勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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僕のネタバレ映画レビューがお叱りを受けた

12月24日、僕は「スターウォーズⅦ『フォースの覚醒』で見せたJ.J.エイブラムスの手腕」(http://blogos.com/article/151592/)というタイトルでスターウォーズ新作のレビューを書いた。本ブログはネタバレが含まれているので、冒頭に「※注意:最初にお断り。本稿はネタバレ満載です。しかもオイシイところが。なので、映画を見終わった方にお奨めします。」という断り書きをいれておいたのだが、それに対しコメント欄に「ネタバレって書いておけばネタバレしていいと思っているのか?」というコメントが寄せられた。で、このコメントに僕の回答をしておけば「もちろん、思っています」だ。ただし、これだと単に相手にケンカを売ってしまうことになっり大人気がない(笑)。そこで、今回はレビューやブログでネタバレはどの場合に許されるのかについてメディア論的な立場から論じてみたい。

不意打ちはもちろんダメ

先ず、全く許されないネタバレは「抜き打ちのネタバレ」だろう。つまり読者が予告編くらいの気持ちで読んだ記事がネタバレだったという場合。これは不意を突かれたということになるわけで、想定外。これから映画を楽しみにしている人間がこれを目にしたら怒るのはあたりまえだろう。12月20日、東京新聞の紙面がやってしまったのがこれで、紙面上には新作での人間関係の相関図が示されていたという。これは当然マナー違反。

ロードショー直後でストーリーをそのまま展開するのもダメだが……

次に、「最初にネタバレあり」と示してあるが、そのネタバレがなぜ示されなければならないのかわからない場合。典型的なのは、もっぱらストーリーや相関図を示すことに終始しているようなケースだ。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中で、運搬のトラブルで映画館に長編映画の後半が届かないことに腹を立てた観客に対し、観客の一人がその騒ぎをなだめるために「おれは後半を見たから、話してやる」と言った瞬間、靴をアタマに投げつけられたというシーンがあるが、まあこの感覚だろう。共通するのは、ようするに「知っているストーリーを語りたいだけ」という自己満足のために人の楽しみの芽を摘んでしまう点だ。ただし、この時点で「最初にネタバレあり」と示してある。と言うことは、それ以降を読み進むのは読者の方であり、当然、原則「自己責任」の部類に属するが。

映画をより楽しんでもらうためにネタバレをするのはOK

さて、僕が今回やったネタバレは、これらとは全く違った立場からのアプローチだ。ポイントは冒頭の断り書きの最後の部分。つまり「映画を見終わった方にお奨めします」という言葉。要するに、映画を見た方に、こちら側の分析を示し、考えてもらうことを意図していた。つまり映画を見終えた後に、映画のことをもう一度思い出し、今度は別の視点から映画を楽しんでもらえればと言うことをねらいとしていたのだ。だから、今回、新作シーンのネタバレを過去の作品シーンと比較したり、またネタバレをスターウォーズシリーズ作品群が展開する世界観の中に埋め込むという試みを行った。いうならば、マナーを守った上での「ネタバレ」。言い換えれば映画批評、エンターテイメント、すこし偉そうに言えばメディア・リテラシー啓蒙をねらってこれを書いたつもりだ。だから、もちろん「ネタバレしていい」と思っているのである。

で、こういうのを「言論の自由」というのだと、僕は考える。もちろん、これを否定するというコメントも自由ではあるが。ま、正直言って「ちょっと、『ネタバレ』という言葉の含意を理解しておられないのでは」と考えてしまうのだが。つまり「一口に『ネタバレ』言っても、実はいろいろある。」

僕の仕事の一つは映画のメディア論、記号論的なテキスト分析(過去の分析にについてはブログ『勝手にメディア社会論』の「映画批評欄」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/folder/1478439.htmlをご参照いただきたい)。これからも、映画好きの人々に映画を楽しんでいただくために、今回のようにマナーを守りつつ、ネタバレを続けるつもりだ。

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      (WDWハリウッド・スタジオにあるピクサー・コーナー)

ディズニー・アニメとはピクサー・アニメのこと?

ちょいと最近のディズニー・アニメ作品をいくつか上げてみてほしい。おそらく浮かんでくるのはトイ・ストーリー、バグズ・ライフ、リロ&スティッチ、モンスターズ・インク、ファインディング・ニモ、Mr.インクレディブル、CARS、レミーのおいしいレストラン、ウォーリーといったところではないだろうか。そしてこうやってみてみると、最近のディズニー・アニメとしてイメージされている作品のほとんどは、実はディズニーの名を冠したピクサーの作品なのだ(ちなみに今あげた作品中、ピクサー作品でないものはリロ&スティッチのみ)。

ところが、これ以外にもディズニー・アニメはこの十年の間にいくつか公開されている。ノートルダムの鐘、ムーラン、ヘラクレス、ターザン、ブラザー・ベア、トレジャー・プラネット、チキン・リトル……これらは正真正銘のディズニー作品。しかし、ほとんど知られていない。ブラザーベアの主人公三兄弟とか、チキンリトルの彼女の名前とかを答えられる人間は少ないだろう。

それにくらべるとピクサー作品のキャラクターはウッディ、バズ、フリック、マイク、サリー、ブー、ニモ、ドリー、マーリン、クラッシュ、インクレディブル、イラスティガール、ライトニング・マックイーン、レミー、そしてウォーリー、イブと、そらんじるのは簡単だ。

つまり、この十数年。ディズニー・アニメとはピクサー・アニメのことだったのだ。

ディズニー・アニメの三つのピーク

ディズニー・アニメはこれまで三回、そのピークを迎えている。一つ目は創業から60年代半ばまでの「元祖ウォルトの時代」。言うまでもなく白雪姫、ピノキオ、ファンタジア、シンデレラ、ピーターパンといったディズニーの古典を作り上げた。二つ目は90年前後の「ジェフリー・カッツェンバーグの時代」。この時代にはリトル・マーメイド、美女と野獣、アラジン、ライオン・キングといった、今や主力となるキャラクターが生まれた。そして三つ目が「ピクサーの時代」だ。ピクサーはこれまでディズニー印の下、90年代以降のディズニー・アニメを牽引してきた。ということは、三つ目のピークは外様によって築き上げられたと言うことになる。

しかし、ピクサーはディズニーに買収された。これはどういうわけか?(続く)

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(上、トトのローマの自宅のベランダにある風鈴。下、風鈴のシルエットがトトの顔面に。そしてトトはジャンカルドを回想する。映画『ニューシネマパラダイス』より)

鐘/鈴、マリア像/キリスト像は何を意味しているのか(3)

鈴の持つ、もう一つの、そして極上の機能

さて、実はこれらメタファーが登場するシーンはこれだけではない。トルナトーレは極上のやりかたで映像の中にこれらメタファーの一つを忍び込ませている。しかもさらに別の意味を加えて。

メタファーの中の”鈴”に注目して欲しい。これは鐘同様、共同体の権威が及ぶ範囲を示していた。ところが、鈴の示すものはこれだけではない。

シーン7.最初に鈴が出てくるシーンは、成人のトトがローマでジャンカルドを回想し始めたときの次の映像である神父とトトとのシーンであると指摘しておいた。神父が祭壇に祈りを捧げる儀式の最中、トトが後ろにひざまずき、祈りの間合いとして鈴を鳴らすというもの。ところが、実はその前に鈴はすでに三つ登場している。しかもジャンカルドではなくローマのトトの自宅で。

トトが仕事を終え、自宅へ帰ってくる。そして上着を脱ぎベランダから外を見る。カメラはこの映像を窓の外から映し出すのだが、そのときベランダには風鈴が映し出され、そしてその音が響く。そしてトトは愛人からアルフレードが死んだという電話を受けたことを知らされると、ベッドに横たわりながらジャンカルドのことを回想し始めるのだが。この時、サウンドトラックには風鈴の音が。そして枕元のトトの顔には外の明かりの光が差し込むのだが、顔の部分がシルエットになっている。このシルエット、実はベランダの風鈴なのだ。つまり鈴は共同体を表しているとともに、トトの共同体・ジャンカルドへの回想を呼び覚ますものでもあるのである。鈴が鳴り、鈴のシルエットがトトの顔にかかったとき、トトはタイムマシンに乗ってジャンカルドに戻っていく……。

また、この映画は現代→過去→現代という構成でストーリーが進行しているが、それぞれのステージへの移行の印としても鈴は機能している。当然、シーン7は過去への入り口である。そして過去から現代へ戻る時の印はトトがジャンカルドを去るときの列車発車の鐘である。ちなみにこの時神父はトトを見送る列車に間に合わない。そう、ここでトトは完全にキリスト教の権威、つまりジャンカルドという共同体からは切りはなされてしまったのだ。ローマに共同体を持ち込むことは決して出来ない。そういった運命にトトは置かれている(その理由については後述)。

そして、次のシーンはあっという間に現代になってトトが戻ってくるのだが、列車ではなく飛行機。そしてもちろんそこに鐘は存在しない。ということは、そこに共同体もないということなのだ。(続く)

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(上、鐘の中から登場する映画『ヴィッジュの消防士たち』の主人公・トト。中、シネマパラダイスとともに焼かれてしまうマリア。下、ニューシネマパラダイスのこけら落としでキスシーンをカットできない神父。映画『ニューシネマパラダイス』より)

鐘/鈴、マリア像/キリスト像は何を意味しているのか(2)

共同体を崩壊させること。それは鈴を鳴らさず、マリアを焼くことだ

鈴、鐘、マリア、キリストが共同体における権威のメタファーである確たる証拠は、この映画がジャンカルドという共同体の崩壊を描く際に、広場と同様、これらメタファーがその都度登場し変化するからである。言いかえれば、これらは物語のテーマを示す”暗号”だ(ちなみに監督トルナトーレもインタビューの中で暗号を映画の中に忍び込ませていると証言しており、その一つが鈴と鐘とネタバラシしている)。共同体の崩壊は、具体的にはこれらが使い物にならなくなっていくことで示される。つまり鳴らさない、鳴らすことができない、焼き払われるという作業がこれらに施されるのだ。

再びシーンを振り返ろう。

シーン1.神父が祭壇に祈りを捧げ、それに相づちとしてトトが鳴らすことになっている。ところがトトは居眠りしていて鈴を鳴らさない。つまりトトは共同体の権威を否定している。鳴らさないから神の威光が伝わらないのだ(この部分の、詳細についてはトトに関する分析に譲る)。

シーン5.映画『ヴィッジュの消防士たち』が大好評。見ることのできない人々がアルフレードに懇願する。そこでアルフレードは映像を広場に映し出す。ところが、これがきっかけでシネマパラダイスは火事になる。この時、映写室に倒れるアルフレードを助けようと映画館に向かったトトは何とか螺旋階段までアルフレードを引きずり下ろしていく。しかし、そこで力尽き、どうしようもなくなって「誰か、助けて」と叫ぶ。その次のシーン。燃えさかるシネマパラダイスの中で炎に包まれたマリア像が映し出される。つまり、映画館の破壊はマリア=共同体の権威の破壊なのだ。ちなみに、この時上映されていた映画『ヴィッジュの消防士たち』の主人公トト(ニューシネマパラダイスの主人公トト=ヴィヴィータ・サルバドーレではない)が最初に映像に登場するのは……大きな鐘の中からだ。つまり、シネマパラダイスを焼き払うと言うことはマリアという権威を焼き、そして権威が響き渡る鐘や鈴を焼き払うことなのだ。言いかえれば、共同体を葬り去ろうとする行為に他ならない。

シーン6.ニューシネマパラダイスのこけら落とし。キスシーンが近づくと、それを恐れた神父が鈴を鳴らそうと手を挙げる。ところが手に持っているのは鈴ではなく、お清めのための棒だった。だからキリスト教の権威を発揚することができない。そしてその結果、女性の諸肌が現れ、キスシーンが登場した。そう、神父の権威はこの瞬間崩壊したのだ。そしてニューシネマパラダイスには、もうマリア像は置かれていない。それは言いかえればみんなの映画館=共同体としの映画館の終わりでもある。だから、この後、映画館は個人の欲望を満たすものとして機能していく。(続く)

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(上,シーン1トトが持っている鈴。中上、シーン1押し入れのマリア。中下、シーン2神父が映画カット部分を指示する鈴。下、シーン2鈴が鐘に換わりカメラは鐘越しに広場を映す。映画『ニューシネマパラダイス』より)

鐘/鈴、マリア像/キリスト像は何を意味しているのか(1)

映画の暗号となるアイテム群

映画『ニューシネマパラダイス』の中では、鐘と鈴、マリアとキリストが頻繁に登場する。とりわけ鐘と鈴の登場する回数は非常に多い。これは何を意味しているのか。

先ず、これらが登場するシーンを確認しよう。

シーン1.最初に登場するのはトトがローマでアルフレードの死を知らされた直後、ベッドでジャンカルドの村を回想し、舞台が40年前に遡る時。
神父が祭壇で祈りを捧げている。そしてその後ろにひざまずきながら幼少のトトは鈴を持つ。ただし居眠りしているので、神父の祈りの間の合いの手として鈴を鳴らすことを忘れている。そのことを神父が祈りの後で叱りつけるとトトはいいわけをする。と、突然風が吹いてきて、押し入れらしきものの扉がひらく。するとそこにマリア像が。

シーン2.神父がシネマパラダイスで映画を試写している。そしてキスシーンやハダカのシーンが登場すると、この部分をカットすることをアルフレードに知らせるために鈴を鳴らす。何回か鈴を鳴らすうちに映像は鈴なのだが、音が鐘に変わる。場面は転換し、教会の上の鐘となり、カメラはその鐘の下をくぐって広場全体を映し出す。

シーン3.シネマパラダイス内に置かれているマリア像が映し出されている。その側面には映写の光のラインが見える。

シーン4.学校が開始される鐘が大きく映し出される。そして、子どもたちは一斉に学校内に入っていく。

共同体における権威のメタファー

鐘、鈴、マリアともに共同体のメタファーである。共同体は民主主義によって成立しているのではない。言われなき権威が、人々をまとめ上げ、拘束し、その代わりに連帯を保障している。そしてその権威の広がりを示すのがシーン2だ。以前にも示したように、この映画の舞台であるジャンカルドという共同体では、その権威はキリスト教である。そしてその権威のメッセンジャーが神父であることは言うまでもない。だからこそキスシーンやハダカのシーンをあらかじめカットすることが出来ていたのだ。その際、神父は鈴を利用してこの作業を行っている。また、この鈴が映像はそのままで音が鐘に変わり、次いで教会の鐘が映し出されるシーンは映像のパラレリズムによって鈴=鐘という図式が示され、またその鐘越に広場が映し出されることで、広場が共同体の権威の下にあることが示されている。鐘の音はジャンカルドの町全体に響き渡っており、これがジャンカルドという村の広がりを、音の届く範囲によって示している。その縮小版は学校開始の鐘の音だ。鐘の合図で子どもたちは教室に急いで入っていく。

とりあえず、鐘と鈴が共同体における権威のメタファーであることを示したが、それだけでこんなことが言えるのかと思うかもしれない。そしてマリアやキリストはどうなったとツッコミも入るだろう。では、なんでこんなことが言えるのか。実はこれら権威のメタファーを巡る映像。まだまだ奥が深いのだ。(続く)

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