勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ご存知のように、みのもんたが苦境に立たされている。テレビ番組『朝ズバ』でのセクハラ疑惑の火の消えないうちに、今度は息子の逮捕。一斉にバッシングの嵐が吹き荒れた。みのもんた側としては当分の間謹慎、そして報道番組(ワイドショー)出演の自粛という対応を現在行っている(バラエティは継続予定)。

みのをめぐるこの二つの事件?出来事?スキャンダル?僕にはとっても不可解なものに見えた。その不可解さを例によってメディア論的視点から考えてみたい。

みのをバッシングする理由、実はない?

まず二つの事件は実際のところはどうなのか?セクハラ疑惑については、女性アナの尻の上あたりに手が触れている(軽く叩いている)映像が存在する。だが、これがイコールセクハラに当たるかどうかは限りなく疑問だ(ちなみに、ここで僕が「セクハラ」と言うとき、本来の意味でのセクハラではなく、一般に使われるような、わいせつ行為について呼ばれる「セクハラ」を指している。セクハラとは、正しくは「権力関係を媒介にして性的嫌がらせを強要すること」だからだ。たとえば、女性の地位を維持するための交換条件として男性上司が性的な関係を強要するなどがその典型)。これをセクハラかどうかを判定するためには、その文脈=コンテクストを参照しなければならないからだ。つまり、みのにカラダを触れられた女性アナの側がそのことをまったく意に介していない、またみのも性的な意図を持って行っていない、ただのコミュニケーションの一つであったならば、これはセクハラには該当しない。もっとはっきりいえば、みのに性的な意図があったとしても、相手がまったく意に介していなければ、そもそもセクハラとはならない。現象=映像を見ただけでセクハラと判断するのはあまりに「思考停止」な即断と考えるべきだろう。こちらがその映像を見ただけでセクハラと決めつけるのは、はっきり言って大きなお世話と考えるべきなのだ。たとえば、タレントのおすぎはバラエティ番組に出演すると、しばしば女性タレントをハグしているが、そのことを誰もセクハラとはみなさないことを思い浮かべて欲しい。それは、おすぎがニューハーフであるために、この行為が性的な接触ではなくアメリカ式の儀礼、つまり純粋なハグであるというコンテクストが無意識に了解されているからだ。

息子の逮捕についても同様だ。31歳の息子が犯罪を犯して逮捕されたことについて、メディアの報道は、おおむね「みのは息子を甘やかしてバカ息子にしてしまった」という、これまた思考停止的な短絡を冒している。このことがおかしいのは、これまた、われわれが共有している一般的なコンテクストを踏まえれば容易にわかること。31歳の人間が逮捕されたとき、その原因を、もっぱら「親の責任」一つに集約してしまう発想は、人間が発達していく環境をあまりに無視した飛躍だろう。もちろん、親の影響が最も強いというのは、まあ考えられるが、みのの息子がもっぱら父親の庇護の下で育てられたかどうかは、かぎりなく疑問だ。一般的には人間の人格は自らが育った様々な環境の関数として成立するのだから。そして31歳という年齢はとっくに大人の域に達している。つまり、親の責任などはっきり言って「時効」。だから、先ず問われるべきは本人であって、そこに突然、親=みのの責任がクローズアップされるのはきわめて不自然な事態なのだ。

じゃあ、なぜ、ここまでこの事件がクローズアップされるのか。結論から言えば、その理由は、ひたすら「みのもんたのメディア性」に求められる。

今回の事件がみのもんた以外の人間に降りかかったとしたら

みのをめぐる二つの事件を相対化するために、この事件のシチュエーションはそのままに、キャスティングを変更して考えてみよう。つまりセクハラ疑惑、息子の逮捕はおなじだが、これが、たとえばNHKの普通の年配のアナウンサーだったらどうなるか?おそらく、ほとんどスルーだろう。前者については、その映像が映されても、実は指摘される可能性は薄い。むしろ番組内の打ち合わせ上の合図くらいにしか思われない可能性が強い。あるいはセクハラと指摘されたところで、その後、あっと言う間にフェイドアウトしてしまうのではなかろうか(詳細は後述するが、要はネタとして機能しないからだ)。また、息子の不祥事についても同様だ。この場合、息子が逮捕されたとしても、おそらくそのアナウンサーの名前がメディア上に登場する可能性は低い。

みののメディア性

だが、これがみのとなると話がまったく別になる。そこにみののマスメディア上の、そして有名人(あるいはセレブ?)としてのメディア性が付与されるからだ。みのは文化放送の局アナからフリーになり、フジの「プロ野球ニュース」の「珍プレー好プレー特集」のナレーションで再注目され、その後司会業として成功。「午後は○○おもいッきりテレビ」「みのもんたの朝ズバッ!」などに出演し、日本で最も忙しい司会者にまで上り詰めた。その口調は、いわゆる「上から目線だが、素人に阿り、権力をど突き倒す」というワイドショーの司会者の嫡流的な文脈に位置づけられる(おそらく、この嚆矢は六十年代後半「アフタヌーンショー」の司会を務めた桂小金治だろう)。こんな調子の司会業なので、原則「正義の味方」とでもいうべきパーソナリティになる。ただし、これだけ多くの番組に出演するようになると、上から目線といったスタンスは正直言って鼻につくという状態にもなっていただろう。実際、週刊誌では「夜の帝王」「傲慢」といった批判的、揶揄的な記事がしばしば目につくようにもなっていた。ところが、それはしょせん週刊誌なので、ゴシップの域を出ない。だからみの自身は、早い話が「わが世の春を謳歌」した状態にあった。

で、まあセレブの仲間入りというわけだが、ところがこの「傲慢、したり顔」的なパーソナリティゆえ、オーディエンスからは当然、「いけすかない」という印象も抱かれるようになる。つまり人々はジェラシーを抱くようになる。ただし、これをつつく場所がない。

そこに今回降って湧いた二つの出来事。これらは、こういった潜在的に広がっていたみのに対する「いけすかない」といった感覚を顕在化させ、バッシングの引き金を引かせるには十分なネタとなったのだ。だから、みのの場合、正しくは先ずはじめに「いけすかない」という文脈=コンテクストがあり、それを正当化するものとして「セクハラ」「親バカ」といった単語が持ち出されるかたちで二つの出来事のイメージが作られたのだ。

タレントは、やはり、最終的にはイメージがすべて

ただ、ここで面白いのは、「では、みのもんたとは実際にはどのような人間なのか?」についての言及が一切ないことだ。つまり、みのがアナウンサー、司会者、タレントという職業を通して演出しているイメージとしてのパーソナリティ、いいかえれば御法川法男演じる「みのもんた」というパーソナリティが先ずメディア上に展開され、それに対してオーディエンスとマスメディアもみのもんたというイメージによって御法川法男をバッシングした。これが今回の図式だろう。だから実際のみのもんた=御法川法男とは関係のないところで、どんどんと話が進んでいく。

僕らとしては、これら全てが、メディア上で「みのもんた」という記号を媒介に、ひたすら意識無意識のうちに形成されたイメージによって循環しているメディア・イベントとして理解するだけの周到さを持つべきだろう。もちろん、こういった有名人に関するネタは格好のコミュニケーションの肴ではある。誰もが知っているみのもんたの周辺でマヌケなことが起きたなんてネタなんだから、あのエラそうなみのを雑談上でこき下ろせば盛り上がる。で、僕はこういったことは下卑たことなのだと否定するつもりはないけれど、このネタがあくまでメディア上でメディアイベントとして勝手に回遊しているだけであること。一般的に火のないところに煙は立たないが、火があったとしても煙が立つとは限らないし、ましていわんや火事になるとも限らない。だが、これは火がみのであったがゆえに、こういったマスメディアとわれわれのヒマつぶしコミュニケーションの格好のネタとして無理矢理火事、場合によっては大火事として仕立てられたと言うことは自覚しておいた方がいいだろう。

とは言うものの、メディア上に登場する有名人は、もっぱらこういったメディア上のイメージを媒介に自らの評価が浮き沈みすることも受け入れなければならないのだけれど。

まあ、僕らもそろそろこういったゴシップは話の肴にすらならないどうでもよいものであると、自覚してもよい頃ではある。つまり、ネタとしても、もはやベタすぎておもしろくもないと。

もはやメディアの王様ではない

かつて「メディアの王様」と呼ばれていたテレビ。しかし、近年、その失墜は著しい。どんどんとテレビ離れが進んでいるのが現状だ。僕は、講義を受けている学生たちに、毎年「テレビとインターネットのアクセス時間はどちらが多いか?」という質問を投げかけているのだけれど、今年、遂にこの比率が逆転した。ネットアクセス時間の方が多くなったのだ。これはおそらくスマホの普及が大きく影響している。ちなみに受講学生のスマホ所持率は六割強(昨年同時期は四割程度)だった。

視聴率低下→収益減少→制作費削減に伴う番組の質の低下→視聴者のテレビ離れという負のスパイラル

インターネットが開けてしまったパンドラの箱は、おそらく「嗜好の多様化」ということばで括ることができるだろう。どんな場所にいてもネットに接続すれば、自分の知りたいものにほぼアクセス可能というインフラが構築されれば、人がお仕着せではない好みの情報にアクセスするようになるのは必然。そして、それへのアクセスがスマホというウエアラブルで手軽なメディアツールによっていつでも可能になれば、一層そちらへのアクセスに拍車がかかる。

嗜好の多様化は必然的にマスの解体という事態をもたらす。となると、その名の通りのマスメディアという、マス(=均質な巨大集団)を対象にしたメディアは厳しい状況におかれることになる。とりわけ最も巨大なマスメディアであるテレビのそれは深刻だった。

言うまでもなくテレビの収益は広告収入、つまりCM放送料に依存している。そして、その価格は視聴率によって決定されている。だが、嗜好の多様化によって人々がテレビ離れをおこし視聴率を低下させれば、当然テレビ局の収入は減少する。またインターネットなどのより効率的な広告に企業が切り替えクライアント離れが起これば、これとの競合で放送料もディスカウントしなければならなくなる。となると番組制作費の削減を余儀なくさせられる。だが、そうなると今度は番組コンテンツの質が低下する。その結果、視聴者はつまらない番組などスルーするようになり、一層の視聴率低下が起こり、さらに収益も悪化する。

人材の質の低下の側面も同様に発生する。かつてメディアの王様だったテレビは、黙っていても優秀な人材が寄ってきた。テレビ局からすれば人材は「買い手市場」だった。ところが、こちらについても職種の多様化が進み、テレビ局のブランドも低下したため、外資系や海外、さらには趣味の領域での仕事など、様々な分野に人材が流れていくようになった。それが結果として、どこの民放も異口同音の番組編成、つまり同じタレント(得てして若手のギャラがあまりかからないお笑い芸人)ばかりの出演、トーク番組の多発などといった平板で凡庸なプログラムのオンパレードという事態を生んだのではなかろうか。

テレビは今や、こういった負のスパイラルの中にあって、マスメディアとしての立場を悪化させつつある(いちばん影響を受けていないのは、おそらく視聴率ではなく受信料で経営を賄っているNHKだろう。で、僕は今いちばん面白いチャンネルはNHKだと踏んでいる)。

だが、このスパイラル。現在の収益構造を維持する限り終わることはないだろう。ならばテレビ局は何らかの手立てを打つ必要がある。では、どういったところに、この処方箋を見つけることができるのだろうか?

マスのパラダイムシフト

そこで、戦略と戦術、それぞれについて提案することにしよう。
先ず戦略。ポイントはテレビが「マス」という立ち位置を一旦取り去ってしまうことだろう。テレビはいわは「スーパーマス」、つまり数百万~数千万単位を視聴者を対象としたコンテンツを作成している。だが、これによって提供する情報はこれらスーパーマスに細かく配慮したものになる。それは結果として万人向けの総花的な「当たり障りのないもの」になると同時に、構成に一貫性がなくなり「曖昧なもの」にもなった。さらにどの曲も同じような方針を採ったので、差別化が難しくもなってしまった。つまり平板で面白くないコンテンツが目白押しという事態を生んでしまったのだ。そして、これに予算の削減と人材の流出で拍車がかかっているというのが現状だ。

企業文化を売ること~リピーターの獲得

しかし、多様化の中でスーパーマスが消滅していく(一時的に出現することはあったとしても)ことは時代の趨勢だろう。そこで、お得意様を取りこむというやり方が代案として考えられる。つまり、はじめからある程度、視聴者を限定してしまうのだ。だが、たとえば「情報、教養、娯楽番組の配分変更によって視聴者を呼び込む」といった付け焼き刃的なやり方ではダメだ。つまり、顧客の限定はジャンルを特化することを意味するのではない。むしろ局のブランド、イデオロギーを売ること。言い換えればテレビ局のやりたい方針に基づき、それを視聴者にそれを提案することを指している。模倣すべきはユニクロ、ディズニーランド、スターバックス、アップルだ。これら企業に共通するのはリピーターの存在。そしてリピーターは商品やサービスが良質ゆえというよりも、その背後にあるイメージ、企業が提供する物語に共感し、これを共有したいがゆえに商品を購入し続けている。つまり、ユニクロは廉価だからではなくユニクロというライフスタイルを、ディズニーランドはアトラクションではなくディズニー世界を、スターバックスはコーヒーではなく”第三の空間”というイデオロギーを、そしてアップルは徹底したミニマリズムと独自のインターフェイス、商品群によるデジタル・エコシステムを欲するがゆえに、商品に食指が伸びるのだ。これら企業では商品群の背後にあるイデオロギーは常に一貫している。ちなみにこれは八十年代に展開された記号消費的マーケティングの延長線上に位置する戦略だ。ただし、八十年代のそれは単に「モノで釣るようなやり方」だった。アドホックに商品に記号をつけていただけで、マーケッター主導の、企業の思想や理念が反映されていない、つまり文化を売ってはいなかった(それらしいことをやったといわれるセゾンも、今思い返してみればタダのバブルで、実に中途半端だった)。一方、21世紀のそれは商品間に物語が奏でられ、時代に合わせて変容していくもの。そして消費者はこういった企業文化を購入し、自らのアイデンティティーに組み入れていく。だから消費者は、これら企業とずっと関わり続けていく。それが結果としてリピーターという顧客を生むのである。

TVも同じやり方をするべきだろう。では、どうするか。それは、まず、いったん「視聴者への気配りをやめること」「インターネットを無視すること」、そして「自らのアイデンティティーについて振り返ること」。つまり、先ず足下を確かめることだろう。具体的にはテレビ局がどういった方針でコンテンツを提供するかについて明確な指針を打ち出し、これを詰める。それは、たとえば人材の育成に至るまでの徹底差が必要だ。そして、これに基づいて番組編成、コンテンツの制作を行う。要するに視聴者に対し、自らの色=一貫性を打ち出す。

こうすることで、視聴者はコンテンツそのものより、こういった局のスタイルに親密性を覚えるようになる。「あの局の○○を見たい」ではなく「あの局だから見たい」への変化だ。その時点で初めて、局側としては、こうやって取りこんだ視聴者への気配りをはじめる。また、この方針に基づいてインターネットとの関わりについて戦略を考える。僕は本稿の冒頭部で「今、いちばん面白いのはNHK」と書いておいたけれど、それは、ここまで指摘してきたことを、結果としてNHKが実践していることによる。つまり受信料に支えられ、視聴率に振り回されないがゆえに「みなさまのNHK」という企業文化を視聴者に発信し続けることが可能になっているというわけだ(胡散臭がる人もいるけれど、それも企業文化の一つではある)。

結局、これはテレビ局の哲学をはっきりさせるというところに話は集約されるだろう。しかし、これ。よくよく考えてみればジャーナリズムのあるべき姿に戻っただけのことなのだけれど……。

プッシュ型メディアの特性を生かす

次に戦術面について。これはTV独自の特性を活用する点がポイントだろう。テレビとインターネットのメディア特性の違いはプッシュ・メディア、プル・メディアのそれだ。テレビはやはりマスメディア。同時に不特定多数の視聴者に情報発信が可能だ。一方、インターネットは情報アクセスが原則。情報の授受はユーザーの主体性=任意に委ねられている。SNSやプッシュ機能によってインターネットも次第にプッシュ・メディアとしての特性を有するようになっているが、マスというレベルでは、そのプッシュ性はテレビにはかなわない。

こういったプッシュ性が得意とするところはアジェンダ・セッティング=議題設定機能だ。つまり、話題を不特定多数に拡散するという点でテレビが圧倒的に優れたメディアであることにかわりはない。たとえば、何らかの話題がインターネットで盛り上がったとしても、これをテレビが取り上げなければ社会大の話題にはならないが、逆にテレビが取り上げることによって、インターネットがこの話題を拡散させることはよくある話だ(その典型的な例は、かつて2ちゃんねる上の掲示板で盛り上がった「電車」男だった)。つまり、話題を投げかけるメディアであることを旨とするのだ。

そして、これは企業文化を売る=提案型メディアとしての活動という、前述した戦略とよく馴染む。つまりブランドとしてのイメージを議題設定によって拡散し、物語を提供し続け、リピーターを獲得するわけだ。いいかえれば、テレビがこれから目指すべきは「啓蒙するメディア」ということになろうか。

ということで、テレビ局。視聴率に拘泥するのではなく、そろそろ自らのメディア性を踏まえつつ、独自とスタンス、つまり企業文化を発信する時期に来ているのではないだろうか。そして、そうすることが、実はメディア変容の中で生き残る最も有効な手段なのではなかろうか。

世界に向けたNHKのBS放送

「NHKワールド」という存在をご存知だろうか。これはBSを利用してNHKが世界中に配信しているプログラムで、NHKが制作するコンテンツの一部(主にニュースと日本の紹介)を世界各国で視聴することができるというもの(テレビドラマなどのコンテンツが含まれるとNHKワールドプレミアムになる。料金別途で、これは主として海外在住の日本人を対象にしている)。90年代、海外旅行に行ってホテルのチャンネルをいじると、よくこのチャンネルを見つけることができた。

NHKワールドは次第に普及しはじめる。タイを例にとってみよう。当初こそ高級ホテルのTVで見られる程度だったのだけれど、その内、中級ホテルでも視聴可能となった。ちなみに有料なので、これはホテル側がサービスとして導入しているということになる。

ところが、ここ数年、ホテルのチャンネルをいじってもNHKワールドが見当たらないというのがフツーになりつつある。BBCとかHBOとかStarTVとかは相変わらず入っているにもかかわらず。また、以前は見ることができたホテルでも見られなくなっているというところが増えている。まあ、おそらくホテルの側が費用対効果的な側面からNHKワールドの受信を打ち切ったのだろう。でも、なぜ?

貧相なコンテンツとWi-Fi環境の普及

で、よーくよく考えてみると、何となく納得がいかないこともない。そういえばNHKワールド、知らないうちに全然見なくなっていたのだ。旅行者の間でもNHKワールドの話を、最近はとんと聞かない。

その理由は二つあるだろう。一つはコンテンツの問題。ニュースばっかり流し続けているのだ。しかも同じやつを何度も。その他のコンテンツはベタな日本文化の紹介で、これはいずれも英語放送。あくまで「文化紹介番組」なので全然おもしろくないのだ(やたらと京都の話が出てくる。ムダに海外に向けて日本の怪しげなステレオタイプをバラまいているとしか思えない。つまり「ゲイシャ、フジヤマ、アキハバラ、サムライ」。見ていると、時々赤面してしまうことも(^_^;))。コンテンツが貧相なのが見る気を喪失させる原因というわけだ。

しかし、大きいのはもう一つの理由の方だろう。それはほとんどのホテルにWi-Fi環境が整ったこと。旅行者はパソコンやタブレットPC、あるいはスマホを持ち込むようになった。これでWi-Fiに接続すれば、日本の情報や日本語でのヒマつぶしはあらかた用が済んでしまう。なので、テレビなど見ているヒマなどない。

また、ネットならば見たいときに見たい情報をすぐにチェックできる。ところがテレビだとそうはいかない。テレビ番組表をチェックし、それにあわせて自分がテレビの前にやってこなければならない。これじゃあ、勝手気ままに過ごすという、旅の醍醐味は台無しになる。一方ネットはそうじゃない。見たいときに開けば、それでいいのだから。ということでNHKワールドはWi-Fiを整えたインターネット環境に完全に食われてしまったのではないかと、僕は考えている。実際、僕もホテルの部屋ではネットを繋ぎっぱなしだ。もちろんテレビを全く見ないというのではない。時々は見るけれど、それはBBC、そしてHBOなどの映画チャンネルだ。

そう、要するに旅行者にとってNHKワールドというTVプログラムはもはやお役御免、オールド・メディアと位置づけられてしまったのではないだろうか。インターネットの時代ではメディアの機能の移り変わり、栄枯盛衰はものすごい勢いで進んでいく。

2004年の夏、タイのホテルで、イチローの年間最多安打到達がいつかいつかと毎日NHKワールドをチェックしていた頃が懐かしい。

タモリの話芸に介入したNHK

ここまで高岡蒼甫の「フジテレビちんたら批判」をヒントに、現在のテレビ業界が制作するコンテンツが、いかに怠慢なものであるかを示し、その問題点が、視聴率低下に伴う低予算化にあぐらをかいて、制作側が創意工夫をしていない点に求められることを指摘してきた。そして、前回では、それを打破する、つまり低予算でも創造力豊かなコンテンツを作ることの出来る典型として「タモリ倶楽部」を取り上げた。

タモリと制作側が四つに組む「ブラタモリ」
そして、このタモリ倶楽部を「天下のNHK」がパクり、しかもそのパクリをタモリ自身にやらせたのが「ブラタモリ」という、タモリが散歩する番組だった。この手の芸人が散歩して、その地区を紹介したりする番組には、地井武男の「ちい散歩」が有名だが、ブラタモリはこれよりさらに先を行く。

NHKの「ブラタモリ」は、「タモリ倶楽部」で漫画家の江川達也と行っている特集「タモリ地形クラブ」を、そのまま踏襲したものだ。ただし、そこは「天下のNHK」で、カネのかけ方が全然違う。タモリに街(東京、横浜)の一部を歩かせ、それが元々どういう地形だったのかを探索することでこの番組は進行するのだけれど、ここでタモリが気づいたこと(稜線についてや、川のあった跡など)をもとに、制作側はかつてここにあった地形と生活をCGで再現するのである(時に、タモリの事実誤認があったりすると、テロップで修正が入るというのが、おもしろい)。ここでは、タモリというストーリー・テラーのイマジネーションを技術で具現化=ヴィジュアル化し、見事な「生もの料理」制作をする(厳密に言えば「過去の街並みという干物をCGという水で元に戻す」)という作業をNHKのスタッフが行っているのだ。そうすることでタモリの類い希なる観察=洞察力と、NHKスタッフの技術力=想像力ががっぷりと四つを組む。

生ものをどうやって生かすかの想像力が求められている

そう、ここまで批判してきた一連の民放番組に欠けているのは、こういった「生ものをどう料理するか」についてのスキルに他ならない。だから、もし、制作側にこれがあるのならば、もちろん韓流ドラマを取り上げても、それは全く構わないだろう。ポイントは、それをただ流すのではなくて、これを流すことで自らの制作アイデンティティとどう絡ませるかにある。そして、そのアイデンティティとの関係で、番組の放送をどう工夫するかにあるからだ。

民放番組の想像力=創造力。民放局はもうちょっと考えて欲しい。このまま同じことを続けるようであれば、テレビ離れがますます進み、それが一層の低予算番組制作を余儀なくされる状況を作るという「負のスパイラル」を生じかねない。そう、問題なのは低予算なのではなく、制作側が、どうやって面白い番組を考えられるかに、当然ながらその結論はたどり着くのである。

(すいません、ブログの掲載順を間違えました。一昨日の続きです。昨日の続きは明日の予定)

ここまで高岡蒼甫の「フジテレビちんたら批判」をヒントに、現在のテレビ業界が制作するコンテンツが、いかに怠慢なものであるかを示し、そういった状況の典型を示すために、最近の「お手軽番組パターン」のいくつかを提示してきた。だが、これらのパターンはM.マクルーハンの指摘するテレビのクールなメディアとしての特性、つまり「生もの」としての魅力の潜在性は有している。それゆえ、これらパターンに工夫を加えることで、これらのパターンであったとしても魅力的なコンテンツを作り上げることは可能だ。そこで、どうやるかについて考えてみよう。

タモリ倶楽部とブラタモリ

典型的な恒例はタモリの看板を掲げた番組に見ることが出来る。

テレビのクール・メディアという特性を最も生かすことが出来るのがスポーツ中継であることを前回指摘しておいた。スポーツ中継は何が起こるかわからない。そして視聴者は、未来において想定させる、その「何か」を期待しつつ、そしてその何かを妄想することでテレビに釘付けになる。

「適当」がナマのダイナミズムを生む

これをナマではなくて、テレビコンテンツとして展開する方法をすでに三十年近く続けているのがテレビ朝日『タモリ倶楽部』だ。この番組は、予算を徹底的にかけないことをこれまでポリシーにしてきた。スタジオ撮りは一切なく、全てロケ。しかも、タモリが忙しいので一回につき二度取りということまでやっている。そして、簡単な設定があるだけで、あとはタモリとゲストのトークで時間がだらだらと流れていく(中間に「空耳アワー」を挟むが)。

これは一見すると、ここまで批判してきた、最近のバラエティ番組のやり方と同じだ。簡単な設定だけを用意して、あとは流れるままにビデオを収録する。だから、これもヒドイ番組と言ってもいいかもしれない。

ところが「タモリ倶楽部」はこれらとは根本的に異なる点がひとつある。それは、この「いい加減さ」を意図的に徹底しているという点だ。タモリの座右の銘である「適当」というポリシーに基づいて、制作側もゲスト側もとにかく適当に番組を展開するのだ。つまり、矛盾する話だが「適当を徹底的にやる」。

構成も全く同じ。最初にタモリが道端や施設の前で番組の始まりを宣言すると、そこに偶然居合わせたかのようにゲストが登場する。もちろん、すべてヤラセだし、視聴者もこの「お約束」を知っている(ここはホット)。そしてタモリやゲストがお題を巡って、どうでもいいとすら思えるトークや「講釈」を延々と展開するのだ。

しかし、この番組はこの「適当の徹底」にある。呼ばれているゲストは一癖も二癖もある、「口達者」な連中。江川達也、井筒和彦、真鍋かをり、原田芳雄、向谷実、水道橋博士、高橋ユキヒロ、岸田繁、山田五郎などなど。この連中が、本当にどうでもいいネタをお題に丁々発止を繰り広げる。取り上げられたものは、中華鍋、サワー、ド下手な演奏を収録したレコード、台湾日帰り弾丸ツアー、地形、鉄道物、ラーメン屋での飲酒……とにかくどうでもいいトリビアな、そしてほとんど誰も知らないようなネタを取り上げるのだけれど、これが、タモリと、このゲストたちのお題となった瞬間、本当にどうでもいいことがリアリティを生み始める。ゲストたちは、お題に次々と訳のわからない発想を繰り広げていくのだ。そして、視聴者はタモリとゲストたちが何を言い出すのか判らないので、それを期待して画面に釘付けになる。

いわば、収録でありながら、ほとんどロクな編集もせず流すわけで、編集する側は実に“手抜き”。だが、これを、実は編集側ではなく出演者側が編集しているのだと考えた瞬間、この番組はえらく手の込んだコンテンツになるのだ。つまり、話が本当にうまい(そして蘊蓄すらある)連中の「トークの料理さばき」を視聴者たちは見学することになる。だから一挙手一投足ならぬ「一声、人講釈」に目が(耳が?)離せない。

だが、こんな構成だから、この番組はタモリが存在しない限り絶対に不可能ということでもある。つまりディレクター=タモリとみなさない限りはこの番組はどうしようもない。ところが、このタモリのディレクター的才脳と工夫を「生もの」として、これを編集することで、新たな境地を開いた番組がある。それがNHKの「ブラタモリ」だ。(続く)

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