勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:その他音楽

日本における音楽市場の売り上げ減少


ちょいと古いデータだがIFPI(国際レコード産業連盟)の2013年度の統計では全世界での音楽産業の売り上げが3.9%減少(156→150億ドル)したことが報告されている。で、この減少に最も足を引っ張ったのが音楽市場としてはアメリカに次いで第二位の日本における売り上げの減少だった。その減少率、なんと16.7%。仮に世界統計から日本の売り上げを差し引くとその減少率は0.1%にすぎない。ちなみに第一位のアメリカは0.5%増加(48億ドル)だった。

そこで、今回は日本とアメリカの音楽市場の違いから、日本の極端な売り上げ減少について考えてみたい。この原因、実はリスナーの嗜好が変容したのではなく、もともとあるリスナーの視聴スタイルと音楽業界の構造的問題が絡んでいると僕は見ている。

日本人はモノ=フィジカルにこだわる

日本の音楽市場に特徴的なのは、相変わらずCD、つまり物質=フィジカルを媒介にしたパッケージ販売にこだわっていることだ。CD売り上げは前年比85%であるのに対し、ダウンロード販売は前年比77%と落ち込みが激しい(日本レコード業界)。世界の音楽市場はダウンロード販売に移行しつつあるというのに、だ。リスナーは、音楽というのは所有するか、純粋に消費するかのどちらかと割り切っているからなのだろうか。つまり、「これは大切」と思ったものはCD(あるいはレコード)を購入してライブラリーに並べる、それ以外はレンタルしてコピーしてしまう(日本のあちこちにTSUTAYAはあるので、ほとんどの人間がこれをやれてしまうというインフラがあるのも大きいだろう)、あるいはあまり音にこだわらなければYoutubeでタダで聴く。もし、そうであるとするならば、このどちらにも該当しない、つまり所有する喜びもなければ、値段も安くはないダウンロード販売に魅力を感じないのもわからないでもない。

アメリカも音楽事情は変化している~サブスクリプションの発展

ところが音楽業界が目ざしていたCDからダウンロード販売への移行も、ちょっと様子がおかしくなりつつある。アメリカでiTunesStoreの販売数が昨年5.7%減少したのだ。ダウンロード販売と言えば、真っ先に思い浮かぶのがここ。AppleがiPodをブレークスルーするきっかけとなった音楽販売サービスだが、これが開始10年を経て、そろそろそのシステムに限界の兆しが見えつつある。世界的にみてもダウンロード販売は2.1%の減少といった状態。

その原因は明快だ。サブスクリプション=定額制音楽ストリーミングサービスがどんどん定着しつつあるからだ。Spotify、Deezerといったサービスでは定額で1000万曲を超える音楽を聴き放題(音質や広告つきなどで価格は差別化されている)。なので、リスナーとしては膨大なライブラリーを利用可能となる。スマホに専用アプリをインストールすれば、いわば音楽図書館(有料だが廉価の)を持ち歩くという音楽環境を構築することが可能になる。Spotifyは現在、世界で2000万を超えるユーザーがあるという。全世界での昨年の音楽ストリーミングサービスの売り上げは昨年51.3%と急成長。ということはレコード→CD→ダウンロード販売→サブスクリプションによるストリーミングという形で音楽の聴取方式が変容していると考えられる。この流れは、もはや避けられないのでないだろうか。

そうであるとするならば、このままでは、音楽に関しては「旧型」ビジネスモデルであるiTunesStoreの将来は暗い。必然的にAppleもiTunesにサブスクリプションのストリーミングサービスを用意しなければならなくなる。で、サブスクリプションについてはジョブズ健在の頃からしばしばウワサにはなってきたことではあるのだけれど、ウワサの域を出ることはなかった。しかしながら、もはや徳俵に引っかかっている状態。おそらく今年度中には発表されるのでは?

ストリーミングサービスの夜明け

日本の場合、前述したCD→ダウンロード販売→サブスクリプションという流れは該当しないだろう。ダウンロード販売が定着しないのだから、これはあたりまえだが……。で、要するにCDからダウンロード販売を飛び越していきなりサブスクリプションになるのではなかろうか。実はサブスクリプション、日本でも以前から存在した。たとえば2006~2010年にわたりNapstar Japanがサービスを提供していたし、2012年からはSONYがMusic Unlimitedによってサービスが行われている(僕もこれらをずっと利用してきたのだけれど)。ただし前者はPCベース(Windowsのみ)だったこと(iPodでは使えなかった)であまり認知されなかった。一方後者は、なぜか認知度が低い。これは、おそらくサービスとプラットフォームの関連が見づらいからなのではないだろうか。そして現在虎視眈々と日本上陸を狙っているのがSpotifyだ。今のところ国内からはサインアップが出来ないが、サイトを開くと「日本でのサービスを準備中」とある。もしこれが実現すれば複数のサブスクリプション型音楽ストリーミングサービスが誕生するわけで、これにiTunesStoreが乗っかるとすれば、その時点でおそらく音楽視聴形態は一気にサブスクリプションへと移行するだろう。そして、ここでiTunesStoreがこのサービスをはじめれば、その強さは圧倒的だろう。抱える楽曲数もさることながら、iTunesというアプリがiPhoneやiPodのプラットフォームになっているゆえ、他のサービスと異なり、その認知が一気に広がる可能性が高いからだ。日本ではスマホ市場でiPhoneが圧倒的人気を誇っているのも、これに拍車をかけるだろう。現在Music Unlimitedのサービスが月額980円なので、サービスを開始するとすれば、これと同様(ただしちょっと高め)の料金でということになり、「この程度なら懐も痛まない」と多くのiPhone・iPod利用者が思うのではなかろうか。

現状では、一部の熱狂的な音楽マニア用でしかないこの「移動音楽図書館」「なんでもジュークボックス」。世界でこの流れが一気に進行し、やがてダウンロード販売が陳腐なものとなる。その流れの中で日本の音楽視聴形態も変化していくだろう。ただし、音楽業界の構造上、最も遅いラガードとして。

そうなるとしたら、われの音楽視聴意識もまたガラッと変わってしまうことが考えられる。ネットがパケット定額でやり放題になったときに起こったこれらメディアへの意識変化と同じように(スマホ利用者の多くがテレビよりネットアクセス時間の方がもはや多いのだ)。料金に気兼ねすることなく音楽が聴けるようになるのだから、おそらくこれまで以上の嗜好の多様化をもたらすのではないか。その一方でCDやレコードは「コレクション」としてある程度残る。つまり音楽視聴のサブスクリプション=ストリーミング化は、僕らの音楽分野での「オタク化」を推進していく。そんなふうに僕は考えている。

ウッドストックは、世代はどのように語られるべきか

世代論の欠点が、「対象となる若者を一元化してしまうこと」にあること。そして、「これを避けようと世代論が語らなかった、排除された若者たちに焦点を当てても、結局はまた別の一部の若者に対する語りになるという循環論に陥ってしまうこと」を前回は指摘しておいた。ではウッドストック論や、それを部分集合に含む世代論は語られる意義がないのかと言えば、そうでもないと僕は考える。

確かに世代=若者を正確に描写するとことは困難だ。しかし、世代=若者を描写し考察した言説は、その内容の正確性があやしくても、これまで語り続けられてきた。こういった、いわば「ウソ話」が、それでも延々語り続けられるというのは、当然ながらそこに社会的ニーズがあるからで、それは言い換えれば世代論、そしてウッドストック論というディスクールが何らかの社会的機能を有していた、そして現在においても有していることを意味している。

ならば、ウッドストックの、世代の本質をそこから見ようというのではなく、こういった議論がなぜなされたのか、そしてどのようになされたのか、さらに時代とともにどのようにその言説への視点が変容しているのか。こういった視点にメスを入れることこそが、翻って極めて社会的に有用な考察となるのではないか。つまりウッドストック論、世代論の社会的機能とは何か?これである。

メディア・イベントが形成するウッドストック、若者、そして歴史

ちょっと「ちゃぶ台返し」的な結論で恐縮だが、結局、当事者ではないわれわれはウッドストックを体験することはできない。そしてメディアに媒介されたウッドストック・ディスクールに基づいて、そのヴァーチャルなイメージを構築していったわけで、言い換えれば、これらをメディア・イベントとして消費していることになる。そして、こうやってメディア的に規定されるウッドストックは、時代のコードを正当化させる言説として歴史化され、人々はそうやって構築された歴史を背景に当該世代やそして現代人は自らの立ち位置を考える。

ウッドストック、世代、そして歴史は、現在のわれわれの立ち位置を位置づけると同時に、それを正当化するツールとして当該時代に人口に膾炙することになる。団塊世代が「俺たちの若い頃は熱かった」、新人類世代が「自分は高感度にトンガっていた」なんて語りをするのは、まさにこういった言説を踏まえての自己表現と言うことになるのだ。

だからこそ、社会科学をめざすのなら、こういったディスクールがどのように構築されるのかについてメスを入れることこそ、実は時代を、文化を、そして社会を相対化するためには必要なことになるのではなかろうか。

ウッドストックはとっくに終わった過去の出来事に過ぎないが、ディスクールとしての「ウッドストック」はゾンビのように生き続ける。しかも、時代時代の権力ヘゲモニーの力学に基づいて再定義されながら。おそらく、それは風化するまで続けられるだろう。つまり、時代がウッドストックという言説を消費し尽くすまで。

ウッドストックから取り残された人々

前回は、69年に開催されたロック・フィスティバル、ウッドストックの言説が神話化され、その結果、六十年代の成人と九十年代の若者がウッドストックの文脈から取り残されたという京都大学・森山貴仁さんの指摘を紹介した。今回は、森山さんの議論をもう少し、そして批判的を含めて展開してみたい。

一つは、森山さんのウッドストックの脱神話化作業もまた、じつは存在論的には神話化作業として機能してしまう点だ。ウッドストックには若者=世代=社会的変化=60年代という概念の同一視があるとすれば、このディスクールから排除された人々はもっと他にも存在するはずだ。そして森山さんの指摘からは「最も排除された人々」に対する言及が欠けている。それは「60年代(とりわけ後半)の、ウッドストックとは直接的な関わりを持たなかった大多数の若者たち」だ。つまり前記した一元図式によって、当時の若者の多様性とか、もっとマスの若者たちのイメージが一切排除されてしまった点だ。森山さんの指摘もまた「ウッドストック・ディスクールというお釈迦様の手のひら」の上での議論でしかないということになる。いいかえれば、彼の脱神話化は他の言説と同様、結果としてウッドストック言説の神話化を援護するものになってしまうのだ。これは、残念。

排除された人々=サバルタンを救えるか?

ならば、やるべきことはこういった排除された人々、つまり「60年代若者のうち、ウッドストックに関わらなかった大多数の若者」についての言及や分析が必要と言うことになる。

で、こういった指摘。つまり、一部の若者を普遍化する一方で本当の世代や時代の若者を照射していないというツッコミは、実は世代論ではさんざんやられてきた議論でもある。近年だとその最たる人物は若者論を批判する後藤和智で、後藤は『「若者論」を疑え』『おまえが若者を語るな』(いずれも宝島新書)で、若者論の言説を様々な視点から批判している中で、この母集団の偏りについて徹底的に糾弾している。

実際その通りで、例えば「団塊世代」についての議論(これについては後藤は語ってはいない)は、ウッドストックの議論とほとんどウリ二つだ(時代も同じだが)。つまり団塊の世代=若者=世代=社会変化=60年代という図式だ。実際、団塊の世代にとってのウッドストックは、おそらく東大安田講堂における全共闘と機動隊の攻防戦あたりだろう。これに当時の若者のイメージの全てが集約された。しかし、当時の大学進学率は10%程度。しかも、これに参加した学生たちはウッドストックに参加した若者よりも少ない。

排除された人々を追いかけても、終わりがない

だが、安田講堂攻防戦はその後、肯定派、否定派から何度となく回想される際のアジェンダとなっていき、その結果、団塊世代のイメージが出来上がってしまった。当然ながら、これとは関係のない、全共闘でも学生でもない9割以上の当時の若者は言説から排除されてしまったのだ。

しかし、じゃあ森山さんも、こういった排除された人々=サバルタンに目を向けて、あらためてウッドストックを相対化し、時代の若者の「真の姿」を青天白日の下に晒すような努力をすべきではないか?ということになるが……だが、僕はそうは思わない。それは、結果として循環論、つまりグルグル回りにしかならないからだ。

つまり、こうだ。ウッドストックで排除された、語られなかった人を掘り起こしていったとしても、当然ながら、その母集団は多様な人々で構成されている。だから、仮にその語られなかった当時の若者を掘り起こしたところで、やはりそれは母集団の一部でしかない。そしてそれを埋めても……ということで、終わりがなくなってしまうのだ。では、どうするべきか?(続く)

先日、社会学最大の学会である日本社会学会の大会へ参加してきた。最近は、かつてサブカルと呼ばれた題材までがあたりまえのように取り上げられるようになってきていて時代を感じさせるが(昔だったらこんな発表をやったら「鼻つまみもの」だった)、そんな中にちょっと興味深い発表があったので、今回はこれを紹介してみたい。それは京都大学博士課程に在籍する森山貴仁さんのウッドストックの言説についての研究だ。森山さんはその発表の中でウッドストックにまつわるディスクールの脱神話化を展開しようとする。

カッコイイ、ロック・フィスティバルの歴史、ウッドストック

1969年8月15日から4日間にわたって開かれたライブ・イベント、ウッドストックは60年代若者の心性を象徴するビッグ・イベントとして語り継がれている。十数万人の参加による、若者の若者による、若者のためのロックフェスティバル。その盛り上がりの中で暴力事件は一切無く、ともに食べ物を分かち合ったり、出産があったりと、まさに「平和」で「無垢」な理想的イベントであり、当時、若者たちが花を開かせたカウンター・カルチャーの集結点と、現在定義されている。

そして、こういった定義づけの下、ウッドストックはメディア的に様々な評価を受けていく。まず当時としての評価は二つ。前述した無垢の美しいものというヒッピー文化への同調と、無法者たちがゴロついた悪夢という体制派側からの批判的なもの。だが、いずれの立ち位置をとるにしても、ここで若者=世代=社会的変化=60年代という概念が同一視されたことは事実で、ウッドストックは60年代という時代、60年代の若者という認識を集約するイベントとして、以降、語られていくことになる。

その典型が2009年1月、オバマの大統領就任に際してのニューヨーク・タイムズの記述で、それは「泥なきウッドストック」というものだった。この表現は見事に当時のウッドストックに対する二つの側面を物語っている。つまり「泥なき」は、ウッドストックは泥があった=否定的側面が存在した、というネガティブなイメージ、そして「ウッドストック」は美しい、無垢なものとしてのポジティブなそれだ。

また90年代に入り、ウッドストックはⅡ、Ⅲとして再び開催されるのだが、その際の評価はさんざんで、それは若者が背負うものでもなく、無垢などころか消費社会の、商業主義のビジネスとしてこれが位置づけられたからだ。これもまたオリジナルのウッドストックがまず「正しいもの」として存在し、それを汚すものとして90年代のものが評価されたのである。

ウッドストック・ディスクールが排除したもの

こういったウッドストックを巡る神話化の結果、森山さんは二つのものが取り残されたことを指摘する。

一つはオリジナルのウッドストックに関わった大人たちの存在。確かにウッドストックは若者による祭典だったが、会場整備をしたのは大人であり、また地域の大人たちによる協力もあった。だが、これが記憶からは消されている。

もうひとつは90年代のウッドストックに参加した若者たちの存在だ。ウッドストックⅡやⅢが商業主義的、消費主義的なものと位置づけられることで、これに参加した若者たちは、本人たちとの意向とはかかわりなく、こういった資本主義の”輩”として位置づけられてしまい、その実際の姿が排除されてしまったのだ。そして森山さんは、こういった排除された存在を洗い出す作業こそが重要であると、括っている。

森山さんの指摘は、実はウッドストックに限ったことではない。歴史や世代を語る際には必ず発生する問題だ。つまり、一部の「語られるもの」と大多数の「語られないもの」が登場すると言うこと。だから、われわれはウッドストックのような語りが登場する際には注意が必要で、こういった偏向を見抜いて「正しい」姿を見いだす必要があるということになるのだけれど。

森山さんの指摘は鋭い。ただし、この指摘にも「問題あり」と僕は考える。それは、森山さんの脱神話化のプロセスも、実はもうひとつの神話化のディスクールの中に存在しているからだ。それは、いったい?(続く)

レディ・ガガは音楽<視覚的要素

さて、レディ・ガガである。彼女はこういった視覚的要素の台頭という、音楽におけるゼーションのさらにその先を提示していると僕は考える。では、それは何か?

ちょっとここまでの「音楽への視覚的要素の浸透」の過程をおさらいしておけば、プレスリーのルックスとパフォーマンス、キッスのステージ演出、そしてマイケルのビデオ・クリップという順だった。そして、この過程で次第に視覚的要素の比重が増大していくという展開だった。

レディ・ガガはこれにさらに視覚的要素を加え、新しいコードを提示する。それは、ステージやビデオクリップだけでなく、日常においても視覚的要素を前面に押し出すというやり方だ。アメリカのタブロイド、ゴシップ、エンターテインメント誌にとってガガは今や格好のネタだ。日常の露出の場面でも、常に奇抜な衣装を身につけ、しかもそれが毎回異なっているからだ。だからパパラッチたちは金魚の糞よろしくガガの後ろに連なっていく。そして、その映像が頻繁にリスナーに届けられる。

要するにガガはステージにおいても、ビデオ・クリップにおいても、日常においても常に視覚がプライオリティー・ファーストとして登場するのだ。そして日常での奇抜な衣装が報道される時、あたりまえの話だが音楽は流れていない。つまりこここでは「音楽抜きのビデオ・クリップ/ミュージック・クリップ」という語義矛盾的な現象が発生している。そして、われわれは何ら違和感を抱くことなく、これを受け入れるようになっている。で、よくよく考えてみればわれわれはレディ・ガガの曲をどれだけ知っているだろう?実は、ほとんど知らないのではないだろうか。

レディ・ガガは「音楽のないミュージシャン」なのだ。

「見る」音楽

ガガは自ら公言している

「音楽は見るものよ!」

こういった発言、こういったスタンスを「邪道」「キワモノ」と捉えるのは簡単だ。しかし、これまで音楽の世界を推し進めて来た存在、プレーク・スルーとなった存在が、いずれも「邪道」「キワモノ」であったことを見過ごしてはいけない。プレスリーしかり(”音楽をやるのに腰をくねらすなんてのは、けしからん!”)、ビートルズしかり(“あれは単なるノイズだ””あのおかっぱ頭はなんなんだ?女じゃあるまいし“)、そしてマイケルジャクソンしかり(“映像にあんなにカネかけてどうするんだ。音楽で勝負しろ””あのネズミが踏みつぶされたときのような奇声はなんとかならんか”“金儲けだけを考えている産業ロック”)。

さて、われわれはレディ・ガガを今後、どういうふうに受け入れていくんだろうか?

↑このページのトップヘ