勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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オヤジが若者をfacebookから追い出した?

6月22日のYOMIURI ONLINEの記事でITジャーナリストの高橋暁子氏が若者のfacebook離れの現状について分析を行っている(http://sp.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160622-OYT8T50037.html?page_no=1)。分析資料のもとになっているのはジャストシステムのアンケート調査で、これによると16年4月のfacebookの10代アクティブユーザーが27%で、前年同月の45%からは大幅に減少しているという結果が出ている。

この結果について高橋氏はfacebookが「中高年の交流の場」になってしまっていることが大きな理由と指摘している。曰く、「十代が友達と楽しく盛り上がっているところに親が介入してきたり、学校の先生から指導が入ったりするようになる。そこで、親や先生にやりとりを見られたくない若者たちは、Facebookから離れ」るようになったのだという。また中高年たちのリア充ぶりをアピールする、つまり自慢話を繰り広げるのにウンザリしているのもfacebook離れをさらに進めている。そして、これは「facebookが普及しすぎたがゆえに若者が離れるという構造」なのだとしている。

高橋氏の議論は一見もっとものように見えるが、議論としてはかなりアブナイと言わざるを得ない。この主張は「老害」ならぬ「中高年害」、つまりオヤジの絡みやすく、それでいて自慢話は繰り広げるという前提に基づいて無理矢理十代のfacebook離れの原因を引き出しているからだ。つまり「結論先にありき」。いいかえれば我田引水の議論でしかない(まあ、オヤジイジメというところだろうか(笑))。

ことはそう簡単には進まない。現実は、もっと複雑だ。なので、ここではジャストシステムのデータが正確であるという前提に基づいて、複数の要素を絡めつつ「若者のfacebook離れ」の原因をメディア論的に考えてみたい。

新メディアが旧メディアを押しやっていく

二つの側面を提示してみたい。一つは技術的側面だ(もう一つはユーザー層の特性に関する側面だが後述)。新しいメディアが出現した場合、そのメディアと機能を重複させる旧メディアは主として二つの運命を辿る。
一つは消滅。つまり機能が完全に重複し、しかも新しいメディアの方が技術的にも利便性的にも優れていたがために、既存のメディアが飲み込まれてしまうというものだ。近年だとモールス信号による電信とか、おそらくこれからそうなるであろう白熱球(これをメディアと考えればだが)がその典型で、前者はデジタル化によって難受信エリアでも受信可能になることで、送受信をモールス信号でする必要がなくなり消滅。白熱球も寿命、電気消費量の点でLEDに全くかなわず、しかもLED電球が低廉化することで、その場所を失ってしまった。

もう一つは、新しいメディアと重複しない部分、つまりディスアドバンテージとならない部分で生き残るというもの。ラジオはマスメディアとしての機能をほとんど失いつつあるが、災害時やローカルメディアの分野にその活路を求め、現在も続いている。ほぼ消滅に近いがなんとか続いているのがポケベルやPHSといったところだろうか(電波による医療機器への害がないというアドバンテージで医療現場で生き残っている)。

LINEとカブったfacebook

さてfacebookである。SNSの中でも最大であることは言うまでもない。ここには、たとえばビデオ電話も写真のアーカイブも、グループでのクローズドでのチャット(若者はこれを使えばオヤジ害を排除できる)も、ファイルの転送もといったかたちで、まあいろいろと機能がある。しかし、機能満載で使いづらいところがあるのも事実だ。恐らくほとんどのユーザーは機能の一部、メッセージやフィードくらいしか使いこなしていないだろう。煩雑で面倒くさがりのユーザーには少々使いづらいのも確かだ。

ここにLINEのような単純なSNS(LINEはプラットフォーム化を狙って通話やタイムライン、アプリ、マンガなど様々な機能が加えられてはいるが、基本的にチャット=トークと通話に特化されていると言ってよいだろう)、しかもスマホベースのそれが登場すればどうなるか。当然、使い方簡単で、メッセージボックスを利用してチャットを繰り広げるという点ではパソコンベース(facebookのインターフェイスは明らかにパソコンベースで、スマホ用としてはちょっと扱いにくいし見づらい)よりスマホベースのLINEの方が圧倒的に優位であることは言うまでもない。それゆえ、スマホベース、単純機能ベースのユーザーはこちらに流れる。そして、そういった流れたユーザーに、パソコンなどほとんど使わずスマホを所有したユーザーが飛びついていく。その多くは若年層だ。オヤジ臭に嫌気がさしてこちらに移動した若者も、まあ、いないこともないだろうが、それはマイノリティだろう(オヤジ臭を放つユーザーにウンザリしているのは、オヤジ臭を放っていない中高年ユーザーも同じこと。だから、この理屈であればオヤジ臭にウンザリしたオヤジもfacebookから撤退するはずだ。だがデータ的には必ずしもそうはなっていない)。一方、中高年はパソコン利用に慣れている。だからパソコンベースのfacebookの方が何かと使いやすい。つまり中高年のSNS、とりわけfacebookの利用はパソコン>スマホ、若者はパソコン<スマホ。こういったかたちで棲み分けが起こる。だから若者のfacebook離れ、あるいはfacebookを利用する気にならないのは、ある意味当然ということになる。

社会圏、社会性が分けるSNS利用

もう一つはユーザー層の特性に関する側面だ。中高年と若者、とりわけ若年層の年代的な違いは、ズバリ社会圏の広さと、それに伴う社会性にある。当然、中高年の方がともに高い、言い換えれば社会的成熟度が高い。

で、facebookはこの側面でも若者にとっては扱いにくいSNSなのだ。中高年がfacebookにハマる理由は、一つは本人が抱えている人的インフラにある。つまり既存のリアルな知り合いが個人的な付き合いであれ仕事上のそれであれ多い。こういったリアルな社交と社会圏を活性化するヴァーチャルな装置としてfacebookはうまく機能するのだ(学校時代の旧友がゾンビのように復活したりする(笑))。また、大人ゆえ公私の分別が可能。だから、実名制であったとしても、節度をわきまえるわけで、例えばTwitterで炎上したり晒されたりするようなバカッター的な状況にはなる可能性は低い(リア充ばっかりやっているマイノリティもいるので、これはこれで迷惑千万な話だが)。また、仕事上の関係等でデータをやり取りしたりといったこともやりやすい。これはLINEでは難しいし、第一若者はそんな「大人の仕事」に用はない。

一方、こういったfacebookの利便性は若者にとっては不便なものになる。大人と違って社会圏、社会性が低い。友達は限定されているし、社会的成熟度が低いから公私をキチッと分別する能力も弱い。だからSNSの利用にあたってはLINEを利用して身内仲間でしっぽりとやっているのがよいわけで、しかもLINEのトークならクローズドなので、炎上と事態は起こりづらいし(メンバー間でのイジメはあるだろうが)、バカッター的にひっかかるということもない。つまりLINEは「安心ケータイ」ならぬ「安心SNS」なのだ。しかも前述したように若者の必携ツールであるスマホを前提としたインターフェイスになっている(パソコンでも使えるが、LINEのパソコンアプリを使用している若者は少ないはずだ。スマホがあれば、それで事は足りるので)。

ということで「若者がfacebook離れを起こしたのはオヤジ臭にウンザリしたから」と言うのは、かなり無理があるということがおわかりだろうか。

そうは言ってももちろん、このオヤジ臭には僕もウンザリしている。こういうリア充自慢のオヤジは、公私を区別できてないわけで、ようするに実のところ「子供」なのである。

facebookを利用していて、ちょっと引っかかっていることがある。

それは、

”自分の子どもの写真を頻繁にアップする人間がいること”

だ。

これ、少し節度をもってやって欲しいと考える。その根拠は二つある(二つ目はオマケだけれど)。

あなたの子どもの写真を友達は、あなたほど見たいとは思わない

一つは、これを閲覧する他者の立場から。
facebookに登場するコメントや写真・動画は原則、友達申請した人間か、その友だちがシェアしたものが掲載される。だから、シェアしたものはともかく、これらを閲覧するのは、原則相手を何らかのかたちで知っているという存在になる(このへんは使い方にもよる。たとえばfacebookでネットワークを広げようとする人間にとっては、見知らぬ相手であっても友達になることは多い。たとえば、シェアされたものをきっかけに友達申請して、友だちになるという場合もある。ただし、その多くは、原則、互いに何らかのかたちで面識がある相手を友達申請するというのが一般的だろう)。

しかしである、相手を知っていたとして、、いや、たとえよく知っていたとしても、そんなに相手の子どもの写真を見たいとは、はっきり言って思わないだろう。自分の子ども可愛さで、どうしても天使に見えてしまう「親バカ」な気持ちはわからないでもないのだけれど、あまりに頻繁に掲載されると、正直、たとえ仲間内のそれであっても「うざったいもの」になってしまうのは否めない。実のところ、息子・娘の写真を頻繁に見たいのは祖父・祖母、叔父叔母、兄弟と言った身内のエリア内の関わりの人間しかいないはずだからだ。一般的には、まあ、年に数回、拝見させていただければ、それでいいというところではなかろうか(年賀状などでは、よく子どもの写真が掲載されているが、これは「報告」的な意味合いが強く、個人的にはあまり違和感を感じることはない)。

子どもを公共に晒してしまう危険性

もう一つは子どもそれ自身の立場から。自分の子どもをfacebook上に公開するのは、いくら友達であったとしても危険性を完全に回避できるわけではない(しかもこの「友達」は「facebookで登録した友達」だ)。もし仮に、友達がその写真をシェアしてしまったとしたら、それは友達でない人間にも閲覧可能になるわけで。それが、ひょっとすると……まあ、めったにそんなことはないだろうが、ごく僅かの確率であったとしても、子どもを危険な立場に晒してしまう可能性がないとも言えない。

公私の区別がSNSでは涵養されていない

この二つの可能性を孕んでしまう、親のfacebookへの写真の公開。原因は同じところにある。要するに、メディアリテラシー、もう少し限定して言ってしまえばSNSリテラシー(この場合はfacebookリテラシー)が涵養されていないのだ。言い換えればSNSという新しいメディア(もう「新しい」というほどのものでもないかもしれないが)の使い方、とりわけ「公私の区別」のそれがついていないというところに、その原因が求められるのではないだろうか。

昨年、一昨年あたりにTwitterでバカッターなるものが話題になった。コンビニの冷蔵庫にバイトの従業員が裸で入った写真をアップしたり、ホテルの従業員が有名人のお忍びチェックインをツイートしてしまったり。これが話題になって、アップした本人がバッシングを受けたり、店が閉店に追い込まれたりしたことは、記憶に新しい。子どもの写真をむやみにアップすること。実は、これらの延長上にある心性と僕は考える。

子どもの写真を相手が好意的に見てくれるシチュエーションを考えること

個人的に提案したいのは、子どもを見たい人は誰なのかを配慮してからアップするということだ。たとえば、子どもの写真を頻繁にアップしたいのなら、そういったニーズのあるグループを作って、そこに逐次アップすればよい。そのグループに祖父・祖母がメンバーとして加わっていれば、これはSNSとしてはなかなか有意義な使い方のはずだ。

また、子どもが必ずしもテーマの中心とはならない、つまり別ネタのために子どもを登場させるという場合もアップの対象となる。マンガ『ドラえもん』の中で、お金持ちの息子・スネ夫が、自分の世界旅行の写真をのび太たちに見せるというシーンがある。ところがこの写真、ほとんどがスネ夫のどアップで、その後ろに世界的な名所がかろうじて見えるという代物。そして、これを見せられたのび太たちがウンザリするのだけれど。実は、これと同じ心性に基づくのが現在のfacebookに頻繁に掲載されている「子ども写真」の多くだろう。つまり「○○を見せる」と見せかけて、実は自らのナルシシズムの他者への押しつけをやっている。だから、こちらとしては、ちょっとウンザリするわけで。

しかし、子どもがものすごく面白いことをやった。笑わせるとか、感動させるとか、泣かせるとか。そして、この「面白さ」をみんなにシェアしてもらいたい。こんな場合は子どもの写真や映像(子どもに関するコメントも含めて)は実に有意義なものと言える。この時、焦点が当てられるのは子どもではなく、子どもがやった行為。これを見ている相手を楽しませることが出来るし、そのネタをシェア=共有することで閲覧者ともコミュニケーションを図ることが出来る(ただし、この場合、子どもを二番目の危険性に晒すことにはなるけれど)。もっとも、その線引きは容易ではないけれど。

すでに一般化したSNS。SNSの性質によるが、ここがもう一つのパブリックな空間(そして、そのパブリックな空間の中にプライベートな空間を作ることも可能な空間)であることを利用者が熟知するにはまだ少々時間がかかりそうだ。

10年後、facebookに子どもの写真を頻繁にアップしているなんてことがあったという事実を知って、未来の人間が「へー、そんなバカなことやってたんだ」なんてことになるのでは?僕はそう考えている。そして、それがメディアリテラシーの成熟ということになる。

相関しないPV数のコメント数

BLOGOSのブロガーは、自分の記事のPVを「マイページ」の「アクセス解析」という項目で確認することが出来る。およそ過去60程度の記事のPVがタイムライン形式で表示される(それ以上は消去される)のだが、その際、同時にコメント数も表示される。だが、この「解析」を見てみると、ちょっと面白いことに気づく。PVとコメント数が必ずしも一致していないのだ。つまり、相関関係がよくわからない。PVに比べコメントが多いのは政治や時事ネタに関するもの。最近の僕の記事だと佐村河内氏に関する記事(logos.com/article/80849/)がPV5700に対してコメント24(0.4%)、小保方氏に関する記事(http://blogos.com/article/84950/)がPV5600に対してコメント11(0.2%)。最も多かったのがBLOGOS上での匿名コメントを扱ったもので(http://blogos.com/article/83258/)、これは僕も書き込みを行って対応したというのもあるが、それでもPV2400程度でしかないのにコメントは130以上(5.4%)に達した。

一方、その逆もある。これは人物評や作品論などを展開した場合で、たとえば古舘伊知郎の分析(http://blogos.com/article/86771/)は4万4千に対して22(0.05%)、あまちゃんを分析した記事(http://blogos.com/article/69326/)に至ってはPV13万に対してコメントはたったの8(0.006%)だった。

比較的相関する「いいね!」数、「支持する」数

ところでこの「アクセス解析」にはそれ以外のデータも表示される。「支持する」の数、facebookの「いいね!」数など(ちなみに、ご存知のようにこれらは一般にも公開されている)。で、面白いことにこちらの方がPV数とのある程度正の相関を見せるのだ。PVが多いほど、これらの数も増える(とはいうものの、これもネタのジャンルによるという側面もあるが。具体的には旬のネタなどには反応も多くなる、詳細は後述)。

特定の層がコメントしている

ただし、コメントの数がおそらく民意を反映していないと言うこと、これだけは言えるだろう。先ずBLOGOSの閲覧者という集団があり、それらが政治や時事ネタ、さらにコメントすることに関心が高く、さらにその中の一部の書き込み好きな閲覧者が書き込みをするという図式になっている(実際、僕の記事に対するコメントも同じ閲覧者によるものが結構多い)。そして閲覧数に対するコメント比率の高い記事の多くが反論や書き手に対する誹謗中傷であったりする。

これはネットに表示されるコメントや書き込みが民主主義的ではないことを示唆するものでもあるだろう。ネットは、これまでは物理的距離や関係性によって相互に繋がることのなかった「同好の士」を接続可能なものにした。たとえば、かつてであればオタクと呼ばれる層は趣味がマイナーなため、一人密やかに自らの趣味に没頭するか、定期的に設けられる同好の士が集合するメディア媒体(同人誌など)や物理的空間に出かける(コミケなど)ことによる以外につながりを得ることが難しかった。だから、これらの人間が物理的に集結したとしても、さしたる数に達することは出来なかった(ただしコミケットを除く)。逆に言えば大規模イベントで人が集結するという場合には、その趣味に関わっている膨大な層が裾野にあって、イベントではその氷山の一角が集結するというかたちだったと考えることが出来る。いいかえれば、見えない巨大な層が潜在的に存在していた。

ところが今日においては一万人以上が集結するような大規模イベントなどザラだ。これはネットによって全国各地(あるいは世界各地)に点在する同好の士が空間を超えてリアルタイムで結びつけられることによって、それらの趣味がきわめて僅かの層でしかないにもかかわらず、ネット上で結びつき、それがオフラインミーティングというかたちでイベントを起こすことが可能になったからだ。つまり、イベントにおける集約性が高まったのだ。だが、それはいいかえれば氷山の水面下部分、つまり裾野がきわめて小さくなったということでもある。そして、それはさらにいいかえれば、当該イベントに10万人が集結したとしても、それは必ずしも民意を反映していないと言うことでもあるわけだ。

これと同じことがブログのコメント欄にも該当するだろう。つまり、ここで書き込みをする閲覧者は、ブログが取り上げたトピックに強い関心を持つ層で、さらに前述したように書き込もうとする意欲の強い層と捉えるのが妥当なのだ。だから、こちらも民意を反映していないと考えた方が的を射ている。

一方、ブログの記事に賛同する場合には、そのほとんどが「支持する」「いいね!」といったかたちで半間接的にリアクションを返す。これについては、書き込むと言うよりボタンを押せばいいわけで、気軽。それゆえPV数とこれらのボタンは比較的、正の相関関係を示す。だからある程度民意を反映していると考えられるのではなかろうか。ちなみに、これら賛同者の中には細かい感想を書いてくれたり、内容を読み込んでさらに自分の考えを加えてくれたりといったコメントをしてくれるが、こういったコメント、実は反論・誹謗中傷よりはるかに少ない。

「支持しない」ボタンの必要性

ともあれ、これらデータが確実に語るのは、コメントがほとんどの場合、その内容が賛成であれ反対であれ、一部の意見でしかないということだ。だが前述したように、「賛成」についての民意をある程度くみ取ることはPVと「支持する」「いいね!」ボタンとの相関から読み取れる。

だが、これだけでは問題だ。というのも、これらのボタンやコメントでは「反論」についての民意をくみ取る方法が閲覧者側にもブロガー側にもほとんどないからだ。これはBLOGOSのようなブログをとりまとめて公論を展開させることを目的とするサイトとすれば健全ではないだろう。だから、僕は公共的な議論の場としてBLOGOSが成立するための一助として、次のような提案したい。


1.PVを一般にも公開する。こうすることで、当該ブログがどの程度関心を呼んでいるのかが閲覧者にもわかる。ただし、これだけでは単なる表面的な関心なので、時事ネタとか煽りのタイトルとかでもPVを増やすことが出来る。それゆえ、これだけでは本当に議論の対象として扱われているかがわからない。

2.「支持する」ボタンに加え「支持しない」ボタンを加える。PV数は関心の大きさを測る指標だが、こちらは支持の有無を測定する指標、つまり内容の質、つまり民意を推しはかるめやすとして機能する。


こうすると、実は民意が反映していないコメントにもある程度、客観性をもって読み込むことが可能になる。たとえばPV数が多く「支持する」も多い記事への賛同のコメントは、マジョリティである支持者の意見を象徴するものになるし、一方、反論コメントはマイノリティの意見として扱われることになる。これはもちろんその逆もまた真。つまり、PV数が多く「支持しない」も多い記事への反論コメントは、マジョリティである反論者の意見を象徴し、賛同コメントはマイノリティの意見となる(間違えてはいけないのは、マイノリティの意見だからと言っても、それが正しいとか正しくないとかと言うこととは、原則、関係がない。それらは単にBLOGOS上での民意を反映していないだけ。つまりあくまでマイノリティなだけだ)。

ちなみにPV数が多く、また「支持する」「支持しない」どちらも拮抗するように多ければ、その記事は大いに議論を賑わせていることになるし、その反対にどちらも少ないような場合は、中身のない、あるいはタイトルが煽りだけ、またウケそうなネタを狙っただけの空疎な記事ということになる。またPVが少ないにもかかわらず「支持する」「支持しない」どちらも拮抗するように多いような場合には、一部のオタクたちが関心を寄せているマニアックな議論となる(そして、いうまでもないことだがPV数が少なく「支持する」「支持しない」どちらも少ないような記事はブログ記事としての価値が低い)。

こうやってPV数と「支持する」「支持しない」「コメント」を併記することは、結果として閲覧者にもブロガーにも大いに恩恵となるといえるだろう。閲覧者にとっては民意を相対的に把握することが出来るし、ブロガーにとっては、自らの記事がきちんと評価されているかがわかるし、コメントに対するスタンスも理解できる。そして、これはもちろんBLOGOSにとってもありがたいことに違いない。議論が健全なレベルで大いに盛り上がるのだから。

というわけでBLOGOS編集部に僕は訴えたい。BLOGOSはPVの公開と「支持しない」ボタンの追加をすべきだと!

SNSはリアルなコミュニケーションヴァーチャルに上げ、ヴァーチャルなコミュニケーションをリアルに下げることの繰り返しによって、人と人のコミュニケーションをメインテナンス・活性化するツール。だからヴァーチャルな環境でもリアルな環境でのルール・マナーである「公私の区別」が要求される。前回はFacebookについてみてきたが、最終回の今回は、TwitterとLINE、そしてSNSのゆくえについて見ていきたい。

Twitter。一見、公私の区別など不要に見えるが

Twitterは一般的に「ゆるいつながり」を備えるSNSと呼ばれている。実名である必要はないし、原則、不特定多数の人間に向かってツイート、つまりつぶやくからだ。だからパブリックでありながらプライベートであるという「ゆるさ」を備えている。たとえばアカウント名が匿名で、自らのプロフィールをほとんど書き込まない状態で利用すれば、かなりアブないことでも書き込むことが可能になる。要は、面白くて、誰かが相手にしてくれればいいわけで(相手にしてくれなくても、まあ、いいけれど)。書き込んだ内容がバッシングを受け炎上したとしても、あくまでも自分は匿名。なので、よっぽどのことがないと(つまり、自分が誰であるのかを同定するような情報を残さない限り、あるいは執拗にプライベートを暴露しようとするユーザーがいない限り)自らに直接的な危害が加えられることはない。いいかえれば、匿名性を徹底している限り、発信に関しては公と私の境界線が限りなく曖昧になるSNSなのだ(逆に言えば「匿名性を徹底する」というメタ的な公共性が強く求められるということでもあるのだが)。

また、こういったゆるさ=曖昧性によって、津田大介たちの言う「属人性」をフルに発揮できるSNSでもある。つまり実名でパブリックには発しづらい個人的な情報を発信することで、他のユーザーが一般的には収集が難しいような情報を入手することが可能になる(もちろん受信者となればその逆、つまり細部に立ち入った情報が入手可能になる)。かつて上杉隆が指摘していたように、ユーザー全員が新聞記者・特派員となる潜在的可能性を秘めているのだ。

だから、FacebookとTwitter双方を利用しているユーザーの多くが「Twitterには、Facebookにはアップできないような内容をコメントする」という使い分けを行っている。

ある意味、Facebook以上に大人の扱いを要求される

ところが、前述したようにTwitterがしばしば「バカ発見器」や「バカッター」と称されるように、書き込んだ本人がバッシングの対象となることがある。コンビニのバイトが自らアイスクリーム用冷蔵庫の中に潜り込んだ写真を公開し炎上した、有名人のお忍びチェックインをホテルの従業員がツイートし、炎上の末、従業員のプロフィールが暴露され集団バッシングを受けたなどがその典型例だが、これは要するに「本来なら、身内だけで密かに公開し合うような内容を不特定多数の人間に向けて公開してしまった」がために発生する事態だ。いわば「属人性の誤用」(属人性の高い情報の発信といっても、あくまで「専門的知識」のような「公的な内容に関する詳細な個人的情報」の発信に限られる。つまり、個人的ではあっても私的≒プライベートなものではない)。ようするに、これもまた私的空間でのコミュニケーション様式が公的空間に持ち込まれることによって発生した混乱なのだ(もっとも、そうはいってもアイスクリーム用冷蔵庫の中に入られるのは困りものではあるけれど……)。

こんな、公私混同的な用い方をしてしまう原因は、やはりSNSリテラシーの有無(この場合は「Twitterリテラシー」)に求められる。

Twitterの利用者の多くが、上記のような利用法以外に、Twitterをメッセンジャー的にも使ってもいる。つまり、仲間内同士でフォローし合い、それによってTwitter上でコミュニケーションを図るという使い方だ(しかも、若年層にとってはこちらの方が主流の利用法だ)。ところがTwitterは原則オープンなSNS。ダイレクトメッセージ的な利用以外、自らの発言=ツイートは不特定多数の全世界にばらまかれる。つまりFacebookならグループ機能で交わされているコミュニケーションをニュースフィードで、いや、それどころか友だちでもない一般人に向かってさらけ出すことになるわけで、こりゃ、おもいっきり危険ということになる。なんたって、プライバシーの垂れ流しなんだから。

そして、若年層の多くが、Twitterをこういった「仲間とのチャットツール」として使用している(フォロー、フォロワー数は僕のところの大学生でそれぞれ100名程度。しかも、相手のアカウントがハンドルネームであっても、誰なのか認知している。つまり「匿名」だが「有名」。ハンドルネームは単なる「あだ名」でしかない)。だから、結果として「身内ネタ」が「炎上ネタ」となってしまうのだ。

TwitterはFacebookのように公私の区分けが機能的に分化されているわけではない。それゆえ、公私の線引きはもっぱらユーザーに委ねられることになる。ということは、Twitterはゆるいつながりで公私がゴチャゴチャであってもよいように見えて、その実、Facebook以上に公私の峻別が求められるSNS。いいかえれば、最も「取扱注意」的な側面を備えているSNSということになる。堅苦しいけど安全=Facebook、お手軽だけど危険=Twitterといったところだろうか。

公私の峻別がもっともカンタンなLINE、だから安心

今回の特集ではSNS利用=SNSリテラシーについては、常にリアルワールドでのコミュニケーションが担保になることを指摘しおいた。ポイントは二つ。一つは「公私の峻別」で、これについては、すでにここまで詳しく展開してきた。そして、もう一つが「人間関係資本」、つまりリアルワールドでの人間関係の量や質がSNSの利用に大きく影響することだった。

さて、Facebook、Twitter、LINE三つのSNSの中ではFacebookが最も人間関係資本を要求すること、つまり「大人のSNS」であることを確認してきた。じゃあ、残りの二つはどうだろう?

まず、Twitter。これは人間関係資本を要求はしない。活性化するのに必要とするのは属人性、つまり人間関係ではなく、ユーザー本人の知識や経験(知識経験資本?)だ。ただし「公私」についてはFacebook以上にその峻別が要求されるSNSだった。だから、人間関係資本規模の小さい若年層、つまり社会性が低く(言い換えれば「公私の峻別がつかない」)、知人・友人の数が限定されている若者がメッセンジャー的に利用すると「バカ発見器」「バカッター」になってしまう。

そしてLINE。これはFacebookが「人間関係資本と公私の峻別」、Twitterが「公私の峻別」を要求するのに対して、このいずれも必要としないSNSだ。LINEは多機能だが、その利用はトークと呼ばれるメッセンジャーと無料通話にほぼ限定される。とりわけ利用の主流はトーク。これはFacebookのメッセージ機能とグループ機能をまとめたもで、それぞれの機能が明確に分離されている。関わる相手は一対一ならば実質上二人っきり、グループならばメンバーとして登録した友達のみであり、ともに完全クローズドな環境を構築している。

ということはSNSリテラシーを最も必要としないゆえ、若者には受け入れやすいということになる。さらに若者の場合、人間関係資本の規模が小さいゆえ、よりいっそう歓迎すべきSNSと映る。リアルな仲間をヴァーチャル上に押し上げ、そこでの情報が外部に一切漏れることなくコミュニケーションが可能となる。つまり「バカ発見器」に引っかかる可能性がない。また、狭い人間関係をリアルとヴァーチャルを往還する中でメインテナンスするツールとしても便利だからだ。当然の結果として、Twitterでチャットをやっていたこの層が、一斉にLINEに飛びついた。その結果が、現在の若者の間での普及率だ(僕の大学だとスマホの普及率は91%、そのうちLINEの利用率は99%に達している。一方、Twitterの利用率は低下している)

こうやって見てみると、Facebook、Twitter、LINEいずれにしても既存の人間関係資本がそのアクセスや使いこなしに大きく影響を及ぼしていることがわかる。そして、あらためて繰り返すが、そのリテラシーの要求度はFacebook≧Twitter>LINE。だからFacebookは「大人のSNS」でLINEは「子どものSNS」、そしてTwitterは「取扱注意のSNS」ということになる。

SNSの未来

今回はSNSのメディアリテラシーについて考えてきたが、もちろん大人が子ども向けのSNSのLINEを使ってはいけないわけではない。「子ども向け」というのはリテラシー上、高度なレベルを必要としないがために、便宜的に振ったに過ぎない。大人がLINEを利用しても、他と使い分けても何ら問題はない。実際、僕もLINEを頻繁に活用している。たとえばカミさんとのやりとり、仲間内での簡単な連絡なんてのは、こっちの方が気軽かつ簡単で、その利便性はFacebookよりも高い。スタンプ機能は親密性を高めるツールとしても有効だ。また、親が子どもにスマホを持たせ、連絡を取るなんて時にはLINEは強力な威力を発揮するだろう。だから、実質的にはこれらは大人だったらTPOに合わせて使い分けるというのが適切だろう。

さて、今回はSNSの利用についてはリアルワールドでのコミュニケーションが担保になっているという前提で議論を進めてきた。つまりリアルあってのヴァーチャルであると。しかし、である。メディアというのはそれぞれメディア的特性(マクルーハンの表現を用いればメディアのメッセージ性)を備えている。そして、その特性はわれわれの行動や思考様式に大きな影響を与える(ケータイやスマホを所有するようになったら、人との待ち合わせがかなりイイカゲンになったなんてのがその典型)。ということは、今後スマホが、そしてSNSが完全に定着し、ウェアラブルなメディアとなった暁には、これらが備えているメディア的特性がわれわれのコミュニケーション・スタイル、そしてライフスタイルを大きく変容させる可能性がある。それは、言い換えれば、これまでわれわれがデフォルトとして考えてきたリアルの世界の変容ということでもあるだろう。たとえば、パソコンがデスクトップというリアルな卓上をシミュレートしたインターフェイスを考案し、それが一般化したとき、立場が反転して、今度はデスクトップをシミュレートしたかたちでリアルな卓上が設計されたりするような変化だ。

こういったことを踏まえると、SNSにおけるヴァーチャルなコミュニケーションがリアルなコミュニケーションをメインテナンスしたり、活性化したりするだけではなく、今度はSNSのヴァーチャルなコミュニケーション様式がリアルワールドのコミュニケーション様式を変更する可能性もある。というか、メディアというものは、常にリアルをプッシュし、リアルがヴァーチャルを交えていくことで、新たなリアリティを構築、そしてメインテナンス(バージョンアップ?)していくものなのだ。当然、今回テーマとしてあげた「公私の峻別」の線引きも変わって行くであろうし、いや、そもそも「公ー私」という概念そのものが変容する可能性も十分に考えられる。

残念ながら、新たなリアルワールドのコミュニケーション様式がどのようになるかは、現状では過渡期で見えていない。しかし、10年後にはその新しい様式が定着し、どのようなものに変化しているのかが、おそらく明らかになっているのではなかろうか。いや、技術革新は早いので、ひょっとしたら五年後かも知れないが。

それくらい、早いスパンでのメディア様式の変容の中に、われわれは生きているのである。

SNSはリアルなコミュニケーションヴァーチャルに上げ、ヴァーチャルなコミュニケーションをリアルに下げることの繰り返しによって人と人のコミュニケーションをメインテナンス・活性化するツール。利用に際してはその前提となるリアルワールドでのコミュニケーション様式がヴァーチャルのそれにも同様に要求される。それゆえ、ユーザーはSNSメディアリテラシーとして、リアルワールドでのコミュニケーション様式である「公と私の区別」が必要となる。じゃあ、SNSを代表するFacebook、Twitter、LINEでは、この区別がどうやって機能的に分類されているのか。そして、ユーザーたちは実際にどうやって使っているのか?今回はこれらについて見ていこう!ちなみに、「公と私の区別」についてはFacebook≧Twitter>LINEという図式が成り立つ。

「公と私の区別」が最も厳密に規定されているFacebook

まず、公私の区別を細かく規定するエリアが存在するFacebookを例に取ろう。Facebookは多機能だが、最も多く利用されるのは「ニュースフィード」「グループ」そして「メッセージ」だ。

「ニュースフィード」は、いわゆる「掲示板」で、「友達」関係を結んだ相手全員に情報か公開されるエリア。そして最もパブリックなコミュニケーションが要求されるエリアだ。当然、多くの人間=「友達」に情報が公開されるので、ここではプライベートに関わるコメントは差し控えるのがルール・マナーとなる。だが、これが「グループ」となれば、閲覧可能な人間が限定され、かつ可視化されるので、プライベートならぬ「身内」的なコミュニケーションが許されることになる。さらに「メッセージ」ともなれば一対一でのコミュニケーションとなるので(Facebookの場合、「メッセージ」をグループで括ることもできるが)、ここでは完全にプライベートでクローズドなコミュニケーションが可能となる。

また、プライバシーをどれだけ公開するかは、個人の意志によってまちまちなので、これもまたプロフィールによって設定が可能となる。名前以外のほとんどをプロフィールに記載しなければ、実質的にFacebookはほぼクローズドなSNSとなる。ただし、この場合、SNSとしてはほとんど機能しなくなってしまう(極端な例としてプライバシーをほぼ公開せず、友達申請もせず、承認もせず、ひたすら写真のデータベースとして使うという利用法もある)。プロフィールを詳細に描き込めば、Facebookはそのデータを参照し、それに関連する情報や人物をユーザーに返してくる。たとえば、自分の出身高校、卒業年度を記入すれば、同じ記載をプロフィーに登録しているユーザーをこちらに「友達かも?」と示してくれる。それが実際にかつての同級生だったりすると、そこから友達申請をし、関係が結ばれる(復活する?)。もちろん、これはFacebookがプロフィールに関連する人物を割り出してくるだけではなく、自分のプロフィールも関連する人物に「友達かも?」と紹介するということでもある。だから、プロフィールを公開すればするほど、こういった人間たちと関わる可能性が高まる。だが、それは反面、リアルワールドでのコミュニケーションネットワークと同様のパブリックな関わりをより強く要求するものとなる。いいかえれば、公開すればするほど、社会性、社交性といったものが要求されるようになる。

これら機能を上手に使いこなすことができるのであるのならば、Facebookはきわめて有益なコミュニケーションツールとなる。とりわけ人間関係資本が豊富、つまり友達や仕事関係者が多い人間にとっては実に便利なツールだ。また、この三つのレベルを使い分けることで、Facebookをビジネスのコミュニケーションツールとして利用することも可能。だから、広く社会と関わることの多い大人向けのSNSということになる。

ニュースフィード、グループ、メッセージの明確な公私の使い分けが必要

問題は、この機能の使い分けがうまくできない場合、つまりFacebook上の公的空間に私的な情報を発信したり、その逆をやったりする場合だ。たとえばニュースフィードに自分の子どもの写真を貼ったりするのがその典型。これはプライベート、あるいはギリギリ仲間内だけでウケる情報。正直な話、閲覧する側は他人の息子娘にほとんど関心はないわけで、まあ迷惑な話となる。また自慢話をされても、ちょっと困る。あるいはまた、仲間内での他人の悪口なんてのがニュースフィードで展開されたら、これはエラいことになる。オフレコネタの一般公開になってしまうからだ。つまりニュースフィードでは、発信する情報の公共性を常に考慮に入れなければならない。

結局、ニュースフィード→グループ→メッセージという流れで公→私という使い分けをきちんとすることが基本となる。やっぱり、これらを閲覧することが想定されるリアルな人間との関係が、こちらが情報を流す際の担保となっている。

次回(最終回)はTwitterとLINE、そしてSNSリテラシーのゆくえについて。

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