勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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SNS利用はまだ初期段階。ゆえに混乱状態

スマホの一般化に伴ってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、次第にわれわれのコミュニケーション・メディアとして必須のものとなりつつある。

Facebook、Twitter、LINEの三大SNSのいずれか、あるいは全てを使いこなしているユーザーは相当な数に及ぶだろう(SNSというカテゴリーは多義なので、ここではメッセージをやりとりしたり、情報発信をしたり、グループでチャットをしたり、データを交換したりすることで人と人のつながりを促進する会員制サービスに限定する。それゆえ一般的にはメッセンジャーアプリに括られるLINEもSNSとして扱い、一方、ブログ、2ちゃんねる、ソーシャルゲーム的なものはこれから除外する)。

ただし、その利用のされ方はまだ初期の段階を脱していない。それゆえ、SNSを巡っては様々な混乱が生じている。Twitterが「バカ発見器」「バカッター」などと呼ばれ炎上の原因になってしまう、Facebookは実名制だからプライバシーを守れずアブナイ!と勘違いする、なんて言うのがその典型だ。これは、たとえばテレビ放送が開始された当時、テレビが床の間に置かれ、部屋を暗くして、正座しながら視聴したとか、プロレスの流血シーンを見て年寄りがショック死したといった事例と同じ状況だろう。つまり、利用者側で新しいメディアの様式が確定、認知されておらず、旧メディアのメディア様式を新しいメディアに適応したがゆえに起こる混乱だ。

もちろん、サービスを提供するSNS側もまたその方向性が定まっていないことも確かだ。だから、サービスの栄枯盛衰も激しい。たとえば、かつて日本ではmixiがSNSの旗手としてもてはやされたことがあるが、今や”風前の灯火”であり、一方でLINEが飛ぶ鳥を落とす勢いで広がりを見せている(僕の大学の学生たちのほぼ100%が利用しており、彼らが互いに連絡を取る手段は、もはやメールではなくLINEのトークだ。アカウントの交換も、もちろんLINEのアカウント、メルアドではない)。SNSというメディアの様式が確定するまでは、こういったSNSの攻防が終息することはないだろう。

ただし、少しずつではあるが、その様式の方向性が見えつつあるというのも確かなのではなかろうか。つまり、SNS利用に関するルールというものが次第に固定化し、認知されつつある(いいかえれば、テレビでプロレスの流血シーンを見てもショック死することがないような認知枠組みが出来上がるのと同様の事態が進行しつつある)。で、今回はこのSNSのメディア様式、いいかえればSNSリテラシーについて考えてみたい。

SNSはリアルをヴァーチャルに上げるメディア

はじめに前提を述べておけば、「原則、SNSは単なるヴァーチャル上だけでは機能しないメディアである」と言うことになる。SNSをやり始める際、そこに加わっている未知のユーザーを探し、新たな関係を構築するといったような使われ方は、きわめて少ない。むしろ、まず現実=リアルの友人・知人が存在し、その人間たちをヴァーチャル上でつなぐという使い方が圧倒的だ。ということは、SNSを利用するためには、必然的に、その前提としてユーザーの人間関係資本が問題となってくる(かつての「出会い系サイト」的な利用をSNSにイメージするのは完全に間違っている。あれは例外中の例外と考えたほうがいい。メディアが騒いでいるだけだ)。つまり、知り合い=関わり合う人間が存在しなければSNSは存在価値はないし、逆に知り合い=関わり合っている人間が多ければ多いほどSNSは積極的に活用可能になる(もちろん知り合いも同じSNSを利用していなければならないが)。そしてリアルをヴァーチャルに押し上げ、次いでヴァーチャルをリアルに下ろし、また上げるという「リアルとヴァーチャルの往還」的なコミュニケーションを繰り広げることで、SNSで関わる人間間のコミュニケーションは活性化する。いいかえれば、リアルは原則、常にヴァーチャル=SNS上のコミュニケーションのための「担保」として機能するのだ。

求められる「公」「私」の使い分け

ということは、当然のことながら、SNS=ヴァーチャルにおいてもリアルでのルールがある程度適用されるということになる。とりわけ、重要となるのが「公=パブリック」と「私=プライベート」の区別だ。

これを単純化しながら説明してみよう。たとえば、暑い夏、あなたは自宅にエアコンを入れながら居間でビールを楽しんでいるとしよう。その時、あなたは上半身裸だとする。うん、これはなかなか快適だ。しかし、これを居酒屋でやったらどうなるだろうか?もちろん、許されることではない。上半身裸になっていいのはプライベートな空間、あるいは温泉や浴場、ビーチという、裸になることが認知されているパブリックなエリアに限定される。つまり、これが公ー私の区別ということになる。そして、こういったルール=慣習はわれわれの文化的習慣・儀礼=ハビトゥスとして共有されている(ということは、時代や文化によって異なる)。

メディアの利用においても、もちろん「公」と「私」の使い分けは存在する。だが、新しいメディアが出現した際には、必ずと言ってよいほど公私の区別がつかず混乱が生じる。 そして、その際には、当初は必ず旧メディアのメディア様式が適応される。 前述のテレビ放送開始時に「テレビが床の間に置かれ、部屋を暗くして、正座しながら視聴した」というのは、既存のメディアである映画館での上映やホールでの講演、つまり公的空間の慣習がそのままテレビ視聴に適応されたから発生した事態に他ならない。実際にはテレビは私的空間に置かれるものゆえ、現代のわれわれからすれば、これが滑稽に見えるのだ。逆に言えば、現在のわれわれがこういった行為を決して行わないのはテレビとわれわれ=ユーザーの関係、つまりテレビは私的メディアであるというメディア様式が確立しているからに他ならない。ちなみに、この逆、つまり私的メディアが公的メディアとして用いられる混乱が発生しているのがケータイ電話(そしてスマホ)だ。ケータイではしばしば電車の中での利用が行われる。そして、これがマナー違反だと指摘されるのは、「通話」というのがそもそもクローズドな私的空間でなされるものであるはずなのに、車内というオープンな公的空間に持ち込まれたからだ。

この、公私の区別がSNSにも適用されるのだ。もちろんSNSの中には公私の区別が厳しく規定されているものと、そうでないものがある。また、ひとつのSNSの中でも、公私の区別が機能的に分けられていもいる。

次回は、Facebook、Twitter、LINEそれぞれについての公私の区別機能と、利用の実際についてみていきたい。(続く)

Facebookの危機が囁かれるようになった。現在、Facebookのアクティブユーザーは世界で12億に達しようとしているが、その反面、アメリカでは10代のユーザーが離脱し、メッセンジャーアプリに移行。またビジネス・プラットフォームにおいてもその主流はLinkedInになろうとしているという。移り変わりの激しいネット市場、中でもSNSに関してはその移り変わりのスパンはきわめて短い。それゆえ世界を席巻しているFacebookも例外では無く、旬を過ぎつつあるのではというのがこれらの論調だ。
そりゃ、いくらなんでも性急すぎませんか?
今回は、これに「ちょっと待った!」をメディア論的視点から入れてみようと思う。

メディアの重層決定という考え方

メディア論ではメディアが普及する際には「重層決定論」という考え方を採用する。一言で説明すれば「メディア様式の普及は様々な要因が絡み合ってはじめて決まる」という考え方だ。
一方、この対極にある考え方が「技術決定論」。これは新しいメディアが出現すると、そのテクノロジーが新しいメディアの様式をフォーマットしてしまうと言うもの。これが間違いなのは、いくらすばらしいテクノロジーがあっても、それが必ずしも定着しないという事例が山ほどある(というより、そちらの方が多い)からだ。たとえばビデオデッキ普及時、その方式としては優れていたベータマックス方式がVHS方式に敗北したなんてのがその典型的な例。また、出現したテクノロジーがまったく違う用途に普及してしまうこともある。こちらはラジオが典型で、ラジオは元はといえば双方向の通信機として発売されたのだが、まったく売れず、販促のためにコンテンツを流したらこれがウケて、その結果、送信機能を外し、受信機として定着したのだ。つまりテクノロジーをダウンすることで普及した。
つまり重層決定論とは、メディアの普及が技術的側面だけではなく、社会的文脈やポリティックスなどを絡ませながら進んでいくという考え方だ。典型的なのはウインドウ式のOSの普及で、技術的には70年代に完成していたのだけれど、パソコン利用におけるデファクト・スタンダードとなったのは90年代半ばのWindows95の登場を待たなければならなかった。Windows95が覇権を握ったのは、世界のマシンがMicrosoftのOSによって支配されていたこと、それによって既存のパソコンにインストール出来たこと、価格が安かったこと、パソコンに対する大衆的認知がある程度進んだこと、インターネットが普及しはじめたこと(ただし、当初Windows95はインターネットに対応していなかった)、CPUの処理能力が飛躍的に向上したこと、通信回線に関するインフラが向上したこと(大容量の情報が伝達可能になった)といった諸要因が絡んでいる。ウインドウ式インターフェイスは、いわばこの関数として重層決定的に普及したのである。
従って、Facebookの現状についてもこの重層決定論的な脈絡で捉えなければならない。だからこそ、単にアメリカで10代のアクティブユーザーが減ったから将来がアブナイというのは、話が性急すぎるのである。

機能の複雑性がFacebookを衰退させる?

Facebookの重層決定論を展開する前に、先ずFacebookのデメリットを先に述べておこうそれは多機能性だ。
技術的や機能的な面では、Facebookは他のSNSに比べて優れているということができるだろう。一対一やグループでのコミュニケーション、ニュースフィードというタイムライン、書類や画像、映像の添付、写真のアーカイブ、Facebookページといったアプリ内でのサイトの構築、イベント提示によるスケジュール管理、ゲームなどなど。これは他のメジャーなSNSであるTwitterやLINEなどのメッセンジャーアプリと比較してみるとよくわかる。
ただし、この多機能性は「諸刃の剣」でもある。多機能というのはいろいろなことに使えて便利ということでもあるが、反面、複雑になるので使いにくいということにもなりかねないからだ。つまりシンプルのほうが取っつきやすい。Facebookを利用したいという強い動機がなかった場合、なおさらこの多機能はうざったいものになる。事実、Facebookについては、しばしば「難しい」と指摘される。
そして、この「難しい」という認識は、それと比較可能なものが登場すると、いっそう深くなる。そういった比較対象としてわが国に出現したのがLINEだった。LINEは実質的にはトークと無料通話に特化されたメッセンジャーアプリだ(他にもざまざまな機能が用意され、LINE自体はプラットフォーム化を目論んでいるが、実質的にそうはなっていない。まあ、これも重層決定ということになるけれど)。
若者は取っつきやすさに敏感、そして新しもの好き。だから取っつきにくくて、新しくなくい(さらに、実名アカウントなので外部に自分の情報が伝わる可能性があって怖い)Facebookにそっぽを向いた。なるほど、こういった可能性も十分に考えられる。それがアメリカでの若年層のFacebook離脱率の上昇に繋がったのではというわけだ。たしかに、日本でも同様の傾向があるのように思える。僕の勤める大学でも、学生たちが使用するのはもっぱらLINE。Facebookはそんなに多くないし、LINEの普及に伴って利用率は下がり、離脱率は上がっている。で、こういった理屈だと確かにFacebookは衰退する可能性があるように見える。

リアルがヴァーチャルを、ヴァーチャルがリアルを活性化するSNS・メッセンジャーアプリ

しかし、これらの指摘については疑問となる点も多い。「若者が離脱したから、衰退をはじめた」という主張は「若者が次の世代を担うので、その連中が使わなければ後続世代も使わない」という発想に基づいている。この考え方がおかしいのは次のようにツッコミを入れるとはっきりする。
つまり、
「若者がFacebookを使わなくなった、あるいは離脱したとしても、使わないままとは限らない。」
SNSやメッセンジャーアプリは、しばしはコミュニケーションを広げるツールと認識される。つまり、そのアプリを活用することで、関わり合う人間が増えていくという見方だ。しかし、実際のところ、これらは「友人の輪を広げる」のではなく「既存の友人との関係をメインテナンスする」というかたちで機能している。これらを利用することで、リアルなコミュニケーションとヴァーチャルなコミュニケーションが往還し、リアル環境がヴァーチャルな環境を、ヴァーチャル環境がリアルな環境を活性化するというスパイラルが起こり、その結果、関係が継続可能になるのだ。だから、ユーザーたちはこれを積極的に利用しようとする。 

若者はなぜメッセンジャーアプリを指向するのか

その際、これらのアプリの使いこなしについては、その技術的側面=テクノロジーよりも、むしろユーザーの側の人的インフラ、言い換えれば友達の数や社会性、社会圏の大きさが前提となる。
若年は社会性が低く、友達の数も多くはなく、所属するグループも少ない。そんな彼らにとっては人間関係をメインテナンスする、いいかえれば内向きにコミュニケーションを確保するツールとしてはFacebookよりもLINEなどのメッセンジャーアプリのほうがはるかに便利だ。狭い範囲で人間関係を括ることができるし、クローズドな環境も確保できるので不安も少ない。なおかつ、そのためにしか使わないからシンプルであり取っつきやすい。そして、こういった狭い内向きの環境の中で頻繁に関わり合うためには「スマホベース」のメッセンジャーアプリのほうが圧倒的に便利。だから、それまで「PCベース」のFacebookをメッセンジャーとして使っていた若者たちが、スマホに特化され、外部の人間と関わる危険の少ない、そしてシンプルで便利なメッセンジャーアプリに乗り換えたのだ。

Facebookは大人向け

だが、これが大人ともなると事情が変わってくる。大人は関わる人間やグループの数、未知の人間と出会う機会が多い。社会性を獲得しており、社会圏を拡大していくことが基本となるからだ。
こうなると、メッセンジャーアプリよりオープン性の高いFacebookのほうが利便性が高くなってくる。確保している人間関係をグループに分けたり、グループ間の人間を繋げたりすることができる。さらに、縁遠くなっていたかつての友人たちと再び関係することもできるからだ(Facebookはプロフィールに自分に関する様々な履歴を書き込めば、それに関連した人間をこちらに紹介してくれる機能がある)。また、その間で様々なデータのやりとりをすることも可能だ。 既存の友達とかつての友達双方のコミュニケーションをメインテナンス可能なので、自らが確保している人間関係資本を有効に活用できるのだ(一方、言うまでも無いことだが、人間関係が狭い若者には、これらは不要な機能だ。繋げる相手がいないのだから)。また、さらに共通の関心を持つ人間を探し出すこともできる。 こういったコミュニケーション欲望によって、Facebookの「多機能性」は「取っつきにくいもの」という感覚が、大人からは払拭されていく。

Facebookとメッセンジャーアプリの使い分け

ということは、現在の若者のFacebook→メッセンジャーアプリへの移行というのは、これで終わりというわけでは必ずしもなく、若者が成長して社会圏を拡大し、社会性を獲得し、コミュニケーション領域を広げていくことによって、今度はFacebookを使うようになるというようにも十分考えられるというわけだ。また、大人になるにつれてこの二つを使い分けるようにもなる可能性も考えられる。たとえば、本当に身内・仲間内だけで頻繁に関わり合いたい場合はメッセンジャーアプリ、社交性を重視するならFacebookというかたちで。
もちろんメッセンジャーアプリが、若年層を取りこみながら発展していき、Facebook的なプラットフォームを構築してしまえば話は別だが(ただし、この場合も、後続世代は今度はこういった発展したメッセンジャーアプリが「取っつきにくい」といってそっぽを向き、シンプルなそれに飛びついていくということになるんだろうけれど)。これまた重層決定のたまものなのだ。
メディアは常にリアルとヴァーチャルとの関係の中で重層決定的にその機能が定まっていくのである。リアルだけ、ヴァーチャルだけの要因で決まるというのは、まず、ありえない。

※ちなみにビジネスユースでのLinkedInへの移行については、議論としてはあまり意味がない。というのもFacebookユーザーのほとんどはビジネスユースでこれを利用しているわけではないし、さらに日本でLinkedInはほとんど普及していないからだ(これは日本的な土壌を重層決定要因)。

ゆるいつながりと属人性

 Twitterについて語られる際、先ず真っ先にあげられる特性が「ゆるいつながり」というものだ。ユーザーは特に誰に向けてと言うわけでもなく、ツイート、つまりつぶやく。そこで発せられたつぶやき=情報は、さながらボトルメールのようにインターネットという大海原に投げられる。当然、誰がそれを拾うのかはわからない。ただし、ボトムメールのように本当に偶然だけを期待して投げられるというものでもない。インターネットの世界は広大であるとともに、その海の中には投げられた情報を欲するユーザーが存在し、このツイートを検索しつつ「収容」しているからだ。

その方法は検索窓に関心のあるタームを入力するだけ。しかし、それだけで関連する情報が引き出されてくるし、それが旬なものであればタイムラインに沿って、夥しい数の情報が提示され続ける。直近の情報であるならば、たとえばオリンピックの東京誘致決定などはその典型。とにかくものすごい数の人間がひたすらつぶやき続ける。

で、この時、これらの情報をブラウズしているユーザーにとって重要なのは、原則、情報それ自体だ。その情報が何らかの目的のために必要なものであれ、ヒマつぶしに消費するものであれ、それを発信した人間、つまりツイートした当事者自体にはほとんど関心がない。こういったTwitterの特性を、論者たちは「属人性が高い」と表現している。

「属人性」とは、なにやらあやしげでちょっとわかりづらいが、ようするにこれは、その人の持ち物=情報に注目する傾向があると理解したら分かり易い(言い換えれば、その人自身はどうでもいい)。たとえば、あなたがデパートに買い物に出かけたとする。だが、そのデパートにやってくるのは初めて。しかも、デパートは巨大で何がどこにあるのかサッパリわからない。そこで、あなたは入り口のインフォメーションへと向かい、コンパニオンに自分が購入しようとしている商品の売り場の場所をたずねる。この時、質問に答えるコンパニオンは、答えてくれさえすれば実は誰でもいい。こちらがコンパニオンについて抱いている関心はデパートの売り場情報=人に属する情報だけだからだ。だからこの時、コンパニオンはきわめて属人性の高い存在となる。

つまり、「人」ではなく「人の所有している情報」についての関心が電子空間を構築しているのがTwitterというSNSなのだ。それゆえ、Twitterはしばしば「そもそもSNSなのか?」と疑問を呈されることがある。Facebook、LINE、mixiのように「人と人を直接繋ぐサービス」をSNSと捉えれば、Twitterは情報と情報を繋ぐことはしても、人と人を必ずしも結びつけるわけではないからだ(ちなみに、本ブログで以前に紹介したように、若者の間でTwitterは、ベタに、こういった定義でのSNSの使われ方をしていることも確かだが)。Twitterが「ゆるいつながり」と呼ばれるゆえんは、こういった情報重視といったところにポイントがあるといっていいだろう。でも、なぜ僕らはTwitterにアクセスするのだろう?

学生たちの使い方は「連絡ツール」

 僕はメディア研究をやっている人間の端くれなので、「まあ、Twitterというのもチェックしておかなけりゃならないな?」と思い、二年ほど前にアカウントを取得したのだが、その後、ほとんどと言っていいほどこれを利用することがなかった。まあ、情報を検索するというのはよくわかる。しかし、じゃあ、なんでツイートする必要があるのか?これがまったくわからなかったのだ。「「○○なう」とか「おはようございます」とかを、誰ともしれない人間につぶやいたところで、なんか意味あるのか?反応だってあるかどうかもわからないし。これって、単なる自己満じゃないの?どこがオモロイの?」まあ、こんな感じだった。

ところが、僕の周りの学生たちの利用度は非常に高い。Facebookを凌駕している。なので、彼らがどうやってこれを利用しているのか調べてみたら、その答えは、なんと「mixi代わり」というものだった。つまり、仲間内で相互にフォローし合うことで連絡ツールとして使っていたのだ(だから、しばしばプライベートな話をツイートし、それが不特定多数に拡散してバカ発見器になってしまうなんてことがあったわけだ。詳細については本ブログ「Twitterバブルの終わり?」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64609215.htmlを参照)。で、現在、少なくとも僕の周りでは学生たちのTwitter離れが進んでいる。これは「Twitter疲れ」ということではなくて、連絡ツールとしてより安全なLINEに乗り換えたためなのだけれど。

Twitterのつぶやきは「情けは人のためならず」の法則に基づいている

さて、一方、僕の方である。当初「これはただの自己満」と、なかなかやる気になれなかったのだけれど、こうやって調べていくうちに、なんと、だんだんとハマるようになってしまった(学生からすれば「今頃Twitter?」ってな感じで、「遅れてきたユーザー」みたいに思われているかもしれない)。言い換えれば、なぜツイートするのかの意味が僕なりに理解できたからだ。そう、これは「自己満」だけど「自己満でない」。そして、面白いかたちで情報が収集できる。しかもそれは単に検索で引っ張り出すだけでなく、自らツイートすることで。今回は、やっと理解できたTwitterの効用について展開してみたい。まあ、「おせーんだよ~っ!」って言われるかもしれないが、これって、案外便利なのだ。

事はは9月2日に遡る。この日、僕は自らのブログサイトに「あまちゃん133話、クドカンの震災表現は秀逸」という記事を書いた。この記事はタイムリーだったらしく、BLOGOSでのアクセス数、支持数がトップになったのだが、Twitterのツイート数も300を超えるに至ったのだ。そこで、どんなツイートがなされているのかこれらを覗いてみることに。ちなみに、この場合は検索に単語(たとえば「あまちゃん 震災」とか)を打ち込まなくてもBLOGOSに貼られているツイート数のカウンターをクリックすれば自動的に表示される。

そのツイートの多くは、単にブログのタイトルとサイトが表示されているだけだが、その中には様々なコメントや情報もアップされていたのだ。ピーク時には一時間で20本程度のツイートがアップされていたのだけれど、僕はこれを覗いてみるのが楽しくなってきた。僕のブログについての感想はもちろんだが、ブログに関連する情報が次々とアップされる。お褒めの言葉はうれしいし、けなしたり誹謗中傷みたいなヤツにはムッとくるけれど、面白いのはむしろ、このブログに関連する周辺情報についてのツイートだ(こっちの情報の方が多い)。あまちゃんについて僕の知らない情報がアップされ、おもわず「へぇ~!」と感心し、それについての情報にさらにアクセスするというかたちで、あまちゃんに関する関連情報がどんどんと膨らんでいったのだった。

で、気がつくと僕も調べた情報をアップしていた。そう、これは「自己満」に他ならない。しかも、誰に向かって情報を発信しているのかも定かじゃない。ところが、今度はこのアップした僕の情報についてのツイートが展開されるようになる。もちろんフォローやリツイートも増えていく。そうすると、さらに新しい情報がツイートされる。

「ああ、そういうことだったのか」

僕は、なぜ自分がツイートするかについて、ようやっと理解したのだ。ツイートとは要するに「情けは人のためならず」という法則がぴったりくる。この意味は、最近は誤った解釈もされなくなっているが(かつての誤った解釈は「情けをかけるのは人のためにならない」)、念のために説明を加えておけば「情けは人のためにやるんじゃなくて、情けをかけるとめぐりめぐって自分のためになる」という意味。つまりTwitterというのはつぶやいておくことによって、最終的に自分が知りたい情報が返されてくるという仕組みになっているということなのだ(もちろん、全てがそうであるというわけではない)。しかも、それが誰とも知れない状態で。

で、これを膨大な数の人間が繰り返すとことで、ちょっと面白いことが生まれてくる。強いて表現すれば、それは「人間の脳を複数使ったデータベース」といったところになるのだが?次回はこれについて集合知との関連で考えてみたい。(ちなみに「○○なう」「おはようございます」というようなツイートは、やっぱりわからないのだけれど……)(続く)



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爆発的な広がりを見せるアプリ”LINE”

NHN Japanが昨年六月にリリースした無料通話アプリ”LINE”が爆発的な人気を獲得している。現在、ユーザーはすでに六千万人。そして、今年の日経トレンディのヒット商品番付の第一位にも輝いている。

よく知られているようにLINEの魅力は無料通話がメインではなく、むしろトークと呼ばれるコミュニケーション機能にある。通常のメッセージ(メール)機能のように、チャットが吹き出しで相互に現れてやりとりするパターンなのだが(グループ会話も可能)、これにスタンプと呼ばれる大きな絵文字を貼り付けられるところが特徴だ。これが若者たちにウケにウケ、Facebookやツイッター、mixiはしなくてもLINEはやっているという層すら現れたほど。僕が勤めるキャンパスでも、もはやLINEは必需品に近い。

日本はハイコンテクスト文化

LINEがここまで急激に広がったのは、日本独自の文化にうまく抵触したからだと僕は見ている。それは、いわば「ハイコンテクスト文化」とでも呼ぶべきものだ。記号論の世界ではコミュニケーションの際、人間は二つの側面から相手にアプローチすることを前提としている。「テクスト」と「コンテクスト」がそれ。つまり「ことばそれ自体」と「ことばの文脈」のこと。社会学者の佐藤俊樹は日本独特のコミュニケーションを「気持ちのわかりあい」とうことばで表現している。日本語の文法は曖昧で様々な解釈を許容するようになっている。しかし、それでは困るので、これを制限するためにコンテクストが頻用される。たとえば「僕はうなぎだ」「私の娘は男です」という表現はそのままではおかしいけれど、コンテクストが整っていれば全く自然な表現になる(前者なら「大食堂で料理を注文するとき」後者ならば「自分の娘が子ども(つまり孫)を産んで、その性別が男であることを相手に伝えるとき」がこれに該当する)。日本文化というのはこういった言外の意味=コンテクストを非常に多用する、「気持ちをわかりあおう」とする「ハイコンテクスト」文化なのだ。

ただし佐藤自身はこの文化が崩壊しつつあることをすでに20年前に指摘している。また、最近では「KY=空気が読めない」という流行語が出現したように、こういった日本独特の文化が失われつつあるとも言われている。

しかし、僕はこれはちょっと違うんじゃないかと思っている。そしてその根拠をLINEの爆発的は広がりに見ている。なぜならLINEのスタンプを多用した会話はきわめてコンテクストを重視し、かつディープさを備えたコミュニケーションだからだ。そして、それを若者たち、つまり「空気が読めない」と呼ばれる層が積極的に活用しているからだ。

前述したように日本語は曖昧な表現を多く含んだ言語。それゆえ発信した側の意図が相手に全く違ったように伝わる可能性が高い。そこで日本人はことば以外の様々な伝達手段を用いて相手に意図を伝えようとする。お歳暮、お中元なんて慣習はその典型だろう。また「あうんの呼吸」とか「察する」といった行為や、俳句・短歌といった文学ものもこういったハイコンテクスト文化に属する。すべて「空気を読むこと」が前提されているのだ。

コンテクストに依存するがゆえに伝わりづらい日本語文章を補う絵文字・顔文字

しかし、これは「文章」で相手に意志や情報を伝達する際には困ったことにもなる。というのも文字は原則「文字通り」の情報しか伝えられないためだ。ところがその「文字通り」が曖昧ゆえ、相手に伝えたい意味はしばしばねじ曲げられる。

こういったハイコンテクスト文化におけるコンテクストの不在という状況を見事に補うかたちで電子メディアに登場したのが顔文字・絵文字(顔文字は、たとえば(^^)(>_<)(`_´)(^_^;)\(^_^など。絵文字は変換すると化けるので省略しますが顔文字と同じ大きさで作られた絵)だ。これらは文章の終わりなどに付け加えることで、コンテクストを補うことができるという点が実に魅力的だ。大人世代には、こういった表現は子どもっぽいと言う印象を与えるのか、あまり使われることがない。そればかりか、ふざけた表現というコンテクストで捉えてしまうことすらあるが、若者たちはこれらを付け加えることで文章表現に豊かさを与えることに成功している。

スタンプは絵文字・顔文字の進化形

LINEのスタンプ機能はこのコンテクスト飛躍的に向上させたものだ。絵文字・顔文字を大型化したことで表現にディテールを加えることを可能にした。だからスタンプでよりコンテクストを加えられる。その自由度に若者たちが飛びついたのだ。

使い方についてみてみよう。
いちばんオーソドックスなのは文字=吹き出しとスタンプを混合させてやりとりするものだ。この場合、メインは文字=テキストでスタンプ=コンテクストはそれを補うという役割となる。だが、若者たちの使い方はもっと積極的。むしろスタンプがメインで、それを補うものとして文字が登場するなんてこともよく行われている。

より積極的な使い方はスタンプのみを用いたやりとりだ。ディテールが豊かなだけに、上手にスタンプを組み合わせることでスタンプ会話が可能になる。例えば朝、友達にお日様のスタンプを送りつけ、次いでブラウン(熊のキャラクター)がコニー(ウサギのキャラクター)に蹴りを入れているスタンプ送りつける。この時、相手に伝えようとするメッセージは、ようするに「起きろ!」という意味なのだけれど、これが一切文字なしで送りつけられるのだ。 あるいは、あいさつ程度に突然、無意味にスタンプを送りつけるなんてことも。

コンテクストをテクスト化するメタコンテクスト

実は、こういったやりとりが行われているとき、スタンプ会話をしている若者たちはスタンプというコンテクストをさらに一段深いコンテクスト=メタコンテクストを用いてやりとりしていることになる。前述した「起きろ!」だったら、このスタンプを送りつけられる側が、よく寝坊することを知っているというメタコンテクストを踏まえコンテクストとしてのスタンプを発信しているのだ。つまりコンテクストの二段仕立て。

こういった高度なスタンプによるコミュニケーションは、互いのことを熟知している間で初めて可能になるものだ。これはその反対を考えてみればわかりやすい。お互いのことをよく知らない相手に対してスタンプを添付したメッセージを送ったりしたら不気味、あるいは失礼と思われる可能性があるし、全てスタンプでメッセージを送ったらメタコンテクストを参照が不可能ゆえ、全く理解不能となる。スタンプによる応酬=やりとりは、それゆえ既存の親密関係を踏まえたハイコンテクストな、きわめて高度なコミュニケーションであり、「気持ちのわかり合い」という日本的コミュニケーションを踏まえている。そう、若者は実はしっかり「空気を読んでいる」のである。そして、このハイコンテクストを踏まえてスタンプというコンテクストを駆使することで、コミュニケーションに一層の親密性を獲得しようとしている。つまり、スタンプの応酬はジャゴン=身内ことばに基づく、仲間内だけのコミュニケーションを発展させる。いいかえればリアルなコミュニケーションをバーチャルに置き換えることで、リアルな関係を一層豊かなものにする。だからこそ、若者たちはLINEを使わないではいられない、いやスタンプをペタペタ貼らないのではいられないのだ。そしてLINEというアプリは、こういった日本文化の特性を踏まえているが故に爆発的な広がりを見せたと言えるのではなかろうか。

他の文化圏でLINEは普及するか?

だが、それはハイコンテクストではない文化圏では受け入れられる可能性が低いということでもある。実際、絵文字・顔文字はアメリカではなかなか普及していない(たとえば当初iPhoneのiOSの入力には絵文字がなかったのだけれど、これは文字入力のデフォルトが英語だったことによる)。ということは、より深いコンテクスト、つまりハイコンテクストを理解する能力を要求するLINEのスタンプが欧米圏、とりわけアメリカで支持されるのはかなりのハードルになるのではなかろうか。なんといっても、アメリカは究極の「KY文化」なのだから。

さて、僕のこの予想は当たるだろうか?外れるだろうか。

ライフログとしての活用性

ブログというメディアの今日的使われ方、今後の使い方について考えてきた。そして、登場10年を経て、SNS等の出現のためにその存在価値を減少させ、オールドメディアとなりつつあるブログの可能性について、公開式の「ちょっと変わった日記」(日記は本来非公開、だから「ちょっとかわった」と形容詞を加えた)という使い方があることを指摘した。

さて、この自己対象化のツール/ちょっと変わった日記/外部でなく自己という究極の内部に向けての発信メディア、としてのブログは、本格的なライフログのツールとしても有効だ。これはブログが「ホームページ作成よりもお手軽」で「SNSよりもアーカイブ性が高い」という立ち位置にあることによる。で、これ、実は本ブログ「勝手にメディア社会論」の使い方でもある。ちなみに「ライフログ」とは「人間の生活・行い・体験(Life)を、映像・音声・位置情報などのデジタルデータとして記録(Log)すること」(ウィキペディア)。ライフログはインターネット上に配置されることで、これを第三者が検索によって閲覧可能になる。

前回述べておいたように、僕はこのブログでは社会現象や思いついたことをメディア論的視点からつれづれなるがままに書き付けるというスタイルを採っている。ただし、ブログ=公共性を帯びたもの、と捉えているので、原則プライベートなことを書き綴ることはナシだ(個人的なエピソードを綴る場合には、メディア論的な説明をするための道具としてのみ利用する。たとえば、今書き綴っていることが、まさにそれなのだけれど)。

で、これをほとんど休むことなく延々と繰り返している(ちなみにここ七年ほどで最長のお休みをしたのは今月の八日間。これは今回のタイの調査があまりに忙しく、書く暇がなくなってしまったため。ゼイゼイ(-。-;))。こうやって休みなく続けると、だんだんメディア論的視点からモノを考えることが「歯磨き」みたいな日課となっていく。こうなってくると常にメディア社会論的思考を巡らせることがあたりまえになってくるのだ。また、毎日書いているので、書くことにも苦痛を覚えなくなっていく。そして、ブログに書き付ける文体がどんどん出来上がり、また変容していく。それが結果として僕の思考過程のライフログになっていく。そして、これを誰か(つまり、今、これをブラウズしているあなた)が読んでいる。

思考の外部化+内部化=活性化、つまり「思考のエンジンとしてのブログ」

これを七年近く続けているわけなのだけれど、これをやっていくうちに僕はあることに気がついた。それは、大学の授業のネタが尽きることなく、いくらでも生まれてくるようになっていたのだ。これは、明らかにブログを始めたことの効用だ。

ブログを始めるまでは、何かを思いついたときにはそこで想いをめぐらせるけれど、結局、そのうちに忘れてしまっていた。ところが思いついたことを即座にブログに書き付けるという作業をすることで思考が整理されるとともに、ブログにその痕跡が残る。だから、その時、何を考えていたのかがフィードバック可能になるのだ。それが結果としてブログ上のアーカイブ(現在、書き付けた文字数は約400万字程度)になるとともに、このアーカイブが僕のアタマの中にも記録された(というより書き付けることで、整理されてアタマのなかにスッキリとしたかたちで入った)。だから、授業ネタを考えようと思ったらブログから引っ張ってくればいい。いや、授業の最中、何かを説明しようとしてブログに書き付けたことを思い出し、即興で講義を展開することも可能になったのだ。

ブログで思考する?ブログが思考する?

これは、要するにブログ利用による思考=記憶の外部化であるし、ブログによる思考の内部化でもある。で、二つをまとめれば思考それ自体の活性化ということになる。思考を整理してブログに書き付けることで思考が対象化され、次いで、その対象化された思考が叩き台になって僕のアタマの中に新しい思考を芽生えさせる。そして、それをまたブログに書き付ける。つまり思考がブログ化されると同時にブログが思考化される。さらにこれにコメントによる第三者のアイデアが組み込まれる。こんなアタマとブログのやりとりは、結局のところブログが「思考のエンジン」として機能しているということを意味するのだ。だから僕はブログを続けている。言い換えれば、ブログは他者に向けたものであると同時に自らに向けたものでもある。そして厳密に言えば後者の比重の方がずっと高いはずだ。「情けは人のためならず」ならぬ「ブログは人のためならず」というわけだ。

ちなみに、思わぬ副産物もある。公開されているがゆえにマスメディア関係者に引っかかり原稿執筆や番組出演、コメントと仕事が舞い込み、小遣い稼ぎができるのだ。これ、ちょっと、オイシイ(^_^)b

というわけで、こういったライフログ=「ちょっと変わった日記」としてブログを、様々なかたちで活用してみてはいかがだろう。ちなみに、これこそプライベートなネタになってしまうが、僕のブログは学生たちに読ませる資料としても使っている。学生にとっても、これはきわめて有用だ。……いや、はなはだ迷惑な話かもしれないなぁ(^_^;)。

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