勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:その他教育

バイオリニストの高嶋ちさ子が九才の息子のゲーム機・3DSを、平日は遊ばないという約束を破ったことで、これを真っ二つにバキッと折ってしまったことをTwitterにアップしたことをきっかけに、これが大炎上していることが話題になっている。

で、こういったネットやメディアを介した炎上=バッシングが最近やたらと多い。それは失言問題にも関連しているのだが。今回は、マスメディア上やネットでの「ほんの一言」が、なぜ大騒ぎになってしまうのかをメディア論的に考えてみたい。このメカニズム、結構古いようで、また新しいものでもある。

SNS、マスメディア、オーディエンスが「暴力的な母・高嶋」を作り上げる

炎上するメカニズムとして三つの要因、そして二つの立ち位置をあげてみたい。三つの要因とはSNS、メディア、オーディエンス(とりわけ一部の書き込み好きなネットユーザー)、二つの立ち位置は情報の受け手と送り手だ。これを今回の「ゲーム機バキッ」で考えてみよう。

先ず受け手のネットユーザーが高嶋のTwitterを見る。一部のユーザーが「なんて乱暴な」「教育上(子育て上)、よろしくない」とツイートする。この時点で受け手は送り手に転ずる。SNSがあるからネットに書き込むなんて、今や簡単。しかも匿名(facebookを除く)だから、何を言っても自分の身に責任や危険が降りかかることはない。ので、言いたい放題。すると、これを見た他のユーザーもまた、匿名をよいことにして誹謗中傷的なツイート(Twitterでなければコメント)を始め、次第に炎上していく。この時、興味深いのは、ほとんど誰も高嶋の本意を理解しようとはしていないことだ。つまり「言葉狩り」。つまり、いわば「バキッ」という乱暴な音だけが誇張されていく。そして、バッシングが次第に祭り状態になると、もはや、そちらの炎上的、誹謗中傷的なツイートが展開するコンテンツの方が議論の中心となる。高嶋とは関わりのないところで高嶋のバッシングが展開されるようになるのだ。この時、高嶋は「暴力的な母」とステレオタイプを貼られていく。ようするに発信するネットユーザーは感情的なカタルシスを得たいがために行為を繰り返すわけで、完全に思考停止になる。

次にマスメディア。適当に炎上してくれれば、お手軽なネタとして重宝する。ので、これをテレビや雑誌が騒ぎ立てる。街頭インタビューと称して、一般人にコメントを求め、都合のよいように「ゲーム機バキッ」をデフォルメする。もちろん、この時、高嶋の本意など全く意に介することはない。こういったネット=SNSからの情報ピックアップは、もはやマスメディアにとってルーティーン。型に流し込んでいるだけ。つまり、これまた思考停止に基づくワンパターンなメディアの行動。

マスメディアが拡散するゆえ、こうなると騒ぎは突然、規模が大きくなる。ネットにあまり関わることのない層にまで、このデフォルメされた「暴力的な母・高嶋」のイメージが、大量のオーディエンスに情報がリーチするマスメディアによって伝播されるからだ。そして、このイメージは再びネット上に環流し、さらに増幅されていく。この時も、もちろん高嶋のことなどどうでもよく、要はネタとして楽しめればいいということになるわけで、要するにこれまた思考停止。

そして、騒ぎが一回りするとこの事態は収束する。まあ、騒ぎの最中に、もう少し大きなネタが出来れば、瞬時に収束するというパターンも、ままあるが。これは社会学でいうところの流言のメカニズムに他ならないのだけれど(揮発性が高いところなど共通点は多い)、空間にまったく限定されないこと(流言の場合は極端に広いエリアには波及しづらい)、二つのメディアが媒介すること(インターネットのSNS+マスメディア)で、展開が早く、場合によっては巨大な規模に達するところが異なっている。

ちなみに、ネットが出所ではないが、同様の展開になったものとして丸山和也議員の「オバマ奴隷発言」がある。丸山議員は参議院憲法審査会で、日本がアメリカの51番目の州になることは可能かという質問の中でこの発言を行った。ザッとまとめてしまえば「先祖は奴隷だった人間が大統領になるなんて建国当初には誰も考えもしなかった。しかし、それはそれだけアメリカはダイナミックな改革をしてきたということ。だから日本がアメリカの州になるってのも、ありなんじゃないのか?」という趣旨で、むしろ黒人を、そしてアメリカの歴史を讃えているふしすらあるのだけれど、「奴隷」という言葉だけがメディアの思考停止によって拡大されて、丸山議員は謝罪を行わされる羽目になっている。そう、文脈無視の「言葉狩り」がここでもメディアと政治家とその後のネットの議論等で展開されたわけだ。

メディアリテラシーをアップする方法

こういった、低いメディアリテラシーを振り回すこと。もうヤメにしませんか?みっともないですし。

処方箋は三つある。

一つ目はネット上に匿名によって情報発信する人間が、ある程度責任を持つことだ。言い換えれば、バッシングになるような無責任な発言はしない。何年か後、おそらく「以前は、こんなバカなコメントがあったんだ」ってなことになっているんだろう。ただし、そうは言っても実際のところ、この手の匿名を利用したゴロツキ発言がなくなることはない。それは、いつの時代も同じだからだ。ネットで受け手の情報発信能力がシステム的に高まっている(つまり、ソーシャルメディアを通じて簡単に情報をアップできる)状況もあるので、リテラシーが高まるにつれ、多少は減少していくことがあったとしても、こういった発言とバッシングはこれからも続く。

そこで二つ目の処方箋が有効になる。低予算、思考停止でお手軽かつルーティーン的に情報をSNSからピックアップし続けるマスメディアが、これをヤメることだ。SNSに書き込みをして炎上させている人間はネットユーザーの一部でしかない。しかも、概ねこういった書き込みを好んでするマイノリティの一群だ。だが、実際のネットユーザーの大多数はROM、つまりリード・オンリー・メンバー。この「物言わぬ大多数」と「書き込みを好んでするマイノリティ」を無造作にイコールで結んでしまってはいけないのだ。逆に言えば、マスメディアがネットの意見を取り上げる場合は、ネットのSNS等で騒がれているからということを理由にするのではなく、それが社会的利益があるのか、あるいは正鵠を射ているのかを吟味する必要がある。量ではなく質を基準にするべきなのだ。でも、これって実はジャーナリズムがやるべき「あたりまえのこと」なのだが、現状ではメディア関係者は仕事に忙殺されて吟味する能力を喪失している。つまり、ここまで何度も書いてきた「思考停止」の状態。マスメディア関係者の教育をもっと徹底すべきだろうし、一番簡単な処方箋だろう(もちろん「やろうと思えば」の話だが)。これができれば「ゲーム機バキッ」なんて茶番は、ネットで盛り上がっててもマスメディアはスルーするはずだ。そういったメディアリテラシーが必要。

そして三つ目はこういった一人歩きした情報をオーディエンスである一般の受け手がマトモに取り合わないことだろう。というか、そろそろ、こんなくだらない展開に飽きてもいい頃なんじゃないだろうか?われわれは。ネットネタの拡散パターン、もうレポーターが芸能人の自宅に行ってインターホン押すのと同じくらい、消費し尽くされたワンパターンだと思いますよ。

ちなみにもう一つ付け加えておかなければならないことがある。情報を発信する大元の側、つまり送り手=最初の発信源の側のメディアリテラシーも涵養することが、それだ。今回の場合なら、高嶋ちさ子がこれに該当する。高嶋は前述したようなインターネット=ソーシャルメディアの書き込みユーザーのバッシング的傾向を理解し、またメディアがこれを不用意にピックアップすることも踏まえながら自らツイートするのを心掛けること。高嶋はセレブ。庶民からすれば、そのステイタスは羨望の的だ。しかし、それは言い換えれば、いざとなったら徹底的に叩く対象でもある(そして、実際にそうなった)。
ところが高嶋はこれらのことを理解せず、ソーシャルメディアという公共空間に、私的な、そして揚げ足取りをされそうなネタをばらまいてしまった。高嶋は、自由度が高すぎて、現状のネット空間のこと、そしてメディアのメカニズムを理解していない。高嶋もまた、高嶋を叩くネットユーザーと同様、メディアリテラシー(この場合は公共性)に問題がある。このことを自覚すべきなのだ。

というわけで、みなさんそろそろ『ゲーム機バキッ教育』なんて、どーでもいいことにしませんか?ネタにするにも陳腐すぎますよ。

オンライン英会話は使えるか~レッスンを体験してみた

近年「英会話の価格破壊」として人気急上昇中のオンライン英会話。その魅力はズバリ「低価格」。30分程度のマンツーマン・レッスンが一回につき200円以下という破格の料金で受けられる。現在DMM、レアジョブ、ラングリッチあたりが大手三校。
じゃあ、自分もやってみようとばかり、9月始めからレッスン(一日一回コース)を受け始めた。ちなみにほぼ毎日なので、すでにトータルレッスン時間が50時間に達している。で、こんなことをやっているおかげで、そろそろいくつかシステムが見えてきた。そこで三ヶ月ほど試してみた結果をレポートしてみたい。前半は「低価格になるカラクリ」。

一日200円以下になるカラクリ・その1:人件費

しかし、それにしても1レッスン200円以下というのは安すぎだ。DMMなら最高75円になる(ただし、特別価格)とも謳っている。なので、はじめにそのカラクリについて確認しておきたい。というのも、実は、このカラクリこそが教育システム=カリキュラムの構造に大きく影響を及ぼしていると考えられるからだ。

ひとつは、あたりまえの話だが、まさにインターネット時代のメリットを最大限に生かしたから。英会話教師はそのほとんどがフィリピン人。そしてもちろんフィリピン在住。なのでテレビ通話アプリ・スカイプを利用して日本とフィリピンを結ぶのだが、要するにフィリピンの人件費の安さ、ネット通話が無料であることを利用してこのビジネスが生まれたのだ。

一日200円以下になるカラクリ2:日本人の英語コンプレックスに訴える

ただし、である。いくら賃金格差があるといっても、これじゃ教師の時給は最低150円以下ってなことになってしまう(DMMの場合、最安で75円なのだから、これを基準に教師の取り分を見積もれば時給は数十円程度と、とんでもなく低いということになる。しかしながら教師はそれなりの訓練を受けているし、その全てが大卒、あるいは大学生。そう、いくらなんでもこんなに時給が低いわけはなかろう。でも、なんでこんな安い価格が設定できるのか。

その答えは「英語というコンプレックスを利用した釣り」にあるといっていい。とにかく日本人の英語コンプレックスはハンパないというか、メディア的に助長されてしまっている感が強い。英会話関係の広告がテレビCMや電車内、ネットなどで夥しく展開され、そのどれもが「英語喋れないヤツは国際人じゃない」みたいな煽りがあたりまえのように行われている(実際には、そんなことは全然ないのだが)。半面、英会話で目ざされている到達目標はあまり明確にされていない。英会話には、たとえばトラベル英会話、日常英会話、ビジネス英会話、本格的なネイティブとの議論が出来る程度の英会話など、用途に応じて様々なレベルがあるのだが、これがみんなゴチャゴチャに扱われる。で、恐ろしいは、用途の設定が曖昧な結果、常にに先ほど列記した最後のレベル「本格ネイティブとの議論が出来る程度の英会話」がメディア的に設定され、これに到達すべく一律に英語コンプレックスを煽り続けるのだ。ようするにクルマを運転するのなら、安全に運転できればよいのに、一律F1レーサーを目ざさなければならないようなあやしい構図が設定されている(正直な話、日本人の英会話のレベルはメディアによる設定に比べれば遙かに低い。いいかえれば「永遠に達成不可能な目標」がメディア的に垂れ流しにされている)。で、こういった英会話ビジネスに入れば、突然ネイティブとペラペラとコミュニケーションが出来るような幻想が振りまかれている。

「じゃあ、英会話やらなけりゃ」となるのだけれど、フェイス・トゥ・フェイスの英会話レッスンはベラボーに高いので、これはムリ。そこでお手頃なインターネット会話が登場するのだけれど。実は、同様にこちらの方も、こういった煽りをうまく利用したビジネスになっている。

僕が利用している英会話は最大手のひとつ。システムは他のものとほぼ同じで一回につき25分のレッスンが受けられるが、これが一日一回で一月6000円程度。一回は200円ほどということになる。レッスン予約はサイトの予約ページに飛び、時間帯を選び、該当する時間枠をクリックすると受講可能な教師の写真が登場し、これをクリックして完了する。

で、この時、気になることがある。講師の数だ。リストを見てみると300名程度がリストアップされているが、各時間帯ごとに見ると対応できる教師は最大で20名程度。時間帯によっては(早朝など)数名という場合も。しかしながら、登録されている生徒数は膨大で、当然この程度の人数では処理しきれないはず。にもかかわらず、開始時間間近になっても予約可能な教師が存在するのだ。

これは、どういうことか?

この答えはこうだ。その安さに乗じて膨大な数の消費者がオンライン英会話に登録する。ただし、ほぼ全員が英語コンプレックスの持ち主。なのでレッスンは緊張しまくる(英会話教師たちの多くが日本人はナーバスだと指摘していた)。で、ほとんど英語が話せない。教師の方が一方的に話すというような展開でもしないと、会話よりも沈黙が流れる時間になってしまう。その結果、コンプレックスは返って助長される。で、だんだんとレッスンから疎遠になっていく。ただし、最初の三ヶ月とかは「割引」と称して一括入金を義務づけてくるところが多いので、結局たとえば一ヶ月6000円ならば18000円を払い込み、その実受けたレッスンは数回だけと言うことに。要するに膨大な数の非アクティブ・ユーザーが存在するわけで、だから教員数は一枠に付き20名程度で十分に処理可能。一方、このユーザーたちが支払った授業料が教員に還元される。だから彼らに支払われている給与は時給二桁ということには必ずしもならないわけだ。

もちろん、やる、やらないはユーザーの任意だから、これは悪徳商法というわけではない。自己責任、つまり「やらないヤツが悪い」だけなんだから。ということは、僕みたいな貧乏人は「意地でもやってやろう」(笑)と考える。なので、一部だが、毎日のようにガンガンやっているユーザー=生徒もいるわけなんだけど。

ところがこの構造、教育システムそれ自体、つまりマジメにガンガン授業を受けている人間にも大きな影響を及ぼしているのでは?しかも悪い方に。では、それは何か?(続く)

「ケータイはコミュニケーションを希薄にするのでほどほどに」という嘘?をついた学生

これはもう四年も前の、まだスマホが普及する以前のお話し。
ある日、僕は講義で学生たちに課題を出した。題目は、

「ケータイとコミュニケーションの関係について」

当時、彼らにとってケータイは必需品(ちなみに今ではスマホが必需品で、ケータイは絶滅危惧種)。さぞかしいろんな回答が寄せられると思ったのだが……実際は、ほとんど異口同音だった。

レポートの趨勢を占めた内容をまとめるとだいたい以下のようになる。

「ケータイはいつでもいろんな人と連絡が取れるので便利でよいと思います。しかし、メール、通話などケータイばかり使っていると生身のコミュニケーションが希薄になってしまい、人間関係がおかしくなってしまう可能性があります。なので、使用にあたっては直接的な人間関係を重視し、ケータイ中心のコミュニケーションにならないように、あまり使わないのがよいと思います。」

この判で押したようなベタな回答に、僕は驚きを隠せなかった。
で、その後、授業で、この手のレポートを返してきた学生1人を指名し、内容についてツッコミを入れてみた(ただし、自分のゼミ生でお互いに気心の知れた、シャレのわかる学生をちゃんと選んではいる。ハラスメントになっちゃマズイので)。

僕:「君は、ケータイを使用することの危険性をレポートの中で訴えたよね」
学生:「ハイ」
僕:「本当にそう思う?」
学生:「えぇ、まあ」
僕:「じゃあ、こちらとしては一つ提案したいことがある。今、君はケータイを持っているはずだよね」
学生:「ええ、持ってます」
僕:「それ、危険な道具なんじゃないの」
学生:「……」
僕:「生身のコミュニケーションを奪ってしまうアブナイ装置なんでしょ?だったら、それを今すぐ窓から投げて捨てるべきなんじゃないのかな?」
学生:「いや~っ!それは……できません……」
僕:「だって、危険なんでしょ?是非やるべきなんじゃないの。なんで?」
学生:「だって、これがないとやっていけませんから」

そこで、僕はツッコんだ。
僕:「そうでしょ?ないとやっていけないもんね!っていうことは、つまり、それって、大切なものだよね?じゃあ、レポートではケータイのすばらしさを書くべきなんじゃないの。そんなにお世話になっているケータイ君にちょっと失礼なんじゃないのかな?」

すると、彼は次のように回答してくれた。
学生:「まあ、そうですよね。でも、授業でレポートが課題に出たときには、その一般的な書き方があって、フツーに言われているようなケータイの害みたいなものを書くのが筋だと思ったものですから」

なるほど。これは、いわゆる「べき論」というものが前提されていて、それに合わせた回答をしなければいけないと考えたわけだ。

もちろん、そんなことは全く要求していない。だいいち、それじゃあ学問にならない(ちなみにケータイによるコミュニケーションの希薄化の議論については、90年代末に社会学の分野では調査が行われており、あらかた決着がついている。ケータイ使用とコミュニケーション希薄化の相関関係は全く検証されなかった。むしろ逆にケータイの使用頻度は直接的なコミュニケーションの頻度を反映する傾向があることが判明している。つまり使う者ほどリアルなコミュニケーションも活発。どちらが独立変数かはわからない)。

そこで、大学のレポートでは、社会一般でいわれているような「べき論」に依拠する必要など全くなく、自分が分析したり、考えたりしたことを述べればよいこと。また、それが、たとえ結果として「べき論」が提示するような「正論」とは真っ向から対立するものであっても構わないことを説明した。

すると、件の学生、こう答えた。
「あっ、いいんですか。なーんだ。わかりました」

ということで、話は終わりになったのだけれど。でも、なんで自分の意見を言わずに、こんな「べき論」を持ちだしたのだろう?

入試の面接は「べき論」の嵐

その時、僕がふと思い出したのが、大学入試試験での面接だった。もちろん、これは僕が受けたときのことではなく(僕の時代は面接なんかほとんどなかった)、僕が面接官となって受験生の相手をしたときのものをさすのだけれど。

受験生は、やはり、概ね紋切り型の回答をするのが常なのだ。推薦入試などの面接では、事前に調書的なものがこちらに渡されている。その内容は本人の志望動機、高校教員の所見と推薦文、そして高校時代の活動と成績だ。で、受験生は面接時、何をこちらが訊ねても、原則、ここに書いてある内容しか答えないのだ。たとえ、こちらが訊ねている話とズレていても、無理矢理そちらの話に引きつけていく。そこで、これらの「調書」には記載されていないことを訊ねてみると、しどろもどろになった挙げ句、今度は紋切り型の「べき論」を持ちだしてくるというのがパターンだ。

推薦入試でディベート的な集団面接(受験生同士の討論形式)をやったときも同じだった。やはり、これは仕込んできたネタの展開となる(この時は、事前に課題が出ているので、高校教員と一緒に仕込んだネタがひたすら展開される)。で、この時も、残念ながら「べき論」が展開されてしまった。こちらとしては、与えられた課題について、これをどう分析し、どう自分の考えに反映させながら答え、また集団面接なら、どう互いの意見を調整しながら議論を組み立てていくのかを見たいのだが、すべて「仕込み」。そしてそこに書かれている「べき論」が邪魔をする。あるときの集団面接では、仕込んだネタ(これまた高校教員と考えたのがまるわかりなのだが)がどれもほぼ同じで議論にならず、シャンシャンで話が終わってしまったことも。多分、指導教員が同じ資料にあたったのだろう(ちなみに、これだと「出来レース」なので、ネタが切れたら後が続かなかった。あたりまえか)。

面接に穴埋め問題と同じ認識で臨む

こうなってしまうのは、まず高校側での教育が、こういった社会問題を考えさせる際に「考えさせる」と言うよりも「正しい答え」みたいなものを提示し、それに従わせてしまったからではないだろうか?(これは個人的には間違いないと踏んでいる)。だいたい、受験勉強というのは、だいたいそういうもの。「読んで、覚えて、暗記して、それを何も考えることなく吐き出す」(偏差値ゲットに必要なのは、先ず「思考停止」なのだ。ヘタに想像力を駆使しようものなら高得点は望めない)。この図式がこういった面接にも反映される。つまり面接にも正答、つまり「解答」があり、それをどれだけ忠実に再現するかがポイントであると勘違いする(で、高校教員側も、残念ながらそういった指導をしている)。これが弊害となって、自分の頭で考えることをしない(出来ないわけではない)。というか、勉強の場には必ず「解答」があり、それに答えるものと勘違いしてしまう。その結果の一例が、僕のケータイに関する課題の回答だったのだ。

「解答」するのではなく「回答」する力が必要

これは問題だ。僕が要求するもの、というか大学が要求するもの(そして社会が要求するもの)は「解答」ではなく「回答」。つまり「処理」したのち「考え」「表現する」力だ。しかし、与えられた課題との距離をとる、つまり課題に関する知識を収集しながらもこれを相対化し、最終的に自らの意見として表明することが出来ない。ちなみに勘違いしてもらっては困るので、もう少し正確に表現すれば、かれらは「回答できない」つまり「意見を表明することが能力がない」のではない。批判能力がないわけでは決してないのだ。そうではなくて、こういった高校までの暗記式教育のおかげで「自分の意見を表明してはいけない」と思い込んでいるのだ。そして自分の意見を持ってはいても、それを表明する手段=スキルを教えられていないのだ。

結局、こういった「自意識過剰」とは正反対の「自意識過少」の若者に知識を提供し、科学的手続きを教え、物事を相対化させる作業というツケを大学側が払わされることになるのだが……実は、当の大学側も得てして放ったらかしであったりする。そうなると「モノを考える」訓練を受けることもなく大学四年間は過ぎ去り、こういったスキルは大学後の社会人として入っていった環境に委ねられることになる(たとえば、その任務を会社が背負う)……いや、何も考えず「社蓄」になっているという可能性も十分考えられるのだけれど(で、それが日本社会にはとりあえず適合的だったりして。でも、もしこの憶測が正しかったとしたら、これからの日本経済はヤバイってことになるんだろう……)。

僕は、僕なりに「寝た子を起こす」作業に取り組んでいるつもりだが、こういった教育界の「考えさせない」「考える技術を与えない」がゆえに「自意識過少」の若者を再生産させているという現状は、根が深い問題と考えている。



前回のブログで「社会問題を取り扱う科目を、授業科目の一つとして取り入れるべき」との提案をしておいた(「教育機関は社会問題について考える授業を用意すべきだ」http://blogos.com/article/93741/forum/)。コメント欄ではかなり積極的な議論が交わされ、こちらの方面への関心の高さを伺わせたが、例によって少々誤解を被った部分もあった。前回、僕がこういった科目を提案した理由は、考える力をつけるためには、その考えについての基礎知識、つまり語彙とそれにまつわる物語がなければならない、つまり前提=コンテクストがなければ考えることさえ出来ないという立場に基づく。これは「考える考え方を学ぶ」とまとめておいた。そして、この教育の条件として教える側が価値判断を加えてはいけないことも指摘しておいた。つまりコンテクストのみを提供して、それに関する評価基準を教える側が提供するべきではない。ちなみに価値判断、つまりイデオロギーの押しつけという側面でしばしば問題にされるのが道徳と歴史だ。「正しい道徳」「正しい歴史」というわけだ。これが実に政治的で焦臭い(記号論・メディア論的には「そんなものはない」という立場を採る)。だから、議題とその知識だけを提供して、考えることは教わる子どもに委ねるべきと考えたのだ。

コンテクストが備えるイデオロギー性

ただし、こういった時、二つの問題が生じる。
ひとつは、「コンテクストこそがイデオロギーではないのか?」という問題だ。メディア論では、このコンテクストを選択する働きを議題設定機能=アジェンダ・セッティングと呼んでいる。あまたある知識やジャンルの中から一つの議題をマスメディアなどが選択し、世論を形成する機能を指すのだけれど、問題は、なぜその議題が選ばれたのか、そしてその議題の中からなぜこれらの語彙やストーリーが選ばれたのかという点にある。というのも、それらは、ほとんどが恣意的な選択に基づいて行われているからだ。

わかりやすいように例を示そう。たとえば、次の文をどのように思われるだろうか。

「世界の国々はみな平等。様々な人種、文化を持った人々がそれぞれの国に住んでいる。アメリカ、イギリス、フランス、中国、ブラジル……。」

この文章が全然平等ではないことがお解りだろうか。

まず二文目「様々な人種、文化」
なぜ国家というジャンルを語るのに、その中の一要素でしかない人種と文化が、ことさらに取り上げられたのだろう?宗教や食物、生活習慣といったものはなぜ切り落とされたのだろう?まあ、文化の部分集合とすれば納得がいかないかともないが、じゃあなぜ人種が選ばれたのか?ここに議題設定機能が働いている。

次に三文目「アメリカ、イギリス、フランス、中国、ブラジル……」
国家というジャンルは195国から構成されているのだけれど、なぜこの五つの国家が取り上げられたのか?トリニダード・トバコ、バチカン、アンドラ、リヒテンシュタイン、バングラデシュはなぜ挙げられなかったのか?これも国家というジャンルに属するのだけれど。ここにも議題設定機能が働いている。そう、どちらにしても無意識のうちになんらかの優先順位=スキーマに基づいてこれらがとりあげられているのだ。

当然、ここにもある種のイデオロギーが存在する。そしてこれは、基本的に道徳の価値判断の押しつけと同じだ。いや道徳的な、例えばウヨ的なイデオロギーは認識論レベル、つまりはっきり言っちゃっているので、実を言うと、ある意味、あんまり危険じゃない。これらはウヨ的立場とカンタンに括ることが出来るので相対化が可能なのだ。「あ、ウヨが言っていることなのね。ハイハイ」となる。ところが、こういった無意識のうちに展開される、つまり存在論的イデオロギーはかなり危険で質が悪い(そしてこちらのイデオロギーの方がより支配的で包括的だ。哲学に詳しい方ならこちらの広義のイデオロギーはL.アルチュセールの主張するイデオロギー概念に該当するとみなしていただければ、すんなりとお解りいただけるのではなかろうか)。なぜなら、こういったジャンルの選択は価値判断を許さないというか、価値判断をすることもなく透明なかたちでこちらが受容してしまうからだ(そして、こういった広義のイデオロギーがわれわれの行動や認識を規定し、文化を形成している。世界地図は、日本の場合、日本が世界の中心に描かれているが、欧米の地図では右端。だから日本は「極東」。またオーストラリアの世界地図なら北と南が逆さまだ。加えて言えば日本人がアジア国家の名前を挙げていくとき、最後まで出てこない国があるが、それは「日本」だ。これは、たとえば新聞などのマスメディアが国内欄と国際欄を分けてしまったことでわれわれが日本≠アジアという認識を無意識のうちに形成してしまったからだ。これらももちろん広義のイデオロギーにもとづく)。いいかえれば受容する側に選択判断が与えられていない半ば強制的なもの。だが、それが強制であることに全く気がつかない。M.フーコー的に言えば規律訓練型権力、東浩紀なら環境管理型権力といったかたちでイデオロギーが作動してしまう。だから、前回の自分が提案した議論をひっくり返すようで申し訳ないが、議題のみの提示というのも、実は十分にイデオロギーが作動していると考えなければならない。つまりコンテクストもイデオロギーに満ちている。

「考え方」という装置もまた、イデオロギー

もうひとつはコンテクストを提供したのはよいけれど、ではいったい、どうやって考えたらいいのか?ということ。考えるためには、あたりまえだが考えるための教育が必要だ。それが例えばディベートだったり、修辞学だったり、論理学であったりするわけなんだけど。たとえば帰納法、演繹法、アブダクション、弁証法、アナロジー、モードポネンス、表示義・共示義みたいな装置が指導される。しかし、こういった「考えるための装置」もまたイデオロギーに他ならない。しかも提供されるコンテクストと同様、存在論的、つまり無意識裡に機能する質の悪いイデオロギーだ。これを使った瞬間、他の方法によってでしか見いだせない事象が捨象されてしまう。ようするに、そのスタイルに洗脳されてしまう。つまり、道徳と同様、コンテクスト(前提的知識、語彙、そして概念装置)もイデオロギーに人間を閉じ込める装置ということになる。違うのはそのイデオロギーが認識論=意識的なものであるか存在論=無意識的なものであるかでしかない。

じゃあいったい、どうしたらいいんだ?

「今、君たちを指導している教員を信用してはならない」という唯一の絶対的命題

僕は教員なので、当然ながら学生への指導をする際には、こういった議題=アジェンダをいくつも提示し、語彙を用意し、なおかつ考えるための装置も提供している(ちなみに僕は学生たちに考える装置としてメディア論と記号論を教えている)。しかもかなり厳しく。こうなると僕は煽動的右翼、デマゴーク以上に若者たちを洗脳する人間ということになる。でも、これははっきり言ってヤバイ。

そこで、彼らにしつこく繰り返し言っていることがある。ちなみに、これは学生に守ってほしいと思っている、僕の「押しつけ」「譲れない絶対的イデオロギー」だ。

それは、

「僕の言うことを信じてはいけない!」

というもの。


もう少しマイルドに表現すると、

「僕が君たちに教えているのは、たくさんある知識のひとつでしかない。あまたある知識の中から「僕が勝手に」選択し、それを「僕が勝手に」解釈したもの。そして「僕が勝手に」考えるための装置として選んだものを君たちに提供しているにすぎない。」

となる。

自らの教授することが一つのパースペクティブでしかないこと。これが、ものを教える側の唯一守らなければならないことなのだと僕は考える。つまり、教えるものはすべからくイデオロギー装置。教わる側の思想や行動を否応なく規定する。これは絶対に避けられない。そこで、ここで取り上げるものや分析方法は、他にもこれ以外に取り上げるものは無数にあり、分析方法もあるが、とりあえず教える側としては、これを選択した。そして少なくとも、これを使うと、まあこんなふうに考えることが出来ると提示する(これをキレイに、つまりなるべく価値判断を排除して指導できるかどうかが腕の見せ所になるだろう)。だが、それはいいかえれば、しつこいようだが他にもたくさんのジャンルがあり、たくさんの分析方法があるので、そちらを使えば現実の理解は全く異なることになることを釘を刺しておく。だから「僕を信用するな!」となる。

つまり、教員が提供するものも「あまたある内の一つ」として相対化しつつ受け入れる土壌を用意することが教員の仕事となる。そう、知識と技術を教える際に「相対的視点」を教えることも社会問題を教える際の絶対条件なのだ。そして教わる側もこれを了解しつつ、自分が考えたものも同様に相対的なものでしかないと認識する。これがちゃんとできて、初めて教わる側も知識や技術を道具にアイデアを巡らせる、つまり考えることが出来るようになる。

ただし、最後に一言付け加えておけば、こうしたところで結局、学生・生徒は教員のイデオロギーに染められることからは逃れられない。それは熱血教師であればあるほど、その可能性は高くなる。そして熱血教師の場合、しばしば自分が絶対的な価値観を押しつけている可能性も高くなる。だから、教える側は一生懸命であればあるほど自己相対化を常に自らに化さねばならないのだけれど(テキトーな教師は、学生の方が「アイツはイイカゲンだから」とスルーする、つまり教師の発言を相対化できる)。とはいっても、結局、教師にある程度洗脳させられるって言うのが教育なんだろう。学ぶというのは最終的には「知識」ではなく「経験」なのだから。そして経験に基づいた知識、つまり「知恵」を養うのが教育なのだから。

興味を誘った英会話教材のネタ

この2週間ほどフィリピンで英語の英会話研修を受けてきた。レッスンは朝の八時半から午後の五時半までという昼休みⅠ時間を挟んで8時間ぶっ通しでマンツーマンの指導を受け、その後、宿舎に帰ってから夜遅くまで宿題をこなすという、かつての受験生並のハードなものだったが、意外や僕は大学受験の頃を思い出し楽しくこなしてしまった(これで語学力がアップしたかどうかは、不明)。
その理由は教科書にある。一つのテーマが出されると、それについてまず思っていることをコメントし、次いでテキストを読み、語彙を学び、内容の確認をし、ここで使われているフレーズや文法が指導され、同様のテーマについてのリスニングを行い、最後にこれらを利用して再び先生とそのテーマについて議論するという進行。で、扱ったテーマが面白い。ちょっとあげてみよう。

ウィキリークス(情報開示はどの程度まで許されるのか)、広告(広告のサブリミナル的効果とは)、カルチャーショック(異文化で暮らし続けるとその文化への認識はどのように変わっていくか)、コミュニケーション(サッチャー、ケネディ、キング3人の演説の特徴比較)、長寿社会(いずれ平均寿命が90年を超える)、図書館の新しいアプローチ(書籍について語り合う図書館の効用)、セレブになるとどうなるか(エリン・ブロコビッチの場合)、カリスマ、社会正義、メディアからの隠遁者、犯罪、有罪判決になったらどうするかなどなど。ちょっと一つを取り上げると「メディアからの隠遁者」では、セレブになったにもかかわらずメディアとの接触を避けた人間3人が取り上げられ、彼らがそのようにした動機について議論するというもので、この3人はなんとシド・バレット、サリンジャー、そしてスタンリー・キューブリックだった。こりゃ、面白い!(ただし、これじゃあオッサン向けだど(笑))
で、これらについて必ず「賛成?反対?」というかたちで質問が生徒=僕に突きつけられ、それに基づいて会話が進行するのだ。教員と僕の意見はしばし食い違い、議論は白熱した。

日本の若者が社会教養を持たないのは必ずしも彼らのせいではない

おかげで英語の先生(フィリピン人)とはかなり積極的かつ楽しく話をすることができたのだが……ここで、ふとあることに気がついた。

それは、

「なんで、日本ではこういった授業がないんだろう?」

ということ。

僕は、自分の学生たちとの会話を振り返ってみた。彼ら(偏差値50前後)と話して気がつくのはいわゆるボキャ貧、つまり語彙数が足りないこと、またこういった社会問題についての知識がきわめて貧困であることだ。だから、議論にならない。いわば議論をする資格がない。議論以前の知識が無いので脚切り状態になってしまう。で、その結果、こっちが説教を垂れるみたいなパターンになってしまうこともしばしば。

「こいつらなーんにも知らないんだな。困った連中だなぁ!」

と、彼らの不勉強をぼやくのはカンタンだ。でも、これは彼らの責任なんだろうか?いや、違う。これは教育、そして社会が作り上げた問題なのだ。なぜ、彼らがこういった話が出来ないのか?これは要するに、こういった社会問題に触れる機会を教育が提供してこなかったからに他ならないと、僕は考える。

で、考えたのが今回のタイトル。つまり「教育機関は社会問題についての授業を用意すべき」つまり、僕が語学研修で受けた授業の日本語バージョンを授業に取り入れるべきという提案だ。

所ジョージの名言~「考える考え方」を学ぶ

これはどういった効用が考えられるか?

かつて所ジョージは原発問題について次のような発言をしたことがある。

「原発問題は難しいですねぇ~っ。何が難しいかって、まず「原発問題」ってなんだかわからない。だから「原発問題を考える考え方を学ぶ会」ってのがあったらいい!」

けだし名言。議論をしようにも議論の前提となる知識や語彙がなければその議論に加わることは出来ないのだから。

若者の社会力を養う

社会問題を扱う授業は、所ジョージの指摘するような「考え方」を学ぶ、言い換えれば議題設定の役割を果たす。つまり、若者たちが考えるにあたっての知識と考え方のバリエーション、要するに議論のコンテクストを提供し、さらに、そこから考える機会を提供するのだ。

ちなみに、これは道徳教育とは一線を画するものでもある。同等教育はややもすると「かくあるべき」的な文脈が前面に表れる(ここがキナ臭いところなのだが)。だが、この授業では社会問題の事実のみがとりあえず取り上げられて、それに対しての賛否は生徒=学生に委ねられる。教員と生徒たちの見解が同じである必要は全くない。重要なのは議論の前提を共有すること、そして自分の意見を表明することだけ。

これまで、海外からの留学生がいろんなことについて意見を表明できるのに日本人が出来ないといったシチュエーションを僕はしばしば目にしてきたのだが(国際交流における議論がその典型。日本人若者がマトモに話が出来ない)、要するにこれは結局、「学校での社会問題教育実施の有無」に帰結する。だから、日本人の若者がバカで海外の若者はそうでないというのは間違い(議論以外の時には、どっちも精神年齢的には大してかわらない)。

で、こういった社会問題教育の導入は、社会化といった側面でもきわめて有効だ。つまり、若者たちは議論を通じて社会化のための知識と考え方を学んでいくことができるし、これを前提に実際に自分が社会に対してアクションを働きかけようとするためのモチベーションを形成することもできる(もちろん、彼らの間では、まず最初に知識を学ぼうとするモチベーションが形成されるのだけれど)。そして、こういった授業が小学校の高学年くらいから展開されれば、子どもたちの社会力、そして大学生の社会力もさぞかし向上するのではなかろうか。

まあ、もっともこれを教えることの出来る教員がいて、初めて成立するものではあるのだけれど……


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