勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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TDKのビデオテープCMに登場したA.ウォーホール。その精神性は高須克弥と同じだ!



高須クリニックのCMで、主演する高須克弥院長は俗物を徹底的に演じることでメタ俗物的な位置に自らを置き、これによって自己を対象化・相対化し、さらに自らを「俗物高須院長」という記号としてカリカチュアライズするという作業を行っていることを、ここまで述べてきた。僕は、こういった高須のアプローチが、きわめて「美的」なアプローチであると評価している。

A.ウォーホールの実験

アメリカ、ポップアートの巨匠といえば、まず思い浮かぶのはA.ウォーホールだ。キャンベルのスープ、マリリン・モンロー、ジャッキー・オナシスといった一連のシルクスクリーンによる作品群は、まさにポップでなじみ深い。ウォーホールの手法は、きわめて単純。その最たるものが前述の有名人を描いたシルクスクリーン作品で、これは既製の写真をシルクスクリーンで色を変えただけというものだ。ちなみにキャンベルのスープもアメリカではきわめて大衆的なスープの缶であるこの商品を忠実に描いただけ。つまり、個性といったものがほとんど存在しない作品なのだ。

しかし、これこそがウォーホールの戦略だった。彼のねらいは「徹底的な非個性化」「非オリジナリティー化」で、それによってアートそれ自体に衝撃を与えることだった。そしてそれはある意味、アート世界へのシニカルな批判でもあった。つまり「アートはオリジナリティがなければならない」という命題に、「オリジナリティのない作品」というものを提案することで逆にオリジナリティの存在を示したのだ。

ウォーホールのアート界への攻撃は作品のみにとどまらない。ウォーホールは自らのアトリエを「ファクトリー」と名付け、そこで何枚もシルクスクリーンで作品をコピーし、ある程度コピーした時点で原盤を破棄し、残った作品に番号をつけて売りに出したのだ(こうすることで画数が限定されるので絵の価格が跳ね上がる)。つまりアートからはいちばん遠いと思われるビジネスをアートを使って展開した。そして、そのことを象徴的に示そうとしたのがアトリエをファクトリー=工場と表現したことだった。

こうやって財産を成したウォーホールはミック・ジャガー、ルー・リード、トルーマン・カポーティといったセレブたちと親交を結び、華やいだ世界で自らもスター・セレブという記号=ポップスターとなる。つまりアートの世界からはほど遠い、カネ儲けと有名になることを志向する「俗物」として振る舞ったのだ。

ただし、こういったウォーホールの戦略、つまりアートの否定、オリジナリティの否定、拝金主義、有名願望というやり方全体が、実はひとつのアートというパフォーマンスとして成立していた。つまり、ウォーホール自身は、創造、新たなパラダイムの構築、アート界のコード破りという、一般のアーティストたちが志向するのと同様の行為を、こういった存在論的な問いを投げかけるかたちでやって見せたのだ。つまり”確信犯”。

高須は常識を無視した上に、全てに"Yes"と肯定的なメッセージを発することで人々を啓発している

高須のやり方もウォーホルのそれと全く同じだろう。医は仁術、医者は人のために尽くさなければならないというような一般的な認識を、自ら俗物、つまり医学界が批判の的にしたくなるようなパフォーマンスによって打ち破る。しかも、自らそういったコード破りを行う記号として出現するというやり方で。だから、このCMは医学界からしたら噴飯物なのだ。

ところが、これを「人間賛歌」というふうに考えると、様相はガラッと変わってくる。高須のパフォーマンスはこういった慣習やコードに拘束されることのない自由な主体の営為として再定義されることになるのだ。その自由さを示す方法が「無根拠・無意味」だった。そして、その象徴的なものが「ドバイ編」であるとすれば、最たるものは一群の「院長の一日編」ということになる。これらはいずれも、とにかく人は自由に振る舞うこと、そうすることが正しいのだという強烈なメッセージとなっている。そして、こういった「自由に振る舞う」ということがテーマになったとき、無根拠なCMの意味は突然、俄然有意味の根拠あるものへと反転する。さらに、そこに、やはり無根拠に登場しているとしか思えない野村沙知代と西原理恵子二にも必然性が生じてくる。二人とも「自由に生きている」という点で、高須とライフスタイルを一にするからだ。

そして、このテーゼは、結局、本CMのメッセージにたどり着く。

すなわち

「自分を楽しんでいますか?」

そして高須の答えは、もちろん「Yes!」だ。

視聴者に働きかけていることは?
でも、それはやっぱり高須の自己顕示には代わりはない。成金俗物趣味をメタ成金俗物趣味に変更しただけで、自己顕示していることには同じだから。つまり他の成金同様、客を無視したナルシスティックでグロテスクな存在。言い換えれば「高須クリニック」の営業には、何ら貢献していないもののようにも思えるのだが。

いや、そんなことはない。こういった高須の自己顕示、メタ俗物的パフォーマンスが示す「自由に生きていい」という人間賛歌は、翻って顧客=患者たちに衝撃を与えることにもなっている。

高須クリニックは美容整形外科だ。つまり身体のあちこちを人工的に作り替えるという、医学としては「はみ出し」の、付加価値的な分野に当たる。インターネットで検索してみるとわかるが、たとえば有名女性アイドルタレントの中高生時代の写真が流出し、その顔立ちが現在とは全く異なるゆえ「○○は整形している」なんて陰口がたたかれる。ここには「整形までしてタレントになろうとした」という文脈が含まれている。ということは「整形=よろしくないこと」というコード・慣習が一般には定着している(まあ、以前よりはかなり認められるようにはなっているが)。この一般的慣習に、高須はこのメタ俗物CMで挑み、そして整形することの正当性をここで主張しようとしている。(ちなみに高須自身も顔を整形している。そしてそのことを公表している)。

つまり、人のことなんか気にすることはない。自分がやりたいように自由に生きればいい。そこで高須はCMでこういった容姿などで悩んでいる視聴者に訴えるのだ。それはつまり。

「自分を楽しんでいますか?」

で、高須は楽しんでいる。こういったメタ俗物性をCMを使って率先的に自己顕示することで。だから前述したように高須の答えは「Yes!」だ。ただし、高須クリニックのCMのキャッチフレーズはYesだけで終わらない。その後ろに一言加えられている。つまり、

Yes!「高須クリニック」

この訴えかけは、つまりこうなる。「あなたは自分を楽しんでいますか。もしそうでなかったら高須クリニックにいらっしゃい。そうすれば、自分を楽しむことについて「Yes」の答えを返せるはずだ!」そう 、「整形してどこが悪い!他人の目など気にする必要はない」と。そして、そういった常識破りを率先してやっているのがCM上の高須なのだ。

ここでも、高須は常識をぶっ飛ばし、楽しめ!と煽っている。


Good morning, Dr.Takasu.、次はどんな自分の楽しみをパフォーマンスして、僕らにYesを見せてくれるのですか?


付記:そういえば「Yes」をテーマにしている日本人がもう一人いた。オノ・ヨーコだ。オノも既成の概念にとらわれることなく自由に振る舞い続けていることについては、誰も疑わないだろう。そう、彼女のYesはビートルズまで解体させてしまたとさえ言われ、またジョン・レノンという作品を作りあげてしまったのだから。当然、自分を楽しむエネルギーが強いので、あっちこっちから非難を浴びているのだが、そんなものはYesといってはねのけてしまっている。ちなみにオノは2001年、自らの個展”Yes,Yoko Ono”はアメリカ美術批評家国際協会の最優秀美術館展賞を受賞している。


豪華ホテルでステーキブレックファーストという、奇っ怪なメニューを白スーツ姿で食べる高須


高須の1200万円するクルマに落書きする西原理恵子。300万円くらいになっちゃったんじゃないかと西原はコメントしている。




高須クリニックのCMで出演する高須克弥院長は一見、俗物の限り、自己顕示の限りを尽くしていると思えるが、その実、このCMにはきわめて巧妙な「俗物根性をあえて売り物にした戦略」が組まれている。こういった前提でテクスト分析を進めている。

全ては無根拠

じゃあ、あのCMは一般の俗物たちの自己顕示とどこが違っているのか。これを「メタ俗物根性」というスタンスで考えてみよう。

再び高須クリニックCM「ドバイ編」を見てみよう。このCMの基調は全て「無根拠に満ちている」という点だ。まず高須院長がドバイにやってくる理由が全くない。学会に来ているのか?クリニックをドバイに建設しようとしているのか?全く不明なのだ。この人はいったい何をやりたいんだろう?ところが豪華船を借り切って船の中でアラブの富豪らしき人物たち(これも豪快にウソっぽい。どうみても二流の役者にしか見えない)と談笑している。中心にはもちろん高須院長がいるのだが、何を話しているのか想像がつかない。もちろん豪華客船を借り切る根拠もない。そして今度はヘリを操縦して高層ビルへという下りなのだが、ヘリで行く必要もなければ、なぜその後、高層ビルの中で会議をする必要があるのかもわからない。そしてその会議の中に野村沙知代あるいは西原理恵子がいて高須の話に頷くのだが、これこそ本当に全く根拠がない。元野球選手・監督の妻、あるいはマンガ家がドバイに来て医者と会議に出席するいわれなど全くないのは誰にとっても明らか。この二人、まさに無根拠の極みなのだ。

これが単なる芝居=虚構であることは誰の目にも明らか。だから、もしこのCMを歌う天気予報の社長のノリでやっていたらタダのホンモノの俗物で終わりだ。いや、ところがそうではない。高須がやっているのは、この「俗物」をあえて演じているところだ。野村や西原が登場するのは、この映像が虚構であることを自らダメを押しているというふうにしかとれない。さっきも書いたけど野球監督夫人とマンガ家とドバイはなんの関係もないのだから。

じゃあ、これで高須は何をやろうとしているのか?単刀直入に答えれば「オレは金持ち、オレは俗物。だから金を使って自己顕示する。文句あっかー?」ということになる。つまり「究極の俗物」。ただし、高須は自らが俗物であることを確信犯的に自覚し、あえて俗物を徹底して演じ続けるというスタンスを採用している。いいかえれは自らの俗物性を対象化、相対化している。そしてパロディ化している。つまりこれは「役割演技」としての俗物なのだ。

高須はそのことを明示すべく、CMの至る所に「無根拠」「無意味」な記号を配置する。その最たる存在が前述した野村沙知代と西原理恵子という、出演する意味の全くない二人なのだが、この記号性は、さらに高須のメタ俗物性戦略のツールとして有効に機能する。

野村沙知代の夫と高須はメタ俗物性というポジションで同じ立場にある

先ず“サッチー”こと野村沙知代。彼女の夫はご存知のように野村克也だ。野村は自宅が豪華な家具や置物であふれていることで有名だ。クルマも日本に数台しかないポルシェを所有している。自宅にはひたすら高価なものが並べられ、統一性がない。つまり俗物、成金趣味の極地のような生活をしている。ただし、これには理由がある。野村はプロ野球選手になるまでは極貧の生活をしており、豊かさに対するものすごいルサンチマンがあるとしばしば告白している。で、一流選手となり、有り余るカネを手にしたとき、こういったものを次々と所有しはじめた。沙知代夫人にしたところで高級クラブのホステスだ。だが、これだとタダの俗物なのだが、野村もまた高須同様、自らがこういった金ぴかなもので周囲を固めることについて確信犯的信条を持っている。野村は自らの所持物を評して「俗物」「くだらないもの」と言い放つ。そして、なぜ、そんなものを集めるのかという理由について「復讐」と答える。いいかえれば野村と高須はメタ俗物性という側面で同一線上のスタンスを備えている。

マンガで自分を徹底的に俗物として描いている西原を、高須はCMに出演させている

次にマンガ家の西原理恵子。彼女自身は野村や高須のような俗物的な生活をしているわけではない。その代わり西原はメディア上で高須のスポークスマン的役割を担っている。ただし、ネガティブな意味で。西原のマンガには高須がしばしば登場するのだが、これが極端に俗物のそのもののキャラクターとして描かれているのだ。たとえば旅に同行した際の高須の奇行が次々と描かれる。しかもかなり凶暴な。にもかかわらず二人は雑誌で「愛人関係にある」と書かれるほど親交が深い。そして、高須自身は西原が描くマンガ上の「俗物高須」のことを気にすることがないどころか、自らのCMに西原を出演させてさえいる。それは、西原のマンガを知っている読者なら、このCMは「あの俗物の高須と同時に出演している」という認識になる。

自虐ネタ?自ギャグネタ?としての「院長の一日編」

そして、こういった「自己パロディ」「メタ俗物性」を極めたのが「院長の一日」というCMシリーズだ。この一連のシリーズの中で高須はとにかく常識外れの奇行を繰り返す。いくつか取り上げてみよう。1.「寿司茶漬け編」。お昼時間だろうか。高須の食事は寿司だ。ウニやいくらが入っていかにも高級そうなそれなのだが、高須はこれをいきなり丼にぶち込みお茶をかけてすすってしまうのだ。そして「別々に食うよりはいっぺんに食った方がオイシイね」としたり顔でコメントする。2.「朝食編」。豪華ホテルで高須の宿泊する部屋に朝食が運ばれてくる。すると立ち上がる高須。なぜか真っ白なブレザー?タキシード?スーツ?を着たままの状態で起き上がると、朝食として口にするのはステーキ。そして「これが朝飯には消化がいいんだよ。すぐにエネルギーになるしさ」と嘯く。3.「高級車イラスト編」。これは二つある。自らが所有する1200万円はするスポーツカーに西原理恵子がマジックで自らの顔を描き、さらに名前も書き込む。西原は「これで300万くらいになっちゃったんじゃないか」と言い放つ。もう一つはこのペイントに西原は「駅でなくすと困るから」書き込んだとコメントするもの。高須はさらっと「酷い人ですね」と言い返す。

院長の一日編ともなると、もうこれは完全にメタ俗物性というイデオロギーを顕示するという点で究極のレベルになる。基本は豪華なもの(すべて自腹)を次々に台無しにしていくというパターン。そして、この場合、視聴者、そしてインタビューアーがその非常識ぶりにひたすら呆れるという展開になる。また、自虐的なネタも多く、あえてだらしのない裸を見せたり、わけのわからない趣味を披露したり、スキンヘッドで登場してみたり、完全なスッピンで登場したりなんてものもある。

言い換えれば、このシリーズでは高須が演じる「俗物高須」はさらに洗練され「究極の俗物高須化」が行われているのだ。だが、この時、俗物性は突然反転して美的なものへと転じていく。なおかつ、この戦略は結果として、高須クリニックのビジネス戦略とピッタリと整合性を、保ってしまう。なぜか?(続く。すいません、今回後編で終わる予定でしたが、いろいろ考えているうちに長くなってしまいました。あとひとつやりますのでお付き合いのほどをm(__)m)

高須クリニックドバイ編・フルバージョン



「Yes!高須クリニック」って、いったい?

ここ数年、実に気になっているCMがある。残念ながら全国では放送されてはおらず、もっぱらテレビ東京あたり(「開運!なんでも鑑定団」の時間帯など)で流されている高須クリニック(美容整形外科)のCMが、それだ。このCMでは高須クリニックの院長・高須克弥氏みずからが出演しているのだが、これが実にスゴイ。

とりわけ興味深いのは「ドバイ編」だ。CMの中で高須は、ドバイでヘリを操縦したり?、豪華船の中でアラブのビジネスマンらしき人間たちとなにやらビジネスのやりとりをしている。そこになぜか、チャドルらしきものを纏った野村沙知代や西原理恵子があらわれる。そして「自分を楽しんでいますか」というテロップが出た後、「Yes、高須クリニック」と本人が語る。でもって、すごくカネがかかっているのだ。ちなみにこの他にも「院長の1日」シリーズがあったりするが、こちらも含めてとにかく最近の高須クリニックのCMはなんかヘンなのだ。

深夜にローカル局でやっている「歌う天気予報」という奇っ怪な番組の秘密

ご存知の方も多いかもしれないが、民放ローカルテレビ局は深夜の番組が終わる間際に実に奇妙な番組をやっていることがある。典型的なのは「歌う天気予報」と題された番組。フツーに天気予報なのだけれど、なぜかバックが演歌。和服を纏った演歌歌手がこぶしをふりまわして歌っている(でも、だいたいはあんまり上手いとは言えない)。とにかくミスマッチなのだが、このあやしげな番組は民放の収益構造を踏まえるとよくわかる。民放はスポンサーからのCM料で収益を賄っている。つまり局の立ち位置からすればプログラム=番組はCMを見てもらうためのオマケ。で、CM料金は視聴率で決まっている。つまり視聴率が高ければ高いほどCM放送料金も高い。ということは、テレビが終わる深夜帯はものすごく視聴率が低いのでCM料金も安い。だったら、ということでCMを流す会社が番組も買ってしまうということすらある。それが、こういったあやしげな番組を産むことになるのだ。何のことはない、ここで歌っている歌手は演歌歌手でも何でもなく、この会社の社長(だからあんまりうまくない)。ひたすら自己顕示のために番組を買い取りテレビに出て悦に入っている、ただしそれじゃあ番組として成立しないので天気予報を流すというわけだ。要するに俗物。成金趣味。

もちろん、これを見ている側はたまったもんじゃあない。ようするにカネにものを言わせて、視聴者にキモチワルイものを見せているわけで。

で、高須院長がやっていることは、この「歌う天気予報」の社長と全く同じようにみえる。ところがよくよく見てみるとギリギリのところで決定的に違っていることがわかる。そして、そこが実に僕には興味深いのだ。

俗物を俗物として演じるメタ俗物性

2つのコンテンツはどこが違うのか。それは立ち位置の相対化の問題に行き着く。「歌う天気予報」の社長は単に「ナルシスティックに悦に入っている」だけ。つまり「オレってイケてるだろう」と本気で思っている。ところが高須院長の方は「ナルシスティックに悦に入っている」と言うことに悦に入っている。つまり「オレは悦に入っているんだ」と言うことを自覚=対象化しつつ悦に入っている。そして、そういったメタ的なスタンスが、高須クリニックという病院の存在を明確に打ち出すというCMの機能的側面をも最終的に結果している。つまり、実に巧妙に組まれた「俗物根性あえて売り物にした戦略CM」なのだ。後編ではこの戦略をCMのテクスト分析から明らかにしてみよう。(続く)

日本という文化であるからこそ通用する二つのCM

さて、「消臭力」と「蚊に効くカトリス」。二つの商品のこういった「わけのわからない」「無意味な」レトリック。これが受け入れられるのは、実は日本独自の土壌に根ざしているという背景があると考えるべきだろう。

ナンセンスCMが受け入れられる背景の源流としての80年代

80年代。90年代に向かうバブルの真っ盛りの中でCMには様々な実験が行われた。当時マーケティングで叫ばれていたのが分衆・少集マーケティングと呼ばれるものだった。80年代に入り、それまでの計量マーケティング(市場調査を行い、一般大衆が最も要求するニーズに合わせて商品を開発する)というスタイルが通用しなくなるという事態が起きていた。そんなとき、電通マーケッターの藤岡和賀夫が、この現象が「少集の出現によるものである」と説いたのだ。

藤岡は計量マーケティング、言い換えれば大ヒット商品が生まれなくなった理由をだいたい次のように説明した。

「今は、一通り欲しい物が揃った時代。テレビもクルマもエアコンもある。そうなると人々は必要=ニーズに応じてものを購入すると言うことがなくなり、欲望=ウォンツに基づいて商品を購入するようになる。ニーズは「人と同じでありたい」「中流志向」がベースだったが、もうそれは達成されている。一方、ウォンツは「人と違っていたい」「ワンランク上志向」がそのモチベーションとなっている。だから人々は大衆を嫌い、趣味や嗜好に合わせて小さな集団を志向する。それが少集という人々の出現だった。だったら計量マーケティングのような「みんながほしがる大衆的なモノ」は、こういった志向を持った少集・分衆が最も嫌う商品。だから、「ちょっと違った、オシャレで感性豊かなモノ」を商品として展開するべきだ。」

そしてこの藤岡の主張は当時のマーケティング業界全体に受け入れられ、その結果、ちょっと変わったモノが出現しはじめる。だが、当時は、そんなにいろいろと細かいモノを作る技術はなかった。そこで、商品の中身ではなくメディア性、つまり売り方にその差異化が求められたのだけれど、その際、注目を浴びたのがCMの戦略だった。そして、その際、戦略の一つとして行われたのが「とにかくCMで目立てばイイ」というやり方だったのだ。かくして、こういったナンセンスで無意味なCMが次々と登場するという現象が出現する。

無意味=ナンセンスCMの認知と定着

だがバブル崩壊以降、こういったあからさまに差異化を狙ったCMは影を潜めるようになる。これは二つの理由があった。一つはこういった差異化ばかりに目を向けたバブリーな商品に、闇雲に手を出すための実弾、つまり可処分所得がバブル崩壊とともに尽きてしまったこと。もう一つは、テクノロジーの進化によって細分化されな商品が展開され、いちいち意識しなくても、その商品を手に取った瞬間「人とは違っている」というようなインフラが出来上がってしまったこと。こうなってしまうと、人と違っているモノを購入したところで、人それぞれでしかないのであからさまな差異化が働かない。だから、人々はこういった商品の購入によって他者との差異化を図るという戦略から降りてしまったのだ。

ただし、こういった記号性に根ざしたCM、つまり商品の機能=使用価値ではなく見た目やおもしろさ=記号的価値に根ざしたCMは、日本人にとってはCMのジャンルとしては定着した。ただし、かつてほどではなくごく一部の商品がこういった展開を選択するということになったのだけれど。


そんな時、80年代より遙か以前から無意味=ナンセンスのおもしろCMを続けてきたキンチョーがこれを続けることで、キンチョーは企業のブランドイメージ、コーポレイト・アイデンティティを消費者に向かって発することが可能となったのだ。そしてエステー化学の「消臭力」にしても、こういった生き残った数少ないおもしろCMの分野を担うモノとして、現在ここで展開されていると考えると納得がいくだろう。

ちなみに、こういったナンセンスCMが、いかにこういった日本社会における経済的背景、CM史の背景を背負っているのかは、日本以外のCMを見てみればわかる。その機能性を説明しないCMなんか世界にほとんど存在しないからだ。そして、もし消臭力やキンチョールのようなCMを日本以外で放映するようなことがあれば、ほぼ間違いなく完全に無視されてしまうだろう。

僕たちが、これらのCMにおもしろさを感じるのは、実は僕らが日本人であるからに他ならない。



イメージ 1

キンチョールを掲げる、女装の桜井センリ


無意味CMの有意味性とは

前回はキンチョーのCM「蚊に効くカトリス」が、インデックス=ナレーションと、イコン=映像が全くかみ合っていないにもかかわらず、インデックス性が勝っているので、ナレーションの指示に従って映像を読み込んでしまっていること。だが、映像とナレーションの齟齬に気づいた瞬間、このCMがナンセンスなだけで、何も語っていないことを明らかになることを指摘しておいた。「蚊に効く」はずのこの製品の効能が一切語られず、ただ製品についているファンの回転が作る渦をドライアイスで見せただけ。これでは蚊に効くのかどうか全然わからない。でも、なんでこんな無意味なCMを作ったのか?言い換えるとこの無意味の有意味性はどこにあるのか?

キンチョーはずーっと無意味なCMを作り続けてきた

これを紐解く鍵は二つある。一つは、この作品が、キンチョーが四十年間以上続けてきたCM戦略の延長線上にこれがあること。実は、キンチョーは、これまでそのほとんどに無意味なナンセンスCMを展開してきたという実績がある。そのはじまりは60年代のキンチョールのCMに遡ることが出来るだろう。このCMでは、和服姿の女装をしたクレイジー・キャッツの桜井センリが、右手にキンチョールを持って商標名を読み上げるのだけれど、この時、桜井はキンチョールを逆さまに持っていた。そして商品名も「ルーチョンキ」と逆さに読んだのだった。



「トンデレラ、シンデレラ」というダジャレを展開する研ナオコ


つぎに70年代。同様にキンチョールのCM。出演するのは研ナオコだった。二人の研の上にハエが飛んでいる(ハエと言ってもマンガチックな模型)。すると研は「あっ、トンデレラ」と一言。するともう一人の研がキンチョールを一吹き。するとハエが下に落ちる。そして落ちたハエを見て、今度は「シンデレラ」。あとはこれを繰り返すだけなのだけれど、これは「死んでいる」というのと「シンデレラ」の単なるしょーもないダジャレ。まあキンチョールが吹きかけられることでハエが死んだのだから効き目があることの説明にはなるが、もっぱらダジャレと爬虫類的な研ナオコのキレた演技が光るだけというものだった。



キンチョールの機能の説明が一切ない「ハエハエカカカ、キンチョール」


そして80年代になるとキンチョールのCMはますます意味がなくなってくる。ところは歯科の診療室。医師を演じるのは柄本明、治療台にのっかている患者は郷ひろみだ。

一通りの治療を終えた柄本は、その具合を確かめようと、郷にある言葉を発せさせる。それは「ハエハエカカカ、キンチョール」という台詞だった。はじめに郷が発すると、それに対して柄本が「ちょっとヘンですね。もう一本抜いておきましょ」といって歯を一本抜き、次に大きな声で「ハエハエカカカ、キンチョール」と手本を見せ、次いで郷ひろみに、これを、やはり復唱させる。すると柄本は「よろしいんじゃないんでしょうか」と締める。ここではイコン的にもインデックス的にもキンチョールに関する情報は一切ない。あるのはキンチョールを連呼することだけだ。

つまり、キンチョーは延々無意味な、指示性(商品の機能を説明する性質)を持たない、無意味な指標性=インデックス性に依拠したCMを作り続けてきたのだ。そして、それによって、ずっとキンチョーの商品を見させられ続けてきた視聴者は、無意識のうちに「キンチョーは無意味なCMを作る」という認識を抱くようになったのだ。

だが、この継続によって、無意味性は究極の有意味性に転じている。もちろん、CMの情報=内容に対して視聴者が有意味性を感じているわけではない。有意味性が生じているのは、むしろCMの形式=メディア性だ。つまり「キンチョーは常に無意味なナンセンスCMを作り続ける」という側面が、逆にキンチョーというブランド、そしてキンチョーの商品の記号性=アピール度を高めている。で、そちらの側面の方が重要であって、だからこその商品の機能は、これに従属させられているのだ。

機能をCMのアピールポイントとしないもう一つの理由

だが、こういったイメージを強調する理由はもう一つある。それはキンチョーの展開する商品群が、特段優れたものではないからだ。もちろん、これは同業他社の商品に比べて劣っていると言うことではない。そうではなくて「殺虫剤」が、商品としての差異化が極めて難しい問いジャンルに属しているという理由による。つまりアースだって、フマキラーだって別に同じだから、どれだっていいわけで。だったら、商品の機能=使用価値に訴えるより、商品が目立つこと=記号的価値にポイントを置いた方がいい。それが結果として、こういったナンセンスCMを量産することを結果したのだ。

そして、こういった戦略を採る背後には、日本のCM文化の独自性が存在する。それは何か?(続く)

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