勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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(ニューシネマパラダイス爆破直後に現れたキチガイ。いつものように「オレの広場だ」とつぶやきながらクルマの中に消えていく。両手には買い物ビニール袋が……。映画『ニューシネマパラダイス』より)

この映画で三番目に重要な人物。それはキチガイだ!

キチガイの存在論的基盤=「みんな」があっての「オレ」

しかしながら、このキチガイもまた共同体の一員である。なぜか?キチガイが「オレの広場だ」と叫んだとき、人々はそれを笑って見過ごすからだ。つまり、いくらキチガイが「オレ」という個人主義を主張したとしても、人々はそんなことを気にすることもなく「みんな」でありつづけているのだ。そして、このキチガイを笑い飛ばすことが出来ると言うことは、共同体にはキチガイが必ずいて、それも共同体の一員として「みんな」が面倒を見ていたことを意味している。

シネマパラダイスが焼け落ちたとき、それを呆然と見つめる共同体の人々の前で、踊りながら「燃えた、燃えちまった」と喜ぶキチガイだったが、そのことについても誰も怒ったりしない。すでに説明したようにシネマパラダイスが燃えて、キチガイがこれでお客が来なくなったと思ったとしても、共同体の人々は健在であり、サッカーくじに当たったナポリのチッチョがあっという間にニューシネマパラダイスという映画館を再建している。やはりこの時も、認識論的には個人主義を標榜しているキチガイは、その存在を共同体によって存在論的に守られることによって、生きながらえているのである。つまり、キチガイの個人主義は、共同体の存在があって初めて成立しているのだ。

キチガイが欲望を達成したとき、キチガイもまた幻となった

そしてシーン6・ニューシネマパラダイスの爆破のシーン。すべてが幻となり、個人主義を謳歌する若者たちが白煙に喜び、広場がクルマに占拠されしまった状態で、あのキチガイが白煙の中から幻のように登場する。

「オレの広場だ、オレのモノだ」

そう、ついにキチガイは共同体の人々を広場から駆逐し、広場を「オレのもの」にしたのだ。

それは、一見、キチガイが標榜する個人主義がついに達成され、キチガイは共同体に対して勝利したかのように見える。キチガイは、個人主義のメタファーとでも言うべき買い物のビニール袋をぶら下げている。ところが……どうも寂しそうなのだ。そして朽ち果てている。なぜか。

無理もない。キチガイが自らの個人主義の標榜が可能だったのは、そのワガママ勝手を許容する共同体があったからこそだったからだ。ということは彼の望み通り個人主義が勝利したということは、言いかえれば共同体の消滅であるわけで、さらに言いかえればキチガイの存在根拠の消滅に他ならなかった。もはやキチガイをキチガイとして認める共同体の人たちは幻であり、それに支えられていたキチガイもまた幻となっていたのだ。そして、彼は共同体のキチガイではなく、フーコーが言うところの、近代における狂気でしかない。それは即刻、隔離、幽閉すべき存在、だから一刻も早くこの場所から抹殺しなければならないのである。

キチガイは自らの欲望を完遂することによって、自らの存在を失った。かつての共同体の人々と同様、幻となり、すでに死んでいるのである。

キチガイはトトである!

個人主義を標榜し、個人の欲望を最大化することによってその存在を失ったキチガイ。このキャラクターが意味するところは何か。……これと全く同じ道を歩んだ人間がこの映画の中にもう一人いる。それはトトに他ならない。つまり、このキチガイ。実はトトのメタファーなのだ。二人は思い通りにして自らの望みを達成させた、その代わりに大きなものを失ったのだから。(続く)

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(上、「みんなの広場」だと主張する人々。中、それに対して「オレの広場だ」と言い返すキチガイ。下、盛況な映画に「気に入らん」と腹を立てるキチガイ。映画『ニューシネマパラダイス』より)

この映画で三番目に重要な人物。それはキチガイだ!

キチガイはこの映画で三番目に重要な人物だ

映画『ニューシネマパラダイス』の中に何度か登場してくるキチガイ(ちなみに「キチガイ」は差別用語だが、ここでは共同体の時代に使われていたことばなのであえて用いていることをお断りしておく)。セリフは非常に少ない。「オレの広場だ」「広場は終了、帰って」「文句あるか」「燃えた」「気に入らん」この程度しかない。しかし、映画の中でこのキャラクターは、この作品が伝えようとするメッセージのためにきわめて重要な役割を担っている。

キチガイは6回登場する

登場するシーンは全部で6回。それぞれを再現してみよう。

シーン1。トトが牛乳代を映画館の入場料にしてしまい、そのこと母に咎められるシーンの後。場所は夜の広場。くだんのシーンが終わると、突然キチガイがカメラに登場し「オレの広場だ」と叫び、「広場は終了、帰って、帰って」といいながら、映画館から出てきた人々を押して広場から追い払おうとする。ちなみに、この時人々はこのこの行為に、なんと笑いながらが従っている。

シーン2。広場で女たちが染め物をしていると、その下から突然登場し、作業を邪魔しながら「オレの広場だ」と叫ぶ。女たちは迷惑そうだ。

シーン3。アルフレードが映画を広場に映す。それに気がついた神父が広場で映画館を見ている人々から半額の入場料を徴収しようとする。すると人々はいっせいに「みんなの広場だ」と叫び、支払いを拒否する。その瞬間、銅像の上に寝ていたキチガイが立ち上がり「い~や、オレの広場だ。文句あるか」と反論する。広場は人々による爆笑の渦に包まれる。

シーン4。シネマパラダイスが焼け落ち、これを呆然と見つめる共同体の人々の間をかけずり回りながら「燃えた、燃えちまった」と大喜びしている。映画館が焼け落ちれば、人々が広場にやってくる理由が一つ無くなる。それはキチガイにとっては「オレの広場」になるというすばらしい事態なのだ。しかし、すぐさま映画館=ニューシネマパラダイスは再建されてしまうのだが。

シーン5。映画『絆』があまりに盛況で、シネマパラダイスの中は人々の熱狂でごった返している。そのとき映画館内の隅から出現し「気に入らん」と映画を批判する。人に受けて、お客が来るのでは広場を独占できないので、それが気に入らないのだ。

「オレ」と「みんな」

キチガイが繰り返すセリフ「オレの広場」は何を意味しているのか。もうおわかりだろう。これは、オレ、つまり個人を意味しているのだ。つまりキチガイは個人主義を標榜する存在、そして個人主義という共同体を破壊する、共同体にとっては悪魔的イデオロギーの「予兆」として存在しているのである。そして、ここでは「オレ」と「みんな」が対句になっている。キチガイの「オレ」に対する共同体の人々の「みんな」である。だからこそ、シーン3で広場に映画が映されたとき、これを拒否する人々のさけんだことばが「みんなの広場だ」だったのであるし、ニューシネマパラダイスのこけら落としの際に、チッチョが発した第一声が「みんなの映画館だ」であったのだ。「みんな」とは共同体の存在を示しており、それに対峙するかたちでキチガイの「オレ」が存在するのである。(続く)

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(上、爆破された映画館が巻き上げる白煙に大喜びする若者。中、爆破を見ながら微笑むエレナの娘。下、人々を取り囲むクルマ。映画『ニューシネマパラダイス』より)

映画館の終わりは共同体の終わり

ニューシネマパラダイスの破壊は「みんな」の終わり

このシネマパラダイス消失後の広場のシーンと全く同じレイアウトでコントラストを構成しているのがニューシネマパラダイスの破壊なのだ。この時の配置も見てみよう。

要素の一つめは爆破されるニューシネマパラダイス。二つめは爆破される映画館をやはり呆然と見つめる共同体の人々。とりあえずこの二つをチェックしていく。

ニューシネマパラダイスはもはや映画館としては機能していない。そしてそれが爆破されるゆえ、シネマパラダイスが焼け落ちたのとは事情が違っている。ここでの映画館の爆破は生きているモノが死ぬのではなく、もはや死んでいるモノを処理するだけである。

共同体の人々。「おまえたちはもう死んでいる!」

そして前述した「共同体の人々」。いや厳密に表現すれば「共同体の一員であった人々」。この人々はニューシネマパラダイスとその存在がシンメトリーな構造にある。つまり、彼らも実はすでに死んでいる。だから老けている。トトの母親が語ったように、ここは幻であり、実はこの人たちも「共同体のまぼろし」なのだ。

それを強調するモノとして登場するのが、共同体が存在したことなど知るよしもない若者たちだ。ニューシネマパラダイスが爆破され白煙があたりに漂うと、これに喜んだこの若者たちは非常線を乗り越えていっそう白煙が舞うエリアにバイクで乗り付け、大喜びしながらバイクをグルグルとまわしてみせる。そして、それを見つめる人々の中にはエレナの娘が。彼女もまた、このスペクタクルを見て笑っている。

一方、チッチョはそれまで黙っていたにもかかわらず思わず嗚咽する。そしてアルフレードの相棒であった会場整理係はただただ達観し、細い目線を左にやるだけだ。

共同体の消滅の徹底的なだめ押しの二つ。一つはクルマ

そしてここにもう一つ、シネマパラダイスの時に現れた羊と羊飼いとのコントラストを表すモノが、幻となっている共同体の人々の後ろに映される。それは……広場全体を埋め尽くすクルマだ。つまり共同体の人々は「みんな」のモノであったニューシネマパラダイスを破壊され、広場を個人主義の欲望を満たすクルマに占拠され、さらに人々の周りを個人主義=欲望自由主義を謳歌する若者に囲まれている。そう、四面楚歌の状況。もう彼らに居場所など存在しないのである。トルナトーレ監督は二つの映画館の崩壊を明瞭なコントラストで示すことで、共同体が完全に消滅していることを提示しているのだ。

いや、トルナトーレのダメ押しはまだまだ続く。なんとこの後、ニューシネマパラダイスの右端からあのキチガイが登場するのである。(続く)

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(上、焼け落ちたシネマパラダイスに大喜びするキチガイ。中、共同体の人々の後ろを通る羊飼い。下、人混みの中から現れた大金持ちのチッチョ。映画『ニューシネマパラダイス』より)

映画館の終わりは共同体の終わり

映画館の破壊、再び共同体の人々が広場に集合したが……

ニューシネマパラダイス爆破の当日。ジャンカルド村の人々はこのスペクタクルを見ようと、久しぶりに多くの人々が広場に訪れた。そしてその中には共同体に暮らした面々が顔を連ねている。アルフレッドの妻・アンナ、ぶっ殺してやると叫んだ人の良い男、映画館で愛を育んだ夫婦の年老いた姿、チッチョ、アルフレッドの相棒……

みんな同じだ、ただ誰もが老けている。かつての共同体の人々の中で違っているのはトトだけだ(役者が違うから当たり前なのだが、違うが故に実に効果的だ)。そして偉くなっている。なぜ、トトだけが偉くなっているのか?それは共同体を捨てたからだ。

人々は幻となろうとしている映画館の前で、その爆破を見送る。実はそれは、共同体の人々のもまたすでに死んでいる=幻となっていることを意味している。そのことをトルナトーレは二つの映画館のコントラスト、具体的には映像の配置から明確に示している。

シネマパラダイスの全焼とニューシネマパラダイスの破壊における「同じ」と「違う」

まずシネマパラダイスが焼け落ちてしまったときのことを思い返して欲しい。全焼した翌日、共同体の人々は破壊のシーンと同様、映画館の前にたたずんでいる。問題はこの時の人々やモノなどの映像を彩る要素の配置だ。

要素の一つめは焼け落ちた映画館。二つめは、その前で焼け落ちた映画館を呆然と見つめるは共同体の人々。三つめは人々の前で「燃えた、燃えちまった!」と大喜びしているキチガイ。

映画館が無くなれば人々が集まる理由が一つ失われる。だから「みんな」が「みんな」でいられなくなる。だがそれは広場を独占したいキチガイには好都合だ。「オレの広場」になるんだから。だからこそ大喜びというわけなんだが……。ところがここにもう一つ、四つ目の要素が現れる。共同体の人々の後ろを通過していく羊と羊飼いだ。これは共同体の存在のメタファーに他ならない。羊飼いは広場をもまた牧羊の場として利用している。つまり広場として利用している。ということは映画館が焼け落ち、キチガイがオレだけの広場になろうとしていることを喜ぼうとも、それはぬか喜び。人々はまだまだこの広場を人々が集まる「みんなの広場」として利用し続けるというわけだ。

そして、人々の中から共同体の良心の典型のようなサッカーくじの当たったチッチョが登場する。で、シネマパラダイスはニューシネマパラダイスとして、あっという間に復活するのだ。(続く)

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(上、映画館にヌードとカラーが出現した。中、映画館内でマスターベーションに耽る若者。下、廃館になった映画館でトトが見たポルノ映画看板。映画『ニューシネマパラダイス』より)

映画に個人主義が入り込む、映画の時代の崩壊の始まり

キスは「みんなのもの」から「個人」のものになった。ということは……

ニューシネマパラダイスのこけら落とし。キスシーンが現れ、共同体=映画館の観客たちはついに観たかったものを見ることができた。しかし、それはもはやキスシーンが人々の間でコミュニケーションの地平を開くことが無くなることを意味していた。そして、これ以降「みんなの映画館」で上映されるものは「みんなの楽しみ」から「個人の楽しみ」に基づいたものへと変容していく。

映画に色がついた。個人の色彩に対する欲望が映画の中で実現されたのだ。そしてニューシネマパラダイスで上映されたのはセックスシンボル、ブリジット・バルドーが主演する『素直な悪女』。この映画ではバルドーのヌードシーンが展開されるのだが、これを観に来た共同体の若者たちは、映画を観ながらこぞってマスターベーションに耽ったのだ。一方大人たちも性欲がもたげてくる。すると、映画館のスクリーン向かって左の出入り口にはセクシーな出で立ちの一人の女が。そう、娼婦だ。欲情した男たちの性欲を満たすべく、おそらくトイレ辺りで事を済まさせるのだろう。娼婦は次々とお客を取っている。これは、なかなか効率の良い商売でもある。

このマスターベーションと映画館内で売春が行われるシーンは、つまり「みんな」=公共の場で、「個人」=プライベートを楽しむ人間たちの象徴なのである。そしてこの後、さらに「個人」=プライベートな楽しみが助長されていくことになると、映画という公共の場は、こういった私的な行動にはそぐわないものになっていく。そうして、映画は次第に人々の関心の対象からは離れていった。以降、映画館に人々が集まらなくなっていく。そう、広場が個人のものになるように、映画も個人のものとなったのだ。と同時に、映画館に来る必要が無くなったのだから、必然的に映画館が位置する広場にもまた人が集まらなくなっていく。

廃館になったニューシネマパラダイスでトトが見たものは

30年後、トトがアルフレードの葬式のためにジャンカルドに戻り、参列に加わる。広場にやってくるとニューシネマパラダイスは廃館になっていた。驚いたトトは、館長だったチッチョを参列の中から探し出し、話しかける。チッチョは「ビデオやテレビの影響」とトトにその廃館の理由を語った。個人の欲望を助長するニューメディアによって映画はすっかり駆逐されてしまったのだ。

それだけではない。監督のトルナトーレはさらにダメを押す。廃館になった映画館の内部にトトが入ったとき、彼が最初に見たものは……ポルノ映画の横倒しに担った看板だった。そう、映画館もまた個人主義によって徹底的に食い尽くされ、その機能を失っていた。もう、最後はもっぱら個人的な楽しみを提供する機能しか映画館は持っていなかったのだ。もはやジャンカルドの人々にとって映画館は必要のないものになっていたのだ。だが、それは言いかえれば共同体の人たちがもはや存在しないこと、つまり「まぼろし」と化していることを意味していた。

ニューシネマパラダイス始まり、それは共同体の終わりの始まりでもあった。そして、その幕開けをしてしまったのは……言うまでもない。トトである。トトこそが共同体の人々を楽しませようとして「キスシーン」という「みんなの秘密」を公然のものとしてしまったのである。ということは、トトっていったい何者?(続く)

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