(ニューシネマパラダイス爆破直後に現れたキチガイ。いつものように「オレの広場だ」とつぶやきながらクルマの中に消えていく。両手には買い物ビニール袋が……。映画『ニューシネマパラダイス』より)
この映画で三番目に重要な人物。それはキチガイだ!
キチガイの存在論的基盤=「みんな」があっての「オレ」
しかしながら、このキチガイもまた共同体の一員である。なぜか?キチガイが「オレの広場だ」と叫んだとき、人々はそれを笑って見過ごすからだ。つまり、いくらキチガイが「オレ」という個人主義を主張したとしても、人々はそんなことを気にすることもなく「みんな」でありつづけているのだ。そして、このキチガイを笑い飛ばすことが出来ると言うことは、共同体にはキチガイが必ずいて、それも共同体の一員として「みんな」が面倒を見ていたことを意味している。シネマパラダイスが焼け落ちたとき、それを呆然と見つめる共同体の人々の前で、踊りながら「燃えた、燃えちまった」と喜ぶキチガイだったが、そのことについても誰も怒ったりしない。すでに説明したようにシネマパラダイスが燃えて、キチガイがこれでお客が来なくなったと思ったとしても、共同体の人々は健在であり、サッカーくじに当たったナポリのチッチョがあっという間にニューシネマパラダイスという映画館を再建している。やはりこの時も、認識論的には個人主義を標榜しているキチガイは、その存在を共同体によって存在論的に守られることによって、生きながらえているのである。つまり、キチガイの個人主義は、共同体の存在があって初めて成立しているのだ。
キチガイが欲望を達成したとき、キチガイもまた幻となった
そしてシーン6・ニューシネマパラダイスの爆破のシーン。すべてが幻となり、個人主義を謳歌する若者たちが白煙に喜び、広場がクルマに占拠されしまった状態で、あのキチガイが白煙の中から幻のように登場する。「オレの広場だ、オレのモノだ」
そう、ついにキチガイは共同体の人々を広場から駆逐し、広場を「オレのもの」にしたのだ。
それは、一見、キチガイが標榜する個人主義がついに達成され、キチガイは共同体に対して勝利したかのように見える。キチガイは、個人主義のメタファーとでも言うべき買い物のビニール袋をぶら下げている。ところが……どうも寂しそうなのだ。そして朽ち果てている。なぜか。
無理もない。キチガイが自らの個人主義の標榜が可能だったのは、そのワガママ勝手を許容する共同体があったからこそだったからだ。ということは彼の望み通り個人主義が勝利したということは、言いかえれば共同体の消滅であるわけで、さらに言いかえればキチガイの存在根拠の消滅に他ならなかった。もはやキチガイをキチガイとして認める共同体の人たちは幻であり、それに支えられていたキチガイもまた幻となっていたのだ。そして、彼は共同体のキチガイではなく、フーコーが言うところの、近代における狂気でしかない。それは即刻、隔離、幽閉すべき存在、だから一刻も早くこの場所から抹殺しなければならないのである。
キチガイは自らの欲望を完遂することによって、自らの存在を失った。かつての共同体の人々と同様、幻となり、すでに死んでいるのである。