佐野研二郎氏の東京五輪公式エンブレム使用中止を巡って「パクリ」についての議論がかまびすしい。はたしてあのエンブレムはパクリなのか?というのが、まあいちばんベーシックな論点だ。だが、「パクリ」とは何なのか。これが議論を巡って混乱しているように思う。今回はこれについて記号論的に考えてみたい。

パクリとは、さしあたり既存のもののコピーを指すのだが、実はこれだけではパクリを明確に定義したことにはならない。パクリを考えるには、その基本の作業であるコピー(これ自体ではパクリではない。しかしパクるためにはコピーは必要条件)と、それと対をなすもう一つの概念の「オリジナル」とは何かに立ち入る必要がある。

オリジナルは「無から有を生むこと」ではない

しばしオリジナルという考え方について間違った認識がまかり通っている。典型的で乱暴な俗説は「無から有を生むこと」という見方だが、これはあり得ない。世の中にそんなものは存在しないからだ。全ては既存のもの、つまりルーツを踏まえ、それを乗りこえていくかたちで新しいものを誕生させていく。音楽だったらロックはリズムアンドブルースをルーツにしているし、リズムアンドブルースはレイス・ミュージックを、レイスはバラッド等を、さらにバラッドも、という具合。ということはオリジナルとは「有から新たな有を生むこと」と読み替えた方が正鵠を射ている。佐野氏は松尾貴史との対談の中で「アートとは組み合わせである」的な発言をしていて、それが「パクリ屋」のイメージを助長するネタとして使われているようだが、このコメントはオリジナル、そしてアートのオリジナリティからすれば全くもって「まっとう」なのだ。

いくつか例を挙げてみよう。一つはアートシーン。1910年代、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックら初期キュビストと呼ばれる一派は新たなアート技法「パピエ・コレ(貼り付けられた紙)」開発する。これはいわゆるコラージュと呼ばれる手法で、新聞や雑誌、包装紙、切符、写真など既存のものを切り貼りして作成するアート。まり構成要素が全てコピー。だから作品の断片に、たとえば新聞記事の一部を読めたりする。で、これは斬新な手法として高く評価された。

次に音楽シーン。1996年に発表された奥田民生作品『これが私の生きる道』。女性ユニットPUFFYのために作られたものだが、このメロディ、ビートルズの「恋に落ちたら」「涙の乗車券」「デイトリッパー」などを切り貼りしたと言っても過言でない(これに加瀬邦彦の「マーシー・マイ・ラブ」の一部が加えられていると僕は判断している)。この曲が大ヒットしたことは、三十代以上の方ならご存じだろう。面白いのは本作品が切り貼りしただけなのに、どう聴いても奥田節にしか聞こえないことだ。PUFFYの脱力的なムードが奥田イズムを強力に演出したこともあるだろうが。これは「パクリ」どころか、奥田が敬愛するビートルズへの「オマージュ」と評価されている。

さて、この二つに共通するオリジナリティを比喩的に図式化すると

1+1<X

ということになる。

「1」というのは既存のもの。本来なら1+1で「2」であるはずなのだが、ここでは右に「X」という別カテゴリーの記号が配置されている。そして「=」ではなく、不等号の「<」が置かれている。つこれを文章化すると「既存のものと既存のものを組み合わせた結果、アウトプットされたものは単に二つを合わせたのではなく質的変容を遂げてしまい(つまり1→X)、しかも既存のものの総和以上(<)の新たな意味やメッセージを発する」ということになる。前述した二例は、まさにこのXを生み出したゆえに、高い評価を獲得したのだ。

そしてこのXについては、しばしば「創発」という言葉で表現される。つまりクリエイティビティを含んだオリジナルでアーティスティックな機能を備えたものとなる。これを作品の受け手の方から解釈すると次のようにパラフレーズできる。

「1+1=2のはずである。にもかかわらずアウトプットは2以外の、カテゴリーエラーで異なるXになってしまった。それは本来ならば(既存のコードからすれば)誤りである。ところが、この誤りを受け手側が否定することが出来ない。間違っているけれど抗い難い魅力を放っている(これは「異化作用」と呼ばれる)。そこでこのXを受け入れ、さらに自らのコードとして再構成しようという意味作用が発生した時、それは創発性を帯びる。これがオリジナリティの基本的なメカニズムで、これが一般に認識されると、今度はこれが既存のコードとなる。もちろんそのコードは次の製作者によって打ち崩されていく対象となる(つまり、今度は「X」に対する「α」という新しいコードが提案される)。この繰り返しが結果として文化を再生産しているわけだ。

このようにオリジナリティを考えた場合、コピーという作業は、その下ごしらえとしての必要条件と位置づけられる。つまり、オリジナルとは「コピーなきオリジナル」ではなく「コピーを踏まえたオリジナルなのだ」。だからコピー自体はニュートラルな行為であって、良いも悪いもない。コピーそれ自体は、必ずしもパクリとは言えないのだ。

ただし、ここにビジネスが絡んでくると話は変わってくる。こういった作品が経済的、あるいは社会的既得権を保証する財産、つまり著作権として出現する場合だ。これが絡んだ瞬間、コピーは純然たるコピーになったりパクリになったりする。しかも、これが必ずしも創発と関連しない。

タモリ「つぎはぎニュース」のリアリティ

コピーとパクリがゴチャゴチャに理解されていることを解消するために、ちょっと別の例を出そう。まだ著作権がいい加減だった1980年代前後。ニッポン放送で「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めていたタモリは、ラジカセや編集機器を利用し様々なものつくって見せたりしていた。で、これを利用してタモリは「つぎはぎニュース」というコーナーを設けた。これはカセットの編集機能を利用したもの。NHKアナウンサーの語るニュースをリスナーが勝手につぎはぎし、別のストーリーに変えてしまうのだ。

「この二十日から北京で始まった大相撲九州場所で牝馬の横綱輪島が、いきなり棒のようなもので頭を殴られ気を失っている間に大潮が十四回目の優勝を飾りました」

と言った具合。NHKアナウンサーの中立で無味乾燥的な語り(1)、そして文脈のおかしな報道(1)。それぞれはさして面白くはないが(1+1>Xといったところか)、この二つが合わさった瞬間、コンテンツは抱腹絶倒ものに変わってしまう。官制的な人間がそのトーンでナンセンスでふざけた内容を展開することで異化作用、つまり 創発(X)が発生するのだ。このコーナー、大人気となったが、突如中止になる。まあ、あたりまえのことだが、これがNHKの知るところなり、著作権でクレームがついたのだ。

つぎはぎニュースのこの顛末が示すのはパピエ・コレと奥田同様、コピーだけでもオリジナルが生まれるということだ。ただし、ここに著作権が生まれた瞬間、このコピーはパクリに転じてしまう。面白い面白くないに関係なく。

二つのパクリ

こうやって考えてみると「パクリ」というのは二つに分類することが出来ることがわかる。一つは前述の「著作権に抵触するもの」。どんなに組み合わせが面白かろうが、それはパクリと認定される。だが「つぎはぎニュース」のようにここに新しいものが生まれないわけではない。もうひとつは「そのままそっくり転用してしまうもの」。これはオリジナリティも何もないので、新しい文化を生むような可能性がない。ただし、ここに著作権が生じていなければ、パクリにはならない(ただし、著作権はアップした時点で自動的に発生する)。

整理しよう。以上から4つのパターンが考えられる

1.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=コピー
2.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=コピー
3.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=オリジナル
4.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=オリジナル
(「素材がオリジナル」ということはあり得ない。組み合わせがコピーの場合も著作権に触れる可能性はあるが、素材に比べればはるかに可能性は低い)

結局、法律も絡めると、この中でオリジナル(狭義の意味で)と認められるためには以下の条件が必要となる。

1の場合:素材も組み合わせもコピーだが、使用されるコピーが一般的に編集素材として用いられる際の組み合わせのパターンと異なったところからコピーされたものであること。

2の場合:1と同様だが著作権利用許可を取っていること。

3の場合:全てOK

4の場合:著作権の使用許可を取っている場合
これら条件に該当しない場合、全てパクリということになる。

佐野研二郎氏の作品群はどうか

この分類に基づいて佐野氏の作品パクリ度をいくつか分類してみよう。
サントリーの夏プレゼント「夏は昼からトート」のデザイン。フランスパンのもの(No.18)は、パン=素材はそっくりそのままコピー、組み合わせはオリジナル。引用元に著作権がなければ問題がない。そうであるならば条件3に該当するが、著作権はアップした時点で発生しているので×。創発性については……うーん。「Beach」の掲示版(No.20)は組み合わせはオリジナルだが、素材として使われている掲示板に著作権があるので×。

五輪エンブレムのプレゼン用に使った羽田空港の展示例。素材の空港写真には著作権があるので×。そもそもプレゼン用で組み合わせについてもオリジナリティ云々の問題とはならないゆえ評価の対象外。つまり純粋に×。アートではない。

au LISMOのマーク。黄緑塗りつぶしの背景は確かにiTunesのパクリに近い。ただし背景を黄緑に塗りつぶすことに著作権はない。人のシルエットに代えてリスを使うことで独自性を打ち出している。まあ、売ろうとする商品がほぼ同じなのでハイエナ感は否めない。この場合、オリジナリティは低いがパクリではない。よって△。このあたり、韓国や中国企業がよく使う手だ。

東山動植物園のマーク。コスタリカ国立博物館のロゴによく似ているが、ここまで単純化したものだと同定が難しい。家紋を参考にしたでも十分通用する。だから法律的には○だろう。だが創発性がないゆえ×。ま、こんなところになるだろうか。

さて五輪のエンブレムである。これはベルギーのシアターのロゴに酷似していると作者から訴えられている。でもこれ、どうだろう?エンブレムのデザインを行う際にはインスピレーションだけではダメで、理論、文法、情報を詰め込む必要がある。また、これらを集約した後に、さらにビジネス的に運用可能なものでもなければならない。ムードなんかで決まるものじゃないのだ。ということは、これらの集約後にはコンセプトが洗練され、結果、極端な単純化が図られる。佐野氏のエンブレムはこの手続きがしっかりと行われている。例えば機能性だけを見てもこれは明快だ。エンブレムはあちこちに添付されるので、小さくしてもモノクロ化しても明瞭でなければならない。でも、ここまで単純化すればハッキリ解る。最終案が並べられていた画像を見たが、これだけを見ても佐野氏のデザインは傑出していた。1964の亀倉雄策氏による東京五輪のデザインもしっかり踏襲するなど、抽象度も高い(祭り、富士山、扇子、桜がポイントになっているのはコンセプト甘過ぎで問題外。桜なら大阪万博レベルまで持っていく必要あり)。こういった機能はベルギーのシアターロゴにはない。もっと文法的に甘い。そして単純化は同定が難しい。結論しよう、五輪のエンブレムはパクリではない。

ただし、正直、このエンブレムを見た時、個人的には「イマイチ」と思ったことも確か。いいかえれば「1+1」と「X」の落差=差異がさして感じられないものでもあった。つまり、佐野氏はまっとうな仕事をしているが創発性が弱い。

でも、佐野氏が選ばれてしまったのは……政治的側面云々を抜きに考えれば他の候補案がそれほどまでに出来が悪かったということになる。つまり、日本のデザイン界のオリジナリティの欠如。う~ん……