勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

タグ:その他ビジネス

ニュージーランド航空が映画『ホビット』とコラボで制作した機内安全ビデオが「壮大すぎる」と大評判だ(「~すぎる」という修飾を使う表現は、最近「褒め言葉」としてしばしば使われている)。機内安全のための各種の手順を映画の登場人物がやってみせるというゴージャスさ(イライジャ・ウッドまで登場する)なのだが、これが機内ではなくホビットの大自然の中。ここにシートベルト、酸素呼吸マスクや救命胴衣、さらには座席までがまったくもって不自然に登場する。
完全に奇をてらった演出、たかが機内安全のためのビデオへの膨大な費用のかけ方、いったい何の意味があるんだろう?こんなくだらないことやって、いったい費用対効果があるんだろうか?単なる自己中な遊びなのでは?……いや、メディア論的に捉えると、このやり方「大いにあり!」ということになる。そして、それはニュージーランド航空のやる気を十分に感じさせ、また企業イメージを大いにアップするものでもある。今回はこの機内安全ビデオのメディア性について考えてみたい。





「モノで釣るようなやり方」の典型的な効果的運用法

この手法は典型的な「モノで釣るようなやり方」だ。つまり、なかなか見てくれない機内安全の説明やビデオ映像になんとか乗客を引きつけようとするため、機内安全以外のモノで引きつけようとする方法。要するにキャラメルを買ってもらうためにオマケを付ける、古くはライダースナックを買ってもらうためにライダーシールを付ける(もう40年も前の話だが)、ビックリマンチョコを買ってもらうためにビックリマンシールを付ける、AKB総選挙の投票権や握手券をゲットするためにCDを購入するというのと形式的には同じだ。で、この場合は「ホビットの世界」というオマケで機内安全を見せようというわけだ。

ただし、こういった「モノで釣るようなやり方」は必ずしも成功するとは限らない。たとえば前述したライダースナックだったら、小学校の周りに大量の未開封のライダースナックが捨てられていて問題になったなんて事件があったほど。まあ、売ることには成功したけれど、ライダースナックを食べさせるということは完全に失敗している。

さて、こういった趣向の機内安全ビデオ作成、なにもニュージーランド航空が初めてというわけではない。古くは三十年前、同じようなやり方で機内安全ビデオを放映し、乗客に映像を見せることに成功したものがあった。シンガポール航空のビデオがそれで、この時にはシンガポール航空の制服を纏った女性のフライト・アテンダントが絶世の美女で、殿方をこのビデオに一斉に食い入らせることに成功しているのだ(乗客たちが一斉にビデオを見はじめ、キャビン内は異様な雰囲気に包まれたなんてことがメディアで評判になった)。

で、この場合、機内安全ビデオをちゃんと見てもらおうというのがキャラメル=ライダースナックでオマケが美女にあたるわけだ。だが、この美女というオマケ、実は費用対効果が薄い。というのも、オマケに引きつけられすぎ、結局のところ、そちらばかり目がいってしまい、肝腎の機内安全のことが何一つわからないで終わりになってしまう可能性が強いからだ。記憶に残るのは美女だけ。言い換えればオマケと商品の消費=享受がリンクしていない。ようするに、道端に捨てられたライダースナックと同じで、これじゃあ、意味がない。

ところがニュージーランド航空の演出はこのへんをよくわきまえている。つまり、オマケ=モノで釣るようなやり方を踏襲してはいるが、結果として機内安全の手順を乗客がわかるように作られている。いいかえればオマケで引きつけられ、そして、気がつくとキャラメル=ライダースナックを食べているのだ。

先ず、オマケは言うまでも無くホビットの世界だ。これに、一瞬何事かと思う。そしてそれが機内安全ビデオであることを知って二重に違和感を覚える。もし、ここでキャラクターたちが機内に同乗した状態で機内安全のルールについての指導や、指導を受ける側という役割をになったなら、これはまさにモノで釣るようなやり方となり「ああ、イライジャ・ウッドがでているなぁ」ということにしかならない。つまりオマケの方だけに目が行く。ところが説明がなされるのは機内ではなくホビットの世界。そこに唐突に救命胴衣やら酸素マスクやら機内シートが登場する。ものすごい違和感なのだが、かえってその違和感がこれら安全装置に対する手順に関心を向かわせるというコントラストを形成している。救命胴衣に空気が足りないときはチューブから息を吹き込むシーンでは、なんと乗客はバンジージャンプして川の中にアタマをツッコんでいるなんてことまでやっている。この飛び込むのは機内脱出のシミュレーションなのだが、飛び込み理由が川の中に投げ込んだリングを拾いに行くという、これまたホビットの世界と機内安全をゴチャゴチャにした組み合わせになっていて、その違和感がやはりかえって機能面への注目を引き立てている。
ようるすにホビットで引っかけ、その背景と機内安全説明という違和感が機内安全の説明を浮き立たせ、結果として、その手順を乗客たちが自然と学んでしまうという、ウマい仕掛けになっているのだ。

イメージアップとしても絶妙

そして、こういった演出はただ単に「いかにしたら機内安全ビデオを乗客に見させることができるか?」ことに効果を発揮するだけにとどまらない。それ以外にも様々な副次的効果をニュージーランド航空にもたらすことに成功している。

一つは、前述したが「たかが機内安全ビデオのために膨大な費用をかける」という、一見するとバカバカしい行為が放つインパクトだ。飛行機は統計的には世界一安全と言われる交通移動手段だが、万が一事故が発生した際の悲惨さがわれわれにネガティブなイメージを与えていいることはいうまでもない。だからこそ、航空会社としては安全性をウリにすることがそのイメージのアップ、言い換えれば営業利益に直結する。ということは、一見するとカネにならないような機内安全ビデオの制作に本気で取り組む、しかも莫大な金をかけてという姿勢をこうやって大仰に見せることで、その安全イメージを世界的に振りまくことが可能になるのだ。つまり「安全性にわれわれは本気です」というアピールになる。

そして、もうひとつ。これはニュージーランドの大自然を売りに出す観光ビデオとしての効果も備えている。ニュージーランドは『ロード・オブ・ザ・リング』や『ホビット』の撮影地。そして、このビデオも当然だがニュージーランドロケだ。だが、このことは意外に知られていない。ということは「あの世界のふるさとはニューニュージーランドだよ」というメタ・メッセージも発しているわけで、「だったらホビットのふるさとニュージーランドへ行きましょう。ニュージーランド航空で」ということにもなる。

そして、最も金をかけないで作られる機内安全ビデオ作成にこうやってバカバカしいほどの資金を投入すれば、メディアはこぞってこれを取り上げざるを得なくなるという「したたかな計算」もある。実際、その結果、日本ではこの機内安全ビデオが「壮大すぎる機内安全ビデオ」として謳われて紹介され、あっちこっちでビデオが閲覧されることになったのだ。

ニュージーランド航空の、スキマを狙ったこのビデオ。費用対効果は抜群なのである。

観光名所が危険?

世界各地の観光名所は、しばしば「危険」と呼ばれる。観光客を相手にした犯罪が多発し、多くの客が被害に遭っている。それゆえ注意が必要と警鐘が鳴らされる。たとえばローマのワインを使ったゆすり。すれ違いざま、わざと観光客にぶつかり、手に持ったワインの入った袋を落として割ってしまう。その責任を観光客に押しつけ、高額な弁償を要求するのだ(ワインはもちろん安物。ただし観光客は価値がわからない)。リスボンでは中心街で女性の観光客を相手にしたバッグからの財布の抜き取りが絶えない。またバンコクでは美人局やカード・宝石詐欺といったものもある。いやはや観光地は危険きわまりない。

だが、こういった観光客を目当てにした犯罪は、もう何十年も繰り返されていること。その手口もとっくに公開されている。もちろん、『地球の歩き方』を中心とした海外旅行ガイドにも紹介されている。

それにもかかわらず、この手口は絶えることはない。なぜか?理由は簡単だ。こういった犯罪が、常に観光客という「一見さん」を相手にしているからだ。しかもそのほとんどが二度とそこには来ることはない。まさに一期一会。そして一見さん=素人だから、ガイドブックにこういった危険性についての記述があったとしても、そのほとんどはチェックしていない。ということは、犯罪を犯す側としてはローテクで延々とカネを巻き上げ続けることができる。その結果、同じパターンの犯罪が何十年と続くというわけだ。まあ、なんとオイシイ商売なんだろう。

リクルートという一見さん相手の商売:リクナビの場合

さてリクルートという企業。現在80以上ものブランドを擁し、様々な情報サービスを行っている。リクナビ、ゼクシィ、ホットペッパー、SUUMO、ケイコとマナブ……それこそわれわれの人生の節目において必要となる情報のほとんどがリクルートによって担われていると思えるほど。

で、これらのサービスをよくよく見てみると全てに共通することがある。そう、これはみんな「一見さん」を相手とした商売なのだ。ということは、これらのビジネスモデルは、どれも観光地の犯罪みたいな構造になっていると言うこと。つまり、ローテクでちょろい商売をやっている。

たとえばリクナビ。就職支援サイトで、大学生がサービス対象になるが、正直言ってロクな情報を提供していない。リクナビは紹介する企業からカネを払わせ、その企業の情報をリクナビの媒体とし、これを大学生に提供している。当然、企業は顧客=クライアントとなるわけで、顧客に不利になる情報を掲載するはずはない。だから、それらは優良企業もブラック義業も、おしなべて「よい企業」になる。そこに大学生=観光客がやってきて、オイシイ話に釣られてわけもわからず、どこかの企業に迷い込んでいくというわけだ。その結果、若者たちがどんな目に遭おうとも、リクナビ側は知ったことではない。で、それが結果として、企業と学生のミスマッチという事態を発生させ、就職3年以内の離職率3割という恐ろしい結果を生む一因となっていると言っても過言ではないだろう。

にもかかわらず、リクナビはオイシイ汁をすすり続ける。なんのことはない、「学生さん」は「一見さん」。だから、あやしい情報とローテクにいとも容易に引っかかる。その一方で、もう二度と来ないから、そのビジネス手法のあやしさが知られることもない。また、これまで用意した情報はそのまま流用可能。翌年になったら、また企業に情報提供サービスを提案し、昨年の記事にチョコっと新しい情報を加えただけ(つまりリライト)で、また掲載する。にもかかわらず企業=顧客から徴収する金額は基本的に同額。で、これを繰り返していれば、延々カネが転がり込んでくるという手法=システムだ。だが、適切な情報を知ろうとする学生=本当の顧客には、永遠に利益はもたらされないのである。

ホットペッパーは飲食店側が損をする

前述したように、この手法はリクナビに限った話ではない。たとえば、一般人が利用している飲食店情報のホットペッパー(あるいはホットペッパーグルメ)も、まったく同じ構造だ。ホットペッパーもまた掲載する飲食店から掲載料を徴収している。そして、その多くにクーポンを添付している。ホットペッパー自体はローカルに特化しており、紙媒体として消費者がアクセスする可能性はそれなりに高い(もっとも最近はネットベースだが)。この中から消費者はお気に入りの店を見つけ、そこに添付されているクーポンを切り取って(あるいは店頭でクーポンをスマホなどで提示して)、割引等のサービスを受ける。これで飲食店はお客をゲットできる。

しかし、問題はここからだ。ホットペッパーに掲載するということは、何らかのかたちで集客を必要とする飲食店。言い換えれば「訳あり」、つまりイマイチうまく客を呼び込めていないという状況にあるところが多い。そこで、ホットペッパーに頼る。掲載すればとりあえずお客さんがやってくるからだ。ただし、もちろんクーポンを当てにした一見さん。しかしながら、もともと大した店ではないので、リピーターになる確率は低い。そう、結局、一見さんで終わってしまう。だから、ホットペッパーに掲載した飲食店は掲載が終わればまた元の「訳あり」の店に戻る。で、それじゃあまずいのでまた同じことを続けざるを得ない。要するに、儲けているのはホットペッパー側だけなのだ。

リクルートは一見さん相手商売のオンパレード

でリクルートは、何でもかんでもこの手法を用いている。リクルートの主立ったサービスを人間のライフサイクル順に並べてみよう。リクナビ進学=受験、 フロムエー=バイト、リクナビ=就職、R25=25歳以上の就職、ゼクシィ=結婚、とらばーゆ=女性向け転職、スタッフサービス=人材派遣、 ケイコとマナブ=習い事、SUUMO=住宅……う~ん、スゴイ。全て一見さん商売だ。そのうち「終活」なんて名前のサービスも生まれるんだろうなぁ、きっと。……、これ、もちろん「葬式」のサービスですけど。

5月、日本にハフィントンポスト(以下「ハフポスト」と略)が上陸したこともあり、BLOGOS、アゴラといった「ブログとりまとめサイト=インターネット新聞」が、徐々にだが注目されつつある。7月には新書『ハフィントンポストの衝撃』(牧野洋、アスキー新書)が出版され、アメリカでハフポストが既存の新聞メディアを凌駕しつつある様子が紹介されている。既存の紙媒体をベースとした新聞の電子化が進んでいるが、ハフポストはこれらとも一線を画し、報道メディアとしての新しい魅力を放っていると報じている。そして、その魅力こそが新聞というメディアを根底から変容させつつあるとしている。

では、インターネット新聞の出現で新聞はこれからどうなるのだろう?あるいはこれらとどう棲み分けたらいいのだろうか?

新聞の限界

すでに様々な分野で指摘されていることだが、新聞というマスメディアの先行きがあやしい。年々発行部数が低下しているのはご存知の通り。この理由は、これまたさんざん指摘されていることだが、メディアの多様化、とりわけインターネットの普及によるところが大きい。インターネットによる報道のメディア性は様々な面で新聞と重複し、そしてその多くがネット情報の方にアドバンテージがある。例えば「速報性」。新聞は朝刊夕刊によって情報が発信されるわけでタイムラグがあるが、ネット情報は事件・出来事が発生すれば直後にその情報が流れる。Twitterなどではもはやリアルタイムといってもいい。次に「網羅性」。新聞はあまたある社会の情報をチョイスし、満遍なく掲載するという体裁を採るが、ネットはバラバラ。ただし、ユーザーが情報をチョイスすれば新聞と同じになる。しかも新聞以上に情報を幅広く入手可能だ。たとえばGoogleSkypeなどでマイページを作成すれば、自分のお気に入りの新聞、つまり自分が知りたいことの情報を網羅したコンテンツが出来上がり。しかも後はひたすらそこに情報がプッシュされてくるから楽ちんでもある。さらに、その気になれば新聞より深い情報にたどり着くこともできるわけで。では「一覧性」についてはどうだろう?これもやはりネットの方に利点がある。ネットは情報検索が面倒くさければ、ポータルサイトに利用しているようなサイトを見ればよい。たとえば日本ならYahoo!Japanのホームページがこれに該当する。これをポータルにしておけば、さながらテレビのヘッドラインを見るのと同じことになる。いや、項目は刻々と変化するので、テレビよりもさらに社会の動きをチェックするのは容易だ(前述のマイページなら、さらに知りたいことの一覧性はこちらのニーズに見合ったものになる)。

結局、こうなると新聞の取り分はかなり少ないように思える。では、どこが取り分かと言えば、それは「読み物として面白さ」ということになるだろう。ネットやテレビの情報は、いわば「生もの」。とにかくその中身はともかく、新鮮なことが重要。これは一日二回発信の新聞では到底太刀打ちできない(最近は夕刊もどんどんなくなっている)。一方、新聞の情報は、もはや「干物」の部類に属しつつある。つまり「生もの」とは逆。新鮮さはともかく、中身で勝負する点がポイントになる。だから、その筋のエキスパートや論説員に事件・出来事について事細かに解説させることになるのだけれど。だが、実は、これも結構苦しい立場にある。

一つは嗜好の多様化といった点がネックになることだ。つまり、今やわれわれの価値観や嗜好はバラバラ。ということは、これらのニーズ全てに対応しようとすれば、膨大な量のコンテンツが必要となる。だが新聞の紙面量には限りがあるゆえ、これに対応するというのは無茶な話だ。新聞はそれなりに対応しようとはしている。だが、そういった対応は、すればするほど自らを窮地に追い込んでいくことになる。多様なニーズへの対応を限られた紙面内でまかなうということは、言い換えれば記事ひとつひとつが細切れになると言うことを意味する。しかし、これは食べ物がなくなったタコが自分の足を食べ始めるようなもの。つまり、紙面細分化によって新聞の魅力であるコンテンツの豊かさが損なわれていくのだ。新聞は「読み物」ではなく、単なる「情報」「データベース」に堕していくのである。だが、それは中身の薄い情報。だから、面白さ=話の深みはなくなり、人は新聞から離れていく。

ブログとりまとめサイトの出現

さらに、弱り目に祟り目のような状況で出現したのがブログとりまとめサイト=インターネット新聞だ。BLOGOSやハフポストは、登録されたブロガーから旬な情報をチョイスし、とりまとめてあたかも新聞のように情報を提示する。それは、新聞よりも速報性が高いし、なおかつブロガーたちが自由に議論を展開している分、新聞よりも深い分析、興味を引くコンテンツの提供が可能になる。ハフポストの創設者、アリアナ・ハフィントンは、その編集方針としてストーリー性を重視しているというが、この方針こそ、かつての新聞が備えていたそれ。ということは「干物」としてのメディアの分野でも、こちらの側に持って行かれる可能性が高い。

新聞に残された道は

じゃあ、どうやったら新聞はこの先、生き残れるのか。それは、ネット、さらにブログとりまとめサイトと重複しない、あるいは重複してもアドバンテージのあるメディア性に特化するという点に求められるだろう。僕は可能性としては二点があると見ている。

一つは「コンテンツの幅」。これを縮めてしまうことだ。つまり、これまでの網羅性をやめる。そして、ある程度の分野にその方向性を限定し、その分、記事のボリュームを増やし、読み物としての深みを加えるスペースを割いていく。

もう一つは「コンテンツの質」。インターネット新聞=ブログとりまとめサイトはブロガーたちが自由にコンテンツを綴っているゆえ、その質については保証の限りではない(もちろん、サイト運営者が取捨選択しているが)。また、同じテーマに多くのブロガーが一気に記事を書いたりする(たとえば、近々ではオリンピック東京誘致決定がその典型だ)。こういった点を整理して、それなりに「識者」と呼ばれる人間に分析させ、読み物としての面白さを前面に打ち出すという方法が考えられる。ちょっと汚いことをやって、インターネットサイト新聞で質が高いと思ったブロガーをハンティングしてしまうという手もありだろう。この二つ、言い換えれば編集権を大幅に高めていくということになる。

ただし、これは新聞がこれまで持っていた「マスメディア」というメディア性の最も重要な要素をバッサリと捨てることでもある。それは総合的な情報の提供という役割だ。つまり、生き残る方法としてはよりマーケットを縮小した専門性をウリに、高品質な情報を提供することに求められる。

そして、最後に言えることは、やはり紙媒体としての新聞の未来は暗いと言うことだ。つまり、こういった「生き残りのための方策」も、紙という物理的な移動手段を必要とするメディアを利用する限り存続は難しい。だから、結局は既存の新聞はインターネット上で展開するということになるのではなかろうか。アメリカでは8月、Amazon.comCEO、ジェフ・ベゾスがアメリカ第五位の新聞ワシントン・ポストを買収したが、このベゾスの目論見は、おそらくこういったブログとりまとめ的なインターネット新聞に対するカウンターを考えているのではと僕は見ている。つまり、ベゾスはKindleを通じて新聞を販売、いや配信することで、既存の新聞のメディア乗り換えを狙っていると(もちろんワシントン・ポストがこれまで通りの編集方針を採用するというわけではなくなるだろう。つまり、僕が予想したようなやり方に編集方針をある程度はシフトするだろうけれど)。もしこれが功を奏するのであるのならば、新聞の未来は再び開けることになるし、ブログとりまとめサイトは新しい方向性の模索を強いられることになるだろう。
日本の場合、新聞販売店経由での配布という販売システムゆえ、アメリカの新聞のようにはドラスティックな変化はまだ起こってはいないが、こういったメディア性の根本的な変更を迫られる時期は、やはり早晩やってくるだろう。さて、そのとき日本の新聞は、はたしてどういう方向に舵を切るのだろうか。?

前回はイノベーションが「無から有を生むこと」ではなく「有と有から新しい有を生むこと」、つまりAとBを組み合わせることでAでもBでもない、創発性を持ったCを誕生させることであることを指摘しておいた。そして、これが芸術や発明の基本であることも述べておいた。

では、今回のテーマであるスティーブ・ジョブズはどうだろう?つまり彼はイノベーター、つまり
AとBからCを生み出す人間であったんだろうか?

「徹底した職務遂行能力」とはイノベーションのこと

アップルに16年間勤務した経験を持つ松井博氏は、ジョブズはイノベーターであると言うよりも「徹底した職務遂行能力」の持ち主であり、これがジョブズ復帰後のアップルの繁栄をもたらしたと指摘している。言い換えれば「徹底した職務遂行能力」はイノベーション=技術革新とは関連がないという視点だ。

はたして、そうだろうか?

ジョブズが97年にアップルに復帰後、はじめたことは「徹底した組織の整理」だった。さながら「不良が跋扈する底辺高校のようなひどい状況」(松井氏の指摘)、つまり、まったくといっていいほどまとまりのないアップルという企業(各自が勝手に開発をやっていた) に大鉈を振るい、組織を統合していった。また夥しい数の製品をプロ用ー一般用、デスクトップーノートという二つの軸によって構成される、たった四種類だけにしてしまった(Power Mac、iMac、PowerBook、iBook)。つまりジョブズが行ったことは、すでにそこにあった組織やプロダクトを取捨選択し、残ったものそれぞれに磨きをかけた上で統合し、さらにそれらをつなげて見せたのだ。残された製品群やコンセプトは、いうまでもなく、ジョブズ復帰以前から存在するもの。ところがこれをつなげることがアップルでは行われず、それぞれの開発が原子化していた。ジョブズはこれを恐怖政治を行うことで実現したのだ。これは「有と有の結合」。つまりイノベーションに他ならない。そして、これは松井氏の著書『僕がアップルで学んだこと~環境を変えれば人が変わる、組織が変わる』で表した内容そのものだ。つまり、松井氏自身、実は著書の中でジョブズのイノベーションについて語っていたことになる。

ドットをつなぐ

ただし、これだけでジョブズを秀でたイノベーターと評価するのはちょっとおかしい。この程度のことをやってしまう企業家、起業家は山ほどいるのだから(こういった「徹底した組織の管理」を行うイノベーターを知りたければTBSの番組『がっちりマンデー』あたりでも見ればいいだろう)。

では、ジョブズはどこが異なっているのか。

2005年、ジョブズはスタンフォード大学でスピーチを行っている。きわめて有名なスピーチで教科書にまでなるほどのものだったが、その冒頭、ジョブズは自らの生い立ちを興味深い表現で語っている。それは”connecting the dots”、つまり「点と点をつなげる」ということばに集約される。ジョブズはリード大学に入学したが半年ほどで中退してしまう。だが、その後18ヶ月の間ニセ学生として大学に居座った。ジョブズはカリグラフィーの授業に興味を持ち、もっぱらこれだけの授業に出席し続けたのだ。そこでジョブズが学んだのは書体、そしてプロポーショナルフォント(文字ごとに文字幅が異なるフォント)などのタイポグラフィーだった。

そして、この経験が84年に発表されたMacintosh(以下Mac)に結実する。ジョブズはゼロックスのパルアルト研究所で見たAltoというGUIマシーンに魅せられ、この開発スタッフを根こそぎ引き抜いてMacの開発に着手する。その結果、実現したものはウインドウ、マウス、デスクトップ、ポインタからなるAltoそっくりのマシンだった。ただし、全く違っていたところが二つある。一つはその大きさ。Altoは巨大だったがMacは運べるほど小さかった(実際、で片手で持ち運びができるよう、上部に取っ手がつけられていた)。そしてもう一つがカリグラフィーを反映したもの。つまりさまざまな書体、そしてプロポーショナルフォントだったのだ。ジョブズはこのスピーチで自分がリード大学でカリグラフィーの授業を受けていなかったら、マックが複数の書体もプロポーショナルフォントも持つことはなかっただろう。いや、現在のパソコンが美しいタイポグラフィーを持つこともなかっただろうと述べている。

ドットをつなぐとは、ようするに有と有を結びつけることに他ならない。そしてマックの開発にあたってジョブズはA=AltoのGUIをパクリ、B=カリグラフィーのフォントをパクリ、その結果C=マックという、その後(ただし、マックが発表されて十年後から)パソコンのデファクトスタンダードとなるようなOSのインターフェイスを開発したのだ。まさに、これはイノベーションに他ならない。

パラダイムを超える

そして、このイノベーションは既存のイノベーションとはその質を異にするものだ。通常、イノベーションはパラダイム、つまりひとつジャンルの中の有と有をつなぐ場合がほとんどだ。新しい料理を創作するにあたって、その食材を変えてみるというようなやり方はその典型。たとえば家系のラーメンであるならば、醤油ととんこつを合わせて「醤油とんこつ」という新しい種類をつくように(ともにラーメンというジャンル=パラダイムの範囲内のものを組み合わせている)。

一方、革新的なイノベーターは、パラダイムを超える、パラダイムを横断して有と有を結びつけるという作業をやってしまう。前回指摘したエジソンやビル・ビルゲイツはその典型で、前者は発明品=創造と特許=法律を、後者は発明品=創造と特許、そしてリースというビジネスモデルをつなぎ合わせている。つまりパラダイムを横断したかたちで新しい有をイノベーションしている(だから、画期的な成功を遂げたわけだ)。

そしてジョブズもこれと同じ。だが、ジョブズの場合はこのパラダイム間の振り幅が大きい。つまりコンピューターという「テクノロジー」とタイポグラフィーという「アート」という、常識的には考えづらい結合を行ってしまうのだ。そしてこういったパラダイム横断的なイノベーションを次々と生み出したのがジョブズだった。ちょっと、あげてみよう。

1.パーソナル・コンピューター:70年代、「マイコン」と呼ばれていたパソコンをディスプレイ、ディスケット内蔵の本体、キーボードという三点セットで売り出し、パソコンというジャンルを作り上げた。これはギークやナードのホビーであったパソコンをビジネスや一般家庭に持ち込むきっかけとなると同時に、その後のパソコンの基本スタイルを構築した。

2.Macintosh:デスクトップ上にウインドウ、ポインタを表示させ、マウスとキーボードで操作させるパソコンを世に問うた。また、巨大だったパソコンを10キロ程度に軽量化し、可搬性を持たせた。これによってパソコンはプログラムするのではなくアプリを利用するマシンというとらえ方を提示した。そして前述の書体が組み込まれた。

3.iMac:パソコンを一体型の透明な筐体に収め、インターネットへの接続を標準のものとした(LANケーブルが標準装備されていた)。それによってパソコンはインテリアとしての意味合いを含むものになると同時に、多くの人間をインターネットの世界に導いた。つまり、パソコンというジャンルとインテリアというジャンル、さらにネットの世界をつなぎ合わせた。

4.iPod:ハードディスクストレージ利用(後にメモリー)の音楽プレイヤーの世界を開いた。だが、単にそのようなマシンを売り出すのではなく、これを操作するソフトウエア・iTunesをセットにすることで、音楽というジャンルとコンピューター、そしてインターネットというジャンルをつなぎ合わせた。

5.iPhone:iPodという音楽、携帯電話、インターネットディバイス、そしてアプリを電話の形式の中に押し込んだ。これによってスマホというメディアが生まれ、その普及とともにインターネット社会の本格的な幕開けを導いた。

リベラルアーツ=テクノロジーとアートの交差点

こういった一連のパラダイム横断的な接合の基本的立場をジョブズはリベラルアーツ、テクノロジーとアートの交差点ということばで結んでいる(これは理系と文系の接合と言ってもいい)。つまり、ジョブズは常にジャンルという存在そのものを問うことを志向した。ジャンルを乗り越え、横断させて新しいジャンルを作ろうとしたのだ。しかもそのやり方は常に大衆へ向けてのもの、言い換えれば「テクノロジーをいかにして一般化し、誰もがアクセス可能なものにするか」を問い続けたものだったのだ。こういった視点でジョブズの仕事を見てみると、その方向性は見事に一貫していることがわかる(そしてそれこそがジョブズの美意識であり哲学であったわけだ)。99年に打ち出されたキャンペーンの”think different”というコピーは、まさにジョブズ自身のためにあったことばだったのだ。

アップルの未来~ティムクックに欠けているもの

2011年10月。ジョブズは逝去する。指導者亡き後のアップルの舵取りを行うのはティム・クックだった。そして、現在、アップルのイノベーションについては疑問が持たれるようになっている。なぜか?

クックはマネージメント能力に優れている。つまりパラダイム内のイノベーションが得意という存在だ。ジョブズ時代はパラダイム横断的な発想をするジョブズとタッグを組むことでその能力を遺憾なく発揮していた。だが、ジョブズ逝去後、アップルは新しいパラダイムシフトを世界に巻き起こすようなプロダクトを発表していない。ひたすらジョブズ時代の製品の洗練と焼き直しに甘んじている。そして、それは当然のことながらクックにはジョブズ的なイノベーションを生み出す力が無いということを意味する。だがそれは、要するに現在のアップルがリベラルアーツとして、常にジャンルを超えるというようなことはやれていない、一般企業とさして変わらない存在に成り下がっているということでもある。このことはジョブズ時代にはあった「アップルは次にいったい何をやるんだ?」という、パラダイムを根本から破壊してくれるようなワクワクした期待感をユーザーが得られなくなっていることが傍証している。

さて、ではアップルはどうなるのだろう?新しいパラダイムシフトを生み出すことができるのだろうか……それは未知数だ。しかし「宇宙に衝撃を与えること」に欲望を見いだしていた男が去った企業からすると、これはなかなか難しいことなのかもしれない。やはり、アップルはジョブズのイノベーションによって展開していた企業だったのだ。

そう、ジョブズは「とんでもないパクリ屋であり、ペテン師」だったのだ。でも、それは「とんでもないイノベーター」という表現と全く同じことなのだが。

元アップルのシニアマネージャーが指摘したアップルとジョブズの「イノベーションの無さ」

Apple本社で16年間勤務した経歴のある松井博氏が自らのブログの中で「アップルが失いつつあるもの」というタイトルの記事を掲載し、「アップルがそもそもそんなにイノベーティブな会社だったのか」と疑問を呈している(http://matsuhiro.blogspot.jp/2013/02/blog-post_10.html)。さらに「アップルはむしろ、ジョブズ復帰以前の方がずっとイノベーティブだったようにすら思います」とも述べている。で、僕はちょっとこの議論に引っかかった。

松井氏がやり玉に挙げるのは、なんとジョブズ自身だ(松井氏自身はジョブズが死去した際にブログに追悼文を掲載している。ただし、そこには彼がアメリカで働いていた頃の2000年台のジョブズの恐怖政治が綴られていたのだけれどhttp://matsuhiro.blogspot.jp/2011/10/steve-jobs.html)。ブログの中ではジョブズが生み出したプロダクトが次々とパクリであったと指摘している。iPod、iPhone、iPadは全てオリジナルではなく、それ以前に製品があった。いや、それどころかGUI(初代Macintosh以降に用いられているインターフェイスで、現在のウインドウのコンセプトを実現する際に基本となっているもの。これによってウインドウ、Mouse、ポイントの組み合わせが可能になっている)それ自体がゼロックスのパクリであると指摘している。そしてジョブズの強みはイノベーションではなくむしろ「徹底した任務遂行能力」にあったとしている。

松井氏はジョブズのイノベーションを当事者として語る場所にいたのだろうか?

松井氏は自らのアップルでの経歴(16年間勤務)と、自らアップルについての文献を発表していること(『僕がアップルで学んだこと~環境を変えれば人が変わる、組織が変わる』(アスキー新書、2012)、この二つを担保にこういった発言をされているわけなのだが(そして、もちろん、文献を売るために、出版社側が氏のこういった側面を前面に出したということもあるだろうが)、ちょっとこの担保にも僕は疑問を持った。というのも、この松井氏の発言と松井氏の経歴はあまり関連がないからだ。松井氏は2001年までは日本のアップルで、後の七年間は米アップルに勤めておられるが、ここでハードウェア製品の品質保証部門で働いていたとある。だが、これだとブログでの松井氏の指摘は、原則、「当事者」と言うよりもわれわれと同様、「外部者」からのものとなってしまうのだ。というのもGUIにしても、iPodにしても松井氏が米アップルに勤める前のものであるし、残りの二つは米アップル時のものであるが、松井氏が直接開発に携わったのではなく、あくまでも品質保証という分野に関わっているに過ぎないからだ(実際、『僕がアップルで……』の中で松井氏が展開されているのは、プロダクト開発それ自体ではなく、開発に関わるヒューマンリレーション上のマネージメントに関する内容だ。言い換えれば、開発の現場それ自体ではない。だから、この本は「ジョブズの哲学」とかではなく「松井博のアップル社という一企業でのマネージメント経験」に関するものなのだ。とりわけ後半の三章以降は全て)。

経験がなくても指摘はできる~ホテル・サファリの小林さんの例

といっても、僕は「経験至上主義」を振り回すつもりは毛頭ない。経験がなくても外部から本質的な指摘をすることは十分に可能だからだ(そして、これは今回考察しようとするイノベーション、クリエーションのあり方と関連するのだけれど)。たとえば、かつてエジプト・カイロのホテル・サファリというゲストハウスには、伝説のバックパッカーと呼ばれる「小林さん」という人物がいた。彼はこのゲストハウスに何年も滞在し続けたのだが、ほとんどそこから旅に出ることをしなかった。ところが、このゲストハウスを訪れる他のバックパッカーにバックパッキングに関する情報を適切アドバイスし続け、バックパッカーたちからは神のように崇め奉られていた(「小林君に会いに行くツアー」なんてのが組まれていたくらいだった)。じゃあ、なぜ彼が旅をほとんどしなかったにもかかわらず、バックパッカーたちに尊敬され続けたのか。それは、ここに宿泊するゲストたちから情報を仕入れ、これを適切に処理し、他のバックパッカーたちに提供していたからだ。佐々木俊尚的に表現すれば、小林さんは旅のキュレーターだったのだ。言い換えれば、どれだけ経験が豊富でも小林さんのように情報を整理し、相対化するような視点を持っていなければ、その情報の有用性は薄いということになる。

だから、僕は松井氏がアップルで働いていた経験などなくても、その指摘が的を射ていれば、そして説得力のあるものであるならば全く構わないと思っている。つまり松井氏の経験と議論はさしあたり関係がない。問題視したいのは議論そのものだ。そして、松井氏の議論は根本的な部分で大きな誤謬があると僕は考える。言い換えれば、小林さんのようには的を射ていないと思うのだ。そして、それがアップルとジョブズが「イノベーティブ」な存在ではないという指摘だ。なぜか?それは松井氏が「イノベーティブ」のとらえ方を根本的に間違えていると判断するからだ(もっとも、この誤謬は松井氏だけでなく、イノベーティブということばについて僕らの多くが陥ってしまう誤謬でもあり、松井氏もその一人であっただけとも捉えられるけれど)。

イノベーションは「無から有を作り出すこと」ではない

イノベーティブの名詞”innovation”は経済学者・j.シュンペーターが21世紀初頭に提唱した造語で「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」といった意味を持つ。イノベーションが起こることによって社会や技術に革新が起こるわけで、それゆえイノベーティブな存在とはこういった事態を促す能力を備えた組織や人物のことを指すことになる。

このイノベーションということばを持ちだすとき、僕たちはしばしば次のような誤謬に陥る。それは、この単語が「無から有を生み出すこと」であるとみなしてしまうことだ。残念ながら人間のイノベーション、そしてクリエーションには「無から有を生み出すこと」ということは、原則ありえない(これが可能なのは神によるクリエーションだけだ)。それは表現を変えれば、ようするに「全てはパクリでしかない」ということであり、パクリがイノベーションになるということでもある。

これはどういうことか?イノベーションのプロセスを説明しよう。


確認として誤りの図式から

× 0(ゼロ=無)→A(有)

つまり何もないゼロの状態から何かが突然、生成する。



一方、イノベーションは

○ A+B≠C かつ A+B<C、

すなわち C=A+B+α


となる。つまり、AとBを組み合わせることで、AでもなくBでもない、二つを融合したことでαが加わった(そしてAもBも変容した)新しいCが生成される。だから「新結合」「新機軸」などと呼ばれるわけだ。

過去のイノベーション、そしてクリエーションは全てこの図式が該当すると言えるだろう。つまり一つの技術や発想があり(A)、もう一方にまた別の技術や発想があり(B)、この二つを結合することで全く新しい技術や発想(C)が誕生する。「無から有が出現する」のではなく「有と有から有が出現する」のだ。言い換えれば弁証法的にしかイノベーションは発生しない(後述するが、否定弁証法的にもイノベーションは発生する。そしてそれこそがジョブズがやっていたことなのだけど)

これをパクリということばで言い直せばAをパクリ、Bをパクリ、これらを融合すると新しいCが生まれるということになる。当然A≠Cであり、またB≠CなのだからCは「当初はパクったけれども、最終的にはパクリではない」ということになる。

モダンアートというパクリ

こういったイノベーション、そしてクリエーションの図式を傍証してみよう。
例えばモダンアート。19世紀末、写真の普及によってそれまでの絵師(現在の画家)は職を失ってしまう。絵師たちの仕事は主として肖像画を描くことだった。だが写真というメディアがこれに取って代わってしまったのだ。そこで絵師は新しい身の置き所を考えなければならなくなった。
ではどうしたか?対象を写し取るだけなら絶対に写真には適わない。そこで写生にとらわれない描き方を思いついた。それがモダンアートの(そして画家という職業の)誕生だった。でも、その時、彼/彼女たちはどうやって描き方を思いついたのか?

いや、思いついたのではない。パクったのだ!そのパクった典型的なものが日本芸術(浮世絵)やアフリカ芸術(儀式の仮面や偶像などの技法)だった。よく知られているようにロートレックやゴッホの作風は浮世絵の技法が色濃く反映されている(ゴッホの作品『タンギー爺さん』では、その背後にたくさんの浮世絵が描かれている)。さらにピカソのキュービズム作品からはアフリカ芸術(黒人部族の仮面)を読み取ることができる。彼らは既存のアートにパクったもを付け足してイノベーション=クリエーションを起こしたのだ。そして、後続の画家たちはゴッホやピカソの技法をパクリ、さらに新しい技法を弁証法的に構築していったのだ。つまりイノベーション=有と有の組み合わせが生む新しい有=新結合というわけだ。

20世紀最初と最後の巨人たちによるパクリ

90年代、20世紀にはその初頭と末に一人ずつ巨人が誕生したといわれたことがある。ただし、アイロニカルな意味合いで。その時あげられたのが、初頭の巨人はT.エジソンであり、末のそれはビル・ゲイツである。「えっ?発明王と狡猾なビジネスマンをなぜ並列して並べるんだ?」と、訝しがりたくなるような組み合わせだが、二人がパクったことによって歴史に名を残したという点では全く共通だ。例えばエジソンの発明。これはほとんどオリジナルではなく、人のものをパクったものだ。その典型は白熱球で、これを開発したのはジョセフ・スワンである。ビル・ゲイツについては言うまでもなくほとんどパクリだ。出世作のBASIC、PCのデファクトスタンダードになったMS-DOS、Windows、どれもそれ以前に開発者が存在する。BASICについては60年代にダートマス大学が開発したBASICが、MS-DOSはキル・ドールが開発したCP/Mが、WindowsはMacOS(あるいはパルアルト研究所が開発したAltoの0Sが)といった具合に。

二人は既存技術と法律を結びつけ新しいビジネスモデルをイノベーションした

そしてこの二人に共通するのが、二人とも「法律に強かった」ことだ。具体的には人が開発したものを買い取り、特許を申請した。そして、それをあたかも自らの研究成果のように見せたのだ。で、こういったものこそを正真正銘のパクリというのだろうけれど、彼らにもイノベーティブな側面、つまり「有」と「有」を結びつけて、新しい「有」を生み出す力は存在した。それはパクリと特許という一件関係ない二つの有を結びつけて巨大な富を生み出すビジネスモデルを作り上げたことだ(とりわけゲイツはプログラムという商品を販売するのではなくリースするという商法を考えたことで世界一の大金持ちになったのだ。販売すれば儲けは一回だけれど、リースならただのプログラムをコピーして無限に設けることができるという新しいビジネスもでるをイノベーションした)。

さて、ジョブズである。ただ、ジョブズがパクったのであれば、こういった二人の巨人と変わらないことになる。いや、彼らのような狡猾なビジネスモデルをつくることが苦手なぶん、イノベーションは低いと言わざるを得ないだろう。

いや、そうではない。ジョブズのイノベーティブはこういったものとは全く別のところにある。そして、それはきわめてイノベーティブな、つまりイノベーションに富んだものだった。では、それは何か(続く)

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