勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:スマートフォン

先日、「情報化社会がもたらした全部盛りという病」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64785403.htmlというタイトルでブログを掲載し、「全部盛り」、つまりなんでもかんでも片っ端から盛ると、テーマとアイデンティティを失い、わけがわからなくなることを指摘しておいた。そして、この現象が情報化社会の情報過多とそれによる意味の希薄化による必然的な帰結であり、その結果、若者の文章能力の崩壊と、メイド・イン・ジャパンの製品のヘタレ状況を生んだと結論づけた。

スマホだって全部盛りじゃん!

さて、このブログに面白いコメントが返ってきた。僕は、全部盛りをやった挙げ句、ダメになった典型的な製品として日本製ケータイ(以下、ガラケー)をあげたのだけれど、これにツッコミが入ったのだ。

それは
「スマホはガラケー以上に全部盛りなのに、普及しているじゃないか!」
というもの。

この指摘に僕は、
「残念でした。スマホは全部盛りではありません。だから普及したんです」
と返そうと思う。

確かにメイド・イン・ジャパンのガラケーは全部盛りになってイメージが分散し、わけがわからなくなってお客が去って行った。だが、これに入れ替わったスマホも、見た目は確かに全部盛りに見える。しかし、この二つ。実は、たとえ機能の数が同じであったとしても、つまり同じように盛ってあったとしても質的には全然違うものといっていい。というのも、全部盛りに見えるかどうかはユーザーの認識によって決定されるからだ。

はじめから全部盛りか?結果としての全部盛りか?

二つの違いは明瞭だ。
ガラケーの方は始めから全部盛りなのだ。だから、どこからとっかかればいいのかわからない。また、はじめからメチャクチャ機能がついているので、そのことを想像しただけで腰が引けてしまう。「えーっ!こんなにおぼえなくちゃなんないのか」というわけだ。かつ、これが何物なのかについてのイメージもまた、分散させてしまう。

スマホ購入時のイメージは案外、明瞭だ。インターネット・ブラウザ、メーラー(最近はSNS)、ミュージック・プレイヤー、そしてカメラの四つだけ。もちろん、天気予報、電卓、懐中電灯、スケジューラーといった機能も標準装備だが、これらはあくまでアクセリー扱い。つまり、機能の優劣に明確な線引きがなされている。だから、さしあたり前述の四つだけを念頭に置けばいい。インターフェイスもわかりやすい。ディスプレイ上に同じ大きさで表示されたアイコンにタッチするだけだ。一方、ガラケーのほうはそうではない。必要とする機能にたどり着くために、何回もキーを操作するなんてことをやらされる。これまた煩雑だ。

もちろんスマホはアプリをダウンロードすればケータイなど及びもつかぬほどの多機能の「究極全部盛りマシーン」に変貌する。しかし、普通に使っていれば、どれだけ盛ってもイメージが曖昧になることは、まずない。なぜか?それは、機能をユーザーが任意に盛っていくのが原則だからだ。つまり、ちょっと面白そうなアプリがあったら、とりあえずダウンロードしておく。で、気に入れば自分が常用するアプリの一つに加えられるし、気に入らなければ削除される。つまり、スマホの盛り方、いいかえればアプリの追加は、常にユーザーが自分にとってのスマホイメージを構築していくかたちでおこなわれるのだ。だから、結果として出来上がった全部盛りはイメージを曖昧にするどころか、むしろ強化する。ユーザーはスマホに並んだアプリのアイコンパレードを眺めて、そこに自らの分身を見ることになる。つまり、スマホに対してアイデンティファイすらしていくのだ。だからトライ・アンド・エラーを繰り返し、操作すればするほどしっくりとくるマシンへとスマホは変貌していく。

ラーメン二郎の「全部のせ」はなぜ人気なのか

有名なラーメンの名店・ラーメン二郎の名物は「全部のせ」だ。煮卵、チャーシュー、もやし、キャベツといったものが「これでもか」と言わんばかりに盛ってある(いわゆる「メガ盛り」)。そう、全部盛りの元祖みたいなものなのだが、これが大人気なのもスマホと同じ理由からだろう。一般的にラーメーンは全部盛りにすると、たいていはマズくなる。味のバランスが崩れ、温度が下がって、のびたようなラーメンを食べさせられることに。つまり盛ったお陰でイメージが分散してしまう。一方、ラーメン二郎の全部のせはそうではない。全てを乗せることで絶妙なバランスを作り上げる。つまり、全てを盛った時、ベーシックなものしかのせられていないスタンダードなラーメンとは異なった統一感、宇宙観を作り上げる。おそらくジロリアン(ラーメン二郎の熱狂的なファン)は、この世界=コスモスに惚れ込んでいるのではなかろうか(ちなみに僕は個人的にはラーメン二郎のラーメンは好みではないが、これが、とりわけ全部のせが、なぜ売れるのかは理解できる)。

全部盛りは表層、本質は統一感=世界観の有無にある

そう、全部盛りであろうとなかろうと、統一感があればそれは一つの世界観を作り上げているわけで問題がない。スマホの「全部盛り」とラーメン二郎の「全部のせ」は、そういった点で軌を一にしているのである。二つともイメージがクッキリしている。

いいかえれば、文章であろうと、メイド・イン・ジャパンのプロダクトであろうと、今、求められているのは、この統一感=宇宙観なのだ。

アップルの製品が売れるのは、もっぱら、ここに起因する。



※追記:ただし、あくまで「盛ったもの」にユーザーが世界観や統一性を見ることができるかどうかがポイントなので、スマホであってもネガティブなイメージが分散した「全部盛り」に見えるという人間も存在することをお断りしておく。とりわけ、高齢者にとっては、スマホがそのようなものに見える可能性は高い。

ワクワクドキドキのなかった新製品の発表

今回のAppleの新製品発表は「驚かないことだらけ」だった(驚いたのは「驚かないことだらけだったこと」くらい)。発表はiPhone5cとiPhone5sで「ハイ、おしまい」だった。こちらとしては、当然”One more thing”があると期待していたんだが、それもなし。「おいおい、どーしたんだ?Apple!」と、ちょっと動転してしまった(笑)。

まあ、こうなる理由はいくつかある。たとえば、事前に情報が外部にリークされていて、発表時にはもう関心を持っている層はとっくにご存知だったこと(5cがポリカーボネイト製で5色、5sがゴールドが加わって3色、5sは指紋認証付き、M7チップなどなど)。これがジョブズの時代のようにひた隠しにされていたら、それなりに驚いたかも知れないが。そうはいっても発表の内容自体が貧弱であることは否めない。

もちろん、これ以外の発表もあった。アプリのiWorkが無料提供になるとか、docomoがキャリアに加わったとか、4Sがタダだとか。実は驚きはこちらの方ではなかったか?ただし、ドコモの参入もとっくにメディアに流れていたことであり、4Sがタダていうのもウイルコムがそれに近いことをやっていたので、個人的に驚いたのはiWorkが無料になったことくらいだったのだけれど(Appleユーザーだったら、僕と同様、これにいちばん驚いたと踏んでいる)。

しかし、驚かなかったのは(あるいは「驚かなかったことに驚いたのは」)、事前に情報がリークされたとか、発表の数が少ないと言うことではない。そうではなくて、今回の発表が、全て「後ろ向き」、そして「マーケティングを重視したもの」でしかなかったことだ。5cは、なんのことはない、ただのコストダウン。5sに比較して最低価格で1万程度の差をつけただけ(その分、厚くなっている)。で、5色のカラバリで「見た目で釣る」。5Sも金ピカを加えて、おなじく「見た目で釣る」。指紋認証やM7も「まあ、それもありかな?」、iWorkは「出血大サービス」、ドコモ参入は「6000万人のユーザーゲット」。これらは全て、原則、販売促進というビジネス上の常套手段的な戦略の域を出ていない。つまり”One more thing”ではない。まあSamsungがいけしゃあしゃあとやることを、Appleがやり始めたということになる。

ジョブズが「ジョブズならどうする?と考えてはいけない」とスタッフに語ったことの真意

ジョブズは自らがAppleのCEOの座を降りる際、スタッフに「ジョブズならどうする?と考えてはいけない」と幹部たちに釘を刺した。ジョブズはDisneyが創始者ウォルトを失ったとき「ウォルトならどうする?」とスタッフが考え続けたために低迷し、80年代初頭には乗っ取りの危機に遭遇するまでに至ったことを踏まえ、こう発言したのだった。ジョブズの思いは、自分(=ジョブズ)のやり方にとらわれず、自分たちのオリジナリティを生かしてAppleを前進させるというところにあった。

確かに、現在、Appleはジョブズのやり方にとらわれてはいない。例えば、ジョブズ死後にリリースされたiPad mini。これはジョブズが頑なに拒んだ7インチ大のiPadだった。しかもRetinaディスプレイは採用されなかった。そして、今回のiPhoneのリリースも、そこに”One more thing”はなかった。いや、大衆に媚びを売って安物iPhoneを出してきた。これはジョブズが最も嫌うやり方だろう。そう、ジョブズのやり方にとらわれないと、繰り返すがAppleはSamsungのような普通の企業になってしまうのである(いや、「いけしゃあしゃあレベル」ではSamsungの方がずっと上なので、これだとAppleはまったく太刀打ちできないのではなかろうか)。

話を、ちょっと別の方向に振ってみよう。Appleではなく前述したDisneyを取り上げてみたい「ウォルトならどうする?」と考え続けたために失速したDisney。しかし、乗っ取り騒動の後、84年マイケル・アイズナーがCEOに就任すると、DisneyはV字回復するどころか、アメリカを代表する巨大メディア企業にまでのし上がっていった。アイズナーがやったこと。なんとそれは、ウォルトが立ち上げたファミリーエンターテインメントとテーマパーク、ストーリー重視という路線をアニメとテーマパーク以外の部門(主にメディア)にまで押し広げていったことだった。

つまりアイズナーがやったことは「ウォルトの精神を温存しつつ、ウォルトの発想とは異なったこと」を推進したのだ(もちろん、ここにビジネス的な手腕も加わってもいたが)。その端緒となったのはCEO就任早々に立ち上げた、大人向け映画会社Touch Stone Picturesだった。「スプラッシュ」「プリティ・ウーマン」「天使にラブソングを」「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」といった一連の作品は、ハダカあり、エロあり、暴力あり、グロテスクな描写ありという、ウォルトが嫌った成人向け設定や描写が含まれていた。しかし、いずれもその中には「夢」「アメリカン・スピリット」「ハッピーエンド」などの、ウォルトが作品群の中で徹底させた作風はキチッと踏襲されていたのである。つまり作るもの=形式はウォルトの思いを無視しているが、その精神=理念はウォルトの思いのままなのだ。そして、それが現在のDisneyのスピリットの中にも踏襲され続け、企業アイデンティティを形成している。つまり、Disneyの中では、相変わらず「ウォルトは生きている」のである(2006年のPixar買収などは、その典型的な企業戦略だろう。DisneyはジョブズにPixarを買わされたのではなく、ウォルトのスピリットを買わされたのだ。ちなみに、これはDisney的精神を失っていった晩年のアイズナーを蹴落とすための政争でもあった。DisneyのPixar買収することは、再び失われつつあるウォルトの魂を復活させるための通過儀礼に他ならなかったのだ)。

一方、iPad miniや今回のiPhoneはどうだろう?これらは確かにジョブズとは異なったやり方だが……もう、説明の必要もないだろう。これらの製品群で展開されているのは、作るもの=形式はジョブズの思いを反映しているが、その精神=理念はジョブズの思いを無視しているのだ。ジョブズの精神=理念とは大衆に阿るのではなく、創造力を働かせて、人々に新しいメディアライフを啓蒙・先導することだった。ジョブズは常に人々にショック=驚きを与え、その驚きを持ってわれわれの日常生活を強制に近いかたちで変更させてきた。そのやり方=スピリットにわれわれがひれ伏したのだ。そう、ジョブズの言葉を借りれば「宇宙に衝撃を与える」ことをやりつづけてきたのである。

そして、そういった理念を感じられず、ひたすらマーケティング的な戦略に終始する今回のやり方はアブナイ。このやり方は80年代半ば、ジョブズが追放された後にCEOとして登場したJ.スカリー、M.スピンドラ―、G.アメリオといったマーケッターたちのそれであり、 「ジョブズならどうする?」ではない。で、それをやるとAppleという特異な会社は当然ながら後退する(実際にスカリー以降Appleは後退し、倒産寸前にまで行った。復活を遂げたのはジョブズが復帰してからだ)。Appleの魅力はジョブズが提示し続けた、常に創造に向けて前進すること、それによってAppleに熱狂するファンたちを引っ張り続けることで成立していたのだから。つまり、現在のAppleのやり方では「ジョブズは死んでいる」のである。それはAppleであって、もはやAppleではない。

Appleが今やるべきことは「ジョブズならどうする?」問いを、「ジョブズならどうする?と考えてはいけない」というジョブズの発言の本意を踏まえながら、考えてみることだろう。それは、要するにジョブズの精神=理念は踏襲しろと言うことだ。Appleに求められているのは「創造力」、つまり「Think differentというという立ち位置に帰る」ことにほかならない。

“One more thing”を復活させよう!

無料という囲い込み

前回は、LINEのオリジナル・キャラクターが人気を博した理由として、テクストによるコミュニケーション際に、これらスタンプがコンテクストを補完する語彙として機能している点を取り上げた。つまり、それまで絵文字・顔文字が備えていた文字に「空気を送り込む機能」を大幅に拡張し、コミュニケーションを豊穣化・多層化する点が魅力だったと指摘しておいた。

ただし、前述した感情表情=語彙の豊富さは必要条件でしかない。種類を用意していたとしても、これを使わせる十分条件がなければ普及はしなかったはずだからだ。LINEのスタンプには、オリジナル・キャラクターが普及する十分条件≒インフラがいくつか存在した。ひとつは、LINE自体がそもそもスマホ用の3Gでも使用可能な無料Wi-Fi電話の草分けの一つであったことが大きい(それ以前にViberやTangoもあったけれど)。これで「カネのない層」が飛びついた。カネのない層とは要するに若年層だ。たとえば高校生たちに普及していた携帯としては無料電話機能が売りのウィルコムがあるが、この層がスマホに乗り換える大きな理由の一つが無料電話の存在だったのだ。

そこで、初期には先ずはこの機能でLINEに飛びついた(ちなみに今や、若年層がスマホに乗り換える大きな理由の一つがLINEの存在になっている)。ただし、そこにあったのは通話よりももっと魅力的なチャット機能のトークだった(ViberやTangoにはトーク的な機能はなかった)。これはmixiから乗り換えるには実に都合のよいものだった。Twitterを使うとバカ発見器に引っかかるし、Facebookは実名主義が怖いし操作が難しい。で、LINEを使うことになったのだけれど、そこにスタンプというオシャレな機能、いつも使っているケータイ・メールのもっと楽しいやつがついていた。そして、そこに始めからビルトインされていたのがオリジナル・オリジナルキャラクターたちだったのだ。

で、前述したように彼らは「カネのない層」。ということは「課金する必要があるものにはなかなか手を伸ばさない層」ということでもある(実際、有料ゲームとかアドオンとかを購入することはほとんどない)。ということは、スタンプがいろいろ販売されていても、それらのほとんどは有料で課金の必要がある。たかが170円だけれども、それでもやっぱり手を伸ばさない。

これが、かえってデフォルト、つまり無料で提供されているオリジナル・キャラクターたちの頻用という事態を招いた。そして比較的たくさんあるスタンプの内、語彙=感情表現の多いこれらのキャラクターを使うようになったのだ。さらに、仲間全員が使うに及んで、これらは仲間内の共通の語彙を形成するようにもなる。つまり、仲間内での独特なスタンプ文法が完成する。こうやって、まずはユーザの囲い込みに成功した。また、囲い込みの中でユーザーたちはこれらキャラクターに馴染み、さらに文法を学んでいったのだ。ちなみにこの時点ではまだオルタネティブは存在しない。つまり、まだ後発はなかったので、これもまた囲い込みの揺籃としては上手く機能することになった。

オリジナル・キャラクターなら有料でもOK

こうなると、面白いことが起こる。新しいスタンプが販売されても手を伸ばさないというのは当然だけれど、逆にスタンプを購入しようとする欲望も喚起されるようになるのだ。そう、彼らは既存のキャラクターには課金しないけれども、コニー、ブラウン、ムーンには課金するようになる。というのも、これは「語彙」。もっと語彙を増やしたいときにはインターフェイス、つまりキャラクターが同じ方がいい。だから、こっちは必要に駆られて無理しても購入する。こうやって感情表現だけを持ち、語彙としては機能するが、物語を持たないポストモダンなキャラクターが人気を博すことになったのだ。

commの出現は「時、すでに遅し」

そして、この「囲い込み」は、翻って後発を排除することにも成功する。ほとんど同様のサービスとして登場したcommがその典型だ。DeNAが1012年10月にサービスを開始したWi-Fi無料通話のcommはLINEとほとんど同じ機能を備え、またLINEと同様、タレントを用いた派手な広報戦略を打っていたのだが、さっぱりだったのは、要するに「時、すでに遅し」だったのだから。つまり、囲い込みはとっくに終わっていて、もう入り込む余地がなかった。競合を狙っていたのだろうが、LINEのようなオリジナル・キャラクターをユーザーたちになじませるインフラがもうなかった。そして、もうその頃にはすっかりLINEが市場を確保していて、ほとんど同じ機能しか備えていないcommにはあえて新たな語彙を学習してまで乗り換える理由は見つからなかった。そう、お客さんは、もうコニーやムーンやブラウンに持っていかれてしまっていたのだ。だから、現状でもさっぱりという事態に甘んじている(逆に言えば、commが先行だったらLINEは入る隙間がなかったとも言える)。

スタンプのこれから

要するに、LINEが普及したのは無料通話ではなく、このトークにおけるスタンプ機能が新しいコミュニケーション様式を生み出したから。ということは、今後、LINEはこのスタンプを発展させていくことで、その地位を盤石なものにするのも可能といえる。

やり方は四つ。一つは既存のオリジナル・キャラクターの語意=感情表現を増やすこと。これが一番単純なやり方だ(すでにムーンには「怒り爆発編」「サラリーマン、ムーン係長」「ダイエット編」などがある)。ただし、これには問題もある。オリジナル・キャラとて何度も繰り返しペタペタ貼り付け続けると、やがて飽きる。だから、ただ増やすだけでなく定期的にデザインを変えていく必要がある。二つ目はオリジナル・キャラクターを増やすこと。ただし、いきなり増やしてもなかなかユーザーは食指を伸ばしてはくれない。そこでコニーやブラウンたちとコラボを組ませ徐々にメインキャラクターに仕上げていく。ポケモンならピカチュウがピチュウを加えるようなやり方だ。三つ目は、ニュアンスを伝えやすいようスタンプに吹き出しをつけてしまう。スタンプのみの会話なんかをやるときには、かなり便利だろう。そして四つ目は前回お伝えしたような禁断のキャラクター役割の解除、ようするに「ミッキーマウスに出刃包丁を持たせること」だ。

現状ではケータイ世代(ケータイネイティブ)に圧倒的な支持を受けるLINE。その一方で中高年には今一つというところだろうが、ケータイ世代の年齢上昇とともに、このLINEのスタンプ文法は空気を読む文化である日本人のコミュニケーション・メディアとして一般化していくのではなかろうか。海外でこれがどの程度訴求力を持つかは未知数だが。

スタンプの人気者はLINE出身

今、爆発的に普及し、国内ではFacebookやTwitterすら凌駕する勢いのSNS、LINE。他のSNSに比べクローズドな、仲間内を中心としたコミュニケーションとシンプルなインターフェイスが爆発の主な理由だが(詳細については本ブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64450971.html参照)、中でもトークと呼ばれるチャット機能が重宝がられている。そして、この人気を支えているのが、ご存知、大判の絵文字である「スタンプ機能」だ。

で、このスタンプには様々なキャラクターがある。ハローキティ、スヌーピー、ディズニーキャラクター、くまモン、クレヨンしんちゃんなどなど。ところが、最も人気があるのはこういったよく知られたキャラクターではない。コニー、ムーン、ブラウンといったLINEのオリジナル・キャラクターだ。スタンプはアプリ内のスタンプ・ショップで購入可能だが、売り上げ上位の多くが、この無名のオリジナル・キャラで占められている。この理由について『LINE なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか』(コグレマサト+まつもとあつし マイナビ新書 2012)の中では、すでによく知られているキャラクターはコンテクストが共有されていて、キャラが強すぎ使いづらい。かえって「無表情であったり、誰も知らないようなキャラクターであったりする方が、新しく作り上げるコンテクストにマッチし、スタンプとして使いやすい」(P.51)と指摘している。

この指摘、僕は半分は当たっているけれど、半分は外れていると考える。そこで、今回はなぜこの無名のオリジナル・キャラクターたちが人気を博しているのかについてメディア論的に考えてみたい。この人気は、SNSというメディアの重要な特性を象徴していると考えるべきものだ。

絵文字・顔文字機能を拡大したスタンプ

LINEのトークにおける人気機能であるスタンプ。単にそれまでの絵文字や顔文字を巨大化したに過ぎないように思えるが、実はそうではない。この拡大化、実は大きな意味を持っているのだ。

絵文字・顔文字は「空気を読む」という日本独特の土壌の中で誕生した(海外ではケ―タイメール自体があまり普及しなかったし、絵文字・顔文字は機能として添付されていてもほとんど使われていない)。文字ベースだと、われわれはしばしばコンテクストの参照を必要とする。文字だけだと「空気が伝わらない」からだ。絵文字・顔文字はこのコンテクスト参照を送り手の方が補うことができる機能を備えている。つまり「文字に空気を送り込む」ことが可能になる。たとえば文面で何かのお願いをされて、これを断ろうとする際に「申しわけないけれど、受けられない」とやるより「申し訳ないけれど、受けられないm(__)m」とか「申し訳ないけれど、受けられない(>_<)」と、語尾に顔文字をつけるだけでイメージが大幅に異なってくる。前者は申し訳なさが強調されるし、後者は本当はその頼みを受けたいという感情が伝達される。こういったかたちで細かいニュアンスを伝えることが可能になると同時に、文面が備えていることばの強さを希釈できるのだ。いわば「感情のクッション」の役割を果たす。だから「空気を読む文化」の日本で、爆発的に普及したというわけだ。

スタンプでは絵文字・顔文字のこのコンテクスト付与機能が拡大する。図柄が大きくなって表情が豊かになったぶん、コンテクストをより明確に伝えることが可能になるのだ(その一方で、相互の曖昧なイメージを共有し親密性を図ることもできる。これについては本ブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64048861.htmlを参照)。言い換えればスタンプは顔文字・絵文字よりもそのメッセージ性を強めることができる。つまり、スタンプはもう一つの語彙=感情表現の手段=文法なのだ。

スタンプはたくさんの表情があった方がいい!

こういったテキスト+スタンプによるコミュニケーションを行う際には、当然スタンプの種類が多いに越したことはない。そのぶん、語彙が増えるからだ。そして、この条件を満たしているのがコニー、ムーン、ブラウンといったオリジナルキャラクターたちなのだ。なにせ他のキャラクターより圧倒的にスタンプの種類が多い。その結果、「キモかわいい」と呼ばれているように、微妙なニュアンスを込めたスタンプが登場した。コニーが上目遣いで横を見ている、うれしそうに走っているのだけれど手が吹き流しのように波を打っている、無表情なブラウンの後ろに炎があがっている、これまた無表情のブラウンがコニーに蹴りを入れているなどなど。まあ、とにかくいろいろあって使いやすい。微妙な感情が伝達可能になるとともに、その曖昧性ゆえに、相手にいろんなイメージを抱かせたり、トークを交わす者同士で任意にメッセージ性を付与する、つまりジャゴンとして使うことも可能になる。

設定に拘束される有名キャラ

これが既存のキャラクターだとこうはいかない。スタンプ販売では一回につき40個のスタンプが提供されるが、これだとちょっとニュアンスやコンテクストを伝えづらい。また、キャラクターはコグレマサトたちが指摘しているように、キャラクターに付与されたコンテクストが悪影響している。ただし、それはコンテクストが強すぎるというわけではない。そうではなくて、そのキャラクターに与えられたキャライメージから逸脱できないようになっている点が問題なのだ。一例としてミッキーマウスをあげてみよう。ミッキーマウスは「強くて明るい元気なリーダー」というキャラクター、だからこのキャラクターを崩すことは御法度。これが語彙として圧倒的なハンディになる。つまり40個あったとしても、このキャラクターの範囲でしか表現ができない。だからほとんど飾りのシールみたいな機能(昔、女子高生が手紙の中に貼り付けたハローキティの小さなシールみたいな機能)しか果たさないのだ。ミッキーマウスがキレて出刃包丁を持っているとか、 ミニーマウスに蹴りを入れているとか、鬱になっているとか、酔っ払っているとか、ゲロ吐いて寝ているとか(LINEのオリジナル・キャラクターのひとつであるジェームスには、これがある)、あるいはハローキティが絶叫しているとか(口がないのでムリ)なんてのはない。だからスタンプは感情を示す語彙としてはきわめて貧弱になってしまうのだ。逆に、LINEのオリジナル・キャラクターは既存キャラクターの役割設定にとらわれることなく自由に様々な表情を付加することができる。だから便利、だから使うのだ。ちなみにドラえもんや巨人の星となるとアブなかったりシュールだったりするスタンプがあり(小さな島で夕日を見ながら黄昏れている後ろ向きのドラえもんとか、酔っ払っている星一徹とか)、結構使える。ただしスタンプの数は少ないので、オリジナルのスタンプと混ぜて利用されることになるのだけれど(言い換えれば、ディズニーキャラやハローキティでも、こういった表現が許されればウケる可能性はある。まあ、絶対許可しないだろうけど)。

だが、これはオリジナル・キャラクターたちがウケるきっかけになった必要条件でしかない。言い換えれば、同じことをやってもこれだけでは人気を博することは不可能(実際、必要条件を共有している後発のcommは失速している)。LINEのオリジナルキャラが中心キャラクターとなるためには十分条件が必要だった。じゃあ、それは、何か?(続く)

大学生(関東学院大、宮崎公立大、立正大340名)のスマホ利用状況調査についてお知らせしている。前回は、学生たちがスマホをパソコン=汎用機器として様々な用途に利用していることを紹介した。また、とりわけアプリマシンである側面が強いことも指摘しておいた。そこで、今回はアプリについて見てみよう。

多様なアプリ利用。トップはSNS

まずダウンロードして利用しているアプリについて。結果はSNS(LINE、Twitter、Facebook等)=89.9%、写真・画像加工=67.8%、ゲーム==63.4%、動画=61.6%、交通・地図・旅行=59.6%といった利用率。やはり、かなりいろんな側面でスマホが使われていることがわかる。これらのアプリのうちで最も利用頻度が高いアプリは1位SNS=76.%1、2位ゲーム=16.8%、3位写真15.7%だった(有料アプリ購入率は28.9%)。

さらにインターネットブラウザの利用法についてもアプリと同様の傾向が見られる。閲覧しているものはSNS=66.2%、動画=58.8%、Map・交通情報=51.2%、ニュース・スポーツ・天気=48.9%、ネットショッピング=48.9%、大学HP=46.8%、エンタメ・情報サイト=40.3%といったところで、やはりバリエーションが広い(ちなみにGoogleなどの検索については「あたりまえ」とみなして検索項目から除外している)。最も利用頻度が高いジャンルについてもやはりトップはSNS=50.3%、ニュース・スポーツ・天気=11.3%、ソーシャルゲーム=6.1%だった。

ここで、注目すべきはアプリ利用においてもブラウザ利用においてもSNSが筆頭にあることだ。スマホとSNSが強い関係にあることがわかる。つまりスマホの普及がSNSの普及を促している、あるいはその逆にSNSがスマホの普及を促しているという傾向があるようだ。反面、大学のHPへのアクセスが46.8%というのも面白い(というか情けない)。原則、学生たちは大学HPへのアクセスは当然しなければならないはずなのだが、そうはなっていないのは、いかに大学HPが魅力のない作りをしているかを示している。

メッセージのやりとりはキャリアメールからLINEへ

学生たちはスマホを使ってどうコミュニケーションしているのだろうか。そこでメッセージのやりとりについて利用しているものに答えてもらった。

メッセージのやりとり手段について、その利用はキャリアメール(ガラケーの際に使用していたメール機能)=90.1%、LINEのトーク機能=79.1%、Twitterのリプライ・ダイレクトメッセージ=60.1%、PCメール=32.3%、Facebookのメッセージ機能=25.1%、Skypeのチャット機能=17.6%。ガラケーからの乗り換えがほとんどなのでキャリアメールが多いのは納得がいくが、これにラインが迫ってきているのは興味深い。またTwitterもよく使われているが、これも注目すべき項目だ。反面、Facebookが意外に使われていない。これは学生の間ではTwitterに比べFacebookの利用率が低いことを示している。ちなみにFacebookの利用頻度の低さについてはSNSに関する質問項目の結果(次回特集予定)でも明らかだった。

メッセージのやりとりでの使用頻度については1位LINE=53.8%、二位=キャリアメール=31.3%、三位Twitter=11.8%の順。ここで興味深いのは、もはやメッセージやりとりの主流がLINEになっていること。グループでのメッセージやりとり(三人以上のチャット)も同様でLINEは利用者で89.3%、利用頻度で85.0%と圧倒的だった。どうやら学生たちにとってのメッセージやりとり手段はどんどんLINEへとシフトしつつあるようだ。ちなみにこのLINE人気の高まりは通話についても同様で、学生たちの無料通話で最も利用頻度の高いものもLINEで76.7%と圧倒的だった(無料通話対有料通話利用比率は4.5:5.5だった)。

スマホ=ガラケー機能+インターネット+SNS→市民権を得たコンピューター

ここまでのデータをみてみるとスマホはこれまで学生たちの間ではなかなか定着しなかった「コンピューター利用」というパンドラの箱を開けたと考えるができるのではないだろうか。スマホはガラケーの全ての機能を引き継ぐことでガラケーからの買い換え需要を促し、購入後はアプリ利用、インターネット接続、そしてSNS利用という世界を学生たちに開き、彼らのメディア生活にとっての必需品となった(ちなみにネットショッピングやクーポンのダウンロードと言った利用もスマホは促している。実は、こういった利用、ガラケーではほとんどやられてこなかったものだ。彼らがガラケー時代利用していたクーポンと言えば、もっぱらマクドナルドのそれだったのだから)

こうやってインターネット、コンピューター、SNSの世界を押し開いたスマホ。当然、彼らの今後のメディア生活、そしてコミュニケーションスタイルを大きく変えていく可能性を秘めていると考えることができるだろう。次回はSNSについてお伝えする。(続く)

↑このページのトップヘ