勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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さながら芸能界の巨悪が露呈したかのように、ジャニーズ事務所と新しい地図(元SMAP三人、稲垣・香取・草彅)、吉本興業と宮迫・ロンブー亮(そしてこれにレプロと「のん」こと能年玲奈の問題も含めることができるだろう)を巡って、メディアで混乱が発生している。だが、これらのトラブル、実はメディアの大きなパラダイムシフトを発生する可能性を秘めているのではないか。というのも、今回の出来事は、いずれ芸能界からテレビ、そしてメディア全般に至る領域まで影響を及ぼすかもしれないからだ。

一連のトラブルはメディアに関する三つの側面を教えてくれる。そして、それらは表層から深層、ミクロからマクロという形で重層的に繋がっている。

芸能界は大手が牛耳る構造

先ず表層かつミクロな側面について。これはもちろん、芸能プロダクションとタレントの問題、そしてわが国における芸能プロダクションの構造の問題だ。男性アイドル業界においてはジャニーズ事務所、お笑い業界においては吉本興業が巨人であることは言うまでもない。そして、これらはそれぞれの分野では市場をいわば寡占あるいは独占した状態。だから、タレントが一旦ここから離脱すると、メディアへの露出が限りなく難しくなる。ご存じのように締め出しを食らってしまうのだ。元SMAP=新しい地図の三人がジャニーズから離脱した瞬間、レギュラー番組のほとんどが終了し、メディアへの露出が極端に減ったことは周知の事実だ。現在、出演が可能なのはNHK(草彅=ブラタモリ)、欽ちゃん&香取慎吾の仮装大賞、そしてサントリー(香取、稲垣)とミノキ(香取、草彅)のCMのみだ。これらは前者二つは対抗する権力(NHK=タモリ、萩本欽一)によって支えられ、後者二つのCMはジャニーズの息のかからない分野(大手代理店でなくサントリー自体が制作している。あるいは代表の飯島三智と懇意)だ。宮迫と亮が今回の記者会見後にどうなるかはまだ不透明だが、二人の会見は離脱どころか反逆になるゆえ、現状のままであれば芸能界のメインストリームで活躍する可能性は新しい地図以上にほとんど不可能になるだろう。だが今回、二つのトラブルはこの独占、権力構造を世間に晒すことにもなった。公正取引委員会によるジャニーズ事務所への注意、宮迫、亮二人による結果的な吉本への反逆、暴露がそれだったというわけだ。

テレビメディアは共同正犯

次に第二層、つまり中層かつミドルな側面について。現在、この二つのトラブルがメディアで頻繁に報道されているが、報道それ自体が看過している、あるいは意図的に語らない(イヤ、ひょっとしたら思考停止している)側面がある。「そもそも、こうした市場独占、権力構造を可能ならしめたのは誰なのか?」が、それだ。言うまでもなく、それはジャニーズや吉本から多大な恩恵を受けているメディア、とりわけテレビに他ならない。ジャニーズ事務所と吉本興業は、あからさまにこうした「離脱=反逆タレント」をテレビが登用することにクレームをつけることは、おそらくしてはいないだろう(だから公正取引委員会はジャニーズ事務所を「注意」するに留めている。状況証拠しかないからだ)。二つの権力はそんなことをするほどマヌケではない。「どうぞ、ご自由にお使いください。ウチから離れただけですから」というスタンスをとっているはずだ。しかし、これはあくまで口先だけ。もし、テレビが「そうですか。それでは、これまで通り使わせていただきます」なんてことをやったら、プロダクションお抱えのタレントたち(膨大な数のそれ)の出演を断ってくるのは目に見えている。もちろん、二つに関係はないというタテマエで断るのだけれど。だから、権力側に何も言われなくても、テレビは勝手に忖度して離脱タレントの起用をやめてしまう。まあ、これこそが、最も典型的な権力構造なのだけれど。

これはとどのつまり、こうした構造を下支えしたのが結果としてテレビというメディアであることを意味している。タレントを閉め出しているのは独占企業プロダクションとテレビ。つまり、二つは共同正犯なのだ。にもかかわらず、テレビ局はそうした責任性を顧みることもせず、自らのことはさておき他人事のようにこれら一連の報道を続けている。とはいうものの、どうもおっかなびっくりという印象もありありで、ジャニーズ、吉本への批判については歯切れが悪い。まあ、僕には、日和見かつ無責任の、みっともないことこの上ない存在に映るのだが……。

ちなみに、これらのスキャンダルに対しては、これに関わる人間や組織がどのように対応するかが、今後問われることになるだろう。その一つは独占状態にある組織に所属するタレントたちの立ち位置だ。ジャニーズについては中居と木村の立ち位置が問われた。そして今回は吉本の大物芸人たちがその立場に立たされるだろう。これについてはすでに松本人志がワイドナショーの特別生番組をフジテレビにもちかけ、自らの立場を表明しているが、この対応の仕方次第で吉本の大物芸人は芸人生命の死活問題となる可能性すらあるかもしれない。

今、テレビのあり方が問われている

だが、最も重要なのは組織、つまりプロダクションとテレビの立ち位置だ。プロダクションの方はすでに大きな打撃を受けつつあり、今後何らかの対応を余儀なくされるだろう。だから、ここはしばらく様子を見てみたい。なので、ここではテレビの方について考えてみる。もし、テレビがこれまで通り二つのプロダクションに媚びを売り続けるようなスタンスをとり続けるのであるのならば、これは大きな問題だ。いいかえればテレビの信用性の問題に関わる事項となる。中途半端、あるいは「寄らば大樹」「弱気を挫き、強きを助ける」のような態度を今後もとり続ければ、早晩、視聴者の信用は失墜するだろう。タレントたちと同様、テレビにも、もはや”賽は投げられた”のだから。

そして、この問題こそが「深層のマクロな問題」に通じている。いいかえれば、テレビというメディアの存在それ自体の今後のあり方の問題。ご存じの通り、インターネットの急激な普及に伴ってテレビの視聴率は漸減傾向にある。とりわけ、テレビ離れは若年層に著しい(若者は、もはやインターネットの方がテレビよりも圧倒的にアクセス時間が多いのだ)。テレビ局はもがき苦しんだ挙げ句、テレビ世代の中高年層をターゲットとしたドラマ(サスペンス物)、あるいは低予算で制作可能なトークバラエティを中心とした番組にその中心をシフトした。そして、後者での人員(タレント)の中心を担っていたのがジャニーズ事務所と吉本興業だったのだ(場合によっては前者もそうなのだが。事実、大岡越前を演じているのは東山紀之だ)。裏を返せばジリ貧でもがき苦しむ中、視聴者維持のために必死にすがっていたのがこの二つだったのだ。いわば”蜘蛛の糸にすがるカンダタ”状態。だから後者に関しては忖度するのがあたりまえだった。

しかしながら、前者については、視聴者はやがてこの世からいなくなっていく層であり、ジリ貧は不可逆的な流れ。そして、後者についても、今度はこうしたトラブルに若者たちが嫌気をさし、テレビ離れを加速化していく可能性がある。そうなってしまえば、テレビはもがき苦しんだ挙げ句、最終的に蜘蛛の糸は切れ、地獄に落ちていくことになってしまうだろう。

テレビというメディアが生き残るためは、今後これらの構造的な問題に対して主体性を持って立ち位置を視聴者に示すことが至上命題となるはずだ。巨大プロダクションにひるむことなく、自らの方針を明確に、そしてこれらに依存しない運営を志向する必要がある。テレビは、もっと自信を持って毅然とした対応をしなければならないのだ。それは言い換えれば「クリエイティビティを取り戻せ!」と言うことでもある。今回のジャニーズ事務所、吉本興業問題は、翻ってテレビというメディア自体の問題でもあること。そのこと自覚することから、テレビはまずはじめるべきだ。でなければ、恐らく未来は、ない。

SMAP騒動に終始を打つべく急遽行われたSMAPの謝罪会見について、メディア報道とBLOGOS論壇?との間の見解の違いが興味深い。メディアはとにかく「よかった、よかった」、一方BLOGOS論壇の趨勢は「まったくもって、納得がいかない」と正反対。ちなみに後者の問いは、SMAPのメンバーが「何を誰に謝罪したのかわからない」といったメディア報道が伝えているSMAPメンバーの対応についての「納得がいかない」のではなく「なぜ、SMAPのメンバーが謝罪する必要があるのか」という、もっと根本的なものだ。
で、僕も概ねこの論壇の論調に同意したいと思う。明らかに、おかしい。そこで、この疑問がなぜ生じるのかについて今回の騒動をダイジェストでまとめるかたちで考えてみよう。

老害の構図

ジャニーズ事務所の勢力争いが生じた。マネージメントの勢力図はジャニー喜多川、藤島ジェリー景子、飯島三智。ただし、実質的なイニシアチブを握っているのはジャニー喜多川の姉であり、藤島ジェリーの母であるメリー喜多川。当然、飯島は外様。

ところが飯島は才能があった。なかなか売れないSMAPを、アイドルとしての芸風を様々な分野に拡大する(SMAPがSport Music Assemble People”、つまり多方面に展開するタレントという名称であることがこれを象徴している)。そして、SMAPはジャニーズ事務所の中でも飛び抜けた国民的アイドルとなり、マルチに芸を発揮するのがデフォルトとなったその後のアイドルのスタイルを作り上げ、ジャニーズを巨大な芸能プロダクションへと変身させた。当然、飯島とSMAPはジャニーズの大いなる貢献者である。

ところがメリー喜多川はこれが気に入らない。一族経営が基本?と考えるのか、このプロダクションは娘の藤島ジェリーがメインでなければと考える。そこで飯島を事務所から排斥しようと考えた。

しかしSMAPとしては自分たちを育ててくれた飯島には恩義がある。そんなお家騒動もどきのゴタゴタで恩人を裏切るわけにはいかない。そこで飯島に忠誠を尽くし、彼女についていこうと、木村拓哉を除く四人はジャニーズ事務所からの離脱を考えた。

これにメリー喜多川が激怒。芸能界での活動の圧力をかけようとした。それが解散報道として大々的に取り上げられることに。

ところがファン、いや国民からの反応は予想外に大きかった。いまやSMAPは「日本人の必需品」的存在であったことが、図らずもこの騒動から露呈したのだ。このことに気づいたメリー側が事態の収拾を目論見始めた。ただし、「お家継承」が安泰であるという条件づきで。その結果、行われたのがSMAPの緊急記者会見、つまり「公開処刑」だった。

ザッとこんなところになる。


SMAPの屈辱

この山本一郎による「公開処刑」という表現は秀逸だ。まあ「カノッサの屈辱」ならぬ「SMAPの屈辱」と言い換えてもよいかも知れない。ここでの処刑を命じたのは、もちろんメリー喜多川。処刑されるのはSMAPだ(いや、木村は処刑人を兼ねているのかもしれないが)。

では処刑=謝罪は誰に向かってなされたのか?表向きは国民に向かってである。つまり、「みなさんにご心配をおかけしました。ご迷惑をおかけしたのは私たちです。責任は全て僕たちにあります。申し訳ありませんでした。」

しかし、国民は誰もそんな謝罪を望んではいないし、そんなふうには思っていない。むしろこれを理不尽な「公開処刑」と受け止めた。なぜか?

いうまでもない。今回の騒動を引き起こしたのはメリー喜多川だからだ。だから謝罪するべきは会社の側であって、板挟みに遭ったSMAPが謝罪する必要など、どこにも無いのである。SMAPが謝罪をする理由はシンプルだ。そうしなければ、自分たちの存在が失われてしまうからだ。だから先ほどの謝罪内容を深層で言い換えれば、

「僕たちは謝罪しないとクビになります。芸能界から干されます。それでは困ります。愛してくださっているみなさんにも申し訳が立たない。だから僕たちが悪いと言うことにして事態を収拾します。ちなみに自分たちが悪いだなんて、本当は思っていません。」(中居正広の「腕白坊主が屈辱に耐えている」という風情が美しかった)。

これで、おそらく国民の必需品であるSMAPの商品価値は傷つけられただろう。しかし、メリー喜多川はそんなことお構いなし。自分という、そしてジャニーズ事務所という「世界で一つだけのアタシ」がいれば、それでいいのだ。国民やSMAPなど問題ではない、というわけだ。

そう、まとめてしまえば、これは老いた権力者が、その権力にすがるために、しばしば至ってしまう「老害」以外の何物でもないのである。その「屈辱シーン」を支持者の国民たちの前に晒したのが、この記者会見という公開処刑だったのだ。自らの商品を自らの欲望のために傷つけるという醜態。
メディアという、もう一人の老害に侵された
公開処刑人
しかし、である。こんな老いぼれた老害をまき散らす人間こそ駆逐されるべきなのではないか?SMAPは国民の必需品、われわれのものなのだから、われわれからすれば価値観の比重は当然SMAP>ジャニーズ事務所である。ならば、SMAPはさっさと事務所から離脱してしまえばよいのだけれど……。世論の支持からすれば、当然そうなるはずだ。だが、それを許さないもう一人の公開処刑人がいた。そう、それこそがメディアだったのだ。

今回のSMAP騒動の報道のされ方、明らかにおかしい、不自然だ。前述したように、今回の記者会見についてメディアは「解散に至らないでよかった」と声を揃えている。また「SMAPガンバレ」とわけのわからないエールを送っている。その一方でBLOGOS論壇が指摘するような「老害」を指摘する報道は一切ない。つまり、どのメディアもジャニーズ事務所側を批判しないのだ。

その理由は、言うまでもないだろう。メディアとて事務所側に楯突いたら痛い目に合うことをよく知っているからだ。仮に一つのTV局が事務所批判をやったとしたら、その瞬間、こちらにも老害が波及することになる。つまり、ジャニーズタレント全ての出演や取材をボイコットされる。嵐、TOKIO、V6、Kink Kidsなどなど錚々たるメンバーが使えなくなるのだ。これは、いまやジャニーズ頼りのテレビや雑誌にとっては死活問題。だったら黙っておいた方が身のため。むしろ、この際だから言われた通りにしておけば、こちらの利益にすらなるとまで考える(フジテレビが緊急記者会見を開いたのは「なにをか言わんや」なのかもしれない。紅白のトリがジャニーズの長男マッチだったことも同様だ)。メディアもジャニーズ側と同じ価値観、SMAP<ジャニーズ事務所。言い換えれば、メディアもまた保身に身を固めた老害体質を抱えているのだ。こうやって二人の年老いた処刑人によって「SMAPの公開処刑」、あるいはカノッサならぬ「SMAPの屈辱」は執行された。

老兵は消え去るのみ?

しかし、メディアはよく考えるべきだろう。こういった公開処刑の執行は、もはや民意とは全く逆のところにあることを。BLOGOS論壇も示すように「われわれは何が悪いのか、誰が悪いのかを
知っている」。だから、メディアが保身に身を固めた「奥歯に物が挟まるような言い方」を続ける限り、メディアの衰退は避けられないということを。

「公開処刑」、近年におけるメディアの没主体性と迷走を象徴的に示す事態でもあったと言っても過言ではないのではないだろうか?客を見ていないから、衰退するのだ!(そして、その衰退する組織の中で癌のように実利をむさぼっているのがジャニーズ事務所なのだ)。

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