勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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「支援という形をとって偽善を行うセレブたち」というモノノイイ

熊本地震にまつわるセレブの対応についてのネガティブな意見がかまびすしい。
たとえば「偽善」「売名行為」といった類いの非難がその典型。さらに穿った見方に「配慮に欠ける」というものも。これは人の不幸を利用して自分の利益を獲得しようとするハイエナ的な行動という意味だろう。藤原紀香、紗栄子、上地雄輔、ダレノガレ明美、西内まりやなどなど、被災地に対し個人的に寄付などの支援をした芸能人がネットを通じて(とりわけソーシャルメディアを介して)批判に遭っている。また熊本在住の井上晴美は自らの被災状況をブログで逐次報告し続けたことに非難が殺到。井上は発信をやめてしまった(4月26日再開)。

「偽善パワー」を炸裂させましょう!

こういったセレブの行為について非難を加えること。はっきり言って馬鹿げている。偽善?売名行為?、は?どこがいけないの?ボランティアというのは辞書調べればわかることなんだけれど「自発的」って意味で,好き勝手でやっていること。それで,相手が助かれば何ら問題はないはず。それが結果として自分の知名度や好感度を上げたって、それはそれで構わないでしょ?いちいちケチをつけて,こういった援助を蔑ろにしてしまう人間の方が、かなり常軌を逸しているだろう。こういうケチがつくことを百も承知の高須クリニックの高須克弥院長の発言が興味深い。震災直後、早速自ヘリによる支援物資の提供を宣言をしたが,その際「僕はみなさんから募金を募りません。資材をばらまくだけです。信用なんかいりません」とツイートした。これ、要する「自発的に」、つまり勝手にやっているだけ。「信用なんかいりません」というのは、どうみても「どうせ偽善と言われるんだろうが,そんなことは知ったことではない」という、いわば「偽善、どこが悪い?」と開き直った発言だろう(個人的には高須氏に拍手を送りたい)。


炎上、非難をする輩は全体の0.5%という究極のマイノリティ

で、こういったセレブたちの支援に対する罵声、非難。実は全然気にすることなんかないのだ。

慶応大学経済学部の田中辰雄准教授らがつい先日出版した『ネット炎上の研究』(田中辰雄、山口真一、勁草書房)の指摘は注目だ。残念ながら現在,僕はロス在住中で現物を手に取ることが出来ていないゆえ、サイトのチラ見を参考にさせていただいたのだが、とにかく帯布でその要点は語り尽くされている。曰く「炎上参加者はネット利用者の0.5%だった」。これ,ブログをアップして、しばしば炎上を被っている自分からすると納得だ。実際、炎上が発生している時、これに誹謗中傷等の書き込みを続けてくる人間は限られているからだ(BLOGOSブロガーの場合、マイページでPVを確認できるので、それと誹謗中傷系のコメント数を比較すれば一目瞭然。本当にマイノリティで、しかも同じ人間が何度も繰り返すことも多い。紗栄子も自分への誹謗中傷社がマイノリティであることを突き止めたという)。それが0.5%の中身ということになる。ただし,こちらとしては田中氏の文面(どのような統計的手法を採用したのか)をきちんと改めていないのでなんとも言えないのだが、少なくともこのパーセンテージはブログのコンテンツによって微妙に変わってくることも留保する必要があるだろう。ただし,炎上させる人間が実に実にマイノリティであることは、まあ間違いはない。

だから,セレブのみなさん。ブログやソーシャルメディアで、みなさんがおやりになっている支援活動にケチをつける輩を気にすることなど全くありませんよ。ごくごく少数の意見ですから、気にせずどんどんやってください。ということは,井上晴美さんがブログを再開させたことは完全に正解です。

みなさん、どんどん「偽善パワー」を発揮しましょう。因みに間違えないでくださいね。ここで「偽善」といっているのは,あくまで非難している人への皮肉ですから。みなさんのはただのボランティアと、僕、そして一般のほとんどの人は思っていますよ。安心してください。



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スーパーの店頭で特売になっていた茨城産の野菜。ほとんど売れてなかった。



前回指摘したように、われわれは東北大震災に伴う福島第一原発事故の放射能汚染には過敏になるのに、それよりも、はるかに被害者が多く、増加する自転車事故には無頓着という矛盾した状態にある。だから、僕は福島原発の放射能は身体にではなく精神に影響を及ぼすと前回、指摘しておいた。もちろん、皮肉だが、言い換えればそれは「気の病」だ。でも、なぜ放射能には過敏になって自転車事故にはそうならないのだろう?

アジェンダ・セッティングとは

メディア論には「アジェンダ・セッティング」という考え方がある。日本語に訳せば、これは「議題設定機能」ということになるのだけれど、これは、それまでは誰も意識しなかった事柄についてメディアが取り上げ、それをキャンペーン化することで、人々がそのことを意識し、それがポジティブであれネガティブであれ、議題、言い換えれば問題関心として認識するようになる効果を意味している。

タバコの害が知らず知らずのうちに意識されるようになったのは

その典型的な例は禁煙だ。三十年ほど前、タバコの臭いとか煙を気にする人間はほとんどいなかったし、いたとしても誰もそのことを取り合ったりはしなかった。実際、僕が学生だった80年代、冬場だったら、大学の部室は煙がもうもうとしていて、あたりがだんだん霞んできて、目がチカチカし、涙が出てくるような状況にならない限り、窓を開けるなんてことはなかった。だから部室の壁はタールでべっとり、当然部室内はいつも臭かったし、自分の衣類にもそのにおいは常に付着していた。しかし、誰も気にしていなかったのだ。

ところがタバコの害がメディアで騒がれはじめるようになると、人々の意識には次第に「タバコ=害」と言うイメージが定着していく。列車に禁煙車両、飛行機に禁煙エリアが設けられるようになり、やがて列車は禁煙車がデフォルトに、そして飛行機に至っては完全なノー・スモーキングになった。挙げ句の果てには神奈川県では2010年より受動喫煙禁止条例が施行されるまでに。で、気がつくと僕らもだんだんタバコを吸わなくなり、そしてさらに気がつくとタバコの煙やにおいが凄く気になるようになってしまったのだ。

まあ、確かに喫煙にまつわる害はタバコを吸う人間にも、その周辺の人間にも害を及ぼす可能性があるゆえ(もっとも、分流煙の被害なんてほとんどどーでもよくて、実は、こいつも「気の病」なんだろうが)、ある程度は説得力がないこともないが、問題なのは、それがわれわれにとって良いことか、悪いことかにかかわらず、一旦、アジェンダ・セッティングが起こってしまうと、それをわれわれが取り上げなければいけなくなってしまうことにある。

便座をトイレットペーパーで拭いてはダメ

それは、言い換えれば「取り上げなければ意識されない」ということでもある。たとえば、問題があるのにアジェンダ・セッティングがなされないがゆえに危険と気づかない、僕たちの周辺的な事実をあげてみよう。それはトイレットペーパーで便座を拭き取ることだ。便座は何となく使用前に不潔な感じがするので、トイレットペーパーを抜き取って手でこれを拭く人間が結構多いのだけれど、これって、ものすごく不潔な行為なのだ。便座には当然、様々なバイ菌が付着している。それをペーパーで拭き取ることは、そのペーパー越しに、それを拭いているあなたの手に、他の人が済ましたものに含まれていたバイ菌がバッチリ付着することを意味するからだ。排泄される便の菌の強さは生半可な物ではなく、トイレットペーパーの紙の厚さがある程度あったところで、簡単に突き抜けてしまう。だから、こんなことをした場合は、その後で徹底的に手を洗わなければならない。いや、むしろ、そんなことはしないで、直接着座してしまった方が安全だ。もちろん、臀部が便座に接触するけれど、臀部というのは人間の体重がかかる部位なので、はじめから菌が体内に入りづらい仕組みになっている。しかし、そんな「不衛生な状況」を誰もアジェンダ・セッティングしていないので、気にとめることはなく、むしろ気分的な汚さ、いいかえれば「ばばっちさ」を払拭するためにトイレットペーパーで便座を拭くことで、かえって自らをもっと菌にまみえさせてしまうのである。

要はアジェンダ・セッティングされたか、されないか、の問題でしかない

これと同じことが、原発事故の放射能汚染と自転車事故の増加にも当てはめることが出来るだろう。要するにメディアがそれを「危険」とアジェンダ・セッティングし、問題視させ、さらにそのキャンペーンを働かせてメディア・イベント化してしまうことで、日常の放射線量の一点数倍程度の放射線量であっても、とても危険なものに転じてしまう。その一方で報道されることの少ない自転車事故は、すぐ目の前にある危険なのに一切、気にかけられることがないというわけだ。そして、こういったアジェンダ・セッティングによって涵養された僕らの問題意識は、本当に問題にすべきかどうかと言うこととは一切考慮されることなく、いわば所与として、僕らはこれを扱ってしまっているのである。

これって、どう考えても危険だろう。メディアが、勝手にアジェンダ・セッティングをメディア・イベントとして展開すれば、人心をいかようにも翻弄できてしまうのだから。

僕らは、メディアが突然、とある事柄をことさらに取り上げるようになったときには、先ず、これがアジェンダ・セッティングを意図していることを意識してかかるべきだ。つまり、まずは、「このモノノイイが眉唾ではないか?」と疑ってかかる姿勢を持っていなければならないことを肝に銘じておくべきだろう。

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上昇する自転車事故比率



ご存じのように、東北大震災で福島第一原発が事故を起こし、あっちこっちに放射能を拡散した結果、周辺領域の住民の生活が不可能になっている。また、福島産の農産・畜産物から規定値以上の放射能が検出され、出荷停止の憂き目に遭うという事態を生んでいる。

原発は、とにかく、危険?

そう、原発事故は、とにかく大変だ。しかし、である。原発事故の周辺地域住民のことはさておき、それ以外のさらに周辺の人間はちょっと騒ぎすぎというか、被害妄想に陥っていないだろうか。たとえば「はるかに基準値以下の放射線量」にもかかわらず、これを危険と言ってはばからなかったりするなんてのが、僕には典型的な「妄想」に思えてならない。もっと妄想が激しいものになると、東京は危ないからとさらに大阪などの西方に疎開した人間まで出現した。で、農産物に対する被害妄想もかなりひどくて、とにかく「福島産」「茨城産」と表示された商品を見た途端、誰もが手を出さないという事態にまで及んでいる。

で、僕は言いたい。そんなに放射能が危険なのか、と。こんなことを言うと「政府が公表している基準値などは全く当てにならないのを、おまえは知っているのか?」「子供が将来どうなってもいいのか」ってな反発が必ずといっていいほど返ってくる。しかし、だ。ニュースの天気予報の時間に、震災直後から公表されるようになった「本日の放射線量」の数値を見てみると、その量は事故が発生する前の1点数倍のレベルでしかない。そして、その数値は人体許容量のはるか下でしかない。でも、なぜか「放射能」と聞いた瞬間、多くの人間が過敏に反応してしまうようになっている。

ひょっとしたら微量の放射能でも、それは人間の精神を不安定にしてしまう力を持っているのかもしれない(って、あるわけないんだけど)。

だから、僕は、ちょっとこれにツッコミを入れたいのだ。

「(福島原発の周辺の住民を除いて)原発は自転車よりもはるかに危険度が少ないということを、あんたたちは知っているのか?」

と。

頻発する自転車事故

「原発と自転車の危険性を天秤にかけるなど、オマエはバカか?」とお思いかもしれない。しかし、よ~く考えてみると、これはかなり正鵠を射ている。

2009年のデータでは、交通事故全体の件数に対する自転車事故件数の比率は21.2%。まあ、たいしたことはないと思うかもしれないが、10年前の1999年は18.2%で2.9%増の1.16倍。一方の自動車事故率は、あたりまえだが3%近くも低下しているのだ。こういった自転車事故比率の増加には、自転車所有台数の増加、そして自転車についての道路交通法の不徹底がある。つまり歩道で徐行をしない、違法駐輪をする、自転車を放置する、道路を逆走する(要するに右側通行する)なんて違反が横行し、これを警察が取り締まらないという現実がある(というか、自転車が多すぎて、取り締まろうにも警察官の頭数が少なく、取り締まりが不可能)。

で、こういった自転車事故は、統計に収まらない物が多いことを考えると実数はもっと多いことが考えられるだろう。たとえば放置自転車の横を歩いていたらこれが倒れてきてケガをしたなんてことがあった場合、事故届け、被害届を出す人間なんて、まず、いないだろう。また自転車に歩行者がぶつけられた場合でも、これもほとんど示談。つまり、事故が起きても届け出を出さないというのが普通なので、表に出てこないのだ。でも、自転車がもとでケガをした人間は、かなり多いはずだ。そして、その数は、おそらく今回の福島の当該エリアを除く他の地域の放射線量が増加した地域の人間が被る被害より遙かに大きいのだ。

つまり

「これは大変だ。われわれは放射能の及ばないところに避難するか、原発を廃止すべきだ」

ではなく、

「これは大変だ。われわれは自転車のないところに避難すべきか、自転車を撲滅すべきだ」

もし、これを震災の放射線量に対する人々の反応を自転車事故のことに当てはめれば、当然こんなことを言ってもおかしくないないはずだ。 ところが、こういった自転車が抱えている「人命に関わるかもしれない問題」については、ほとんど語られることがない。これは、いったい、どういうことなんだろう?

放射能は「気の病」

僕は、福島の当該エリアを除く地域の住民の「被害」は、物理的に身体に影響を及ぼす被害ではなく「気の病」としての被害と考えている。そして、この「気の病」を助長している、あるいは「何が悪くて、何が悪くないか」、いいかえれば「日常の数値の1点数倍程度の放射能が身体に悪く、あっちこっちで事故を起こしている自転車が悪くない」を規定しているのがメディアに他ならないと、みなしている。

そこで、今回はこのメカニズムについて考えてみよう(続く)

一元化された価値意識

メディアによる情報が全面化し、一方で共同体の消滅によって、それを基盤としていた口コミ的な情報が衰退することで、かつてあった二枚舌による二枚腰的な対応、つまり“タテマエとホンネの使い分け”という僕らの慣習が失われてしまったことを前回は指摘しておいた。

さて、こういったメディアによって全てが薄っぺらい、一元化したスーパーフラットな環境がもたらす人々の行動の変化はどのようなものだろう……実は、それこそが被災者エゴであるし、一方的な菅首相バッシングに他ならならい。

被災者に対しては「可哀想、お気の毒」というベタなタテマエが全面化される。それによって、この状況を知った日本人は、このタテマエをホンネとして受け取らなければならいという状況になった。一方被災者の方も自分自身を「可哀想、気の毒な人間」と徹底的に思い込んでもよいという状況になった。そう、こちらも同様にタテマエのホンネ化。言い換えればタテマエの全面化になる。

そうなるとこのスーパーフラットなディスクールに基づいてメディアは同情気分をいっそう煽るし、被災者は被害者意識を助長させる。それが菅首相大バッシングになったし、総理大臣を被災者がどんなに罵倒してもよいということになってしまったのだ。

硬直化した一元的価値観から脱出すること~スーパーフラットを突き抜けて

メディアの一元的な情報によって構築されたスーパーフラットな空間と認識。その一元的な価値意識の他には受け入れることが出来ない、いや他の価値観を提示したときにはバッシングに出会うことすらある環境が構築されている(もしかしたら、今回の僕の特集に「被災民を冒涜していて、けしからん!」と怒りを感じている人間もいるかもしれない。でも、実はそういう人間こそこのスーパーフラット環境にどっぷり冒されているのだが)。しかしながら、こういった一元的意識はどう考えても不健全だ。人間はもともと複雑な存在。その複雑性を互いが身体的に許容しながら構築されているのが社会。だから僕たちは、被災者に対し「お気の毒な存在でもあるし、わがままな存在でもある」という認識を持つべきだし、またそれに対して是々非々で対応しながら、これを受け入れる心性を持たなければならない。そして、それこそが最も適切な他者に対する「寛容さ」となるはずだ。

包み隠さず正直に、全部バラしてしまうという戦略
では、スーパーフラットな社会=環境の中で、どうやったら清濁併せ持つ、あるいは表裏を共に理解するような寛容さが得られるのだろうか。

かつての共同体的な直接関係を復活するというのは、わかりやすくていいかもしれないが、それはどう見ても現実的ではない。もはや、僕たちはメディア的環境を第一次環境(生活の主要となる環境)としているからだ。いいかえれば、もう、そこにかつてのような共同体は存在しない。だから、このスーパーフラットな環境を利用しつつ、こういった「環境の複雑性」を理解するような手がかりを構築する必要がある。そして、それは結局のところ、今回、僕が被災民のエゴをバラしたように、スーパーフラットな環境の中に、この隠蔽された裏の事情も青天白日の下に晒してしまうというやり方になるだろう。つまり、表も裏もすべて表に出してしまい、事態の相対化を促していくような視点を提供する。スーパーフラットな環境の中に、これまでの一元性ではなく複雑性を持ち込んでしまうのだ。

これはボクシングで表現すれば「ノーガード戦法」、麻雀で言えば「オープンリーチ」ってなところになろうか。つまり、清濁をともに表明してしまい、代わりに、それが問題になっている土台=根本、つまり存在論的立場を共有する。そうすることで事象それ自体を結果として相対化していくような視点だ。

近代の反転

かつてマクルーハンは「近代が徹底的に突き詰められ極限にまで達してしまったとき、近代は突然反転して、かつての中世的スタイルが復活する」という旨の発言をしたことがある。この立ち位置に基づいた典型的な発想がグローバル・ヴィレッジで、近代化とメディア・テクノロジーによって都市化が進み、人々が徹底的に分断されてしまった先に、人々はメディアを使用して突然、村のような環境、しかも世界大のそれを作り始めると説いた。この図式は2010年代に入ってある種のリアリティを持って現実化しつつある。情報化によって全てのものが明らかになってしまいつつあるからだ。スーパーフラットで、さらにスーパー・トランスルーセント(超透明)という状況が生まれ、われわれは相互監視と言うより、相互に露出狂的に情報を公開し始めている。それは例えばAmazonなどのライフログ、Facebookなどのソーシャルグラフ、foursquareなどのチェックインといったシステムがどんどんと受け入れられているということに見ることが出来るだろう。人々は自らの情報を公開し、それによって恩恵を受けるという循環。まるで世界の人間が隣人となってしまうような環境が構築されつつあるのだ。そして、都合の悪いことを隠そうとしても、あっという間に他の情報回路を用いてその隠蔽部分が暴かれる。ということは、はじめから隠さず正直になってしまった方が得策ということなのだ。

こんなノーガードなスタイルを人々が共有したとき、事態の表と裏は融合し、それらに対する、相対化と寛容という認識が生まれてくる。

そう、現在のメディア一元化は、この一元化を構築しているスーパーフラットな図式を徹底し、突き抜けることで、実は生まれてくるのではないだろうか?僕はそう考えている。もし、そうであるならば、僕らは今、これまでの関わりとは全く異なる人と人の「つながり」を形成し始めつつあるということになるのだが……

メディアが報道しないこと~被災者エゴ

前回、震災について積極的に報道している側面について指摘しておいた。それは震災者への同情的側面であり、また菅首相の無能さというものだった。ただし積極的、つまり強調されて報道される部分があると言うことは、そうでない部分がある(というか、そちらが大部分)。いや、それどころか取り上げる部分をデフォルメするために、無意識のうちに積極的に隠蔽される部分がある。それは、いうまでもなく「被災者エゴ」ということになるだろう。

前回取り上げた菅首相に対する避難民の暴言は、まさにそれだ。だが、これは、いわば象徴的な事態でしかない。被害者意識を逆手に取ったわがまま、クレーム、要求……こういったものがあまたあるに違いない。だが、こういったエゴは美談の中でで隠蔽されてしまう。あるいは、彼らのワガママが彼ら以外の第三者の責任に転嫁されてしまう。菅首相の場合も、結局は「菅のていたらく」というところだけをクローズアップし、住民の傲慢さは一切コメントされなかった(ただし、メディアのナレーションやキャプションを外して映像を見れば、そのことは案外容易に読み取ることが出来る)。

もう一つ例を挙げよう。それは海沿いにあったために流された自宅の跡地に家を再建し始めた漁民をメディアが取り上げたもだ。「自分は海と暮らしてきたんだから、ここにまた住む」という強い意志の下、たった一人で瓦礫を集めながら家を建て始めたその被災民。「自然にやられ、それでも自然との共生を疑わない漁民」という文脈だ。いわば、とってもエコで美しい感じがする。ところが、これから今後の災害対策をどうしようかと思案しているときに、勝手にバラック建てられて既得権を「自然との共生」を掲げながら叫ばれたって、困る。そりゃワガママ、ただの「被災者エゴ」でしかない。しかし、メディアはそういった文脈で語るようなことは決してせず、いたずらにこれを「美談化」している。

かつてからメディアは裏事情を報道していないが……

もっとも、こういった、災害時に被災者たちがエゴをむき出しにすると言うことは、かつてから当然のように発生していた。そして、メディアはこれを隠蔽していた。だから、報道のスタイルは現在も過去もその点では変わらない。

タテマエとホンネの使い分け

しかし、その時代と現在では一つだけ異なることがある。それは、こういった裏事情、メディアを媒介することすらないが、かつては一般人がそのことを熟知していたことだ。つまり、あらゆることに裏表があると言うことを。それを知りつつ、あえて裏を隠し、さしあたり表事情だけを唯一のことであるかのように振る舞うという儀礼を共有していたのだ。つまり”タテマエとホンネの使い分け”。言い換えれば、メディア報道は形式的なもの=タテマエとして話半分で聞き入れるという心性が作動していた。そこにはヴァーチャルに対してリアルという担保が存在したのである。

そうなると、結局、こういった災害時には「可哀想、何とかしてあげなければ。だけど迷惑、困ったヤツもいる。まあ仕方ないか」というふうな二枚舌を用い、対応も二枚腰でやっていたのだ(だから、今回の僕のようにインターネットというメディアで裏事情を暴露するヤツなんかいなかった(ネットなんか当時はないけれど)。ちなみに、今回やむ終えず裏事情を喋ってしまっているわけだが、この行為はかつての人々の立ち位置からすれば「それをいっちゃあ、おしまいよ」という車寅次郎の台詞になる)。また、そういった二枚舌と二枚腰という技量を備えた人間たちが被災者となった場合、その振る舞いが解っているので、なるべく住民エゴみたいなことは控えようとも考えた(それは「みっともない」という言葉で表現されていたのだけど)。


ところが、全てタガが外れてしまった。この表裏一体となった構造のうち、裏側の事情を入手する回路として機能していた世間・隣近所・共同体が失われ、裏事情が流通しなくなったからだ。反面、表事情だけはメディアによってその報道に拍車がかけられていく。その結果が、メディアのさらなる一元的な報道と、それを踏まえた被災民のちょっと困った行動・発言を生んでいくことになる。

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