勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:人類学と考古学

1月3日、NHKスペシャル「未来はどこまで予測できるのか」が放送された。未来では、あらゆる場所にセンサーが配置され、それらが不断にデータをフィードバック、これを解析することで物事の未来が予測可能となる世界が描かれていた。番組の中では、すでにこうやって集められた膨大な様々なデータを用いて都市の犯罪を予想し、犯罪率を激減させているアメリカ警察の様子やヒット曲を作るという事例が紹介されていた。では、果たして将来、未来を予測することは可能になるのだろうか。

僕の答えは「そりゃ、ムリでしょ」だ。まあ、このNスペの番組もそのことを十分踏まえているというか、腰が引けているというか、タイトルも「どこまで予測できるのか」となっている(ただし番組の内容は、どう見ても「予測できる」という方に力点が置かれていた印象があったけれど)。そこで、今回は未来が「どこまで予測可能」で「どこから予測不可能」かについてメディア論的に考えてみたい。

予測によって自動車事故はゼロになる

先ず、予測可能になるものについて。その典型は自動車による事故を未然に防ぐことだ。これは自動運転という技術およびインフラ整備によって間違いなく可能になるだろう(技術的にはすでに2011年、グーグルがセルフ・ドライビングカーを開発し、サンフランシスコ―ロサンゼルス間を無人で走らせることに成功している。もちろん、万が一のことを考え、助手席に人間を乗せてはいたが)。現在、装着され始めている自動ブレーキはその端緒と言える。前方のクルマや壁との距離をセンサーによって算出し、一定以上近づくとブレーキがオートで作動するシステムだ(つまり、これが前者に取り付けられれば「追突」がなくなる)。そしてこの発展系が、全てのクルマが周辺のデータ全てフィードバックさせながら自動的に制御されて動くというシステムだ。その時、人のやることはクルマに「○○へ行け」と指令を出すことだけ。すると、クルマは到着時間をオーナーに告げ、自動的に発信し、その時間通りに到着する。どれだけたくさんのクルマが道に溢れても、交通量に合わせて自動車間隔は狭められ、数珠つなぎなりながら高速で移動し、やはり時間通りに到着する。人間が運転していないので渋滞は絶対に起こらない。なんのことはない、クルマでの移動は電車移動とまったく同じになるわけだ(まあ、こうなると誰もクルマを移動手段としては買わなくなるんだろうけれど。その一方でスポーツとしてのドライビングなんてのが出てくるんだろうけど)。

これは要するに、自動車運転で起こりうるあらゆる事態がデータとして集積された後、人間を運転から遠ざけることで可能になるということなのだ。なぜ?全て機械にやらせれば、そこでエラーの入り込む要因、つまり人間という存在がなくなるからだ(もちろん、道路に人間がやってこないようにするということも不可欠になる。なので、これが実現するのは、先ず高速道路ということになるだろう)。

未来を作るのは人間というノイズ、だから未来予測は不可能

だが、こういったコンピューターと通信による膨大な情報データの集積とフィードバックによるシステムの制御は、ある条件が排除されて初めて可能になるものでもある。それはシステムを閉じてしまうこと。つまり、制御する情報に混入するノイズを遮断してしまうことによって、だ。そして、それは要するに前述した人間を排除することによってということになる。人間はヒューマン・エラーを起こす動物、そして常態的にノイズを生成する存在だからだ。ところが前述した自動車による制御は、過去にあった様々な可能性を全てフィードバックし、その統計的確率に応じてドライブそして交通システムを制御、さらにヒューマン・エラーとノイズを遮断していることで初めて可能になるに過ぎない。言い換えれば、それは「未来を予測した」のではなく「未来を閉じた」ことによって過去のデータが反映され、未来のデータの入り込む余地を無くすことで、予定調和の世界が実現したに過ぎないのだ。

ちょっと話は変わるが、これはマーケティングのことを考えてみればよくわかる。マーケティングによる商品戦略は必ずしも功を奏するわけではない。いや、その大半は不成功に終わる。マーケティングは過去のニーズを統計的に集約し、その最大値のニーズを新しい製品に反映させているに過ぎないからだ。このことについてはマーケティングなど糞食らえと考えていたスティーブ・ジョブズが面白いことを言っている。

「もしクルマのなかった馬車の時代にどんな移動手段が欲しいのかとマーケティングをしたら、誰もクルマとは言わず「鉄の馬」と答える」

そう、だれも四輪の、エンジンで動く車などイメージできない。過去の統計データをいくら返したところで未来を言い当てることは出来ないのである。そしてジョブズはさらに付け加え、マーケティング=未来予測の不可能性を断言する。

「未来を予測することなんか簡単だ。それを作ってしまえばよいのだ」

これは言うまでも無く、未来、実は人間が起こすノイズ=それまでの統計からすれば無駄なこと、そしてヒューマン・エラーの中に存在するということを意味している(酒を造ろうとしたら失敗して酢が出来たようなものだ)。そして、このノイズは人間が意味というものを求め続ける限り無限、そして永遠に産出され続ける(ジョブズはノイズをバラまき続けることで、確かにわれわれの未来を変えてしまった(笑))。一方、テクノロジーが出来ることは、こうやってすでに吐き出されたノイズ≒ヒューマン・エラーをフィードバックし、これをノイズではなくした形でシステムの中に包摂することだけ。だが、それが可能になったときには、もうすでに新しいノイズが算出されている。このいたちごっこが未来永劫続くわけで、だから未来を予測することは不可能なのだ。仮に、たとえば前述したデータをフィードバックさせて犯罪を激減させることが出来た例にしても、決してゼロにはできない。犯罪のスタイル、そして犯罪を起こす空間を人間が新しく創造し続けるからだ。また音楽にしたところでウエルメイドの小銭稼ぎみたいなものしか作ることは出来ないだろう。「意味という病」に取り憑かれた人間という存在をナメてはいけない。

そう、常に「未来は開かれ」、日々産出され続けている。そして、そういったノイズを不断に生成し続ける行為のことを、われわれは「創造」と呼び、また、そしてそうやって再生産される新しいシステムのことを、われわれは「文明」「文化」と呼んでいるのだ。

地域の名産品が、ちょっとひねられて全国区に

食べログに典型的に見られる「ネットワーク効果」について考えている。

ネットワーク効果について、最後に興味深い例をもう一つ。それは地方名産品の全国区化という現象だ。かつてだったら地元でしか食べられないし、なおかつ地元の人間しか知らないという食べ物がどんどん全国区化しつつある。佐世保バーガー、静岡おでん、富士宮焼きそば、宇都宮餃子、宮崎地鶏、大分関アジ・関サバなんてのが典型。こういった地方名産もまた、ネットとテレビの相乗効果の中で普及したと言える。

だが、知れ渡るようになるときには、ちょっと本来の文脈とは異なった形で普及する(人類学の用語で表現すればクレオール化すると言うことになる)。たとえば静岡おでんなんてのは、実は地元では、こんな名前なんか無くて、単に駄菓子屋においてあった、醤油でグツグツに煮込まれて真っ黒になったおでんに過ぎない。ところが、テレビ番組(”秘密の県民ショー”みたいなバラエティ)で紹介され、さらにネットで情報がグルグルと回ると、「静岡県内の駄菓子屋にある、ただのおでん」は「静岡おでん」と名前を変え、全国に普及した。専門店が出来るどころか、現在ではバンコクにさえ静岡おでんの専門店があるといった状態なのだ。

バーチャルが生むハイパー・アイデンティティ

だから、多少なりともヘンなのだけれど(実際、静岡の生まれで、駄菓子屋で普通のおでんを買い続けた僕からすると、「静岡おでん」と銘打っている店のおでんは、正直「ちょっと違うかな?」というか、お上品でよそよそしい感じがする)、ところがこうやってその名が全国的に知れ渡ることで、今度は翻って静岡県民が「静岡おでん」を認識するようになる。そう、静岡県民も「ただの駄菓子屋のおでん」を「静岡おでん」と認識するようになるのだ。しかも、それが全国的に知られていると言うことを知ると、今度は、なんか誇らしい気分になる。つまり「おらが故郷、おらが静岡」という地域アイデンティティがネットとテレビを媒介として生まれてくる。いわば「バーチャル故郷」と「ハイパーアイデンティティ」の誕生、つまりテレビとネットを介して新しい地域意識、地域イメージが生まれるのだ。

で、このイメージは、こうやって全国区になることで、今度は地元出身の人間が自分の田舎を説明する際には、この全国区化した県産品をネタにすればいい。つまり「ああ、あの静岡おでんの静岡」「地鶏の宮崎」とか、相手は口裏を合わせることが出来るようになっているわけで、それを踏まえて、今度はこちら側が地元ネタを展開しコミュニケーションの循環が発生するとともに、地元に対する思いを熱くしていくのだ。

これって、新しい地域アイデンティティの誕生なのかもしれない。

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