勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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エスカレーターを歩くのは危険

昨年暮れあたりから突然、エスカレーターの乗り方についての議論がかまびすしい。いや、議論というよりほとんど一方的な通達みたいな感じになっているのだが。

それは

「エスカレータは本来静止し、ベルトに手をかけて利用するもの」であり、現在一般的に利用されている「片方をエスカレーターを歩く人のためにあけておくというのはおかしい」というものだ。
理由は「本来、そのようには出来ていない」「急停止した場合、歩いている人が転倒し負傷する恐れがある」「移動手すりの側の手が不自由な人が危険に晒される」などがそれだ。いわば危険性に焦点を当てた理由なのだが、それならばなぜ今まで何ら指摘がなされてこなかったのだろうか?

今回のエスカレーター問題のように、議論がメディアで展開されはじめることで問題意識が喚起され、人々の意識・無意識の認識の中に次第に行動パターンが出来上がっていくプロセスは、社会学では「アジェンダセッティング(=議題設定機能)」とそれが浸透していく「涵養効果」という言葉で表現されている。たとえば40年前、タバコの臭いや健康への影響を認識している人間はマイノリティだったが、今では「タバコは害悪」という認識が一般化し、愛煙家の居場所を限りなく奪うという状況にまで事態は進展しているが(これは明らかに喫煙の自由(=喫煙権)に抵触しているが、完全に無視される極端な事態にまで至っている。言い換えれば喫煙者の人権を剥奪する「差別」が発生している)、これは典型的な「アジェンダセッティング+涵養効果」の影響だ。そして、今度はエスカレーターの乗り方が俎上に載せられはじめた。

こうしたものの謂いを正当化する大きな権威としてあげられているのが科学に基づく「危険性」の警鐘で、エスカレーター問題ではそのことがアジェンダセッティングされている。確かにエスカレーターを歩くのは歩かないのに比べれば危険であることは間違いない。しかし、危険なものは他にもいくらでもある。それゆえ考えるべきは、なぜエスカレーターだけが突然やり玉に挙げられるようになったかにある。

論点が逸らされた「エスカレーターで歩かないことの科学的根拠」

メディアは片側を開けないのが正しいという考え方を援護するために、摩訶不思議な科学的な説明を根拠として持ちだしている。これは、たとえばフジテレビがワイドショーで実験し証明しているので、ちょっと取り上げてみよう。それは「エスカレーターという人を運ぶツールの合理性」という科学に依拠していた。実験の内容はこんな感じだった。

40名程度の人間を被験者にしてエスカレーターを使わせる。パターンは二つ。一つは、いつも通り立っている人は左側(関西は右側)、その際、エスカレーターを歩く人のために右側(左側)をあけておくという既存のパターン。もう一つは全員を立たせたままにするというもの。「人間を効率的に運搬するという点でどちらがよいか」というのがこの実験なのだが、結果は後者だった。一定時間あたりの人間の運搬数を増やすという合理性に基づけば、全員を立たせたままにしておいた方が科学的に正しいのだ。そして、これを援護射撃的な説明材料に加え「安全面で歩かないのが正しい」という主張を正当化しようとする。

しかしこのレトリックが誤りであることにお気づきであろうか。
問題はそもそも目的の設定が根本的に異なっている点に求められる。つまり「通行者は何のためにエスカレーターを利用するのか?」に関する議論が巧妙にすり替えられているのだ。現状ではその利用は二つの目的に基づいている。一つは階段の上り下りの負担を軽減すること。これだけのことを重視するのであれば、確かに全員が立っているのが正しい。しかし別の目的を持っている利用者も存在する。それは、いうまでもないが「急ぐ人」だ。この用途の人間はかなりの割合を占める。そして、この二つの目的を達成するという目的に基づけば、科学的に合理的なのは、もちろん現状の利用法の方だ。絶対数はともかく二つのニーズが満たされる。ところが、この実験は安全性(加えて運搬の効率性)という言葉を錦の御旗に立てて、後者の目的に基づく利用者を抹殺しているのだ。つまり「急ぎたい」という権利の剥奪。これは喫煙権の剥奪とまったく同じ構造、言い換えれば議論のすりかえになる。

危険とは何か?

しかし今、われわれの日常生活の中に染みこんだこのエスカレーターの使い分けが危険性という前提の下に否定されようとしている。なぜか?。実は危険性という言葉自体にも巧妙なトリック=すりかえが隠されている。

前述したようにエスカレーター以上に危険なものは山ほどある。例えば電車のプラットフォームや自転車の右側運転は、ある意味エスカレーターよりも遙かに危険だ。前者はすぐ目の前をものすごいスピードで列車が駆け抜けるし、後者は歩行者の危険度をアップする(実際、事故が多発している)。ところが、これらについてはほとんど指摘されない。

その理由は二つ考えられるだろう。一つは費用的な問題。プラットホームにホームドアと呼ばれる自動開閉式の落下防止ドアを設けるためには膨大な費用がかかる(ホームひとつあたり10億円程度)。現状ではたとえば飛び込み自殺によってダイヤが混乱するほうが経費的に安く済む。自転車の取り締まりも同様だ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、自転車に関する交通法規を無視している利用者はとんでもない数に上る。これを厳しく取り締まろうとするならば膨大な数の警官を増員しなければならないし、利用者への徹底した教育システムも用意する必要がある(教育に関しては、現状では自動車免許書き換え時に自転車法規遵守を促す簡略なビデオを見せる程度)。だからスルーするのだ。一方、エスカレーター問題はこれらに比べれば遙かに少ない経費で可能。メディアでキャンペーンし、世論を形成すればよいだけだ。だから「危険」のカテゴリーとして取り上げられるのだ。

もう一つは責任性に関する問題。プラットホームの飛び込みも、自転車右側通行も、一旦事件が発生した際には当事者、すなわち飛び込んだ人間と自転車運転者側に責任が発生する。原則、鉄道会社、そして管理する警察と自転車メーカー側に責任が及ぶことはない。つまり利用者の自己責任。一方、エスカレーターの場合、ひとたび事故が起これば利用者ではなく設置者・管理者側に責任性が発生する可能性がある。アメリカ並みに訴訟社会化しつつある日本ではこのリスクは年々高まっている。そこで、こうしたリスク回避のために現状のエスカレーター利用法を「危険」とするのだ。何のことはない、施設を用意する側の都合で危険(この危険を「リスク」と呼ぶことにしよう)が設定されているである。

「危険」という言葉の危険性

そういえばディズニーランドが朝オープンする時、パーク内に入るとキャスト(従業員)が必ず「走らないでゆっくりとお進みください」という言葉を連呼していることを思い出した。しかし、多くのゲスト(入場者)は、そんなことは無視だ。誰も物理的に制止されることがないことを知っているからだ(そんなことよりファストパスをいち早く抜くことが重要だ)。でも、それでよいのである。ディズニーランドがこの一声をかけた瞬間、万が一、そこでゲストが転倒しケガをしたとしても、制止を促していた事実が担保になり、運営側のリスクが回避されるからだ。この一言は要するには「運営側は責任を取りましたよ。ケガの場合は自己責任」というメタメッセージに他ならない。そしてこの声がけ、早く中に入りたいゲストにとっても運営するディズニー(オリエンタルランド)側のリスク回避にとっても好都合、いいかえれば双方の目的にとって科学的かつ合理的なのである。

エスカレーター利用法変更促し問題は、結局のところ「危険とは何か」についての存在論的問いをわれわれに投げかける。「危険」という言葉をメディアや権力者、あるいは社会運動を行っている側が発するとき、われわれは一度、この危険認識がどのような立ち位置に基づいているかをよくよく考えるべきだろう。得てして危険は「利用者」ではなく「設置者・運営者」に配慮して設定されている。つまり「危険回避」ならぬ「リスク回避」。

「危険」という言葉。実はかなり「危険な言葉」なのだ。

マクドナルドが販売する商品の中にプラスチックの破片や人の歯が混入されているといった報道があちこちでなされている。まあ、最近調子のあまりよくないマクドナルドのこと。組織体制が緩んでいている、チンタラしている、体たらくで安全管理、危機意識に欠けるなんてイメージがメディア的に媒介されつつあるのだけれど……そうではない。これは「メディア社会のトリック」と思った方が的を射ている。今回は「マクドナルドは安全管理に不備がある」というイメージがどう作られたのか、そういったイメージの形成が僕らの生活の中に及ぼす影響、危険性、そして処方箋について考えてみたい。

ラーメンのスープに入っていたものは?

先ずは僕個人のエピソードからはじめてみたい。
もう二十年近くも前のこと。僕は当時住んでいたアパートの近くにあるラーメン屋でちょっと不快な思いを経験した。いつものように、いつものラーメンを注文し、麺を食べ終わってレンゲでスープをすすっていたときのこと。もう一口とレンゲを丼に突っ込んでスープをすくい上げると、中に何やら焦げ茶色っぽい小さな物が。その破片の片方には、なんかヒョロヒョロと繊毛のようなものがついている。「なんだろう?刻んだ椎茸かな?」そう思った僕はそれを箸でつまみ上げてみた。すると……なんとそれは小さなゴキブリだったのだ。「うあっ、もうラーメン食べちゃったよ~っ!これってゴキブリのダシ入りかよ」
ちょっとゾッとしたので、店員にクレーム。すると件の店員は平謝り。お代はいりませんということになったのだけど。さすがにちょっと気分が悪くなった(これは店員に腹を立てたのではなく、食べた後にゴキブリ入りのラーメンを食べたという記憶が蘇ってなんか気持ち悪くなったというわけなのだけれど)。

さて、その後このラーメン屋はどうなったのか。何事もなく営業を続けたのだ。しかも結構、人気。このラーメン屋、いまだに健在である。

でも、ゴキブリ入りラーメンを販売したのに、なぜ未だに営業を続けることが出来ているのか?なんのことはない。この「ゴキブリ混入事件?」知っているのは僕だけだからだ。まあ、もし僕が腹を立てて保健所にこの事実を報告したとしても、おそらく当時の保健所だったらスルーしてしまったのではなかろうか?(理由は後述)そして僕もそんなことをするつもりはなかった。自分が鈍感なのかも知れないが、そうしなかった理由は「ラーメン屋やってりゃ、そりゃスープの中に小さいゴキブリくらい入ることはあるだろう」と思ったから。つまりラーメン屋の側に悪意はない。しかも、ゴキブリは毒というわけではない(細菌はあるけれど、あったとしても、とっくに殺菌されている)。つまり、それで自分に危害が加えられるというわけではない。だからそんなに騒ぎ立てることでもないだろう、と考えたのだ。ラーメン屋の店員は本当に申し訳ない(まあ「隠し通したい」ってな気持ちもあっただろうけど)と思ったのか、次に店を訪れたときには、再び平謝りされ、チャーシューを盛ってもらったのだけど(^_^)b(「オマエがただ鈍いだけだ」と言われそう(笑))。

ところが時代は変わった。もし、同じことが今起こったら、たいていの場合、こんなわけにはいかない。ちょいとシミュレーションしてみよう。顧客がラーメンにゴキブリを発見したらどうするか。多分、店員には報告しないだろう。その代わりスマホでそれを撮影。早速Twitterやfacebookにその写真をアップしてしまう(それは告発的な意識でやるかもしれないし、おもしろがってやるのかもしれない)。ところがこれらSNSは不特定多数に情報が流れる。そうなると、こういった、ある意味「日常的だがセンセーショナルな事件」はあっという間に拡散される。で、これをめざとくマスメディアが見つけて大々的に放送。さらにインターネット≒SNSとテレビの間でスパイラル、つまり双方でこの事件のキャッチボールが行われる中で話がデカくなり、事は国民的事件にまで発展していく。と、その結果は……言うまでもなく店は営業停止、いやそれどころか閉店に追い込まれるという事態にまで発展する。

マクドナルドから異物が頻繁に発見される理由1:SNSの普及

さて、僕が経験した「ラーメン屋ゴキブリ混入事件。ただし、僕だけの」。実は、マクドナルド商品の異物混入事件とまったく同じ構造と考えたらわかりやすいだろう。マクドナルドの安全基準、実は今も昔も変わらない。いや、おそらく安全基準は昔よりもアップしていると考えた方がいい。言い換えればマックで異物混入は昔からしょっちゅう起こっていたはずだ。にもかかわらず、あっちこっちから異物混入の報道がなされるのは、要するにインターネット社会で情報の受け手側がSNSというメディアによって発信力を持ち、これを表沙汰にしてしまったから(こういうことが繰り返されて権利意識が高まってしまったからと言うのもある)。で、こういった事件はマスメディアとしてはお手軽なネタとして取り扱うことが出来る。そこでTwitter、facebookで騒がれ拡散されているこのネタをあっちこっちから集め、それを報道すると、それは「僕だけの混入事件」であったはずのものが「社会問題となる大事件」へと変貌するのだ。その結果、マクドナルドは「安全管理を怠っている、体たらくなファーストフード」というネガティブなイメージを作られてしまったというわけだ。

マクドナルドから異物が頻繁に発見される理由2:リスクという概念が備える必然性

でも、なんでこんなにマックばかりから異物が発見されるのか?これは、ある意味あたりまえだ。
こんなふうに考えると、これはよくわかる。
もしあなたが交通事故に絶対に遭いたくなければ、つまり交通事故遭遇率をゼロにしたければどうすればよいか?……家から出なければよいのだ。しかし、それはイコール社会生活の放棄を意味する。

マクドナルドが異物混入をゼロにするためにはどうしたらよいか?……店を全てたためばよいのだ。しかし、それは企業活動をやめることを意味する。もちろんマクドナルドはそんなことはしないし、実際、膨大な数の店舗を国内に抱えている。ということは1店舗が異物を混入させる確率より遙かに低い確率の「高い安全基準」を設けたところで、店の数が多いだけ異物は絶対に混入されざるを得ないのだ。これは、ゴキブリが入っていたことで製造・販売を中止しているペヤング・ソース焼きそばも全く同様だ。まるか食品が提供するこの焼きそばは、カップ焼きそばの草分け。「みんな大好き」と呼ばれるほど人気のある商品。ということは、これもマクドナルドと同様、異物混入の危険性をバラまいているということになるのだから。つまり、ターゲットになるのは大手なのだ。

アイスクリームボックス侵入、ペヤング、マック事件の背後に見え隠れするメディア的不寛容

「ちょっと、危ないんじゃないのかな?」
ローソンでバイト店員がアイスクリームの冷蔵庫に入った事件、そしてマクドナルドとペヤングの異物混入事件。この発生メカニズムに僕が率直に感じたのがこれだ。よくよく考えてみても欲しい。こういった事態は、まあよろしくはないことではある。しかし、そうであったからといって、われわれの日常生活に何らかの影響を及ぼすものなのだろうか。店員が冷蔵庫に入るとアイスクリームがヤバいのか?ペヤングにゴキブリが入るとヤバいのか?マックフライポテトに人の歯が入るとヤバいのか?……はっきり言ってヤバくなんかないだろう。極端な話、食べたからってどうってことはないし、異物はのけてしまえばよいだけの話。「万が一子どもが飲み込んだら、そしてそれがプラスチックの破片で、尖っていて内臓を傷つけたら?」、そりゃ危険だろうけど、これって「あり得そうもないことの中でも、とりわけあり得そうもないこと」だろう。

でも、そうはならない。これらは格好のメディア・ネタとなった。ネット上の「祭り」みたいなことをテレビがメディア・イベント的に展開してしまった。で、実際、ほとんど祭りみたいになってしまっている(おそらく、このうちのいくつかは調子に乗って混入をねつ造したなんてことをやっている愉快犯によるものでもあるだろう。で、こんな連中がいたとしても、その連中も軽い気持ち、つまり「祭りを盛り上げる」という動機でやっているはずだ)。

こういったネタ的消費としての異物混入事件。SNSとマスメディアでのネタの使い回し。僕はここに「集団的なイジメ」を感じないではいられない。ただし、ネットとテレビで媒介されているので、このイジメを展開する当事者はすべて「匿名」(強いて実名を挙げれば、それはテレビ局)。ということは「人の不幸は蜜の味」「大企業で儲かっているヤツは、イジメてやればオモシロイ。ザマーミロ」という悪意が抑制されることなく展開される。まさに「群集心理」(ただし、この群集はもはや一定空間に同居せず、ネットを介して散在している)、そして「嫉妬の裏返し」。僕はそこに「不寛容」という言葉を見てしまうのだ。で、これに乗っかっていれば「あなたも、知らないうちに立派なクレーマー」ってなことになっている。

事件に対する鈍感力とSNSの使い方に対する敏感力の必要性

安全管理という錦の御旗を立てるのはよいだろう。しかしわれわれは人間だ。当然ヒューマンエラーをやらかす。これに対してはある程度寛容でもよいのではなかろうか。僕がゴキブリ・ラーメンを店員に指摘しながらも、どこにも訴えなかった理由、実はそこにある(で、当時の保健所にこのことを報告したところで、保健所も適当にスルーするだろうといった理由もそこにある。保健所は、そういったクレームにいちいち対応したら埒が開かないことくらい重々承知だからだ。つまり保健所はヒューマンエラーをよく認識している)。だって、さっきも書いたように、子どものゴキブリが入ってたところで、どーってことないんだから。つまり、鈍感力が必要。

もうひとつ指摘したいことはSNSから流される情報に対するわれわれの「初心さ」だ。あそこに書かれていること、写真として掲載されていること、それは本当に事実なのか?あるいは起きていることを正確に照射しているのか?こういったことに対する疑いの目を持たず、アップした人間の煽り(ネタ的な)を真に受けてしまっているというのも事実ではなかろうか。つまり、問題なのは、これらに何も考えないで書かれたがままに、アップされたままに「危険」と敏感に反応してしまう鈍感力。この鈍感力を敏感に感じる必要があるのだ。

もし、あなたがマクドナルドに行って商品を注文したときに、異物が混入されていたら、そのことを店員に報告しましょう。そして商品を交換してもらうなり、返金してもらうなりしましょう。さらにいえば「管理をきちんとしてくださいね」とお願いしておきましょう。僕らがやることはここまででよいのではないんだろうか?それで、もしまた混入しているというようなことがあるのなら……そこで初めてクレームするなりしましょう。で、どうしてもあなたが異物混入を許せないのなら、あなた自身でリスク管理をしましょう。それは……もう、そのマクドナルドには行かないようにすればいい。SNSにアップしてしまうことは、よっぽどの確証が無い限りやらない方がよい、僕はそんなふうに考える(もちろん、あれば別だけれど)。だいたい、世の中アタマにくることなんかいくらでもある。それをいちいちネットにあげつらっても無駄なんじゃなかろうか。だって僕らは人間、コンフリクトは必ずあるし、ヒューマンエラーは必ず起こる。それが人間なんだから。こういった寛容さを持つことの方が健全だし、最近アタマの悪いメディアのネタに使われることもない。そう、煽られてはいけないのだ。

中国13億の人口がマイノリティになる時代がやってきた

国民を計量的=一山と考え、個人=人権を無視することで発展を遂げてきた中国。ところがこの政策が、?眷小平以降の改革・開放政策で民主化が進み国民の所得が増え、これに伴って個人主義が浸透し、人権意識が中国国民の間に生まれたことで、うまく機能しなくなってしまった。そして、その象徴的な事件として今回の中国高速鉄道事故の波紋が広がっていることを前回は指摘しておいた。

だが、国民を計量的に扱うことが出来なくなりつつあることについては、もう一つ別の側面=理由もある。中国が産業力をあげるためには、当然、その市場を開拓しなければならない。つまり、それは国際的な市場に打って出なければならないことを意味する。で、これまでは前述したように人件費の安さが低価格商品を可能にし、これが国際競争の大きな武器として機能していた。だが、このまま経済成長を続ければ、いずれ中国もまた所得が上昇し、それが商品価格に反映されることとなって競争力を弱化させることは明らか。マルクス的に言えば、この「搾取的」な市場戦略(この場合、国家=資本階級、国民=労働者階級ということになる)は功を奏さなくなることは目に見えている。

技術力を示すことがデファクト・スタンダード

となれば、今度は技術力で勝負しなければならない。そして、その技術力を世界に見せつけるべく展開しようとしているのが高速鉄道であるし、だからこそ急ピッチな開発で中国全土に高速道路網を敷設する必要も出てくる(中国の高速道路網は、すでに日本の新幹線の四倍の規模に達している。しかも敷設し始めてからまだ6年もたっていない(開業してから四年!)というのに)。これだけ広がっていれば、そして急ピッチな開発であるならば、それが技術力の高さを証明することになるからだ。ところが、今回の事故は、その技術力の甘さというか、低さを世界に向けて露呈する結果となった。競争相手である日本、韓国、フランスなどと比べれば、これによって明らかに鉄道の海外売り込みについては一歩も二歩も遅れをとったはずだ(中国は、くどいようだが人件費が低く抑えられているので、他国と同じか、ちょっと低い程度の技術であっても、建設費が安い分だけアドバンテージがあるわけで、それが強みだった。しかし、今回の事件で、中国鉄道のその採用基準としては安全>安価という図式になってしまった)。

だったら、今回の事故を隠蔽してしまうことは、国際競争での明確な敗北を意味することになってしまうのだ。だから、政府は方針転換。問題を明らかにするという方向に舵を取ることを余儀なくされたわけだ。

人権を尊重することもデファクト・スタンダードへ

さて、こうやって考えると中国という国家は、今、岐路に立たされている、つまり経済的発展の第二段階に入ったと考えるのが妥当だろう。ここまで展開してきたように、これまでのような人を人とも思わぬような外交と経済政策では、国内的にも、国際的にも、もう太刀打ちが不可能なところにまで来ているのだ。そう、これまでは13億5000万人の強みを持って、政府は個人を無視してやりたいことをやってきたわけだけれど、これからは国際的には世界の全ての人口を相手にしなければならない。世界人口は現在70億人。一方、中国は13億人なので、こちらの規模から見れば、中国はマイノリティに属してしまう。つまり、一層の経済発展のためには57億人を相手にしなければならなくなったのだ。そして、国内的にも同様で、自ら育てた国民たちが資本主義、消費者の立ち位置で生活を謳歌しはじめた。こちらにも、対処しなければならないところに来てしまったのだ(ということは、もはやこの計量的な政策は70億人に対して無効ということを意味する)。

そして57億の大多数が支持するのが民主主義、そして消費生活。だから、そこに付随する個人主義、つまり「人間を計量的に扱うのではなく、尊厳ある、そして人権を持った存在」という「個」を中心としたイデオロギーを支持しなければ、もう、中国経済発展の将来はないということになった。

そう、中国は経済発展とともに、国際社会の一員としての役割を果たさなければならないという義務を、必然的に背負わされる状況に追い込まれた。もう大国としての傲慢さを武器にすることは難しい。そのことを中国政府は、今回の高速鉄道事故でイヤというほど実感させられたのではなかろうか。中国は経済的に揺籃期を終え、世界という社会での「大人」として自立しなければならない岐路に立たされたのだ。

こう考えると「元」の変動相場制移行も、そう遠い話ではないのではなかろうか。また、世界各地で蛮行を繰り広げ、顰蹙を買っている中国人旅行客が、インターナショナル・ルールに基づいて、礼儀正しくマナーを守るようになる日もやってくるのではなかろうか(ただし、こちらはかなり先の話だろうが……)。

国民を計量的に扱うことが難しくなってきた

中国高速鉄道事故の波紋について考えている。

前回は、西欧近代国家とは異なり、中国が国民を個人としては捉えず、「ロット」「目方」「一山」として計量的に考えることで、それが結果として「最大多数の最大幸福」の状況をもたらしてきたこと。そして、実際、個人より国家の利益を重視した方が、結果として国民全体の利益になるという「費用対効果戦略」が中国をGNP世界第二位の経済大国に押し上げることに成功してきたことを指摘しておいた。だか、この中国の「伝統的」な政策、そろそろ通用しなくなりつつある。また、中国政府自体もこれに気づきつつある。そして、そのことを如実に語っているのが今回の高速鉄道事故と考えられるだろう。

「なかったこと」にしてきた

今回、事故の対応について、国民から政府への大きな批判が浴びせられている。彼らの批判のスタンスは、僕らの立ち位置と同じ「人権蹂躙」というそれだ。ネットでも事故を巡っては批判が巻き起こっているし、中国電視台のニュースでは、なんと女性アナウンサーがアドリブで涙を流しながら政府を批判してしまうという事態まで発生した。かつて、中国ではこんなふうに議論が巻き起こると言うことは決してなかったし、起こった瞬間、政府が押しつぶして「なかったこと」にしてきた。

「なかったこと」にはできなくなってしまった

そして、これに従って政府の対応も変化を見せつつあるのだ。これまでのように「なかったこと」とか「もう済んだこと」として、知らぬ存ぜぬを決め込むというふうには、ならなくなっている。あるいは隠蔽することも難しくなっている(かつて世界で一番安全な航空会社は中国民航と呼ばれていた。というのも墜落事故が一回もなかったからだ。ツポレフやイリューシンというボロボロのソビエト製旅客機を使っていたにもかかわらず……もちろん、そんなことはありえないわけで、実は、飛行機事故の全てが隠蔽されていたから、こうなったに過ぎなかったのだ)。具体的には、当初、落雷のせいで済ましていたのが、シグナルのミスと言い換えたり(でも、これもおかしい。日本の新幹線でシグナルのミスなんてのはあり得ないのだから。ATC=自動列車制御装置が作動する。これはもちろん中国の高速鉄道にも使用されているはずで、そういった意味では鉄道側の責任を認めるところまでは来ていても、その本当の原因はまだ隠蔽されたままだ)、埋めてしまった列車の先頭部分を掘り返して運んだり。つまり、かつてのそれとは異なり、どうも、あの強気のはずの政府が弱腰になっている。でも、これはある意味、自らが推進してきた政策の必然的結果と捉えなければならない。

改革・開放政策が開けてしまったパンドラの箱

中国は?眷小平の改革・開放政策の下、80年代後半より民主化、資本主義化を徐々に推進してきた。そして、その結果、人々は産業を興し、世界に対抗できる技術力を獲得(もちろん人件費の安さがウリではあるが)、そして人々は豊かになっていった。だが豊かになっていくと言うことは、消費生活を助長すると言うことでもある。そして、消費生活の基本は「個人の欲望の助長すること」。だから社会主義から資本主義へのソフト・ランディングは、国民たちに「個人であること」「個人主義がよいこと」という感覚を消費生活と共に浸透させていくことになる。それは必然的な結果として、人間をロットとして計量的に扱う政府のやり方への嫌悪へと繋がっていく。

そして、これに情報化社会のうねりが援護射撃する。つまり、インターネットに接続することで、世界へ向けて消費欲望が芽生え、またそれと同時に資本主義社会のライフスタイルというものの正当性を実感するようになる。つまり、社会主義を豊穣化させるための改革・開放政策は、結果として資本主義・個人主義というパンドラの箱を開いてしまったのだ。

こうなると、人権に対する意識が中国人の意識の中に明確に芽生えてくる。そして、もう、それを押さえ込むことは出来ない。従って、今回のような「人を人とも思わぬような最大大多数の最大幸福政策」は受け入れがたいものとなっていったのだ。

いや、この政策を続けられない理由は、まだほかにもある。それは何か?(続く)

国際的に非難を浴びる高速鉄道事故

中国高速鉄道が追突事故を起こし、多くの死傷者を出した。このことについては、メディアで大きく扱われているので、どなたもご存じだろう。そして、この事故については中国政府の方針に対する批判が、海外から多く寄せられている。

ひとつは性急な高速鉄道網の開発と運営について。つまり、ちゃんとした安全確保をしないうちに、どんどんと鉄道網を広げていること、そして事故後の処理の杜撰さへの批判だ。とりわけメディアのやり玉に挙がっているのが、事故直後に、車両の先頭部分をとっとと地中に埋めてしまい、早々に運転を再開させたこと。つまり、原因究明がなされていないのに、何もなかったかのように済まそうとしていることについて、多くの非難が寄せられているのだ。

そしてもう一つは、人名についての取り扱いのひどさ、ようするに「人権無視」の姿勢だ。先頭部分を地中に埋めるなんてことを優先させたために、人命救助とか遺体の処理が後手に回ってしまったとか、遺族に対して鉄道事故で出される規定の三倍もの補償金(600万程度)を出したりとか、早期に手続きした遺族や被害者にたいしてはボーナスを付けたりとか、とにかく事故隠蔽のために人を人とも思わぬ対応を行っている。これがやはり批判の的になっているのだ。

で、この論調に同意することは簡単だ。でも、それじゃあ、この事件のメディア論的視座からの相対化はできない。そこで、今回は逆に「こういった中国政府の対応は正しい」という前提で考察を進めてみよう。そうすると、中国の立ち位置が見えてくるし、その一方で、正義面して批判している海外メディア(もちろん日本も含めて)の立ち位置もまた見えてくるからだ。

なぜ、中国政府の対応は「正しい」のか?

たしかに、僕らの目から見たらこの事故に対する中国政府の対応は杜撰というか、傲慢というか、横暴だ。しかし、これを中国政府の立ち位置で捉えたとき、案外、こういった対応は正当であることがわかる。しかも、それがこれまで中国が今日のような発展を遂げるに至った方針の一環として位置づけられるということも。

その確固たる方針は「費用対効果」という言葉でまとめることができるだろう。中国の国民(人民といった方が適切か?)に対する立ち位置は「計量的」。もうすこしざっくりといってしまうと「目方」「ロット」で、統計的に人間を捉えている。いいかえれば「個人」という単位は斟酌されない。

とにかく、たくさん、人が死ぬ。しかも中国人が

かつての歴史を見てみよう。第二次世界大戦後、チベットを中国政府下に置くために軍隊が派遣されたが、その際、百万人近くのチベット人が犠牲者となり、なおかつチベットの象徴であるラマ教の最高位であるダライ・ラマが国外追放されている(現在もこれは続いている)。79年の中越戦争の際には、56万もの中国軍が国境を越えて山の向こうからベトナムに攻め入ったのだけれど、この時、たった一ヶ月の間に、ものすごい数の中国兵が戦死している(中国発表6千人、ベトナム発表2万)。しかし、中国は攻め込むことに成功している。というのも、山の向こうから果てしなく中国兵が攻めてきたからだ。そう、殺しても殺しても兵隊は攻めてくるわけで。

そして天安門事件。民主化を訴え、天安門広場に集結した中国の青年エリート学生たちに中国政府は銃や戦車で対応し、数百人規模という、やはり多くの血が流れた。

さて、なんで中国政府は、こんなにも中国人民を虫けらのように扱うのだろうか?それが「費用対効果」という考え方なのだ。中国は13億5000万人の人口を抱える。これはちょうど日本の10倍にあたる。で、何かの災害が起きた場合には、中国政府の基準から人間の価値の重さを計算すれば、それは日本の十分の一ということになる。こんな単純な計算は僕ら日本人ではちょっと考えられないが、実際、中国政府にはこんな認識で人民を扱ってきた歴史がある。天安門事件の時、大量の血が流されたときにも、政府が発した言葉は「中国は13億人の人口があるのだ」だった。ということは、くどいようだが政府的には、中国人民の人命の重さは、日本政府が人の命を重んじることの十分の一でいいわけで、今回高速鉄道事故で亡くなった35人という数字は、中国政府の感覚では事故で3.5人が亡くなった程度でしかない。つまり、国家的には大した事故として扱うには値しないのだ。そ

「最大多数の最大幸福」という原則を遵守している中国政府

で、むしろ人命のことより、高速鉄道網の開発を一層推進し、申し訳ないが人命に目をつぶった方が、中国という国家が発展するための費用対効果としてはプラスということになる。実際、中国は個々の国民をないがしろにしつつ、国家の繁栄を推進してきた。もちろん、中国政府が「国民などどうでもいい」と思っているわけではない。これは中国独自の「最大多数の最大幸福」というスタンスから導き出された方針。で、それは見事に達成している。つまりGNP世界第二位にまで上り詰める国家になったわけで、そういった視点からすれば中国政府というのは極めて一貫性に満ちた「まともな政治」をやっていると判断していいだろう。どこぞの国の政府みたいに、訳のわからん人物が首相になって一年もたたないうちにコロコロ代わっている「政治方針のダッチロール」みたいなクニャクニャしたやり方とは一線を画しているのだ。

「上から目線」の中国批判。じゃ、オマエのほうは、どうなんだ?

で、中国のこの方針を批判しているメディアや日本人は、こういった中国の立ち位置を全く斟酌することなく、ひたすらこれを批判する。それは、言い換えれば自らの立ち位置を対象化せず、絶対化、つまり神の視点化して、上から目線で批判しているに過ぎない。そしてこの「神の視点」の立ち位置とは「個人が絶対的に尊重される」というイデオロギーに他ならないのだが、これが良いのか悪いのかについては顧みることなく「所与」「あたりまえのこと」として、一方的に中国を批判している。そう、中国政府を批判する日本人やメディアは、中国政府と同じくらい傲慢なのだ。

閑話休題

と、ここまで書いてくると、そろそろ嫌中のみなさんが起こりはじめそうなので、そろそろ矛先を変えるとしましょうか。ここまでは、あくまで「中国政府の立ち位置に立って、今回の対応を正当化したら」ということと「中国政府の対応を批判している日本人、日本メディアの見落としている自分の立ち位置はどこにあるのか」ということを指摘するのが目的で展開したもの。まあ、ディベート的に考えていただきたいと思う(でも、そんなにエキセントリックにならないで、ちょっと自らを振り返って考えて欲しいとは思う)。

で、話はもう少し入り込んでくる。こういった中国政府の一貫した姿勢。どうも、そろそろ通用しなくなりつつあるようなのだ。そして、今回の事故はそのことが如実に表れたと僕は考えている。では、それは何か?(これを読んでお怒りになった方がいらっしゃったら、本ブログにコメントに批判を書くのは明日まで、ちょっとお待ちください。オチありますので(^^))。

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