勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:その他芸術、アート

だが、まだ一つデュシャンがアート界に向けてやりたかったこと、つまり「ちゃぶ台返し」があるのではないのだろうか。そして、それがもう一つの新しいアートの表現方法を生んだのでは無かろうかと、僕は考える。それは、アートというものが何もカンバス上で展開されなくてもいいという主張だ。そしてここでの美の定義に照らし合わせれば「異化作用を生むものならなんでもアート」という考え方だ。

レディメイドという新しいスタイル

展示された作品『泉』にもう一度立ち返ってみよう。これは既製品の小便器である。だから、デュシャンのやった作業はMuttという仮名を便器の端にサインすることと、これをアンデパンダン展に出品することだけだ。しかし、もし、これが実際に飾られたとしたらどうだろう?おそらく展覧会にやってきた人々は、アートというコードからはほど遠いこの作品(既製品かつ作成過程がない)に驚き、非難し、怒っただろう。しかし、それは美の定義からすればまさに、この作品が美に満ちていることを照明するものとなる。お客たちは美のコードからずれてしまっているこの作品に異化作用を感じてしまったからだ。もっとも異化作用を感じると言うより「間違い」「不届き」といって作品それ自体を否定したといった方が妥当かもしれないが。

しかしながら、このデュシャンの試みはアート界にその後、レディメイドという作風を生むことになる。既製品をそのままとかいくつか並べるとかといった手法が登場するのだ。そう、デュシャンのこの試みはその後、すっかりアートのコードとして織り込まれていったのである。

カンバスを飛び出すアート、イベントアートとしてのパフォーマンス

さて、でも、よくよく考えてみるとディシャンはさらにもう一つアートの新しい手法を提示していると言えないだろうか?しかも、それは絵画やオブジェと言ったも事物によるアート表現=作品ではないものを。

この『泉』を巡る騒動、僕にはどうもうさんくさいものに見える。というより、これはデュシャンの確信犯に違いないのではと考えるのだ。つまり、デュシャンは、アンデパンダン展の審査員たちが、デュシャンの出展物=小便器を作品と見なさず、それゆえ誰でも展示できる作品展にもかかわらず出展を拒否するであろうことをあてこんでいた。で、出展したにもかかわらず展示しなかったという審査員たちの行為を批判し、メディアを使ってその不当を訴える(この時点ではこの作品が委員の一人であったディシャンによるものであることがまだバレていなかった)。すると世間にはこの作品を巡って一騒動が起きる。この一連の出来事を仕込んでいたのでは無かろうか?
もし、そうであるとするならば、それはこの後アートの表現形態として一般化するパフォーマンスがここで行われていたことになる。

このように考えるとデュシャンがやろうとしたことは、アートという表現を純粋に異化作用のみに求め、その方法が必ずしもカンバスに限定されないこと、いやナンデモアリということを知らしめようとする行為ではなかったのだろうか。(続く)

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                M.デュシャン『泉』

小便器を出展する

M.デュシャンはどうやって「アートのちゃぶ台返し」を行ったのか。

デュシャンは自分が委員をやっていたニューヨーク・アンデパンダン展という美術展に『泉』と言う名のオブジェを出展する。ただし、リチャード・ムットという仮名で。ただし、それは作品と言ってよいのかどうか微妙なものでもあった。というのも、それはその辺に売っている一般の小便器だったからだ。で、この美術展はお金さえ出せば誰もが展示できるというものだったのだけれど、これが作られたものではなくて既製品だったこと、しかもそれが小便器であったこで、異例の展示拒否にあってしまう。

そこでデュシャンは早速「この作品を展示させないのはルールに反する」と、委員として抗議する内容を新聞に掲載したのだった。

しかし、デュシャンは小便器を出展することで何がやりたかったのだろう?実は、それこそがアートという世界に対する存在論的問い、つまり「ちゃぶ台返し」だったのだ。

ここでデュシャンがやろうとしているのは「作品がアートであると言うことはどう定義されるのか」という問いだった。ある作品がアートとして認定され、他のものは認定されない。この基準はどこにあるというのか?本ブログの特集では何度も提示しているように、アート=美は異化作用にあると定義している。つまり、美の感じ方は人それぞれで違っているが、美を感じるとき、人間はその対象に記号を見てしまう。しかしその意味=記号内容がわからなくてイライラするという点では同じであるとしている。
ところが、当時のアートは、こういった定義にはなっていない。では、作成されたものがアートであるかどうかが、どうやって決まるのかという事実を青天白日の下に晒してしまおうという企てがこれなのだ。


アートをアートと決めるのは権威だ!

デュシャンが言いたかったことは、つまり、こうだ。

「作品がアートであるかどうかは、美術館に飾られること、つまり美術館が認定することで決まる」

言い換えるとアート界という「権威」=コードが存在し、その権威の傘下に入ったものは何であれ、アートである。そしてアンデパンダン展はどんな作品でも金を払えば出品可能になる。ということは既製品の小便器だって陳列すれば、それはアートになる。しかるに、アンデパンダン展の委員たちはこれを拒絶した。彼らはアートという権威の傘にの下にいる俗物だ。まるで免罪符を販売する中世の僧侶のように。

いうまでもなく、これは当時のアート界に対する痛烈な皮肉であるとともに、美とは何かについて問いかけになっているのである。つまりアートは権威によって決まるものではない。そして、当時のアート界における美の定義はアート界が決定する「コード」に適っているかどうかで決定するわけで、今回の特集で展開している美の定義からすると正反対の定義になるのだ。

ちなみに、『泉』という名前のついたアートにはもう一つ有名なD.アングルの作品がある。これは傑作と呼ばれてはいるが、これを制作したアングルは19世紀フランスアート界の権威としてこの世界を牛耳っていた。ひょっとしてデュシャンは、アングルの権威主義へのおちょくりもやっていたんじゃなかろうか?

しかしデュシャンの「ちゃぶ台返し」はこれ一つで終わるわけではない。(続く)

美は美術館が定義する。美は権威でしかない~M..デュシャンの挑戦

ここまで、アートにおいて美とは、見ている側に異化作用、つまり記号(=シーニュ)は存在するが、記号表現(=シニフィアン)だけがあって、シニフィエ(=記号内容)が見あたらないときのイライラ感であると定義してきた。ようするに、「なんだかわからないが、この作品には意味があるはずだ。なんなんだろう。知りたい」と思っているときにわれわれはその歯がゆい対象に美を見ていると説明してきた。またアートでは常に“「コード破り」というコード”が存在し、それがアートの新しい手法を生んできたと指摘しておいた。それは具体的には、目の前にある対象をとにかく消していくという展開を生んだとも説明してきた。印象派→野獣派→キュービズム→抽象表現主義→ミニマリズム→ポップアートという流れがそれだった。

しかしモダン・アートはこれとは別にもう一つ”「コード破り」というコード”にもとづいて、美を追究しようという流れが存在した。そして、それは、いわば「ちゃぶ台返し」とでもいうべきアプローチだった。それをやって見せたのはM.デュシャンだった。

ちゃぶ台返しとは存在論のこと

ディシャンのちゃぶ台返しを説明する前に、ちょいと哲学的な概念を持ちだして恐縮だが、哲学における基本的な思考の方法に認識論と存在論がある。前者は物事の前提を顧みることなく、それら物事がどのように認識されるのか、構築されていくのかを見る立場。後者は認識論が前提している前提を考察する立場だ。ちょっとややこしいので、例を二つほどあげて説明してみよう。

その1.秋の味覚は秋刀魚?松茸?
秋の味覚の代表といえば、秋刀魚と松茸あたりがあげられるだろう。そこで、あなたの妻が今日は奮発して松茸ご飯にしようと考えとする。これを聞いたあなたは、今晩の食卓を心待ちにすることに。ところが夕食に出てきた料理は秋刀魚だった。松茸が法外に高く購入を断念したからだ。がっかりしたあなたは妻に不満を漏らした。すると彼女はあなたに少々下品な捨て台詞を吐いた「どうせクソになるんだから、同じでしょ」

このとき、二人の議論はまったく持ってズレている。まず、あなたは認識論レベルで議論している。つまり、秋の味覚における、秋刀魚と松茸の違いを踏まえている。それが食品であると言うこと自体は前提されており、そのことは議論の対象とはなっていない。ところが妻の方は存在論レベルで二つの認識の差異を無化してしまっているのだ。つまり「ちゃぶ台返し」(ちなみに、これはいしいひさいちの四コマ漫画のネタです)

その2.原子力発電を考える

ある番組で原発問題について考えるという特集があった。番組では原発の有り様についてさまざまなデータが提供されたのだが、なかなか難しい問題だった。その時、ゲストで出演していた所ジョージがおもわずこう言った。「原発問題は難しいですよね。何が難しいって、何が難しいのかがわからない。いっそのこと「原発を考える」考え方を学ぶ会」でもやってくれないもんでしょうか?」

この場合、「原発を考える」というのが認識論、「原発を考える考え方」というのが存在論だ。この原発にとどまることなく、われわれは人と議論をしたり考えたりするときには必ず、考える立脚点、つまり立ち位置を前提にしている。そして、そうやって考えているときには、立脚点=立ち位置それ自体については顧みることはない。これが認識論的な思考ということになる。いっぽう、その立脚点について考えはじめたとき、それは存在論的な思考を行っていると言うことになるのだ。

ここまでは認識論上の美の追究だった

そして、ここまで展開したアーティストたちによる美の追究は、ある立脚点についてはまったく共通していた。つまり認識論ばかりをやっていて、存在論的な立場、つまり自分たちの立ち位置については振り返ることはなかったと言える部分がある。そう、ま「コード」の存在が認識論では打破され続けていても、存在論においてはまったく打破されずコードが延々と維持されてきた、そんな部分が存在したのだ。そして、そのコードを指摘し、存在論的な問い、つまりちゃぶ台返しをやってしまったのがM.デュシャンだった。ではデュシャンがやったちゃぶ台返しとは?それはアートという定義それ自体の存在をひっくり返そうとする試みだったのだ。(続く)

コードから逸脱したものが美として受け入れられる時とは

コードから外れた、記号らしきものが登場する際、われわれは二つの態度を取ることが出来る。一つはそれを「間違い」として否定すること、もうひとつは「美しいもの」として受け入れ、新しい記号を創造しようとすることである。つまり、現前した物や事、観念を「受け入れる」か「拒絶するか」なのだが、この判断もまた、多くの場合、社会のコードによって決定される。ということは同じ物事や状況が時には美どころか「醜悪」なものとして否定され、時によっては「美」として受け入れられると言うことがあり得る。今回は、その典型例を示してみよう。そして取り上げるのは、なんと俳優の松平健である。

醜悪な異物としての松平健のコナカCM

今から二十年ほど前、松平健はあるメーカーのイメージ・キャラクターとして登場していた。企業は紳士服のコナカ。CMの中で、松平はコナカの背広に身を纏って登場する。バックに流れるのはジャズの古典「聖者の行進」。このサウンドにあわせながら松平はステップを踏み、そしてトランペットを口にくわえて、吹き鳴らすという演技をしている。バックには典型的なアメリカのチアガールの格好をした、これまたステレオタイプ的な白人女性が一緒にステップを踏んだり練り歩いたりする。そしてクラッカーや紙吹雪が舞っている。

このCM、きわめて異様な作品だった。まず、松平健とディキシーランド・ジャズという組み合わせが異様だ。松平は当時、若手の新進時代劇俳優。ご存じ『暴れん坊将軍』で吉宗を演じていたわけで、ヅラの似合う男、若殿姿、和服が似合う俳優。それが、役どころからは最も遠いと思われるハイカラなジャズをバックに、スーツ姿で、しかも髪の毛はヅラではなく七三分けで登場している。そして、ダンスがまた不気味だ。非常に硬いステップで、脚だけが動いているという状況。恐らく当時、これを見たほとんどの視聴者は拒絶反応を起こしたのでは無かろうか。そして、ちょっと訳知り顔の人間なら「こんなマヌケなプロデュースをやったのは誰だ」と思っただろう。

このコナカのCMに多くの人間が拒絶反応を起こすのは、ある意味当然だった。というのも、当時共有されたコードからすれば、これはまったく持って外れたものだったからだ。あまりに不自然。だから気持ちが悪い。当然、こんなものは受け入れられないし、松平ファンなら「殿、ご乱心!」と思ったのでは無かろうか。異化作用、つまり目の前にあるもの記号と認め、しかしシニフィアンかシニフィエが解らなくてイライラする状況になる前に、これは単なる「間違い」として否定されたのだ(もっとも、一部の人間たちの間では、この「実験的CM」はすこぶる評判が良かったことも確かなのだけれど)。

十数年後、まったく同じコンセプトで松平は登場した

ところが、である。十数年後、松平健はこのコナカのCMとほとんど同じコンセプトで再び登場する。しかも、今度は大ウケだった。そう、ご存じ『マツケン・サンバ』だ。ここで松平は殿様の衣装を身に纏っているが、それはキンキラキンであり、ちょんまげのヅラだが、なんとアタマからは触覚が出ている。そしてドーランをバッチリ塗りたくり、バックにはリオのダンサー。そして本人は、あの例の脚だけが動く硬質なステップでサンバを踊りながら歌を歌ったのである。そして、これが紅白でも抜群の視聴率を獲得するにいたり、松平は、以後「マツケン」というニックネームで呼ばれるまでに支持を広げていく。もはや時代劇の吉宗ではなく、そういったものを超越する「マツケン」という国民的な俳優にまで達したのだ。

さて、十数年前には異様なものとして拒絶されたものが、今度は絶大な支持とともに受け入れられる。それは松平健が変わったからだろうか。いや、そうではないだろう。変わったのはオーディエンスの方である。コナカのCMの後の十数年間の間に時代は様変わりし、人々のコードも変容していった。つまり、たとえばアイドルがバラエティをやること、タレントが県知事になること、トップアイドルがヌードになること、日本人が大リーグで大活躍すること、アイドルが日常化すること、音楽が多様化すること、こんなかつてはなかった事態が十数年のうちにあたりまえになった。いいかえれば、あらゆる価値観が相対化されたわけで、ということは「ナンデモアリ」の状況となったのだ。だから、松平健が元々のキャラクターとはまったく逆のキャラクターをやるのも「アリ」なのである。

そう、この十数年の間にコードは相対化を極め、時代劇俳優がサンバのステップを脚だけで、リズミカルではないじょうたいでやるというのも、十分異化作用として受け入れられる状況が作られた。だから松平健は「マツケン」となって、今度は美的な存在(実はやはり不気味なのだが、その不気味さがたまらないという異化作用)としてオーディエンスに受け入れられたのである。今度松平は「レレレのおじさん」をやることになったが、もう、それはおもしろいとは思っても、誰も異様だとは思わない。(続く)

美を感じるもう一つの状況~シニフィエからシニフィアンが思いつく場合

美を感じるメカニズムとは、その対象に対して意味=記号があると確信するが、その意味内容=シニフィエが解らない場合だと、前回指摘しておいた。ちなみに書き忘れたが、その逆で美が生じる場合もある。つまり、頭の中に対象に対するいろんなイメージ=シニフィエが湧いているのだが、それを一言で表現する言葉=シニフィアンが見つからない場合も、やはり異化作用、つまり「美的」という感覚が起きている。数年前のネタで恐縮だが、たとえば倖田來未がブレイクしはじめたとき、その印象がなんだかもやもやしているのだけれどハッキリしないという状態がオーディエンスに共有された。この時、具体的には倖田來未は非常にセクシーなのだけれど、そのセクシーさが男性よりも、むしろ女性に支持されるというおかしな現象となって出ていた。支持するファンたちは彼女のことをあこがれの存在としてみていたのだ。いいかえれば、倖田來未のセクシーさは男性のエロティックな感情を喚起しないエロティックと言う、わけのわからないものだったのだ。エロティックは男性のためのセクシーポイント。ところが女性にとってのセクシーポイントになるのはおかしい。しかしながら、これに妙なリアリティがあった。

そしてある時、誰かがこの共有された思い=シニフィエに、記号表現を与えることに成功した。そのシニフィアンが「エロかっこいい」だったのである。この時、女性がエロティックさで自己主張することが、きわめてポジティブな行為であることが、人々に認められていた。新しいシーニュ=記号の誕生である。こうやって、倖田來未の芸能界における地位が成立したことは、周知の事実である。

美を感じる背景に存在するコード

そして、前回の終わりに提示しておいた内容は、美があくまで相対的にしか定義されないということだった。そう、つまりそれが美であるどうかは人それぞれ。しかしながら形式的なレベルでは美は絶対的に定義されうるとも指摘しておいた。では、どうして絶対性がありながら、人それぞれになるだろう。実は、それは「コード」という概念の存在を考えたときに初めてハッキリしてくる。

ちょっと復習しよう。「美」を感じるとき、われわれは対象を記号と認めているのに、記号を構成する二つの要素のどちらか、つまりシニフィアン=記号表現か、シニフィエ=記号内容のどちらかが欠けている状態なのだと示しておいた。ということは、われわれが対象に接し、そこに記号を感じているときには、そこに必ずシニフィエとシニフィアンが存在することになる。しかし、このシーニュ=記号、つまりシニフィアン=記号表現とシニフィエ=記号内容の組み合わせはどのように決められているのだろうか。それはソシュールによれば恣意的に決定される、つまり根拠など無く、誰かがシニフィエーシニフィアン関係をでっち上げ、それが社会大に認識されればそれで、関係は成立してしまうというのだ。このように社会において、その記号がたとえ恣意的であっても決められ、認められてしまえば、シニフィアンーシニフィエ関係の組み合わせはコード=文法と呼ばれる。つまりこのような関係は社会が決めれば、その組み合わせに根拠があろうが無かろうか、それは人々が踏襲すべき記号として成立してしまうのである。そして、そのような組み合わせは、そのコードを共有している文化=社会の構成員にとっては恣意的どころか必然的、つまりあたりまえのものとして成立してしまうのだ。

さて、美を感じるとき、人々はこうやってあたりまえのものとして作られたコード、つまりシニフィアンーシニフィエ関係が揺らいでいていることを感じている。たとえば前述した倖田來未であったならば「エロ」と「かっこいい」は内容的に全然、整合性がない。むしろ「水と油」で正反対の概念だ。だから本来ならば二つの意味をつなぎ合わせるコードは存在しない。だがそれでも倖田來未に何らかの意味を見たいと、われわれは考える。そこでコードを超えた新しい記号表現である「エロかっこいい」という奇っ怪な記号を思いついたということなのだ。しかしながら、それは彼女を表現するぴったりの記号として定着した。

つまり、美というのはわれわれが共有しているコード=シニフィアンとシニフィエの関係が揺らいでしまい、しかもそれが別の意味でこちら=受け手がが記号、つまり新しい記号として認めざるを得ないときに発生するのである。

コードから外れても美になるものとならないものがある

しかしながら、コードから外れた、記号らしきものが登場する際、われわれは一般的にはそれを新しい記号と認めるよりも、むしろ、それは「間違い」であるとか「異物」という前提で、これを排除してしまうものだ。そして、その際、新しい記号は派生せず、従って「美」は発生しない。しかし倖田來未の場合は発生した。では、「美」生じることと生じないこと、この境目はどこにあるのだろうか。(続く)

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