勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:事件

周知のように昨日からイスラム過激派「イスラム国」による日本人人質事件が報道されている。74時間以内に2億ドルの身代金を支払わなければ2人の日本人が処刑されるという宣言がされており、事は急を有するものだが、今、マスメディアが絶対にやらなければならないことがある。

それは、

「イスラム国」という呼び方を即刻やめること、

だ。

豊田通商が受けたとばっちり

その理由を別のエピソードから示そう。1985年、豊田商事という会社が現物まがい商法(存在しない金(gold)をあったことにして現物の代わりに証券を手渡す、いわゆるペーパー商法)によって2000億もの損害を人々に与えた事件があった。これ自体はとんでもない話だが(会長の永野一男が右翼によって報道陣たちの目の前で惨殺された話は有名)、この時、とんだとばっちりを受けた企業があった。「豊田通商」だ。豊田通商はトヨタグループの総合商社。豊田商事とは全く関係が無い。ところが、たまたま名前が似通っていた(「通」と「事」のみが違う)だけで、ここに膨大な数の非難、苦情電話がかかったのだ。まあ、迷惑この上ない。しかし、残念ながら、ある程度の人々にとって、事実に関する認識というのはこの程度なのだ。そして、こういったイメージがしばしば人々の偏見を助長する。

今回の、この過激派「イスラム国」にも同様の事態が恐らく発生していると僕は懸念している。「イスラム国」はしつこいようだが、一つの過激派の名称に過ぎない。だが、その名称は、さながら「イスラム諸国」を代表しているかのような錯覚を受ける恐れが高い。つまり、豊田商事事件のエピソードを敷衍すれば、状況を知らない人間たちは「イスラム国」を「イスラム諸国」、あるいは「イスラムの全て」と誤認。その結果、「やっぱり、イスラム教というのは邪教、そしてイスラムの人間たちはロクな連中じゃない」と誤認し、そこからイスラム文化に対する偏見が助長されていく。まあ、迷惑この上ない。

メディアのメッセージ性が備える恐ろしさ

こういった懸念、メディア論専門の僕からすれば決して「取り越し苦労」には思えない。メディアは情報を伝える媒体であるけれど、メディアそれ自体も特性を持ち(「メディアのメッセージ性」と呼ぶ)、それが伝達する内容に大きく影響する。たとえば「今」を意味する英語を「ナウ」「NOW」「なう」と表記すればイメージが全く変わってしまうことを考えてもらえばいい。つまり「デートNOW」「デートナウ」「デートなう」は意味が全く違う(あるいはまた、性交を「SEX」「H」どちらで表現するかでもニュアンスは大幅に異なる。明らかに後者の方が「お気楽」なイメージになる)。ちなみに「アルカイダ」は訳せば「基地」。でも、この場合、アルカイダの方がはるかにヤバそうでしょ。

それゆえ、メディアを振り回すマスメディアは、こういった「メディアそれ自体が持つ情報=メッセージ性」に敏感にならなければならない。とりわけ、文化や文明のイメージに関わるような事柄に関しては。しかし、今回、マスメディアはそのことがわかっていない。マスメディアは放送禁止用語(正しくは放送自粛用語)には、ものすごくナーバスなのに、国際関係、とりわけイスラム圏の扱いについてはものすごく杜撰。これって、マスメディアのメディアリテラシーの問題と言わずして、なんと言おう。知性が問われる。

だから、僕はマスメディアに提言したい。繰り返そう、「イスラム国」という呼称を即刻中止せよ!

代替案を二例ほど

まあ、「ヤメロ」というだけでは無責任なので、代替案を提示しておきたい。

1.名称変更:英字読みだと、このイスラム過激派の名称は”Islamic State”略称で”IS”なので、これを「イスラミック・ステート」(あるいは「アイエス」)とカタカナ読みにして利用する(もっとも「アイエス」だと旅行会社の「エイチアイエス」と勘違いされるかも知れないけれど)。日本人のあいだではstateの意味はイマイチ認知されていないので、この名称が「普通名詞」ではなく「固有名詞」と認識されやすく、その結果、これが一部のイスラムの人間たちによるものであることがメディアのメッセージとして伝達される。

2.お断り:その都度、断りを入れる。つまり「このイスラム過激派、名称は「イスラム国」ですが、あくまで名称であり、イスラム諸国家、イスラム文化を代表するものではありません」とやる。ま、メンドクサイが。


マスメディアのみなさん、自分たちの放つ言葉の影響力をよ~く踏まえてください。お願いします!



アカハラ、セクハラ、パワハラ、キャンハラとよばれる一連のハラスメントは、一般に「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指している。ようするに「相手から精神的苦痛を受けたら、それはハラスメント」ということになる。

しかし、この定義、ちょっと間違えれば、ものすごく恐ろしく、危ないものではないだろうか。というのも、これは文脈が前提されない定義であって、それゆえ、最終的にこの定義を利用する側に絶対的な権力が委ねられてしまうという暴力性を備えているからだ。

大学のハラスメント問題で、大学はたいてい泣いている

僕は大学教員だが、この大学というところでは頻繁にハラスメント(いわゆるアカハラだが、他のものも含めて)が発生している(幸運なことに、僕はまだ訴えられたことはない(笑)。もちろん、やっているつもりはないけれど。でも、ハラスメントは本人の自覚があるなしに関わらないのでわからない)。で、一般的に大学にはこれに対応するハラスメント委員会なるものが存在するのだが、これはある意味「もみ消し会議」とルビを振ってもよいような状況に置かれてしまうことがある。もちろん、大学がインチキ、つまり本当にもみ消しをやっているという意味ではない(やっているところもあるかもしれないが)。ハラスメントの成立状況がきわめてあやしいゆえに、それが結局もみ消しみたいな状況にならざるを得ないのだ。

誤解がないように、もう少しかみ砕いて説明しよう。ハラスメントの訴えがあった場合、大学としては、もちろん、これを取り上げないわけにはいかない。で、それらは大きく「明らかにハラスメントのもの」「グレーゾーンのもの」「単なる思い込みのもの」というかたちで分類される。真っ黒なものはもちろん適切に処理されなければならない。問題なのは残りの二つだ。グレーゾーンはややこしいので慎重を要するが、単なる思い込みは退ければいいというふうに一般的には考えたくなるのだけれど、実はそうはならない。思い込みのものでも大学側は「まあまあ」というかたちで、折り合いを付けようとしてしまう。なぜって?そっちの方が、お手軽だからだ。つまり、私たちはハラスメントなんかやっていませんと突っぱねると、かえって具合が悪くなる。訴えられたり、メディアに公表されてしまったりする恐れがあるのだ。こうなると、その事実がどうであれ、おおっぴらにされてイメージを損なうより、適当に手を打って表沙汰にならない方が費用対効果が高いと考え、その結果、ハラスメントでもない事態に対して穏便に済ますべく、示談に持ち込んでしまったりするのである。

さて、こういった大学の弱腰は、上記のようなハラスメントの定義が何の文脈=コンテクストもなく用いられるがゆえに発生する必然的結果ともいえるのではなかろうか。

ハラスメントの定義の解釈は、結局弱者の文脈に委ねられてしまう

上記の定義は全ての決定権がハラスメントを受けたとされる側に委ねられている。この「ハラスメントが実際にあったかどうか」ではなく「私がハラスメントを受けたと感じた」とするところに最終的な審級が与えられている。少し意地悪な表現をすればクレーマー的、あるいはやたらに対人関係に敏感、自意識が極端に過剰な人間が訴えたとしても、それは「弱者の絶対性」によって担保されるがゆえに正当性が生じてしまうのだ。この時、被害者とされる側は「弱者」という記号によって「絶対強者」へと転じることが可能になる。

メディアによる弱者の強者化
そして、この弱者の絶対性をバックアップするのが、実は、前述したように、こういったことを暴き立てようとするマスメディアに他ならない。マスメディアは「弱者の側に立ち強者を叩く」という立ち位置を保持する。そして弱者=一般大衆が強者=権威者を叩くという図式はジャーナリズム的にもふさわしい。そこで、実際に何が起こっているかどうかはさておいて、弱者の側に立ち、これを絶対化し強者を攻撃するのである。さきほどのアカハラなら学生側が弱者=大衆であり、大学側が強者=権威というステレオタイプだ。で、この図式はジャーナリズム的に広く人口に膾炙しているので、そこそこ支持が得られる(視聴率や発行部数というかたちで、それが現れるとされる)。こうなると、事実関係よりも「ハラスメントが起きている」というメディアイベントの方が持ち上げられ、その背後で実際にそこで何が起きているかは完全に無視されるのである(メディアにとっては、こっちの方が費用対効果が高い)。

これは、もちろん法廷などに持ち込めば、最終的にシロ、クロがはっきりするのだが、それまでに強者側が被る損失は相当なものになる。たとえシロであることが明白になったとしても、その間の大学のダメージはハンパではないのだ(大学名はメディアによって告知されているので相当なイメージダウンになる。弱者の名が世間に知れ渡ることは、もちろん、ない)。だから、早めに負けておいた方がいい、つまり裁判などに持ち込むよりも、相手の意のままにしておく方が傷つかないですむと、大学側は考えるのだ。その結果、弱者は、いっそう強者としての権力を獲得する。権利意識はどんどん肥大化していくのである。

ハラスメント定義のガイドラインを設定すべき

間違えないでほしい。僕はハラスメントをやっている側をかばうつもりは毛頭無いし、この定義それ自体を全面否定するつもりもない。またハラスメントは、やっている側がしばしば自覚がないことも認めるにやぶさかではない(だからハラスメントは怖いのだ)。ただし、この定義に文脈=コンテクストをつけて解釈を行わなければならないということだけは訴えたいのだ。なぜって?この図式、つまり最終的な判断決定権の弱者への全面付与とメディアによる援護射撃は、本人がハラスメントをやっている自覚がないだけではなく、実際第三者から判断しても、どう見てもハラスメントとは思えないものまで、このカテゴリーに入れられるには十分になってしまうからだ。つまり、完全な濡れ衣が、いちゃもんによってクロとされてしまう可能性を、この定義は有している。まさに「魔女裁判」。

もし、むやみにこの言葉を振り回し訴える被害者がいたら、全く自覚がなくシロを確信している訴えられた側もまた、最終手段として弱者になって応酬するしかないだろう。つまり「私はやってもいないハラスメントをやったと言って訴えられ精神的な苦痛を受けた。これは容認できない。逆にハラスメントとして私を訴えた人間から自分は精神的苦痛を受けたので、これをハラスメントとして訴える」と。しかし、これじゃあ、堂々巡りになってしまうだけだけど。

やはり、いちばんまずいのはこの定義の運用法だろう。だから「ただし、ハラスメントを受けたと訴える人間の主張が、正当性があるかどうかについては第三者的視点からの慎重な判断を必要とする」といった留保を付けなければならないのは当然のことだろう(こんなことあたりまえのことなんだが、しばしばあたりまえになっていない)。また、闇雲にメディアに公表するというのは、ようするに圧力(脅迫?)ともなりかねない(メディアが慎重ならよいのだが、残念ながらそうはなっていない。こういったネタは、すぐに飛びつく傾向もある)。だから、これも原則、なし、あるいは慎重に行うべきなのだ(「慎重」とは、そうやって報道した側がその報道について全ての責任を持つことを引き受けて事に及ぶこと。で、これをやると費用対効果が下がるので、得てしてメディアはやらない。つまり「いいっぱなし」で、都合が悪くなると逃げる)。

「相手から精神的苦痛を受けたらハラスメント」という定義を巡る現状での運用法の暴力性。これは、ようするに「思考停止」、養老孟司風に表現すれば「バカの壁」にぶつかっている状態なのだ。

やたらと注目される小保方氏

小保方晴子という存在はメディアにとってはきわめて関心の高い存在らしい。そしてBLOGOS上でも多くのブロガーが今回の論文問題について、というか小保方氏にまつわる出来事について記事を載せている。で、面白いのは、小保方氏がメディア上に実際に登場したのはトータルで三時間程度しかないということだ。つまりSTAP細胞についての記者会見+謝罪記者会見(しかも、そのほとんどはこの一部しか見ていない。たとえば後者の場合、全部見るためにはニコ動をチェックしなければならなかったからだ)。にもかかわらず、とにかく延々と氏のことについて様々な話題が振りまかれる。

で、笹井氏の登場で、そろそろこの話も落ち着きを見せようとしている。そこで、今回は小保方氏のメディア性について、言い換えればメディアはどういった小保方像を描いたかについて、メディア論的に整理して考えてみたい。小保方氏を巡るメディア、そしてブログの議論は、基本的に本人が実際にどうであったかを横に置きつつ、ひたすらその思惑=メディア性で展開されている。どうも、彼女はそういった意味では人々のイマジネーションをかき立てる限りなく魅力的な存在らしい。

小保方氏のメディア的三分類

小保方氏はメディア的には三つの側面から語られる。わかりやすいように、それぞれネーミングを施してみよう。


1.小保方博士:STAP細胞を作成する方法を世界で初めて示した人物(研究者ベース)

2.小保方研究員:論文のたしなみのない不用意な研究員(研究者ベース)

3.オボちゃん:割烹着を着て研究するムーミン好きのリケジョ(人格ベース)


で、メディアでの扱われ方、そして記者会見での記者の質問はこの三つがゴッチャになっている。ちなみに、この中で現在、証拠的に見て明らかなのは2だ。本人も謝罪しているわけなので。1と3については状況証拠というか、はっきり言って憶測の域を出ていない。

もっぱらオボちゃんを語り続けた週刊誌とバラエティ

たとえば「文春」や「新潮」などの雑誌での扱いは3を重視、つまり「不思議ちゃん」「虚言癖」「乱倫な女」といったうわさを立ち位置に「だからのし上がることが出来た」的な文脈へ移行し、「だから2の手続きはイイカゲン」、「だから研究はウソ=1である」というふうに話は展開していく。つまり3→2→1といった流れ。ちなみにこれはバラエティでの西川史子やテリー伊藤の論調も同じだ。ちなみに論文不正問題が出てくる前は、3での基本的なイメージはポジティブに「リケジョ」「庶民は」だった(この時は1から2を飛ばして3へという展開だった。ちなみにこれも研究からすればどうでもいいことなのだけれど)

報道は2=小保方研究員は×、ゆえに1=スタッフ細胞の作成はウソという展開

さすがにこういった「カストリ雑誌」(古い!)「芸能誌」「東スポ」的な扱いは報道番組であまり話されていなかったが、小保方氏に対し批判的なコメンテーターの論調も結局は同じ流れだった。異なっているのは3がなく2→1という展開。つまり「手続きが雑と言うことは、研究はウソ」という論調で、その状況証拠として研究ノートが二冊であるとか、200回以上成功しているなんてのはあり得ないといった項目が挙げられていた。ちなみに、こういう指摘をすべくコメントさせられていた科学者のみなさんが、きわめて非科学的に2→1図式で話をしていたのが、あるいはそういう風にメディア的に演出されてしまっていたのは、科学者としては自己矛盾していて「なんだかなぁ~」ではあった。

三つの小保方がゴチャゴチャに展開された記者会見

そして、この文脈が混在して行われていたのが謝罪会見だった。この記者会見の小保方氏側の目的は謝罪会見だから2に対するものであるはずなのだが、ここではその多くが3を前提としつつ3および2についての質問が展開されたのだ(その最たるものは「笹井氏との愛人関係にあった」的な質問だった)。ちなみに1についての質問は、まあ場違いと言うこともあるし、記者の側に知識や技術がないということもあってほとんどなかった。

で、オーディエンスとしては実は、下世話な話である3にいちばん関心がある。そこをハッキリさせたいといった野次馬的な感覚に基づき、2を利用しつつ3をこじ開けようといった展開になった。これが記者会見の本当のところではなかったのか?ただし小保方氏自身はこれをうまくすり抜けた。

メディアイベントによって、次第に大衆は記者会見に納得がいかない状況に

だが、その結果、メディアは「記者会見には納得がいかない」というイメージを一般に伝達していったのだ。そして、その「納得がいかない」は3についてなのだが「2と1」をハッキリさせないというツッコミへと転じていった。つまり「議論のすり替え」。ちなみに、記者会見で2は謝罪しているんだからハッキリしているし、1についてはこの記者会見で明らかにする予定はないのでハッキリするさせる必要もない。だが、こういった文脈ゆえ「謝罪していないで、パフォーマンスをしているだけ」「STAP細胞についての本当のところを一切言わなかった」というバッシングに転じたのである。

この時、興味深かったのがYahoo!が実施していたアンケートによる意識調査の結果で「会見に納得したか?」という質問項目について、当初、納得したと納得しないが35対45程度だったのが、メディアの報道が繰り返される中で「納得した」が減少し、「納得しない」が上昇していくという現象が発生したのだ。おそらく、これはメディアイベント的にマスメディアがこの会見を報道したために、こうなっていったのではないか?と僕は読んでいる。つまり「納得できない」と報道したから一般人は、だんだん納得できなくなっていった。でも、よくよく考えてみれば、この「納得がいかない」というイメージはメディアがマッチポンプ的に作り上げたものといえないだろうか。記者会見の中で質問項目を絞り明確な回答を得るといった技量を、質問する記者側が持ちあわせていなかったのだから。

われわれが建設的に追求べきなのは1と2、つまりSTAP細胞の存在と、科学倫理

この問題の本質は1と2の二つに集約されるだろう。最も重要なのが1=STAP細胞の存在で、次に2=科学者としての倫理・ルールにまつわる問題だ。で、1についてはまだ決着が付いていない。2については小保方氏自身は謝罪している。だから、本来なら今後メディアが議論すべきなのは1についてということになるのだ(これに2における不正を見抜けなかった、さらにはそれを許容したり荷担したりしていた理研の体質についての議論が加わる)。

そして、間違えていけないのは、やはりこの二つの混同だ。すなわち2が明らかに×であったとしても、それは必ずしも1も×と言うことにはならないのだ。1949年、考古学者・相沢忠洋は群馬県岩宿で槍先形石器を発見し、それまで否定されていた旧石器時代が日本にあったことを証明したのだけれど、発見時、相沢は学者ではなく、独学で考古学を学ぶ行商だったのだ。つまりアカデミズムのきちんとした手続きを得ていたかどうかはあやしかったのだ。しかし大発見をした。ということは小保方氏の場合も、科学的手続きがあやしかったしても、STAP細胞の作成には成功していたかもしれない。もちろん、していないかもしれないが、二つ(1と2)を直結するのは、実に「非科学的な手続き」。これはあくまで「科学的手続き」によって証明されるべき事柄だ。

しかし、ここに小保方氏の3、つまりオボちゃんとしてのメディア性が加わった瞬間、状況は一変してくる。小保方氏が「フツーの男性の科学者」であったらということをイメージしてみて欲しい。この場合、記者会見ではやはり2に(そして最終的には1に)問題の焦点がいくはずだ。ところがオボちゃん、けっこう「可愛かった」。しかも若いし、対応が科学者らしくない。で、メディアはタレント的な魅力をそこに見てしまった。だから割烹着やムーミンをことさらに取り上げたのだ(こんなことを書くと「あの人間のどこが可愛いの?」とツッコミを入れたくなる御仁もおられるかも知れないが、ここで「可愛い」と指摘するのは、僕の個人的好みに基づくのではなく、あの取り上げられ方がどうみても「可愛い」という前提に基づくものによるという判断に従ってそう表現している。これはスポーツ選手が美人だったり可愛かったりしたら実力以上に取り上げられるのと同じ。モーグルで里谷多英より上村愛子が、女子体操で鶴見虹子より田中理恵がもっぱら取り上げられたことを思い出して欲しい。マスメディアってのは、結構差別的で残酷なのだ)。

スキャンダルとして楽しむのは勝手だが、個人的には1や2の方に関心がある。だから、1と2の部分の問題の明白化が3によってかき消されてしまうのは、ちょっとねえ?という感じでもある。ジャーナリズムが今回の騒動の明確性を求めるのなら、これらをゴッチャにしないで別々に切り分けてさらに切り込んでいかない限りダメだろう。強いて言えば、重ね合わせるのはその後だ。ただし、やっぱり大衆的関心は、結局、この三つをゴッチャにしつつ「他人事」「ネタ」として楽しんでしまうところにあるんだろうけれど。

小保方さん、タレント性十分ですけど、いちおう科学者ですから、まずはそっちで扱ってもらいたい。はっきり言ってオボちゃんなんか、どーでもいいでしょ?……まあ、ダメかな?

ご存知のように一昨日(4月10日)、論文のねつ造を巡ってSTAP細胞を発見したと主張する小保方晴子氏の記者会見が開かれた。時間は二時間半にも及ぶ長尺なもので、その間、小保方氏はほぼ1人で、全ての質問に答えた。様子は一部テレビでも番組を変更して放送され、ネットではその全てが生中継されていた。小保方氏がまさに今年上半期、最も注目される人物となった瞬間だった。

内容はご存知のように「改ざん」「ねつ造」に対する釈明だったが、これらが自らが無知・未熟であったためにやってしまった悪意のないものであること、そして、これらの改ざんがあったとしてもSTAP細胞の存在は間違いのないことを主張するものだった。

さて、僕は化学系のプロパーでないので実験の真実性については詳しいことはわからない。つまり、本当のところはどうなのかについての判断能力を持ちあわせてはいない。ただし、メディア論的観点から今回の記者会見がどのようなインパクトを一般に与えたかについては多少なりとも分析が可能だ。ということで、今回はSTAP細胞を巡る議論の中身=これがあったかないか?はさておき、この記者会見のメディア性について考えてみようと思う。つまり小保方氏、はたして記者会見で反撃に成功したんだろうか?

人物にまつわる記者会見はイメージを伝える場所

記者会見について、われわれは二つの観点から関心を持つ。一つは、あたりまえだが記者会見が伝える事実=内容だ。たとえば、殺人事件が起きた際、警察が発表する記者会見では、当然、われわれはその事実関係に関心を抱く。その際、発表者それ自体には関心を抱くことは、先ずない。ところが、この会見が釈明記者会見のような、記者会見を行う当人にまつわるものであった場合は、もう一つの関心を抱くようになる。「事実の伝え方」、つまりパフォーマンス、いいかえれば記者会見を開く当人のメディア性だ。

このとき、記者会見を見ている側はライブ・パフォーマンスでのオーディエンスがミュージシャンに抱く心性とほぼ同じになる。ライブに出かけることの楽しみは、音楽=内容のように一見思える。ところが、よくよく考えてみれば音楽をちゃんと聴こうと思うならCDの方がはるかに音がよいし、出来もいいはずだ。それでもライブに嬉々として出かけるのは、ミュージシャンと空間を共有したい、ミュージシャンがどういうパフォーマンスを見せるのかといったメディア性に関心を抱くからだ。実際のところ演奏それ自体=内容は、一般的には二の次になる。

個人=当人にまつわる記者会見もまさにこれが該当する。当人を巡る事実を巡って、その当人がどのように話すのかに関心が集中する。英語で表現すればWhatではなくHowに専ら関心が向かうのだ。

だから、パフォーマンス次第で記者会見のイメージはガラッと変わってしまうし、場合によっては事実=内容をパフォーマンス=メディア性が凌駕してしまうこともしばしば発生する。いいかえれば、うまくパフォーマンスすればオーディエンス、そしてマスコミを思うがままにコントロール可能になるし、その反対にもなる。

草彅剛の見事な記者会見コントロール

記者会見を行った側がイメージをコントロールした例をあげてみよう。その典型は2009年、逮捕されたSMAPの草彅剛が行った記者会見だ。草彅は泥酔した挙げ句、港区の東京ミッドタウン前の檜町公園で全裸になってしまい(その場所を自宅の部屋と間違えたのではないかと言われている)、その場を取り押さえられた。罪状は”公然わいせつ罪”、アイドルが科せられる罪のカテゴリーとしてはイメージ的に最も悪い、いわば「命取り」に近いものだ。

ところが、記者会見の中で草彅は見事なパフォーマンスを見せる。遠い目をしつつも、その目は求心的に自らに向かい、自らにその愚行を諭すように訥々と語る姿勢がオーディエンスから絶対的な評価を獲得するに至るのだ。草彅はSMAPの中でもその演技力(小津安二郎の作品に出てきそうな)で知られているが、役どころの多くが、おとなしい内省的な性格で、これが記者会見と完全にかぶった。つまり、草彅は自らが演技する、またバラエティで振る舞う振る舞い方どおりに記者会見に臨み、オーディエンスを納得させてしまったのだ。

人物にまつわる記者会見時、イメージ作りに重要役割を果たすのが質問する記者の態度=対応だ。草彅は記者のツッコミにゆっくりと、そして言い訳することもなく、申し訳ないという姿勢、いわば全面降伏的な態度で対応した。すると、記者の方はこれにほだされ、さして強いツッコミをしなくなってしまったのだ。つまり、これは全面降伏による全面勝利に他ならなかった。その結果、草彅の不祥事はこの記者会見で一気に禊ぎが払われてしまったのだ。

記者会見に飲み込まれた佐村河内守氏

一方、コントロールに失敗し、メディアによって逆にネガティブイメージが付加されてしまったものをあげてみよう。

その最たる記者会見は佐村河内守氏の釈明記者会見だ。髪の毛ぼさぼさ、髭ぼうぼうの麻原彰光ばりの風貌からガラッとイメチェン。髪は七三に揃えるわ、髭はサッパリそり落とすわで、すっかり反省したかのような態度で始まった記者会見だったが、途中からその本性を発揮したというか、記者の執拗なツッコミに高飛車な態度になり(とりわけ手話が終わる前に質問に答え始めたことに対する記者のツッコミへの逆ギレなどはその最たるものといえる)、挙げ句の果てには新垣隆氏を訴えるとまで言い出す始末。こんな感じだから、髪切って髭剃ってきたことが、単なる「ごまかし」「あざといパフォーマンス」にしか見えなくなってしまった。つまり、佐村河内氏は記者と悪い意味でつるむことによって「真性ペテン師」のレッテルを貼られてしまったのだ。

で、おもしろいのは、草彅であれ佐村河内であれ、記者会見における世間の判断は結局のところ事実=内容に基づかないという点だ。逆に言えば草彅剛のように、記者をうまく丸め込んで(もちろん、草彅が意図的にそうしたとは全く考えられないけれど、結果としてそうなった)イメージをうまく作り上げてしまえば、それでオッケーなのである。これこそ、まさに個人にまつわる記者会見におけるメディア性の力に他ならない。

小保方会見の評価は?

さて、小保方晴子氏である。そのイメージはどうなったか。例えば日刊スポーツは一面で「小保方氏反論失敗」と大々的に見出しを載っけていたが……ちょっとこれは言いすぎだろう?。ただし、少なくとも草彅の時のように成功したとはとても言えないだろう。謝罪は実に丁寧なものだったし、「STAP細胞はあります」と高々と宣言はしたが、その後の説明が中途半端。「実験は200回成功した」「第三者の実験成功例がある」とも語ったが、その具体的な展開がないため(ご存知のように、果たして短期間で200回も出来るのか、誰が実験に成功したのかといった疑問が当然出てくる)、結果として説得力に欠けたことも事実。やはり、この時問題となるのは会場の記者の対応だ。あきらかに消化不良という感じで、見ている側にもそのフラストレーションが感じられた。

こうなると流した涙は嘘泣きで、STAP細胞の存在も信憑性に乏しいと思わざるを得ない。今回痩せたと言われているけどあれは「痩せメイク」、また涙を流しやすいようにマスカラを付けないといった「イメージ戦略」もドリームチームの弁護士とともに徹底的に組まれていた、などなど、いろいろ憶測が飛ぶ。なので、やはり佐村河内氏と同じようなダーティなイメージになったのではないか?

いや、そうでもない。そのパフォーマンスにおいては説得力があったのだ。たとえば涙を流したとしても、それは相手に訴えると言うより、こらえきれずという印象の方が強く与えることが出来ていたのではないだろうか?また、質疑応答については 前述したように内容こそ明確ではないものの、真摯に答えようとする姿勢が結構説得力を持ったのではないか。このように判断する理由は二つある。一つは実際Yahoo!Japanの意識調査でも「納得できない」が46.2%、「納得できた」が34.4%で、前者の方が多いものの「納得した」人間もかなりいるたこと(僕のところの学生170名に同じ質問をしたのだが、ほぼ同じ割合だった)。もうひとつは、明らかに消化不良であった記者たちも、そのツッコミが佐村河内氏の時のような鋭さに欠けていたこと(ちなみに、誤解を避けるために、ここでは「本当の涙」「嘘泣き」、「真摯な姿勢というパフォーマンス」「真摯な姿勢」どちらなのかという価値判断を僕個人は一切行ってはいないことをお断りしておく。というのも、それは判断不能だからだ。記者会見の数値がばらけたことと、記者のツッコミが弱かったことから上記の内容を推測している。つまり「まあ、そこそこ効いたのかな?」といった判断)。

事実関係について断言するも、その具体例が示されないのでマイナス、ただし真摯な姿勢というパフォーマンス(作戦なのか素なのかは別として)がある程度のオーディエンスからの支持を取り付けた。そして記者のツッコミを鈍くさせた。だからイメージ作りとしては日刊スポーツの言うような「反論失敗」と言うよりは「中途半端で曖昧なまま」というところではないだろうか。つまり、今回の記者会見において小保方氏の反撃は成功していない、しかし失敗していない。そして、さらに話題を振りまいたと僕は考える。

結局、真実は一つなのだが……

ただし、一つだけ草彅や佐村河内氏の例とは違った点がある。それは、今回の場合、小保方氏の最終的な評価がイメージによってではなく、いずれ内容=事実によって決定されることだ。つまりSTAP細胞の存在の有無。これがなければ小保方氏は単なるペテン師、目立ちたがり屋、あるいは世間知らずの若手科学者。あればノーベル賞、ニッポンの至宝というイメージを最終的に付与されるという、ものすごい落差になる。それは、ようするにこれが「社会」科学ではなく「自然」科学に類する事柄であるからだ。つまり最終的にイメージに左右されることがない。

事実認識と人物評価が混在し、混乱した小保方記者会見の方向性

僕が今回のSTAP細胞と小保方氏の問題についてマスコミに求めるのは、まず小保方氏をスキャンダラスな存在にして弄ぶ、いわゆる「マスゴミ」的な展開ではなく、STAP細胞の有無についての言及だ。次に、小保方氏に対しては科学者としての倫理を問うことだ。ところが今回の記者会見(そして騒動全体)では科学的発見の有無と科学者倫理がごちゃ混ぜになっている。この二つを巡って、結局記者会見は迷走したのだ(で、どっちも判明しない)。だから結局、消化不良で何が何だかよくわからない。こうなったのは科学的知識と倫理それぞれに関するプロパーの記者が存在しなかったからだろう(おそらく、これもツッコミ不足の原因だろう)。

とりあえず、今回の場合、本当に必要なのは前者の「STAP細胞の存在」のはず。個人的には、小保方さん?どうでもいいんじゃない?彼女がどんな人間であろうと、と思っている(ヒマつぶしとしては面白いであろうことを除いてだが)。

交響曲「HIROSHIMA」等の作曲が全くの偽装であったことが日本クラッシック界の一大スキャンダルとなっている佐村河内守氏。耳が聞こえない、被爆二世など数々の艱難辛苦を乗り越えて、ベートーベンばりの「大曲」を作り上げたという美談がとんだデッチ上げだったことは、もはやご存知だろう。このペテン師は、まさに絵に描いたようなペテン師で、バッシングされる他はないのだけれど、メディア論的には、今回の佐村河内氏について、ちょっとひねくれた場所から分析を施してみるとオモシロイと考えた。

それは、

「佐村河内氏、残念。もう少しで天才だったのに」

という前提で議論を展開してみること。しかも、これを21世紀の天才、S.ジョブズとの比較で考えてみたいと思う。つまり、

「佐村河内氏は、もう少しでジョブズになれた。ただし、なれなかった。じゃあ、その根本的な違いはどこにあるのか」

ちなみにジョブズ信者のみなさんには逆鱗に触れそうな論述になるかも知れない。つまり「ジョブズ様と佐村河内なんてインチキ野郎を比較するとは何事か!」。実は、僕もジョブズファンの一人。そうはいっても、冷静に見ると、2人はある部分でやっぱり実によく似ていると思っている。ジョブズも、やはりインチキっぽいところが多々あるのでけれど、それがとてつもなく魅力でもあるのだ。でも、完全に違うところがある。ならばアナロジー的な考察を施せば、佐村河内氏のペテン師度合いがわかりやすいと考えたので、ご容赦願いたい。そして、これは「天才」がどういう存在なのかを、ある側面では相対化する議論でもある。

佐村河内氏とジョブズ、その類似点

2人の類似点はどこか?先ず共通するのは、自分が関与した領域での専門技術を持ちあわせていない点だ。佐村河内氏は楽譜が書けない。一方、ジョブズはプログラムが書けない。前者は新垣隆という人物に曲を書かせ、後者はS.ウォズニアック(そしてAppleのエンジニア)にプログラムを書かせた。しかし、とりあえず二人とも自らが関与した領域で成功した。

ということは、こういった技術を埋め合わせる別の才能を備えていたということになる。その才能とは「大ホラ吹き」「デマゴーク」であるという点だ。佐村河内氏は前述したように、とにかく様々な嘘を並べ立て、自らをベートーベンもどきに仕立てた。ジョブズもあり得もしない夢想をさも当然のことのように語り続けた。ジョブズの語りは「現実歪曲フィールド」を形成すると言われた。この夢想が、ジョブズの語りの中で展開されると「現実」に見えてしまうような、あやしげな説得力を放ったのだ(これは新商品発表のプレゼンを見るとよくわかる。メディア的に「これでもか」というくらい様々なギミック、レトリックが施されている)。つまり、2人ともウソ(事実もあるが)をつなぎ合わせ、それを現実に見せてしまう「錬金術」を持ちあわせていたのだ。

また、自分を大物に見せることについても同じだ。佐村河内氏はクラッシック界に入る前はロック界で名を馳せようとしていた。強引な売り込みの結果、メディアでは「第2の矢沢永吉」と喧伝されたらしい。ジョブズは13歳の時、周波数のカウンターが欲しくて一人の男に電話をかける。その男とはなんと大会社HP(ヒューレットパッカート)のCEO、ビル・ヒューレット。そして、お目当てのものを手に入れたどころか、ヒューレットからバイトまでオファーされてしまった。そう、この二人、何の担保もないにもかかわらず、ひたすらゴリ押しとハッタリで周囲の人間をその気にさせる才能を持っていたのだ。そして二人は、矢沢永吉的に言えば「ビッグになる」ことも志向していた。

こうやって考えてみるとペテン師=佐村河内氏も天才=ジョブズも同じに見えてくる。じゃあ、どこが違うのか。

欲望の先にあるものは「自分」か「未来」か

二人の根本的な違いは、自らがビッグになるという欲望が、最終的にどこにたどり着くかにある。佐村河内氏は結局のところ、欲望のたどり着く場所が自分へと回帰している。つまり「有名になりたい」という俗物的な欲望でことは終始するのだ。いいかえれば「ビッグになること」が最終到達点。

ところがジョブズは違う。自分が「ビッグになること」は到達点=目標ではなく、あくまで手段に過ぎない。だからビッグになったあとも手綱を緩めることなく、ひたすらその次=Nextを志向し続けた。そして最終的に志向したのは「宇宙に衝撃を与える」といった究極の大ホラだった。そして、それが死ぬまで続いたのだ。

この志向性の違いは、二人がアウトプットを提示するときのやり方に象徴的にあらわれる。佐村河内氏は最終的に全てのアウトプットを自分が総取りした。つまり「佐村河内氏の○○」と言うかたちで、自分が関与したものの業績を自分一人の取り分とした。一方、ジョブズもあたかも全て自分がアウトプットを生み出したかのように振る舞ったが、決して「オレがやった」とは言わなかった。代わりに、自らの分身である「Apple」の所産であるとしたのだ。こういった志向性だから、96年に復帰してからの年報は1ドルだったし、生活する邸宅もビリオネアとしては質素すぎるほど小さな家だった(宿敵のビル・ゲイツが巨大な邸宅に住んでいることを考えるとオモシロイ)。その格好も90年代アップルに復帰してからはほとんど同じ(三宅一生のトレーナー、リーバイスのジーンズ501)で、自らを「Appleのキャラクター」として売り込んだ。宇宙に衝撃を与えるためなら、そんなことはどうでもよかったのである。

またジョブズの場合には方向性がミニマリズムで一貫していた。だから、佐村河内氏のロッカーになったりクラッシックの作曲家になったりといったような宗旨替えは全くない。そしてMacintoshからiMac、iPod、iPhone、iPadにいたるまでこのイデオロギーは一度たりともブレることはなかったのだ(ちなみにiPod以降のデザインのベースにあるのはいずれもS.キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』にモチーフがあるというのもオモシロイ。iPodは船外宇宙操作船Pod、iPhone、iPadはともに映画のキーとなる黒石板のティコモノリスだ。ピクサーの映画『WALL-E』では『2001年』の徹底したオマージュもやらせている)。またユーザーインターフェイスもこのミニマリズムで徹底し、しかもそのやり方全てを統一させてしまった(MacユーザーがiPhoneやiPadをほとんど何も考えずにすぐ使うことが出来るのは、MacOSとiOSがほとんど同じインターフェイスだからだ)。一方、佐村河内氏の場合は自分が有名になりたいだけだから、前述したようにこの辺の統一感はぜんぜんない。矢沢ばりのスーパースターメイクもするし、麻原彰光ばりのカリスマ風の風体にもなる(メタ的に表現すれば「ビッグになりたい」という点でブレがないだけということにはなるけれど)。そして、詰めも甘い(だから、バレた)。

ペテン師も徹底すれば天才だ

こんなかたちのゴリ押しとハッタリだから、ジョブズの場合には、そのゴリ押し、ハッタリ、また他人のアイデア泥棒(しょっちゅうやっていた)がそれに見えず、一つの美意識、そして強烈なイデオロギーとなり、ユーザーを引きつけた。言い換えれば、アップル製品のユーザーはジョブズのペテンに諸手を挙げてダマされ続けたのだ(僕者その一人だけど)。つまり信者を形成し、なおかつスタッフまでもこのイデオロギーで染め上げ、ジョブズ亡き後もそれはアップル内に浸透し続けた。そして現在でもAppleユーザーはアップルの製品ではなく、このイデオロギーを購入することに魅力を感じている。

一方、佐村河内氏である。前述したように「ビッグになる」という「何でも独り占め」の発想だから、後継者や信者を生み出すどころか、取り巻きにはひたすら不快な思いをさせることしかできなかった。そう、やっぱり彼が見ていたのは未来ではなく、自分自身だった。つまり、タダのナルシストに過ぎなかったのだ。

もちろんジョブズもまた徹底したナルシストだ。ただし、そのナルシシズムが、結果として、われわれのメディアライフを変えてしまうだけの威力と持続力を持った。ナルシシズム、ペテン師も徹底すれば、それは昇華されてしまうわけだ。そこまでのパワーを持つと、これは天才ということになるし、そうでなければペテン師ということになる。言い換えれば佐村河内氏は、ペテン師としてはそれを突き通すことが出来なかった二流、だから、その名の通りペテン師。ジョブズは自分も周囲も全部だまし、世界をひっくり返してしまった、そしていまだに世界を騙し続けている一流のペテン師、だから天才といえるわけだ。

二人の違いは「情報編集能力」

そして、このペテン師能力、つまり「大ホラ吹き」「デマゴーク」という才能、実は「情報編集能力」と置き換えられるのではなかろうか。ジョブズには自分の欲望、ユーザーのニーズ、商品に対する目利きの視点を編み込み、これを未来に向けた一直線の物語に流し込むことで、壮大な世界観、宇宙観、今回の表現を用いれば究極のペテン師能力を発揮した(だから「宇宙に衝撃を与える」というわけだ)。ところが佐村河内氏は身の回りだけの情報編集能力しか持ちあわせていなかった。

つまりジョブズは「ビッグ」で、佐村河内氏は「スモール」だったのだ。ここに天才とペテン師の違いがある。

※ちなみに、お断りしておくが「天才」の定義については、もちろん、今回やったような「ペテン誌的才能」以外の別の視点からの物差以外にも、いくつもあることをお断りしておく。今回、天才ということばで二人を比較したかったのは「錬金術師の才能」というレベルで、この腑分けをしようと考えたからだ。


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