荒れる成人式?

今年も成人式が全国各地でとりおこなわれました。で、例によってあれる成人式があっちこっちで繰り広げられました。式場の舞台に乱入したり、ヤジを飛ばしたり、町中を酔っぱらって闊歩したり、ケンカやったり。

もちろん、こんなことをする若者は成人式を迎えるごく一部でしかないので、若者みんながあんな風な迷惑な行為をしていると捉えるのはちょっとかわいそう。お金がないので自分たちでカンパを募ってまでして成人式をあげるという涙ぐましい努力をした北海道夕張市の新成人もいるんですから。

しかし、なぜ、成人式の日に、こういったごく一部の若者たちは暴れたがるんでしょうか。迷惑この上ないことをやるんでしょうか……。それは、それが成人式だからなんです。もちろん、彼らの行為は許されることではありません。しかし、彼らこそが成人式の意味を実に深く感じ取っている若者、だから会場で暴れているとも考えられるんですね。

ちょっと、今日は目の付け所がヘンですが、この暴れる若者と成人式の意味を考えてみたいと思います。

成人式とは


なぜ成人式するんでしょう?これは通過儀礼=つまり社会的な役割転換のための儀式という言葉がいちばんピッタリの回答だと思います。人間は人生の様々な段階でそのつど役割を担わされます。小学生、中学生、高校生、大学生といった学生の役割、会社員や個人事業主といった社会人の役割。そしてこのような役割は文化や社会、歴史によって異なります。たとえば日本でも武士の成人式=元服は15才でした。一方庶民には成人式はありませんでした。言い換えれば物心ついた頃には労働をさせられていたわけで、子どもというのはいわば「小さな大人」として扱われていたんです。これは同じ時代のヨーロッパでも同じことでした。

これはたとえば絵画を見てもわかります。17世紀以前、ラファエロが描いたような子ども、そして天使の顔を見てみると、どれもかわいくはありません。なんか生意気そうなんですね。つまりこの子どもたちは子どもではなく「小さな大人」。

しかしながら、経済力やテクノロジーが進歩して、人々が働くまでに様々な技術を習得する必要が出てきます。そこで、そして労働をさせずに技術や知識を習得させる人という設定が必要となった。それが先ほど言った大人になる前の学生=青年、そして子どもという考えが生まれたわけです。これも絵画で説明すると、産業革命後の19世紀には子どもの描かれ方が変わります。その典型は日本人には大人気のフランス画家ルノワールの描く子どもです。ほんとうにかわいらしい。そして、ここにはまだ社会的役割を持たない「子ども」という考え方が前提になっていることがわかりますね。

さて、そうすると、今度は子ども、青年から社会人になることを社会的・文化的に規定しなければならない。つまり今日からあなたは一人前ですよ、ということを明確に示し、また社会に出て行きなさいというような印が必要になる。それが成人式というわけです。

子どもと大人がまた曖昧に

ところが1962年代以降、我が国においては再び大人と子どもの境目が曖昧になってきた。大人よりも子どももそれまで持っていた役割から、消費者としての役割へ役割が変更されてしまったんですね。つまり情報化と消費社会化がすすんでいって、大人も子どももたくさんある情報、商品の中から好みの選択するという生活が中心になった。こうなると、みんな消費者。そして欲望に基づいて行動するようになる。こういった消費者は60年代に生まれたヤングという言葉(最近は死語になっていますが)にまとめられると思います。

で、ヤングと最初に呼ばれた人たちはもはや五十代、団塊の世代ですが、この年台から下はみんなヤング。まあヤングといえば若者と言うことになりますが、消費生活というおもちゃが大好きな子どもと言い換えることができます。だから、大人にならず、おもちゃを買い続ける。要するに誰も大人になっていない。

ちなみに、いまマーケットで注目されているのが団塊の世代なんですね。働いたのでお金はある、でも子ども。この人たちは男性だったらビートルズ世代でもあるので、金にモノいわせて高価なギターを買ったり、ファッションに凝ったりする。つまり大人という感じではない。ちなみに、こういう人って、最近「チョイ悪オヤジ」って言います。また、女性だったら友人と一緒に、海外に出かけてブランドモノ買いあさったり、エステやったり、韓流スターの追っかけやったりしている。ちなみにこっちの方は「団塊ギャル」って言うんですけど。

で、それから下の世代は新人類といわれた世代だったり、オタクといわれたりするんですが、共通するのは、もう誰も大人にならない。つまり通過儀礼、成人式を形式的にやっただけで、アタマの中ではやっていない人たちなんです。だから、成人式が形骸化してしまったんですね。でも、これじゃあ自分の役割がいつまでたってもよくわからない。不安になるということもあるわけです。

荒れてる若者は通過儀礼をしたい古風な人

そこで、一部の若者は、大人になりたいがゆえに無理矢理自分で通過儀礼をする。典型的なのが大学生の卒業旅行ですね。社会人になったら長旅はできない。だから学生の内に一ヶ月くらい海外を歩いて、子どもと大人のケジメをつけようとする。私が調べているバックパッカーなんかがそれです。そして、成人式で荒れている若者。この若者たちは式場という華やかな場所で荒れて、しかもテレビで報道されて目立つことで、実は通過儀礼を無理矢理実行しているわけで、そう言う意味ではとてもまじめな連中と言うことになるんですね。

そして、こういった連中、将来どうなると思います?普通だと、どうせ社会の悪(ワル)になるに決まっていると思いたくなるもの。ところがそうじゃあないんです。イギリスでこういったごろつき・おちこぼれの若者たちをずーっと追っかけていた社会学者でポール・ウイリスという人がいるんですが、彼の調査によれば、こういった若者たちは、結局、ほとんどが気質の仕事について、くそまじめに働いているという結果が出ていたんです。つまりマジ。だから、この成人式で荒れている若者も、おそらく十年たったらワルではなく、マジ=まじめな社会人になっているんじゃないでしょうか?なぜって?彼らこそ成人式で暴れてきちっと子ども=若者に別れを告げたわけですから。ようするに彼らは古式ゆかしい人。で、成人式にボーッと参加していた人がチョイ悪オヤジになるということかもしれません。どっちがいいかは、まあ別としてですが。