勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ゆるキャラ人気はくまモンとふなっしーだけ?

ちょいと東スポっぽい「煽り」的なタイトルで恐縮だけれど、誤解を避けるために、はじめに、ここから展開する話は、くまモンが実際に税金泥棒になっているのではないし、くまモンが熊本の活性化に大きく貢献しているということは認めるにやぶさかではないことをお断りしておきたい。つまり、くまモン(そして熊本)そのものに罪はない。しかし、結果として、つまり「巡り巡ってくまモンが税金泥棒の片棒を担いでしまうことになっている」というお話を今回は展開して見たい。こんなちょっとひねくれた展開をしようとするのは、「ゆるキャラ」という存在が、きわめてあやしいものに見えるからだ。で、どちらかというと今回は「陰謀史観」的な流れで話をしてみたい(笑)。ゆるキャラの周りにはワルいインチキおじさんがいっぱいたかっている?

ご存知のようにくまモンは大人気だ。昨今のゆるキャラブームのトップランナーをふなっしーと分け合っている状態(もちろん、くまモンのほうが先発だが)。僕の大学でもケータイのストラップやバッグのアクセサリーとしてくまモン(ついでにふなっしーも)をぶら下げている学生たちはものすごく多い。ゆるくないキャラの代表であるミッキーやダッフィーに肉薄する勢いだ。

このくまモンというゆるキャラを利用した地域活性化の成功を見て、地方自治体が一斉にこれに続けとばかり、ゆるキャラを開発し、売りに出しに躍起になっている。目標はゆるキャラグランプリでの優勝だ。

ただし、どうもこれが胡散臭いのだ。この「くまモン、ふなっしーに続け」という動きが、僕には子どもの頃に見た「縁日のくじ引き露店」と同じようなものに見えるのだ。でも、これじゃあわけがわからないので、ちょいと説明を。

縁日の露店に出没した、インチキくじ引き

子どもの頃(60~70年代)、縁日は本当に待ち遠しい催しの一つだった。その時だけは、親が縁日用のスペシャルお小遣い(お駄賃ですね)を与えてくれ(普段の小遣いが20円のところ、この縁日スペシャルは150円だった)、これを1日で消費するのが楽しかったのだ。

そういった子どもたちはたくさんいるわけで、当然、これを狙って露天がズラーッと並んだわけなんだけれど、その中でいちばん胡散臭いのが「くじ引き」だった。

年一回の神社の縁日。そこにもくじ引き露天はやってきた。くじ引きは紙製の箱でできていて、その箱にパーティションが切られ、その上に絵をあしらえたフタがしてあり、それを押し破って中の紙を取り出すという仕組み。フタは強く押すと剥がせるようにパーティションに沿ってぐるっとミシン目が施してある。中の紙には番号が記載されており、その番号と露天商の後ろにずらっと並べられた景品に貼られている番号を照合し、該当するものがもらえる。

景品群の中央には大きな戦艦大和のプラモデルが鎮座していた。プラモデル屋でもイチバン目立つところに陳列される巨大なプラモのそれだ。当然、くじ引きに挑む子どもたちはこれが欲しい。つまり豪快に射幸心を煽るという仕掛けになっていた。しかし現実はキビシイ。そんなものは当たるはずがないわけで、結局、ガムとか、よくても50円程度のプラモがもらえる程度だった。

さて、翌年にもこのくじ引き露天はやって来た。すると……また、例の、戦艦大和が陳列棚のど真ん中に鎮座している。ただし、ちょっと箱が型崩れし、しかも皺が寄っている。そう、これは去年とまったく同じプラモなのだ。いいかえれば一年間、誰も当てることができなかった。まだ幼かった僕は「なんでだろう?」と思ったけれど、特になんの不信感も抱かなかった。

縁日が終わって数日たったときのこと。僕は近所のお金持ちの友達のところに遊びに行った。すると……なんと件のプラモが置いてあるではないか!そのことは箱の皺の形状からすぐにわかった。


「こいつが遂に当てたのか!!」

僕は、思わずその友達に一言
「すっげーっ!当たったんだ!」

ところが、友達は僕に意外な返事をしてきた。しかもちょっと僕をバカにするような上から目線で。

「当たったんじゃないよ。買ったんだ。」

「えっ、これってくじ引きの景品じゃないの?」

「そうだよ。でも、くじじゃあ、こういう値段の高いやつの番号は絶対箱の中に入ってない。アタリはないのさ。まあ、でも、それをオマエみたいな、なーんにも知らないヤツらがいるから、何回もくじ引きにチャレンジするやつがでてくるんだけど」

「え、アタリ、なし?」

「オレがこれを買うことができたのは、箱が古くなったから、新しいアタリと景品を交換する必要があって、安く売ってもらったのさ。1200円」


つまり、何回くじを引いても戦艦大和にはたどり着かない仕組みになっていたのだ。そう、くじ引き露天商は「踊るポンポコリン」の歌詞の中にでてくる「インチキおじさん」だったのだ。(まあ、さすがに現代では露天でもこんなことはやれなくなっているけれど。これは40年以上も前の話。ちなみに「ちびまる子ちゃん」も同じ頃の話。しかもまる子=さくらももこは清水育ち。僕は島田育ち。だから、僕みたいな「痛い子どもたち」が、あの当時の静岡には、そしておそらく日本中にはたくさんいたんじゃないんだろうか)。

くまモンは絶対に当たらないアタリくじ

昔話を長々とさせてもらったが、この話を、くじ引きの絶対に当たらないアタリ=くまモン、くじ引きの露天商=広告代理店、ダマされ続ける僕のような子ども=地方自治体の広報と置き換えると、これからする説明がスッキリと理解できるのではないだろうか。

くまモンは確かに大当たりした。熊本は元気になった。で、地方自治体もこれにあやかろうと同じようにゆるキャラを制作した。ところがくまモン=戦艦大和を売り出しているのは「親切な露天商=地方自治体広報という素人」のフリをした(あるいは地方自治体広報を隠れ蓑にした)広告代理店というインチキおじさん。実はくまモンはプロ中のプロによって制作、広報企画が打たれたもので(小山薫堂+水野学という究極の組み合わせ)、地方の広報程度の技量でやれるような企画ではない。ところが、これを仕掛けたくじ引き露天商インチキおじさん=広告代理店は、子どもたち=地方自治体の広報たちに、くじを引けば=自分のところに広告代理業務、つまりゆるキャラキャンペーンを任せてくれれば、いつかは必ずキミのくじは戦艦大和を引き当てるますよ=くまモンになりますよと煽り、子どもたち=地方自治体広報から縁日用のスペシャルお小遣い=特別予算を巻き上げ続けるのだ。

そして、これに見事に騙され続けているのがゆるキャラグランプリの上位を占めるキャラたちを展開している地方自治体の広報課という子どもたちに他ならない(ゆるキャラグランプリを主催しているのも、もちろんインチキおじさんたちだ。小山薫堂も入っている)。昨年と今年の上位を占めたゆるキャラをよく見てほしい。同じものが七つもランクインしている。しかも、かなりの予算をかけている。その多くは一位を獲得してくまモンになろう=戦艦大和を獲得しようと躍起になり、有り金をはたくどころか、親=県庁や市役所などを説得してスペシャルお駄賃を去年よりも上げさせてしまったのだ。

ちょいと数字を確認してみよう。昨年、ゆるキャラグランプリのベストテンにランクインしたもののうち,七つが今年もランクインしているが、軒並み予算をアップしているのだ。例えばグランプリに輝いたさのまるは昨年度129万。今年は七倍の911万だ。二位の出世大名家康くんの今年度の予算は、なんと6107万。ハンパなかけ方ではない。ちなみに1000万以上の予算を組んだ地方自治体は12、全国のゆるキャラ用予算を合算すると4億7000万に達する。

しかし、残念でした。やっぱりくまモン=戦艦大和は決して当たらない「見せ金」ならぬ「見せ商品」、いや「見せゆるキャラ」。だから、あなたのところのゆるキャラがくまモンのように全国に名を馳せて、ケータイのストラップやバッグのアクセサリーとしてもてはやされることは無い。戦艦大和と、その周りに並べられている景品群はまったく別のシステムで動いている。つまり,あなたの引いているくじは一等のない「空くじ」なのだ。

ムダ金をゆるキャラにつぎ込むことで税金が無駄になる

「くまモンは税金泥棒」という意味がお解りいただけたろうか?つまり、くまモンの意志(そんなもんがあるとしてだが)、熊本県民の意志に関わりなく、くまモンが資本によって利用されることで、結果として地方自治体の金が巻き上げられるということになってしまうのだ。そしてそのゆるキャラにつぎ込まれる地方自治体のお金って、どこから入ってきたの?いうまでもなく税金だ。

恐ろしいのがここからで、いずれ僕がここで示しているような構造がだんだんと明らかになっていくる。つまり、現在の地方自治体がいくらがんばっても、現在のようなやり方ではゆるキャラで地域活性化が不可能なことを。そして、やがて費用対効果がないことに気づいた自治体が、もう広報にスペシャルお駄賃=予算を出さなくなる。でも、それに気づくのが遅ければ、いたずらにカネをつぎ込み続けることになる。つまり血税の垂れ流し状況、公金のインチキおじさんへのプレゼントといった事態が起こるのだ。

だから、残念ながら「くまモンは税金泥棒」ということに結局なってしまうのだ。しつこいようだが、本人(本熊?)の意図とは関わりなく。言い換えれば、くまモンも利用されているということになるのだけれど。

地方の、地方による,地方のためのゆるキャラを!

地方自治体のみなさん。そろそろ広告代理店というインチキくじ引き露天商の姿を見抜いたほうがいいと思うのですが(いまや縁日の露店でもやっていないことなんですが、ギョーカイだと平気でやられているというのが恐ろしい)。そして、くまモンを見て射幸心を煽られるのはやめたほうがいいのではと思うのですが(あっ、ふなっしーの場合は完全に偶然の「まぐれ当たり」なので、絶対に参考にしないでください)。いかがでしょう?

僕は、ゆるキャラで活性化をすること自体が悪いとは思わない。是非、やってほしいと思っている。しかし、今のような「くまモンありき」みたいなやり方をやっている限りは、おそらく活性化に繋がらないと考えている。ゆるキャラグランプリに登場せず、地元だけでウケるゆるキャラで活性化はできないものだろうか。ちなみにこれはゆるキャラではないが、地元だけにウケるこういった文化的象徴を利用し、地域を活性化したツール=メディアとして、群馬には郷土かるたの「上毛かるた」がある(「上毛かるた」がぐんまちゃんなど足下にも及ばないことは,群馬県民なら誰でも知っています)。

新聞の先行きがあやしい。インターネットのポータルサイトやインターネット新聞=ブログとりまとめサイトに押され、販売部数がどんどんと下がっている。大都市圏でマンションが建設されても、入居者の新聞購入率は一割台程度。まさに、危機的状況にあると言っていい。

僕は前回のブログで新聞紙の生き残り戦略について展開したが(「新聞とBLOGOS、Hufinton Post、アゴラの攻防~新聞のサバイバルは可能か」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/9/14)、今回はその続編として、生き残りのための具体的な戦略について、地方紙を引き合いに出しながら考えてみたいた思う。

九州の小都市で気を吐く「夕刊デイリー」

「夕刊デイリー」という新聞をご存知だろうか?「いや、それは間違い。正しくはデイリースポーツだ」と、虎党には指摘されそうだが、そうではない。「夕刊デイリー」という新聞はれっきとした存在。宮崎県延岡市を中心とした小さな地方紙だ。1963年に創刊され、現在においても延岡市内の購読率は六割に達しているという、しっかりと地元=地域に根ざした新聞だ。もちろん大手の新聞紙と同様、その発行部数はインターネットに押されて減少気味だが、低下率は一般新聞紙に比べるとき緩やかだ。旭化成の企業城下町・延岡(もともと城下町ではある)を象徴する文化=ローカルメディアと言ってよい。じゃあ、なんで夕刊デイリーはしぶとく生き残っているのか?実は、この秘密の中に新聞の未来が見えるのではないかと、僕は踏んでいるのだが。

夕刊デイリーがフォローする記事のエリアは宮崎県北。本社延岡の他に、高千穂、日向、そして県庁所在地の宮崎に支社がある。そう、宮崎といっても県全域をフォローしているわけではない。もちろん中央の記事も掲載されているが、これは他の地方紙同様、通信社任せ(夕刊デイリーは時事通信)だ。言い換えれば、情報の扱うエリアを全国各地にある県単位で取り扱う地方紙以上にバッサリと切り落としている。たとえば9月12日の一面トップは国道218号高千穂日之影道路の着工と、内藤記念館(延岡城内部にある延岡藩の歴史博物館)の整備充実についての市議会のやりとりだ。はっきり言って、失礼だが周辺の人間以外にはほとんど「どうでもいいこと」が並んでいる。しかし前述した通り、県北の住民の多くがこの夕刊デイリーと他の新聞(「宮崎日日新聞」が多い)を併読しているのだ。そして、さきほど僕は「どうでもいいこと」と書いたけれど、いや、実はそんなことはない。これこそが地域住民にとっては最も「どうでもよくないこと」になっているのである。だから、住民たちは夕刊デイリーを購入し続ける。

新聞の独自性を生かす

メディアは、その特性が重複する新しいメディアが登場する際には、一般的には完全に飲み込まれてしまうか、再定義を受けて存続するかの二つの道がある。前者はガラケーが出現した際のポケベル、後者はテレビが出現した際のラジオがその典型。ラジオはテレビが普及する中、全国的な放送を展開することを後退させ、マスメディアならぬ、いわば「ミドルメディア」として、その居場所を確保した。つまり、地元に密着すると同時に、音声だけという機動性を生かし、報道の速報性といったアドバンテージで見事に生き残ったのだった。東北大震災の際、もっとも効果的に機能したメディアがラジオであったことは記憶に新しい(Twitterだったという話はまったくの嘘っぱちだ)。

僕は、夕刊デイリーのようなきわめて限定されたエリアに向けた新聞というのは、こういったラジオと同じようなミドルメディアとしての機能を十分に生かせる媒体と考える。

再び夕刊デイリーの記事についてみてみよう。面白いのは本日の魚市場や青果市場の市況、夜間救急医療体制、そして道路情報、イベント情報、そして読者の投稿(社説ほどのスペースが割かれている)が掲載されていること。つまりベタに地域密着、ある意味「回覧板」「学級新聞」のノリ=親密性があるのだ。で、こうやって一通り見てみると、現在の新聞ではもはや見えづらくなったものが、ここにはくっきりと残っていることがわかる。それは、夕刊デイリーが延岡を中心としたエリアのイメージを読者に対してビジュアル化していることだ。かつて新聞は社会、国家についての情報を網羅することで、読者にこれらについてのイメージを与えてきたのだけれど(B.アンダーソンはメディアを介してイメージされる国家や社会のことを「想像の共同体」と呼んだ)、これが情報の膨大化、価値観の多様化でフォローできなくなっている(むしろ、テレビやネットのポータルを見た方がイメージしやすいくらいだ)。ところが、夕刊デイリーの場合は、扱うエリアを思いっきり絞ってしまうことによって、このかつて存在した新聞の「一覧性」という機能をしっかりと維持しているのだ。ようするに、夕刊デイリーは「規模=エリアの小ささ」という、いわば「逆スケールメリット」を活用して延岡周辺市民にとっての「社会の窓」「地域の窓」としての機能を果たしている。つまり「これを読めば延岡=ふるさとがわかる!」。だから、地域住民は夕刊デイリーを読むことによって、自らの地域アイデンティティを確認し、これをメインテナンスできることが出来るようになっているのである。

これにはマスメディアの備えるプッシュ機能も大きく影響している。マスメディアは同じ情報をマス=大衆、つまり不特定多数のオーディエンスに向かって一方向的に提供する。それによってオーディエンスはその情報を共有することになる。延岡周辺の住民が夕刊デイリーを読めば、延岡についての情報を共有することが出来る。だから、これを介してコミュニケーションもまた可能となる。これはインターネット情報の特性であるプル機能では果たせない強み(プルの場合はネットユーザーが自らの嗜好にも基づいて、それぞれバラバラに情報にアクセスするため、情報共有の相手を物理的空間の中に見いだすことが難しい)。それが、翻って、今度は横のつながりを通して地域アイデンティティを醸成するのである。

また、新聞を通じて知り得た情報は原則、地元の情報なので、その情報はリアルなものに還元できる。つまり、そこでイベントがあったり事件があったりしたら、その空間を経験からイメージすることが出来るとともに、実際にその場に出かけて確認したり、参加することも可能となるのだ。ここでは新聞=メディアというヴァーチャルと地域という限定された物理的空間=リアルの往還によるリアリティの現出といった事態が発生しているのだ。

消費社会化、情報社会化によってローカルの独自性がどんどんと希薄になる現在だからこそ(街の風景はショッピングモールとファミレス、コンビニ、大型電機量販店、ファーストフード、ファストファッションといったもので全国中が平板化している)、かえって地域住民がそこに暮らすことの存在根拠が問われるという逆転現象も起きている。こういったニーズに対して、エリアを限定した新聞による情報発信によってカウンターをあてるのは、むしろ「追い風」となる可能性を秘めているとは言えないであろうか。

また、新聞が一次情報である点も強みだ。インターネット新聞=ブログとりまとめサイトやYahoo!などのポータルは原則二次情報。つまり新聞やテレビが拾ってきた情報を掲載するというスタイルを採用している(まあ、ブログとりまとめサイトは必ずしもそうはならないが。たとえば、僕の今回のこの記事は一次資料、つまり夕刊デイリーとその記者から情報を得ているので、BLOGOSに掲載されれば、それは一次情報になる)。一方、新聞は原則「取っ手だし」、つまり生のデータに当たっている。いわば情報を加工する前に、情報を生成している(まあ、「発表ジャーナリズム」と揶揄されるように、記者会見で発表されたものをただ単に流しているだけとか、恣意的に情報を加工したりしていて、これが批判の的にもなっている点も踏まえておく必要があるが)。加えて、ネット上の二次情報によるコンテンツは、その情報の責任性があまり問われない。原則、全て引用ということになるからだ。たとえばインターネット新聞=ブログとりまとめサイトはブロガーたちのコンテンツ。ブロガーたちが自由に表現することが出来るという強みはあるが、その質については保障されていないし、もし情報が誤っていたり、他者を誹謗中傷するようなものになってしまった場合にも、その責任はブロガーたちに投げられるという「責任回避の機能」が働く。一方、新聞は、いちおう新聞社の責任・編集方針にもとづいているわけで「品質保証」がつく(最近は無責任にスキャンダル的なものをデッチあげてすっぱ抜いたりもするので「マスゴミ」と非難されたりもするが)。

これから新聞がやるべきこと

僕が提案したいのは、こういった夕刊デイリーのようなやり方だ。つまり新聞の持つ一覧性、網羅性、プッシュ性、一次情報性、責任性といったメディアの独自性をローカルの限定した情報で展開すれば、まさに地域オピニオンを醸成するジャーナリズム文化を構築することになる。つまりエリアを限定する代わりに、ジャンルを限定して、おなじようにかつての新聞の機能をそこに盛り込めば、新聞は新しいメディア性を確保し、ラジオのように生き残りが可能になるのではなかろうか。ちなみに、これは必ずしもローカルという物理的空間に限定される話ではない。たとえば新聞がある分野に特化してもよい。つまり「オタク新聞」であっても一向に構わないだろう。

ただし、である。ここで取り上げた夕刊デイリーとて、購読率が低下しているという事実を看過するわけにはいかない。実際、夕刊デイリーの読者層が年々高齢化していることも事実だ。そして、若者の新聞離れはなにも大都市圏に限られたことではない。ということは、夕刊デイリーとて、このままのスタイルでは読者を失う恐れを払拭することは決して出来ない。

やはり、ここはこういった新聞の持つ独自性を生かしつつ、そのシステムを変更していかなければならないし、やがてそういった時期が夕刊デイリーも訪れることになるのではなかろうか。具体的には、インターネット媒体のさらなる普及・定着によって、日本の新聞流通の基軸となっている宅配システムが早晩、機能しなくなっていくであろうという状況にどう対応するかといった岐路に立たされるはずだ。それは要するに新聞の紙媒体から電子メディアへの移行ということになるのだろうけれど。今はともかく、将来も見据えるのであるのならば、夕刊デイリーもまたインターネットへ移行することになるべきだろう(もちろん、夕刊デイリーは現在でもウェブサイトを運営し記事のダイジェストを提供しているが、僕が指摘したいのは、こういった中途半端なやり方とは一線を画した、ネットでマネタイズするというやり方だ)。というか、そうしない限り若年層の読者を失うことになりかねない。もちろんそれは収益モデルを根本から改めることを余儀なくされることでもあるのだけれど。そして、実は、これ夕刊デイリーに限った話ではなく、全ての新聞が、むしろ夕刊デイリーより先に立たされる岐路なのだが。

こうやって、既存のローカル新聞がインターネットの独自性を生かし、インターネットを活用した一次情報を提供するミドルメディアとしてリニューアルされた暁には、既存のポータルの情報掲示板やインターネット新聞=ブログとりまとめサイトと棲み分けることが可能であろうし、ある意味これらよりも情報の質、編集方針が異なっている分、アドバンテージを持つことも可能になるはずだ。ローカルやオタクジャンルの重要な活性化メディアとして。

ゆるキャラブームはどうなる?

もはや「ナンデモアリ」のパンドラの箱が開いてしまったゆるきゃら。とにかく目立ちゃいいということで、不気味なキャラクターが次々と出現しているわけなのだけれど、では、今後はどうなっていくんだろう。

それを考えるにあたっては、先ず、現在、なぜゆるキャラに需要があるのかを考えてみる必要がある。ゆるキャラについては地域、メディア双方のニーズが合致したためにブレイクしているという事情があると考えていいだろう。

マスメディアを利用した地域アイデンティティ創造の手段としてのゆるキャラ

先ず、地域のニーズについて。地域は都市化によって、三浦展が言うところの「ファスト風土化」が進展している。コンビニ、ファミレス、大型電器店、紳士服店、巨大ショッピングモール、そして大型書籍などの全国展開によって、日本国内は津々浦々まで、あたかもデジャヴュのような均質化した消費生活空間が出現した。情報についても同様で、地域=地方にいてもネットを介してアクセスする情報は中央のそれ(あるいはきわめてトリビアなオタクのそれ)だ。そして、今や、ある意味、地方の方が都市的な生活をしている。

だが、これは自分が地域=地方に居住することに意義を見いだせないということでもある。どこも同じ空間、情報環境なのだからどこにいても同じという認識が一般化してしまうのだ。そして、こういった空間をそれぞれが各自の欲望に基づいて消費する。その結果、地域に住まう人々は原子化し、そこに住まうことの意味をほとんど感じられなくなってしまった。しかし、彼らは地域=地方という限定化された空間に定住している。それゆえ、自らがこの空間に住まうことの確証が欲しい。やっぱり「おらがふるさと」の証しを希求するのだ。

そんなとき、こういった地域における「心のスキマ」を補填するメディアの一つとして出現したのがゆるキャラだった。でも、なぜ地域イメージを象徴する記号として、ゆるキャラが脚光を浴びたのか?それは、ゆるキャラが全国的に名を馳せれば、全国のメディアを通して地域民は結果的に自らのアイデンティティを求心的に獲得できるという仕組みになっているからだ。

下りはこうなる。ゆるキャラを創る→ゆるキャラが全国メディアに取り上げられる→そのことを地域=地方の人々が認知する→地域民は全国的に知られているゆるキャラの背後に全国的に認知された「おらがふるさと」を見る→自らがそのふるさとの住民であることを自覚する→地域アイデンティティが生まれる、まあこんな展開になる。つまりマスメディアを介して地域イメージが再生、あるいは創造されるのである。ある意味、きわめて今日的な地域アイデンティティ形成の方法と考えていいだろう。ゆるキャラは希薄化する地域イメージを再生する救世主としてクローズアップされたのだ。

お手軽な視聴率稼ぎ手段としてのゆるキャラ

一方、メディア、とりわけテレビにとってもゆるキャラはビジネス戦略上、きわめて都合のいい、そしてお手軽な手段だった。

テレビは嗜好の多様化とインターネットの普及に押されて視聴率がジリ貧で、それに伴い番組制作費用も削減の一途をたどっている。だから低予算で体良く視聴率を稼げるものなら何にでも手を出す(若手お笑い芸人を使い回ししたり、YouTube上の映像を並べ立てて番組を作ってしまったりなんてのがその典型。いずれも低予算である点、そしてきわめてお手軽である点では共通している。まあ、それによってコンテンツの質がいっそう低下するのだけれど)。

そういった戦略のひとつとして、テレビメディアはゆるキャラに目をつけた。ゆるキャラはその「特異性」「記号性」で注目を浴びることが容易。つまり、その「ゆるさ」によって目をつけられやすい。しかもお手軽かつ低予算というメリットもある。テレビメディアはインターネットをブラウズし、ゆるキャラの中で盛り上がってそうなところをチョイスする。オフィシャルサイトはもちろん、あっちこっちの書き込みをのぞき込み、イケそうだとおもったらピックアップするわけだ(YouTubeの画面を集めて番組編成をするのと手法的にはほとんど同じだ)。で、勝手にプロモーション(この勝手なプロモーションは「テレビメディアの公共への寄与」という側面でも大義名分が立つ点も都合がいい)。これに火がつけば、あとは飽きられるまでメディアに露出させ続け、一儲けできる(ということは飽きられれば使い捨てられ、次のゆるキャラに乗り換えるわけなのだけれど〕。 一方、地域は前述した理由でゆるキャラを売り出したくてしかたがない。 だから、ギャラなんてあってないようなものだ。なんといっても、ゆるキャラをプロモートする側=地方は地域活性化のためにカネを払ってでもこれをメディアに露出させたいのだから。だからテレビメディアはきわめて低予算で番組を構成することが可能になる。これで地域とメディアのニーズはみごとに合致する。

個性化の過激化~ナンデモアリ状況の出現

ただし、地域とメディアの蜜月関係は次第に拍車がかかり、過激化していく。この手法、つまりゆるキャラを創って売り込むとマスメディア≒テレビが取り上げてくれ、お手軽な地域活性化が可能であることに気づいた地方が、次々とゆるキャラをデビューさせ始めたからだ。こうなるとゆるキャラのゆるさは群雄割拠状態となり、テレビの側としてもどれをチョイスしたらよいのかわからなくなる。また視聴者の側もゆるきゃらの「ゆるさ」に馴染んできて、ちょっとやそっとでは関心を寄せなくなる。「ゆるさ」の差異性が希薄化してしまったのだ。

そしてその結果、生じたのが現在の「ナンデモアリ」状況だったのだ。とにかく「目立ちゃいい」という発想で、これまで踏襲されてきたご当地キャラの文法(ただし暗黙の)を、ことごとく破るキャラクターが登場する。こういった状況を許容したのは、ようするに「ゆるキャラ」という存在がもともと文法から逸脱したところで初めて成立するもの、いいかえれば逸脱を許容することが前提されていたからに他ならない。つまり、もともと文法から外れている(だからゆるい)→そのゆるさが認知される→ゆるキャラが過当競争になる→ちょっとやそっと文法から外れた「ゆるさでは目立たなくなる→もっと過激な文法からの逸脱を行い差異化をおこなう→マスメディア≒テレビメディアが取り上げる、といった循環が生まれたのだ。それが現在の反則技ゆるきゃらの闊歩という事態だった。そしてその最たるものがふなっしーに他ならない。ふなっしーは、前回も指摘したように1.デザインが稚拙で壊れそう、2.にもかかわらずキレた動きをする、3.ゆるキャラでは一般的に禁止とされる会話をする、4.会話もまたエキセントリックな「キレた」ものになる(つまり「キレキレ」なキャラになる)、5.非公式キャラクターという逸脱者的存在であるといったように、ゆるいところについては五つも文法からの逸脱がある、まさにゆるキャラにおける個性化=差異化のワンダーランド的存在、だからこそ支持を獲得したのだった。

個性化の果てにあるものは~60年代ジャズの世界が陥った隘路

もちろんこういった「個性・差異の過激化」はどこまでも続くものではないだろう。

かつてジャズの世界では独自性を求めてビバップ、モードとその演奏の自由度を高めていったことがあった。そしてさらに自由度を究極まで高めたのが60年代後半に始まったフリーという手法だった。だが、これはもはやコードも和声もインタープレイも理論なく、もっぱらインプロビゼーションに基づくメチャクチャな「スタイルなきスタイル」だった、楽器の本来演奏する部分以外を利用する(ピアノなら本体を叩く、内部の弦をひっかく、さらには楽器をたたき壊す、燃やすなど)といった、まさにナンデモアリのスタイルだったのだが、これは長く続くことなく終焉を迎える。というのも、結局これは「自由度を確保するためには理論は不要」というドグマ=メタ理論に拘泥されたきわめて理屈っぽいものでしかなく、音楽からは遠くかけ離れてしまったからだ(もちろん現代のジャズがフリージャズから受けた恩恵がかなりあることも認めなければならいことはお断りしておく)。当然のことながら、一部のマニアックなファンを除き、多くのリスナーがこのスタイルから、そしてジャズから離れていった。なんのことはない「わけがわからなかった」のだ。そして70年代の半ばに代わって登場したのが、これとは正反対とも言えるメロディアスで電気楽器満載のクロスオーバー(のちにフュージョン)だった。

ゆるキャラがわけがナンデモアリのわからないものになった後に

こんな例をあげてみたのは、ゆるキャラがそろそろ、このモダンジャズにおける「フリー」の段階、「隘路」に入りつつあるのではないかと感じたからだ。つまり、もはや「文法からの過度の逸脱」の域に達しようとしている、と。もしそうであるとするならば、ゆるキャラは上記のモダンジャズ・ムーブメントとまったく同じことになる。つまり、ゆるキャラブームはナンデモアリを突き詰めた結果、やり過ぎになり、最終的にわけがわからなくなって客が引いてしまい、ムーブメントそれ自体が終息してしまう。具体的には、過当競争によってどんどん差異化要素が失われ、新奇性をなくすキャラが多数出現する一方で、極度にコードを逸脱したゆるキャラが登場する(こちらはきわめてキモいうえに、そしてマニアックなものになる)。そして、ゆるキャラはこの両極化の果てに、どちらも支持を得られず、結果として人気全体が縮小していく。もちろん、その間、サバイバルを目論んで、ゆるキャラ間のネットワーク、コラボといったものがテレビメディアによって頻繁に組まれ「新奇性の合わせ技一本」的な戦略がとられるだろうが、これも一過性(バーゲンセール、在庫一掃フェアみたいな投げ売り状態になる)のもので早晩飽きられる。気がつけば「そういえば、ゆるキャラブームってのがあったよね」ってなことに。

じゃあ、ゆるキャラはなくなるのか?といえば、必ずしもそうではないだろう。こういったブーム終焉の後に、これらのゆるキャラの逸脱コードの内、より洗練され受け入れられたものだけが既存のゆるキャラ=ご当地キャラに付加され、最終的には現在のような過激なキャラに変わって「ちょっとヘンだけど受容可能」なキャラクターが安定供給される時代がやってくるのではないか。ジャズがフュージョンを生んだように。ただし、それはしたたかな普及システムを持ったものでなければならないという留保がつくけれど。

そして、実はそのプロトタイプは、おそらくくまモンによって示されているのでは?僕はそう考える。

船橋非公認キャラ・ふなっしーがグランプリに輝いた!

日本百貨店協会が開催する「ご当地キャラ総選挙」の結果が発表され、船橋市の非公認ゆるきゃら「ふなっしー」がグランプリに輝いた。二位は岡崎市の「オカザえもん」、そして三位が高松琴平鉄道の「ことちゃん」だった。

このランキングの特徴は、ベスト7の中に五つも「あまりかわいくない」というか「不気味」、まあ両方を掛け合わせれば「キモかわいい」キャラクターがリストアップされていることだ。ふなっしー、オカザえもん、ことちゃん、イーサキング、そしてメロン熊がそれだ。1位のふなっしーはどうみても素人が製作したようながさつな出来、オカザえもんは顔が岡崎の「岡」になっている(そして申し訳程度に胴体に「崎」がつけられている)「おやじ顔」、ことちゃんはほとんど表情がない、伊佐市の公認キャラ・イーサキングはただのキモいトランプのキング、夕張のメロン熊に至ってはメロンとリアル(グロ?)なクマのミスマッチでひたすら不気味だ。

しかしながら、これらが上位を占めたということは、いわゆる「かわいい」と表現されるようなキャラクター(かつての「ひこにゃん」や「ぐんまちゃん」のような)が後退しているということ。ということは、今回の結果は、ご当地キャラ=ゆるキャラも一つのターニングポイントを迎えたことを示していると見ていいだろう。そこで今回はゆるキャラの変遷についてメディア論的に考えてみたいと思う。

便宜上ゆるキャラを三つの時期に分けてみたい。第一期:みうらじゅんがゆるキャラを取り上げた時期、第二期:くまモンのブレイクまで、そして第三期:現在。

第一期:名前が一人歩きした時代(2005年~)

まず第一期。みうらじゅんは地方に出現し始めたご当地キャラクターを「ゆるキャラ」と命名する。これはキャラクターとしての文法的詰め、企画の詰めが甘く、いわばコンセプト的にスキだらけ。つまり「ゆるい」。そして、それがキャラクターに反映されていることを称して、こう名付けたのだった(ただし、みうらは、その緩さに新しい意味を見いだしていたのだけれど)。

この時期、ご当地キャラが一括りにして「ゆるキャラ」と認知されることで、それまでのご当地キャラがまとめられ、また、この「ゆるい」コンセプトに基づいたキャラクターが一般化し、後続が次々と出現することで、ゆるキャラは一般名詞にまで上り詰める。ご当地キャラ=ゆるキャラの図式が出来上がったのだ。

ただし、この時はまだ方法論が確立されていない。だから「ゆるキャラ」と称しながらもご当地キャラは、結構ゆるキャラではないものが出現した。プランナーたちが地域の要請に応じてパッケージ化された企画もの(規格もの)のキャラクターを考案し、それがゆるキャラと呼ばれていたりしたのだ。前述したひこにゃんなどは人気こそ博したが、明らかに既存のキャラクターの文法を踏襲した普通の「かわいい」キャラクターだった。

第二期:せんとくんとくまもんによる方法論の完成(2008年~)

2008年、ゆるキャラのスタイルに明確な方向性が打ち出されることになる事件が発生する。平成遷都1300年記念事業の公式マスコットキャラクターとして考案された「せんとくん」をめぐる一連の騒動がそれだ。鹿の角の生えた童子のキャラクターなのだが、一斉に「キモい」との批判を浴びる。ところが、このデザインは東京芸大教授の藪内佐斗司によるもの。つまりプロによるもので、ある意味、この「キモさ」は確信犯的なものでもあった。せんとくん事件は、これに対抗する「まんとくん」というベタにかわいい系のキャラを生むまでに至り、それが結果として1300年記念事業を盛り上げることへと繋がっていく。

このやり方、ある意味で「ゆるキャラ」の詰めの緩さをプロが拝借したものだった。ゆるキャラに共通する詰めの緩さは、われわれがキャラクターに対して抱いている文法=キャラについてのイメージをしばしば逸脱する。つまりプロの仕事ではないので、ディズニーのキャラクターのように徹底的に文法で塗り固めたキャラクター文法(たとえば、ミッキーマウスの顔は全て○で構成されている)に馴染んでいるわれわれからすれば、その逸脱部分(とりわけディテールの甘さ)に違和感を感じ、それが「ゆるい」ということになる。ただし一般のゆるキャラの場合は素人がやるから結果としてそうなってしまったのだが、せんとくんの場合はこの「ゆるさ」が、いわば意図的に織り込まれたものだった。そう、前述した「プロの仕事」。しかも「やり過ぎ」のレベルで。それゆえにこそ、多くの人々(とりわけ奈良県民)が違和感を覚え反発したのだった。だから、対抗として作られたまんとくんは対照的にまったく「ゆるくない」文法通りのきちっとしたデザインが施されていたのだ。ただし、当時はまだこの「違和感」についての社会的認知が今ひとつでもあった。だから、「やりすぎ」のせんとくんはキモイ、不気味と批判の的となったのだった。

ところが2010年、この戦略的なゆるさ=気持ち悪さ=不気味さを織り込み、なおかつかわいいキャラクターとしても受け入れられる、いいかえれば「せんとくんの逸脱した文法」と「まんとくんのベタな文法」を掛け合わせたキャラクターが登場し、大ブレークする。そう、それがくまモンだった。これについてはすでにブログで展開したので詳細はそちら(「くまモンはゆるキャラではない!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64091214.html)に譲るが、要約してしまえば、くまモンが提示したのは、ようするに「不気味でも大丈夫」という中庸なキャラクターデザインに他ならなかった。不気味さの中にそれ以前から一般のキャラクターの中に登場し認知されている不気味なキャラクター(ハンギョドン、たれぱんだ、リトルグリーンマンなどのキャラクター)の要素(いずれも眼の焦点が定まっていない)を混入させることで「不気味なのに違和感のない」デザインの設計に成功する。こういった「ゆるくないのにゆるい」といった手の込んだキャラクターは、もちろんみうらじゅんが指摘したような素人の手によるものではない。だから、くまモンはみうらが指摘していたような「素人がつくるがゆえに不安定で、それがゆるくなる」というのとはまったく違う「なーんちゃってゆるキャラ」、「安定した不安定なキャラ」「ゆるさがビルトインされたキャラ」なのだ。事実、くまモンは稀代のプロデューサー・小山薫堂が手がけたものだった。

そう、この時期、ゆるキャラは当初のみうらじゅんの指摘を離れ、「詰めの緩さ」をプロデュースするというかたちで規格化され、それが一般に安心して受け入れられる「違和感」として定着したのだった。

第三期:違和感の認知とナンデモアリ状況の出現(2012年~)

くまモンが開けてしまった「ゆるさ」についての許容、一般化は、ひるがえってわれわれのゆるさについてのシフトを広げさせることになる。それは「ゆるければ、もはやナンデモアリ」といった大雑把な認識の仕方だ。つまりプロの仕事であろうが素人の仕事であろうが、とにかくどこかに文法=規格の穴が開いていれば、それがかなりの違和感があろうが「ゆるキャラだから」ということで許容してしまうまなざしだ。そして「ゆるさ」という言葉は「個性」という含意が与えられ、事実上、ゆるいことは免罪されていく。ゆるきゃらの「ゆるさ」は「世界で一つだけの花」という認知を受けたのだ。

こうなると、とにかくゆるさが大幅に出ていればそれが個性になるので「ゆるくなるならどんな方法でもオッケー」という図式が出来上がる。それはこれまで禁じ手であるようなものでもよいということになった。それが結果として奇っ怪なキャラクターの跳梁跋扈ということになったのだ。たとえば、オカザえもんは「岡崎」という文字を無理矢理キャラにはめ込んだ結果、きたならしいおやじ顔になってしまった。メロン熊はきれいなものとキタナイものを合体させることで、より醜悪に、西国分寺のキャラクター「にしこくん」は鐙瓦を参考にしたらしいが、これには腕がない実に不安定なキャラ。ところが神宮球場の始球式をつとめた。腕がないので、なんとバッターとして登場したのだ(投げたのはスワローズのキャラクター・つば九郎だった)。そう、とにかくヘンなものが目白押しなのだ。

ふなっしーのグランプリは当然?

そして、そのヘンさ加減をぎっしり詰め込んだのがふなっしーだった。子供が裁縫で作ったような稚拙な作り。すぐに壊れる、破れるといったことが懸念されるほどだが、ところがどっこいキレのよい動きを見せる。つまり稚拙という違和感に、こわれそうなのによく動くという違和感が加わる。さらに、これにご当地キャラクターとしては原則、御法度であるトークまでやってしまう。いや、これだけにとどまらない。加えて「非公認」という、違和感に箔をつける勲章までがつけられ、まさにふなっしーは違和感のワンダーランド、異形というにふさわしい存在。本来なら遠ざけられて然るべき存在のはずだ。しかし、ゆるキャラを受け入れる視線はすっかり成熟した。だから、この「合わせ技一本」といったふなっしーが大ブレークしたというわけだ。と考えれば「ご当地キャラ総選挙」でふなっしーが圧勝したのは無理もないということになる(というか、当初からかなり予想されていたのだが)。
さて、ならば今後のゆるキャラはどのような動向を見せる事が考えられるだろうか。(続く)

クールジャパンのエンジンアニメ・マンガは底辺からの広がり

官製クールジャパンの戦略が、現状ではアニメやマンガ、ゲームと言った世界中に裾野を広げているオタク文化の「虎の威」を借る狐のような戦略でしかない、だからこのままではクールジャパンののイメージが世界に伝わることがないことを前回は説明しておいた。肝腎なのは「総花」的な展開ではなく、ごく僅かなもの(この場合オタク文化)にイメージを集約して、そのイメージを世界に植え付け、それをコアにしつつ多様な展開をすることであると指摘しておいた。じゃ、どんなかたちでやればいいのか?

民間に委ねる

先ず、政府のスタンスだが、基本民間に委ねるという方法を採るべきだ。政府がやるとロクなことがないからだ。お役所仕事というのは血税で賄われているので、これを均等に配分する原則がある(厳密には配分の決定を個人の恣意に委ねてはならないということなんだが)。だから、どこにも目配せをしなければならない。しかし、このやり方を踏まえると、何のことはない、あっちこっちにお愛想するので、結果として「総花的」な展開になってしまうのだ。だからコアを設定してもイメージが拡散されてしまう。で、その一方で政治が動いて妙ちくりんな利益誘導も始まる(結局、個人の恣意に基づいた不均等配分になるってなことがしばしば)。なおかつ手続きが煩雑で遅い。だから、時機を逸してしまう。で、結果として箱物行政の典型みたいな身動きのとれないものになり、そのくせ無駄にカネが使われるということになる。

だから、政府は民間に委ねてしまうべきなのだ。そして「カネを出しても口を出さない」という方針を貫く。行政主導でやると、せっかくオタク文化の仕組みに精通した人材を組織を雇ったところで、全く動かないということになるのがオチだ。民間に委ねれば、おそらく請け負った企業は、自らに関連する企業や人材を指名し、この事業によって一部の者が多大な収益を得るということになるだろう。しかし、それでいい。その方が、オタク・スピリットがきちんと伝わるからだ。そうすることでクールジャパンが成功し、文化産業による多大な利益が獲得可能となれば、そういった一部の企業の収益など取るに足らないこと。むしろ、これによってフレキシブルな動きができればいいわけで、ここは『罪と罰』のラスコーリニコフの論理で行くべきなのだ(もっとも、政府がやったら、これ以上に一部のものが利益を獲得しそうだから、むしろこっちの方が健全だろう。多分(笑))。

統括者は一人

その際、統括責任者はやはり民間から指名する。これは当然プロデューサーがいい。ちなみに現在クールジャパンの推進会議には千宗室、コシノジュンコは、金美玲など錚々たるメンバーが並ぶ。しかし、このメンバーは三つの意味でダメだ。オタク文化など理解していないこと、年齢が高すぎて柔軟性がないこと、そして結局、政府の「お飾り」的存在で時々出てきて意見を言う程度でしかないこと。つまり実質性がほとんどないこと。加えてメンバーが多すぎる(7名)こともダメ。ようするに敏腕プロデューサーが一人いて、この人物がいつも使っている取り巻きや企業を運用しながら全面展開した方がいい。

くまモン方式で、いこう!

こういった情報=イメージを一つに限定し、そのイメージをコアに物語を加えて世界展開可能で、なおかつオタク文化を活用する能力に長けた人物はだれがよいだろう?ジョブズやディズニーみたいなことが出来る存在だ(まあ、ここまでのレベルはちょっと難しいかもしれないが)。で、僕は小山薫堂あたりを推したい。小山がくまモンで展開したようなやり方というのはまさにこれだ。熊本のイメージを「くまもん」というゆるキャラ(これ自体、そもそも熊本とは何の関連もない。無理矢理「いわれ」をつけただけ)に限定=集約させ、そこから熊本を全国展開した。これと同じようなやり方(ただし、継続する仕掛けが必要だが。もちろん小山はくまモンの展開ではその辺も抜かりがなかったが)でいいんじゃないか?親善大使のキャラは初音ミクとかハローキティあたり。とにかく、この辺のキャラクターにクールジャパンのイメージを集約させる。つまり、コアイメージとする。ということは、あらゆるものをこのキャラクターに関連させてしまうのだ。

まあ、こんなことが政府が出来るなら、大したものということになるが……無いものねだりで、これが税金の無駄遣いにならないことを祈るばかりだ。とはいっても、はっきり言って、現状のやり方では、ねえ……。

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