勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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福田前事務次官を巡るセクハラ問題、そしてTOKIO山口達也氏のわいせつ問題がメディアを賑わせている。しかし、この二つのメディア報道、あまりに稚拙、無知といわざるを得ない。しかも害悪。どれだけこれが酷いのかを、わかりやすいよう小学校社会科で学ぶ学習項目「基本的人権の尊重」「三権分立」で説明してみよう。題して「小学生でもわかるセクハラ問題報道の誤り」。

福田前事務次官の人権保障は当然

先ず基本的人権の尊重の点から考えてみよう。これは「人間は誰でも生まれながらに備えている人間らしく生きる権利が尊重されなければならない」という、誰でも知っている日本国憲法の三大基本原則の一つ。この視点から考えると福田事務次官のセクハラ疑惑についてはセクハラという前に、先ず人権問題として捉える必要がある。言い換えればセクハラ、パワハラといったハラスメント全般は人権問題のサブカテゴリーだ。麻生財務大臣は「福田の人権はどうなるんだ」とコメントしたが、これは「人権尊重は国民全体に向けられるべきで、セクハラ被害を受けたとするものもの、セクハラをしたとされるものも等しく人権が守られなければならない」という意味だ。それゆえ麻生大臣のこのコメント自体は憲法的にはしごくまっとうだ。野党やメディアがこの発言それ自体を非難するのはお門違いも甚だしい。ネガティブな文脈を勝手につけて非難しているだけだ(大臣のその他の不用意な発言については話は別だが)。だから、この人権尊重に基づく「疑わしきは被告人の利益(あるいは「疑わしきは罰せず」)」を適用すれば、どれだけ疑惑があったとしても福田事務次官の人権も守られなければならない。ところがメディアは確たる証拠もなく福田次官を「クロ」と勝手に認定し、バッシングを展開した。いうまでもなく、これは人権蹂躙、つまり憲法違反。だから、後に福田氏が人権侵害としてメディアを訴えたとすれば勝訴の可能性が極めて高い(これは仮に福田氏がセクハラを行っていたことが確定したとしても同様だ。事実を踏まえず被疑者を攻撃した事実はセクハラの有無とは関係がない。「疑惑の銃弾」でバッシングを受けた三浦和義氏が起こした数々の訴訟の件を振り返ってみれば、これは容易に想像がつく。三浦氏はほとんどの訴訟でメディアに対して勝訴している)。もちろん、福田氏のパワハラが実証されたならば、もはや「疑わしくはない」ので、叩くのは問題ないが(もちろん、事実に基づかなければならないけれど)。

財務省は福田氏を裁けない

でも、財務省が今回の件をセクハラ認定したから問題ないじゃないの?いや、そんなことはない。福田氏についての人権は、それでもまだまだ有効だ。少なくとも本人が否定しつづけるうちは。なぜか?それは日本が三権分立に基づいているからだ。三権分立は司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)がそれぞれ独立し、互いを牽制することで権力の一極集中を回避するシステムだ。ということは、裁判沙汰の白黒は最終的に司法がやるべきこと。財務省がセクハラ認定したところで法律上はセクハラ確定にはならない。言い換えれば福田氏が裁判に訴え出て、そこで初めて白黒がつくのだ。そして、万がいち福田氏側が勝訴した場合には、損害賠償が発生する。その賠償金を支払うのは誰?いうまでもなく国民、つまり税金によって賄われるわけだ。これは言い換えれば財務省が腹を括ったということでもある。

実際、セクハラ認定は極めて難しく、慎重を要するものなのだ。僕は職業柄(大学教員)、あちこちの大学内でのセクハラ問題についてはしばしば耳にするのだが「極めてクロに近い」としても、最終的に裁判でハラスメントを受けたとされる側を擁護した大学当局側が敗訴する(つまり被告の勝訴)例は多いのだ。それは「疑わしきは被告人の利益」という原則に沿っているからに他ならない。

人権侵害(パワハラ・わいせつ)が確定していても無罪を言い渡すメディア

一方、今回の件で人権問題的にクロが確定しているものが二つある。一つはテレビ朝日で、件の女性記者が福田氏に複数回にわたってセクハラを受けていると上司に訴えたにもかかわらず、これを握りつぶし、女性記者にただならぬ精神的な苦痛を与えてしまった。もちろん、これはパワハラ=人権問題だ。そして、騒ぎが大きくなったところでテレビ朝日側はこの件を認める記者会見を行った。この時、加害者=テレ朝、被害者=女性記者。両者は事実を認めているので、ここでテレ朝のパワハラは確定している。とんでもない人権蹂躙。しかし、報道ステーションでは「カンベンして」的なコメントがなされた。他局も新聞社もこれを大きくは取り上げない。繰り返すが、こちらは福田問題と異なりパワハラが確定している。ならばなぜ、メディアはおおっぴらに叩かないのだろう?完全に矛盾している。

次に山口達也氏の場合。これもテレ朝とまったく同じ構図で説明が可能だ。加害者=山口達也、被害者=女子高生で、加害者、被害者ともに事実を認定しているわけで、これはわいせつとしてはクロが確定している。書類送検も行われた。しかも相手が未成年なのは状況がさらに悪い。ゆえに、アイドルとしても完全にイメージを失墜させているはずだ。ところがメディアはなぜか山口氏を厳しく責めることはしない。それどころかこの問題に絡んで、メディアは山口氏を「TOKIO山口達也メンバー」という「メンバー」という敬称をつけた呼び方をする。これが極めて奇妙なのは、たとえばダチョウ倶楽部の上島竜兵がこの手の問題を起こしたら「ダチョウ倶楽部上島竜兵メンバー」と呼ばれるなんてことはないと考えればよくわかる(上島さん、すいません。いちばん不祥事を起こしそうもない人と考えたので喩えにさせていただきました)。つまり、もはや人権侵害確定の人物をここでも責め立てることをしないのだ。これまた完全に矛盾している。これは2006年に極楽とんぼの山本圭壱がおこした性的暴行事件を踏まえればコントラストが明瞭だ。山本は完全に干され芸能界へのメジャー復帰が2015年まで叶わなかった(そして、いまだにあまり露出が許されていない)。これと比較すると山口氏へのメディアの扱いは実に奇妙といわざるを得ない。状況的に同じなのだから山口氏も今後10年間くらいはメジャー復帰は叶わないはずだ。しかし、恐らく数年で復帰するだろう。だって天下のジャニーズ「メンバー」なんだから(笑)どうなってんだ、これ?

迷走するメディアの立ち位置

いや、ようするにこれはメディア全般がポピュリズム、スキャンダリズムに基づいたイエロージャーナリズムだから仕方がないと、ちゃぶ台返しをしてしまえば理解は簡単なのだろう。ここで、僕が指摘するような内容、つまり人権尊重、三権分立に基づき淡々と処理するという冷静さを、もはやメディアは失っている(ちなみに、ここで僕が展開している指摘はインターネット上ではかなりの人間が繰り広げているのだが、これをメディアは取り上げない(政治家も同様))。しかし、この問題は小学校の社会科の学習項目だけで理解できる内容なのだ。

そして、こうした報道はジェンダー、人種問題を含む人権問題全てを悪しき方向に導く恐れを備えている。メディアの報道は、むしろわれわれ一般人の「無意識の偏見」(今回の場合、女性への)を助長する可能性があるからだ。むやみにセクハラと騒ぎ立てること(この場合、責め立てる対象が政府高官という権威の階梯の最上位ゆえ、つるし上げると面白い、言い換えればジェラシーを満足させる存在への注目)、パワハラなのに女性差別問題を取り上げないこと(この場合、責め立てる対象がテレビ局という当事者ゆえ、責め立てると天に唾することになり、都合が悪いという事情)、わいせつなのに加害者をあまり責め立てず、むしろ擁護する側にまわること(この場合、責め立てる対象がアイドルかつジャニーズ事務所というお世話になっている団体とその所属員なので、責め立てると今後の営業上都合が悪いという事情)。こうしたメディアの勝手な都合、ジェンダーに対した迷走する立ち位置(しかも無意識なそれ)は、ジェンダー問題についてのより本質的な議論が知らないうちにスルーされてしまうどころか、却ってジェンダーに対する無意識の嫌悪感を生んでしまう恐れさえあるのだ。そのへんの自覚がメディアには全くない。一般女性にセクハラしているのはメディアさん、ひょっとしてあなたの方じゃないんですか?

なので、メディアの皆さん、政治家の皆さん。小学校へ行って社会科の勉強をしましょう。ちなみに、これは小学6年生の学習項目です。

世界のトランペッター日野皓正が中学生をビンタ!だってさ。で、何か?

言質(げんち)という言葉がある。これは大辞林では「交渉事などで、後で証拠となるような言葉を相手から引き出す。」と定義されている。つまり、相手から言葉を引き出せば、それは確たる証拠になるというわけだ。つまり「あんたはあの時、こう言っただろ?」というわけだ。

たしかに言質は相手から直接引き出した一次資料なので説得力があるように見える。しかし、実際のところどうだろう。むしろ昨今のマスコミによる事件やトラブルの報道では、この言質が悪用されているように僕には思える。

そのことの典型を示すのが日本を代表するジャズ・トランペッター、「ヒノテル」こと日野皓正をめぐる「ビンタ報道」だ。2017年8月20日、東京都世田谷区で開催された「Dream Jazz Band 13th Annual Concert」の最中、割り振られた時間を超えてもドラムソロをやめない中学生の演奏を制止するため、ヒノテルは客席からステージに上がり、中学生のスティックを取り上げた。しかしそれでも素手で演奏を続ける当該生徒に、今度はビンタでこれを制止させたというもの。これが新潮の記事となり、さらにはサイトではその映像がアップされた。つまりこれらは「世界のヒノテルが公開の場で子供に暴力を振るった」言質というわけだ。暴力=悪という絶対的正義を前面に押し立て、その証拠に基づいたヒノテルへの非難が新潮の報道基調だった。

同様の事件が小学校でもあった。7月13日、所沢の小学校で学級担任の四十代の男性教諭が四年生の男子児童に対し、「(三階教室の)窓から飛び降りろ」「明日からは学校に来るな」「34人(クラス生徒数)だけど、これからは(当該児童を除く)33人でやっていこう」と暴言を吐いたというもの。これも、このような発言=言質が確たる証拠となり、最終的に学校側が謝罪している(実は、実際になされた発言は異なっていたのだが)。

しかし、この二つ、その後、様々な後日談を生んでいる。暴行、暴言を行ったとされる側に対する擁護論がどっと沸いてくるのがその基本的なパターン。結果、ネタ的に盛り上がる。

「そろそろ、こういった間抜けなマッチポンプ的な議論は、みっともないからやめませんか?マスコミの皆さん」

僕は、こう言いたい。ハッキリ言って、頭悪すぎです。


テクストとコンテクスト

言質というのは便利なもので、とにかく「証拠」になるわけだから強い、説得力が圧倒的という印象がある。しかし実際のところ、これはとんでもないマチガイだ。それを二つの用語を用いて説明してみよう。

一つは「テクスト」。これは「表現体」と訳されるが、言葉の通り真実の内、表に現れているところ=見えているところを指す。語りそれ自体、文章それ自体、映像それ自体。これらはテクストだ。ただしテクストには、背後にそれを下支えする「コンテクスト」、言い換えれば「文脈」が存在する。言い換えれば二つは「事実」とその「背景」。テクストとコンテクストの関係は氷山に例えるとわかりやすい。氷山のうち、水面上に浮き出ているところがテクスト、海中に隠れているのがコンテクスト。ということはテクストは、ベタな表現通り「氷山の一角」でしかない。真実は「水の中」なのだ。そしてコンテクストの方が圧倒的に情報量が多い。

「ヒノテル・ビンタ事件」も「窓から飛び降りろ事件」も、当然コンテクストが存在する。ただし、それはテクスト=氷山の一角しか見えないわれわれには計り知れない。だから、それについて語るべき資格を持っていない。

コンテクストを捏造するマスコミ

ところが、マスコミは当事者に成り代わってこのコンテクストを含めて報道を展開する。ただし、マスコミとて氷山の水面下のことについてはわれわれ同様、わかっていない。そこで言質=氷山の一角、つまり表面部分を取り上げて、これに水面下=コンテクストを任意に加えていく。この二つの事件について共通するマスコミの立ち位置は前述したように「暴力は絶対否定されるべき(二つは物理的な暴力、心理的な暴力という点で異なってはいるが)」という、マスコミが疑うことを知らない”絶対是”に基づいたコンテクスト作りだ。ヒノテルと中学生の関係、所沢小学校教員と生徒(当該の生徒及び他のクラスの生徒)、さらには暴言を訴えた生徒の親との関係など。これらについてマスコミは全くコミットメントしていない。いいかえれば、いいかげんな文脈作り=コンテクストづけをやっているに過ぎないのだ。で悪者はヒノテルと教員になる。しかも、後続する報道はほとんどやらない。そんなの面白くないのでネタにならないし、費用もかかるからやらないと決めているんだろうか?

ハッキリ言おう。こうした報道姿勢は、これを取り上げたマスコミの無知を晒していることになるだけだ。スキャダリズムに基づいて、氷山の一角の言質だけを取り上げ、悪者を同定してバッシングを展開し、センセーショナルなネタとして世間に流布する(悪者となる対象は基本的に強者。つまりセレブや役人や大会社のお偉いさんなどの「妬みの対象」とオーディエンスが思っているだろうとマスコミが想定している人々)。こうなるといちばんの加害者がマスコミで、取り上げられた人間(事件の中で加害者とされた人間。被害者とされた人間も含まれる)が被害者ということにならないだろうか。

われわれは、もうとっくにマスコミの無知に気づいている。だからマスコミ離れする?

オーディエンスのわれわれとしては、もうこうした揚げ足取り的な報道については適当にスルーするような心性が出来上がっていても良い頃だ。というか、もう出来ているのでは?と僕は踏んでいる。そのことを知らないマスコミがオーディエンスを「無知な輩」と認識し、上から目線で愚弄しているだけ。つまり「こんないいかげんな報道でも、あいつらアホだから大丈夫」。

いや、アホなのはあんたたちでしょう。マスコミ離れはどんどん進んでいるんだから。マスコミは、もうちょっとというか、猛勉強したほうがいい。いたずらに言質を取り上げて騒ぐなんてことはもう止めないと、これまで以上に一般からは支持を失うことになるのが関の山なんだから。

おしまいに、ヒノテル・ビンタ事件について、僕の感想を述べておきたい。

「いやーヒノテル、74歳になったのに、相変わらず熱いよね。で、全然やめない中学生も熱い!こりゃ、ジャズのスゴイインタープレイだぜ!」

もちろん、これも僕の勝手なコンテクスト付け(ジャズ大好き人間がでっちあげたそれ)であることをお断りしておく。真相は闇の中。そして、その真相=コンテクストをえぐり出すことこそ、実はマスコミの仕事にほからならない。そのへんのところをマスコミは認識して欲しい。

「ラーメンは音をたてて食べるべきである」は正しいか?


「ヌーハラ」とは「ヌードルハラスメント」の略で、ラーメンなどの麺類を音をたてて食べるのが国際的なマナーに反していて下品ゆえ (「海外では一般に麺類を食べるときに音をたてるのはよろしくない」というマナー。この「海外」がどこを指すのかは謎)、ハラスメントに該当することを指している。

これに対して政治家の中田宏氏は11月25日のエントリー『ヌーハラ問題。「ラーメンは音を立てずに静かに食べましょう」・・・んなワケないでしょ!!』(http://blogos.com/article/199561/)で、

「『Japan Guide.com』のサイト(英文)には「ずずっと音を立てるのは風味を引き出すので良い食べ方だ」と書いてありますし、このように日本のマナーをどんどん広げていくべきです。」

と、音をたててラーメンなどの麺類を食べることを「美味しい食べ方」「日本のマナーとしてどんどんと広げていくべきです」とコメントしていた。つまり音をたてて食べるのがデフォルトだから、異文化の人間はこれをちゃんと理解すべきであるという主張だ。

氏がこのように主張する根拠としてあげているのが以下のエピソードだ。

「私は過去にインドに行った時に手で食事をしたことがあります。
左は”不浄の手”とされ右手で食べるのですが、正直、自分の手を舐めるような変な感じがしました
これをかつて欧米人は「下品だ」と言い、また日本や中国の箸についても「下等民族の道具だ」などと言っていましたが、今では和食や中国料理が世界中にあるなかで上手くはなくても欧米人も自ら箸を使うようになりました。」

ラーメン・蕎麦・うどんを音をたてて食べるのが美味しいと感じるのは僕も同じだ。横でモソモソと音もたてずに麺をすすっている人間に気づくと、こちらが逆にヌーハラを受けたような気分になってしまう。だから、中田氏の言わんとしていることは、わからないでもない。

但し、留保がつく。それは「麺を日本、あるいは日本文化が支配的である環境で食べる場合」だ。中田氏の問題点は氏が依拠する、いわば「郷に入れば、郷に従え!」というところにある。そこで、これを今回の考え方のデフォルトとしてみよう。そうすると、中田氏は「郷に入れば、郷に従え!」を主張しながら、立ち位置を変えた瞬間「郷に入っても郷に従っていない」、つまり自家撞着に陥っていることがわかる。


現在、世界に広がる日本文化は”J.カルチャー”

その前に一旦、話を日本文化の海外への定着に振ってみたい。1960年代の高度経済成長以降、日本の知名度については「クルマや電化製品などのモノ、つまり消費や技術に関するものについては世界に知られるようにはなったが、日本の文化、つまりコト・伝統については認知度が低いまま」と言われてきた。そこで、なんとかして日本の文化を売り出そうといろいろな試みが行われてきた。ベタに「ゲイシャ、フジヤマ、スシ、ニンジャ、ゼン、ブシドー、ワビ・サビ」みたいな海外のステレオタイプを前面に出すやり方。あるいは他文化、とりわけ西欧に阿るやり方がそれだ。音楽だと英語でロックを歌って売り出すなど(フラワートラベリンバンドやバウワウ等。例外はサディスティックミカバンドで、日本語で歌っていた)。ただし、結局のところサッパリだった。

で、「どうやったら日本文化が世界に知られるようになるのだろう?」と手をこまねいているうちに、ひょんなところから日本文化は認知されるようになった。そこで海外に定着した「もうひとつの文化」をそれまでの日本文化とはアプローチが異なるということで、とりあえず「J.カルチャー」とカタカナで表記しておこう。J.カルチャーはアニメやマンガといったオタクカルチャーからジワジワと世界に浸透していった。

J.カルチャーは、これまでの日本文化とは二つの点で根本的に売り方が異なっている。一つは「文化として売ろうとはしていなかったこと」。いいかえれば「消費物」「ビジネス」として売り出したことだ。さしあたり「カネが入ればそれでいい」という、きわめてイイカゲンな売り方だ。だから日本アニメは安売りされ、あっちこっちで放映された。もう一つは「こちらのやり方を押しつけはしないが、迎合もしない」という売り方だった。これは「買ってもらうのが第一の目的なので、文化振興云々はどうでもいい。また、いちいち手間暇かけて相手向けにカスタマイズするのもカネがかかるので、あまり手をつけない」というスタンスが、結果としてこうなったと考えればいいだろう。前述のロックバンド(七十年代前半)はこれと反対で、明らかに当時のロックシーンに阿っていた。全部英語で歌い、サウンドのスタイルも世界の潮流に準拠していた。要するにアグレッシブに「世界に出たい」と考えていたわけだ。で、阿りつつ手間暇かけていろいろ考えた。とはいっても、結局はいわば「猿マネ」で、こう言っては内田裕也さんに申し訳ないが、今聴くとかなり恥ずかしい(その代わり、テクニックはスゴかった!)。

ところが前述したようにアニメやマンガは違う。阿っていない、というか垂れ流しなので勝手に広がるだけだった。これがかえってよかった。安売りした商品がメディアに流れ、子どもが飛びつく。で、これが世代交代することで広い世代に浸透していき、気がつけばジャパンアニメは世界中を席巻していたのだ(映画『マトリックス』監督のウォシャウスキー兄弟が『マッハ go go go』(”Speed Racer”)を、ディズニーが手塚治虫の『ジャングル大帝』をパクって『ライオンキング』を制作するなんてことが結果として発生した)。

ただし、これは「垂れ流し」なので、阿ってこそいないけれど、どのようにJ.カルチャーが理解されるのかは、これを受け入れた文化に委ねられた。つまり勝手にカスタマイズされた。たとえば「ポケットモンスター」は”Pokemon”として普及した。マリオもまた同じでファミコンならぬNintendo(まったく同じハードだが)のキャラクターとして普及した。そこに日本の文化を「きちんと教えよう」なんて押しつけがましい「邪心」はまったくない。邪心は「カネ儲け」だけ(笑)。すると、J.カルチャーは「日本文化」であることも知られないうちにグローバル化したのだ(リオの閉会式のパフォーマンスでマリオやハローキティがメイドインジャパンであることを知った人間はかなり多いんじゃないんだろうか)。そう、J.カルチャーは「郷に入れば郷に従え」ならぬ”
When in Rome, do as the Romans do ”として広がったのだ。

中田氏の立ち位置では日本文化はグローバル化しない

中田氏はこの認識が抜けている。コメントの立ち位置は「麺を音をたて食べるのは絶対善」あるいは「箸を使用することは下品なことではない」というナショナリズム的な思考停止だ。あるいは「カレーを手で食べるのは下品である」という欧米かぶれ、つまり「欧米か?」とツッコミを入れられてしまうような心性だ(こちらは西欧至上主義、あるいはインド文化蔑視の態度ということになる。全然、郷に従っていない)。

文化のグローバリゼーション(この場合、日本文化の普及)は、中田氏のような立ち位置では絶対に発生しない。文化人類学にクレオール化という言葉がある。輸入文化は、それを受け入れる文化の文脈で理解され変更されることで初めて定着する。だからローカライズという洗礼を受けないわけにはいかないのだ。

アニメはもちろん、寿司やラーメンなど、日本文化は今や着々と世界に浸透しつつある。ただし、これらは横文字の、つまりAnime, Sushi, Ramenとして。アメリカの場合をみてみよう。今年7月ロスで開催されたAnimeEXPO2016では三日間の開催期間に26万人が集結した。会場では日本語のアニソンが流れ、あちこちに日本語の文字を見つけることができ、千人を超すコスプレイヤーが会場内を闊歩していた(詳細はこちらを参照。http://blogos.com/article/182883/)。しかし、これらはちょっと日本のそれとは違っていた。そして館内に響く入場者の会話は、あたりまえだがほぼ英語だった。

Sushiも同様だ。基本は巻き寿司、しかも裏巻で、ベースになるのはアボガドやクリームチーズ、サーモン、そこにシラチャーや )ソース、ハラペーニョなどなどあやしげなソースがぶちまけられている。反面、光り物を見つけることは難しい。で、そういった勝手にローカライズされた寿司=Sushiがその辺のスーパーであたりまえのように売られている。Ramenはまだ勃興期を脱してはいないが(大都市圏を除く。インスタントラーメンは、もはや完全に定着)、チキン味を中心として、そして味も少し変わったかたちで広がっている。もちろん、音をたてて麺をすする人間を見つけることは難しい。そしてこれらはいずれも阿ったのではなく、勝手にカスタマイズされて現地の文脈に取り込まれたのだ。つまり”When in Rome, do as the Romans do ”。だから音をたてるのは原則、ヌーハラになる。

残念ながら中田氏のコメントにはこういった文化伝播のメカニズムに関する認識が抜け落ちている。文化は売り込むと言うより、勝手に広がるのだから。そして、こうした歴史はこれまでずっと繰り広げられてきたはずだ。日本文化は現在J.カルチャーとしてブレイクしつつある。いや、もうしているのかもしれない。

文化のカスタマイズは日本文化の輸出に限った話ではない。日本もまた異文化の輸入に際して同じことをやっている。例を一つ紹介しておこう。フジテレビ『料理の鉄人』に登場した中華の鉄人・陳建一の父・陳建民は日本に四川料理を紹介した人物として知られている。その典型がエビのチリソース、通称「エビチリ」だが、これは建民が四川料理を日本に定着させるために乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン)をアレンジしたものだ。四川料理は豆板醤がふんだんに使われるため辛く、このままでは日本人の口には合わない。そこで陳は豆板醤の量を減らし、代わりにケチャップ、スープ、卵などを加えてマイルドに仕上げた。その結果、われわれ日本人にっとって四川料理はきわめてポップな中華料理の一ジャンル、エビチリは家庭料理の一皿となったのだ。

本物(=オーセンティック)の日本文化が認められることはあるのか?

話をヌーハラに戻そう。じゃあ、海外(あくまで今回議論の対象となったあやしげな「海外」限定ですが)で音をたてて麺をすするのは結局ダメなのか?(ちなみに音をたてている文化が日本以外にないわけではない)。解答の一つは「まずはダメ」ということになる。ローカライズの洗礼を受け、一般に広がる過程では、音をたてろとか、そんなことをいちいち指摘するのは「野暮」なのだ。ただし、こういった「変形したかたちでの普及=音をたてずに麺を食べる」の後、オリジナルな、つまりオーセンティックな料理や食べ方が認められることは十分にあり得る。前述したエビチリだが、これでわれわれは四川料理を知った。そしてその認知度が高まれば、今度は「本物の四川料理を食べてみたい」という気持ちも湧いてくる。実際、現在、オーセンティックな四川料理を食べさせるレストランは国内でもあちこちにある。その時、客は舌のモードをオリジナルな方にセットし直しているはずだ。日本料理(そして日本文化)も同じで、普及すれば、オーセンティックを指向するような人間もまた登場する。そして、それに合わせたかたちで海外で施設が設けられる。つまり「本物のラーメン屋」がオープンする(いや、もうしているのだけれど)。そこでは、当然「音をたててラーメンをすすること」がデフォルトとなるはずだ。ちなみに、今僕が滞在している米・トーランス(ロスの隣の都市)には十件以上のラーメン屋があるが、音をたてることについてはお構いなしだ)。

こうして文化はグローバル化していく。そして、今、日本文化=J.カルチャーは大ブレークしつつある。



大学教員という仕事を二十年以上もやっているので、あっちこっちの大学で学生の行動を観察し続けることができる環境にいる。ここ数年、感じているのが、あちこちで言われている「若者の○○離れ」という現象だ。クルマ離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ、ラジオ離れ、本離れ、雑誌離れ、新聞離れ、アルコール離れ、セックス離れ、音楽離れ、マンガ離れ……などなど、枚挙に暇が無い。コーヒー党の僕からすると、最近の学生たちは明らかにコーヒー離れでもある。研究室にはコーヒーメーカーが置いてあって自由に飲めるようになっているのだけれど、コーヒーを好んで飲むゼミ生は僅かしかいない。研究室にマンガを持ち込むものもいない。そう、一見すると、確かに,いろんな分野で若者は「○○離れ」なのだ。

でも、これ、はっきり言って全てウソだろう。事実を間近に見ながら、こう主張するには、ちょっとわけがある。

「何」から離れているのか

問題は「離れる」という言葉と扱い方だ。たとえば「蓮舫は芸能界から政治家に転身した」という場合、蓮舫という一人の人間が芸能界を離れたことを意味する。つまり同一人物が「○○からら離れた」「Aを捨てた」「Aの下を去った」あるいは「AからBへ移行した」ということになる。一方「若者の○○離れ」の場合はこれとは異なっている。同一の若者がクルマやアルコールやテレビへの志向を失ったというのでは無い。こちらの場合は世代論の問題になるので「現在の若者は以前の若者に比べてクルマやアルコール、テレビを志向しなくなった」というふうに理解することになる。ということは、現在の若者は端からクルマやアルコール、テレビを志向していないわけで、「離れた」わけではなく目が行っていない。言い換えれば「最初から離れている」

これが「若者の○○離れ」に見えるのは、それより上の世代の立ち位置で現在の若者の嗜好をみているからだ(マーケットのターゲットとなるコーホートが見えなくなって困っているというビジネス上の困難から来る嘆きもあるだろうけれど)。たとえば50代の僕の世代なら若い頃、その多くはクルマやアルコール、テレビを志向した。だいたい大学に入れば、否応なくアルハラ的に酒を飲まされており(笑)、しかもこうした、いわば「乱暴な通過儀礼」が世代の共通体験としてしてあった。誰もが、あるいは多くが志向していたわけで、そういった一枚岩的な若者時代の体験に基づけば現在の若者は、なにかにつけて「○○離れ」に見えるだけなのだ(皮肉っぽく言えば、この時代の人間たちもこういった一枚岩的な志向(あるいは嗜好)から外れたものについては「離れていた」ということになる)。

「○○離れ」は多様化の必然

若者たちが、メディアが喧伝するようなかたちで「○○離れ」しているのはあたりまえだ。情報化、消費社会化の進行で多様化があたりまえのインフラが構築され,必然的に嗜好が多様化しただけなんだから。典型的なエピソードを一つあげてみよう。今も昔も学生たちの間でコンパは盛んだけれど、昔と今ではちょっと違っている。僕らの世代なら、店にやって来たら飲み物の注文はいうまでもなくビール。「とりあえずビール」ってやつだった。アルコールが飲めない人間だけがそのことを宣言し、その人間だけはウーロン茶とかコーラになっていた。だから幹事は比較的楽な仕事だった。ところが今は全然違う。幹事はコンパに先立ちメンバー全員に飲み物の注文を聞かなければならない。ビール、焼酎、チューハイ、ワインとかいうレベルではなく、もっともっと細かくなる。そして三割くらいはノンアルコール・ドリンクだ。これは、僕らの世代からすればビール離れしているように見えるけど、彼らは自分の嗜好に基づいて注文しただけ。つまり細分化しただけ。だから「離れ」ではなく「多様化・細分化」なのだ(ちなみに二次会は飲み屋で無くカラオケになる)。

で、たとえばクルマ。かつては男性の多くに所有願望があったけれど、現在はそんなことはなくなっている。クルマは維持費がかかるし、クルマ以外に関心を抱くモノも多い。だから食指が伸びないだけ。もっとも細分化・多様化しているのでクルマに入れ込む若者も、もちろんいる。で、入れ込むと、これはオタク的なアプローチになるのでカネのかけ方もハンパではなくなったりするわけで。つまり好みが分散化しただけ。言い換えれば、若者の「○○離れ」を上位世代が語るとき、それは自分たちの世代の若い頃の同質性、均質性を語ってしまっていることになるのだ。

ただし、上位世代も情報化、消費社会化の影響を受け多様化・細分化している。僕らの世代でももう嗜好はバラバラ。そのことはさておいて、まあ「若者の○○離れ」を語っているんだけど。彼ら(僕も含めた)には若者時代の共通体験があり、これが現在の若者が「○○離れ」しているように思わせているに過ぎないのだ。比較対象はあくまで「自分の若い頃」と「現在の若者」。

若者の同質性=プラットフォームへの志向

じゃあ、現在の若者の多くが入れ込んでいるもの、言い換えれば同質的な傾向は無くなっているのか。つまり「とりあえずビール」的な存在は消滅したのか。そんなことはない、しっかり存在している。彼らの多くはカラオケに入れ込んでいるし、スマホに入れ込んでいるし、アイドルに入れ込んでいるし、アニメ・フィギュア・コスプレに入れ込んでいるし、ディズニーランドに入れ込んでいる。で、これらは巨大な市場を形成している。かつてのクルマやマンガ、テレビのように。

若者の同質性を形成する市場に共通するのは、それらがプラットフォーム化していることだ。たとえばディズニーランドをあげてみよう。ここにやってくゲストたちのご贔屓キャラクターは必ずしもミッキーマウスというわけではない。ミッキーやミニーの他にダッフィー、ジェラトーニ、マックス、トゥードルダム&トゥードルディー、こひつじのダニー、J.ワシントン・ファウルフェロー、リトル・グリーンマンといった「泡沫」キャラクターが登場し(いくつ知ってました?(笑)ちなみにダッフィーは泡沫キャラではありません)、Dヲタと呼ばれるディズニーオタクの細分化した嗜好に対応している。

駅のプラットフォームは様々な路線が乗り入れる場所。ここでの「プラットフォーム」はそのメタファー。ディズニーの場合は世界それ自体が膨大で、多様性に満ちているのだけれど、ディズニーランド内では膨大な情報(番線数)が用意されることで、さまざまなディズニーに関する嗜好(≒路線)が乗り入れ可能になっている。つまりプラットフォームは多様性を受け入れる「箱=システム」なのだ。いいかえれば「違っていてもいいんだよ」ということを保証する環境。だから「とりあえずディズニーランド」

先ほどあげた若者が入れ込んでいるものは全てこれ、つまりプラットフォームだ。アイドルはジャニーズやAKB48といった大きな箱が(推しメンはそれぞれ異なる)、アニメ・スマホ・コスプレも様々なキャラクターを許容する箱が(コミケットやコスプレイベントはさながらこの箱の実体化といえる。で、それぞれバラバラのマンガを志向し、コスプレをする)、カラオケはみんな勝手に好きな曲を歌う空間=箱が、そしてスマホは好きなことに興じるためのたくさんのアプリが入っている箱=スマホ本体とOSが存在し、個別の嗜好に対応する。その一方で、それらはがプラットフォームの中に包摂されていることで、自分が孤立していないこともまた保証する。つまりプラットフォーム自体が形式的に、うっすらと同質性を保証しているのだ。だから「とりあえずジャニーズ、AKB48、カラオケ……スマホ」。そしてコンパは「とりあえずコンパ」(だからコンパそれ自体は衰退していない)。

この流れは不可逆的だろう。そしてさらに多様化は進んでいくだろう。ということは先行世代からすれば後続世代の行動は、これからもすべからく「○○離れ」に見えるということになる。

というわけで、「若者の○○離れ」というモノノイイには全く根拠が無い。「大人から見れば若者はいろいろなモノから離れているように見える」だけなのだ。

二つの対照的な身障者を取り上げた番組

8月28日、奇しくも同時間帯に身体障害者(以下「障害者」。しばしば障害者や被災者には最近、この後に「方々」という言葉が付け加えられるが、僕はこの表現がかえって「腫れ物に触る」差別的なものと判断しているので、以前に使われていたように呼び捨てで表記させていただく。その理由については後述)をメインに取り扱った二つの番組が放送された。一つはご存じの日テレ「24時間テレビ」(取り上げられるのは障害者だけではないが)、もう一つはNHKの「バリバラ」だ。二つの番組は同じテーマを取り扱いながら障害者へのアプローチが正反対に見える。

「24時間テレビ」のアプローチは、先ず障害者を弱者としてとらえ、そういった弱者が艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きているという、健常者を優位に立たせて上から目線で捉えるもの。この扱いは、近年では「感動ポルノ」という言葉で批判されているアプローチだ。「弱者である障害者」は辛い境遇にあるが、それでもがんばって美しく生きているという、お定まりの美談仕立ての物語にしてしまう。一方、「バリバラ」の方は、これに対するアンチテーゼ的な展開で、障害者にも別の側面があると言うことを示すべく、番組をバラエティ仕立てにし、障害者で笑わせたり、あるいは障害者の性を取り上げるといったアプローチを展開している。

一見すると前者が偽善に満ちた批判的な対象で、後者の方がより真実を映し出しているように思えるが、この二つはある意味、同じ次元での展開だ。マクロ的に見れば「バリバラ」も「24時間テレビ」と同様、感動ポルノの文脈にあるからだ。「24時間テレビ」との差異化のために無理矢理ネーミングを与えれば、これは「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」ということになるだろうか。

二つに共通するのは、いずれも障害者を異物=「異なもの」として扱っている点だ。これについて障害者ダンサーである森田かずよ氏は「障害者としてではなく個人として扱って欲しい」と指摘している(引用元:https://www.buzzfeed.com/satoruishido/24hourtv-or-baribara?utm_term=.pqNgdY2xaQ#.goQGME9gR1)。つまり、健常者と同じ扱いになっていない点については二つも同じということになる。では、われわれは、とりわけメディアは障害者にどのように対応すべきなのだろうか。

大人に染みこむ無意識の差別感覚

障害者に対するわれわれの現状での「自然な態度」をビビッドなかたちで見せてくれるYouTubeのビデオがある(すいません、ビデオが見つかりませんでした。海外ものです)。被験者の幼児と大人をテレビの前に座らせて、テレビに映る人物の真似をさせるもの。テレビには次々とポーズや演技をする人間が登場する。大人と子供は同じように真似を続けるのだが、ある人物が登場した瞬間、幼児と大人の対応が変わる。幼児はそれまでと同じように真似を続けるのだが、大人はやめてしまうのだ。なぜそうなったのか?映っていた人物が障害者だったからだ。

幼児と大人が異なった対応を示したのは、障害者についての経験の有無に基づいている。われわれは成長につれて様々な行動や思考を学習する。それは教え込まれることもあるが、大半は日常生活の中で自然と身に付けるものだ。こうした行動や思考が定着すると、それ以外の行動や思考を「異なもの」として扱うようになる。そして、この「異なもの」は、記号論=メディア論的には自らの日常を脅かす恐れを無意識に感じさせるものと位置づけられる。だから、これを排除したり無視しようとしたりする。少なくとも身構える。

このビデオのテレビの中で登場した障害者は、大人にとっては「異なもの」として立ち現れた。もちろん本人が差別しているつもりはない。しかし、この時、大人は過去の無意識な学習=経験に従って障害者を「メタ的な異なもの」と捉えている。つまり、健常者の真似は問題ないが、そこに障害者が登場して少々異常な動作(ただし、この場合の「異常な」とは、健常者にとっては日常的ではないように映るという意味。障害者からすればもちろん日常的な動作)をした際には(健常者の場合には、たとえ常識的ではない動きをしても、笑いながらとかして真似を続ける)、次のような心的メカニズムが作動する。「私は調査者の要請に基づいて真似をしなければならない。しかし、今ここに登場したのは障害者だ。その動きは不可解なものである。真似ろと要請されてはいるが、ここで真似たら障害者差別になる」こんな複雑な構えが一挙に現れて(しかも無意識に)真似することを躊躇させるのだ。一方、障害者に対する経験も知識もない幼児にとってはテレビ画面に登場する人物はどちらも同じ。だから躊躇無く真似を続ける。

このビデオでの大人側の対応こそが「24時間テレビ」と「バリバラ」に共通する視点なのだ。つまり障害者は「異なもの」。だから森田氏が指摘するように、どちらも障害者を個人、言い換えれば健常者と同じように扱っていない。よって、両者はマクロ的に見れば”同じ穴の狢”なのだ。言い換えれば、二つとも差別意識として批判されるべきコンテンツということになるのだが……。いや、そうではない。二つの番組は確かに障害者を差別している。しかし、これは「なにもしないよりも、まだまし」と捉えるべきと僕は考える。障害者をもっと相対化して捉え、個人として尊重するためのステップとして。

障害者のポルノグラフィ化を撤廃するステップ

「ポルノ」とは「ポルノグラフィ」の略。ざっくりと説明してしまうと「見てはいけないけれど、見たいもの」あるいは「見たいけど、見てはいけないもの」という意味。ポルノグラフィは対象を○だけど×、×だけど○という曖昧な状況に置くことで、かえって「見たいもの」「見たくないもの」に対するイメージをタブー化し、無意識下に刷り込ませ、その欲望を継続させる機能を備えている。「24時間テレビ」は障害者の日常~それは健常者と同じく清濁併せ持っている日常だ~のうち、「濁」と普通の部分を隠蔽する。「バリバラ」は「笑い」「性」といった部分に特化し、障害者の他の日常を、やはり隠蔽する。しかし、だからといって障害者はいつまで経っても個人としては扱われないということにはならないだろう。

かつて、まだ共同体が存在していた時代、現在で「障害者」というカテゴリーに属する人々も「健常者」と同じ空間で生活していた。障害者は現在に比べれば、はるかにポルノグラフィ化されてはいなかった。だが、共同体が崩壊し、障害者が日常的空間から排除されることによって障害者は現在のわれわれが認識する意味での「障害者」として位置づけられた。彼らは「異なもの」と位置づけられたのだ。

だが戦後、民主主義の一般化とともに平等であることが是であることが広く一般に浸透する。これはもちろん障害者にも該当する。だが前述したように環境からの隠蔽によって、一般人にはもはや彼らは「異なもの」として位置づけられている。つまりポルノグラフィ化されてしまったのだ。

この認識はYouTubeのビデオが示すように、われわれの身体に深く刷り込まれている。だから変更することは容易ではない。ゆっくりとステップを踏んでいくしかないのが現状だ。このように踏まえると、二つの番組は障害者を相対化していくステップと捉えられないだろうか。「24時間テレビ」での障害者の「感動ポルノ」的な扱いは、まずどんなかたちであれ障害者の存在を世間に知らしめる機能を果たした。ただし、これがある程度認知され、紹介するストーリーが陳腐化したことで、こういった「艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きている障害者」が、障害者の一側面でしかないことが次第に認識される。そこで、これらは「感動ポルノ」と批判されるようになった。次いで、今度は別の側面が「バリバラ」的なコンテンツによって認知された。しかしこれもまた「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」といった別の側面でしかないわけで、いずれ批判の対象となるだろう。しかしそれでも、これもまた障害者を相対化する新しいステップなのだ。少なくともやらないよりはマシだった。

われわれはYouTubeのビデオに登場したような無邪気な子供ではない。社会の一員として常識、より正確に表現すれば英語訳のcommon sense=共通感覚を備えてしまっている。そして、その一つが障害者に対する「異なもの」としての無意識の認識だ。これはわれわれの中に深く染みこんでいる。だから、無邪気な子供になるのは無理だ。だったらどうすればいいか。実は、その回答の一つが二つの番組、そして「24時間テレビ」から「バリバラ」への進化といえるだろう。こうやって、障害者を様々な面から紹介し相対化していく。その繰り返しの中でわれわれのcommon senseもゆっくりと変わっていく。いわば脱構築したかたちで無邪気な子供に戻ることが初めて可能になるのだ。いわば「認識におけるバリアフリー化」。

アメリカでは障害者に対する認識については面白い事実を発見することができる。現在ではバスの多くが障害者向けの低床型になっており、乗降時にはバスが右に傾き、バリアフリーの構造が出来上がっている。歩行が困難な障害者が乗降する際には、タラップがさらに付け加えられる(これも電動で出し入れ可能)。だが、面白いのはこの時の一般人の対応だ。乗降にはある程度の時間がかかるが、ほとんど意に介する様子はない。もともとマイペースという国民性も考慮しなければならないが、日常の風景として馴染んでしまっている。これでアメリカは身障者の差別がなくなっていると楽観的なことを言うつもりはないが、少なくとも、こうした「日常」として、われわれの身障者への対応を次々と馴化させていくことが障害者を「個人」として尊重することに繋がることだけば間違いないだろう。

障害者の相対化を早めるためには

ならばどうすれば早く障害者を個人として尊重すること、言い換えれば相対化することが可能になるのだろうか。

言語学者でF.ソシュール研究の大家として著名であった故丸山圭三郎は晩年、言語学的な見地から差別用語の撤廃を提唱した(一般に「差別用語」と呼ばれているものは、実際にはメディアによる放送自粛用語でしかなく、何ら罰則があるわけではない)。全ての差別用語を青天白日の下に晒してしまえばタブー=ポルノグラフィが一挙に相対化し、差別そのものが無になるというのが丸山の主張だった。少々アナーキズム的な発想で現実味は低いと言わざるを得ないけれども、丸山が指摘するのはポルノグラフィの相対化に他ならない。丸山の主張のエッセンスとはタブーをどんどん引っぱがし、既存の差別をポルノグラフィとして成立させなくしてしまえということなのだ。そういった意味では、感動ポルノもバリバラも相対化の前身には貢献したと考えてもよいだろう。ただし、僕らは次のステップを考える必要がある。しかも、もっと相対化のスピードをアップさせながら。

「方々」をやめよう
冒頭に僕は「方々」という言葉を使わないと明言した。また、ここまで身体障害者の略称を「障害者」と表記してきた。後者については「身体の不自由な人々に『害』という言葉を用いるのは何事か!「障がい者」と表記せよ」との指摘がある。こういった「配慮」を僕が否定するのは、もっぱら「障害者を相対化した視点で捉えるべき」という前提に立っているから。これらが不自然なのは言葉を入れ替えるとよくわかる。「健常者の方々」「非被災者の方々」……実に不自然な耳慣れない言葉に聞こえないだろうか。これらのような、いちいち腫れ物に触る的な「配慮」を行い続ける限り、障害者が個人として尊重されることはない。こちらの方が差別的=ポルノ的。健常者と同じ立場を成立させることを遅らせるだけだろう。

障害者が日常の風景として認識、いや「異なもの」ではなく「自然なもの」として僕ら全てが認識できる日が一日も早くやってくることを願ってやまない。

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