だが、まだ一つデュシャンがアート界に向けてやりたかったこと、つまり「ちゃぶ台返し」があるのではないのだろうか。そして、それがもう一つの新しいアートの表現方法を生んだのでは無かろうかと、僕は考える。それは、アートというものが何もカンバス上で展開されなくてもいいという主張だ。そしてここでの美の定義に照らし合わせれば「異化作用を生むものならなんでもアート」という考え方だ。
レディメイドという新しいスタイル
展示された作品『泉』にもう一度立ち返ってみよう。これは既製品の小便器である。だから、デュシャンのやった作業はMuttという仮名を便器の端にサインすることと、これをアンデパンダン展に出品することだけだ。しかし、もし、これが実際に飾られたとしたらどうだろう?おそらく展覧会にやってきた人々は、アートというコードからはほど遠いこの作品(既製品かつ作成過程がない)に驚き、非難し、怒っただろう。しかし、それは美の定義からすればまさに、この作品が美に満ちていることを照明するものとなる。お客たちは美のコードからずれてしまっているこの作品に異化作用を感じてしまったからだ。もっとも異化作用を感じると言うより「間違い」「不届き」といって作品それ自体を否定したといった方が妥当かもしれないが。しかしながら、このデュシャンの試みはアート界にその後、レディメイドという作風を生むことになる。既製品をそのままとかいくつか並べるとかといった手法が登場するのだ。そう、デュシャンのこの試みはその後、すっかりアートのコードとして織り込まれていったのである。
カンバスを飛び出すアート、イベントアートとしてのパフォーマンス
さて、でも、よくよく考えてみるとディシャンはさらにもう一つアートの新しい手法を提示していると言えないだろうか?しかも、それは絵画やオブジェと言ったも事物によるアート表現=作品ではないものを。この『泉』を巡る騒動、僕にはどうもうさんくさいものに見える。というより、これはデュシャンの確信犯に違いないのではと考えるのだ。つまり、デュシャンは、アンデパンダン展の審査員たちが、デュシャンの出展物=小便器を作品と見なさず、それゆえ誰でも展示できる作品展にもかかわらず出展を拒否するであろうことをあてこんでいた。で、出展したにもかかわらず展示しなかったという審査員たちの行為を批判し、メディアを使ってその不当を訴える(この時点ではこの作品が委員の一人であったディシャンによるものであることがまだバレていなかった)。すると世間にはこの作品を巡って一騒動が起きる。この一連の出来事を仕込んでいたのでは無かろうか?
もし、そうであるとするならば、それはこの後アートの表現形態として一般化するパフォーマンスがここで行われていたことになる。
もし、そうであるとするならば、それはこの後アートの表現形態として一般化するパフォーマンスがここで行われていたことになる。
このように考えるとデュシャンがやろうとしたことは、アートという表現を純粋に異化作用のみに求め、その方法が必ずしもカンバスに限定されないこと、いやナンデモアリということを知らしめようとする行為ではなかったのだろうか。(続く)