勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:ドラマ番組

北三陸編、東京編、震災編と三部で構成された朝ドラ「あまちゃん」。9月から始まった最後の震災編で宮藤官九郎はどんなメッセージを僕たちにに伝えたかったんだろう?僕は、この第三部は、東北出身であるクドカンならでわの、被災者へのやさしい、そして強くたくましいオマージュとみた。で、例によってメディア論(厳密には今回は記号論のテクスト分析)的視点からこの第三部を分析してみたい。

Twitterの「成仏」というつぶやきが教えてくれたこと

東京編の最後、春子は鈴鹿ひろ美の影武者となったおかげでアイドルになれなかったことを荒巻太一(太巻)と鈴鹿に謝罪される。これまで、自分が人生において悔やんでいた負債を遂に負債を負わせた当人たちから返済することが出来た感動のシーンだったのだが、このシーンについてTwitterのツイートに面白いものがあった。

「ああ、春子が成仏してしまった!」

これは震災後の北三陸・袖ヶ浜のロケに小泉今日子が現れなかったことで、震災で死ぬのが春子ではないかと噂されていたことと関係している。つまり、震災前に春子は思いを果たしてしまったので、震災で犠牲になって成仏するというという思惑に基づいたものだ(実際には、春子は死んではいないし、誰も死ななかった)。

なかなかシャレたツイートだったが、この言葉、ちょっとハッ!ときた。なぜ春子は成仏=思いを遂げることができたのか?それは……娘のアキのお陰だ。アキが東京に行かなければ鈴鹿と出会うこともなかったのだから。そう、アキは朝ドラ始まって以来の「成長しないヒロイン」(第一部の北三陸編は除く。ただし一部の最後で春子はアキに「アンタは何も変わっていない」と言い放っている)。そして、自分が成長しない代わりに周りをどんどん成長させる、いや幸福にさせる、いや成仏させていく(春子は「アンタはみんなを変えた」とも言っている)主人公。さながら映画「バグダッドカフェ」の主人公ヤスミン、ミヒャエル・エンデの物語「モモ」の主人公モモのように。実際、震災編は、もっぱら登場人物を「成仏させる」方向へ舵が切られていった。しかも、自らも含めて全員を北三陸へ集合させることによって。

アキが人々の成仏のためにやったことを並べてみよう。先ず北三陸の人々。彼らに海女カフェの再開を訴え、震災の傷から立ち直ることを促した。次に鈴鹿ひろ美と太巻。鈴鹿には自分がなぜ女優をやるのか、そして歌うのかについて意味を悟らせ、太巻には鈴鹿と春子をめぐって長年抱えこむことになった罪の意識を払拭させた。大吉には安部と再婚させることによって大吉の春子に寄せる思いを断ち切らせた。夏には春子の結婚と孫アキの成功を見せて人生の大逆転を遂げさせた。水口には、 アキにつられて北三陸にやってこさせることで、 自らの「モノ・ヒトを育てる」という思いを、再び琥珀と北三陸のアイドル・潮騒のメモリーズに焦点を合わせることで叶えた。……だが、ただひとり成仏できない人物がいる。ユイだ。当然、最終回は彼女をどう成仏させるかがテーマとなった。

ユイの成仏?

北三陸鉄道リアス線畑野駅までの部分開通のこけら落としとして開催された潮騒のメモリーズ復活のお座敷列車。みんなに喜ばれ、全国的にも注目されて、ユイは十分満足する。これは畑野駅で下車したユイの台詞が物語る。

ユイ「いままででいちばんヤバかった」

つまり、ゆいは「成仏」したのだ。

しかし、会話はこれで終わらない。アキは続ける。

アキ「まだまだ、明日も、あさっても、来年も。今はここまでだけど、来年は、こっから先に行けるんだ。」

アキは畑野トンネルを見ている。

時は平成24年。25年には北三陸鉄道リアス線全線が開通し、再び三陸沿いに東京まで行くことが可能になるのだ。そして、ユイがつぶやく

ユイ「いってみようか?」
アキ「じぇじぇ?」

二人は、震災時にユイが閉じ込められた、あの畑野トンネルのなかに入っていく……そのトンネルの先に見えるのは塞がったままの線路。そう、ユイが震災の時、トンネルを出て最初に目にしたもの。だがユイがそれを見つめる目線は、あの時の後ろ向きのそれではない。未来に向かって開かれている歓喜の目だ。

「成仏」させるのではなく「未来」を切り開くこと

ここまで、「成仏」という、ちょっと震災に遭われた方には不謹慎な言葉をあえて使わせていただいたが、もうそろそろこの言葉を修正しよう。登場人物は、みな抱えていたトラウマを払拭し、元気になった。パワーアップされた。しかもそれが震災というネガティブな要因をきっかけに東北に集結することでなされた。だから、正しくは過去を癒やす「成仏」ではなく、さらにそれを乗り越えて、その先を行く「未来」という言葉に置き換えたい。ユイは周囲を元気に変えていくアキの力を借りて、震災を逆バネとして自らを乗り越え、遂に未来を見たのだ。「行ってみようか?」という言葉は、表面的にはトンネルに向かうことだが、本質はそこにあるのではない。来年開通する先にある東京を意味している。いや、より正しく言えば、それは東京でもない。ユイが描く未来=アイドルを意味している(しかも未来はユイが東京に行くことで達成されるのではない。東京がユイのところにやってくることでなされるのだ。だって、忠兵衛が言うように東京も北三陸も同じ「世界」なのだから)。そして未来は「その火を飛び越える」ことによって可能になる。ユイは「その火」を飛び越えたのだ。

ユイの未来は東北の未来

クドカンが登場人物たちを用いて震災編で描きたかったメッセージの集約が最終回のユイの、この決意にあると僕は考える。そして、ユイとは被災者たち、そして東北の人たちのことなのだ。それに対してクドカンはただ慰めの言葉をなげかけるのではなく、もっとやさしく、ナイーブで、それでいて力強いメッセージをこめたのだ。

鈴鹿が天野宅で潮騒のメモリーの歌詞の変更を考え、夏に相談するシーン。鈴鹿は「よせては返す波のように」「三途の川」の二つ歌詞に引っかかった。この時の夏の切り返しが圧巻だ。

鈴鹿「こちらのみなさんが聞いたら津波を連想するんじゃないかしら?」
夏「するね……それが、何か問題でも?……そこ変えるんなら、ここも変えねばならないな。17歳でなく47歳にしなばなんねい。……歌っても、歌わなくても、津波のことは、頭から離れませんから。どうぞ、お構いなく。」

さらに、夏は、春子がアイドルにはなれなかったが、大女優の鈴鹿がここにやって来て、また、めんこい孫にも会えて「おらの人生大逆転だ」ともつけ加えた。夏もまた火を飛び越えていたのである。

鈴鹿はリサイタルで、前者は変更せず、後者は「三代前から」と天野家をリスペクトする歌詞に置き換えた。夏のメッセージを理解し、そしてそのメッセージを自らも実践しなければならない=火を飛び越えなければならないと考えたからだ。

ここの台詞がユイの行動と見事に合致する。つまり事実は事実として認めなければならない。過去の事実はどうにもならないし、つらいものだ。しかし過去ばかり振り返っているのではなく前を向くべき。そのためには「寄せては返す波のように」をベタに津波として受け止める必要があるし、また人生というのは歌詞の通り寄せてはかえすもの「来るものは拒まず、去る者は追わず(夏)」のものと悟り、それを越えていかなければならないのだ。

ユイは遂にそのこと理解した。だから「その火=震災」を飛び越えた。そして、ユイにはこれからやらなければならないことが、たくさん、たくさん、待ち受けている。


宮藤官九郎は、ユイを通して被災者に優しく働きかける。しかも、何度も繰り返すが安っぽい慰めでなくエールを、そしてプッシュを。震災という負の遺産を逆にエネルギーとしてしたたかに利用し、これを飛び越えて欲しい。そのためには成仏することを考えるより、未来を見つめよう。そうやって東北を元気にしていくことが東北の本当の未来を創造することになるし、また震災で亡くなった方々を成仏させることになると。震災編で全員がアキを媒介に元気になって未来を向いていく、という「マルチ・ハッピーエンド」仕立てにしたのには、こういった意図があったと僕は考える。そして、こういったクドカンの被災地へのメッセンジャーとして駆り立てられたのが「成長しないヒロイン・アキ」に他ならない。アキは「あまちゃん」である。あまちゃんは「海女」という意味でもあるし、「甘い」という意味でもある。つまり何事につけてもゆるい。さらに言い換えればアマ、つまりアマチュアだ。プロではない。ということは永遠に鈴鹿ひろ美のようにプロになることはない。でも、それでよいのである。あまちゃんはアマであることによって周囲の未来を切り開くという「アマチュアのプロ」なのだから。

クドカンの、静かで、饒舌ではないが、それでいて狂おしいまでの地元東北への愛情を感じられないではいられなかった。クドカンは震災をテーマに、これを笑い飛ばしてしまうようなかたちで番組を進行させた。だが、表面は軽快なようでいて、実はそのテーマはきわめて思い。笑い飛ばしてしまうから、そう見えないだけだ。

最終回、未来を暗示させる二つのエピソードが挿入されている。一つはエンドロールに流れた北三陸観光協会のホームページ。今回の各種イベントの他に、翌年の全面開通予定の記事、勉さんの琥珀パーク?恐竜パーク?(琥珀掘り体験コース)のインフォメーションなどなど。そこには未来の「おらたち、熱いよね!」の北三陸の人々姿がすでに描かれている。

そして、もうひとつの、そして究極のエピソードが

アキの青色ミサンガはまだ切れずに残っている。そう、そのミサンガの運命は、トンネルの先に、残されているものだ。だれのために?もちろん、ユイのため、いや東北の人たちのために。

一見、ソフトな震災シーン

大人気のあまちゃん。北三陸編、東京編が終わり、今週からはいよいよ震災編?へと突入(ナレーションが宮本信子→能年玲奈→小泉今日子と変更されている)。これまで賑やかかつ陽気に繰り広げられてきたあまちゃんが、きわめて 悲惨な記憶が残る震災編をどう扱うのか。最後の一ヶ月、再び宮藤官九郎=クドカンの脚本と演出が問われることとなった。Twitterでも「見なきゃなんないのかぁ~?」みたいな「怖いもの見たさ」的なツイートがなされているけれど、いったいどうするんだろう?

しかし、番組は進行し9月2日には震災日のシーンが展開された。僕はこの映像と演出を見たとき、「やっぱりクドカンは、スゴイ!」と唸ってしまった。見た目には実に地味でソフトな展開。震災の悲惨さを直接表現する映像は畑野トンネル(架空)から出てきた大吉(杉本哲太)とユイ(橋本愛)が目撃した、線路の瓦礫の山程度しかない。ところが、15分間にわたり、見ようによってはきわめて残酷なシーンばかりが繰り返されていたといえないこともない。とりわけ、これは震災に直接遭遇した人間には傷口をこじ開けられるように記憶がビビッドに再現されたはずだ(横で一緒に見ていたカミさんは絶句していた。カミさんも岩手県人なので)。

「えっ?あのソフトな、一見、被災者に配慮したような、暴力性が一切と言っていいほどない演出のどこが残酷なのか」

そう、家が津波で流されるようなシーンはまったく出てこないのだから(そのシーンをテレビ越しにGMT5のメンバーが見ているシーンだけだ)。

今回は、ちょっと「写真文化の変容」を一回だけスキップして、緊急に、こちらにを考えてみたい。もちろん、この秀逸なクドカンの演出をメディア論的に分析することで。

ドラマはひたすら地味で、一見、どうでもいいようなバカバカしい映像が展開される。まずトンネル内で停止した北三陸鉄道の車両のシーン。ユイの「何?何?」という台詞。そして状況を把握しようとする大吉。とりあえず地震なので自分に職務を遂行させようとしている。鈴木のばっぱが持っているゆべしを他のお客に分けてみたり。 奈落のシーンも同様だ。「あ、地震だ」程度の反応。そのあとのアキは地震よりも明日のお披露目ライブの開催について心配している。そして、安部ちゃんの炊き出し。いつもならまめぶを出すところを震災だからと言って、なぜか豚汁に変更。また電話がかかりづらかったり、GMT5のメンバー小野寺薫子(優希美青)家族の安否確認の様子が映されたり。こういった一連の映像は視聴者にどんな震災イメージを与えているのだろう。

ホットとクール

この映像を分析するため、メディア論では有名な「ホットとクール」という概念を用いよう。メディア論の父・M.マクルーハンはメディアを「ホットなメディア」と「クールなメディア」に分類する。分類基準は「情報の細密度」。細密度が高いのがホットで、低いのがクール、情報に対する補填度が低いのがホットで高いのがクール。でも、これじゃあなんだかわからないので、もう少し簡単に説明してみたい。

二つのメディアの分類は情報の受け手の情報への構え方で決まる。情報に対して、こちらがなんら解釈を加えることなく、すんなりと、そしてベタに情報を受け取っているとき、その情報=メディアはホットなメディアとなる。ちなみに、こういった場合、一般的に情報は「解釈」と言うより「解読」と呼ばれる。たとえばホットなメディア=作品の典型としてあげられるのは時代劇「水戸黄門」だ。見ている側が、この時代劇に独自の解釈を加えることはほとんどない。校門様ご一行がどこかの宿場町にたどり着くと、悪い奴(悪代官等)が善人を苦しめている状況に遭遇。自らはちりめん問屋のご隠居という隠れ蓑を纏いながら、助さん格さん、風車の弥七を内偵させつつ状況を把握、さらにお銀の入浴シーンがあり、そしてチャンバラシーンの後、印籠が登場して一件落着となるのだけれど、もう本当にベタな図式しか展開しない。だから、見ている側は自分からこの作品に情報を補填するなんてことは、まずしない(だから、お年寄りに受けるのだけれど。サスペンス劇場なんかもまったく同様だ)。

一方、クールなメディアはこれと正反対。送られてくる情報量が少なく、にもかかわらずこちらが情報を知りたいというニーズがあるため、受け手の方でどんどん情報を補っていこうとするようなメディア=作品だ。映画ならばその典型はS.キューブリックの『2001年宇宙の旅』だ。最初は類人猿がギャーギャー叫んでいたかと思うと、突然、宇宙船が現れ、石版が登場し、ひたすら光がきらめくシーンが10分近くにわたって続き、最後は胎児みたいなやつ(スターチャイルド)がR.シュトラウスの交響詩「ツァラトウストラはかく語りき」に合わせて登場して終わりという展開。とにかくわけがわからない。でも、なんかスゴそうだ。だから、見ている側としては「これは大きな意味があるに違いない」とイマジネーションを働かせ、それぞれが様々な解釈=想像=妄想を繰り広げていく。だから「情報の細密度」が低く、こちら側が「情報を補填する」となる。

あまちゃんの震災シーンはクール

あまちゃん133話での震災表現は徹底的にクールだ。言い換えれば僕らの震災に対するホットな感覚を徹底的に封印する。仮に一般のドラマが震災のシーンを再現したらどうなるかを想像してみて欲しい。おそらくテレビで流れた津波で家が流される映像(陸前高田、大船渡、釜石など)が使われるだろう。そして、地震が来たら登場人物が慌てふためいて「地震だ!」と叫び、「津波だ!」と叫ぶなんてシーンが展開される可能性が高い。ところがこれは、よくよく考えてみれば僕らがメディア越しに作り上げた震災のイメージの再現に他ならない。同様なものに、たとえば映画のアクションバトルシーンがある。相手を殴れば「バシッ!」という派手な音がして殴られた側が吹っ飛ぶ。しかし実際のバトルではこんなことはありえない「バシッ!」ではなく、「ゴン」と鈍い音がするだけだし、殴られた方は吹っ飛ばず、そのままゆっくり下にかがむみたいな具合にしかならない。言い換えれば、僕らはバトルシーンではメディア的に作られた架空のバトルという型=ホットなコードを共有し、それを消費していることになる(こういったホットな情報を満載させてバイオレンスシーンを演出するのに長けているのがQ.タランティーノだ)。で、さっきあげた架空の地震のシーンもこのメディア的な地震というホットなコードに基づいているものだ。そういったシーンが流されることで、ある意味、僕らは安心して震災のシーンを視聴することが出来る。無意識のうちに「お約束」を察知し、これが「娯楽である」と認知するのだ。

ところが、クドカンがあまちゃん133話でやったことは、このコードから逸脱する演出だった。演出がひたすら日常、つまり震災を経験した当事者たちが実際にどのように行動したのかに基づいてなされていたからだ。そして、その様々なバリエーションを登場人物を使って見せたのが133話だった。だから、とってもちぐはぐなシーンばかりが展開される。しかし、実際、震災を経験した僕らも、あのときは状況が把握できずちぐはぐな行動をとっていたはずだ。

僕らは日常の中に暮らしている。そして、その日常があたりまえのように進行している際には、その日常を意識することはない。ところがその日常=あたりまえが崩されたとき、われわれの中に日常が顕在化する。日常では理解できない状況が発生し、不安に陥る。ただし、ある意味「不安に陥っていることさえわからない」という不安定な状態。そんなとき、人間はその理解できない状況に対して日常的な行為を反復すること、つまり非日常に日常を覆い被せることによって対処しようとする。つまり情報密度が低すぎて状況把握が不可能なので、自らの日常的知識を活性化=顕在化させてこれを補填させ、環境と自分の関係化の複雑性を縮減し、安定化した状態に戻そうとする。133話で登場人物たちが演じたものはすべてこれだった。このときの「思い巡らせ」がクールなのである。

大吉の日常確保戦略

例えば大吉。大吉は震災の状況が読めず、自らが持っている日常のコードにこの非日常をあてはめようともがく。それが「落ち着け大吉。こういった時はお客さんを心配させてはダメだ」と、職務という日常への回帰を自らに働かせるのだ。ただし、やっていることはわけがわからない。鈴木のばっぱがゆべしを持っているので「食料もあります」と客にアナウンスしマヌケな職務遂行になってしまう。また、自らトンネルを出て行こうとするとき、やはりこの非日常を日常に戻すべく自らに働きかける。それが大吉をして「ゴーストバスターズ」を歌わせることになる。そう震災という非日常を必死に日常というコードに引き戻そうと情報補填=クールしているのだ。

安部とGMT5メンバーの日常回復をめぐっての駆け引き

奈落のシーンも興味深い。狂言回しは安部(片桐はいり)だ。彼女の炊き出しは、本来ならまめぶのはず。ところが、この日に限っては豚汁だ。これは、要するに「震災ならば豚汁」というホットな図式にあてはめ非日常を日常にひきずりこもうとする無意識だ(この時「震災ならば豚汁」はメディア的に媒介された「日常として描かれた非日常」と位置づけられる)。ところが、GMT5のリーダー・入間しおり(松岡茉優)が「なぜ豚汁なの。安部ちゃんならまめぶなのに」と突っ込みが入り、これに喜屋武エレン(蔵下穂波)がたたみかける。GMT5のメンバーにとって安部ちゃんとまめぶはセット=日常であり、安部が気を利かして、つまり「非日常の中の日常」として提示した豚汁よりも「日常の中の非日常」が日常化しているまめぶの方がかえって日常なのだ。だからGMT5のメンバーは豚汁が出されたことにかえって不安を覚えた。いいかえれば非日常の状況において日常に引き戻す作業=ホットに戻そうとクールになる作業が安部とGMT5のメンバーでは逆のベクトルを向いていたのである。結局は互いが違った解釈を持っていることを笑って、メタ的なレベルでの日常を取り戻すことになるのだけれど、そもそもこういった混乱が生じていること事態が、登場人物全員が日常を失い、クールになって非日常を日常に引き戻そうとしていることを表している。

視聴者の震災経験を再現

そして、こういった一連の非日常を日常に戻そうとクールになっている登場人物の描写は、一瞬コケティッシュに見えて、その実、視聴者に生々しい記憶を再現させる。つまり、あのとき、あなたの精神状態はどうだったのか?という「問いかけ」だ。ひたすら自らを日常に引き戻そうとしてはいなかっただろうか?そして、そういった精神の混乱をまざまざと再現する演出がこの133話だ。つまり僕らはこの映像の中からメディア的に使い古されたホットな震災を見るのではなく、描かれた「日常の中の非日常」を見ることによって、かえって自分があの時どうしていたのか、どういう精神状態になったのかについて想いをめぐらさせられることになる。そう、今度は視聴者の方がクールになって情報を補填し始める。小野寺家族のネットでの安否確認、電話は繋がらずメールが繋がったという状況は、そういったあの時の精神状態に視聴者を引き戻す小ネタだ。ようするに、この演出は、「作品」とこれを見ている「視聴者」が共同作業であの日、あの時のことを再現するような(しかも視聴者それぞれがそれぞれの経験に基づいて)仕組みになっているのだ。

それを象徴するシーンが冒頭の北三陸観光課のジオラマが崩壊しているシーンに他ならない。ジオラマの上に落ちてきているのは窓ガラスの破片。言うまでもなくこれは津波のメタファー。直接の映像ではなく、ジオラマとガラスで表現された津波。これこそ133話が僕らに突きつける311の「震災経験についてのメタファー」なのだ。

何気ない芝居の中から、悲惨な記憶を視聴者それぞれの経験に基づいて再現させるクドカンの演出。きわめて生々しく、残酷で、恐ろしい!そして、すばらしい!

もう一つの時代=パラレル・ワールドを追体験する

テーマパーク消費としての「あまちゃん」を時間軸のテーマ性=物語の側面から考えている。

現実の80年代アイドルシーンから小泉今日子と薬師丸ひろ子を抜いてしまい、その欠けた部分に別のキャラクターを置き、それを当の二人に演じさせるという「ハイパーリアルなヴァーチャル80年代アイドルシーン=物語」を設定した「あまちゃん」。40代以上の視聴者は、このリアルとヴァーチャルからなるパラレル・ワールドに強烈な物語性、そしてその物語の進行についての欲望を喚起されることになる。

それは、もしもあの時代に小泉今日子がいなくて小泉今日子が小泉今日子をやったらという、ほとんど情報量ゼロ=トートロジーみたいなシミュレーションだ。つまりアイドル=小泉今日子がもし、あの時代に存在しなくて、それを小泉今日子演じる天野春子がキョンキョンに代わって、その場所を目指していたらどうなるのか。同様に、もし薬師丸ひろ子があの時代に存在しなくて、薬師丸ひろ子演じる鈴鹿ひろ美が薬師丸ひろ子に代わって、やはりその場所を目指したらどうなるのかといったシミュレーション=「もしも」だ。もちろん、番組上では結果は判明している。前者はアイドルになれず、後者は大女優になっていくわけで、実際の小泉と薬師丸とは異なる結末なのだが、そんなことは視聴者にとってはどうでもいいこと。むしろ、この二人がもう一度80年代を同じシチュエーション、別の結末で演じてみせるという「虚実ない交ぜ」が、このヴァーチャルな物語に強烈なリアリティをもたらすのだ。40~50代の視聴者は80年代のリアルなアイドル史を熟知し、そこからの差異でドラマの中のシミュレーションとしての80年代を見ていく。つまり、物語は現実のリアルな物語を二重、三重の「いわれ」としつつ追体験的(ただし全くのヴァーチャルなものとして)展開されるので、強烈なリアリティが視聴者に生まれるのである。

こういったリアルとヴァーチャルを重ね合わせ、二つの物語を同時に消費させる演出は実に巧みで、その典型が前回指摘したタレントスカウト番組で春子が歌うシーンに他ならない。80年代の春子(有村架純)が口パクで歌い、吹き替えを春子(小泉今日子)がすることで、春子は姿がヴァーチャルな小泉で、声が本当の小泉となり、パラレルワールドはひとつになる。ただし、その声はあくまで春子、つまりスナック梨明日でカウンターを任されている女性の声であり、小泉がやっていても小泉ではないという設定になってしまう。だが、そうであるからこそ40代以上の視聴者は有村の向こうに30年前に実在したかもしれない「もう一人の小泉」というファンタジックなノスタルジーを垣間見るのだ。

圧倒的な情報圧でめまいを感じさせる

再びテーマパークのディズニーランドに話は戻る。ディズニーランドは空間的なテーマ性が幾重にも絡み合い、さらにこの空間に幾重にも時間的なテーマ性=物語がそれぞれ「いわれ」を持ちながら絡み合い、結果として重層的なテーマ空間を構築している。

だが、こうなると空間は「いわれ」だらけになる。そして、もはやそれぞれの「いわれ」、つまり「空間のいわれ」「空間関係のいわれ」「物語のいわれ」「物語関係のいわれ」は錯綜し、複雑怪奇で、一般には解読不可能な状態になってしまっている……だが、わからなくてもそれでよいのだ。というのも、こうやってテーマ性に基づいた個々の情報が集積されることによって構築されたテーマ=世界観を、ゲストたちは微分的にではなく積分的に消費するからだ。つまり感覚的に丸ごと認識=体感するのだ。そして、その膨大な情報は一種の精神的な揺籃となる。あまりに膨大なため、ゲストたちは理解するよりも、その情報の海に「めまい」とともに身を投げ、完全に従属的な主体となってしまうのだ。しかし、そのめまいは自らホリスティックな感覚に包み込まれる「快適なめまい」に他ならない。

「あまちゃん」は年寄りにはウケない!

宮藤官九郎による「あまちゃん」の脚本も全く同様だ。幾重にも折り重なるテーマの中に視聴者は身を投げる。そして「あまちゃん」ワールドに「めまい」を感じる。そして、これこそがテーマパーク消費の正体なのだ。この濃密な重層性は、かつての朝ドラには決して存在しなかったものだ。現在BSでは朝七時半から「あまちゃん」が始まる前、7時15分に2006年の朝ドラ「純情きらり」が再放送されているが、二つを同時に見ると、後者がいかに情報量的にスカスカなのかがよくわかる。「純情きらり」は安っぽい、テレビ的な昭和のシーンからなるヴァーチャルなヴァーチャル。ウソっぽさに満ちているのでリアリティがない。一方、「あまちゃん」はその膨大な情報量からなる情報圧ゆえ、ヴァーチャルがリアルにまで昇華されている。「純情きらり」は情報の「いわれ」が薄いためセットがセットに見えるが、「あまちゃん」はセットが本物に見える錯覚にすら陥ってしまうのだ。

ただし、このめまい。実は世代によってその感じ方が異なっている。30代以下は、こういった膨大な情報に身を投げるデータベース消費(東浩紀)には慣れっこだ。だから、クドカンがまき散らす情報のいわれなどわからなくても、情報の膨大さに快適さを感じることができる。つまり、この世代は「物語」ではなく「情報それ自体」を消費する。だからストーリーへの関心は薄く、どちらかと言えば番組の中でしばしば展開される小ネタに驚喜する(あまちゃんが「影武者」を「落ち武者」、「一蓮托生」を「いちれんたくおう」と間違えるといった演出がその典型)。一方、40~50代は自らの若い頃の記憶に基づいた空間軸=設定と時間軸=物語からなる番組の膨大な情報の洪水に全面降伏する。そう、こうすることでクドカンの脚本は50代以下のハートを掴むことに成功しているわけだ。ただし、60代以上にはその訴求力は低い。この世代にはデータベース消費的な心性などないし、80年代アイドルシーンを追体験することもできないからだ。彼らが共感するのはベタな朝ドラの図式(たとえば上にあげた「純情きらり」に見る、無垢で清楚なヒロインが努力で栄光をめざすような展開。間違っても、天野秋のように口から牛乳を吐き出したり、半目で眠るような品のないことをしたりはしない)。だから高齢者層にとって、「あまちゃん」は近年希に見るつまらない朝ドラなのではなかろうか。

新しい作品スタイルの創造

宮藤官九郎が今回の朝ドラで提示している番組の手法は、これまでのドラマ手法の一歩先を行くものだろう。「あまちゃん」同様、膨大な情報を提示し、それを処理させることで視聴率や観客を獲得する手法は、すでに90年代末から一般化している。典型は97年に制作された「踊る大捜査線」だった。ドラマの中に様々な小物が登場し、それにちょっとした「いわれ」をつけて視聴者に情報消費=データベース消費を促し、視聴率を稼ぐことに成功している。キムチラーメン、レインボー最中、カエル宅急便、青島ジャンパー、といった「踊る」独自のアイテム=小物が登場し、これが登場することで視聴者たちは熱狂した。またその後、映画「スター・ウォーズ」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「20世紀少年」なども、同様の手法で小ネタを満載して空間を敷き詰め、観客を獲得することに成功している。

ただし、これらには物語についての重層性は欠けていた。そして、映像=作品を見る際には寝る暇もなく、たくさんの情報=データを処理する「情報消費」に忙殺され、それがさながら映画を見ている感覚にさせた。だから、見終わった後、ひたすら忙しかったことだけが残る半面、作品に対する印象は逆に薄いものとなった。

ところが「あまちゃん」は違う。これに物語という時間軸でのテーマ性を重層的に配置し、ストーリーをも消費させる画期的な手法=テーマパーク消費を作り上げたのだ(ちなみに、これは日本におけるテーマパークの元祖である東京ディズニーランドに現在決定的に欠けている点だ。現在のTDLは、その物語性を欠いている、いや崩壊させている)。おそらくこの手法、いずれ多くの脚本家が踏襲することとなるのではなかろうか。

宮藤官九郎という男。おそるべしである。

NHK朝の連続テレビドラマ小説「あまちゃん」の魅力はテーマパーク消費、つまり空間的設定=ジャンルの統一、時間的設定=物語性という二重のテーマ性をハイパーリアルに楽しんでしまうところにある。前回は空間的設定について触れた。今回は時間的設定、つまり物語の側面について考えてみたい。

時間軸=物語としてもテーマ性が貫かれている。中でも徹底して行われているのが、番組の中に登場する「80年代アイドルシーン」の物語だ。

「80年代テーマパーク」的要素がいっぱい

とはいうものの時間軸からではなく、まず空間的なテーマ性を確認しておこう。番組の中では頻繁に春子(小泉今日子)がアイドルを目指した80年代半ばのシーンが登場する。上京した若き春子(有村架純)がバイトするのはベタに80年代的な喫茶店であるし(コーヒーを淹れるマシンは当時の主流の一つだったサイフォンだ)、応募したタレントスカウト番組番組「君でもスターだよ!」は「君こそスターだ!」という70年代に放送された番組を雛形にしたものだ(番組の中で展開される80年代アイドルシーンは、そのままというよりも70年代後半から80年代前半全般が舞台となっている。たとえば「君こそスターだ!」は80年に番組を終了しているが、ドラマの中では84年だ)。

そして、ここにアイドルを目指す架構の若者・春子が挿入される。彼女は当時絶対アイドルであった松田聖子を真似て、髪型をいわゆる「聖子ちゃんカット」にしている。そして「君でもスターだよ!」に出演、見事グランプリを獲得するのだが、時代はおニャン子クラブのような素人アイドルが受ける時代に移行してしまい、プロらしさを目指す春子は時代遅れで、その夢が絶たれてしまう。

80年代アイドルシーンというテーマ=物語設定に欠けている二つ

そして、この春子と80年代の絡みが実に「いわれ」に満ちたハイパーリアリティを形成しているのだ。注意深く見てみると、この番組が描く80年代アイドルシーンの中にはホンモノのそれとは決定的に異なるものがある。それは当時のアイドルが、ドラマが指摘していたような、おニャン子クラブに代表される「素人主導の時代」一辺倒というわけでは必ずしもなかったことだ。79年に松田聖子がデビューし山口百恵の後継(ただし「時代と寝た女」から「時代に添い寝した女」とその位置づけは変わる)が決定した後、松田聖子の二番煎じ的なアイドルもまた登場している。実際、これらタレントの多くが聖子ちゃんカットだった(完全にパクリの「聖子ちゃんズ」という三人組ユニットまであった)。また、映画からも女性アイドルが登場してもいる。この「後続世代」、そして「銀幕アイドル」の存在がドラマの80年代アイドルシーンから全て外されているのだ。なぜか。

理由は簡単だ。前者の代表が小泉今日子であり(中森明菜も含まれる。二人ともデビュー当初は聖子ちゃんカットだった)、後者の代表が薬師丸ひろ子だからだ(薬師丸は角川春樹事務所が生んだ銀幕アイドル。この後に原田知世、渡辺典子が続いた)。この二人もまた、松田聖子と並んで80年代(薬師丸は70年代後半から)を代表するアイドルであったのは周知のこと。そして、なんとこの二人が朝ドラ「あまちゃん」を彩るきわめて重要なキャラクターを演じている。しかも、番組の中では本当の80年代アイドルシーンからは欠けている二つの要素を別の形で番組の中で再現しているのだ。つまり当の本人二人が、ヴァーチャル80年代でのもう一人の自分を演じているのである。

「潮騒のメモリー」は80年代アイドルシーンのすし詰め

その究極は春子が歌うシーン。春子はスナック梨明日で仲間たちに促されて80年代のアイドル映画のテーマソング「潮騒のメモリー」を歌うのだが、この曲はどうみても松本隆+筒美京平による一連の松田聖子ソングをごった煮にしたものだ。この曲から松田の「スイートメモリーズ」「小麦色のマーメイド」「赤いスイートピー」といった曲を思い浮かべるのは40代以上なら容易だろう(タイトルにはメモリーがあり、歌詞の中にもマーメイドが登場し、サビの部分は赤いスイートピーのサビの”I will follow you”以下の部分を彷彿とさせるメロディーだ)。そして、この映画は山口百恵が出演した映画「潮騒」が雛形になっているし、また、そのストーリーが荒唐無稽である(内容は明らかにされていないので、本当のところどういったものかわからないが、そのような解説が施されていた)ことから、これは70年代後半~80年代、その荒唐無稽さで一世を風靡した大映テレビ室による一連の「赤いシリーズ」ドラマを彷彿とされる(赤いシリーズの主役山口百恵であり、80年代、その続編的なドラマ「少女に何が起こったか」の主役は小泉今日子だった)。この映画に出演し女優の地位を獲得したのが薬師丸ひろ子演ずる鈴鹿ひろ美だ(名前の部分の前半があえて「ひろ」とひらがなで併記し相同性を示している)。そしてドラマの中では、現在、鈴鹿ひろ美は大女優だが、薬師丸ひろ子も大女優なのである。ちなみに「潮騒のメモリー」をオリジナルで歌っているのは鈴鹿ひろ美ということになっているが、この曲は薬師丸の大ヒットを放った一連の曲のイメージ(「セーラー服と機関銃」「メインテーマ」など)もまた踏襲している。つまり小泉が歌っても、薬師丸が歌っても80年代が彷彿とされる作りになっているのだ。なんという、「いわれ」そしてリアルを踏まえたヴァーチャルの創造であることか!スゴイ!

春子が歌うシーンにはもう一つ「いわれ」が付加されている。春子が前述のオーディション番組「君でもスターだよ!」に出演して歌ったシーン。ここで歌われた曲が松田聖子の「風立ちぬ」。で、若い頃の春子役(有村)の歌うシーンをよく見ると口パクなのだが、その吹き替えをやっているのが他ならなぬ小泉今日子なのである。前述したようにデビュー当時、小泉今日子の髪型は聖子ちゃんカットだったのだけれど、ここもまた、しっかり踏襲されている。有村演じる若き日の春子は現在、ドラマの中で小泉が演じる春子の若き日であるとともに、小泉がひょっとしたら若い頃になっていたかもしれないもう一人の小泉でもあるのだ。(続く)




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松嶋は見ていない

『家政婦のミタ』(以下『ミタ』)のポスターのメッセージを『家政婦は見た!』(以下『見た!』)のポスターとの比較から分析している。前回は比較対象として『見た!』のポスターを分析した。このポスターは市原が暗闇から居間の事件を覗いていること、そしてわれわれもまた市原の視線を通して事件を目撃していることを示しておいた。一方『ミタ』の視線=ベクトルは『見た!』とは正反対。視線はむしろポスターに向けられている。このポスターで松嶋はほとんど何も見ていない、あるいは恐る恐る見ているというかたちになる。

松嶋は見られている

先ず松嶋の背景は白。そして背後にはスタンド・ライトがある。ライトは当然ながら光源。視線が向かう方向にある。そしてこのスタンドは結果として松嶋自身を照らしている。

次に扉。『見た!』の市原同様、左半身が隠れているが、松島の前にあるのははめ殺しの扉(壁)ではなく磨りガラスの入った扉。それゆえ、隠れているはずの松嶋の左半身が見えている。さらにバストアップではなく、全身が映っている。 

これらは、要するに松嶋が見られていることを意味している。つまりライトは松嶋をクローズアップする光源だ。そして白を強調する(衣類も白系)で、われわれの焦点は松島に向かう。さらに扉は松嶋が見られないように左半身を隠そうとしてもガラス越しゆえ全てが映ってしまう。

これに加えて、やはり『見た!』の市原と同様、二つの要素、つまり松嶋の視線とタイトルが加わる。松嶋の目線は、リビングルームの人間(あるいは事件)を伺うようなそれではない。焦点が定まっていないため、むしろリビングから目撃されている。いや、自らの存在を無視して欲しいかのような表情でもある。そしてタイトルだ。先ずその位置。「家政婦のミタ」というタイトルが扉の前にある。『家政婦は見た!』の時には向かって左(市原から見て右)の暗闇の中にタイトルがあり、市原はタイトルと同じ集合の中に(記号論では「範型」というのだけれど)、つまり暗闇の中に置かれているので、これが市原の演技のキャプションになっていることを前回は指摘しておいた。しかし、今回の場合は扉の側にあることで松嶋とタイトルは別の集合=範型に置かれていることになる。当然ながらタイトルは扉のこちら側の集合に属しているわけで、そちらに属するのは言うまでもなく松嶋=ミタを雇った阿須田家、そして視聴者であるわれわれだ。そしてこのタイトルは右に傾いている。この方向きは、要するに阿須田家とわれわれが首を傾けながら(というか傾けてまでして)、松嶋=ミタを覗こうとしているのだ。つまり『見た!』がポスターの中からこちら側を覗いているのに対して『ミタ』はこちら側からポスターの中にある松嶋を覗こうとしているのだ。ベクトルが正反対という意味は、このことを指している。

家政婦のミタを見た!のは……

結局、視聴者であるわれわれの関心はとどのつまり松嶋が見た事件や出来事にあるのではなく、松嶋=ミタの行動やその内面にある。実際、『ミタ』では無表情に演技する松嶋=ミタの過去や正体を暴くべく、家族たちが様々なアプローチを繰り広げるのがストーリーの基本だったのだ。また、こういった「見られるキャラクター」でなければならないがゆえに、”国民的女優””大和撫子”などと称され、とにかく先ず演ずる役柄よりも本人に感心が向かう美人女優の松嶋菜々子が選ばれたのだ(言い換えれば『見た!』で市原悦子が選ればれるのは、個性派、そして演技派女優だからだ。われわれは市原と言うよりも、市原が演じる演技に注目している)。

タイトルはほとんど同じであるにもかかわらず、二つはドラマとしては全く異なった視点、正反対のベクトルを持っている。そして『ミタ』のポスターは『見た!』のポスターを下敷きにしながら、見事に、そのドラマの性質を描いて見せているのである。そう、『家政婦のミタ』では、「われわれ視聴者が家政婦のミタを見た!」のだ。

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