アルジェリアのテロで、今回、すでに日本人だけでも9人の死亡が確認された。アルジェリア政府はこのテロに対して軍突入という強硬措置を行った結果、大量の犠牲者を生んでしまったわけだが、このことについてアルジェリア政府は「対応は適切で何ら問題ない」といった主旨のコメント行っている。

当然、人道的措置を期待した日本政府、そしてわれわれ日本人からすれば「トンデモナイ」ということになるのだけれど。実際、日本政府・菅官房長官も「アルジェリア軍の行動は残念」とコメントしている。しかしながら、アルジェリアのこの対応、残念ながら、ある意味では「適切」と判断しなければならないかもしれない。ちなみにフランスのオランド大統領はアルジェリア政府の対応を「最も適切」と評価、アメリカ・クリントン長官とイギリス・キャメロン首相は「責任はテロリストにある」とアルジェリア政府を擁護している。

それにしても、日本と他国のテロに対するこの認識の違いはなんだろう?

戦争はゲーム

言うまでもないことだが、戦争とは「ゲーム」である。「ふざけるな!」と突っ込まれそうだが、社会学的にはゲームの範疇で括ることができる。ゲームはルールで構成されるからだ。戦争は利害を対立させている国家が人命をかけて権力奪取をめざすもの。だが、そこにはきちんとした規則がある。先ず、戦闘員と非戦闘員の分離。戦闘員は戦闘服に身をつけることで「的」となることを明示しなければならない。言い換えれば非戦闘員は一般服だから、これを攻撃してはいけない。また、時に休戦日がもうけられたりもする。さらに捕虜は戦時国際法によって扱いが定められているし、白旗を揚げたら攻撃する側はそれ以上攻撃してはいけない。また、白旗を揚げた方は武装放棄しなければならない(もちろん、他のゲームと同様「違反」は出現するが)。そして非戦闘員の被害を最小限に食い止めることがめざされるものの、国益のためには戦争によって非戦闘員が犠牲になっても、それは仕方がないというかたちで認識されてきた。そう、戦争とはまさに厳密なルールに基づいて行われるゲームなのだ。

戦争というゲームのルールを逸脱したのがゲリラ、そしてテロだ

さて超大国・アメリカが戦争で負けた国が、一つある。それはベトナムだ。なぜか?そこにベトコンというゲリラが存在したからだ。ベトコンがアメリカ軍に勝利した理由は簡単。戦争というゲームで「ルール違反」をやったから。ベトコンはゲリラだからどこから出没するかわからない。しかも戦闘服に身を纏っているわけでもない。だから、アメリカ軍は何をやったらいいのかわからなくなってしまった(そうやって混乱したアメリカ兵がやってしまったのがソンミ村の大虐殺だった。襲撃した米兵には村民が全てベトコンに見えてしまったのだ)。

そして、このゲリラのやり方を現代風にアレンジしたものがテロだろう。911の時、アメリカはその対応に苦慮、そして混乱した。アフガンやイラク政府を崩壊させてしまうのだが、肝腎のテロの張本人であるアルカイダの殲滅には至っていない。アルカイダもベトコンと同様、戦争、国際紛争のルール=ゲームの規則外で場外乱闘をやっているからだ。アメリカは仕方なく、これを「戦争」と定義し、それを仕掛けた国家の政権を倒すという手段に出たのだけど、当該国からすれば迷惑な話だ(要するに、アメリカは場外乱闘を、あくまでリング内で決着をつけようとした。それが可能なのはショーであるプロレスだけ。現実はそうはならない)。つまり「突っつく場所を間違えている」。国家を戦争のルールに基づいて殲滅したところでテロが殲滅されることはなかったのだから。

テロはルールを逸脱することで、これまで勝ちを収めてきた

さて、テロであるが、これはこれまで戦争としては認識されてこなかった。 だから戦争のやり方が適用されていない(911に対するアメリカのやり方=アフガン、イラク攻撃は例外。戦争とはみなしたが、アルカイダそれ自体には戦争のルールは適用していない。むしろ国家に「戦争」、テロリストには「悪い奴らの掃討」という認識だった。ようするに国家とテロリストを混同しているわけで、だから対応がちぐはぐになった)。で、得てして民間人が犠牲になるので、これはむしろ誘拐などの”刑事事件”というゲームのルールが適用されてきた。その結果、テロで用いられたのが「人命尊重」だった。そして対応する政府の側はこういった人命尊重のルールに基づいて対応してきた。だが、テロリストがやっていることは「場外乱闘」。つまりこのルールが全く適用されない。だから、やられっぱなしになってきたというわけだ。言い換えればテロリストは反則行為によって勝ちを収めてきたというわけだ。

テロを戦争として再規定する

じゃあ、どうやったらテロに対して対応できるのか。その方法は簡単。対応する政府の方も場外乱闘をやればいいのだ。つまりこれまでのリングの中だけに適応してきたルールを改め、テロリストと同様、場外乱闘をルールの中に織り込んでいくこと。実は、こういったテロ対策に対するパラダイムシフトを日本以外の国家はとっくの昔にやってしまっていた。だから今回のアルジェリア政府の対応を適切と言ったのだけれど。

新しいルールとは、なんのことはない。戦争のルールをアレンジし直したものにすぎない。つまりテロの戦争ルールへの繰り入れ。先ず国益を重視する。そしてテロについては断固として対応する。その際、かつての誘拐レベルでやってきた対応は捨て、国益のためには民間人が多少犠牲になってもやむを得ぬという「戦争ルール」の態度で臨むのだ。こうすることで政府は初めてテロリストと同じルール上で戦うことが可能となる。つまり、誘拐のように人命重視と言うこと(これが政府がテロリストに対して持っている弱みに他ならない)を二の次にして、どんどんとテロに強行突入していく(それが結果として「テロリストとは交渉しない」という方針になる)。多くの場合、要求など一切聞かずに。こうなると、テロの効果は激減してしまう。テロによって、テロリストは全員死亡するし、要求も達せられないので費用対効果が得られなくなってしまうからだ。要するに911以降、十年を経て、やっと国家はテロリストとイーブンに戦うルールを発見したというわけだ。ただし、間違えて欲しくないのは、こういった「テロの戦争ルールへの繰り入れ」はテロリスト側の金銭獲得と政治的要求には効力はあっても911のような象徴性の高いテロには相変わらず功を奏さない。この手のテロは社会に衝撃を与えることに主眼があり、なおかつ原則自爆テロになるからだ。だから結局、セキュリティをアップすること、それから残念だが、いざというときは覚悟することが必要となるのだけれど。

そして、こういった新しいゲーム=戦争とテロを取りこむルールによって構成されたもの中で、ゲームは新たに展開されることになる。それは言い換えれば、それはゲームゆえ今後国家とテロリスト双方の作戦が高度・巧妙になっていくということだ。そして、すでにこれを徹底してやっているのがアメリカであることは言うまでもない(だから、アメリカ側から見れば、今回のアルジェリアのやり方はずいぶんと杜撰に見えたのではなかろうか?)。まあ、結局「詰め将棋」は続くのだが、ルールが共有されていないことよりは被害を減らすことができる。

そして、今回のテロは、わが国でも今後のテロのあり方についてのパラダイムシフト=ゲームルールの再編成が起こる可能性があることを示唆している。つまり「人命最優先」という立場を破棄しなければならないという……。まあ、「アブナイ国に行くのは、おっかない」ってなことにもなるのだが。

学生時代、のんきにアルジェリアのサハラ砂漠をうろついていた僕としては「なんだかなぁ」という気分でもある(もっとも、バックパッカーを拉致するのは、テロリストにとっては費用対効果的にはあんまりメリットがないだろうけれど)。