ご存知のように、みのもんたが苦境に立たされている。テレビ番組『朝ズバ』でのセクハラ疑惑の火の消えないうちに、今度は息子の逮捕。一斉にバッシングの嵐が吹き荒れた。みのもんた側としては当分の間謹慎、そして報道番組(ワイドショー)出演の自粛という対応を現在行っている(バラエティは継続予定)。
みのをめぐるこの二つの事件?出来事?スキャンダル?僕にはとっても不可解なものに見えた。その不可解さを例によってメディア論的視点から考えてみたい。
みのをバッシングする理由、実はない?
まず二つの事件は実際のところはどうなのか?セクハラ疑惑については、女性アナの尻の上あたりに手が触れている(軽く叩いている)映像が存在する。だが、これがイコールセクハラに当たるかどうかは限りなく疑問だ(ちなみに、ここで僕が「セクハラ」と言うとき、本来の意味でのセクハラではなく、一般に使われるような、わいせつ行為について呼ばれる「セクハラ」を指している。セクハラとは、正しくは「権力関係を媒介にして性的嫌がらせを強要すること」だからだ。たとえば、女性の地位を維持するための交換条件として男性上司が性的な関係を強要するなどがその典型)。これをセクハラかどうかを判定するためには、その文脈=コンテクストを参照しなければならないからだ。つまり、みのにカラダを触れられた女性アナの側がそのことをまったく意に介していない、またみのも性的な意図を持って行っていない、ただのコミュニケーションの一つであったならば、これはセクハラには該当しない。もっとはっきりいえば、みのに性的な意図があったとしても、相手がまったく意に介していなければ、そもそもセクハラとはならない。現象=映像を見ただけでセクハラと判断するのはあまりに「思考停止」な即断と考えるべきだろう。こちらがその映像を見ただけでセクハラと決めつけるのは、はっきり言って大きなお世話と考えるべきなのだ。たとえば、タレントのおすぎはバラエティ番組に出演すると、しばしば女性タレントをハグしているが、そのことを誰もセクハラとはみなさないことを思い浮かべて欲しい。それは、おすぎがニューハーフであるために、この行為が性的な接触ではなくアメリカ式の儀礼、つまり純粋なハグであるというコンテクストが無意識に了解されているからだ。
息子の逮捕についても同様だ。31歳の息子が犯罪を犯して逮捕されたことについて、メディアの報道は、おおむね「みのは息子を甘やかしてバカ息子にしてしまった」という、これまた思考停止的な短絡を冒している。このことがおかしいのは、これまた、われわれが共有している一般的なコンテクストを踏まえれば容易にわかること。31歳の人間が逮捕されたとき、その原因を、もっぱら「親の責任」一つに集約してしまう発想は、人間が発達していく環境をあまりに無視した飛躍だろう。もちろん、親の影響が最も強いというのは、まあ考えられるが、みのの息子がもっぱら父親の庇護の下で育てられたかどうかは、かぎりなく疑問だ。一般的には人間の人格は自らが育った様々な環境の関数として成立するのだから。そして31歳という年齢はとっくに大人の域に達している。つまり、親の責任などはっきり言って「時効」。だから、先ず問われるべきは本人であって、そこに突然、親=みのの責任がクローズアップされるのはきわめて不自然な事態なのだ。
じゃあ、なぜ、ここまでこの事件がクローズアップされるのか。結論から言えば、その理由は、ひたすら「みのもんたのメディア性」に求められる。
今回の事件がみのもんた以外の人間に降りかかったとしたら
みのをめぐる二つの事件を相対化するために、この事件のシチュエーションはそのままに、キャスティングを変更して考えてみよう。つまりセクハラ疑惑、息子の逮捕はおなじだが、これが、たとえばNHKの普通の年配のアナウンサーだったらどうなるか?おそらく、ほとんどスルーだろう。前者については、その映像が映されても、実は指摘される可能性は薄い。むしろ番組内の打ち合わせ上の合図くらいにしか思われない可能性が強い。あるいはセクハラと指摘されたところで、その後、あっと言う間にフェイドアウトしてしまうのではなかろうか(詳細は後述するが、要はネタとして機能しないからだ)。また、息子の不祥事についても同様だ。この場合、息子が逮捕されたとしても、おそらくそのアナウンサーの名前がメディア上に登場する可能性は低い。
みののメディア性
だが、これがみのとなると話がまったく別になる。そこにみののマスメディア上の、そして有名人(あるいはセレブ?)としてのメディア性が付与されるからだ。みのは文化放送の局アナからフリーになり、フジの「プロ野球ニュース」の「珍プレー好プレー特集」のナレーションで再注目され、その後司会業として成功。「午後は○○おもいッきりテレビ」「みのもんたの朝ズバッ!」などに出演し、日本で最も忙しい司会者にまで上り詰めた。その口調は、いわゆる「上から目線だが、素人に阿り、権力をど突き倒す」というワイドショーの司会者の嫡流的な文脈に位置づけられる(おそらく、この嚆矢は六十年代後半「アフタヌーンショー」の司会を務めた桂小金治だろう)。こんな調子の司会業なので、原則「正義の味方」とでもいうべきパーソナリティになる。ただし、これだけ多くの番組に出演するようになると、上から目線といったスタンスは正直言って鼻につくという状態にもなっていただろう。実際、週刊誌では「夜の帝王」「傲慢」といった批判的、揶揄的な記事がしばしば目につくようにもなっていた。ところが、それはしょせん週刊誌なので、ゴシップの域を出ない。だからみの自身は、早い話が「わが世の春を謳歌」した状態にあった。
で、まあセレブの仲間入りというわけだが、ところがこの「傲慢、したり顔」的なパーソナリティゆえ、オーディエンスからは当然、「いけすかない」という印象も抱かれるようになる。つまり人々はジェラシーを抱くようになる。ただし、これをつつく場所がない。
そこに今回降って湧いた二つの出来事。これらは、こういった潜在的に広がっていたみのに対する「いけすかない」といった感覚を顕在化させ、バッシングの引き金を引かせるには十分なネタとなったのだ。だから、みのの場合、正しくは先ずはじめに「いけすかない」という文脈=コンテクストがあり、それを正当化するものとして「セクハラ」「親バカ」といった単語が持ち出されるかたちで二つの出来事のイメージが作られたのだ。
タレントは、やはり、最終的にはイメージがすべて
ただ、ここで面白いのは、「では、みのもんたとは実際にはどのような人間なのか?」についての言及が一切ないことだ。つまり、みのがアナウンサー、司会者、タレントという職業を通して演出しているイメージとしてのパーソナリティ、いいかえれば御法川法男演じる「みのもんた」というパーソナリティが先ずメディア上に展開され、それに対してオーディエンスとマスメディアもみのもんたというイメージによって御法川法男をバッシングした。これが今回の図式だろう。だから実際のみのもんた=御法川法男とは関係のないところで、どんどんと話が進んでいく。
僕らとしては、これら全てが、メディア上で「みのもんた」という記号を媒介に、ひたすら意識無意識のうちに形成されたイメージによって循環しているメディア・イベントとして理解するだけの周到さを持つべきだろう。もちろん、こういった有名人に関するネタは格好のコミュニケーションの肴ではある。誰もが知っているみのもんたの周辺でマヌケなことが起きたなんてネタなんだから、あのエラそうなみのを雑談上でこき下ろせば盛り上がる。で、僕はこういったことは下卑たことなのだと否定するつもりはないけれど、このネタがあくまでメディア上でメディアイベントとして勝手に回遊しているだけであること。一般的に火のないところに煙は立たないが、火があったとしても煙が立つとは限らないし、ましていわんや火事になるとも限らない。だが、これは火がみのであったがゆえに、こういったマスメディアとわれわれのヒマつぶしコミュニケーションの格好のネタとして無理矢理火事、場合によっては大火事として仕立てられたと言うことは自覚しておいた方がいいだろう。
とは言うものの、メディア上に登場する有名人は、もっぱらこういったメディア上のイメージを媒介に自らの評価が浮き沈みすることも受け入れなければならないのだけれど。
まあ、僕らもそろそろこういったゴシップは話の肴にすらならないどうでもよいものであると、自覚してもよい頃ではある。つまり、ネタとしても、もはやベタすぎておもしろくもないと。