勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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インターネットの議論は必ずしも民意を反映していない~「ネット住民」と「ネット観客」

本ブログでしばしば指摘していることだが、インターネットでの議論は必ずしも民意を反映してはいないと僕は考えている。このことは、たとえばBLOGOSなどのコメント欄をあちこち立ち寄ってみるといい。あることに気づくはずだ。それは……ジャンルによってかなり限られた層の読者によってコメントが繰り返しなされている点だ。同じコメント者が何度も登場する。コメントは「コメントをすることに積極的な一部の人々によって行われている」と考えた方が納得がいく。便宜上、この層を「ネット住民」と呼ぼう。

これはもちろん、ネットをブラウズしている人間が少ないことを意味しない。スマホの普及もあり、もはやネットのブラウズなど、われわれにとっては日常的な行為の一部。TVよりもネットへのアクセスの方が多いという人間もかなりいるだろう。ちなみに僕が大学で教える学生たち(毎年受講生数100人程度にテレビとネットとどちらのアクセス時間が多いのかについてアンケートをお願いしている)は、もはや八割以上がネット派だ(テレビとネットの形勢逆転は3年前だった)。

しかし、こういったネットブラウズする人間の層とネットに書き込む層=ネット住民はそのままイコールというわけではない。言い換えればブラウズする層の一部がネット住民となり書き込んでいる。その傍証が例えば先ほどあげたBLOGOSのコメント欄というわけだ。むしろブラウズする人間の大半はROM、いわゆるリード・オンリー・メンバーだろう。そこで、こちらの方は「ネット観客」と呼ぼう。そしてネット住民とネット観客をつなぐ相関性や因果性は明らかではなない。いや、こういった人たちの意見を世論と断定するのは、ちょっとアブナイだろう。ネット住民という、同じ少数の人間たちが循環させる意見やネット論壇は民意を反映しているとは必ずしも言えないのだ。

ネット住民の意見はマスメディアが掬い上げることによって大きな力を持つ

ただし、だからといってネット住民に力がないというわけではない。書き込みを行う少数派は場合によっては強力な力を持つことがある。それは、書き込みを行い、これがそれなりに珍しかったり、盛り上がったりした場合だ。ただし、それだけでも、まだ強力とはいえない(炎上などのネットいじめを除いては。で、これは炎上と言うより一部でくすぶった形で発生するので、いわば「小火」)。これだけでは必要条件でしかない。これが世論として大きな力を持つのは、盛り上がった内容をマスメディアが取り上げた場合だ。つまりこちらが十分条件。とりわけテレビは議題設定機能を持っている。テレビがネットのネタを取り上げて拡散することで、結果としてネット住民のモノノイイがさながら世論のように展開されるのだ。つまりメディア・イベント(もちろんマスメディアが取り上げても盛り上がらない場合も多々あるが)。たとえばペヤングソース焼きそばやマクドナルドの異物混入事件などは、その典型だろう。小保方、佐村河内、佐野といった人間へのネットいじめもこれに含まれると言ってよい。

で、こういった「ネット住民の意見は世論を反映しない」という原則は、BLOGOSのようなネット論壇以外のところでも、ネット上のあちらこちらに共通してみられるものであると僕は思っている。つまり、これはネットの一般的な特性と僕は考えている。

オタク世界を作るネットの島宇宙化

このようにネット住民の書き込みがあるところで盛り上がると、ちょっと不思議な事態が発生する。世論を反映していなくても、一部で盛り上がってしまい、そこに小さな世界、いわばタコツボ、島宇宙的なスモールワールド、オタク領域が誕生するのだ。で、これはこれでそれなりの中小規模の市場を形成することも現在では当然のように発生している。そして、その典型こそが旅の情報サイト、Tripadviserの情報だ。

旅オタクの情報サイト、トリップアドバイザー

Tripadviserはブラウズする人間たちの書き込みやサイトのとりまとめによって日々更新される旅の情報ガイドだ。ホテルやレストランの紹介が最も大きなコンテンツだが、世界中の旅行者たちがここに情報を書き込んでいる。ただし、ここにも一部の書き込みを頻繁に行う人間=ネット住民と大多数のROM=ネット観客が存在する。で、あたりまえの話だが、観光地の情報環境は、こうした一部の書き込みを積極的に行う人々によって構築される。そして、それはしばしば現地での評判とは異なった「書き込みを好む旅行者たちによって構築されるもう一つの観光地、観光名所」を作り上げてしまう。つまり、Tripadviserは旅オタクの情報としては正解だが、それが現地の情報を必ずしも反映しているとは言えないのだ。僕は海外に赴く際は航空券を購入し、宿屋レストランをTripadviserで検索、検討する旅スタイルを散々やってきたが、まあ、本当にその結果は微妙と言わざるを得ないという経験を何度もしてきた(なのでTripadviserは、参考程度に利用することにしている)。

一例を示そう。今年の3月、僕はポルトガル・リスボンからバスで一時間ほど南に下ったところに移置する丘の上の村パルメラに宿泊した。ここでのTripadviserでの人気ナンバーワン・ホテルはポウサーダ・カステロ・デ・パルメラ。ポウサーダと名のつくホテルは城や寺院、要塞などを改造したもので(景観のよいところに位置する場合もある)、かつては国営だった。スペインのパラドールのポルトガル版と思っていただければよい。ここに五日間ほど滞在し、レストランを食べ歩いたのだ。もちろんTripadviserのランキングに従って。だが、このランキングがどうもおかしい。一位がポウサーダ内のレストラン、二位はポルトガル料理なのだけれど客はほとんどポウサーダ宿泊。四位はなぜかハンバーガーのお店だ。

ところがホテルからちょっと歩いて街の中央あたりに来たところの路地にぽつんとあるレストランをみつけた時のこと。ここは昼のみの営業なのだけれど、とにかくものすごい客でごった返している。もちろん観光客なんかいない。全部、いわゆるジモティだ。Tripadviserの認定マークもなし。ここは魚料理専門のレストラン(看板にも魚の絵=アイコン?が描かれている)。まあ、魚料理といっても焼くだけ。種類は太刀魚、鰺、サーモン、カジキといったところ。これに前菜とワインととサラダとそして食べ放題のパンとデザート。さらにコーヒーまでついてたったの€8.5。ちなみにメニューのチョイスは魚だけで、それ以外は皆同じ。デザートなどは店の中央のテーブルに大型のパットごとドカンと置いてあり、客は好きなだけ取り放題。ワインもまたものすごい量をデキャンターに入れて持ってくる。カミさんと二人分で一リッターのデキャンタにすりきりで入れてきた「昼からこんなに飲めるか」と思ってしまったほど。魚好きでもあるので、当然一回訪れた以降は病みつき。昼はここと決め込んでしまった。

さて、なぜTripadviserにこれが掲載されていないのか?それはMAPを見てみると簡単に判明する。上位のレストランはすべからくポウサーダから至近距離にあるのだ。つまり簡単に歩いて行ける。パルメラのポウサーダは城を改造したもので前述したように海外の旅行者たちにはすこぶる人気。パルメラにやってくる旅行者の多くがここへの宿泊を目的としている(もちろん、僕もそうだ)。ただし、宿泊客たちは街のあっちこっちを巡ってレストランを物色し、私のベストを探すなんてヒマなことはしない。宿泊してもせいぜい2泊3日程度だからだ。しかも、その間、パルメラを基点に周辺のワイナリー見学とか、すぐ手前の港町セトゥーバル観光に行ったりする。だからパルメラでの食事の回数(朝食はポウサーダで提供されるので除く)はトータルで二回程度になる。レストランなど、まあ観光でのそこそこの要素程度にしか考えていないのだ。
で、こんな旅行者たちが「パルメラで旨いレストランはどこかな?」と考えた時に、思いつくのが当然、Tripadviserのレビューだ。だが、そのレビューはかつての旅行者たちが同じようにポウサーダのすぐそばを散策してみつけたレストランばかりが掲載されている。そして上位三位のレストランを訪問すると……当然、この上位のポウサーダ至近のレストランの評価ばかりが高いものとなってしまうのだ。

レストランの方も心得たもので、店の扉には勝ち誇ったようにTripadviserの認定シールが貼られている。店のスタッフも専ら外国人観光客を相手とするようなスキルを身につける。とにかくホスピタリティが洗練されていて、食事の内容を英語で説明してくれたりするのだ。これに舌鼓を打つ旅行者たちは満足して、そのことをTripadviserに書き込んでいき、その書き込み=レビューがさらに雪だるま式にこの上位のレストランの評価を上げていくのである。こうやって、現地の人々の味覚とは全くといってよいほど関連の薄い料理がパルメラの名物としてTripadviserと外国人旅行者によって創造されていく。いわばTripadviserおたくたちによるフィルター・バブルが、ここでは発生している。

日本にも創造された珍名所

この例はポルトガルのものだけれども、これと同じことが日本でも起こっていることに、もはや多くの人々が気づいているのではなかろうか。試しにTripadviserに掲載されている渋谷のホテルやレストランの評価を見てほしい。ベスト20にラーメン屋の一蘭、一風堂、元気寿司なんてのが登場する。ホテルに至ってはベスト10にドーミーイン、サンルートプラザ、エクセルホテル東急、渋谷東武ホテルといったビジネスホテルが目白押し。日本人からしてみれば完全に「???」のお店がランクインしているのだ。で、この「???」感覚が、実はポルトガルのパルメラの住民がTripadviserのランキングを見た時の反応だろう。つまり、Tripadviserはその国以外の書き込み好きの海外旅行オタクによって構築され、日々更新され続ける旅行情報サイトなのだ。そして、ここには新しい情報と言うより、最初に書かれた情報に上書きされる形でレストランやホテルのランキングが更新されていく。

観光とは、昔から「まなざし」が創造(ねつ造?)している。

ただし、だからといって僕は「現地の人々の世界に密着したホテルやレストランこそがオーセンティックな、つまり本物なのだ」とは決して言うつもりはない。こういった旅オタクがネットを介して創造していく観光地もまたもう一つの本物といっていいからだ。もとより、観光というものはそういうもの。100年前のバリやハワイだって、こうやってねつ造、いや創造されたものなのだから。

つまり、現地とは必ずしも関わらないところで観光というまなざしは形成され、そしてそれが自立したものとして観光地というものを作り上げていく。それを、ものすごく早回しでやってくれるのがネット世界のインタラクティブな書き込みによる情報なのだ。

もちろん、これは民意を反映していない。ま、そんなことは問題ではないんだろうが。ただし、そのことだけは知っておいた方が身のためだろう。ネットの意見は「ネット住民」という人たちが作っている。

毎度繰り広げられる韓国人の大騒ぎ

タイ、リゾートのプールでここ十数年、毎回と言ってよいほど見かける「お馴染みの風景」。それは韓国人たちの他の客を無視した大騒ぎだ(中国人も同様だが、ちょっとスタイルが違う)。原則、仲間内でやってくるので人数が多い。だから当然、盛り上がっているのだが、プールの周辺でのインターナショナル・ルールは「静かにしていること」。白人を中心とした客は読書したり、スマホやタブレットをいじったり、はたまたナンクロや数独、クロスワード・パズルといったゲームを楽しんだりして、それぞれにくつろいでいる。
ところが、この静寂を韓国人が打ち破るのだ。その瞬間、「アダルト・テイストな空間」は「開放された小学校のプール」へと変貌する。

次の写真を見てほしい。

イメージ 1

リゾートホテルのプールで水球をする韓国の若者。他の客はプールから出てしまった。後ろに呆れ顔の白人観光客の姿が見える。


これは先日、僕の目の前で起こった「お馴染みの風景」だ。韓国人の若者たちが10人程度でやって来た時から「こりゃ、マズイかな?」の懸念していたが、案の定、いつもの事態が発生した。プール内で水球を始めたのだ。プールは彼らの独占状態。当然、他の宿泊客はうるさいし、泳げないのでプールから退散した。こうなると、今度は貸し切りゆえ、やりたい放題。大きな声を上げて騒ぎはじめる。まさに「開放された小学校のプール」状態。

しばらくして業を煮やしたプールサイドの白人宿泊客がプール担当スタッフを呼びつけ、クレームを付ける。ここで、やっとスタッフが彼らに注意に入った。

「静かにしてください」

彼らは素直に言うことを聞くのか?ある意味、そうだった。しかし言葉の本質を理解してはいない。彼らは水球を続けたのだ。ただし「文字通り」の指示に従って無言で。

なんで、こんな迷惑な行為を平気でやってしまうんだろうか。もちろん、彼らに悪意はないのだろうけれど。

リゾート・リテラシーの問題?

これは、いわば「リゾート・リテラシー」の低さによるものだろうか。韓国は海外旅行が一般化してから、まだ歴史が浅い。かつて70年代に日本人が大挙して海外を訪れるようになった時に顰蹙を買ったように(農協の団体がヨーロッパに知れ渡った)、旅行者としてのマナーがまだ身についていない。だから、いずれなんとかなるのでは?

だが、この解釈は当を得ていない。現在、日本人は海外旅行者としてはきわめてマナーがよいことで有名だ。つまり80年代以降、海外旅行が一般化する中でリゾート・リテラシーが身についた。ということは、韓国人もそろそろマナーを備えるようになるのではないかと期待をしてもよい頃だ。しかし、この大騒ぎ、以前と全く変わるところはないのだ。相変わらず彼らは世代、年代にかかわらず同じことを続けている。だから、これはリゾートリテラシーの高低よりも、他のところに主たる原因がありそうだ。

文化の衝突

色眼鏡をかけず、先ず間違いなく言えることは、ここに「文化の衝突」が発生しているということだ。リゾートエリア、とりわけプールという空間は前述したように白人文化圏の中で培われたもの。だからこの空間は個人主義を基本とするところ。それぞれが相手に迷惑をかけないという前提で気ままに振る舞うことが許される場所。そして彼らが持ち込んだこういったルール=マナーがインターナショナルなコードとして成立していった。つまりリゾートプール文化は白人文化なのだ。なので、この環境に足を踏み入れたものは「郷に入れば郷に従え」で、このルールに準じなければならない。

ところが韓国人の多くがこのことを理解していない。彼らにとってリゾート地はいわば「行楽地」。遊んで楽しむところ、つまり騒いでもよいところ。そして、仲間内でやって来てワイワイやるところなのだ。言い換えれば文化圏≒共同体的なしきたりが優先される。だが、それはリゾートのプールのルールではない。そこで、プールという空間を巡りコードのせめぎ合いが発生する。

さて、前述したように、こういった風景、もう十年以上も前から僕にとってはお馴染みの風景だ。以前はビンボーだったので、リゾートといっても中級レベルのところに宿泊していた。ところが、次第にここに韓国そして中国の団体客が押し寄せ、自らの文化的コードを当然のように押しつけていく。隣の韓国人客が仲間を部屋に入れ込んで深夜まで大騒ぎをしていて、注意をしても全く聞く様子がないのでフロントに苦情を申し立てた時のフロントの返事がいまだに忘れられない。それは、

“I am sorry, but because they are Korean.”

ホテルの側も重々承知しているのだ。だが、そうはいってもこれを受け入れないわけにはいかない。韓国人、中国人の客はその時点で、このレベルのホテルでは、すでに大口の需要先になっていたからだ。で、僕はその後、出来るだけ韓国や中国の団体客が入らないような規模の小さなホテルを選ぶようになった。その後、僕の実入りもよくなったので、ホテルのグレードを上げ、こういった団体が入ってきそうもないようなリゾートに落ち着くことに。しかし、この対策は数年しか有効ではなかった。韓国も中国も所得を上げ、そこそこのホテルにも大挙して押し寄せるようになったからだ。この写真はバンコク・パタヤの大型の高級リゾートのもの(最高級ではありません。ネット予約サイトで一泊一万円程度で宿泊可能なホテル)。ここでも、やはり同じことが繰り返されている。

インターナショナ・ルルールかアジアン(韓国、中国)・ルールか?

ヨーロッパで嫌がられる観光客としてしばしば名前が挙がる韓国人、そして中国人。この衝突を避ける方法は、一つは、もちろん彼らにインターナショナル・ルール=リゾート・リテラシーを身につけてもらうことだ。ただし、こんなふうにも言える。もはや、アジアのいくつかのリゾート地はかつての西欧人が占める場所ではない。ここパタヤにしたところでレストランの表記はかつてなら英語、ドイツ語、フランス語、日本語が併記されていたが、現在では英語の次にロシア語、韓国語、中国語の順だ(日本の表記はほとんどなくなってしまっている)。ということは、ここはもはや彼らのテリトリー。だから「大騒ぎ」共同体的な楽しみ方をデフォルトにしてしまうこと。つまり「リゾート」を「行楽地」に変更するのだ。そして白人をここから撤退させる(日本人は以前に比べると大幅に減少している。もう、撤退しているのか?いや、そもそもリゾートという感覚が乏しいのか?)。ひょっとしたら、ツーリズムを展開しているタイの側も、こちらの方が儲かるので好都合かも?

いずれにしても、タイという国はどこの国の観光客であれ、ブラックホールのように吸い込んでいく。これは、ただただスゴイ、したたかと言うほかはない。あなた色に染まるけれど、絶対にあなた色には染まらないのだから(笑)いや、タイにかかわらずアジアのリゾート、そしてツーリズムはこうやって続いていくのだろう。

日韓の間で政治ネタとして揉めるほど、今やユネスコ世界遺産はある種の権威を獲得するに至っている。観光地として有名な所は、こぞって世界遺産に認定されようと躍起になるという状況が、最近はしばしばメディアを賑わしているのだ。しかしながら、なぜここまで世界遺産という「認定マーク」が注目されるようになったのだろうか。

答は一つ。「ビッグビジネスとして成立するから」

でも、この成立条件、「文化とは何か」という視点から考えてみると、きわめて皮肉なものでもある。

とてつもなく高くなっていたガウディ建築物の入場料

ちょいと僕のバルセロナ経験を持ちだしてみたい。初めてここを訪れたのは1991年。そして昨年暮れ(2014年12月)、久しぶりに同地を訪れたのだが、バルセロナはもはや「世界遺産成金」みたいな状況だった。スペインの他の都市に比べてメチャクチャに観光客が多く、物価もバカ高。ここはスペインではなく「バルセロナ」(あるいはカタルーニャ)という国のようにすら思えたほど(もはやヨーロッパで最も集客力のある都市第三位らしい。年間観光客は2700万)。

91年、ガウディの建築物を見て回った時のこと。それぞれの入館料はサグラダファミリア=250pts、グエル邸=100pts、バトリョ邸=非公開、グエル公園=無料、カサミラ=無料、そしてコロニア・グエル教会=無料。なので、これら入場料を合計すると350pts、およそ500円くらいだった。ところが、今回はこれとは全く違う。全てが有料化、高額化している。支払った入場料の総額は€80程度、つまり1万円強。およそ二十倍ほどの高騰だ。

にもかかわらず、どの建物も観光客で91年時よりはるかにごった返している。以前は非公開だったバトリョ邸(1階と2階の一部だけが見学可能だった)までもが公開に踏み切るとともに、全館を見学可能になり、なおかつAR付ガイドの貸し出しまで。カサミラは最上階のすぐ下、つまりペントハウスに、フロア全体を使った展示室が設けられていた。最も有名なサグラダファミリアに至っては、すでに大聖堂が出来上がっていた。塔ノ上にあがるにはエレベーターだが別料金。にもかかわらず長蛇の列が出来ており、入場に関してもネット予約が便利という始末。もちろんどの施設も日本語音声ガイドの貸し出しが受けられるという「痒いところに手が届く」仕様(グエル公園を除く)。

つまりガウディの建築物は有料化し、そしてテーマパーク化していった。で、とにかく訪れる観光客の一人として浦島太郎的にビックリしたのは、このメチャクチャカネがかかるということ、そしてインフラの充実だった。もちろんガウディだけではない。バルセロナの他の世界遺産(カタルーニャ音楽堂)や、世界遺産ではないがバルサのスタジアムも入場するだけで結構な金を徴収されたのだ(どう考えてもディズニーランドに行った方が安い)。

かつては、サグラダファミリアで彫刻制作を手がけている外尾悦郎氏が、この建築物がいつ完成するのかわからないと言い、資金が集まらないことを嘆いていたことがあったが(80年代後半に放送された日立ドキュメンタリー「すばらしい世界」の中で)、これが2026年には完成の目処が立つという。でも、この盛況を見れば「ま、そりゃそうだな」と納得させられてしまう。いったい一日で、どんだけ儲けているんだろう?

だが、世界遺産についてのこういった状況はバルセロナに限られた話ではない。82年、僕がインド・タージマハールを訪れた際も入場料は無料だったが、こちらも今や750ルピー、およそ2000円の料金を徴収される。つまり、かなり多くの世界遺産がこんな感じなのだ(もちろんアンコールワットも。そしてわが国の場合だと、ここ数年京都に行くと外国人だらけ、ってなことになってしまっている)。

集金マシンとしての世界遺産

世界遺産は自然遺産や建築物などに(和食などの食文化も含まれるらしいが)認定されるもの。だが、メディアがこれに注目することで世界遺産は究極のブランドとなり、世界中からのまなざしが向けられる。すると世界遺産と認定された存在は「集金マシン」と化すのだ。これがおいしい。だから、どこも認定を受けるために血道を上げるのだ(富岡製糸工場は2007年から有料化に踏み切ったが、世界遺産化に伴いこの料金を1000円に値上げしている。表向きは世界遺産認定に伴い観光客が増加したので維持費がかかるとのことだが、それだけではないだろう)。そしてその典型がバルセロナなのだ(ちなみに、これらが世界遺産登録されていったのは1980年代からだが、当時はまだ世界遺産という言葉自体が現在ほど注目されておらず、それゆえガウディの建築物は、世界遺産という存在がメディアイベント的に世界でもてはやされるようになって人気が急騰し、そして有料化したという経緯があると考えられる)。

「遺産」という新しい消費文化

これって不思議だ。世界遺産と認定されたものって、要するに「遺産」。文化としては死んでいる過去の「遺物」。これにメディアによってまなざしが向けられると、突然最新の装飾とシステムが施されてゾンビのように生き返るのだ。そう、「世界中が注目する死体」みたいな存在になっていく。だが、それを利用して地元はバッチリと金を稼ぐ。つまり世界遺産とはややもするとグロテスクな存在と言えないこともない。

ところが、これを利用して世界遺産のある土地は活気づく。そうすると新しい文化が生まれるのだ。その典型が要するにバルセロナなわけで。観光収入は同市経済の14%を占めるという。そう、これは遺物を利用したテーマパークという、きわめて今日的な消費文化の新しい形態なのだ。もちろん、まなざしが与えられることで観光化が進むというのはかつてからあったが、世界遺産というマークはこれを高速で可能にする魔法の杖に他ならない。

まあ、そうはいってもあんまりたくさん世界遺産が登場すると、今度は飽和状態が出現してしまう恐れもあるんだろうけど。しばらくは「集金マシン」(場合によっては政治の道具?)としてもてはやされ続けるのではなかろうか。現状ではツーリズムは盛り上がりこそすれ、衰退する様子は全くないのだから。

10年後くらいに「世界遺産バブル」なんてのが語られるようになっているかも?ということは、みうらじゅんが「世界遺産バブルの遺産を見に行く」なんてことをやるかも?

とにかく世界遺産、今、旬である。

東京ディズニーランド(TDL)とタイ・バンコク・カオサンの安宿街は、ともに「テーマパーク」と言った側面で共通点を備える。ただし、前者は一元管理の下に全体が整然とシステム化された「閉じた系」、一方、カオサンは有象無象の欲望の関数として結果的にテーマパークが出現した「開いた系」、いいかえればテーマがトップダウン、ボトムアップどちらに基づいて構築されているかに違いがあることを前回は示しておいた。
ただし、こういった表現は90年代末までのこと。それからもはや15年以上が経とうとしている現在、二つの「テーマパーク」の様相は大きく変貌を遂げている。そして、この二つ、実は、次第にその環境が近接化しつつあるのだ。

カオサンのシステム化

カオサンは、相変わらず有象無象の欲望がその空間に入り込み、空間それ自体を道のみを残して変容し続けている。かつて、一般の民家が家を改装してゲストハウスにし、ちょっとソイ=辻を入ったゲストハウスの中ではドラッグ(主としてガンジャマリファナだったが、その他にもブラウンシュガー=ヘロイン、コカインなどが扱われていた)に興じる者がいたり、ゲストハウスの使用人の女性とバックパッカーが出来てしまったりという感じで、まあ、ある意味「のんびり」した「牧歌的」「素朴」な欲望が空間を構成していた。もちろん、これも欲望がなせる業だ。
ところが90年代半ばから、その欲望の主体は変容しはじめる。バンコク市内に散在していたゲストハウス群がカオサン1カ所に集結するという現象が起こり、その規模に魅力を感じた起業家たちがここにビジネス・チャンスを見いだすようになるのだ。この連中の企画する設備は、これまでの学園祭の飾り付けに毛の生えたようなゲストハウスやレストラン・バートは違う。システマティックに構築され、ゲストハウスは従業員も雇われ、入り口にはそれらしいレセプションもあり、屋上にはプールも設置されるという、ホテル並みのシステムを準備するようになった。またレストランも同様で、ドラフトビールが飲めるなどあたりまえ、バーやクラブもちょいとイケてる感じになった。

だが、その背後で、かつての怪しさは影を潜めるようになる。企業が経営するシステムがカオサン一体を覆い尽くすようになっていくのだ。ゴチャゴチャ、混沌であったはずのカオサンは、気がつくと企業が作り上げるパッケージが醸し出す環境を現出していた。もちろんこれも、かつてのカオサン同様、有象無象の欲望がボトムアップ的に作り出していく環境なのだが、その欲望の主体は素人とバックパッカーではなく、起業家とタイ人とツーリズムによって担われるというシステムとなった。カオサンはどんどんクリーンになっていき(もっとも、夜になると白人たちやタイ人のごろつきがよくケンカしている風景は残存しているが)、整然とした世界が作り出されていた。街並みも平屋に代わってビルが建ち並ぶようになる(2014年、遂にカオサン通りからは平屋は一軒もなくなった)。いわば、認識論的には相変わらず混沌と猥雑なのだが、その背後でこれを動かしている、つまり存在論的レベルで機能しているのは情報化社会とそれが作り上げるシステムとなったのだ。今やゲストハウスまでネットであらかじめ予約可、各種チケットだってあっと言う間に電子システムで発券される。あやしいチケットに出くわすこともなかなか難しくなった。もちろん、ドラッグがやれる「ハッピーな場所」というイメージも一新された。「沈没」と呼ばれるゴロツキ・バックパッカー、いやバックパッカー崩れも、居心地が悪くなったのか、今や絶滅危惧種に指定されつつある。

TDLのカオス化

一方、これと逆の方向、つまり認識論的なシステム化と、存在論的なカオス化が同時進行していったのが21世紀に入ってからのTDLだ。TDLを運営するオリエンタルランドは、相変わらずディズニー的な一元的世界を演出することに心血を注いでいたが、ゲストの側がそれを許さなくなっていったのだ。21世紀初頭、開園20年を経て膨大な数になり、そのディズニーリテラシーをすっかり上昇させたゲストたちは、TDL側が提示する一元的なテーマ性に飽き足らなくなっていく。ゲストたちはマニア化≒オタク化し、ディズニーに対する嗜好を細分化させ、それぞれがみずからの嗜好に従ってパークを読み込むようになった。かつてのように与えられた物=物語やテーマ、をただ受動的に教授することをやめ、パークの中をバラバラに解釈しはじめたのだ。テーマなど、もはや「うざったい」ものとなった。

TDL側としては、これに対応せざるを得ない。ただし、細分化された嗜好にそれぞれ対応すると言うことは、要するに統一したテーマ性を放棄することを意味する。その結果、TDLはアキバやドンキホーテのようなカオスの様相を呈しはじめるのだ。カオサンでは起業家の欲望が環境をシステム化していったのだが、TDLではゲストの欲望が環境におけるシステムを破壊するという状況を生んだのだ。

その結果、二つは極めて類似の世界を現出することになった。つまり「ごった煮」的な状況をシステムが支えるという図式の共有だ。違うのは「ごった煮」と「システム」の位置だ。カオサンは「認識論的ごった煮+存在論的システム」、一方TDLは「認識論的システム+存在論的ごった煮」という状況。だから、ベクトルが逆なのだが、結果として「システムと混沌のあやしげな融合」ということではまったく同様なものになったのだ。

脱ディズニー化する二つの環境

かつてA.ブライマンは『ディズニー化する社会』(明石書店、2006)の中で、世界がディズニー化(Disneyization)すると指摘した。これはざっくり言ってしまうと、環境がテーマパーク化していくことを指している。前回も指摘したようなイオンモールはその典型で、要するにイオンモールは空間が商店街のテーマパークになってしまっている(しかも、屋根付き、つまり全天候型の)。いや、それだけではない。いまやちょっとしたお店も全てテーマパーク化しているのは誰もが納得することだろう(「半兵ヱ」のような昭和レトロ居酒屋チェーンを思い浮かべていただきたい)。

ところが本家のTDL、そしてカオサンはやはり近未来、つまりもう一歩先を行っている。つまり社会がディズニー化なら、この二つはもはや「脱ディズニー化」の状態にあると言っていい。テーマ性をどんどんと突き詰めた結果、これが巨大化し、細分化され、その結果、環境を作り上げているテーマが不可視化し、やがて崩壊していく。ただし、こういったテーマは元々システムによってヘッジされてきた。だからシステムは残存している。すると、今度は、このシステムが崩壊し、カオス化した「元テーマパーク」を混沌のままに管理していくようなメタシステムを構築してしまうのだ。

いいかえればTDLとカオサン、まさにアキバとドンキとまったく同じ脱ディズニー化という近未来に発生する事態を象徴的に物語っているといえるのだ。

やっぱり、この二つ。面白い!

毎年のごとく、僕は夏となるとタイ・バンコク・カオサン地区という場所にやって来てフィールドワークを行っている。ここは世界を自由に旅するバックパッカーたちのアジアのベースキャンプともなる世界最大の安宿街。ここで旅行者の情報行動の変化を20年にわたって観察し続けてきた。また、その変容を定期的に観測してきた。

だが今回は、旅行者ではなく、このカオサンという安宿街の変容について紹介してみたいと思う。そんなところを紹介して何の意味があるのか?と思われるかも知れない。ところが、どっこい、そうではない。ここは「情報集積基地」。人々の欲望とニーズに基づいて、新しい情報が次々と放り込まれ、どんどん変化していく。その変化は日本の街に例えればアキバに近い。そして、その変化は常に未来を先取りしている。つまり、ここで発生していることが、数年後にはあちこちで発生するという面白い空間なのだ。一例を挙げれば90年代半ば過ぎにはネットカフェが乱立し、2000年代の後半には早くもこれが消滅するといった具合。つまり、5年くらい事が早く進むのだ。

ところで、これと同じように未来を先取りし、数年後にその空間で発生していることがあちこちに発生するという場所がある。それは東京ディズニーランド(TDL)だ。日常空間のテーマパーク化を押し進めたのは、間違いなくTDLなのだから。例えばイオンモールは間違いなく「商店街」、そして「プチ東京」という名のテーマパークだ。

そこで、今回はこの二つを比較するかたちで情報化社会の変容について考えてみたいと思う。この未来を先取りする二つの空間。一見、全く正反対のベクトル(例えば清潔/不潔、整序/混沌)を示しているようで、実はまったく同じ方向に向かっている。そして、それはまさに情報化社会における空間変容、人々の行動の変容、情報環境の変容を象徴している点で実に興味深いのだ。
今回はこの二つの空間の変化を15年のスパンをおきながら解説してみたい。前半は90年代から。

90年代末のTDLとカオサン~開いた系と閉じた系

僕はかつてカオサン地区のフィールドワークを『バックパッカーズタウン・カオサン探検』(双葉社1999)という一冊の本にまとめたことがある。これは90年代後半のカオサン地区の状況とバックパッカーについて綴ったもの。この時、カオサンを描写するにあたって、比較対象としてTDLを引き合いに出している。そして、そのとき二つの共通点を「テーマパーク」という言葉で表現している。TDLは「夢の魔法の王国」、カオサンは「ビンボー旅行」(実際に貧乏な旅行者ではなく、貧乏を楽しむという意味で「ビンボー」とカタカナ綴りにしている)というテーマに基づいて作り上げた環境=テーマパークであるという点で二つは軌を一にしているという展開で。

ただし、二つはそのベクトルにおいて全く正反対。TDLは「閉じた系」。一方、カオサンは「開いた系」だと指摘しておいた。TDLはディズニー側が環境を一括管理化し、全てをコントロール可能な支配下に置いている。この管理のスクリーニングによって、テーマを破壊するような要素は徹底排除される。それはまさに中央制御コンピューターによる環境の支配、G.オーウェルが小説『1984』の中で出現させたビッグ・ブラザー的な存在を彷彿とさせる。だから「閉じた系」。そこには整序され、統一された空間が広がっている。当然テーマはトップダウンで構成されている。

一方、カオサンにはこういったテーマを一括管理するような中央制御機構はない。この空間を作り上げる人々の有象無象の欲望が、結果として「テーマらしきもの」、つまり「ビンボー旅行ゲーム」に興じるテーマパークを作り上げている。つまり、バックパッカーのニーズ=欲望に応えるかたちで、ここから金を引き出そうとする人間のニーズ=欲望が展開し、こういった欲望の交錯の中で空間が結果としてボトムアップ的に構築される。「ビンボー旅行ゲーム」というのは、そういった欲望の関数として後付け的に出来上がったテーマでしか無い。だから「開いた系」。

で、本書の終わりには、カオサンは人々の欲望がどんどん重層的に絡んでいくことによって、この空間自体がまた別のテーマに看板を掛け替えてしまうことが起こりうることを予測している。90年代末には、ここに外人バックパッカー(主に欧米旅行者)が集結することがタイ人の若者たちにとっては「オシャレ」として受け取られ、このエリアにタイの若者が多く押し寄せるようになる(かつての赤坂、六本木、麻布をイメージするとわかりやすい)。その結果、タイ人を相手とするパブやクラブ、屋台がカオサンエリア一帯に広がるというようなことになっている、ひょっとしたら、いずれここはバックパッカーの安宿街ではなくなってしまうのでは?とまで指摘しておいた。

この予測は、当たったといえるし、半面ハズレているともいえる。たしかにタイ人の割合は圧倒的に増え、彼ら向けの店も林立したが、バックパッカー向けの安宿街であることをやめることはなかったからだ。で、僕が予測できなかったことはバックパッカーたちの出身国の多様化だった。当時は欧米、とりわけドイツ、フランス、イギリス、そしてオーストラリアあたりが主流だったが、現在はアジアのバックパッカー、つまり韓国や中国、そしてロシアのバックパッカーがここを訪れるようになっている。そして日本人は激減した。

さて、こういった変容によってカオサンはどうなったのか?実は、限りなくTDL化していったのだ。で、その一方でTDLがカオサン化していったのだけれど。

では、現在二つはどうなっているのか?(後半に続く)

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