SNS利用はまだ初期段階。ゆえに混乱状態
スマホの一般化に伴ってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、次第にわれわれのコミュニケーション・メディアとして必須のものとなりつつある。
Facebook、Twitter、LINEの三大SNSのいずれか、あるいは全てを使いこなしているユーザーは相当な数に及ぶだろう(SNSというカテゴリーは多義なので、ここではメッセージをやりとりしたり、情報発信をしたり、グループでチャットをしたり、データを交換したりすることで人と人のつながりを促進する会員制サービスに限定する。それゆえ一般的にはメッセンジャーアプリに括られるLINEもSNSとして扱い、一方、ブログ、2ちゃんねる、ソーシャルゲーム的なものはこれから除外する)。
ただし、その利用のされ方はまだ初期の段階を脱していない。それゆえ、SNSを巡っては様々な混乱が生じている。Twitterが「バカ発見器」「バカッター」などと呼ばれ炎上の原因になってしまう、Facebookは実名制だからプライバシーを守れずアブナイ!と勘違いする、なんて言うのがその典型だ。これは、たとえばテレビ放送が開始された当時、テレビが床の間に置かれ、部屋を暗くして、正座しながら視聴したとか、プロレスの流血シーンを見て年寄りがショック死したといった事例と同じ状況だろう。つまり、利用者側で新しいメディアの様式が確定、認知されておらず、旧メディアのメディア様式を新しいメディアに適応したがゆえに起こる混乱だ。
もちろん、サービスを提供するSNS側もまたその方向性が定まっていないことも確かだ。だから、サービスの栄枯盛衰も激しい。たとえば、かつて日本ではmixiがSNSの旗手としてもてはやされたことがあるが、今や”風前の灯火”であり、一方でLINEが飛ぶ鳥を落とす勢いで広がりを見せている(僕の大学の学生たちのほぼ100%が利用しており、彼らが互いに連絡を取る手段は、もはやメールではなくLINEのトークだ。アカウントの交換も、もちろんLINEのアカウント、メルアドではない)。SNSというメディアの様式が確定するまでは、こういったSNSの攻防が終息することはないだろう。
ただし、少しずつではあるが、その様式の方向性が見えつつあるというのも確かなのではなかろうか。つまり、SNS利用に関するルールというものが次第に固定化し、認知されつつある(いいかえれば、テレビでプロレスの流血シーンを見てもショック死することがないような認知枠組みが出来上がるのと同様の事態が進行しつつある)。で、今回はこのSNSのメディア様式、いいかえればSNSリテラシーについて考えてみたい。
SNSはリアルをヴァーチャルに上げるメディア
はじめに前提を述べておけば、「原則、SNSは単なるヴァーチャル上だけでは機能しないメディアである」と言うことになる。SNSをやり始める際、そこに加わっている未知のユーザーを探し、新たな関係を構築するといったような使われ方は、きわめて少ない。むしろ、まず現実=リアルの友人・知人が存在し、その人間たちをヴァーチャル上でつなぐという使い方が圧倒的だ。ということは、SNSを利用するためには、必然的に、その前提としてユーザーの人間関係資本が問題となってくる(かつての「出会い系サイト」的な利用をSNSにイメージするのは完全に間違っている。あれは例外中の例外と考えたほうがいい。メディアが騒いでいるだけだ)。つまり、知り合い=関わり合う人間が存在しなければSNSは存在価値はないし、逆に知り合い=関わり合っている人間が多ければ多いほどSNSは積極的に活用可能になる(もちろん知り合いも同じSNSを利用していなければならないが)。そしてリアルをヴァーチャルに押し上げ、次いでヴァーチャルをリアルに下ろし、また上げるという「リアルとヴァーチャルの往還」的なコミュニケーションを繰り広げることで、SNSで関わる人間間のコミュニケーションは活性化する。いいかえれば、リアルは原則、常にヴァーチャル=SNS上のコミュニケーションのための「担保」として機能するのだ。
求められる「公」「私」の使い分け
ということは、当然のことながら、SNS=ヴァーチャルにおいてもリアルでのルールがある程度適用されるということになる。とりわけ、重要となるのが「公=パブリック」と「私=プライベート」の区別だ。
これを単純化しながら説明してみよう。たとえば、暑い夏、あなたは自宅にエアコンを入れながら居間でビールを楽しんでいるとしよう。その時、あなたは上半身裸だとする。うん、これはなかなか快適だ。しかし、これを居酒屋でやったらどうなるだろうか?もちろん、許されることではない。上半身裸になっていいのはプライベートな空間、あるいは温泉や浴場、ビーチという、裸になることが認知されているパブリックなエリアに限定される。つまり、これが公ー私の区別ということになる。そして、こういったルール=慣習はわれわれの文化的習慣・儀礼=ハビトゥスとして共有されている(ということは、時代や文化によって異なる)。
メディアの利用においても、もちろん「公」と「私」の使い分けは存在する。だが、新しいメディアが出現した際には、必ずと言ってよいほど公私の区別がつかず混乱が生じる。 そして、その際には、当初は必ず旧メディアのメディア様式が適応される。 前述のテレビ放送開始時に「テレビが床の間に置かれ、部屋を暗くして、正座しながら視聴した」というのは、既存のメディアである映画館での上映やホールでの講演、つまり公的空間の慣習がそのままテレビ視聴に適応されたから発生した事態に他ならない。実際にはテレビは私的空間に置かれるものゆえ、現代のわれわれからすれば、これが滑稽に見えるのだ。逆に言えば、現在のわれわれがこういった行為を決して行わないのはテレビとわれわれ=ユーザーの関係、つまりテレビは私的メディアであるというメディア様式が確立しているからに他ならない。ちなみに、この逆、つまり私的メディアが公的メディアとして用いられる混乱が発生しているのがケータイ電話(そしてスマホ)だ。ケータイではしばしば電車の中での利用が行われる。そして、これがマナー違反だと指摘されるのは、「通話」というのがそもそもクローズドな私的空間でなされるものであるはずなのに、車内というオープンな公的空間に持ち込まれたからだ。
この、公私の区別がSNSにも適用されるのだ。もちろんSNSの中には公私の区別が厳しく規定されているものと、そうでないものがある。また、ひとつのSNSの中でも、公私の区別が機能的に分けられていもいる。
次回は、Facebook、Twitter、LINEそれぞれについての公私の区別機能と、利用の実際についてみていきたい。(続く)