北三陸編、東京編、震災編と三部で構成された朝ドラ「あまちゃん」。9月から始まった最後の震災編で宮藤官九郎はどんなメッセージを僕たちにに伝えたかったんだろう?僕は、この第三部は、東北出身であるクドカンならでわの、被災者へのやさしい、そして強くたくましいオマージュとみた。で、例によってメディア論(厳密には今回は記号論のテクスト分析)的視点からこの第三部を分析してみたい。
Twitterの「成仏」というつぶやきが教えてくれたこと
東京編の最後、春子は鈴鹿ひろ美の影武者となったおかげでアイドルになれなかったことを荒巻太一(太巻)と鈴鹿に謝罪される。これまで、自分が人生において悔やんでいた負債を遂に負債を負わせた当人たちから返済することが出来た感動のシーンだったのだが、このシーンについてTwitterのツイートに面白いものがあった。
「ああ、春子が成仏してしまった!」
これは震災後の北三陸・袖ヶ浜のロケに小泉今日子が現れなかったことで、震災で死ぬのが春子ではないかと噂されていたことと関係している。つまり、震災前に春子は思いを果たしてしまったので、震災で犠牲になって成仏するというという思惑に基づいたものだ(実際には、春子は死んではいないし、誰も死ななかった)。
なかなかシャレたツイートだったが、この言葉、ちょっとハッ!ときた。なぜ春子は成仏=思いを遂げることができたのか?それは……娘のアキのお陰だ。アキが東京に行かなければ鈴鹿と出会うこともなかったのだから。そう、アキは朝ドラ始まって以来の「成長しないヒロイン」(第一部の北三陸編は除く。ただし一部の最後で春子はアキに「アンタは何も変わっていない」と言い放っている)。そして、自分が成長しない代わりに周りをどんどん成長させる、いや幸福にさせる、いや成仏させていく(春子は「アンタはみんなを変えた」とも言っている)主人公。さながら映画「バグダッドカフェ」の主人公ヤスミン、ミヒャエル・エンデの物語「モモ」の主人公モモのように。実際、震災編は、もっぱら登場人物を「成仏させる」方向へ舵が切られていった。しかも、自らも含めて全員を北三陸へ集合させることによって。
アキが人々の成仏のためにやったことを並べてみよう。先ず北三陸の人々。彼らに海女カフェの再開を訴え、震災の傷から立ち直ることを促した。次に鈴鹿ひろ美と太巻。鈴鹿には自分がなぜ女優をやるのか、そして歌うのかについて意味を悟らせ、太巻には鈴鹿と春子をめぐって長年抱えこむことになった罪の意識を払拭させた。大吉には安部と再婚させることによって大吉の春子に寄せる思いを断ち切らせた。夏には春子の結婚と孫アキの成功を見せて人生の大逆転を遂げさせた。水口には、 アキにつられて北三陸にやってこさせることで、 自らの「モノ・ヒトを育てる」という思いを、再び琥珀と北三陸のアイドル・潮騒のメモリーズに焦点を合わせることで叶えた。……だが、ただひとり成仏できない人物がいる。ユイだ。当然、最終回は彼女をどう成仏させるかがテーマとなった。
ユイの成仏?
北三陸鉄道リアス線畑野駅までの部分開通のこけら落としとして開催された潮騒のメモリーズ復活のお座敷列車。みんなに喜ばれ、全国的にも注目されて、ユイは十分満足する。これは畑野駅で下車したユイの台詞が物語る。
ユイ「いままででいちばんヤバかった」
つまり、ゆいは「成仏」したのだ。
しかし、会話はこれで終わらない。アキは続ける。
アキ「まだまだ、明日も、あさっても、来年も。今はここまでだけど、来年は、こっから先に行けるんだ。」
アキは畑野トンネルを見ている。
時は平成24年。25年には北三陸鉄道リアス線全線が開通し、再び三陸沿いに東京まで行くことが可能になるのだ。そして、ユイがつぶやく
ユイ「いってみようか?」
アキ「じぇじぇ?」
二人は、震災時にユイが閉じ込められた、あの畑野トンネルのなかに入っていく……そのトンネルの先に見えるのは塞がったままの線路。そう、ユイが震災の時、トンネルを出て最初に目にしたもの。だがユイがそれを見つめる目線は、あの時の後ろ向きのそれではない。未来に向かって開かれている歓喜の目だ。
「成仏」させるのではなく「未来」を切り開くこと
ここまで、「成仏」という、ちょっと震災に遭われた方には不謹慎な言葉をあえて使わせていただいたが、もうそろそろこの言葉を修正しよう。登場人物は、みな抱えていたトラウマを払拭し、元気になった。パワーアップされた。しかもそれが震災というネガティブな要因をきっかけに東北に集結することでなされた。だから、正しくは過去を癒やす「成仏」ではなく、さらにそれを乗り越えて、その先を行く「未来」という言葉に置き換えたい。ユイは周囲を元気に変えていくアキの力を借りて、震災を逆バネとして自らを乗り越え、遂に未来を見たのだ。「行ってみようか?」という言葉は、表面的にはトンネルに向かうことだが、本質はそこにあるのではない。来年開通する先にある東京を意味している。いや、より正しく言えば、それは東京でもない。ユイが描く未来=アイドルを意味している(しかも未来はユイが東京に行くことで達成されるのではない。東京がユイのところにやってくることでなされるのだ。だって、忠兵衛が言うように東京も北三陸も同じ「世界」なのだから)。そして未来は「その火を飛び越える」ことによって可能になる。ユイは「その火」を飛び越えたのだ。
ユイの未来は東北の未来
クドカンが登場人物たちを用いて震災編で描きたかったメッセージの集約が最終回のユイの、この決意にあると僕は考える。そして、ユイとは被災者たち、そして東北の人たちのことなのだ。それに対してクドカンはただ慰めの言葉をなげかけるのではなく、もっとやさしく、ナイーブで、それでいて力強いメッセージをこめたのだ。
鈴鹿が天野宅で潮騒のメモリーの歌詞の変更を考え、夏に相談するシーン。鈴鹿は「よせては返す波のように」「三途の川」の二つ歌詞に引っかかった。この時の夏の切り返しが圧巻だ。
鈴鹿「こちらのみなさんが聞いたら津波を連想するんじゃないかしら?」
夏「するね……それが、何か問題でも?……そこ変えるんなら、ここも変えねばならないな。17歳でなく47歳にしなばなんねい。……歌っても、歌わなくても、津波のことは、頭から離れませんから。どうぞ、お構いなく。」
さらに、夏は、春子がアイドルにはなれなかったが、大女優の鈴鹿がここにやって来て、また、めんこい孫にも会えて「おらの人生大逆転だ」ともつけ加えた。夏もまた火を飛び越えていたのである。
鈴鹿はリサイタルで、前者は変更せず、後者は「三代前から」と天野家をリスペクトする歌詞に置き換えた。夏のメッセージを理解し、そしてそのメッセージを自らも実践しなければならない=火を飛び越えなければならないと考えたからだ。
ここの台詞がユイの行動と見事に合致する。つまり事実は事実として認めなければならない。過去の事実はどうにもならないし、つらいものだ。しかし過去ばかり振り返っているのではなく前を向くべき。そのためには「寄せては返す波のように」をベタに津波として受け止める必要があるし、また人生というのは歌詞の通り寄せてはかえすもの「来るものは拒まず、去る者は追わず(夏)」のものと悟り、それを越えていかなければならないのだ。
ユイは遂にそのこと理解した。だから「その火=震災」を飛び越えた。そして、ユイにはこれからやらなければならないことが、たくさん、たくさん、待ち受けている。
宮藤官九郎は、ユイを通して被災者に優しく働きかける。しかも、何度も繰り返すが安っぽい慰めでなくエールを、そしてプッシュを。震災という負の遺産を逆にエネルギーとしてしたたかに利用し、これを飛び越えて欲しい。そのためには成仏することを考えるより、未来を見つめよう。そうやって東北を元気にしていくことが東北の本当の未来を創造することになるし、また震災で亡くなった方々を成仏させることになると。震災編で全員がアキを媒介に元気になって未来を向いていく、という「マルチ・ハッピーエンド」仕立てにしたのには、こういった意図があったと僕は考える。そして、こういったクドカンの被災地へのメッセンジャーとして駆り立てられたのが「成長しないヒロイン・アキ」に他ならない。アキは「あまちゃん」である。あまちゃんは「海女」という意味でもあるし、「甘い」という意味でもある。つまり何事につけてもゆるい。さらに言い換えればアマ、つまりアマチュアだ。プロではない。ということは永遠に鈴鹿ひろ美のようにプロになることはない。でも、それでよいのである。あまちゃんはアマであることによって周囲の未来を切り開くという「アマチュアのプロ」なのだから。
クドカンの、静かで、饒舌ではないが、それでいて狂おしいまでの地元東北への愛情を感じられないではいられなかった。クドカンは震災をテーマに、これを笑い飛ばしてしまうようなかたちで番組を進行させた。だが、表面は軽快なようでいて、実はそのテーマはきわめて思い。笑い飛ばしてしまうから、そう見えないだけだ。
最終回、未来を暗示させる二つのエピソードが挿入されている。一つはエンドロールに流れた北三陸観光協会のホームページ。今回の各種イベントの他に、翌年の全面開通予定の記事、勉さんの琥珀パーク?恐竜パーク?(琥珀掘り体験コース)のインフォメーションなどなど。そこには未来の「おらたち、熱いよね!」の北三陸の人々姿がすでに描かれている。
そして、もうひとつの、そして究極のエピソードが
アキの青色ミサンガはまだ切れずに残っている。そう、そのミサンガの運命は、トンネルの先に、残されているものだ。だれのために?もちろん、ユイのため、いや東北の人たちのために。