先日、「情報化社会がもたらした全部盛りという病」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64785403.htmlというタイトルでブログを掲載し、「全部盛り」、つまりなんでもかんでも片っ端から盛ると、テーマとアイデンティティを失い、わけがわからなくなることを指摘しておいた。そして、この現象が情報化社会の情報過多とそれによる意味の希薄化による必然的な帰結であり、その結果、若者の文章能力の崩壊と、メイド・イン・ジャパンの製品のヘタレ状況を生んだと結論づけた。
スマホだって全部盛りじゃん!
さて、このブログに面白いコメントが返ってきた。僕は、全部盛りをやった挙げ句、ダメになった典型的な製品として日本製ケータイ(以下、ガラケー)をあげたのだけれど、これにツッコミが入ったのだ。
それは
「スマホはガラケー以上に全部盛りなのに、普及しているじゃないか!」
というもの。
この指摘に僕は、
「残念でした。スマホは全部盛りではありません。だから普及したんです」
と返そうと思う。
確かにメイド・イン・ジャパンのガラケーは全部盛りになってイメージが分散し、わけがわからなくなってお客が去って行った。だが、これに入れ替わったスマホも、見た目は確かに全部盛りに見える。しかし、この二つ。実は、たとえ機能の数が同じであったとしても、つまり同じように盛ってあったとしても質的には全然違うものといっていい。というのも、全部盛りに見えるかどうかはユーザーの認識によって決定されるからだ。
はじめから全部盛りか?結果としての全部盛りか?
二つの違いは明瞭だ。
ガラケーの方は始めから全部盛りなのだ。だから、どこからとっかかればいいのかわからない。また、はじめからメチャクチャ機能がついているので、そのことを想像しただけで腰が引けてしまう。「えーっ!こんなにおぼえなくちゃなんないのか」というわけだ。かつ、これが何物なのかについてのイメージもまた、分散させてしまう。
スマホ購入時のイメージは案外、明瞭だ。インターネット・ブラウザ、メーラー(最近はSNS)、ミュージック・プレイヤー、そしてカメラの四つだけ。もちろん、天気予報、電卓、懐中電灯、スケジューラーといった機能も標準装備だが、これらはあくまでアクセリー扱い。つまり、機能の優劣に明確な線引きがなされている。だから、さしあたり前述の四つだけを念頭に置けばいい。インターフェイスもわかりやすい。ディスプレイ上に同じ大きさで表示されたアイコンにタッチするだけだ。一方、ガラケーのほうはそうではない。必要とする機能にたどり着くために、何回もキーを操作するなんてことをやらされる。これまた煩雑だ。
もちろんスマホはアプリをダウンロードすればケータイなど及びもつかぬほどの多機能の「究極全部盛りマシーン」に変貌する。しかし、普通に使っていれば、どれだけ盛ってもイメージが曖昧になることは、まずない。なぜか?それは、機能をユーザーが任意に盛っていくのが原則だからだ。つまり、ちょっと面白そうなアプリがあったら、とりあえずダウンロードしておく。で、気に入れば自分が常用するアプリの一つに加えられるし、気に入らなければ削除される。つまり、スマホの盛り方、いいかえればアプリの追加は、常にユーザーが自分にとってのスマホイメージを構築していくかたちでおこなわれるのだ。だから、結果として出来上がった全部盛りはイメージを曖昧にするどころか、むしろ強化する。ユーザーはスマホに並んだアプリのアイコンパレードを眺めて、そこに自らの分身を見ることになる。つまり、スマホに対してアイデンティファイすらしていくのだ。だからトライ・アンド・エラーを繰り返し、操作すればするほどしっくりとくるマシンへとスマホは変貌していく。
ラーメン二郎の「全部のせ」はなぜ人気なのか
有名なラーメンの名店・ラーメン二郎の名物は「全部のせ」だ。煮卵、チャーシュー、もやし、キャベツといったものが「これでもか」と言わんばかりに盛ってある(いわゆる「メガ盛り」)。そう、全部盛りの元祖みたいなものなのだが、これが大人気なのもスマホと同じ理由からだろう。一般的にラーメーンは全部盛りにすると、たいていはマズくなる。味のバランスが崩れ、温度が下がって、のびたようなラーメンを食べさせられることに。つまり盛ったお陰でイメージが分散してしまう。一方、ラーメン二郎の全部のせはそうではない。全てを乗せることで絶妙なバランスを作り上げる。つまり、全てを盛った時、ベーシックなものしかのせられていないスタンダードなラーメンとは異なった統一感、宇宙観を作り上げる。おそらくジロリアン(ラーメン二郎の熱狂的なファン)は、この世界=コスモスに惚れ込んでいるのではなかろうか(ちなみに僕は個人的にはラーメン二郎のラーメンは好みではないが、これが、とりわけ全部のせが、なぜ売れるのかは理解できる)。
全部盛りは表層、本質は統一感=世界観の有無にある
そう、全部盛りであろうとなかろうと、統一感があればそれは一つの世界観を作り上げているわけで問題がない。スマホの「全部盛り」とラーメン二郎の「全部のせ」は、そういった点で軌を一にしているのである。二つともイメージがクッキリしている。
いいかえれば、文章であろうと、メイド・イン・ジャパンのプロダクトであろうと、今、求められているのは、この統一感=宇宙観なのだ。
アップルの製品が売れるのは、もっぱら、ここに起因する。
※追記:ただし、あくまで「盛ったもの」にユーザーが世界観や統一性を見ることができるかどうかがポイントなので、スマホであってもネガティブなイメージが分散した「全部盛り」に見えるという人間も存在することをお断りしておく。とりわけ、高齢者にとっては、スマホがそのようなものに見える可能性は高い。