勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:大学

前回のスマホによる板書撮影の是非に続き、今回は授業へのスマホ持ち込み、及び授業内での使用の是非について考えてみたい。

先ず、講義でのスマホ使用について
講義中にスマホをいじることを禁じている教員がいる。つまり「私が講義をやっているのに、スマホをいじって内職をやっているなど、けしからん」といったところだろうか(笑)。実際、授業中スマホをいじる学生が見られるのは、教員の間ではもはや日常的な風景。SNS、ネットブラウズ、ゲームなんてことやっているわけなんだけど。これに業を煮やし、受講生のスマホを取り上げた教員もあったとか。

スマホを講義中に使い始める理由

しかし、どうなんだろう……
講義中、スマホをいじって内職するのは教員、受講生双方に原因があるだろう。
先ず教員側。思いっきりつまらない授業、あるいはわけのわからない授業、あるいは聞き取れない授業を展開し、これに学生側が愛想を尽かし、でもそれでは手持ち無沙汰なので、とりあえずスマホをいじるなんてことが考えられる。でも、これって、授業に全く配慮のない教員(やっつけで授業をやっているような教員)の場合、実はWINーWIN関係が成立する。学生側の利益は先ほど説明済みだが、教員側の場合でも「講義が静かになる」というメリットがあるのだ。スマホいじりは授業では原則単独でやっている。その際、私語がなくなるからだ(もっとも、隣通しでYouTubeをブラウズし、笑ったり語り合ったりするという辣腕学生も存在するが)。講義は静寂さを保ちながら進行していく(「なんだかな~」とういう状況でもあるけれど)。結果として「講義」という「形式」が成立する……。

また、学生の側に、そもそも講義をまともに聞く意志がなければ、当然、スマホに指先が向かうだろう。まともに聞く意志がないのは忍耐力が無い、そもそも授業に全く関心が無い、出席をとるのでとりあえずいるなどなど、まあいろいろ理由があるのだろうけれど。

中には、こんな事例もあるという。
真面目な学生。だが教員が講義で説明した単語の意味がわからない。そこで、それを調べようとスマホをいじった。その行為を教員が気づき、これを「内職」と捉えて退出を命じた。もちろん単位取得資格も剥奪。「誤解を招く行為」ということなんだろうが。この時、教員ははじめから講義中のスマホ使用禁止を宣言していたわけではなかった。本人は積極的に学ぼうとしていただけなわけで、う~ん、これは可哀想。

講義中に使っていても、実は誰にも迷惑がかからない……神経質な教員以外は

僕は講義中スマホをいじっていても原則、構わないという方針で講義を進めている。それは、前述したどれかに原因が該当すると考えるからだ。つまり、こっちの授業がダメか、学生がダメ(あるいは両方)。前者の場合であるならば僕の責任なので、これはそうならないように工夫をしろという受講生からのメタメッセージと受け取ることにしている。ちなみにスマホを講義中にいじることに僕がさして頓着しない理由は二つ。一つはこれも前述したように私語がなくなるという恩恵があること(つまり「勝手に内職やってろ。黙っていて他の受講生に迷惑かからないんだから、放っておこう。ま、試験で痛い目に合うのは本人なので」という認識。ちなみに、画面を隣の人間と眺めながら喋っていたら、こりゃ当然、迷惑だから止めさせる)。もう一つは授業関係で調べてもらうというのは授業に耳を傾けようとする積極的な姿勢であると考えられるから。内職なのか、それとも関連事項の調べごとなのかは割合簡単に判断がつく。関連事項の調べごとの場合、一斉に調べ始めることが多いから。これが察せられた場合には、僕の方でスマホをいじっている受講生一人を指名し、調べている内容をたずね、こちらの方で説明することにしている。この場合は、授業内容に学生たちが関心を持ったか、あるいは僕の説明が舌足らずだったかのどちらかのサインであると判断している。もちろん調べることそれ自体を制止することはない。ま、調べ始めたら関連事項に次々とネットサーフィンされて、授業がおろそかになっちゃうのは困りものだけれど。

ゼミ進行ではスマホは格好のツールになる!

次にゼミでの使用について。
ゼミは、言うまでもなく少人数で学生と教員がインタラクティブに関わる形式の授業。ここではスマホの使用はむしろ積極的に活用した方が授業は活性化する。

たとえば、ちょっとでもわからないことがあったら即座にネットで調べさせる。学生の場合、言葉の使い方もかなり間違っているので、これもスマホでソッコー調べさせる。またゼミはインタラクティブな授業形式なので、はじめから用意していたもの以外の学習項目も登場する。こんな時、スマホは本当に便利だ。彼らにとって(僕らにとってもだが)、スマホは実に忠実な執事、家庭教師として機能してくれるのだから。だから、僕のゼミではスマホは全員(教員も含めて)常に机の上。で、誰かがよいデータを引っ張り出してきたら、これを大型のディスプレイに表示して共有する。その昔、辞書を引くのは「片手3秒で」なんて言われたものだけれど、現在はこれがスマホに取って代わった。そして、とにかくわからないことが出てきたら、すぐにスマホで調べる癖を付けさせる。これで「バカの壁」を超えることが出来るわけで。だから、わからないことがあってボヤッとしてた時には「指を動かせ!」と口を酸っぱくして言うことにしている。で、これができるようになった学生は強い!

おもしろいのは、ゼミの最中、スマホを私用に使っている場合だ。これも内職になるのだけれど、同じ内職でも講義とは全く異なった位置づけになる。というのも、これをやられると、ものすごく不快な雰囲気がゼミ全体に広がってしまうのだ。つまり、他のゼミ生たちが「アイツ、完全にやる気がない」というふうな印象を抱き、授業の雰囲気に水を差しモチベーションを下げてしまう。ちなみに、ゼミ内での私用のスマホ利用の場合、操作は机の下になり、下を向いているので、すぐにそれとわかる。少人数、狭い空間で相互が見える状況では、私用に使うといっても、結局、十分に周囲に迷惑がかかるわけで、教員が不謹慎と思うのみならず、他の学生もまた(いやむしろこちらの方が)不謹慎と思う。これについては禁止するというのが、まああたりまえだろう。

スマホの教育利用はまだ始まったばかり、いや、始まってもいない?

もちろん、これ以外にも授業にスマホを活用する方法はいろいろ考えられるだろう。大学側、教員側はスマホという新しいメディア(もはや新しくもないが)に戦々恐々としているのではなく、もう少し活用する方にアプローチすべきではなかろうか。もっとも、そのアプローチはスマホの特性を考える前に、先ず教育をどうするべきかを考えることから始めなければならないのだけれど。


オマケ:ゼミでのインターネットやSNS、スマホの活用法の僕の論考及び実践例については本ブログ「クラウド時代のゼミナール運営術」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/62869697.html、「機能していない大学のインターネット環境」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64558702.html、「卒論作成ツールとしてのパワーポイント」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/63563644.html等を参照されたい。

インターネット、そしてスマホ時代の大学講義のあり方について考えてみたい。今回はスマホによる板書の撮影の是非について考えてみよう。

大学の学期末テスト。試験実施にあたっては、教員によって様々な制限が課せられる(制限のかけ方は任意)。最も厳しいのは試験への資料等の持ち込み全て不可というもの。ここから辞書持ち込み可、ノート持ち込み可、教科書持ち込み可、どんどんゆるくなっていくとコピー持ち込み可、さらには全て持ち込み可という具合になっていく(中には自著を買わせて、これを持ち込まないと不可。しかも試験中、担当教員が巡回し、テキストを開いて奥付にハンコを押すという作業を行う「辣腕」の教員も存在する。これ「テキスト持ち込みは義務、ただし奥付に教員のハンコのあるものは不可」という規定で、ようするに売れない本を無理矢理買わせるという、限りなくアカハラっぽいやり方だ。残念ながら実在する)。

そこで問題になることがある。それは「自筆のノートは持ち込み可だがコピーは不可」というレベル。この間隙を突いて、新手の手法が登場した。それは「スマホによる板書の撮影画像の持ち込み」だ。コピーは、一般的に他の受講生がとったノートをコピーしたもの。これを不可にする根拠は、恐らく「欠席しているにもかかわらず、他の人間の作業を都合よくいただいている」「ノートをとる努力をしない、不謹慎な行為」といったところだろうか。撮影は他の学生のコピーではない。だから前者のモノノイイは該当しない。ま、写真もある意味コピーだからコピー不可というのが該当するんだろうか?また「ノートをとる努力をしない」というのは、もう「なんだかな~?」と感じる世界に僕には思えてならない。これじゃ、まるで授業=勉強が「スポ根」に見えてきてしまう(もちろん、メディア論的には「ノートをとる」という行為自体が、勉学へのモチベーションを高めるという側面があることは認めるにやぶさかではないけれど、費用対効果的にはあまり意味がないと考えるので)。

しかしながら、板書の撮影、ものすごく意見が分かれている。大学の中には全学的に板書の撮影を禁止しているところもある。

板書撮影は著作権に抵触する?

たとえば「撮影は著作権に抵触する」といった意見。しかし、これはちょっと矛盾している。そもそも板書とは書き写されるため、つまりコピーされるための行為。だから、撮影が著作権に抵触するのであるならば、ノートとりも同列ということになるだろう。もう少し突っ込んだ議論だと、板書はよくても、撮影の際に教員が映るからダメ、つまり教員の肖像権の問題が発生するというものがある。ちょっと法律は疎いので、これはひょっとしたらマチガイかもしれないが、講義というパブリックな空間でパフォーマンスを展開する教員というのは公人なのでは?だとすれば肖像権というのは抵触しないことになる。また、教員が気になるのならば、板書を適当なところで一旦打ち切り、本人が教壇から退く、つまり黒板の外に消えて撮影を許可すればよいだけの話だ。

こういった議論はさておき、板書の撮影を合理的にやめさせる方法はもちろんある。それは「板書の撮影禁止を学則に明記すること」だ。原則、学生は大学の校則を遵守することを認めて入学していることになっているので、この場合は当然、罰則の対象としても構わない。つまり「権威」で押し切るというやり方なんだけど(笑)

板書撮影は授業効率を高める手段でもある

僕は、原則、板書の撮影を認めている。その理由は次のようになる。
ノートをとるという作業、実は「とる」という行為に意識が集中した結果、むしろ学習がはかどらなくなるという側面も備えている。中高時代にものすごく丁寧なノートをとっている生徒(女子に多かったという記憶がある)がいたが、その生徒たちが他の生徒に比べて成績がよいということは必ずしもなかった。むしろ、ほとんど板書らしきものをせず、ひたすら教員の授業に耳を傾け、必要な箇所をノートよりも教科書に直接書き込んでいたような連中の方が成績がよかった。なんのことはない、彼らは授業に集中していたのだ。

そう、僕が板書の撮影を認めるのは、要するに授業中は話の方に集中して欲しい、そして究極的には学習内容を自分のものとして欲しいと考えるからだ。もしペンを動かすのなら、それは板書ではなくてメモであるべきだ。この場合、ノート=メモは講義を聴いて思いついたことを書き付ける場所。つまり、ポイントを押さえておくために使用されるものになる。ただし、その際、教員側は授業内容を教科書や配布プリントに記載しておくという配慮を行っておく必要がある。あたりまえの話だが、復習(あるいは予習)する学生のニーズに応えなければならないからだ。比較的効果的なのはPowerPointで授業を展開し、その際にスライドのプリントを同時配布し、そこに書き込んでもらうやり方だろう。恐らくこれが一番効率的なのではないだろうか(ただし、教員が怠慢になって、一旦作成したスライドを延々続ける恐れがある。また、そしてスライド投影中は教室が暗くなるデメリットも。つまりメモをとりづらい)。

「思いをめぐらせる時間」を提供することこそ講義には必要

こんな配慮を教員側が行えば、板書などという「思考を中断させる恐れのある行為」を省略できるし、前述したように講義に集中できるし、さらに余った時間で、講義内容について学生側が様々な想いをめぐらすことが出来る。重要なのは、この「思いをめぐらすこと」。勉強というのは「暗記」で終わるものではなく、さらに「暗記したものを道具に、いろいろと考える」そして「それを自分なりに使いこなす=編集する」ものでもあり、そして、むしろこちらの方が重要と考えるからだ。

たとえば、『ドラえもん』で面白いのは、のび太がひみつ道具を使って問題解決をするところではなく、それを悪用≒応用するところにあるのだけれど、これって「学び」の本質を突いている。たとえば「ジャイアンに使ったひみつ道具をしずかちゃんに使ったらどうなるのかな?」といったのび太の妄想を思い浮かべていただきたい。ここに読者が関心を寄せるのは、ようするに、作品と自らの思考がインタラクティブになるからだ。つまり思考の揺らぎが読者側にももたらされる。それこそが知的な快感なのだ。

だから、この「思いをめぐらせる」時間を用意する手段があれば、勉強というのは基本的には面白いものになるのだ。そう考えると、メディアテクノロジーが高まった現代において「板書」という授業方法はもはやオールドファッションと言えるんじゃないんだろうか。

結論。学生の学習効率を考えれば、板書の撮影、別に構わないと思う。ただし、授業中にカシャカシャやられると、他の学生の迷惑になるし、音にイラッとくる教員もいる可能性があるので、その辺のマナーは守ってもらう必要があるけれど。

みなさんは、どうお考えになられるだろうか?

※次回は、授業中のスマホ利用(今回の講義の写真撮影以外)のあり方について考えてみたい。


福岡教育大で大学教員(准教授)が学生に対して安倍政権及び安全保障法案反対のデモ練習をさせていたことが物議を醸している。「戦争法案反対」「安倍は辞めろ」などの文言を復唱させたのだが、このことを学生がTwitterに書き込んだことがきっかけで事件が拡散した。

とりあえず、この報道は事実という前提で(ねじ曲げて報道されている恐れもあるので)、大学教育の現状とあり方について考えてみよう。

「政治的な信条を教育の場に持ち込んで、しかも練習までさせて洗脳教育するなど不届き千万!」と、この教員を弾劾することは容易い。ただし、こうやって弾劾することで済む問題ではないと僕は思っている。根はもっと深い(もちろん、この教員を擁護するつもりは一切ないけれど)。こういった事態が発生する構造的問題を考えてみたい。

誰も「個」が確立していない?

福岡教育大学はかつては国立ではあったが、現在は独立法人(国立大学法人)である。国立大学が文科省(あるいは文部省)管轄下にあった場合、大学教員は公務員、つまり役人であり、思想信条を業務に持ち込むことは禁止されていた。また公的機関ゆえ、原則、大学がビジネスを展開し営業利益を上げることも禁止だった。しかし、現在は独立法人であり、その活動は大幅に自由になった(ことになっている)。ということは、極端な話、今回の件、大学側が「オッケー」と言ってしまえば、実は何ら問題はないという状況にある(もちろん、そんなことはないだろうけれど)。この准教授はどうやら大学側の処分の対象になるようだが、それは「公務員」だからではなく、福岡教育大という組織の方針の問題に基づいている。この認識は前提しておいた方がよいだろう。そしてそれは大学における教育の本質と関わっている。

ただし、問題は福教大にこういった教員が出現し、そして学生がそれに従い、さらにこれがネット上に拡散され、全国的に知れ渡ったという事実だ。

先ず、教員。これ、はっきり言ってヤバイとしか言いようがない。前述したように、教育と煽動、あるいは洗脳を混同している。原則、大学教育は科学における専門領域の情報を提供するのが基本。だから、この行為は間違っている。当該教員は、おそらく学生を「個人」として認めておらず、「保護すべき存在」「しつけを施す存在」という前提に基づいている。つまり、「おまえたちはよくわかっていない。だから、自分の言うことを訊けばよいのだ!」というパターナリズム。この人、安倍政権と同様、人権(この場合、学生のそれ)を尊重していない。

ただし、である。これ、学生の方のリアクションもまたヘンなのだ。学生自身が、これがおかしいと言うことで、教員や大学側に異議申し立てをすれば済む話なのだが、これはどうやらなかったようだ。だって、学生たちは素直に練習しちゃったんだから。言い換えれば、学生たちもまた「保護されるべき存在」「しつけられる存在」という無意識の前提がある。自らの人権に対する自覚に欠けている。

そして、これがメディアで取り上げられること。これもまたヘンだ。なぜ取りげられたのか?Twitterにアップされたからだ。これでもって話はマスメディアの目に触れるものとなり、大々的にピックアップされることになった。「安全保障法案」という時節ネタ、そしてメディアが虐める対象のひとつである教育分野であるということもあって「これはおいしい」とメディアは考えたのではないか。ということは、メディアも当該教員、学生と同様、自らの立ち位置に対する自覚がない。業績原理(視聴率や発行部数)の僕である。

そこで、大学側としては看過することが出来ず、当該教員に対し規則に照らし合わせて厳正に対処する」と大学の公式サイトにコメントした。これまた、メディアが取り上げることがなかったら、こんなことはしなかっただろう。そう、大学もまた自覚がないのである。

もし「個」が確立していたら……

さて、これ。もう少し個人が「しっかり」としていた、つまりそれぞれの「個」が確立していたら状況は異なっていたのではないか。試みに「しっかり」しているシチュエーションで、今回の事件をアレンジしてみよう。だいたいこんな感じだ。

教員が洗脳的な学習を実施する→受講生たちから意義があがる→侃々諤々となる→大学当局がこれを感知する→大学側で対処を行う。「大学教育は科学に基づく情報の提供であり、政治的な煽動は不適切」という原則に基づいて、既存の教員が何らかの罰則を受ける。メディアはそのことを知らない。

ところが、今回の事例の場合、現代の典型的なパターンとして、ここにインターネットとマスメディアが介在した。つまり、現場では「煽動=洗脳学習」が黙々と実行される→表向き、学生の反対はない→学生の一部がネット上でその事実をアップする→マスメディアが取り上げる→全国規模の大騒ぎになる→大学側が後手に回る形で対処する。

もし、今回の事件でTwitterへのアップがなかったら、どうなっていただろう?このことはなんの問題にもならず、当該教員は今後ともこういった煽動=洗脳教育を推進していくだろう。なぜって?Twitter的なタレコミ以外に発覚する可能性がきわめて低いからだ。逆に言えば、こういったことは実際、現在の大学のあちこちで発生している可能性が考えられると言うことでもある(まあ、そういった意味ではSNSは便利な道具でもあるのだけれど)。

進学率50%越えの弊害

かつて大学進学率が20%以下であった時代(1960年代まで)、大学生はエリートだった。だから、かなり主張もした。60年代の学生運動などはその最たるものだっただろう(もっとも、それ自体もファッションだったという見方もあるけれど)。彼らは自分たちを「学生」と呼び、教員や大学組織と個人対個人、あるいは個人(または集団)対組織という図式で渡り合う人間が少なからずいた。だから、こんな洗脳をやらかす教員がいたら弾劾されるか、あるいは完全に無視されるかのどっちかだったのではなかろうか。それなりに「個」が存在していた。だから、大学側も専門分野の情報を提供していさえすればよかった。テキトーな授業でも学生たちが自助努力をしてくれた。

ところが50%を超え、大学は「とりあえず行っとくところ」といった「ビール」みたいなものになってしまった。当然、彼らはエリートではなく大衆。そして、時代の趨勢は過保護、人権の徹底的な擁護、ヘタすると弱者が最強の強者になる可能性を孕む方向に進んでいく。学生たちは「保護されるべき受益者」という自覚があるのか、自らを「学生」とは呼ばず、「生徒」と呼ぶ(僕は、学生たちがこの言葉を使う時には、「君たちは学生なんだよ」と言うことにしている)。ということは、学生への対応は実質上「生徒指導」となる。ということは、手取り足取りの指導が必要になる。で、実際そういった指導が必要になっていることも確かではある。そして、今やそのことは学生の親、そして社会が要請していることでもある。USJで、集団で破廉恥かつ迷惑な行為を学生が行った際、その件について謝罪したのが親ではなくて、学生たちが所属する大学だったという事実は、まさに社会が大学に「生徒指導」を要請していることの傍証だろう(これって、本来謝罪すべきは親のはず)。「しつけ」、つまり有無を言わさぬ「学習」「訓練」を大学側も要請されるようになったのだ。それが50%越えの弊害。しかし、大学はもうそこまで来ているので、教員側としては、こういったことへの対処は当然のノルマとなる。う~む……。

こういった状況を踏まえれば、教員の側としては洗脳や煽動にならないよう、慎重に「学習」「訓練」を施さなければならないという、なかなか難しい課題をこなさなければならなくなる。だが、それを勘違いすると政治的な考え方まで手取り足取り教えてもよいとする輩が一部登場する(大学教員は、もともと大学に所属することが目的でここを目指してきたので、教育についてはあまり関心がないし、スキルもないという人間が多い)。それが、今回の事態を結果した。

大学に所属し、学生を指導している自分にとっては、こういった大学とそれを取り囲む現状が、今回のような勘違いを生む温床としてあるように思えてならない。


(オマケ)
そして、今や大学側が一番の弱者(お客さんが減っているので)。当然、これら問題について熟考すべきという課題を突きつけられていると言うことは、肝に銘じておくべきだろう。もちろん、僕もその課題を処理しなければならない当事者の一人ではあるのだけれど。デカいツラなど、してはいられないというのが大学の現実なのだ。



研究編:研究という権威とどう関わるかで態度は変わる

大学に生息する珍種の教員についてご紹介している(あくまで珍種、亜種です。あしからず)。後編は研究・事務編。ちなみにここでの様々なエピソードは文系教員を対象にしている。大学教員は教育者でもあるけれど「本来は研究者」というアイデンティティがある。つまり、「研究が好きで学者になった」というタテマエがある。で、このタテマエがどう展開するかで研究や事務に対する態度も変わってくる。

「これでいいと思います!」というご託宣

大学院時代の仕事は研究者にめざし研究会への参加、論文作成、学会発表・参加、主任教授のカバン持ちなど、いろいろとやることがある。で、院生の中には大学院というのは結構響きがいいと思っている人間がいる。大学が「最高学府」、ということは大学院は「チョー最高学府」ってな認識があるからだ(さながら「最高裁判所」のあとに「バッチリ裁判所」とか「ハイパー裁判所」とかがあるという感じか?)。おまけに、今や大学院はかなり入りやすい(文科省の指導によって定員を大幅に増やしたため)。自分が所属した大学の偏差値プラス5とか6とか、いやそれよりもっと偏差値の高い大学の大学院に意外と簡単に入学することが出来る(学歴コンプレックスの固まりみたいな学生たちは大学院に入ることでルサンチマンを晴らしたり学歴ロンダリングをやったりするのだけれど)。

で、こんな認識をもっていると大学院時代で、すでにいおエラい方になる場合もある。たとえば、学会でオモシロイ発言をする人間が登場する。学会発表の席で、某有名T大学の院生のやった質問・コメントがその典型だ(発表者ではない)。学会発表では発表の後に質疑応答があるが、その際、件の院生は「それでいいと思います。あなたのやっていることは合っています」とコメントしたのだ。おいおい、あんたはいつから大先生になられたんだ?それとも神なのか?当然、その場は唖然とした空気に包まれた。つまり”中二病”(ちなみに、このエピソード、あっちこっちから報告があった。しかも、これをやるのが、なぜか決まってT大院生なのだ)。

大学教員生活は余生

で、なんとか大学に職を得ることに成功するのだが、そのうちの一部の者が就職した瞬間、研究をスッパリとやめてしまう。ようするに「上がり」ってなわけだ。その一方で、困ったことに学務も教育もやらない。いいかえれば三十代で「余生」に入る若者が登場する。こういった人間は大学からすれば「不良債権」。何にもやらない分を他の教員や職員がフォローすることになる「焦げ付き」になってしまうのだ。大学の人選は公募か特定採用が基本。前者は広く公募を募って書類と面接で選考する。後者はいわゆる「一本釣り」。そして、この二つの中間形態の採用方法があるのだけれど、いちばんフェアに思えているようで、実はリスクが高いのが公募なのだ。書類だけだと業績しか見ることができないので教育と事務能力を測定できない。なので、面接や模擬授業を選考項目に加えるのだけれど、これとて一回きりが原則なので、上手く切り抜ける人間は結構多い。採用人事は、いわば「スカを引かない」ために行われるという側面があるのだが、どうしても紛れ込んでしまう。特定採用のようなコネの方が安全という場合が、間々ある。

で、こういう輩は結局、権威主義。大学教員という職業が社会的ステイタスであり、これを獲得したいというのが先ずあって、そのタテマエとして「研究が好き」となっているという体裁を装っている考えるのが正鵠を射ているだろう(だから就職した瞬間、カミングアウトして研究をやめてしまうのだけれど)。ちなみに大学教員になったところで、そんなに高額な給料がもらえるわけではない(国公立ならフジテレビ社員の半額くらいか?まあ、平均年収よりはマシだが)。ということは、やっぱりネームヴァリューに関心があるというわけだ。

「私は研究者」という強烈なアイデンティティ

一方、その逆もある。研究者というアイデンティティがメチャクチャ強い人間だ。「全ては研究のため」「自分は研究のために大学に所属している」という信念ゆえ、こちらには一生懸命だが、その反動で教育と学務をほとんどやらない。で、こういうタイプは二つに分かれる。一つはそちらの研究に没頭するので優秀なタイプ。ジャンジャン業績残して、とっとと上の大学へと移動する。上の場合「研究中心の大学」なので、本人からすればそれまでの大学は「腰掛け」としてうまく利用したということになる。

まあ、これはこれでいい。著名な学者がかつてこの大学に所属していたというのは大学に箔がつくからだ。それなりに貢献している。マズイのは研究があまりにオタク過ぎて、当該学問分野でも相手にされないタイプだ。教育や学務をやらない、その一方で研究機関としての大学にも貢献しない、研究ばっかりやっているので社会性がない。というわけで、これもやっぱり「不良債権」扱いとなる。

学会でご託宣を宣う

就職が決まると研究をだんだんとしなくなるので、学会発表も減ってくる。調べればわかることだが、学会の発表者って、その多くがまだ就職先が決まっていない若者たちなのだ。ただし教員にとって学会はかつての仲間との再開の場でもある。しかも大学からその費用が出るので出席するにはやぶさかではない(とりわけ北海道や沖縄で学会を開催すると参加者が増えるのは、なにをかいわんやである)。

で、出席してギャラリーとして参加するのはよいのだけれど、中には迷惑な連中も存在する。やはり、発表者について質問やらコメントをするのだけれど、これが完全にピント外れというか、我田引水というか。自らの関係筋の発表がなされると、その発表についてコメントするのではなく、持論を展開してしまう。つまり相手の話を聞かず長々と高説を垂れてしまうのだ。その間、他のギャラリーは延々待たされることになるのだけれど、まあ迷惑きわまりない。

学務編:やってもらうことが基本

事務は職員の仕事

最後に事務=学務についても触れておこう。学内の事務、つまり学務も教員の重要な仕事の一つだ。しかしながら、これを極力やろうとしない輩が存在する。先ず書類の提出が遅い、あるいは提出しない。職員の方も慣れたもので、ある程度書類が出てこなければそのままスルーするか、こちらの方でさっさと処理してしまう。こっちの方が遙かに経済効率がよいからだ。それゆえ会議の議事録、進行表等の作成は全て職員が担うところが結構多い。これって、教員が手がけることで学務に対する自覚が涵養されていくという効果も期待できるのだけれど。しかし、教員にやらせておけばいつまで経っても出来上がらないので、やっぱり効率性を踏まえて職員がさっさと処理する。つまり、教員は上げ膳据え膳をやってもらえる「お殿様」となるのだが、これがデフォルトになってしまうと、ただただおエラい方になっていく。これこそ「大先生誕生」の構図である!

パーティの席上で、人は向こうからやってくるものと考える。

パーティの席上での教員の行動パターンも興味深い。基本、こちらも「上げ膳据え膳」という状況を期待している。たとえば、初めて出会った場合。名刺を先に差し出すのは相手の方。いや、後からであっても出してくれるだけまだマシ。中には、その都度「実は、名刺を切らしておりまして」と言い訳し、名刺を決して配らない教員もけっこういる。これ、言うまでも無いことだが、ビジネスの世界では余裕で失格の行動だ。

また、酒宴の席では専ら1カ所に立ち続ける。椅子がある場合はそこに座り続け、他の参加者が挨拶しに回ってくるのを待つ。これは傲慢と言うよりも、自分から席を立って挨拶するといった社交を経験したことがないから。で、着席しているときは手持ち無沙汰なので、たまたま隣に居合わせた社会人、あるいは教員と話し込むことに。教員同士なら相互扶助(見知らぬ空間で手持ち無沙汰になることなく、やり過ごすことが出来る)になるが、相手が社会人の場合だと教員のおもりをさせられることになる。

前回述べたが、最近、大学は過当競争の中にあるので教員も営業に駆り出される。たとえば企業説明会などを開き、その後で立食パーティが催されたりするのだが、その時、会場の隅の方に集まりヒソヒソ話をしている連中が教員だ。怖くて見知らぬ人間に名刺を差し出すことが出来ないのだ(前述したように、持っていないという輩もいる)。で、お客であるはずの企業の人事担当の方が名刺を持ってやってくることに。

でも椅子取りゲームは好き

こんな輩がある程度力を持ってしまうと学務それ自体が立ち行かなくなることも発生する。大学を「余生の場」と捉えている教員にとって、この環境は是非とも守るべきもの。だから、現状の環境を変更したくない。そこで、構造を変化させないようと努力し始める。いわゆる保守反動、アンシャンレジーム志向。で、これと学者気質と結びつくと質が悪い。学者というのは要するにオタク。施行細則にものすごく細かいという性格がある。で、この性格が保守反動と結びつくと大学規定を熟読し、どんな新しい提案も「規定違反」という解釈を構築して変革をストップさせてしまう。で、とにかく誰よりも規定を読み込んでいるので、最終的に誰も反論できない。かくして大学組織は旧態依然としたまま運営が続けられ、気がつけば時代から取り残されることに。ちなみに私大で理事長とか理事会がワンマン経営している場合は、こうはならない。ただし、それがよいかというと話は別。今度は理事会がわけのわからない裁量で大学運営を振り回し始める。

ちなみにこういったたぐいの教員は元々権威主義なので、偉くなることは大好き。教授になること、役職に就くこと、派閥を作って政争を繰り広げること、こんなことに血道を上げる輩も、まあ結構いる。セコイ「白い巨塔」ごっこみたいな状態を繰り広げて余生を楽しむのだ。という足の引っ張り合いなんて茶番もまた、展開される。

ということで、あっちこっちの大学に生息する大学教員たちの亜種の生態とその行動について今回は紹介させていただいた。こんな輩が大学教員の中にいると考えると、まあ教員も「人の子」ってなことになるんだろうか。

僕の知り合いの小学校の校長先生が退職後、教育学関係の大学に再就職された。定年後に、受け入れ側に望まれて入ったくらいなので、教育者としてきわめて優秀、教育にも熱心な方だ。さて、再就職してそろそろ1年が経とうとしている件の先生に先頃お会いしたのだけれど、なんと先生は大学に不満を抱いておられた。それは「大学は不可思議なところ。教員がマトモに教育していない」というものだった。学生が授業に欠席しようが知ったことではないし、授業以外はほとんど関わることがない。逆に一生懸命面倒を見ている自分が白い目で見られるほど。

「大学の先生は教育者としての自覚って、どうなっているんでしょうか?」

これには僕も別の側面からではあるが同感だ。僕は大学教員になって17年目だが、それ以前は一般社会でフリーランスとして過当競争の中で働いてきた。当然、仕事できなかったり、失敗したら即クビという状況にあった(実際に、突然クビにされたこともある)。そんな僕、つまり民間で仕事をしていた目から見ても、大学教員の中にはきわめて不可思議な人間が存在する。一般社会ではあり得ないことをあたりまえに思っていたり、にもかかわらずそれがまかり通ってしまっていることもしばしばなわけで。あまりにそのかけ離れた行動に、僕はかえって関心を抱き(これも社会学者という奇異な職業の性分か?)、教員となって以来、いわば生態学的?あるいは文化人類学的に教員を観察してきた。で、研究会などで顔を合わせるあっちこっちの大学の教員にこのことを訊ねてみると。変わった「生態」があるわあるわ、いろんな話が返ってきて盛り上がってしまった。そこで、今回は、大学教員という動物の生態?(あるいは部族?)について集めたエピソードをご紹介してみたい(こりゃ、どっちかというと文化人類学的なフィールドワークかも?)。ただし、間違えないでいただきたいが、ここからご紹介するのは大学教員の一般的な傾向=趨勢というわけではない。あくまでも「こんな輩が存在する」というふうに理解して欲しい

大学教員の仕事は大きく分けて三つ。教育、研究、そして事務だ。なので、この三つに分けて事例を紹介したい。

教育は全て自己責任という立場

で、今回は教育についていくつか取り上げてみよう。

・学生が何もしなければ、何もしない

「大学は最高学府。選抜された大人が研究に対して自主性を持って入ってくるところ。なので大学教員としては、もっぱらその知識を提供するのが仕事。よって勉強する、しないは全て自己責任。やる気のないやつは放っておけばいい。要は自己責任なんだから」。
こういったスタンスで講義やゼミをやっている教員がいる。三十年以上も前の、進学率が10%程度ゆえ、実際に選ばれた人間が入学してくるというシチュエーションなら、まあ、わからないでもないが、もはや大学進学率は50%を超えている。でもって、もはやほぼ全入の時代なので、こちらの方から手招きし、手厚い保護を加えないことにはほとんどの大学は成り立たない時代に突入しつつある。つまり小中高の「生徒指導」レベルが要求される時代。だから、こんなこと言っているようではどうにもならないのだが、そんなことはお構いなしである。

・授業時間は正味一時間

授業を15分遅れで始め、15分前には終了する。一講義は90分なので、正味一時間くらいしかやらない。講義もちょくちょく休講にする。ちなみに、最近、文科省はこの手のことにかなりうるさくなっており、国公立の大学では必ず15回の講義(半期)をやるように指導しているところも多くなってきた。一方、私学となると、このへんはかなりイイカゲン。

・授業はひたすらビデオ

国文学の授業なのだが、ひたすらビデオで映画(日本の古典)を見せるという教員がいた。映画のジャンルは自分の好きなヤツ。それを分析するとか、体系立てて説明するとか、そんなものは一切ない。で、映画が終われば、また次の映画。「この時代、原節子は大女優でした。いや~美人ですねぇ」って、どうでもいい話で授業は展開する。しかも、気に入っている場面では本人が介入して話をするので作品が中断されてしまい、真剣に見ている学生にとっては、かえって集中しづらい。ただし、この先生、人気があった。ほとんどの学生にA評価を与えていたのだ。ということは、授業中は、つまらない映画を上映している暗い教室内で昼寝していれば優秀な成績がもらえる。出席も採らない。ということは、手際よく単位を取りたい学生にすれば「よいセンセイ」ということになる。

・駅のコンコースと化す授業風景

受講生に全く関心を示さない。だから授業のプレゼンはメチャクチャ。ボソボソと喋ったり、ものすごい早口だったり、板書がべらぼうに多かったりする。また板書は書いた瞬間消してしまうので、実質学生たちはノートが取れない。ただし、学生に関心を示さないので、学生の方も適当にやる。だから教室は私語の嵐。さながら駅のコンコース状態。

・やたらと受講生に過敏

その反対もある。とにかく受講生に過敏なパターンだ。咳をしたら怒りだし、即座に教室から退出させた。体調が悪くなり退出した学生を再入出させなかった。次回の講義で件の学生が出席すると睨みつけ、学生は事実上、それ以降の出席が不可能になった。ただのアカハラなんだが、そのことが全くわかっていない。教員にとって、この学生は、ただ単に「態度が悪い」という認識しか無い。センセイはエラいのである。


・試験の解答を教える

期末テストは面倒くさいので「合理化」を推進しようとする教員がいる。○×式テストを実施する、ほぼ毎年同じ問題を出すなんてやり方がその典型(ちなみに授業内容が10年間同じというのもまま見受けられる)。また試験の前の週に「授業のまとめ」と称し、これまで学習した内容の復習を行う。なかなか丁寧な教員とおもえないこともないが、実はこの「まとめ」の内容がそっくりそのまま試験問題になる。こういったやり方をすると、受講学生と教員の間には、ある種のWinーWinの関係が成立する。学生としては毎年同じ問題ならカンペが回ってくるし、授業のまとめをやってくれるならその時だけ出席すれば単位ゲットは楽勝(にもかかわらず、なぜか成績に差が出るんだが)。で、こういう教員に限って出席をとらない。教員としても○×や同じ内容についての回答チェックなので、採点にかかる時間は一枚1分以下。それゆえ、こちらも楽勝。当然、ここでは「教育とは何か」なんて問いは不問に付すべき問題となる。

・自著の教科書の購入を義務づける

教科書を指定している教員の中には、新規購入を義務づける者がいる。授業以外ではほとんど購入者がいないので、毎年せっせと受講生に購入させて在庫分を処理しようという魂胆だ。学生たちは価格がバカにならない教科書(7000円以上するなんてスゴイやつもある。まあ、だから売れないんだろうけれど)を購入したくはない。出来れば先輩から譲り受ける(同じ教科書を使っているのだから十分使える)というかたちで節約したいところ。ところが、これができないように教員側もバッチリ対策を立てている。試験時は教科書持ち込み可。しかしその理由、実は教科書を購入したかどうかをチェックするため。試験最中、教員が教室内を回り、受験者全ての教科書を検分して回る。検分するカ所は奥付だ。ここに自分の印鑑を捺印するのだ。で、もし先輩から譲り受けた教科書なら、すでに奥付には印鑑が捺印されてある。これが発見された学生は即刻受験資格を失うのである。

・ほとんどの学生を不可にした

試験問題の出来の悪さに「学生が怠慢」と憤慨し、全体の8割に単位を認定しなかった。こういった教員の場合、わけのわからない授業をやっている可能性が高い。本人は高尚な授業をやっているつもりでも、学生たちには理解不能。つまり、学生たちが受けようとするレベルと教員が提供するレベルが全くかみ合っていない。しかし教員側はそれを受け入れないどころか(学生のレベルをマーケティングしようなどと言う意志はさらさらない)学生の学力低下を嘆き、それを「ゆとり社会の弊害」と言い放つ。

・結果として各種ハラスメントをしてしまう

大学教員の多くが大学、大学院という人生を歩んできて、専ら勉強だけだったので異性との関係についての経験値が低い。なので大学に就職し、ゼミで学生の面倒を見ることになるとエラいことをやりかねない。face to faceの関わり、研究室という密室での指導。慣れない異性との関わりの中で、親密性を恋愛感情と勘違いし、気がつけば気分はエロモードへ。そこでセクハラが発生する。また、言うことをきかないと、今度は一転してストーカー=イジメモード、つまりパワハラへと転じる。これもやっちゃいけないことなんだが、社会経験が低いのでわからない。


・評価されることを極端に嫌う

FDと称して、授業改善などを目指して大学は「授業評価アンケート」を実施している。で、この存在を端っから否定する。アンケートは選択式の質問項目が20項目程度で、これらが五段階評価になっているのだけど、これを極端に嫌うのだ。「授業を評価するなんてのは研究の自由に対する侵害だ」「学生には評価能力が無い」「この評価アンケートは真実を反映していない」というのがその理由。ちなみに、この評価アンケート自体、確かに実はほとんど役に立たないことは事実。何のことはない、きわめて差が出にくいのだ(ほとんどの教員が同じような成績になる)。ただし、ひとつだけわかることがある。それは極端に評価が高い教員と極端に評価の低い教員については当たっているということだ(これはグッド)。ただし、自分が評価されることに慣れていないので、とにかく成績を付けられることがイヤ。なので、実施すること自体に大反対が起こる。「授業評価」という名称についても「評価するとは何事か!」というツッコミがなされるほど。センセイはやっぱりエラいのである。で、最近では大学によっては「授業改善アンケート」なんて名前に改められている……まあ、どっちでも同じなんだけど。当然、評価については公表を嫌う教員が多い。なので、大学によっては教員だけに結果が知らされるというところも。しかも返却に当たっては集計する側が事前に自由回答をチェックし、誹謗中傷と思われる部分を削除してから手渡すなんてご丁寧なケアまでやっているところも(ちなみに、これも最近ではアウトソーシングだ)。で、そのままゴミ箱に捨てられるなんてことになれば、実施すること自体に意味がなくなるんだけれど。

またアンケートには自由回答項目が設けられている場合が多い。この欄は、匿名であるがゆえに時にかなり誹謗中傷めいたコメントがなされることがある。ところが成績の公表すら嫌う教員。当然、こういった文面には「怒り心頭に発する」状態になる。「あんな連中は人を評価するような能力が無いんだから、そもそもこんな回答をさせることそれ自体が間違っている」。まあ、評価されることにホトホト慣れていないんだろう。お客様の学生を「あんな連中」呼ばわりするのも、大人気が無い。

・学生の卒論の公表を嫌う

論文というのはあたりまえの話だが「第三者に見られることを前提に作成するもの」。ところが自分が指導した学生論文の公表を頑なに拒む。「あんな連中はて・に・を・はすらわからない。文章を書く能力がない。だいいち個人情報に関する知識もないので、書いたものを公表したら、場合によっては裁判沙汰になる」というのがその理由。でも、よく考えてみて欲しい。これらを指導するのが「卒論指導」なんじゃないの?なんのことはない、指導していないのがバレたら困るだけのことなのだ。で、いちばん見られたくないのは同僚の先生だったりする。論文の質自体が指導の質と量を反映しているからだ。

さてエピソードをいくつか紹介したが、どれも一般社会では到底通用しないといってもいいレベル。で、一括りにしてしまえば「社会性が低い」ということになるんだけど。

ただし、繰り返すが、あくまで「こんなセンセイもいるんですよ」ということで、了解していただきたい。(続く)

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