勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ご存知のように、大阪都構想の賛否を巡る投票において、反対が賛成を僅かに上回り、この構想は否定された。橋下徹市長は公約に従って、市長任期いっぱいでの政界引退を宣言したのだが。いや、実際のところ大阪都構想は終わっていないし、橋下自身も決して賞味期限切れではない(本人は自らを賞味期限切れとしたのだけれど)。これは民主主義における構造化の必然的結果でしかないのだ。

すでにあちこちで指摘されていることだが、問題はこの投票の中身だ。年代率の賛否をチェックすると、何と六十代以上以外は全て賛成が過半数を超える。それだけを見れば、どう見ても賛成の圧勝に思えるのだが、事実は異なっている。要するに高齢者層の投票率が極めて高く、この年代の意向がモロに反映された形になってしまったのだ。

「投票に行かないのがいけない。投票は国民の義務だ。そういった義務を果たさない輩に政治云々を言う資格などない」

年配者からは、こんなモノノイイが聞こえてきそうではある。さらに

「国政や日本の未来のことを考えることもなく、自分のことばかり考えているから投票に行かないんだ」

こんなモノノイイも、たぶん、あるだろう。

実は、先月統一地方選の投票所で1日、投票のお手伝いをしたのだけれど、まあ、とにかく投票に来るのは年配者ばかりだった。アサイチは本当に年寄りばっかり、午後になって買い物ついでに家族でちらほらとやってくるというのが若年層という感じで。

その時感じたことは
「選挙、投票というシステム自体が、もはや民主主義としてはマトモに機能していないのではないか?」
ということだ。

投票に行かないことを咎めるのは容易い。しかし、投票それ自体に魅力が無くなってしまったことも否めない。それは言い換えれば政治への魅力の消滅。そして、これは若年層において負のスパイラルをつくりあげる。関心が無いから選挙に行かない。選挙に行かないから関心が無くなる。そしてガッツリ投票に出かける高齢者層の意向が反映されると、投票することの無意味さをいっそう感じるようになり、ますます関心を失っていく。

僕は、こういった政治への無関心への拍車がかかる理由を、単に若年層の政治無関心だけに求めることは間違っていると考える。政治に魅力が無い、そして選挙に関心を抱かせないという、現状の民主主義のシステムそのものが、実は賞味期限切れなのでは?こういった視点も当然必要と考えるからだ。

ちょっと「テレビ離れ」を例に考えてみよう。現在、若年層のテレビ離れが激しいのはご存知だろう。インターネットにメディア・アクセスをとられてしまったからだ。そこで、視聴率獲得に躍起になっているテレビは、その矛先をネットリテラシーの低い層に向ける。そう、高齢者層だ。それが時代劇、ほとんど懐メロの歌謡ショー、刑事、事件もの、ベタな朝ドラという、実にコンサバティブな作品群を生み出すことになる。だが、それによって若年層はますますテレビ離れに拍車を駆けていく。

このスパイラルは危険だ。あたりまえの話だが、高齢者層が順番上、真っ先にこの世からいなくなる。ということは、現状ではこれから視聴者層のメインが先細りになっていくと言うことなのだから。つまり、こんなことをやっているようではテレビの未来はない。

政治もまったく同じだ。現在の政治、そして投票システムは、まさにこの「ベタな年寄り向けドラマ」と同じ構造と考えても、おかしくないんではないだろうか。若年層の政治への関心を惹起するような何らかの方策が採られない限り、現状システムでは民主主義では機能しなくなる。その象徴が今回の大阪都を巡る投票だったのだ。いわばシルバーイデオロギーの勝利。いいかえれば民意を反映していない。だって、各年代が同じ割合で投票していれば、大阪都構想は肯定されるのは間違いないのだから。

高齢者層は若年層の政治無関心を「日本の未来を考えていない、身の回りのことにしか関心が無い」と嘆くかもしれないが、いやそんなことはないだろう。高齢者層こそ日本の未来を考えていない。だからこそ今回の投票に積極的に足を運んだとみなすことも出来る。つまり、敬老パスを打ち切られてしまうといったような高齢者層に向けての行政サービスの変化に対する不安が投票所に彼らを駆り立てるという可能性が十分に考えられる。未来がどうなろうと、現在の既得権を守る、現状維持を続けることで自らの身を確保する。こう考えると、高齢者層が若年層に「おまえたちは無責任」だとは決して言えなくなる。「あなたたちこそ、民主主義のシステムを悪用して自分のことしか考えていない無責任な存在」と言い返されてしまう可能性もあるからだ。

政治、投票について、どうあるべきか?考えなければいけない時に来ていると僕は考える。

都知事選に突如出現した原発問題

ご存知のように、都知事選に元首相の細川護煕が立候補している。「後出しジャンケン」方式でギリギリまで候補者が定まらなかったが、開けてみれば舛添、田母神、宇都宮と、それなりの候補者が出馬。だが、ここにきて意外な候補者として細川が登場した。争点は言うまでもなく原発問題。原発ゼロを東京からということで、これを小泉純一郎元首相が後押しするという図式。小泉は11月の記者クラブの会見で、原発ゼロ発言を展開し、マスメディア、そして自民党に爆風を吹かせることに成功したが、どうやらこの文脈での細川の出馬は「小泉が細川という刺客を放った」という認識が一般的。つまり、主役は小泉。

だから、現状では、どうやら桝添には届かないというのが下馬評のようだ。細川ー小泉というゴールデン元首相コンビ、そして小泉お得意のワンフレーズ・ポリティックス=ワン・イシューだけで勝負する戦略という図式が、どうも機能していないようなのだ。来週日曜日(9日)の投票日に向けて盛り上がる様子もみせてはいない。ということは、桝添の当選で話は決着しそうだが……。今回はワンフレーズ・ポリティックスの可能性と限界について考えてみたい。

2005年の郵政民営化衆議院選と違うのは「コンテクスト」

ワンフレーズ・ポリティックスの効果を考えるにあたっては2005年、小泉が仕掛けた郵政民営化衆議院選挙と今回の都知事選を比較するのがわかりやすい。あの時、小泉は「郵政民営化は改革の本丸」とし、選挙期間中、ほとんどこの民営化のネタしか争点としては取り扱わなかった。つまり、今回の都知事選の「原発ゼロ」と戦略的にはまったく同じだ。

ただし、根本的に異なるものがある。それはこのワンフレーズの背後にあるコンテクストの存在だ。

このコンテクストはさらに二つある。一つは、ワンフレーズが他の政策とどのように連動しているかと言うこと。いや、実際に連動していなくてもかまわない。ただ「連動している」というふうに思わせることが出来ればそれでいいのだけれど……。郵政民営化選挙の際には、このイシューの他にも構造改革という言葉でまとめられた様々な課題が山積していた。そして、それらは実はほとんど郵政民営化とは関連がないものだったのだけれど、前述したように小泉は「郵政民営化」が「改革の本丸」と謳ってしまったのだ。そして、その改革を国民が望んでもいた。だから、なんだかわからないけれど「郵政民営化」は、それが達成されれば他も一気に解決する、なんでも叶えてくれる「四次元ポケット」のように思えてしまった。そして、それを邪魔する名悪役たち(しかも、なんと自民党の国会議員!)も登場し「善が悪を倒す」という、ベタな勧善懲悪図式上で小泉劇場は重層的かつムダに盛り上がった。この二つのコンテクストが郵政民営化というワン・イシューにあやしげなリアリティを与えてしまったのだ(その後、われわれが酷い目にあったのはご存知の通り)。

さて、今回の都知事選はどうか?残念ながら「原発ゼロ」というイシューは他の都政に関わる問題となんらリンクしているようには思えない。都民として関心のあるのは、やっぱりオリンピックとか、待機児童ゼロとか、福祉とか、教育とかになる。それが国家の一大事たる原発問題とどう繋がるのか……ちょっとかなり想像力を要求するのだ。だから、争点として持って行くにはかなり無理がある。むしろ親の介護経験のあるという桝添が、それを担保に福祉問題を語った方が、コンテクスト的には圧倒的に説得力がある。

もう一つのコンテクストは、そのワンフレーズを発する人物のキャラクター、とりわけそのカリスマ性、言い換えればメディアの魔術師としてメディアを操作する能力だ。前述した小泉の場合、全くブレず、真正面を据えて確信犯的にワン・フレーズでイシューを訴える。前述した記者クラブでの原発に関する発言がまさにそれで、もはやただの民間人に過ぎない小泉が自民党をうろたえさせることすら出来たのだから。ワンフレーズを語る人間に共通する特徴は「先ず人を信じ込ませる前に、自分を信じ込ませる」点だ。新庄剛志、東国原英夫、橋下徹といったメディアの魔術師たちがまさにそれで、ある意味、完全に自己陶酔している。それによって、その発言が、こちらには「真実」に思えてしまう。「敵を欺くには先ず見方から」ではなく「敵を欺くには先ず己から」という図式がないとワンフレーズ・ポリティックスは機能しない。記者クラブでの会見の時、小泉には、これがいまだに健在だった。

しかし、である。細川の場合、いかにも小泉に操られているという感じがしてしまう。つまり、細川は「己を欺いていない」というイメージをこちら側に抱かせてしまう。だから、バックに小泉が控えていても、イマイチ、パッとしないのだ。いや、むしろ小泉が控えるからこそ、キャラクター=メディアの魔術師としてあやしさが感じられないのだ。

無党派層はなびかない

で、こういったコンテクストが存在しない場合、当然、政策よりもコンテクスト=ムードに煽られることで投票する無党派層はなびかない。かつて、小泉は「無党派層は宝の山だ」と言い放ち、見事に宝の山を掘り当ててしまったのだけれど、今回、その宝の山を掘り当てることは出来ないだろう。有権者の「探知機」がこういったコンテクストを探り当てられないのだから。探知機は小泉の身体をサーチすることは出来るが、細川のそれはサーチできない。だから、ワンフレーズ・ポリティックスで都知事選に勝利しようとするのならば、本人か息子の進次郎でも出すしかない(この場合も他の政策とのリンクがほとんど感じられないからコンテクスト的には「片肺飛行」。だから、郵政民営化の時のような圧勝というわけにはいかないだろうが)。

かくして2月10日(日)投票日、無党派層は動かず、投票率は上がらず、組織票がモノを言って、結果として桝添が楽勝するという「何事もなかった都知事選」が繰り広げられることになる。

日本人のワンフレーズ・ポリティックス・リテラシーが向上した?

もっとも、ここ数年のこのワンフレーズ・ポリティックの繰り返しに辟易して、われわれが「ワンフレーズ・ポリティックス・リテラシー」を培ったので、もうこういったやり方には慣れっ子になってしまい、なびかなくなったのかも知れないが。そして、もしそうであるのならば、それはきわめて健全なことと考えてもいいのだけれど。

ま、まだそんなに甘く考えることは出来ないか?小泉進次郎がウケているんだから……

今回は「地域活性化ファンタジー」です。

あまちゃんの中のアイドルシステムGMT47とは?

NHKの朝ドラ「あまちゃん」は、宮藤官九郎の視聴者の痒いところに手が届く脚本(とにかく、毎度のことながらディテールが細かい)で高視聴率を稼いでいる。海女の高校生がアイドルになっていくストーリー。この中で「GMT47」というプロジェクトが登場する。いうまでもなく、これはAKB48にあやかったもの。GMTとは「ジモティー」=地元の女の子、47は都道府県の数を意味する。荒巻太一というプロデューサー(これも秋元康がモデル)が全都道府県からアイドル志望者を東日本は上野、西日本は品川に集結させ(言うまでもなく秋葉原にあるAKB48劇場のパクリ)、東西対決させることで一儲けを企んでいるのだけれど、この企画、地域活性化のプロジェクトとしてはかなりグッドじゃないだろうか?そこで、今回は、このGMT47をヒントにアイドルを利用した地域活性化プロジェクトを考えてみたい。

AKB48+ゆるキャラ+国会

この番組の中ではプロデューサーのカネ儲けというところに焦点が定められている。そして前述したようにAKB48の企画を踏襲している。これをもっと地域活性化に振るために、さらに二つの企画を加えてみよう。ひとつは「ゆるキャラ」、もうひとつは、なんと「国会」とりわけ参議院だ。

ゆるキャラは県や都市に作られた地域活性化のためのご当地キャラクター。GMT47のメンバーもこれと同じ役割を担わせる。ただしAKB48式で。つまり、各地域でGMT47の下部組織を用意する。たとえば群馬ならGーGMT47、鳥取ならTーGMT47といった具合に(まあ47人じゃなくてもぜんぜん構わないが)。このメンバーは県の観光課あたりと組んで、県活性化ユニットとして地域のイベントに出演し知名度を高める。そして年一回、各県内で選挙を実施する。で、投票で一位となったものを県のアンバサダー=国会議員に認定、これがそのまま全国区のGTM47のメンバー入りとなる。選ばれたメンバーは東京のGTM47劇場に出演する。本拠地は永田町か平河町あたり。ただしAKB48劇場のように、そこにいずっぱりというわけではない。中央と地元を往復させて全国活動と地域活動を両立させるのだ。つまり中央で全国的な知名度を上げ、その知名度をバックボーンに地方で地域活性化活動を行う。こうやって県内で地域活性化活動を行うと同時に、中央では今度は地元のキャンペーンを先導する(いいかえれば中央と地元両方で「会いに行ける」)。こうなると当然、人気があるから県のイベントは多くの人で賑わうし、その一方で全国人気にあやかって県外からもファンが押し寄せる。「会いに行ける、おらがふるさとの全国区アイドル」というわけだ(当然、国会議員=アンバサダーは中央と地方で少々役割を変える。つまり中央でしか見られない顔と、地元でしか見られない顔を使い分ける。そうすると、ファンは両方を見ようとして地方にまで出かけていくことになる)。

国会議員になったメンバーの任期は二年。就任一年後には国会議員=アンバサダーでさらに「組閣選挙」を実施する(もちろん、実際の国会にはそんなものはないけれど)。この投票については全国から票を募るが、二つの方式を同時採用する。有権者には票を2票持たせることとする。地元票と全国票だ(地元商品にポイントをつけ、購入によって一定以上のポイントを獲得した者に 有権者資格を与える。1万ポイントで資格一つ=2票、2万ポイントで二つ=4票という具合にして、地元商品の購入を煽る)。地元票については一票の重みを国会の原則とは逆に設定し得票率で評価する。つまり人口100万の県と1000万の県では一票の重みを十倍にする。単純に票を加算すれば、当然東京なんかが常に上位を占めてしまうからだ(たとえば人口100万の和歌山県で10万票の地元票を獲得したアイドル(得票率10%)は、1300万の東京都で地元票100万票獲得したアイドル(得票率7.7%)よりも上位になる)。一方、全国票は総数からの得票率で配分する。ただし、これは有権者?が地元以外の国会議員に投票するものに限る。そしてこの地方票と全国票のバランスを取る(1:1くらい)ことで上位者=内閣閣僚に選出される者の出身都道府県の平等性を高めていく(メンバーの固定を防ぐのがねらい)。

選挙の結果、上位を占めた7名は「神セブン」ならぬ「内閣閣僚セブン」として、その後二年間、中央での活動を中心に展開する。そしてこの時、地元をおおっぴらに宣伝してよいという特権を付与する(つまり7県が傾斜集中的に宣伝の対象となる)。また入閣したメンバーは地方代表議員としての職(つまり国会議員アンバサダー)を離れ、空いた席については当該都道府県で補欠選を行い、メンバーを補填する。

アイドルファンも地域住民もアイドルに熱狂し、そして地域は活性化する!

と、こんなシステムを作れば、GMT47というAKB48的なアイドルは、それぞれの地域の強力な広告塔となるだろう。おらがふるさとのアイドルが全国で活躍し、中央からふるさとを日本全域で宣伝してくれる。これは中央メディアを利用しての遠心的な地域アイデンティティを獲得になるだろう(つまり「全国で今知られている地元はイケている。だから、そこに住む自分や土地もイケている」という感覚が醸成され、地域アイデンティティが強化される)。しかも、地元のイベントに参加すれば、そのアイドルに会うことができる。メディア=アイドルを通じて中央と地方が一本で繋がり、自らのふるさとを視覚化できるのだ。当然、地元の人間は積極的に県産品を愛用するようになるだろう。

一方、アイドル目当ての地元外のオタクたちは積極的にアイドルの地元の商品を購入するようになる。そうするとオタクたちは次第にアイドルの地元に対する愛着心を抱くようになっていく。たとえば「心は群馬県民の沖縄県民オタク」が誕生するのだ。こりゃ、おもしろい。

地元は活性化するし(おそらく世代を超えてご当地アイドルを応援することになるだろう。関連グッズが溢れ、くまモンみたいに全国展開することになる。こうなるとAKB48やゆるキャラの人気どころではなくなる)、アイドルも全国区になるからうれしいし、プロモーションする側もがっちり儲かると、こりゃ、いいことずくめ。

で、これを国家プロジェクトでやるのだ。つまり政府主導で地域活性化プロジェクトの目玉として実行する(県とどうタッグを組むのかは、なかなか難しい問題だが)。プロデュースを担うのは当然、秋元みたいな敏腕プロデューサー。これに大臣クラスの裁量権を持たせてやらせれば「ご当地アイドルを軸にした地域、いや全国の活性化」が可能になる?

この発想、秋元やクドカンがあまちゃんの中で考えている考えているあくまでもビジネスの域を出ないアイドルシステムより、今一歩先を行ったものといえないだろうか?

というわけでアベノミクスの一つとして、いかがでしょうか?安倍さん。

お粗末様でした(笑)

橋下のやり方は高飛車


大阪府知事市長同時選挙での橋下徹の大勝について考えている。前回からは橋下の政治手腕について前宮崎県知事の東国原を比較対象に考察をはじめた。で、今回は最終回。実際のところ橋下の政治能力はどうなのかについて考えてみたい。

さて、橋下の場合はどうなるだろうか?僕は東に比べるとパフォーマンス的には上だが、行政手腕的には下なんじゃないかと踏んでいる。それは人心掌握のやり方が気になるからだ。とにかく高飛車であり、大阪維新の会という対抗勢力を作り上げて既存の勢力に真っ向から挑む。市役所職員には「従わない人間は去ってもらう」と、強権を行使しようとする意欲は満々だ。

もし、これが市職員、維新の会以外の市会議員の反発を食らったらどうなるか。実際、市役所の給与制度の改革は労使交渉を紛糾させ、また教員に評価制を導入しようとする教育改革も強い反発を食らう可能性は高い。

おそらく議会は紛糾し、市役所も動きを鈍らせてしまうだろう。そうすれば改革は全く進まなくなる。以前、県の窮状を打破するため長野に県知事として乗り込んだ作家の田中康夫が、さんざん県議会、県庁職員とやり合った挙げ句、引きずり下ろされるということあったが、ヘタをすると橋下もこれと同様の結果を生む可能性があるのだ。このへんのやり方が東の「調整型政治」とは全く異なるのだ。

中央突破の戦略は功を奏するか

それでも、橋下はこの高飛車、強権発動パターンで中央突破を図ろうとしている。もし、これが、たとえば宮崎な長野だったら、やはり「無謀」だろう。

ただし、ここは大阪である。「お笑い票」があり、おもろいことが好きな大阪である。そして、現在ドツボの状態。また、大阪だけでなく国会も政治家たちが互いの足の引っ張り合っているだけで、その構造的限界を露呈している(まあ、だからこそ自民、民主どころか共産党までほとんどの既成政党が相乗りした大阪維新の会の対立候補が大阪府知事市長同時選挙で大敗北を来しているのだけれど)。こういうコンテクストがある状況で、強権を発動すると、実は案外功を奏するかも知れない。実際、もはや大阪と言うより、民主党を含む既成政党全体が橋下にビビっている状態で、すり寄ろうとすらしているほどなのだから。つまり風が橋下に吹いていることは明らかだ。だから、もし、この状態で中央突破がやれてしまったときには……それは日本の政治それ自体がガラっと変わるということになる。つまり、もう中央はダメで、地方から火の手が上がり、中央に攻め込むというようなシナリオが稼働しはじめる。地方による中央のドミノ倒しがおこるわけだ。

ただし、政策的な面で橋下が才能があるかどうかは、実はまだ全くわからないということは付け加えておく必要がある。

だから、僕らは橋下のやることを「ハシズム」「独裁」と決めつけることも、そしてお祭り党になって礼賛することもするべきではないと考えている。しばらくは冷静に情勢を見つめ続けるスタンスがいちばん健全だろう。そう、いずれ橋下が時代を変える人物なのか、そうでないのかは、その時が来ればわかるのだから。

今はまだ先は見えない。ただ、一つだけわかっていることがある。それはコンテクスト、つまり橋下が人気を博する背後には、もうどうしようもなくなっている現状の政治があるということだ。これだけは確かだろう。

東国原と橋下

大阪府知事市長同時選挙での橋下徹の大勝について考えている。橋下には大阪を改革する力があるのか。で、ここまで政治家の力についてはパフォーマンス+行政手腕能力が必要であることを説いてきた。そして、少なくとも橋下には前者があり、そしてそれゆえにこそ、今回選挙で大勝してきたことを確認した。では、後者はどうか。

宮崎行政を猛勉強していた東国原

ここでも比較対象として東国原前宮崎県知事(以下東)を引き合いに出そう(今回は東を持ち上げてばっかりで申し訳ないが)。東も当選時、そして知事就任直後はもっぱらパフォーマンス能力ばかりが指摘されていて、政治的な手腕は全く認められていなかった。ところが東はかなりしたたかで、県知事選に出馬するまでに宮崎の行政について猛烈な勉強を行っていたことが後に判明する。県議会で県議会議員が質問する、自分の地元の選挙区の、しかも利益誘導のためのチマチマとした話=質問に、東はいちいち事細かに答えることが出来ていたのだ。しかも、このほとんどが県庁職員ではなく、自らが調べたもので、その応答においてはしばしば東の方が詳しく、質問した県議が知識内容について突っ込まれるということすら起きた(それくらい県議会議員というのは利益誘導ばっかり考えていて勉強していない)。これに県庁職員たちは喝采する。そうして、東は県庁を掌握。これまでのような利権を誘導するだけで、それ以外は飾り物であったかのような知事や県会議員にウンザリしていた県庁職員たちが、「こいつは違う!」とばかりに一斉に東の尻についたのだ。

この地元の情報についての東の人心掌握と博識については僕も直接実感させられることがあった。

一つは東が知事に就任して半年ほどたったときのこと。スポーツクラブで懇意にさせてもらっている県庁職員と東のことについて話をしたことがあった。この職員さんは実は県庁のとあるセクションで件のトップの人間。だから、そのセクションが関わる事項について知事が記者会見するときに東の横に座っている人だった。

僕が「東国原知事はどんな感じですか?」と切り出したとき、彼は驚くべき回答をしたのだ。

「あの人は宮崎で県知事をするために東京へ行き、27年間芸能界でその修行をなさってきた方ですよ!」

県庁の長が東に心酔していたのだ。実際、東が就任以来、県庁はものすごいスピードで回転しはじめていたのだった。

もう一つは僕が東と地元のテレビ番組に出演したときのこと。番組前、彼と楽屋で世間話をしたことがあったのだけれど、とにかく地元宮崎に関する知識がメチャクチャに豊富で驚いたことがある。東は宮崎の観光に力を入れていたのだけれど、その時のキャッチコピーは「おもてなし日本一」だった。これについて東は「実は、これ、岩切章太郎のパクリなんですよ」と僕に説明してくれた。岩切章太郎とは六十年代から七十年代にかけて、宮崎を南国宮崎のムードで新婚旅行ブームを起こした宮崎交通の社主。そして岩切が常に社員たちに発破をかけていたのが「もてなしの心」だったのだ。まあ、よく勉強している。

調整型の政治

また、県議会議員を手なずけるのも上手かった。当選当初、当選したのはよいが県議会は自民党が過半数以上を占めオール野党という四面楚歌の状態。だから、その人気を利用して2005年の衆議院選で小泉純一郎がやったように小泉チルドレンならぬ「東国原チルドレン」を指名し、このオール野党への対抗勢力を県議会に作るのではと思われたのだが、なぜかこれを一切しなかった。東国原チルドレンを自認する候補も出てくるくらいだったので、これをやればかなりの勢力を圏内に維持出来たはずだ。ところがこれをいっさいやらなかった。しかし、それは自民党にとっては「東はよく状況をわきまえている、そして自分たちの権益を侵害することをしない。なかなかよいヤツじゃないか」ということになり、結果として自民党すら自らの勢力に取り込むことに成功している。

こんなかたちで人心掌握をしていった東は、見事に宮崎県政を動かすことに成功したわけで、いいかえれば意外なことに行政手腕もきわめて長けた、かなり優れた政治家だったのだ。これと比較すると橋下はどうなるだろうか?(続く)

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