勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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異論を唱えられ始めたピエール瀧報道

ピエール瀧のコカイン使用による逮捕については、その報道のあり方に異論を唱えるという、ちょっと変わった状況が生まれている。これは好ましい事態,だ。

瀧が逮捕されたとしても、瀧が出演していた過去の番組の放送中止や瀧が所属する電気グルーヴCDの出荷や音楽配信の停止はやり過ぎではないのか?薬物は病気なのであって、これは罰するというより治療という文脈で捉えるのが妥当であり、犯罪者としてつるし上げにするのはいかがなものか?有名人の薬物に関する報道は、むしろこうした薬物に苦しんでいる人々を奈落の底に突き落とす行為ではないのか?(「薬物報道」は、麻薬に冒された人間がさらに手を染める引き金になるという)。視聴率稼ぎのためにパパラッチもどきの報道を行っているメディアは、いわゆるイジメの構造と同じではないのか?などなど。

こうした指摘は、ある意味的を射ているといえるだろう。とりわけ違法薬物使用者に対するメディアの対応には酷いものがあると言わざるを得ない。だが、今回の問題、実はもっと根が深い構造的な問題ではないか。つまり、これは「ネット依存症によるメディアの堕落」なのだ。

メディアによるネット依存の構造

近年、メディアが報道する「お手軽な手口」はだいたいこんな感じになる。
インターネット上で何か話題が起きている。とりわけ有名人が炎上する。しかしインターネット上で炎上が起きているうちはまだいい。「炎上」だから、いずれ炎は燃え尽きる。いわば「家が一軒燃える程度」で。ところが、これをメディアが視聴率、購買率稼ぎのために取り上げた瞬間、「一軒家程度の火事」は「大火事」へと転じてしまう。一般に言われるメディアは、正しくはマスメディア。マス=巨大なオーディエンスを相手にしているので、結果としてはネット上のバイラルどころの話ではないくらい全国規模で拡散してしまうのだ。

ところが、こうした大炎上は必ずしも民意を反映したものではない。慶応大学の教員である田中辰雄と山口真一は『ネット炎上の研究』(勁草書房)の中で、攻撃的な書き込みをする炎上参加者はネットユーザー全体の0.5%に過ぎないことを統計的な視点から明らかにしている。だから鵜呑みにするのは厳禁なのだ。

ただし、こうした炎上ネタは興味本位、出歯亀的視点からは極めてキャッチーだ。つまりメディアとしては容易に数字を取ることが可能と考える。そこで、きちんと現状を精査することもなくこれらを取り上げ、それが結果として大炎上に繋がってしまうのだ。その際、よりキャッチーなネタが好まれるわけで、それは有名人のネタということになる(例えば、これを書いている僕が麻薬所持で逮捕されようが、メディアは見向きもしないか、せいぜいものすごい小さい記事で掲載する程度だろう)。

で、ピエール瀧は好感度も高く、今最も旬な芸能人。ところがコカインで逮捕。この落差は大きい、そしてキャッチーだ。当然、お手軽に数字を稼げる。となると麻薬に関するクリーシェ=常套パターンを引っ張り出して袋だたきにする。注射器、白い粉、街頭インタビューでの「信じられない」「がっかりしました」「裏切られた」的なコメント。こうやって一儲けのネタ出来上がりというわけだ。これは、いうまでもなくフェイクニュースの類いとなる。正確には事実を適当に組み合わせ、クリーシェに沿って内容を盛って大騒ぎにしてしまうという手順が「事実を事実でないものとしてでっち上げる」ことになるのだ。

マスメディアは信用を失い、飽きられはじめた

だが、今回、当のインターネット上から多数の異論が提出されるに至った。なんとピエール瀧に対する同情論とか、前述したような薬物中毒患者の扱いに関する報道のあり方への疑問、メディアに対する種々の批判等が投げかけられるようになったのだ。

これは、メディアがそろそろ、こうしたネット依存状況を真剣に捉えなければいけないことを突きつけられる時期がやってきたと理解してもよいのではないか。実際、メディアへの信頼はどんどん失われている。80年代、文系の大学生たちが憧れたのはメディアだった。しかし現在、メディアへの関心を強く持っている学生はかつてほど多くはない。こうしたパパラッチ的なやり方に、ちょっとウンザリしているみたいなのだ。強気を助け、弱気を挫く。都合の悪いものには直ぐに蓋をする(今回のピエール瀧の件はその典型。瀧の利益に関するものを全てカットしてしまうのは自己保身以外の何物でもないだろう)。そして、こうしたメディア嫌悪の認識、徐々に高まってきているように僕には思える。

メディア=マスメディアは、そろそろこうしたネット依存をやめるべきだろう。いや、ネット情報を取り上げること自体は問題ない。ただし、その際には厳密に裏を取るという作業をするべきだ。そして、自分たちにとって都合のよい情報だけでなく、都合の悪い情報も受け入れるだけの度量を備えるべきだ。いいかえれば、メディアはインターネット情報に対してナイーブすぎる。ネットへのメディアリテラシーをもっと高めなければならない。

だが、悲しいことに、こうした「メディア、酷いんじゃね?」的なネット上の議論をメディアは取り上げようとはしない。ピエール瀧がコカイン依存症であるように、メディアは「インターネット依存症」だからだ。だから、無意識のうちにこれら情報をスキップしてしまっている。「人を騙すには、先ず味方から」という諺があるが、現在のメディアは「人を騙すには、先ず自分から」という状態なのだ(おそらくこの文章もメディアは完全に無視するはずだ。可哀想な話だが)。つまり、完全に中毒=依存症。

メディアも依存症治療のための専門家が必要?

もし、メディアがこうした活動を続ければ、その信頼はますます失墜するだろう。だが依存症患者ゆえ、自らでは治療不可能。それゆえ失地回復、すなわち数字を稼ぐために、ますますパパラッチ的な報道に身を染めていくことになるのではないか。で、最後に待っているのは「死」だけだ。だから、早急な治療が必要だ。そんな時期に来ているのではないか?

その手段、ひょっとしたらSNSのようなメディアが持っているかもしれない。「毒をもって毒を制す」といった具合に。


ただの間違いなんじゃないの?

44日のこと。すでにメディアでよく知られている事件だが、京都府舞鶴市文化公園体育館で開催された大相撲の春巡業で、土俵で挨拶中の多々見良三市長がくも膜下出血で倒れ、女性医療関係者が土俵に上がり救命処置を施した際に、土俵上での女人禁制のしきたりに基づき「女性の方は土俵から降りてください」のアナウンスがなされたことが物議を醸している。さらに一部のメディアは騒ぎが一段落ついた時点で土俵に塩がまかれたことについても批判的な論調で報道をおこなった。加えて6日に開かれた宝塚市の大相撲地方巡業で中川京子宝塚市長が「土俵で挨拶したい」と希望したにもかかわらず相撲協会から断られたことについて「女性や知事の市長も増えている。女性の総理大臣が現れたとき、土俵に登ってはいけないのか」と意見したことが、さらに議論を賑わせている。

さて、これらの展開、僕にはどうも奇妙なものに思える。簡単に言えば、最近流行の「協会バッシング」の一環にしか思えないからだ。メディアの論調は極めて一方的であり、また論理を勝手にすりかえている。まあ、騒ぎが大きくなって視聴率が稼げればよいと言うことなのだろうか。いいかえれば「弱いものイジメ」にも見える。調子こいているようにしか思えない。

騒ぎの奇妙な点を時系列に沿って整理してみよう。先ず多々見市長が倒れて、その直後に女性があがったことが咎められた件。これは完全にアナウンスした方が誤っている。担当者=行事のアタマが固すぎたのだ。このことは類例に喩えれば簡単だ。たとえば女性が公衆トイレで同様に倒れ緊急の処置が必要になったとする。その際、近くに医療関係者の男性がいれば、当然、女性トイレに入るだろう。さらに救急救命士が男性の場合(現在、多くが男性)、躊躇亡く女性トイレに入る。そしてこれを咎める人間などいないだろう。いるとすればアタマの固いフェミニストくらい。つまり「男性禁制の場になぜ入ってくるのか」という主張になるのだが、そんなフェミニストがいるわけはないだろう。ところが、これを今回はアタマの固い協会の人間=行事が気が動転してやってしまった。先ずは人命が尊重されるのがあたりまえなのだから(もちろん、こういう動転する人間が存在することが日本相撲協会がさまざまな問題を引き起こす構造的問題点を象徴しているともいえるのだけれど)。

相撲協会も、これについては八角理事長名義で謝罪を行った。つまり、「行事が動転して呼びかけてしまいました。不適切な対応でした。深くお詫び申し上げます」さらに「とっさの応急処置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます」ともコメントしている。つまり、事件それ自体は「単なる間違い」。だったら、とりあえず、これでチャンチャンでよろしいのでは?

「女性差別問題」を利用する潜在的女性差別主義者?

ところが、ここから議論がすり替わる。先ず一部メディアが多々見市長を担ぎ出した後、土俵に塩をまいたことを指摘。これは、明らかに「女性は不浄な存在だから塩をまいたのだ」という女性差別認識に基づいた行動と判断しての報道だった。もちろん、これは間違い。何か事があったら土俵に塩をまくのはごく当たり前のことで、これは事件の後のお清めくらいの意味しかないだろう。ましてや女性が土俵に上がってきたことと接続するのはあまりに無理がある。というか、そういう判断を無意識に行い報道するメディアの方がはるかに女性差別主義者と言わざるを得ない。女性差別主義者はアンタだよ!

さらに宝塚中川市長のパフォーマンスも極めて政治的だ。彼女もまた行事が動転してポカをやったことをスルーし、議論の対象を相撲の土俵での女人禁制にすり替えている。この市長も、極めて嫌らしい存在に僕には思えた。中川市長の行動もメディア同様、浅はかでスタンドプレイ的なパフォーマンスとしか考えられない。現状では土俵に上がれないのは伝統上あたりまえ。ここでゴリ押しをしても無意味なことが解らないこの市長が僕には少々哀れに思えた。この議論は別の「土俵」でやるべきことなのだ。「相撲の伝統についての議論を戦わせる」という土俵で。

間違えないでもらいたい。ここまで僕は土俵上に女性があがることの是非を議論していない。もちろん、相撲という伝統と男女平等をどのように考えるべきかは当然議論すべき対象だ。個人的な見解を述べれば、いずれ女性が首相になった際に、幕内最高優勝の力士を表彰するのが女性であってもよいと思う。この議論はもっとやって然るべきだろう(今回の事件が、そのきっかけになるとすれば、それはそれでよいだろうが)。むしろ、ここで指摘したいのは、この「議論のすり替え」だ。このすり替えの背後に潜んでいるのはメディアと中川市長の利権獲得(視聴率、そして支持率アップ)という私的欲望に他ならない。しかも、このメカニズムが無意識に作動しているところが怖いのである。そして、こうした無意識の私的欲望の作動、実は女性を無意識に差別している人間たちのメカニズムと何ら変わるところがない(そういえば昨日(49日)、NHK7時のニュースで真っ先に大谷翔平の大リーグでの活躍が大相手機に報道され、同じ時間帯に発生した島根の震度5を超える地震の報道が後に持ってこられたことを友人がfacebook上で嘆いていた。友人が指摘しているのもこれもまったく同じメカニズムだろう。つまり、NHKも視聴率優先を無意識にやっている)。

だから、メディアのこうした怪しい報道や政治家のパフォーマンスは適当にスルーしたほうがいい。今回の事件。間違いと女性差別問題。先ずは切り離して考えないとアブナイ!

舛添要一都知事の政治資金不正運用疑惑とアイドル・富田真由さん襲撃事件。どちらも常軌を逸したと思える蛮行だ。一見するとこの二つ,違った種類の事件に思える。しかし、この事を起こしている二人の精神性,実は共通ではなかろうか。今回は、現在、巷で騒がれている二つの事件を共通項で括って考えてみたい。これはE.パリサーのフィルター・バブルという用語を用いて考えるとスッキリと理解できるのではないだろうか。

フィルター・バブルとインターネット社会

フィルター・バブルは情報化社会の中で個人が自らが構築した情報の殻=泡の中に閉じこもり、情報の取捨選択を自らの好みに応じたフィルターを通して外部から入手しようとするような傾向を指す。都合のよい情報だけを選択し,悪い方は無視したり拒絶したりする心性だ。

こうなってしまう典型的な例を挙げてみよう。2014ブラジル・ワールドカップの日本チームへの期待がそれだ。日本はグループCで対戦相手はコロンビア、コートジボワール、そしてギリシャだった。グループ内のランキング的は3位(最下位はギリシャ)。ということは予想されるのは3位。イギリスのブックメーカーのオッズもコロンビア=1.7、コートジボワール5.1、日本5.6、ギリシャ8.3と、やはり同じだった。ところがメディアはそのようには捉えていなかった。ヨーロッパで活躍する香川、岡崎、本田、長友、川島といった面々が揃っている。よって今回は最強とみなされ、ファンの多くは決勝トーナメントに楽々進めるものとタカを括っていた(本田のビッグマウスがこれに拍車を駆けた)。しかし、フタを開けてみれば一勝も出来ず,ギリシャの引き分けるのが精一杯。勝ち点はたったの1で、「見事な」リーグ最下位敗退だった。

日本人はなぜ日本チームが決勝トーナメントに進出できると思ってしまったのか?これはつまり、メディアが日本チームに都合のよい情報だけを集め、反面都合の悪いものは無視して、結果として「最強ジャパン」を作り上げてしまったからだ。イメージと現実が大きく乖離していたのだ。(ちなみに、これは2006年のジーコジャパンの時もまったく同じ認識だった)。

この例はあくまでも「メディア誘導型」のフィルター・バブルだが、こういった事実を都合のよいように歪曲して「自分だけの真実」を主としてネット情報を介してねつ造してしまうのがこの言葉の本来の運用法だ。かつて詳細な情報収集は一部の技術を備える一部の人間だけが可能だったが、現在はインターネットを通じて誰もが容易に情報を入手することができる。そこでわれわれは都合のよい情報だけを収集し,それ以外のものを排除してしまう。自らの形成したバブルの中の「現実」を否定する情報がバブルの中に入り込もうとする際には、それを防ごうと自らの現実を補強する情報を入手して、これをフィルターとし、都合の悪い情報の入手を遮断してしまう。(詳細をお知りなりたい方はTEDでのパリザーのプレゼンを参照のこと。https://www.youtube.com/watch?v=B8ofWFx525s)。また,現在では価値観が細分化されているため、これら価値観を真っ向から否定することが難しくなってもいる。もはや批判者が不在の状況が生まれつつあるのだ。こういった循環を続けていけば,現実とは関わりなく、自らの小宇宙を作り上げることができる。そして,こちらの方に絶対の価値観を置くようになれば当然ながら自閉的な世界が構築されてしまう。

地下アイドルに向けられたストーカーのフィルター・バブル

アイドル・富田真由さんを襲撃した岩崎友宏容疑者はこの典型だろう。岩崎容疑者はストーカーとしてどんどん富田さんと自分の関係を親密なものへと作り替えていった。この際、まずかったのが富田さんが、いわば「地下アイドル」的な存在だったことだ。そんなに知られていない、しかし富田さんはアイドル活動を行っている。こうなると,周りが彼女のことあまり知らない分、岩崎容疑者にとっては集めた情報を否定してくるような情報や他者がいなくなってしまう。好きなように彼女のイメージを構築可能なのだ。また、マイナーであることはアクセス可能性が高いということでもある。実際,岩崎容疑者は富田さんに腕時計をプレゼントしている。そして、このプレゼントに富田さんが反応せず、怒った岩崎容疑者が返却を要求し、これを富田さんが送り返している。しかし、これがまずかった。生身の富田さんの反応だからだ。彼はフィルター・バブルの中で形成したアイドルと交流可能になってしまった。こうなると、もはや富田さんと全く関係のないところで岩崎容疑者は富田さんをフィルター・バブル的に作り上げ、言うことをきかない生身の富田さん(この時点で富田さんはアイドルと言うよりも恋人くらいにまで格上げされていたはずだ)を不都合なものとして抹殺する必要が出てきてしまった。このへんは、まさに金閣寺を焼き払った林養賢やジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンと同じ精神構造だが、こうした思い込みをネット環境はフィルター・バブルによって容易に可能にする。

桝添氏に備わった「権力」という名のバブル

同様の精神構造が舛添都知事にも該当する。現在、彼が政治資金の私的流用について述べている弁解は一般には荒唐無稽という以外に表現のしようのないものだ。ただの公私混同なのだが、自らの行動をそのようには全くとらえず、説明が出来るものとし、さらに追及が行われると、今度は「厳しい第三者の目で調査」すると発言した。ちなみに、この「厳しい第三者」として選ばれたのが,自らが指名した弁護士。しかし、これもどうみてもおかしい。弁護士というのは,自らの弁護を依頼する専門家なので、舛添都知事に都合のよい情報がフィードバックされてくることは目に見えている。しかも,名前が明かされていないのも変。ところが,桝添氏は一点の曇りもなく、こう言ってはばからないのだ。

なぜか,彼もまた典型的なフィルター・バブルの世界に住まう人間だからだ。この言葉自体はインターネット時代の自閉症的な傾向を指している。だから,言葉のまっとうな使い方自体では舛添氏は該当しない。しかしながら、桝添氏はずっとフィルター・バブルの世界の中で暮らしてきた人間だ。東京大学で政治学を専攻し,その後パリやジュネーブなどで研究を行った後、東大教養部教員に就任。その後政治家としても活躍し、その能力を駆使して大きな権力を獲得してきた。いわば,かなりの状態で「やりたい放題」といった文脈での活動を当然のこととしてきたはずだ。しかも舛添氏にはネットがなくても詳細な情報を収集、駆使する力があった。こうなると権力というバブルに基づいたフィルタリングが行われるようになる。そして,権力を所有しているので,周辺がこれを咎めることが難しくなる。さらに膨大な情報に基づいて理論武装も行う。よって「自分は絶対に正しい」ことになる。

こうなれば、われわれ一般人が現実的感覚で桝添氏の政治資金不正運用疑惑を本人に指摘したところで,聞く耳など持たない。バブルの中では,自分のやっていることは一点の曇りもなく「絶対に正しい」からだ。だからこそ,舛添氏は,自分の行っていることが滅茶苦茶であったとしても,そのことを疑うことを全く知らないのだ。今回の弁護士に調査を依頼させるというのも,その手続きは全うだが、やり方が完全におかしいということに本人が気づいていない。どんなにツッコミをいれられても「なんで?」みたいな怪訝な顔をしてしまうのは,実はこういったフィルター・バブル的認識があるからではなかろうか。また、もし仮に、舛添氏が都知事を辞任するようなことがあったとすれば,その際の会見もおそらく,騒動自体には迷惑をかけたというだろうが、騒動の内容(つまり桝添氏がやったこと)に対しては,全くその非を認めないのではなかろうか。要するに、舛添氏は自分で自分を騙している。僕にはそんなふうにしか思えない。

こういったフィルター・バブルは一般人の認識にも広がりつつある。この二人がやっているフィルター・バブル的行為。ちょっと自分の胸に手を当てて考えてみても、よいかもしれない。

籾井会長の横暴

NHK籾井勝人会長の暴言が物議を醸している。特定秘密保護法、竹島・尖閣諸島問題、慰安婦問題などについて公人としての発言を求められる場で私的な立場からコメントし、あまりの傍若無人ぶりに記者がツッコミを入れても謝罪することもなく傲慢な態度をひたすらやり続ける。「なんでこんな人間がNHKの会長なんかやっているんだ?」といったイメージをお持ちの方も多いだろう。ちなみに同様に傍若無人ぶりを発揮する人間には鳩山由紀夫元総理や文人の曾野綾子がいる

今回は、籾井会長(あるいはそれに類する有名人)がなぜ暴言を吐くのか、その構造について考えてみたい。ただし、ここでは籾井氏個人の資質については言及しない。もちろん、籾井氏と同じような立場にある人間の多くは、こういった傍若無人ぶりを発揮するわけではないので、暴言が物議を醸すのは籾井氏の資質に寄るところが大きい。ただし、これは十分条件。必要条件がなければ、こういったキャラクターが表沙汰になることは先ずない(おそらく、籾井氏と同じような傍若無人ぶりを発揮していた人間は過去にも多く存在するだろう。だが必要条件が整っていなかったので認知されることはなかった)。言い換えれば、ここで考察したいのは籾井氏というエキセントリックな人間が物議ネタになる必要条件=インフラについてということになる。

病名診断的に籾井氏の暴言が出現する原因を述べれば、これは「合併症」だ。いや、合併症は病気が他の病気を併発するのでちょっと意味が違う。正確には「逆合併症」というのがふさわしい。つまり様々な病巣が合併して「暴言」という病気が発生するのだ。

病巣は三つある。

価値観がバラバラになると、他人の価値観は受け入れがたい奇異なものに見える

一つは、価値観の多様化に伴う認識の島宇宙化、フィルターバブル的心性の一般化だ。ちなみに、これは籾井氏というよりも現代人全般に共通する心性といった方が当を得ている。

情報の氾濫、情報アクセスの易化は翻って価値観の相対化といった事態をわれわれの認識方法に植え付けた。ある価値観を信じようにも、すぐさまそれを否定する価値観が生まれ、さらにそれを否定する価値観が生まれるといった具合に、ウロボロス的に価値観が否定され続ける。翻って、それは一般に共通して認識される価値観の希薄化をもたらし、その一方で個人があまたある価値観、情報の中から任意に選択した価値観にタコツボ的に頭を突っ込むという行動・認識パターンを生むことになった。つまり、みんなバラバラになったのだ。

これをわかりやすいエピソードで示してみよう。

ある日の首都圏の郊外での駅でのこと。一人の老人がプラットホームに向かおうと階段を上がっていた。高齢でなおかつ脚が悪いらしく、階段を上るのはなかなか容易ではないようだ。そこに髪の毛を金色に染め、あちこちにピアスをし、バッチリ顔を塗りたくったハイティーンの女子がやってきた。いかにもヤンキー風の女子。ところが、この老人に気がつき、見かねて老人のところへ近寄り、介助を申し出たのだ。容貌からは想像がつかない意外な行動に周囲はビックリ。ところがもっとビックリしたことがあった。言葉をかけられた瞬間、老人はブチ切れ、ヤンキー風の女子を怒鳴りつけたのだ。もちろん女子は唖然としてその場に立ちすくむしかなかった。
ここで興味深いのはヤンキー風=性格悪くて野蛮、老人=おとなしい、介助をありがたく受け入れるという図式、いいかえれば「世間」が完全に崩壊している点だ。なぜそうなったのか?老人であれ、ヤンキー風女子であれ、自ら任意の情報選択によって価値観を構築し、それに基づいて行動したからだ。

さて、かつての「世間」という言葉で表現されるような一元的な価値観を備えている人間がこの風景を見たらどう思うか?もちろん老人のその罵声は「暴言」ということになる。しかし、これは老人の価値観からしたら常識なのである。籾井氏の発言は、こういった価値観の相対化が作り上げる世界観の個別化の結果と考えられる。

セレブが辿る社会性の退行化

二つ目は、これは必ずしも現代に特有のものというわけではないが、組織の長となって全体の指揮を執り、その結果、周りが口を挟むことが躊躇されるような状況におかれた人間が、次第に自己中心的に振るまい、周囲の反応がわからなくなってしまう場合だ。いいかえればエラくなりすぎて空気を読む気が無意識のうちになくなってしまい、非常識な行動をとるようになるパターンである。NHK会長なら籾井氏の以前にも島ゲジと呼ばれた島桂次はきわめて横暴な行動をとっていたし、ナベツネと呼ばれる読売のドン・渡辺恒雄はいまだに傍若無人な振る舞いを繰り返している。

こういった「セレブの横暴」という病巣を籾井氏は抱えている。ちなみに、このパターン。最悪の場合は、何らかのかたちで失脚するという末路を迎える。かつて三越の社長・岡田茂やルーマニア政権で長きにわたって大統領を務めたチャウセスクなどはその典型で、前者は重役会議で突然更迭され、後者は逮捕されるいなや処刑された。ただし、たとえこういった横暴な独裁者であったとしても、その自己中によって周囲が恩恵を受けている場合には、この横暴は肯定的に迎え入れられる。W.ディズニーやS.ジョブズを思い浮かべればこれは簡単だ。

つまり、籾井氏本人の心性に宿ったのが、この二つ、症状はその逆合併症であると判断出来るのだ。

マスコミが籾井氏をタレント化する

ただし、逆合併症はもうひとつある。それは籾井氏を取り囲む必要条件、マス・メディアの不調というインフラだ。ご存知のようにテレビも新聞も雑誌も業績は慢性的に漸減傾向にある。そこで藁をもすがる思いで、受け手=消費者の関心を煽ろうとする。その際、都合のよいのがスキャンダリズムだ。スキャンダリズムの基本はセンセーショナルであること、そして一般人ではなくセレブ、あるいは権威的立場にある人間の不祥事への批判であることにある。これは、かつてのまっとうなジャーナリズムであれば、正義を正すみたいな感じの論調になるのだけれど、残念ながら現在はそうはなっていない。とにかく関心を惹起するならなんでもいいわけで、そうするとエキセントリックな行動をしてくれるセレブが大いにネタとしては助かるのだ。だから鳩山由紀夫は「宇宙人」として位置づけられ、その宇宙人ぶりを逐一報道することが商売の糧となる。そして、これに最も該当する人物の一人としてカウントされているのが籾井氏なのだ。なんといっても放送界のトップNHKの会長。しかも受信料を取っているゆえ、公的な機能を果たさなければならないとされる放送界の権威。それがあやしい発言をすれば、ネタとしてこれほどおいしいものはない。この瞬間、籾井氏は「暴言キャラクター」としてキャラ立ちしてしまうのだ。よくよく考えてみれば、かつてこういった立場におかれた人間は、たとえ暴言を吐いたとしても、それが世間一般に知れ渡ることはあまりなかった。事の本質からは完全に外れているし、またネタとして使うには、あまりにお下品だったからだ。

ところが現在では格好のネタである。ただし、ここで面白いのは籾井氏の発言について糾弾したり、徹底批判したりすることをメディアは必ずしもやっていないところだ。その理由は二つ。一つは、今やマスメディアは「強きを助け、弱気をくじく」タケちゃんマン(古い)状態だからだ。とにかく、一番重要なのは自らの側の利益。だったら、批判して糾弾して地位から引きずり下ろしてもあまりおいしくはない。それではその瞬間で、このネタが終わってしまう。そしてこの籾井というキャラクターも使い回しが出来なくなるからだ(ふなっしーみたいには使えない)。そんなもったいないことは出来ない。だから、ちょこっと批判したようなフリをするだけで、籾井氏の発言をずっと追い続ける。それが籾井氏を「暴言キャラ」として成立させ続けることになるのだ。

復習しよう。籾井氏が「暴言」を繰り返すという現象は1.価値観が多様化し世界観が個別化したので相互の価値観が了解不能になって、相手の発言が奇異に聞こえる、2.権力を獲得して批判がされにくくなった人間における社会性の退行現象、3.ジリ貧のマスメディアがスキャンダリズムのネタとして継続的に当該人物を利用したい、という三つの要因の逆合併症によって成立している。

籾井報道をみんなで無視しよう

こうやって考えてみると、要するに「籾井氏の暴言」はメディア的に構築されたもの、メディア論的な用語を用いて説明すれば「メディア・イベント」ということになる。つまり、事件があったからメディアが取り上げたのではなく、メディアが取り上げたから事件になった(で、よく考えてみれば事件ですらない)。

籾井氏自身、まあ迷惑な人、こんな上司やボスがいたらちょっとたまったもんじゃないと誰もが思うだろう。しかし前述したように、こんな輩は以前から存在していた。ところが、僕らが籾井氏に不快を感じるのは、ようするにメディアによって「不快な人物を不快に思わせる」といった作為が行われ、これに乗せられているからだなのだ。

で、僕はマス・メディアにちょっとツッコミを入れたい。あのね、ちょっとこれベタ過ぎませんか?古すぎませんか?もし、今どき、「歩道にバナナが落ちていて、歩いていた登場人物がこれに滑って転んだ」なんてアニメを作ったらどうなりますか?「そういうのは、もういいよ!五十年以上も前に作られたギャグなんだから」と飽きられるのがオチだ(ひょっとして、あまりにベタ過ぎるゆえに、逆にウケるかも知れないけれど(笑))。メディアが今、籾井氏にやっているのは、こういった何の想像力も無いようなアタマの悪いクリーシェ=図式の使い回しにしか僕には思えない。しかし、質の悪いことに、形式上は「権威に対抗している」といったジャーナリズムの体裁を採っている。だからひょっとしてマスメディアの当事者は、これが恥ずかしい、ダサいことだとは思っていないんじゃないんだろうか。

そんなことよりも、むしろ籾井氏のアホな発言などいちいち取り上げないで、むしろもっと構造的な側面、NHK、そして籾井氏が抱えている公人としての問題点をぐっさりとえぐり取るようなアプローチこそマスメディアはとるべきなのだ。とはいっても、これって「この人、暴言やってま~す」って報道より、はるかに頭と労力が必要なんだけど。

マーケティング・「iDC商法」のご提案

こちらはエー・アール・エー・アイ・エージェンシーです。この度、弊社は業績不振でお悩みのクライアントの企業の皆様に、これを一気に解決する画期的なマーケティング・プロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトのすばらしいところは、ほとんど費用をかけずに膨大な広告・宣伝を打つことが出来、それによって企業様の認知度向上とイメージ・アップを図り、業績を一気に上昇させることが可能な点でございます。元々、このアイデアはネット上で最近繰り広げられている「炎上商法」と、8年前に宮崎県で当時県知事であった東国原英夫氏が展開した「地鶏商法」がヒントになっています。ただし、それをさらに発展させたものでございます。ちなみに、本企画のキャッチ・コピーはスマイル・セラピー協会会長のマック赤坂氏の「ネガティブからポジティブへ」を少々アレンジし、「ネガティブを利用して究極のポジティブへ」とさせていただきました。

先ず本商法にはいくつかの条件がございます。

①御社の業績が近年かんばしくないこと。とりわけ、同業の新興ディスカウント商法に押されてジリ貧であること。

②御社の経営が一族経営で、お家騒動が勃発していること。

この二つでございますが、さしあたり②の方はそれが事実でなくても構いません。演出として展開できれば十分でございます。そして、本商法は「お「家」」=iの「ダメージ」=Dを「チャンス」=Cに変える商法ということで、ここでは「iDC商法」と命名いたしました。御社がこの二つに該当するとお考えの場合には、是非、ご検討をいただきたく存じます。


炎上商法と地鶏商法からのインスパイア

以下、その本商法について、ご説明申し上げます。

先ずアイデアの源となりました二つの事項について、関連でご説明させていただきます。

はじめに「炎上商法」(あるいは「炎上マーケティング」)について。
これは、最近かなりあちこちで騒がれているのでご存知の方も多いのではないかと思われますが、念のため、ご説明させていただきます。炎上商法は商品だけでなく売れなくなった芸能人などによく利用されております。一発逆転をねらい、スキャンダラス、あるいは物議的なコメントや写真をブログ等に掲載します。すると、これに反発を抱いたネットユーザーたちが、このサイトに誹謗中傷の嵐を巻き起こすわけです。そして、この「炎上状態」は事件、あるいはメディアの格好のネタになります。それによって、下火の芸能人は再び脚光を浴び、知名度が再認知されたところで、次の宣伝ネタを放り込み、見事、人気者に返り咲くという手法です。

これは、もちろん商品に転じても同様で、本手法をネットだけでなくメディア全体を利用して見事に戦略を成功させたのが二つ目の東国原英夫氏の「地鶏商法」でした。東国原氏は2007年、宮崎県知事に就任しますが、就任早々、鶏インフルエンザという事件に巻き込まれます。畜産県の宮崎では養鶏は一大産業。これに壊滅的なダメージが加えられたのです。ところが、東国原氏。ネガティブであっても宮崎では地鶏が大量生産されていることがメディア的に認知されたことを察すると、なんと、この「鶏インフルエンザ」を利用して地鶏の大キャンペーンを繰り広げました。「宮崎地鶏は安心、おいしい、しかもヘルシー」とみずからパクパクと食べ続けるトップセールスを繰り広げることで、宮崎地鶏の日本ナンバーワンのブランドにまで押し上げてしまったのです(みなさんも、あちこちにある「塚田農場」で宮崎鶏を召し上がっておられませんでしょうか?)。そう、つまり「ネガティブからポジティブ」ではなく「ネガティブこそポジティブに使えば大きな勝機が生まれる」ということですね。

そしてこの時、鶏インフルエンザを東国原氏がどう対応するかで一般報道、そしてワイドショーはこのネタに首っ引きになりました。野村総研の試算によれば鶏インフルエンザ事件の後の二週間での経済効果は160億円に登ったとか。これは、もし地鶏の宣伝のためにテレビ番組や新聞紙面を買い取ったらという試算なのですが、これが実質、というか完全にタダだったのです。メディアが勝手にやってくれたのですから。

ヒューマンドラマをトッピングすることでスペクタクルを生むiDC商法

そして、この二つのアイデアに基づきつつ、さらにこの商法を確実にする方法が、今回ご提案申し上げる「iDC商法」、つまり「お家(i)騒動のダメージ(D)こそ最大のチャンス(C)商法」に他なりません。これには上記二つの商法に「人間ドラマ」というテーマパーク的な演出が加えられることで、さらに高い効果を確実に期待することができます。

より詳細に立ち入りましょう。繰り返しになりますが、以下のようなシチュエーションがあれば、この戦略は一層効果的です。

先ず①最近、会社の業績が望ましくない。旧態依然とした商法がだんだん嫌われている。会員制を大幅にフィーチャーしたために、クローズドなイメージが広がって、なにをやっているのかわからない。その一方で同業種の企業がディスカウント商法とオープンな戦略でどんどんと業績を伸ばしている。つまり、企業としてジリ貧の状況である。

次に②お家騒動ですが、これは御社が一族経営で世襲になっており、現在、初代が会長に退き、変わってご子息が社長業を引き継いでいて、会長と社長の間で経営を巡って対立があり、それがお家騒動になっているという状況であればすばらしい。さらに加えれば、この時、会長(親)が父親で創業者、社長が娘でエリートで辣腕ということであれば理想的です。もし会長が父親で社長が息子であった場合、これはただの経営を巡っての争いというイメージでしかないので、普通のお家騒動とあまり代わるところはなく、あまりオモシロイ話ではありません(ジェンダー的に社長が息子の場合、「息子」よりも「社員」のイメージの方が強調されてしまいます。これはドラマ的にベタであまり関心を引きません)。また会長が母親で、対立する社長が息子と場合だと、これも日本におけるジェンダーバイアスの関係上、息子が「バカ息子」といったイメージが加わり、企業イメージがマイナスになります(かつて某老舗料亭で起きた偽装事件を巡っての記者会見は、その典型と申せましょう)。

ところが会長が父親で社長が娘でエリートとなると話は俄然色めいてまいります。息子ならば「飼い犬に手を噛まれた」という感じにはなりませんが、これが娘だとやはりジェンダーバイアスの関係上「噛まれた」感が強くなるのです(ジェンダー・バイアスはまことに恐ろしいものですが、利用しない手はございません)。つまり「こんなに可愛がってやったのに、裏切られた」という印象が強くなり、これはもうビジネス、さらにお家騒動と言うより、家族内での泥仕合、橋田壽賀子スペシャルみたいな展開となるわけです。それこそ、会長が社長の娘に向かって、記者会見で苦渋の表情で「悪い子どもを作った」なんて公開コメントをすれば、iDC商法は全てのお膳立てが整ったと言うことが出来ましょう。話はスペクタクルの様相を呈してきます。メディアの報道を通して視聴者、つまり消費者=顧客はワクワクしてしまうわけですね。

ちなみに、これは本当の話である必要はどこにもありません。演出でもまったく構わないのです。ポイントはビジネス上の問題と見せかけて、ドロドロ人間ドラマの方をむしろフィーチャーさせてしまうことにあります。こうすると、あまりアタマがよくなくて、ジリ貧で、視聴率や購買数を稼ぐためなら何でもやりかねないメディアが「飛んで火に入る夏の虫」のごとく、いとも容易に飛びつきます。もちろん飛びつくのはビジネス上の騒動ではなく、お家騒動、しかも家族愛とその葛藤を巡る「人間ドラマ」の方です。当然、ワイドショーはこぞって御社のこの騒動を取り上げるはずです。ただし、くどいようですが、もちろんこっちの「人間ドラマ」の方を専ら追いかける展開になるのですが。「それじゃあ、企業イメージが?」と懸念なされるかも知れません。しかし、ご心配なく。これこそがポイントなのです。

この後、今度は思ってもみないことが起こるのです。こちらからお願いしたこともないのに、メディアの側が会社の戦略とか、これからの御社のあり方とか、現在の商品展開とかをパネルや動画を利用して大々的に長時間にわたり説明してくれるのです。もうおわかりですね。これは県知事就任時に東国原氏が採用したのとまったく同じ商法になります。気がつけば、日本中が宮崎のことを知るようになったように、御社の仕組みについて熟知することになるのです。会長と社長が別のプランを提示しているとするならば、これを一般人はどちらが支持するのかなんてことまでメディアは必ずやアンケート調査などで調べてくれるはずです。つまり○通、△報堂、×急エージェンシーなんかに調査を依頼する必要すらないのです。なんて親切な人たちなんでしょう!

もし、本当に親子で抗争を繰り広げていたとしても、それは問題ではありません。会長が固持しようとする旧態依然とした体質に回帰しようと、社長の経営コンサルティングの手腕を十全に発揮したものを採用しようとも、あるいは折衷案であったとしても、それはあまりこの商法とは関係のないことですから。最終的に決着を何らかのかたちでつけていただきさえすればよいのです。こうすることで、ほとんど、というか完全に無料で御社の大々的なキャンペーンを繰り広げることが実質、可能になります。つまり、どの選択肢に落ち着いても、結局、成功は約束されているのです。とにかく大々的な宣伝が組まれたのですから、もう知名度的には何の問題もありません。そして消費者は名前の知れているものに飛びつくものです。

引き際とそのやり方をお間違いにならないように

コツは、ある程度このお家騒動を引き延ばし、御社の認知度を出来るだけ高めることです。ただし、あんまり引っ張りすぎても行けません。今度は飽きられてネガティブからポジティブどころか、ネガティブからネガティブになってしまいますから、適当なところでヤメましょう。また、これだけは守っていただきたいということが、一つだけあります。それは、この騒動が「演出」である場合には、これが演出であることが絶対バレないように箝口令を引いておくこと。また、あらかじめシナリオを考え、会長、社長、役員は役者としてその役柄を最後まで演じきることが至上命題となります。iDC商法最大のリスクは、この商法がバレた時で、その場合には消費者から一斉にそっぽを向かれ、倒産は必至となります。くれぐれも、この辺についてはお気を付けください。それゆえ演技の練習が必要経費ということになります。

そして、最後に必ずやっていただきたいことがあります。それは「手打ち」です。どちらが折れても構いませんが、「和解」というクライマックスが必要です。最後に「親子であること」を証明し、御社が一枚岩となって邁進するすばらしい企業であることを全国に知らしめるため、出来れば二人が抱き合い、手と手を握り会いながら万歳ポーズなどで決めていただきたいのです。こうやって人間ドラマは大団円を迎えるというわけです。メディアをチェックしている消費者は感動、メディアも一儲け、そして御社も失地回復ということで、全てが丸く収まるわけですね。

こうすれば御社の株価は否応なしに急上昇、連日ストップ高は間違いなしですし、日本中の誰もが御社のシステムを熟知するとともに、経営陣の顔が見えるようになる。また抗争に関わった家族は有名人になってしまいます。翻って、それは御社の強靭なブランディング力を構築することになります。粗利もハンパではなくなります。ディスカウント商法で「お値段相応」なものを売っている競合業種など、もはや敵ではありません。

今回のご提案、いかがでしょうか?ご用命はエー・アール・エー・アイ・エージェンシーまで。

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