勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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求められる右脳の開発

偏差値教育が人間の備える左脳と右脳の内、もっぱら左脳の能力ばかりを評価し、現世御利益を狙い人間がこれに呼応するかたちで能力を鍛えた結果、日本がヘタレ社会になっていると言うことを、ここまで指摘してきた。

じゃあ、左脳と右脳をバランスよく養成するような教育方法を考えればよいということになる。いや、現状を踏まえれば、先ず行うべきことは、現在の左脳重視を反省し、左脳=頭がいいという偏見を相対化すると同時に、右脳開発のための教育プログラムを用意することということになる。

ただし、右脳開発は難しい。今回の特集で示しておいたように右脳には具体的な開発方法がほとんどない(だから、企業は採用にあたってSPIのような左脳チェックを行うと同時に、クドクドと面接をやる。面接でこの右脳のレベルをチェックしたいのだ。でも、やっぱり明確な測定基準はないので、しばしばスカを引いてしまうということになるのだけれど)。

キャリア教育に活路を求める

本特集で何度も述べてきたように、左脳を重視するのは仕事の能力(効率性、迅速性、正確性)を測定することがある程度可能だから。しかし、イノベーションとかブレーンストーミングとかグループワークとかについては、右脳の領域であり、測定が難しい。言い換えれば、左脳が測定可能と言うことは、マニュアルなどのシステム化によって養成可能と言うことでもあるということだけれど、右脳についてはこういったシステムを具体的に作り上げることが困難ということでもある。では、右脳はどうやったら鍛えられるのだろうか。

そこで提案したいのが、現在大学が取り組みはじめているキャリア教育だ。ただし、現状のものは全くダメ。あそこでやってるのは単なる戦術、お辞儀の仕方みたいな「付け焼き刃」を付けることと、SPIみたいな左脳のスキルアップでしかない(ほとんどの大学でのキャリア教育は大学内=学生にではなく、大学外=宣伝・広報に向けられている)。もちろん左脳のスキルアップも必要だけれども、それに加えて右脳アップ、さらには左脳と右脳のバランスに関するスキルアップを図るような教育を施さなければならないだろう。

身体にスキルをしみこませるキャリア教育を

じゃあ、どうするか。そのひとつとして提案したいのは「グループワークによるフィールドワーク」だ。つまり、チームを組ませ、課題を与え、大学の外に出し、一般社会人に対してフィールドワークを行い、そのインプットをグループで考える、つまりブレーンストーミングし、ひとつの企画を完成させるというようなやり方だ(まあバラエティ番組「あいのり」の全メンバーに統一した達成課題を設けるようなものとイメージしてもらえばいいだろう)。こういった集団行動は、左脳だけでは処理できない状況に他ならない(当然、メンバー感ではグダグダな心理的葛藤状況が出現することが想定される)。ここに若者を放り込むことによって、右脳を鍛えること、左脳を鍛えること、そして二つのバランスを取ることが学習される。とりわけ右脳の鍛錬には最適だ。他者は常に自分と異なった行動をとる。それは予測不可能なのだけれど、グループワークの中ではこれを理解し取り込んでいかなければならないからだ。だがそのような「取り込み」を考えるという営為は、イコール物事を統合する力を鍛えることに他ならない。

ただし、ここには残念ながらこの方法にマニュアルはない(というかマニュアルで獲得できるような安っぽいものではない)。こういった生身の身体と身体がぶつかり合う中で先に述べたような右脳スキルを、まさに”体得”するのだ。皮膚感覚で状況や空気を読む技術とでも言ったらよいのだろうか(ということは、残念ながらこんなことをやっても右脳が鍛えられない人間もいることになるのだけれど)。

これはキャリア教育ではないが、僕の教え子の面白い例を一つ。ゼミに生真面目でシャレのわからない女の子がいた。いわゆる「頭がカタい」といったキャラクターで、大学時代はパッとしなかった。彼女は卒業後、就職を拒みバイトで金を貯めてワーキングホリデーに向かったのだが……その先でブレイクしたのだ。ほとんど英語も喋れないような彼女が半年たった頃には、現地にたくさんの友達ができたおかげで、かなり難しい英語をメールで書き込んでくるようになった。彼女は自分の殻を、ワーキングホリデーという「他者と生身で関わらないではやっていけない環境」に敢えて放り込むことによって破った。つまり、自ら演出したキャリア教育で一皮むけたというわけだ。こんな身体的なぶつかり合いの中での気づきを提供するような環境こそ、現代の教育は容易すべきなのではなかろうか。

最後に、今回の特集を終えるにあたって2人のコメントを引用しよう。
1人は東国原英夫前宮崎県知事だ。

「若者に徴農制を施すべき」

これは、教育についてコメントを求められたときのもの。当初は徴兵制と言って物議を醸し、これを言い換えた。東国原は若者を厳しい環境にある程度の期間放り込むことの必要性を主張したかったのだ。この場合、農作業で自然という外部と、そして共に働く他の人間とのグループワークが必要となる。

もう一人はスティーブ・ジョブズの発言だ。ジョブズは宿敵であるMicrosoftのビル・ゲイツを次のように批判した。

「ゲイツがダメなのは、僕みたいに若い頃にインドに行ったりドラッグをやったりしなかったからだ」

これもまた、外部へ一歩足を踏み出して、これと戦い自らの左脳を活性化することの重要性を述べたものと考えてよいだろう(ただしゲイツも天才だ。そしてこちらは極度に左脳が肥大した特異な才能の)。

ということで、そろそろ偏差値バカはやめたほうが、これからの日本のためだと僕は考えているが、みなさんはどうお思いだろうか?

左脳偏差値重視が生んだ弊害

高偏差値=頭がいいという偏見の問題点について考えている。ここまで人間の脳の機能には左脳と右脳があり、現代社会が左脳の能力である偏差値を高く評価していること。そして、その理由が、企業が「仕事のできないスカを引かないため」という目論見に基づいていることを確認してきた。左脳は測定可能で、こちらの能力が高ければ、少なくとも言われた仕事を正確かつ迅速にやれる可能性が高いためだ(ちなみに、これ以外の要因も、もちろんある。たとえば、「学閥」という身内を採用したいという利害的な文脈がそれで、マスコミと早稲田の関係なんてのがその典型だ)

ところが、こういった「安全パイ」を獲得しようとする企業の人事戦略が、翻って日本企業全体をヘタレにしていくという状況を生み出していく。左脳と右脳の能力は、必ずしも生得的なものではない。そのほとんどは後天的に学習で養成されるものだ。たとえば、低偏差値大学や中卒程度の学歴だった人間が、企業に入った途端、ものすごく正確迅速な作業をやり始めることが十分にあり得るのだ(この場合、就職した後に、社内の教育によって左脳が開発されたというわけだ)。言い換えれば、人間が「賢く」あるためには、後天的にこの脳の二つの側面をバランスよく「脳トレ」する必要があるということになる。

左脳の強化と右脳の野生化

ところが、である。日本社会は学歴社会。今回取り上げているように、高偏差値→一流企業→豊かな暮らしというステレオタイプがまかり通っている。そこで、こういった「社会の勝者」に我が子をさせたいと思うあまり、親は子供の偏差値アップ教育、つまり一流大学入学を目標とした受験教育に力を入れる。つまり左脳ばかりを強化させる教育に走る。その結果、教育方針は「受験以外の余分なことなど考える必要は無い」ということになる。

で、こういった左脳へ傾斜集中的な教育を施せば、必然的に右脳の脳トレについては放ったらかしになるわけで、右脳は全然進歩しない。しかも、こういった「左脳重視」は社会的にも是認されているわけで、これが「偏った、おかしなもの」として指摘されることはほとんどなくなる。その結果、どんどん「働きアリ」みたいなやつが育っていくわけだ。その一方で右脳は手つかずのままの野生な状態が続く……。

コントロールできない左脳による、右脳の横暴化

で、こういったかたち、つまり左脳肥大の状態で成長し、一流企業に入った連中には困ったことが生じる。彼らは徹底した左脳重視、左脳の能力こそ「アタマのよいことのしるし」と信じて疑わない「頭の悪い連中」になってしまうのだ。まあ、それなりの金銭的保障や社会的地位が確保されているので、これにあぐらをかいてしまい、もう自分がただの「左脳バカ」であることを気付くことすらない。そして、「自分たちはアタマがよいのだから、社会全体を自分たちが支配し先導するのは当然」というふうに、ますます考えていくようになる。 実はこれこそが、スノッブなエリート意識を形成しているんだが(もちろん働きアリとしての仕事はできる。つまり、それなりに評価される。だが、それが「頭の悪い状態」を、いっそう増長させることになる)。

ただし、彼らはあくまで左脳人間。右脳的な、ジャンルや分野を横断したり、まとめ上げたりする力はない。というか、左脳養成に全精力を注いだために、こちらの能力については、一般人よりも、むしろ劣っている可能性が高いことになる。しかしながら、これを顧みることなく、自信たっぷりに様々なことをやり始めるのだ。しかも横暴に。ちなみに横暴にやってしまうのは、ようするに右脳が全く発達していからだ。そこにあるのは次々と仕事はできるが、全く空気が読めないマヌケで迷惑な人格に他ならない。この状態、実は「無能な右脳による、左脳の支配」ということになる。これって、ものすごく野蛮なのだが。

ザッカーバーグのいない日本

ところが、世界の動きはこうなってはいない。左脳、右脳双方をバランスよく備えた人間が世界を変革している。コンピューターの世界を踏まえれば、例えばFacebookのマーク・ザッカーバーグは左脳としてはプログラムの天才であるけれど、インターネットを使って人間コミュニケーションを拡張しようとしたこと、つまりヴァーチャルを使ってリアルを活性化しようとしたという発想は明らかにコンピューター業界の人間たちが考えるものの外の発想、つまり右脳がやらかしていることだったのだ(だからザッカーバーグは天才なのだ)。

一方、日本の企業は、この偏差値至上主義が積もり積もって弊害を表面化させた結果、発想においても、自分たちが置かれているパラダイムから外に出ることができない連中がほとんどということになってしまった(おそらくその典型はSONYだろう。かつてのクリエイティブなスタッフたちが、大企業になることで集めたのは、ただの左脳バカだったというわけだ)。そう、これこそが、日本の社会や企業が創造力を枯渇させ、ヘタれてしまった原因に他ならないのではないだろうか。ちなみに現在飛ぶ鳥を落とす勢いのITC系諸企業(ゲーム屋さん等)も、その才能においては同等だ。時流に乗り、この時流に左脳がジャストフィットしたことで急成長を遂げているだけ。いずれ時の流れが変わってしまえば左脳集団といった色合いの強いこれらの企業のほとんどは消え去ってしまうか、勢いを失ってしまうだろう(ちなみに、これらの企業は巨大化しはじめた瞬間、判で押したように「左脳人間を集める」という保守的な企業経営をはじめている)。

じゃあ、これから日本はどうすれば、いいんだろう?(続く)

右脳と左脳のバランス

偏差値が高い=頭がいいという俗説がまかり通っている。だが、この俗説は人間の脳の能力の内の左脳=処理能力のみを評価するという見方で、人間には右脳が備えるもう一つの能力があることを見落としている。ということは、「頭がいい」とは正しくは、左脳と右脳の両側面での能力を評価しなければならないということになるだろう。

とはいうものの、そういった評価基準を設ける前に、先ず「頭がいい」とは何かを定義づける必要があるだろう。で、狭義の「頭がいい」とは、ここまで見てきたように、一つは左脳の領域を指す。英語に置き換えるとclever、つまり「頭が切れる」ということになる。もう一つは右脳の領域働きを指す。右脳は統合能力だから、英語だとwise。物事を結びつけたり、人間関係を調整したりして全体をまとめ上げたりする能力を指す。

で、もし、この片方だけが秀でていたとしたらどうなるか。先ず左脳。これは役人みたいな仕事で花が開くだろう。自分自体は何も考えず、言われたとことを、さながらマシン/コンピューターのように迅速的確にこなす。ただし、本人はなぜそのようなことをするのかの意味については全くわからない。自らが任されている仕事=パラダイムが、システム=組織全体の中でどのように位置し、機能しているかについて考察する能力がないからだ。一方、右脳。これはアイデアマンみたいな人間が該当する。しかもいろいろできる。ただし、モノとモノ、コトとコトを併せることだけしかできないので、逆にモノそれ自体、コトそれ自体については全くといっていいほど配慮がなくなってしまう。

ということは、この二つを兼ね併せた状態が、本質的な「頭がいい」ということになるだろう。つまり、仕事を正確かつ迅速に処理し、なおかつそれらをクリエイティブに組み合わせることができるというのを「頭がいい」と考えればいいわけだ。

なぜ左脳重視社会なのか

ところが、左脳系の能力ばかりが「頭がいい」と評価するのが現代社会。そして、こういった偏見が、実は日本をヘタレ社会にしてしまったと言えないこともない。もちろん、なぜ左脳系=高偏差値系が「頭がいい」と高く評価するのかには、まっとう?な理由がある。それは右脳の能力を測定することが極めて難しいからだ。一方、左脳は偏差値によって測定可能。与えられた仕事は正確迅速にこなすかどうかを判断可能だ。ということは、とりあえず仕事ができる。一方、右脳ばっかりの人間は、余分なことばっかり考えるので、仕事ができない、ムラッ気があるなんてことで使えない。

そこで、企業側としては、採用に際して、労働力として計算可能な左脳系を優先的に採用するのが得策と考えるようになる。というのは次のような考えに基づく。左脳が高ければ、採用した際、右脳が低くても、少なくとも「働きアリ」としては使える。ところが、左脳が低くて、なおかつ右脳も低かったら、これはもう完全に戦力としては「スカ」で使いものにならない。ということは、左脳の高さは、こういった「右脳が無能であった際の保険・担保」となるからだ。

しかしながら、こういった企業の「危機管理?」が結局、アダとなっていくのだけど。(続く)

頭がいいことの証拠としての高偏差値

「偏差値」というと、一般には高校や大学などの受験偏差値のことを指す。で、あたりまえだが、東大、京大、早稲田、慶応といった高偏差値大学は名門校と呼ばれている。実際、大手企業、とりわけ大学生にとっての就職したい人気ランキング上位の会社には、こういった高偏差値大学出身の人間が多いというのも事実だ。

で、こういった流れから「社会の勝者」とか「頭がいい」とかいうのは「高偏差値中学→高偏差値高校→高偏差値大学→人気の高い一流企業」というステップを踏んだものを指すことになっているんだけど…………果たして本当にそうなんだろうか?

高偏差値者は社会の勝者?

先ず「社会の勝者」っていうのは何を指しているんだろう?ちょっと考えてみよう。さしあたり社会の勝者の証しであることは、この図式では一流企業に入ることで達成されるのだけれど、これによって受ける恩恵は「所属する会社の名前を名乗ると、周囲から「おおーっ」とか言われること。あるいは周囲がそう思わなくても自分がそういったふうに相手を上から目線で見ることができるようになること」、そして「給料が高いこと」くらいではなかろうか?前者はまだいい。ただし、後者となるとどうだろう?実は給料はたいしたことない。まあどんなにがんばったところで一流企業が四十代で一千万円に達する程度というのが関の山。これは、個人事業主として成功した人間からしたら、はるかに低い所得だ。一般のサラリーマンが三千万程度のマンションが購入できるというときに六千万のマンションが購入できる程度なんだから。億ションのペントハウスに入るのは、まあ無理。メルセデスもCクラスくらいしか買えんだろうし、税金逃れもできないわけで……周りが思っているほど贅沢ができるというわけではない。

高偏差値者は左脳の機能が活性化した人間

まあ、それでも、カツカツした生活をしなくてもいいという点ではまだオッケーかもしれない。しかし、である。偏差値=頭がいいというのは、どうも僕には幻想に思えてならないのだ。で、今回はこっちの方に深くメスを入れてみようと思う。

まず、なぜ高偏差値者=名門大学出身者は頭がいいと言われるのか。高偏差値者の特徴は俗流脳生理学で言うところの左脳と右脳の内、左脳が発達しているというふうに思えるところに求められるだろう。左脳は「処理能力」を司る領域と呼ばれている。言い換えれば物事を正確かつ、迅速にこなす能力だ。で、高偏差値を獲得するためには当然、こちらの能力が要請される。ゴチャゴチャと細かいことや余分なことを考えるのではなく、与えられた情報を没価値的に粛々と、そして素早く処理することが必要なのだ。例えば、現代国語の文章問題を処理する場合には、文章を味わったり、想いをめぐらしたりしているのではなく、ひたすらロジックに基づいて分解する作業を行うような能力がそれで、その際、文章の中身を自分なりに味わうなんてことは、かえって無駄というか、その処理能力を低くしてしまうので極力避けることになる。で、こういった「余分なことは考えない心性」が暗記力を高め、それが偏差値アップにつながるのだ。

左脳はCPUと同じ仕事しかしない

ただし、人間の思考や情報処理能力はこれだけで終わるわけではない。ただ暗記したり、それを吐き出したり、そしてそれを迅速に処理するだけが人間の能力の全てではないからだ。これは例えばコンピューターの脳味噌であるCPUを考えてみるとよくわかる。CPUはビットとヘルツでその能力が測定される。細かい話をしていてもややこしいので、ざっくりと説明してしまえばビットは「いっぺんにいくつの処理できるか」、ヘルツは「その処理を一秒間に何回できるか」という「処理能力」だ。しかし、この処理能力をもって文章を作ったり、デザインしたり、ゲームをしたりするのはCPUではなく、パソコンを操作する人間の方だ。CPUにはこっちの能力は全くない。

Wordがどんなに操れても文章を考えることはできない

ついでにもう一つ例を出してみよう。それは上の例に挙げた文章を作ると言うこと。パソコンで文章を書く場合、僕らはMicrosoftWordのようなワープロソフトを用いる。この時、僕らは二つの能力を要求される。一つは文章をワードの機能に従って流し込むことだ。つまり文字を打ち、フォーマットの中にこれを配列させること。言い換えれば「文書作成」。これは、明らかに左脳、つまり処理の問題となる。

もう一つは、というか前期の作業の前段となることなのだけれど、そういった打ち込んだり流し込んだりする文章それ自体を考えること、つまり「文章作成」だ。で、これについては左脳の役割でなく、もう一つの脳の分野である右脳の仕事ということになる。右脳は「統合能力」を司る分野。左脳で処理された情報をつなぎ合わせる能力だ。

偏差値は右脳の能力を測定できない

で、こういった二つの能力で脳が構成されていることを踏まえれば、人間の頭の良さは、当然左脳だけでは測れるものではないということになる。前述の例を取り上げれば、ワープロの機能をどれだけ知っていても、そしてどんなに早くワープロを打てたとしても、文章を考える力には繋がらないからだ。

しかし、偏差値はもっぱら人間の脳の二つの能力の内、もっぱら一方の左脳だけを測定しているということになる。読んで、暗記して、吐き出すだけだからだ。しかしながら、この能力の高さ、つまり偏差値の高さが「頭がいい」というふうに評価されるわけで、これはちょっとおかしくないだろうか……いや、大いにおかしいのである。いやいや、それどころか、こういった高左脳能力=高偏差値=頭がいいという図式は害悪な偏見とも言える。もっと言ってしまえば

「高左脳能力=高偏差値=頭がいいと考えることは頭が悪い」

ということでもある。そして、こういった図式がまかりとおっていることが、現代社会をヘタれた「頭の悪い状態」にしていると僕は考えているのだけれど。では、その根拠はどこに求められるのだろうか?(続く)

大学受験生の大学選択基準は偏差値

大学受験生はどういった基準で大学を選択するのか?自分の将来を見定め、自分がやりたい分野の学部学科を見定めて……もちろん、そんなことはあり得ない。全ては偏差値に基づいて大学は選択される。例えば早稲田の商学部と法政の社会学部、立正の経済学部に合格したなら、よほど専攻に固執することがない限り、本人が何をやりたいのかにかかわらず早稲田の商学部が入学先になる。この三つの中で早稲田が最も偏差値が高いからだ。ちなみに、こんなバラバラの大学受験をする受験生なんているのだろうかと思うかもしれないが、ごくごく普通の受験スタイルだ(早稲田を政治経済学部から社会科学部まですべて受けるという受験生も、ザラにいる)。受験生たちは、要するに偏差値のことしか眼中にない。それが、最も役得、御利益が多いと考えるからだ。

多少、学びたいことがあっても偏差値至上主義は変わらない。たとえば、社会学を学びたいと思うなら、全国あまたある社会学部のリストから自分の偏差値に合致しそうな範囲の大学を受験し、合格したうち最も高い偏差値の大学が選ばれる。合格したのが立教と東洋なら、間違いなく立教を選択する。そこに学びたい科目があるとか、師事したい教員がいるとか、そんなことは関係ない(というか、ハナからそんなことは考えていない。大学=偏差値という頭しかないのだから、これはあたりまえだ)。

偏差値が唯一負けるものはブランド

まずは偏差値が重要視されるが、その一方でブランドも大切だ。これも例を示せば「社会」という名称が共通の早稲田大学の社会科学部と法政の社会学部に合格した場合は、偏差値が拮抗する分、ブランド力が選択においてプライオリティーを持つ。この場合、かなりの受験生が早稲田ブランドを選ぶだろう。ちなみに早稲田大学社会科学部は、あくまでも「社会科学部」。かつての「教養部」的な存在であって、かならずしも「社会学部」ではないし、社会学の研究者レベルとしては法政より下なのだが、これまたブランドの前では関係なしなのだ。

それは、言い換えれば、自分がやりたい研究分野が決まっていて、なおかつ師事したい教員も決まっていたとしても、本人の偏差値がその教員が所属する大学の偏差値に合致していなければ、そこに入ることはできないと言うことでもある。いや、その大学の偏差が、自分の偏差値より低かったりしても、やはり入学先としては回避される。要は「大学とは偏差値で入るところ」なのである。

しかし、そんなに偏差値って価値のあるものなのだろうか?僕は大いに疑問だ。そして、「偏差値って裸の王様」じゃないのかという印象が最近はますます強まっていると考えている。

そこで、今回はこの偏差値という存在を分析、相対化してみたい。結論を先に述べておけば「偏差値、もう使えないよ。一部を除いて」ということになるのだが……(続く)

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