中心となって作品を作るが、これだと当たり外れが出てしまう。一方、『ベイマックス』は「チーム主義で「どうやったら面白いか」をみんなで必死に考え、ダメな部分を補強していく」。つまり天才VS秀才の対決図式の展開なんだけれど、ディズニーの場合は、秀才が寄ってたかって短所を埋めることで結果として良質の作品に仕上がっている、その象徴とも言える存在が『ベイマックス』なのだという主張だった(日本は作家主義で、作家たちがジジイになって才能が枯渇したからダメになったということなのかな?)。

この議論それ自体に、異論は無い。冒頭に記したように、ディズニーの場合、確かに、とにかく映画を作ることについては、事細かな配慮を徹底的に行い、全くもってソツが無いのだから。いや~、これについては呆れるほど、スゴイ!

しかし、しかし、である。やっぱり、ひっかかる。

『ベイマックス』から思いついた二つのエピソード

僕は『ベイマックス』を見ながら二つのことを、ふと思い出した。
一つはウイントン・マルサリスというジャズ・ミュージシャンの存在だ。ジャズ好きならこのトランペッターを知らない人はいないだろう。現在53才だが、18才で音楽の殿堂・ジュリアード音楽院へ入学するとともにジャズのメインストリームにのしあがり、23才でジャズ、クラッシック両部門でグラミー賞を獲得。97年にはピューリッツァー賞の音楽部門賞も獲得と、とにかくスゴイ人物だ。演奏は完璧そのもの。ものすごく正確な音を出すし、表現も豊かなのだけれど……にもかかわらず、古くからのジャズ・ファンには結構評判が悪い。なぜって?まるでサイボーグみたいだからだ。ジャズ好きはトランペッターだったらチェット・ベイカーやリー・モーガン、ルイ・アームストロング、サキソフォン奏者ならエリック・ドルフィーやジョン・コルトレーン、ベーシストならチャールズ・ミンガス、ジャコ・パストリアスといった、ちょっとイカれた「妖しい」連中を好むのだけれど、マルサリスにはこの「妖しさ」がまったくといってよいほどない。マルサリスはひたすらパーフェクトなのだ。それは、なんと「感情の表現」に至るまで……。

もう一つは70年代前半に少年漫画雑誌に掲載されたプロ野球漫画。作者もタイトルも忘れてしまったが、ストーリーはこんな感じだった。

2000年、ジャイアンツは長嶋監督の下、相変わらずプロ野球界の盟主としての地位を確保していた。ただし、その人気を維持する重要な役割を果たしているのは人気者のエースの存在があったから。このエース、なんとロボットなのだ。このロボット(ベタにメカニカルなロボットが描かれていた)、スゴイ球を投げると言うより、キチッと勝利するようにプログラムされているのだけれど、人気の秘密はそれとは別のところにあった。結構、失敗をやらかすのだ。そして、その失敗のおかげで、客たちには「人間味がある」と、人気を博することになる。もちろん、この失敗も人気を獲得するためにプログラムされたものなのだ。だが、監督・長島の胸中は複雑だ。何もしなくてもこのロボットが試合を成立させ、なおかつお客を楽しませてくれる。で、ジャイアンツもプロ野球も安泰で文句なしのはずなんだけれど……長嶋はふとつぶやくのだった「これって、はたして野球なんだろうか?」

秀才サイボーグによる作品作り

僕が『ベイマックス』に象徴されるラセターの作風、いいかえればディズニーによるPixar吸収後のディズニーアニメの作風に感じてしまうのは、上の二つのエピソードに感じるものと共通する。以前、現代思想哲学者の東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の中で、ギャルゲーの特質を「ウェル・メイド」という言葉で表現した。ギャルゲーにおいては、程良く萌えて、程良く泣けるといったふうに、感情を消費できるデータベース消費が可能になるというのが東の主張だった。これは言い換えると、僕らが何に感動し、怒り、どういった映像やサウンドを好み、誰とどういったシチュエーションで作品を見るのかなどを全て計算し尽くし、それらを満遍なく処理し、作品というパッケージ=システムに作り上げ、僕らを楽しませることを意味する。

ラセターがやっているのは、まさにそう言うことなのでは?しかも東がイメージしたものよりも遙かに精緻な形で。脚本家20人にチームとして脚本を徹底的に練らせて、短所を修正、不足部分を全て補填し、さらに、それらがわざとらしくないように、いわば「ツルツル」になるまで展開に磨きをかけていく。そうやって出来上がった作品は「ウエル・メイド」どころか「スーパー・ウエル・メイド」とでも呼ぶべきもの。観客である僕らは徹底的に研究し尽くされ、そこから誰もが感動させられ、笑い、泣き、そして時には怒る。なんのことはない、これは恐ろしいまでのマーケティングの手法なのだ。そして、前述したように研究し尽くした結果。つまり、もはや観客たちはディズニー=Pixar=ラセターたち完全に舐められているのだ。

チーム主義の落とし穴

ただし、である。この「チーム主義」には重大な落とし穴がある。それは、これが前述したように、いわば「秀才集団によって人間の心理をマーケティングした結果、アウトプットされたデータ」でしかないことだ。出来上がった作品は、いわば「精緻なモザイク」「膨大な数のピースから成るジグソーパズル」。観客たちはこの膨大なデータベースの中に身を投げることでイリンクス=めまいを感じ、そこに一つの快楽を見いだすのだけれど……所詮はモザイク、ジグソーパズルでしかない。ということは、これを脱構築、つまりどんどん分析、分解していけば、結局、後は何も残らないという「水」のようなサラサラした構造が露呈する。僕が最近のラセター作品に感じるのが、実はこれだ。なんのことはない、最終的に分解可能なのだ。ということは、映画を批評する行為が「批評」と言うより「解体処理」みたいな作業になってしまう。で、それは……「アート」という視点からすれば、きわめて遠い存在。むしろ、それは「工場で生産される商品」なのだ。当然、そこには「妖しさ」は微塵も感じられない(ちなみにラセターの作品全てがそうだと言っているわけでは無い)。要するに、これが『ベイマックス』に感じた僕の「ひっかかり」なのだ。この、いわば「引っかかりの無いことへのひっかかり」は、作品を見終えた直後に感じることができる。見ている最中は感情が揺り動かされるのだけれど、終わった後は全く後を引かない。後味スッキリ、余韻が全くないのだ。そして、この作品、新しい側面が全然見えないのである。秀才は整理できるけれど、新しいものを生成することは出来ない?

恐らく、これこそがラセター的=秀才集団的=マーケティング的手法なのだろう。そこには当然、かつての宮崎駿が放っていた「妖しさ」は感じられない。僕らは『未来少年コナン』『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』といった宮崎の初期の作品(晩年のものは全くダメ)になぜか思い入れがあり、思わず何度も見てしまうが、それは天才の持つ「妖しさ」、いいかえれば分析不可能で異様な「ドキッとする」オーラに、僕たちがひたすら見入り続けている(洗脳され続けている?)からに他ならない。1月16日、『カリオストロの城』が日テレで放送された。本作が14回目の再放送にもかかわらず14.5%もの視聴率を上げたのは「何をか言わんや」だろう。

ラセター的秀才集団手法にも、未来はあるかも?

ただし、ただし、である。ラセター的手法でも時にオモシロイものを見いだすこともある。それが昨年の『アナと雪の女王』だ。僕のこの作品の評価は、まあ三つ星程度。この作品、登場人物の描かれ方が全くもっておかしいし(ハンス王子などは統合失調症じゃないかと思えるほど、立場がコロコロ変わる。アナがなんであそこまで姉思いになるのかについては全くもって根拠がない)、ストーリーはきわめて不自然だ(ストーリーのみなら星一つか二つくらいしかあげられない)。これは秀才集団が作品に必要な情報を、それぞれがどんどん盛り込み、短所をどんどん潰していった結果、情報量が過多になってしまい、ストーリーが破綻してしまったからに他ならない。つまり秀才集団はとにかく「処理する」ことに長けてはいるが、全体を統合することについてはダメなのだ。だって、ビジョンがないんだから。だから、あの作品は笑えるくらい荒唐無稽でぶっ壊れている。

ただし、ただし、ただし、である。天邪鬼なのか、こういった破綻をむしろ僕は面白く見てしまった。というのも、そこには新しいアイデアが盛り込まれてもいたからだ(作った本人たちもわかっていないんだろうけれど)。しかし、まとめ上げることは出来なかった。こっちの方が「妖しさ」という点では上だ。そして、『アナ雪』のいちばんの妖しさは、言うまでもなく音楽だった。あの音楽の強烈さ(そして日本人声優のチョイスの絶妙さ)は、単なるマーケティングでは予測不可能なものだったろう。だから、僕は『ベイマックス』より遙かにレベルの低い『アナ雪』の方に、むしろ未来を見てしまうのだけれど。

ラセターがディズニーアニメに新しい方法論を入れようとしているのはよくわかる。ただし既存のものを加えるというやり方で。ディズニーに戻り最初に手がけた作品『BOLT』は『トゥルーマン・ショー』の『ベイマックス』は日本の「スーパー戦隊シリーズ」の、そしてPixarの次回作『インサイド・ヘッド』は『マルコヴィッチの穴』あたりの手法をパクったものだろう。それ自体をとやかく言うつもりは毛頭無いのだけれど、それが「妖しいもの」になるかどうかは未知数だ。

さて、ラセター的ディズニー世界。これからどっちの方向に向かうのやら?

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映画「エスケイプ・フロム・トゥモロー」の日本版ポスター。ミッキーの指が5本になっているところにご注目。



7月19日、ディズニー側に許可を得ることなくゲリラ撮影によって制作されたブラック・ファンタジー「エスケイプ・フロム・トゥモロー」が公開された。とにかくウリは「無許可」「ゲリラ撮影」であるということ。つまりディズニーという権威を勝手に借用していること、それから色彩豊かなディズニーの世界をあえてモノクロで撮影しおどろおどろしい空間にパークを変貌させていること、さらにディズニーが最も否定するセックスとバイオレンス、さらにはグロテスクな世界までもがパーク内で展開されることなのだが、こうなると第一印象は、どうみても「キワモノ」ということになる。

実際、プロモーションをする側も、とりあえずこういった「無許可」「アングラ」的なイメージで本作品を紹介しているのだが……意外や意外、この映画、かなりアカデミックで映画マニアを唸らせる側面を備えている。

「想像」を巡りディズニーと主人公・ジムが対決

あらすじはこうだ。
妻と娘息子、4人家族揃ってディズニーワールドにやって来た主人公のジムは、これからパークを楽しもうとする矢先、勤務先であるシーメンスからクビを言い渡されてしまう。しかし、バケーションはバケーション。それはそれとして遂行されなければならない。ヤケクソになったジムは、ここで一般とは全く異なった楽しみを展開しようとする。ディズニー世界の楽しみ方はファミリーエンターテインメント。家族揃ってW.ディズニーの想像した「夢は必ずかなう」のハッピーエンド的な単純でセックスレスの「健全」な世界に浸るところにある。ところが、この「健全」なパークの中でジムが想像(イマジネーション)するものはパーク内で出会った可愛いパリの女の子への性的=「不健全」なストーカー的妄想、そしてクビになった会社を破壊する妄想。

この逆立した二つの想像=イマジネーション(ディズニーVSジム)が対決する図式で映画は進行する。イマジネーション対決、果たしてディズニー世界が勝利するのか、それともジムが勝利するのか。

このハッピーエンドは誰のもの?

映画は最終的に2人のティンカーベル(ジムがストーカー的に追いかけたパリの2人の女の子が扮している)がパーク内に現れてハッピーエンドで終了する。しかし、だったらこのハッピーエンドは誰のものなのか?

その結末は映画を見た人間にも、はっきり言ってわからない。主人公のジムは猫インフルエンザで死亡してしまうのだが、その一方で最後に復活して妄想していた若い女性とホテルにチェックインするという正反対の二つの結果が描かれているからだ。つまり、ディズニー、ジムどちらの勝利=ハッピーエンドにもとれる(いや、実はシーメンス=管理社会の勝利にも見える)。なんのことはない、映画はひたすら観客をカオスの中に陥れてしまうのだ。言い換えれば多様な解釈、観客それぞれの解釈を許容してしまうということでもあるのだが。

困惑する観客たち

試写会を見終わったときの観客たちのリアクションは実に印象的なものだった。

「なんだ、こりゃ?」

というのが正直なところだろう。「よくわからない、ただし、何かを訴えていることはよくわかる。でも、それが、いったい何なんだろう?」

その一方で、当初の先入観「バイオレンス、エロ、グロ、ゲリラ」のイメージは崩される。だから、この作品を「クソ」と一蹴することが出来ない。このイメージについてはネット上のレビューでもまったくと言っていいほど同じだった。一部の高い評価と、ほとんどの最低評価(理解不能なので)といったかたちで評価は分かれている。

こうなってしまう理由は簡単だ。この作品、実に丁寧に作られているのだ。加えて、ディズニーランドのことも監督のムーアはものすごく研究していて、デズヲタでさえ文句の言えないレベルの緻密さでディズニーの情報が盛り込まれている。だから、この映画、エログロで虎の威を借る狐のはずなのに、否定することが出来ない。そして観客は色々と思いをめぐらすことになる。そう、ディズニーとジムの想像の戦いを巡ってもう一人、観客、つまり「あなた」が想像=イマジネーションを巡る戦いに参加することになるのだ。いわば観客参加型のメンタルレベルの3D映画、これが「エスケイプ・フロム・トゥモロー」の醍醐味と言える。


監督R.ムーアは買いだ!

実は、僕はこの作品のプロモーションの片棒を担いでいる。最初、オファーが来たときには、やはり「なんだ、このエログロ?ディズニー拝借主義?」と思ったのだが、試写を見て映画の出来に驚き、引き受けることにした。一般試写会では、この映画を制作したランディ・ムーア監督とも楽屋で顔を合わせている。エログロで、ディズニーを利用した商業主義を狙っているのならムーアは俗物そのものということになる。だが、ムーアそのものは実に紳士的、かつ学者的なクレバーな男だった。表面のエログロに対する、制作方針の端正さというアンバランス。監督本人と面会したとき、その疑問は氷解した。

「この男、ただ者ではない」

ちょっと、そんな感じをさせる人物だった。

この映画、おそらく日本でも大ヒットということにはならないだろう。正直、ちょっとハイブロウ過ぎる。10人の観客の内、9人はおそらく理解不能なのではなかろうか。ただし、ムーアのやっていることはキューブリックやギリアムの手法、哲学をキッチリ踏まえ、これを今日的レベルで展開している(詳細については僕が映画プログラムに執筆したエッセイをご覧いただきたい)。僕はムーアに「あなたの映画はキューブリックやギリアムみたいだけど、アイデアを拝借しているの?」と尋ねたのだけれど、僕のこの不躾な質問に、ちょっとうれしそうな顔をして首を縦に振ってくれた。

エスケイプ・フロム・トゥモロー、おそらく大ヒットというわけにはいかないだろう。おそらくディズニーをネタにしたところ、ゲリラ撮影を敢行したことが諸刃の剣となり「目立つが、さしてはあたらない」ということになるはずだ。ただし、である。おそらく映画通には絶賛されるだろう。メディア論、記号論的にも実に興味深い作品に仕上がっている。だから、今後予想されるのはムーアの次の作品がどのように展開されるか、というところになる。本作は一部の映画関係者に認められ、次回作でもっと大きなスポンサーがつく。で、その際には派手に映画を世界に向けて展開するということになるのではないか。僕はそんなふうに予想している。

「エスケイプ・フロム・トゥモロー」。青田買いの好きな映画通なら要チェックだ!

ディズニーアニメ史上空前の大ヒット

ディズニーアニメ映画「アナと雪の女王」がディズニーアニメ史上、空前の大ヒットとなっている。世界でもそうだが「ディズニー大好き国」日本では、これに拍車がかかった状態。興行収入は現在100億を突破。3月に封切りされたにもかかわらず、勢いはとどまることなくそのままゴールデンウイークに突入。この時期に放たれた大作邦画「相棒Ⅲ」「テルマエ・ロマエⅡ」「名探偵コナン」「クレヨンしんちゃん」を押しのけて堂々の一位を維持。ミュージカルでもあるため、サウンドトラックも大ヒットで、ディズニーアニメとしてはアルバムとして初めてのオリコントップを記録。映画館では「シング・アローン」と呼ばれる、映画を見ながら一緒に観客が歌うという企画も全国で開始され、まさに「アナ現象」が起きている。

しかし、ちょっと面白いことがある。それはレビューの評価だ。総じて高い評価を獲得しているが、一方で、少数だが五つ星中星一つ、つまり最低の評価を付けているレビューもある。つまり、三つ星が少なく、評価が大きく別れるのだ。僕は最高の評価も、最低の評価も、この映画が備えるメディア性がなせる業、つまり正当な評価とは必ずしも思えないと考えている。そこで今回は「アナ」の評価がどのような立ち位置からなされているかについてメディア論的に考えてみたいと思う。

高い評価の多くが盲目的・礼讃的

先ず高い評価。とにかく「すばらしい」と手放しでこれを褒め称える。「これぞディズニープリンセス物語」「これぞディズニー映画」みたいな位置づけだろうか。ただし、こういった評価はきわめて保守反動的なもの。ディズニー教に入信しているディズヲタの萌えなのでレビューとして見るべきところはない。また「アナ」ブームが起こり、レイト・マジョリティーやラガードとしてこの映画を見た層は「みんな行くから」「ディズニーだから」という、きわめて保守的な理由でこの映画に足を運んだだけ。要するにブームに乗っただけの大衆なので、これらのレビューは「子どもによい」「音楽が楽しい」「家族みんなで楽しめる」といった紋切り型の定型になる。いずれにしても、作品の内容についての評価とはみなせないだろう。

低い評価はいくつかのパターンに

マイノリティだが低い評価の場合は少々複雑だ。いちばん安っぽい評価が「しょせんディズニーという、子ども向けを専ら作っているところの作品。くだらないに決まっている」というもの(こういう指摘をする人間は、当然ながらディズニーランドも「こども向けの遊園地」と決めつけるという「思考停止」を行っている)。

次のレベルは「私のディズニーじゃない」というもの。つまり自分ならではのディズニー像、ディズニープリンセス像があり(まあ、これも得てして定型だが)、それに対してキスを絶対化せず、最後にプリンスを見捨てる、さらに愛が姉妹関係に向かってしまう「アナ」の展開が許せない。クレヨンしんちゃんに登場するネネちゃんがときおり叫ぶ「いつものママじゃな~い!」ってなリアクションだ。

だんだん理屈っぽくなってくると「原作のオリジナリティを踏みにじっている」というものが登場する。これはもう数十年も指摘されている”ディズニフィケーション”という様式に対する批判だ。ディズニフィケーションはオリジナルからバイオレンスとセックス、複雑な人間の関わり合いをとり除き、ストーリーを単純で毒のない「お子様ランチ」にしてしまうという手法(メタ的にはこういった手法こそがアメリカ的なグローバリズムを振りまく「毒」と批判されることもある)。さらにこれらが大ヒットすることでコピー=改変であるディズニー作品の方がオリジナルを凌駕してしまい、こちらがオリジナルに取って代わってしまうといった現象をさす。「シンデレラ」「リトル・マーメイド」そしてこの「アナ」がその典型だ(いずれもストーリー、とりわけ結末が異なっている)。で、これも毎回登場する「お約束」の批判だ。

そして、もっとも理屈っぽい批判が「ストーリーが陳腐である」というもの。なんでプリンスが突然根拠もなく裏切り者になるんだ?、アナとエルサの姉妹愛に根拠が感じられない、人物描写の彫り込みが浅い、なんで突然歌い始めるんだ?エルサが雪山に登る理由、アナがエルサを助けに行く理由、ハンスが姉妹を殺害しようとする理由があまりに無根拠(13人兄弟の末っ子なので王子となる可能性がないといった程度でしかない)など、まるきりいいかげんなシナリオですっかり興が冷める、というものがそれだ。

低い評価に共通するのは「文化絶対主義」

僕はこういった批判をある意味では「そのとおり」と肯定する。毒々しい展開はないし、ディズニー世界からすれば逸脱しているし、ストーリーは勝手に踏みにじるし、だいいちシナリオがバタバタしている。そう、これらの評価はあながち間違いとはいえない。しかし、これは他のディズニー作品の傑作と評価されている作品群にも該当する。たとえばクラッシックのプリンセス三部作の主人公白雪姫とシンデレラ、オーロラはすべて人格的なキャラクターとしては実に薄い。オーロラに至っては最も成熟した身体と容姿を持ちながら、精神的にはどう見ても幼児、つまりネンネで脳味噌カラッポという感じにしかみえない。ストーリーも実に荒唐無稽だ。

確かに、これは「それらの側面からのみ作品を見る」という前提からすればそうなる。だが、ここに「文化相対主義」的視点を導入するとちょっと話は変わってくる。文化相対主義とは自分が属しない異文化を評価する際には自らの評価基準ではなく、当該の異文化の基準に従って評価するという視点。まあ「郷に入れば郷に従え」というわけだ。たとえば日本の古典「忠臣蔵」を考えてみよう。ご存知のように、これはキレやすい殿様・浅野内匠頭が殿中で刀を振り回して吉良上野介をケガさせ誰がために切腹を命じられ、この怨念を晴らすべく家臣たちが仇討ちをする話だが、その結果、四十七士は吉良邸に討ち入り、吉良の首はもちろん廷内にいた家臣たちも次々と殺害するという「テロ」を敢行する。宝塚歌劇やAKB48も考えてみるとおかしい。宝塚は荒唐無稽な芝居を、キンキラキンに着飾った女性たちが大してうまくもない歌と演技でショーをやっているだけだ。AKB48に至っては容姿は二流、踊りも二流、歌も二流、アタマも二流の「並のちょっと上」程度の女性軍団にすぎない。でも、こんなふうに表現されたら四十七士ファンも宝塚ファンもAKB48ファンも、そりゃ怒るだろう。どうみても評価の基準は別のポイントにある。

積分ではなく微分してみる

で、前述した見方は、これらジャンルの基準に関心を持つことが出来ない、認めることが出来ない人間が、いわば「文化絶対主義」的な視点から捉えた姿。もし、これら人間がその反対の文化相対主義的な視点を備えていれば、こういった“荒唐無稽”なものになぜ人々が熱狂する、そして議論までし、哲学まで語るのかが逆に見えてくるはずだ。

ちなみにこの三つ、共通するものがある。それは「様式美」だ。そこで繰り出される各種要素を一つの作品としていわば「積分」してみる、つまりストーリーの一貫性やイデオロギーの視点から統合的に見るのではなく、これら当該の様式の中でそれぞれがどう演出されるのかを「微分」してみる。いわば歌舞伎・浄瑠璃の中の設定=「世界」に対する演出=「趣向」に当たる見方なのだ。だから全体の統合性はともかく、その中で個々がどう動き、どう演出されるかといったところが見所となる。そう注目すべきは作品のメディア性や美的機能なのだ。逆にこちらの視点からすれば、こういった異文化でストーリー云々とかイデオロギー云々を批判するのは「ヤボなこと」となる。

ディズニープリンセス、ディズニーミュージカルという視点から評価する

で、文化相対主義的な視点から捉えれば「アナ」という「異文化」は「ディズニープリンセス物語」「ディズニーミュージカル」という様式=世界の中で、初めて作品として評価されるものとなる。

そこで、文化相対主義的な視点から「アナ」に対する僕の評価を示そう。まず「プリンセス物語」としてはプリンセス、プリンス、愛、キス、ヴィラン、困難、狂言回しと言った要素がこのジャンルとしての「世界」を彩る要素となり、その中でこれら要素がどのように描かれるかの「趣向」が問われるわけだが、これに関しては、全ての要素を新しく意味づけしてしまい、紡ぎ合わせたと言うことについては、かなり冒険的な試みを行っているといえる。愛の向かう先がプリンスへと向かっていると思わせて、実は姉妹に向かっている。ヴィランがプリンスだった、キスは愛の証明にならない、困難はプリンスに助けてもらうのではなくプリンセス自らが立ち向かい乗り越えるもの、狂言回しの雪の精・オラフは(これ自体がエルサのアナへの愛情から生まれたものだ)この作品の基調となる愛他心による究極の自己犠牲の愛を象徴すべく、雪で出来ているのに自らが死に直結する夏を限りなく愛するなどなど。実にクリエイティブで興味深い。ただし、ちょっと盛りすぎでキレイに繋がったとは言えず、その趣向はオーバーデコレーション気味。だから僕はこちらの様式美については新機軸を示している点はよいが、まだ整理が終わっていないという点から、評価を四つ星とさせていただいた。

一方、ディズニーミュージカルとしては、これはもう傑作としか言いようがない。それぞれの曲の完成度、映像とのマッチング(時計音やマリンバによる効果音がきわめて効果的に使われている)、楽曲の歌いやすさ、それぞれが極めて高いレベルにある(「メリーポピンズ」「リトル・マーメイド」に匹敵する)。さらにこれらは24カ国にローカライズされ、各国で喝采を浴びた。そのローカライズの仕方もかなり徹底している。そして、その中でも日本版は秀逸の一つに入るだろう。日本語を使うことへのこだわりが強く、僕が調べた範囲では曲の中でカタカナは「ドレス、ロマンス、ドア、サンドイッチ、クール、パワフル」の六つ、つまりほとんど日本語化している英語しかなかった。そしてハッキリとした日本語。意味は限りなく「超訳」だが、それが逆に日本語によく馴染んでいる。おかげで、日本ではアメリカ版より松たか子と神田沙也加、ピエール瀧らが歌う日本語版のほうが圧倒的に支持を受けている(僕は最初英語版を機内で複数回見たが、その後映画館であらためてみるときには日本が版をチョイスした)。で、賛否両論を生んではいるが、みんなで歌う「シングアローン」という映画館で合唱するスタイルすら生んでしまった。そう、「アナ」は日本にミュージカル映画というジャンルを認めさせてしまったという点では、間違いなく革新的なのだ。新しい分野を切り開いた。だから当然、こちらのジャンルでは五つ星だ(ちなみに星一つの酷評をしているレビューも「音楽はよい」と留保を加えるものが多いのは「なにをかいわんや」である)。

ということで、「文化相対主義」的視点から「微分」してみれば、この映画は間違いなく傑作なのである。哲学やイデオロギーについて評価するなら、紋切り型の「ストーリー」の視点から語るといった「保守反動的」なヤボなことをやるのではなく、「ディズニープリンセス物語」(この詳細については本ブログ「『アナと雪の女王』に見るディズニー文化の進化」http://blogos.com/article/83630/を参照されたい)での論考と「ディズニーミュージカル」の視点から語るというのが正解。そう、忠臣蔵、宝塚歌劇、AKB48のように(忠臣蔵はミュージカルではないが(笑))。そして、これは間違いなく日本人の感性に合った「萌え」を促すオタク文化の嫡流・結晶でもある(つまり忠臣蔵、宝塚歌劇、AKB48はオタク文化という日本固有の文化?に抵触している)。

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