勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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若手コメンテーターの捕鯨文化否定発言

昨年12月21日、日本政府はIWC(国際捕鯨委員会)から脱退、本年七月から商業捕鯨を再開すると宣言した。これが国内外で波紋を広げている。ただ、以前は「海外(捕鯨反対国)=日本の捕鯨反対」、「国内=捕鯨容認」という図式が強かったのだけれど、最近はどうも様子が違うように思える。テレビを見ていても、コメンテーターたちの論調は、ゆっくりとではあるが次第に捕鯨反対の方向にシフトしているように僕には思える。

その際、捕鯨を反対する理由の一つに

「果たして、そもそも捕鯨って文化なのか?」

という、ちゃぶ台返し的なモノノイイがある。そしてこの論調、若手の論客に顕著なのだ。「そもそも、そんなものがうまいのか?」的な発言すら登場する。何のことはない、この世代は子ども時代の学校給食で鯨の竜田揚げのようなメニューを目にすることがなかった。だから食文化としての鯨の経験が無い。言い換えれば食文化=鯨肉という図式、リアリティを持ちあわせていないのである(年配の鯨肉給食経験者の捕鯨文化否定者の中には「あんなもの、旨くないでしょ!」と一刀両断していた者もあったが、これじゃコメンテーターは失格。好みで判断しているだけだからだ。これじゃ辛子蓮根、くさやの干物がうまくないといって文化ではないと否定するのとまったく同じことになる。このしゃれが通じるのは喝!おじさんだけだ)。

文化論的に考えると、こうしたモノノイイは極めて危険な主張と判断しざるを得ない。捕鯨にまつわる文化は様々あるが、ここではわかりやすいように食文化に限定して考えてみたい


捕鯨文化否定の危険性


捕鯨文化否定の危険性は二つの点から指摘できる。

その①:マイノリティー化したものは、もはや文化ではない

国際的な批判が高まる中、それでも調査捕鯨という、わけのわからないイクスキューズをもって捕鯨し、少量販売を続行し続けたが、当然のことながら鯨肉は次第に大衆の食卓には姿を現さなくなった。かつての鯨大和煮缶詰、鯨ベーコン、さらし鯨、前述の鯨の竜田揚げといった食文化はマイノリティーに押しやられた。そして、気がつけば、その存在をほとんど知らない世代がマジョリティーに。で、その結果のモノノイイが「果たして、そもそも捕鯨って文化なの?」なのだ。

これは、かつて文化であったものが、いったんマイノリティ化したら、それはもはや文化ではないという立ち位置だ。だったら、世界遺産に名を連ねようとするような文化のそのほとんどは、もはや全て文化ではない。富岡製糸工場?稼働してないよ!、アイヌ?ほとんど混血化してしまってるよ、能?そんなの誰が見るの?、講談師?どこでやってんの?。つまり、捕鯨文化を文化として疑問視、あるいは否定する立場は、同じ論法でこれらのマイノリティ文化も同様に疑問視、あるいは否定する必要がある。言い換えれば文化財保護法など不要、弱者は切り捨てろというわけだ。捕鯨のように否定されないのは、それらの存在そのものではなく、それらを巡るポリティックスに基づいているからに他ならない。

その②:文化をマイノリティー化する環境管理型権力

そして、もっと恐ろしいのが、この捕鯨文化の弱者化が権力によって作動されていることだ。もっとも別に政府が高圧的に権力を作動させているわけでは無い。これは社会学者の大澤真幸や哲学者の東浩紀が提唱している環境管理型権力/アーキテクチャーの作動に基づくものだ。

環境管理型権力の作動はM.フーコーの提唱した規律訓練型権力の次の段階にやってくる。規律訓練型権力は、有無を言わさず、ある行動を権力を媒介に強要することだ。その行動の判断基準について受け入れる側の立場は考慮されない。たとえば日本人のほぼ全員がこの権力によって身体に刻印されたしぐさが「体育座り」だ。あの座り方では背が丸まってしまう、大きな声が出せない、手が動かせない、手で足をロックしているために足を動かせない。当然、自然な着座の姿勢ではないし、日本人以外はほとんどやらない。だが、これは狭いスペースに人間を押し込め黙らせておく、つまり管理するためには最適の姿勢なのだ。しかし、我々はこれをいつ、どこで学んだかを知らない。無意識のうちに、自然とこのような姿勢を取るようになってしまったのだ。

もちろん、このような行為を最初に取らされた人間は、この着座スタイルに違和感を覚えたはずだ。だが、何度も繰り返す内に馴れた。ところが、である。この規律訓練が何世代にもわたって続くと、それは環境管理型権力へと転じていく。周辺が皆このような姿勢を取っているので、無意識のうちに自分も同様のポーズを取るようになるのだ。そしてそれ以外のオプションはない。しかもこれを受け入れる側は、何ら違和感を感じることなく、自然とそのような身体、行動、思考パターンを身につけていく。現在、大学の学祭では、そのほとんどがアルコールフリーになっている。そんな学祭に馴染んでいる学生たちにかつての、いわば「フリーアルコール状態」だった学祭の話をすると「へぇ―、昔は学祭でみんな酒飲んでたんだ」みたいな返事が返ってくるのだけれど、これはこのタイプの権力作動の典型だ。

コメンテーターに求められる文化を相対化して観る視点

若手論者の「捕鯨、そもそも文化?」のモノノイイはこの環境管理型権力が完成された彼岸としての発言だろう。つまり権力によって捕鯨文化が否定され続け、次第に、この規律訓練によって多くの人間が馴化し、やがて次の世代が「捕鯨≠文化」という認識を何ら存在論的問い、つまり捕鯨文化に対する議論を振り返ることなく作動させる。

だが、コメンテーターって、そもそもこうした見えない権力に警鐘を与えるのが、その役割ではないのか?

もし、世界がこれと違っていて「クジラは海産物を大量に摂取していて、その量は漁獲高を遙かに超えているのだから、間引きし、海洋の生態系バランスを維持するべきで、商業捕鯨は、そのために好ましいこと」という認識であったとしたら?そしてそれが認められていたとしたら?当然、鯨は相変わらず日本人の重要なタンパク源として現在も重宝され続けているだろうし(つまり給食に鯨の竜田揚げがそのままラインナップ化する)、環境管理型権力によるマイノリティー化が進んでいないので、「そもそも捕鯨は文化なのか?」と疑問を呈するような若手も登場してはいないだろう。それは「たこ焼きはそもそも文化なのか?」という疑問と同じくらいナンセンスな問いになっているはずだ。

421日、読売新聞で「水に流せない!“女子トイレ行列”問題」という記事が掲載された。男女平等とは何かを考えさせてくれるよい記事だ。そこで、これを引用しつつ「男女平等とは何か」についてあらためて考えてみたい。

女性のトイレ利用時間は男性の2.5倍

記事の中でトピックとして用いられているのは大正大学人間学部・岡山朋子准教授の研究で、具体的には高速道路のトイレ(おそらくサービスエリアのそれ)の現状についてだ。ゴールデンウイークともなるとこうした場所の女子トイレの前には行列が出来るのが慣例だ。その一方で男子トイレで行列という事態はあまり見ない。

この原因は女性のトイレ利用時間が男性よりも長いため。NEXCO中日本の調査では女性は男性の約2.5倍の時間がかかるという。それゆえ、現状は面積の上での男女平等に過ぎず、利便性の平等とはなっていないと結論している。

確かにその通りで、今まで「女子トイレはいつも混んでいるよな?」くらいしか思っていなかった自分がちょっと情けなくなった。そして、この問題は踏み込んで男女平等はどうあるべきかについて考えさせてくれるものでもあった。

女性を男性にしようとする男女平等

男女平等は、あたりまえの話だが「何事につけても男性と女性を平等にする」という立場だ。だが、この立場はよく考えてみる必要がある。というのも、残念ながら現状、社会は男性性を中心に構築されている。ということは、現段階ではこの前提に基づいた社会的平等は結局、女性を男性と同じレベルに引き上げる、もっと言うと女性を男性にするという怪しい立ち位置になってしまうからだ。これは女性の立場を全く踏みにじっている。

たとえば賃金格差などは最たるもので「女性は出産するから重要な仕事には使えない」みたいなモノノイイがその典型だ。これは男性が出産しないことがデフォルトになって社会構造が成立しているだけだ。もちろん政府も含めて男女共同参画社会が提唱されてはいるが、こうした平等を謳いながら、その実、男性社会に女性をはめ込むような流れがいまだに主流のままというのはやはり問題だろう(男女賃金格差や職業機会・離職率・政治参加率の相違などは、日本社会における男女差別が依然深刻であることを示している。事実、2017年世界男女平等ランキングで日本は114位、しかも前年度より3位後退している)。

言い換えれば社会は「男性社会への女性の組み込み」ではなく「人間社会への男性と女性の組み込み」でなければならない。それは男性と女性が共生可能な社会ということになる。それについて問題を投げかけているよい一例がこのトイレ問題だろう。

トイレの男女平等一つをとっても、なかなか簡単ではない

ただし、人間社会、つまり男女差を認識しつつ、双方が平等に暮らすことの出来る社会の成立のためには、もう少し突っ込んだ議論が必要だ。その難しさをちょっと考えてみよう。

まず小さな問題から。前述のトイレ問題で考えてみたい。ここでの平等はとりあえず「待ち時間の平等化」としよう(別の平等性もあるかもしれないが)。そのように考えた場合、サービスエリアでの女子トイレの数を男性の2.5倍にするだけでは不十分なことがわかる。

利用時間差が男女で2.5倍が正しいとして、これを踏まえながら平等を考えれば次のようになる。

先ず、共学の中学や高校の場合。生徒数が男女比11ならばトイレの数は2.5倍でいいだろう。ところがこれが東京ディズニーランドなら正しい比率ではなくなってくる。というのも来園者の男女比率が73だからだ。ということは7÷32.3の倍率をこれに掛け合わせて5.8倍にしなければならない(ディズニーランドはトイレ数を供給過多にすることでこれに対応している。なので男性トイレはほとんどいつもガラガラ。サービスエリアと違って自分とカミさんが同時にトイレに入っても、さして変わらぬ時間でトイレから出てくことが出来る。このへんはよく考えている)。

これが件のサービスエリアならもっとややこしい。通常であるならば現状では運転を職業とする労働者の割合は男性の方が高い。となると、この割合を鑑みる必要がある。つまり2.5倍は高すぎる。ところが、大型連休となればレジャー利用客が大幅に増えるわけで、その際には女性比率はグッと上がる。そうなると、今度はこれを踏まえたトイレの構成を考慮しなければならない。具体例として考えられるのは、たとえば可動式の壁を設けて時期に応じてこれを移動させ、男女のトイレ比率を変更するというやり方。こうした方法については現代ではビッグデータを利用すればある程度の予測は可能になるだろう。ただし、女性は小便器を利用しないわけで、これをどう考えるかも問題だ。小便器は大便器よりスペースを取らないことも考慮する必要がある。ということでなかなか難しい。

ジェンダーは変容する

そして次にもっと大きな問題。この手の問題を考えるときに前提にされているのは言うまでもなく”ジェンダー”。これは生物学的な性別ではなく社会文化的に形成された性別を指しているのだが、「社会的」という前提がある限りその位置づけは常に安定しない。文化、歴史によって絶え間なく変動する。ということは、これを踏まえて既存の女性、男性双方のジェンダー定義を不断に変更し続ける必要がある。当然ながら前述した「人間社会」という定義もこれを踏まえつつ変更しなければならないし、そこから平等の定義も模索し続けなければならない。つまり“永遠の課題”となる。トイレ問題にしても、今後用足しのスタイルが変わることもあるかもしれないし(例えば男性全員が座って用を足すようになるとか。ちなみに我が家はそうなっています(笑))、運転を職業とする労働者の女性比率が上がることも考えられる。こうなるとこれに対応した基準を再設定する、いや再設定し続ける必要があるわけだ。で、忘れていたが、実を言うと生物学的な性別とジェンダーの線引きもハッキリしていない。つまり、やっぱりなかなかややこしい、難しいということになる。

でも、やるんだよ!

議論し続けていくことの重要性

ここ一ヶ月の間に女性の立場をどう考えるかについての事件が二つほど発生した。一つは相撲の土俵に女性が上がることの是非、そしてもう一つは財務省のセクハラ問題だ。これらについて僕はブログである程度言及してきたが、双方に共通するのは、まだまだ議論が未熟であることだ。「人間社会における男女平等」への道は険しいものがある?という印象を拭えない。それでも、男女差を解消するためには、こうした議論を続けていくことが絶対に必要だ。残念なのはこれらを報道しているメディアの認識レベルがあまりに低いということだろうか。福田事務次官を批判しているテレビ朝日がセクハラの訴えを隠蔽したという事実はそのことを如実に物語っている。役人(福田)も政治家(麻生、小西・辻本などのこの問題を追及する政治家)もメディアも女性差別しているのだが、それに気づいていない。みなさん、もっとジェンダーの勉強をしましょう!(もちろん、自分も含めてですが(^0^;))

昭和レトロ?を守る食堂が閉店?

先日、一部の人間にとって衝撃的なニュースが流れた。

それは
「花巻マルカンデパート閉店」
である。

えっ、何のこと?

岩手県花巻市の商店街のど真ん中にあるこの百貨店。イトーヨーカドーなどの郊外型スーパーなどの進出ですっかり閑古鳥が鳴く状態に。いや、この百貨店と言うよりも、かつての商店街それ自体がシャッター通りと化しており、それに引っ張られた状態でもあるのだけれど(ただし、百貨店を経営するマルカングループ自体は事業を手広く展開している)。だから6月に閉店と相成った。

しかし、しかし、である。

この百貨店は店を閉じてはいけないのだ!たったひとつの理由で。
それは、

六階に大食堂があるから。

このガラガラの商店街、ガラガラの百貨店。ところがエレベータで六階に上がった瞬間、信じられない風景が広がる。この階はワンフロアが食堂になっている。つまり、かつてのデパート(百貨店といった方がすんなりくるが)の最上階にあった、あれが、そのまんま、ほとんどシーラカンス、トキ、ニホンカモシカのように残っているのだ。そして、驚くことにその席数、400もある。で、昼時にはなんと満杯!

デザインは古ぼったく、ウエイトレスのユニフォームも濃紺でダサい。チーフとおぼしき老人は白のワイシャツにネクタイと、かつての大食堂のそれ。提供される料理も寿司、ラーメン、お子様ランチ、ソフトクリーム、スパゲティ・ナポリタン、そば、うどん、オムライス、ホットケーキとジャンル横断で、こちらも大食堂のそれ。わけのわからないメニュー(マルカンさん、失礼!)ではマルカンラーメン(ラーメンに辛めの甘煮)、ナポリカツ(スパゲティ・ナポリタン+チキンカツという奇っ怪な組み合わせ)、ソフトクリーム(10巻き180円!!)なんてのもある。ティラミスというメニュー(パフェのティラミス風)やコーラクリーム(普通は「コーラフロート」と呼ぶ。現在メニューからは廃止)も。


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名物10巻ソフト。箸で食べる




で、味はどうか?これまたスゴい。完全にベタな味。例えばオムライスとナポリカツはケチャップバッチリ。で、料理は全般的にボリュームタップリ。つまり、全てが全て昭和のまんま。タイムスリップ気分が味わえる場所なのだ。

ただし、ここは90年代あたりから流行はじめた昭和レトロとは全く違う。あれらは要するにヴァーチャル、言い換えればメディア的に媒介された昭和のイメージを再現しただけ(大村崑や水原弘、由美かおるのホーロー看板なんかが貼り付けてある、あの「インチキ昭和」だ)。一方、マルカン大食堂は、そんなものとは一線を画している。昭和レトロではない。ただ単にずっと昭和から変わっていないだけなのだ。つまり昭和リアル!もはや、こんな食堂、日本には存在しない。これだけでも文化遺産としては貴重だ。50代以上の人間がココを訪れれば、まず嬉々としてしまう。僕も30年前、ココを初めて訪れて以来(花巻はカミさんの実家)、ずっと虜のままだ。

昭和リアルを証明するのは、何もレストランのシステムだけに留まらない。もしこれだけなら、ただの「昭和レトロ観光地」でしかない。昭和リアルは店側の一貫した方針の他に(まあ、ただ昔のパターンを続けているだけなのだけれど)、顧客の側のリアルがある。で、もっと驚くことは、冒頭に述べたように昼時ともなると、この席全てが埋まってしまうのだ(夜は営業していない)。エレベータを出てすぐ両脇にある2つの食券カウンター(食券機ではない)の前には列が出来ている。彼らが贔屓にするメニューは中華(普通のラーメン)、マルカンラーメン、ナポリカツ、オムライスそして十巻きソフトだ。このわけのわからないメニューこそが市民を虜にしている。そう、この古色蒼然としたスタイルを守っているもう一方の張本人は花巻市民なのである


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チキンカツとナポリタンの組み合わせという、なんとも不可思議なメニュー。しかし定番。ハマる!


でも、市民たちは、なぜこんなものを、そしてこのマルカン大食堂を愛するのか?もちろん、彼らがレトロ感覚でここにやってきている「昭和オタク」なんかではない。そのほとんどはリピーターなのだ。そして、ただの日常。マルカン大食堂に行くのは「そこにマルカン大食堂があるから」に過ぎない。では、なぜ?

それは、

ここが彼らにとっての人生そのものだからだ!

人生絵巻がリアルタイムでずっと繰り返される亜空間

ここを知らない部外者が、店内の顧客層を見れば、恐らく驚くべきものを発見するだろう。家族連れ(核家族から3世代まで)、おじいちゃん・おばあちゃんと孫、学校帰りの高校生が連れ立って、恋人のツーショット、お年寄り連れ(最近は、この食堂が注目されているので昭和レトロマニアも多いが)。客層がゴチャゴチャなのだ。誰もがホッとした顔、そして笑顔を浮かべている。

この世代横断的な客層は次のようにストーリーを繋げれば理解が出来るだろう。
子どもの頃、親やおじいちゃんおばあちゃんに連れられてここにやって来た。そこでソフトクリームやお子様ランチ、オムライスに馴染む。中学高校時には学校帰りに制服姿で仲間とやって来て、おやつ代わりに中華とソフトクリームを楽しむ。仕事を始めて恋人が出来ても昼食はココだ。若くてカロリーを欲しているからナポリカツあたりがお気に入りだろうか。もちろんソフトクリームは必須。あまりにデカいこのソフトはそのままでは手で取って食べることが出来ない。そこで台座に乗せたまま下から割り箸で掬って食べる。二人で食べればラブラブモードも否応なく盛り上がる(笑)

結婚して子供が出来たら、やっぱりマルカンへ。子供はもちろん、ココの賑わい、そしてソフトやお子様ランチの味に馴染む。人でいっぱいのお祭りモード、華やいだ気分がすっかり気に入り、どこかに食べに行くということになれば、マルカン大食堂がご指名となる。そう、親と子の人生が繰り返されるわけだ。そして、子供が巣立ち、歳を重ね老人となった時、昔馴染みとくつろぐ場所は、やっぱりココ、マルカン大食堂なのだ。

市民の人生がギッシリと詰まっている場所。だから、客層がゴチャゴチャ、そして客でいっぱいになるのはあたりまえなのだ。この食堂には、人々を強烈に惹きつける文化が50年以上、全く変わることなく息づいているのである。


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開店間際の11時台。もう客がいる。母、娘、孫が楽しく食事中。


「文化とは何か?」を再考させてくれる大食堂

マルカン大食堂。これは本物の文化なのだ!食が、空間が花巻市民の魂全てを吸収し、そして世代から世代へと再帰する。そして、これが衰えることなくずっと続いてきた。

だから、この大食堂を閉じてはいけないのである。

花巻市役所は早くこのことに、もっと気づいて欲しい。ここは市民会館や市民公園など、まったく叶わないほどの文化を放ち続けていることを。だから、これを失うことは花巻市民のアイデンティティの一部(しかも重要なそれ)を失ってしまうことであることを。本ブログでは解りやすいように「食の文化遺産」と表現したが、本当はそうではない。文化遺産はいわば「干物」。もはや終わってしまったものを「遺産」として維持すべく、改めてメディアを媒介させてまなざしを与えようとするものだ。ところが、こちらは「ナマの文化」。いまだ変わることなく人々を引き寄せて止まない。しかも生ものだから市民たちも気づいていない(閉店すると聞いて、現在、これまで以上に大挙して人が押し寄せているらしい。あたりまえが突然そうではなくなることで、市民たちが、この大食堂の重要性に気づかされたのだろうか)。市役所職員のみなさんも、ここで子どもの頃からお世話になっていることは間違いないのだから、マルカン大食堂がただの民間企業だからどうなろうと放っておくなんてことを考えるのはおかしいはず。自分の胸に聞いてみて欲しい(笑)

ところで、これを存続させようと地域活性化をめざしている若者たちが運営する地元企業・花巻家守舎が立ち上がった(関連記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160318-00000119-it_nlab-life)。なんならテレビ局もこれを取り上げてもらいたい。テリー伊藤さんとか孤独のグルメのスタッフさんとか、いかがですか?花巻家守舎さん、是非がんばって欲しい。なんなら、僕も協力したいと思う。

文化そのものをリアルに見たければ、ここに行くべきなのだ。

自虐的なご当地地図

今、Twitterで「よくわかる○○県」と呼ばれる地図が話題を呼んでいる。「こまけぇことはいいんだよ、ざっくり描いたよくわかる都道府県地図」ということで、神奈川県、茨城県、北海道などの各県が、作者(おおむね地元民)の主観に基づいて勝手に区分けされ、大雑把に説明されている。岩手だったら久慈は「じぇじぇじぇ(あまちゃん)」、東野は「妖怪居住地区(東野物語)」、 小岩井エリアは「人より家畜が多い(小岩井農場)」 、盛岡はなぜか「青森県盛岡市(誰か、教えてください)」と、ひたすら主観に基づいて勝手に「こまけぇことはいい」文脈で「ざっくり」と県の説明がなされている。
その指摘は、実証性こそないものの、当たらずとも遠からず。地元民の誇りというよりは「自虐的」「自ギャグ的」ネタに満ちている。その一方で「あるある」という感じも。見ているこちらも、思わずニンマリとしてしまう。

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よくわかる岩手県pic.twitter.com/RmkxByDajT


ある意味バカバカしい。だけど、よくよく考えてみると、これ、実はぜんぜんバカバカしくないのではないか?

地元民の二つの顔~宮崎の焼酎は20度。ところが県外に売り出されると25度になるわけ

地元民は地元について二つの顔を持つ。表=オフィシャルな顔と裏=そうでない顔だ。で、オフィシャルな顔では、世間一般、全国的に知られている情報を県外の人間にアピールする。その裏で、ひた隠しにして外には出さない(ちょっと、言い過ぎか(笑))情報がある。

僕は十年ほど宮崎に暮らしていたが、そんなことがちょくちょくあった。例えば焼酎。宮崎と言えば芋焼酎。現在ではコンビニにも置いてあり、芋焼酎としては全国一のシェアを誇る霧島酒造の「黒霧島」(黒霧)が有名だが、実は、この芋焼酎についてもものすごいコンプレックスを宮崎県民は持っていた(いまだに?)。宮崎の焼酎は一般にアルコール度が20度。ところがこれを県外に出荷するときには25度となる。先ほどの黒霧にしても県内20度、県外25度の「鉄則」は守られている。で、こうなったのには理由がある。

戦後、宮崎は貧困にあえいだ。しかし酒は飲みたい。そこで密造酒が出回った。当然、これで健康を害する県民が続出。そこで、密造酒を駆逐するために考えられたの20度の焼酎だったのだ。ご存知のように酒の価格のほとんどは税金。で、アルコール度が税率に反映される。つまり度数が高い方が酒税が高い。となると、当時貧乏だったみやざき人には一般の25度の焼酎には手を出せない。そこで20度にして酒税を抑え、密造酒の代替にしてもらい、密造酒を駆逐するという策に行政が打って出たのだ。で、これが功を奏し、気がついてみると県内の焼酎はほぼ全域20度になった。

ただし、これはいいかえれば「20度」が自分たちが「貧乏」「貧困」であることの証明になってしまう「恥ずかしいアルコール度」ということでもある。だから、県外に出荷するときは必ず25度にするのだ。かくして20度の焼酎は裏の顔となった。

文化を相対化し、地元意識をめざめさせるきっかけに?

こういった県外にはちょっと言えないような「恥ずかしい」ネタを主観に基づいて「よくわかる○○県」といったかたちで、地元民が勝手に表現してしまう。こうなると、今度は自虐ではあるけれど、そのことが笑いとともに相対化される(だから「自虐的」というよりは「自ギャグ的」)。そして、「裏」の顔が諧謔として現れるのだ。いいかえれば「よくわかる地図」は裏と表をなくし、スーパーフラットな状態を作り上げる。

これまで裏の情報は、メディアに乗ること無く口コミで、しかも地元の外には知られないような状態で語り継がれてきた。そして、それがいわば「裏文化」を作り上げていた(地元民は、それを決して「文化」とは呼ばないのだけれど)。しかし、この裏文化はプラバタイゼーションが進展し、個別化・原子化といった事態、つまり、それぞれがミーイズムに基づいてバラバラに消費生活の日常を繰り広げるようになると伝播能力を失ってしまった。これにファスト風土化(全国がAEONとセブンとTSUTAYAとヤマダと青山とMacとスタバとユニクロみたいなもので均質化した空間、均質化したライフスタイルをつくってしまうこと)が進むことで、地方はその特色も失ってしまった。

これでは地方が地方である存在根拠がなくなってしまう。そこで、マスメディアが地域性取り上げようとして、やれゆるキャラグランプリだ、B1グランプリだ、ひみつの県民ショーだといった具合に、ご当地の「裏情報」を表に出して活性化をやり始めた。だが、これはいわばマスメディアによる「トップダウン方式」。そして、もちろん、それらが深いレベルでの「裏文化」に触れる可能性は少ない(放送コードに引っかかってしまうから)。

そこで、ある程度アングラが可能なネット上、しかも匿名性が担保されているTwitter上に、これを公開して知らしめるというアイデアが生まれた。それこそが「よくわかる○○県」なのだ。くりかえすが、この現象は地元民=県民自らが自虐ネタ、恥ずかしいネタとして「裏文化」をカミングアウトする。ただし、それによって笑いが生まれ、カミングアウトした裏文化が受容されていく。恥ずかしい「おらが県」が、恥ずかしいまま、それでいてかわいらしい、ちょっと誇らしい、諧謔に富んだアイデンティファイすべきものへと変容する。そう、なかなか効率のいい、ネットを使った地域文化の活性化方法なのだ。

そ・こ・で、この「よくわかる○○県」。あっちこっちでやってみたらどうだろう。「こまけぇことはいいんだよ」の精神で多少の顰蹙系のものにも目をつぶって。たとえば教育現場でやってみるなんてのはよいのでは。クラスの児童それぞれに「わたしの○○県」を作成させ(「わたしの○○市」「わたしの○○町」「わたしの○○地区」でも、もちろんかまわない)、コンペをやったり、それぞれのアイデアをまとめて集合知として「○年×組がざっくりと考えた「よくわかる○○県」なんてのを公表させ、県の教育委員会や広報課でイベント化してしまうなんてのは、かなりオモシロイし、県民アイデンティティを醸成するという、「精神性からの地域活性化」も可能になる。しかも、くりかえすが「相対化された笑い」とともに。さらに、これは「靖国○○」みたいな上から押しつけられる文化じゃなくて、下から積み上げた「みんなの文化」だ。だから、みんなおもしろがってやるに違いない。

地方公共団体のみなさん、ご一考、あれ!

毎年、成人式の式典となると出てくる話題は三つ。浦安の「ディズニーランドでの成人式」、その年の出来事にふさわしい「時節もの(ここ数年は震災ネタ)成人式」、そして「荒れる成人式」だ。そして三つ目は、成人式でのネガティブな部分として取り上げられている。大声を上げたり、壇上や会場で酒を飲んで暴れたり。「困ったもんだ、何とかならないのか?」というのがその取り上げられ方なのだけれど。

さて、この「荒れる成人式」を終わらせる方法はないのか?実は、簡単に出来る。これをメディア論的視点から展開してみよう。

メディア・イベントとしての荒れる成人式

メディア論には「メディア・イベント」という考え方がある。これは実際に事件が起こっていようがいまいが、それが事件=イベントとなるためにはマスメディアが取り上げなければならないというもの。言い換えれば、どんなものであれマスメディアが事件=イベントとして取り上げれば事件になってしまう。つまり「マスメディアが事件をつくる」。そして、事件になってしまうと、今度はその事件=イベントは既成事実化し、それ以降、頻繁に発生するようになる。いわば、ヴァーチャルがリアル化するのだ。バレンタインデー、ホワイトデー、最近だったら恵方巻きなんてのがその典型だ。50年前バレンタインデーにチョコレートを贈っていた人間なんていないし(ちなみに現在、これはもっぱら日本と、日本に感化されたアジア諸国でメディア・イベント化している)、恵方巻きに至ってはここ数年の間に流行った、コンビニ誘導?のメディア・イベントだ。

さて、「荒れる成人式式典」だが、これはまさにメディア・イベントの典型といっていい(まあ、お役所がやっている成人式自体が、元はといえばメディア・イベントなんだけど)。60年代からチンタラし始めた成人式の式典。当初は式典の祝辞も聞かずザワザワと私語が展開された程度だったが、暴走族的な存在(いわゆるヤンキー)たちが式典で暴れ、これがメディアで大々的に報道された。すると、これを見たヤンキーたちが感化され「オレも成人式になったらやってやろう!」ってなことになった。そして、これが過激化すると、マスメディアが「荒れる成人式」として大々的に取り上げ、識者とおぼしき人物たちに「けしからん!」と言わせた。すると、「こりゃ祭りになる!」とばかり、ヤンキーの兄ちゃん(姉ちゃんもいるだろうが)たちをいっそうやる気にさせ、その結果「荒れる成人式」という「お約束」が成立してしまった。今年は大阪で橋下徹が祝辞の際に一喝したなんてのが報道されたが、まさに、これはイベント・フィーバーものだろう。二つのメディア・イベントのスターによる「夢のジョイント」なんだから、いっそう盛り上がる。

ちなみに、これと同じだが、ポジティブな方がディズニーランドの成人式だ。毎年、マスメディアがこぞって取り上げるメディア・イベントと化したおかげで、浦安市の新成人たちの出席率は異様に高くなった。メディアが煽れば煽るほど必ず出席したいという浦安の若者が増えるのだ。いや、浦安に住みたいと思う人間すら出現する始末。

荒れる成人式報道をやめてしまえ!

「この荒れ具合、どうにかならんものか?」

この処方箋は、

「メディア・イベントのスパイラルを止めればいい」

というだけのこと。

つまりメディアが荒れる成人式の報道を一切やめてしまえばいいのだ。荒れる姿がメディア上に現れなければ、その存在が知られることはない。ということは「そんなものはなかった」ということになる。ちなみに「いや、そんなことはない。ネット上に展開されるはず」とツッコミを入れたくなる御仁がいらっしゃるかも知れない。ところが残念でした。インターネットでいくら騒いだところで、マスメディアがこれを取り上げない限り、ほとんど「種火」くらいで終わってしまう。つまり着火することはほとんどない(というか、ネットでの盛り上がりは、最終的にマスメディアがメディア・イベントとして取り上げることで初めて成立している)かくして荒れる成人式は終わる。あるいは、どこかで細々とやられているだけということになる(まあ、 そもそも荒れる成人式は非常に少ない。一般的には何事もなく終わるか、ザワザワ私語が展開される程度。しかし、目立つので報道されて、あたかもあっちこっちで展開されるように見えているだけなんだが。つまり、やっぱり、メディア・イベントなのだ)

報道は常に取捨選択のメディア・イベント

「これって、典型的な報道統制、報道の自由を阻害しているトンデモナイ発想なんじゃないの?」

確かに見せたくないものを隠蔽してしまうのだから、そのような指摘が間違っているとは言えない。実際、政治だったら典型的な思想統制の手段だ。しかし、である。現実というのは多元的なもの。その中からいくつかが選択され、メディア上にメディア・イベントとして展開されているという事実を看過してはならない。つまり成人式式典には多元的な現実=出来事が存在し、現在はその中から「ディズニーランド成人式」「時節もの成人式」「荒れる成人式」が任意にチョイスされているだけ。だから、こういう指摘は必ずしも当たっていないのだ(これだって立派な報道統制の一つと言い返すことも出来る)。メディア側が視聴率とか発行部数的においしいネタをチョイスしただけなんじゃないの?たとえば、フツーの成人式を迎えたフツーの人たちのことを、なんでこの「成人式三大ネタ」よりも過小評価して扱うの?こっちの方が圧倒的にマジョリティなんだから、報道の平等性を考えれば、この大多数のほうをもっと大幅にフィーチャーするのがあたりまえ。そうしないのは、ようするに「これじゃ、カネになんない」から。いいかえれば、これは「マスメディアの業績原理に基づく報道統制」だ。そう、「現在のマスメディアのほうがはるかに報道統制を行っている」と倍返ししたほうが的を射ている。そして、さらにマスメディアにツッコミを入れれば「あんたたち、こんなかたちでしか稼げないなんてのは、単なる創造力・想像力の欠如だよ」「いつも三大与太話のクリシェ(常套句)でお茶を濁していようじゃ、しょ~もない。もうちょっと、工夫してください」ってなところになるだろうか。

要するに僕らは記号=メディア・イベントとしての荒れる成人式に振り回されているだけなのだ。

ハッキリ言おう!「成人式で荒れてるヤツなど少なくともメディアからは抹殺すべきだ!」と。(もちろん、「スルーせよ」「取り上げるな」という意味ですけど)。

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