勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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(※今回のブログは僕からみなさんへのお年玉。新年会の小ネタとして利用していただければ盛り上がること請け合いのコンテンツです(笑))

ちょっと違った視点からTV視聴率のあり方を考えてみよう

テレビ局の勢力交代が著しい。80年代、飛ぶ鳥を落とす勢いだったフジテレビが凋落し、その一方で、かつてほとんどオマケ扱いをされていたテレ東の進境が著しい。これは、かつてテレ東を除いてキー局では最下位だったテレ朝も同じだ(「限りなく東京12チャンネル(当時のテレ東名)に近い」と揶揄されていた)。その理由として挙げられるのがコンテンツの問題だ。テレ東がその典型で『YOUは何しに日本へ?』『孤独のグルメ』『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』といったヒットを次々と飛ばしている。その一方で、フジテレビにはこれといったコンテンツがない。ま、こんな感じだろう。

確かにこういった指摘は否定できない。ただし、今回はちょっと視点を変えて、全く異なったところからテレビ局の勢力図変化の理由を考えてみたい。しかもきわめてメディア論的に。

突然偏差値が上がった僕の所属する学部

僕の勤めている大学の学部は今年度の入試で突然、偏差値がアップした。つまり応募者が増えた。じゃ、中身=コンテンツが変わったからかと言うと、そうではない。変わったのは看板。僕の所属する現代社会学科は「文学部」の一学科として位置づけられていたのが、これが独立し「社会学部社会学科」となったのだ。つまり形式=フォルムが変わった。こうすると入試の偏差値表で社会学部の欄に掲載されるのだ。つまり、「あの大学、社会学部あったのね」ということになった。教育内容、そして募集定員も変わっていないのだから、理由は恐らくこれくらいしか考えられない。そういえば、FとかBFランクの大学が受験者を増やそうと、必死にその中身=コンテンツの充実に力を入れているけれど、ほとんど功を奏していないという話を聞く。まあ、「なんだかなあ」というか、「そんなもんかな」という感じではある。要は中身=コンテンツではなく形式=フォルム、つまりメディア性によって人気というのは左右されるのだ。

テレビのリモコンに着目する!

で、テレビ局である。ここではあえてコンテンツを一切無視して考えてみたい。
ご自宅にあるTVのリモコンを手に取ってみて欲しい。ボタンレイアウトの基本構成は1.左上に電源ボタン。これは基本右手で操作することが前提とされているから。右上だと、あたりまえの話だが親指を右上に持っていくという作業がひとつ増えて面倒。左上ならリモコンを握った右手親指をいちばん伸ばしたところにあるのでラクなのだ、2.その下にチャンネル選択ボタンをメインの利用用途としたテンキーがある。で、問題はこのテンキーなのだ。

テンキーは左→右で一列目が1、2、3、二列目が4、5、6、三列目が7、8、9、四列目が10/0、11、12となっている。

さて、ご存じのように、キー局のTVの割り当ては以下のようになっている

1=NHK
2=NHKEテレ
4=日テレ
5=テレ朝
6=TBS
7=テレ東
8=フジ

5という究極のポジションをゲットしたテレ朝

この配列、つまりメディアの形式が視聴率とダイレクトに関連しているのではないか?
再び、あなたが手(右手)に取っているリモコンを見てほしい。今、あなたが握っているリモコンで、何も考えずその上に親指をおいたら、どこに行くだろうか?……当然5、つまりテレ朝になる。つまり、テレ朝はリモコンのポータル。これで勝ちである。

親指の扇形の動きにフィットするテレ東=7

そしてリモコン・テンキーの操作は5を中心に展開することになる。このホームポジションで親指に負担なく移動が可能なキーは3と7、そして1である。手のひらはリモコンを握っているので、何気に親指を動かすとそれは90度の扇形で移動する。だから5から下へ移動すれば、そこは7、つまりテレ東になる(テレ東さん、おめでとうございます)。1は指をちょっと左上に伸ばすだけ。(NHKさん、よかったですね)。

横の動きで快適にザッピングできる日テレ=4とTBS=6

じゃ、4=視聴率で三冠の日テレはどうなんだ?6=TBSは?これは5の左右に平行してキーが配置されているので、指の動きとしては移動がラクなことが勝因に繋がっている。

パソコンの日本語キーボードには英語の配列とJIS配列の2つが印字されているが、今どきJIS配列なんて使っている人間がいるんだろうか?でも、よく考えてみて欲しい。英語配列での日本語入力はローマ字。母音以外は原則2ストロークを必要とする。ところがJISは、たとえば二段目を見てもらえばわかるが「たていすかんなにらせ」とあり、1ストロークで入力が完了する。入力数のエコノミーからすればJISが覇権を握ったはずだ。でも、そうはならかった。なぜか?理由は簡単。ひらがなは46あり、これを全て配列するとキーボードの四段を占めることになる。これ、メチャクチャ打ちづらいのである。特に第一段目と四段目の間が遠すぎる。つまり楯の動きがやりづらい。だからローマ字にして上下移動は三段に限定し、より移動が簡単な(というか5本の指を使うので移動の必要がほとんどないんだが)横の動きでこれをまかなうというスタイルが普及したというわけだ。

4=テレ朝と6=TBSは要するに、5がホームポジションゆえ、この「横の御利益」を得たというわけだ。つまり「とりあえずボタンを押すと5。でも、コンテンツがイマイチ。そんな時、とりえずザッピング、さらにはフリッピングする対象として選択されるのが横の動きに対応した両隣の4と6なのだ。とはいっても、その動きは4→5→6、あるいは6→5→4となるので、結局、いちばんお得なポジションにいるのはテレ朝なんだけど。

三段目真ん中という最悪なポジションにあるフジのボタン

さて、件のフジである。フジはアナログからデジタルへの移行に当たって、フジのアイデンティティである8という数字にこだわったのだろうか、地上波でも8となった。しかし、である。リモコンを握るポジションからすると8はとんでもなく不利なポジションだ。8は三段目にある。ホームポジションである5のすぐ下だからアドバンテージがあるようにも思える。だが、それはマチガイ。二段目のホームポジションからすると、親指を伸ばしやすいのは三段目よりも関節を曲げる必要のない一段目なのだ(曲げるより伸ばす方がはるかにラク)。一方、フジは三段目、しかも7=テレ東のように、三段目であっても親指が縦にスムースに移動可能な扇形の流れの中にも入っていない。つまり、わざわざ親指の関節を曲げて「押しに行く」という作業をしなければならないのだ。面倒くさい!

ホームポジションから番外へ

しかし、フジは昔から、つまりアナログ放送の人気のある頃からテンキーの8の位置だったから、この話はおかしいのでは?というツッコミが入りそう。いや、そうではないのだ。この8という位置、実はかつてはホームポジションだったのだ。アナログ放送の頃のリモコン操作の位置は

1=NHK
3=NHKEテレ
4=日テレ
6=TBS
8=フジ
10=テレ朝
12=テレ東

という「四段」構成。しかも下の四段目に10=テレ朝と12=テレ東が来る。そして、現在のホームポジションの5は空きチャンネル(あるいは地方局チャンネル)。それゆえ、リモコンを持つ手のポジションは無意識にこの四段から構成されるテンキーに合わせたかたちになっていた。つまり、リモコンのにぎりは現在より5~10mm程度下にあった。そうなると三段目真ん中にある8のキーは、ほとんどホームポジションと機能していたのだ。一方、その頃、テレ朝は10で、何と四段目。しかも0と10が同じキー割り当てなので、機種によっては一段目の1を押してから、四段目の0を押すなんてややこしいことをやらなければならなかった(ただし関節を曲げる必要はなかったし、扇形の中には収まったので、さほどハンディキャップにはならなかったけれど)。テレ東は最悪で四段目の三列目。一番押しにくいところにあったのだ。ところがデジタル放送移行に伴って、前述したように、この二局はフジよりも手前のボタン、しかも押しやすいところに移行。その結果、テンキーの操作は三段で構成されるようになり、リモコンを握る手のポジションが上昇。フジは最後尾の一番押しにくいボタンという位置に置かれてしまったのだ。
フジテレビさん、変なことにこだわり過ぎた挙げ句、墓穴掘ったんじゃないんですか?残念でした(T-T)

フジテレビの視聴率を上げる方法は

じゃ、この「リモコンインターフェイス理論」からすると、フジテレビはどうすればこの苦境を打開出来るのか。これまた答は簡単だ。空いているボタン=数字のうち、5=のご相伴にあずかるキーに変更すればよいだけの話だ。その数字とは言うまでもなく3だ。現在3は地方局などが利用している(僕の住む神奈川の場合はTVK)。これは例の親指の扇形の動きの中に収まるし、しかも一段目だ。フジテレビさん、さっそくチャンネルを変更しましょう。解決策が判明してよかったですね(もちろん、制度の問題上、そんな簡単には変えられませんが……)。

さて、今回展開した「リモコンインターフェイス理論」に基づくTV視聴率のあり方、みなさんはどのようにお考えでしょうか。もちろん、メディア論的にはメディアは重層決定、つまり様々な要因の合力に基づいて、その普及が決定されるので、これだけが視聴率の原因だなんて決して言っているつもりはありません。ただし、こういったコンテンツの外部、形式、つまりインターフェイスのメディア性、十分に考慮に値することなんじゃないんでしょうか?

最後に、今回のネタは昨日、僕の幼なじみのK.片山くんとT.箕輪くんの高田馬場での新年会の際、三人ででっちあげたもの。なので、繰り返しますが、もし面白かったら、みなさんも新年会でネタとして使ってくださいね!飲み会で出てきたネタは、飲み会に還元したいと思います(笑)

あけましておめでとうございます。

最近、コメンテーターの発言が物議を醸すこと(というか、「物議」だと取り上げられること)が頻発している。報道ステーションでの元通産官僚・古賀茂明の番組へのツッコミや精神科医・香山リカの他のコメンテーターへの非難(Twitter上)などがその典型だ。
今回は、コメンテーターとはなんなのかについて考えてみたい。フィーチャーするのは人気コメンテーターの一人、古市憲寿だ。

地方ではコメンテーターのことをよく理解していないからダメ?

はじめに僕のコメンテーター経験から。
もう十年近くも前のこと。当時、宮崎に暮らしていた僕のところに、地元の民放局からコメンテーターの依頼がやってきた。週末、その週に宮崎で起こった様々な出来事をダイジェストで振り返るもので、MCとコメンテーターで進行するという企画。裏番組がNHKの『週刊こどもニュース』で、おとうさん役が池上彰というとんでもない時間帯だったので、視聴率が上がらず困っていて、担当者が思いついたのがコメンテーターの起用だった。

ところが、この企画、お流れになってしまう。上司からダメ出しをされたのだ。理由は「コメンテーターという役割は宮崎ではまだ時期尚早。コメンテーターのコメントが局の見解と勘違いされる可能性が高い」というものだった。

結局、この番組、やはり視聴率が上がらず1年後に再びお呼びがかかり、僕はレギュラーコメンテーターを務めることになったのだけれど、この上司の指摘、別に宮崎という一地方だけでなく、いまだに有効なのでは?と思えないでもない。そして、この指摘、ある意味でコメンテーターの役割を明確に語っていると、僕は考える。

解説委員・論説委員、評論家、コメンテーター

ニュースやワイドショーでゲスト的な存在で、ある程度知識のバックボーンを備え、何かを説明するという立場で登場する人物を分類してみよう。ザッと上げれば論説委員、解説委員、評論家、そしてコメンテーターとなる。
先ず解説委員と論説委員。前者は放送局でリポーターやキャスターを務め偉くなり、特定分野の説明をするようになった人、論説員は新聞記者を務め、やはり偉くなり社説などを書くようになった人といったところだろうか。これらが番組に登場する場合、原則、期待されているのは、当人がバックボーンとして抱えている政治や経済に対する知識だ。そして、その発言については放送局、新聞社の公的発言性を帯びる。いいかえれば、これらカテゴリーに振り分けられている人間の責任性は原則、個人に帰属しない。社の「大本営発表」という意味合いを帯びている。また担当者のパーソナリティについては二の次ということになる。

次に評論家。これはプロパーとして特定分野の情報を提供することが役割として振られている。軍事評論家の江畑謙介(故人)、航空評論家の青木日出雄(故人)・謙知親子などがその典型で、とにかく、こちらの知らない専門的な知識を持ちだし、視聴者に解説するというのが仕事になる。パーソナリティーについては論説員と同様二の次(江畑のように妙にウケてしまう人もいるが)。視聴者の関心はその知識にある。ただし論説委員・解説委員とは異なり、発言についてはその責任性は個人に帰せられる。間違った情報を流した場合には、責任は評論家に帰せられるのだ。

そしてコメンテーター。コメンテーターは一応何らかの知識的、あるいは経験的なバックボーンを備えていることが前提されている(だから元官僚、弁護士、精神科医、エッセイスト、戦場カメラマン、シャンソン歌手とジャンルは多様になる)。ただし、これはいわば「担保」。コメンテーターは原則、その分野の見識から話題・出来事についてコメントするのだけれど、シャンソン歌手が殺人事件についてコメントするという、その分野とは全く関係のない内容について言及することもある。というか、原則そちらの方が多い。なぜか?

その理由は、コメンテーターに求められているのものが論説・解説委員や評論家に求められる知識・見識よりも、むしろパーソナリティーだからだ。つまり「シャンソン歌手が殺人事件を語ったらどうなるか?」という視点。言い換えれば、それはプロパーの視点ではなく、むしろ個人の側の視点なのだ。だから、そのコメントについての責任性は全てコメンテーターに帰せられる。

ただし、これは理屈。現実にはコメンテーターはしばしば公的な存在、つまり論説委員や解説委員、評論家と同じような存在とみなされてしまう。その典型が報道ステーションでの古賀茂明の扱いだった。番組は、古賀がコメンテーターであるにもかかわらず、限りなくテレ朝大本営発表のような文脈で古賀に語らせたのだ。まあ、そうさせてしまった張本人は、煽った古舘伊知郎たちなんだけれども。ということは、宮崎で僕のコメンテーターとしての起用を当初踏みとどまらせた上司の理屈は、実は全国レベルでもいまだに通用するということになる。つまり、多くのオーディエンスがコメンテーターのコメントを私人の一意見とはみなせない(古賀の取り扱いについては、局の側も混乱していた)。ちなみに、僕は当該の報道番組で毎回二分ほどトピックをあげて解説をするコーナーも任されたのだけれど、終わりに必ず「私はこのように思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか」という一言を加え、この解説があくまでコメンテーター一個人の見解に過ぎないこと示すという配慮を行った。

コメンテーターは2.5次元に存在する

こういった、コメンテーターの「半分素人」の視点、実は大変重宝されるものだ。こんなふうに考えるとわかりやすい。前述した解説・論説、評論家、そして局アナはディスプレイの向こう側にいて、一方的に情報を伝えてくる、いわば「二次元的存在」。一方、これを見ている視聴者の方は「三次元的存在」。だが二次元的存在の説明は得てしてわかりにくい。そして一方通行。また、局側からすれば、都合の悪いことは言えない。

ところが、ここにコメンテーターが介在し、テレビの側にいながら視聴者の側からコメントしたりツッコミを入れたりすることで、視聴者側としては放送内容の複雑性を縮減することが出来る。つまり、コメンテーターはディスプレイの向こう側にいながら、こちら側の一人として機能する。そしてある程度知識的なバックボーン、そして見識があるとされているので(実際はともかくとして)、視聴者はコメンテーターを「オピニオンリーダー」=情報を噛み砕き相対化する存在と位置づける。だからコメンテーターは二次元と三次元を取り持つ2.5次元の存在なのだ。

コメンテーターの最も重要な要素はパーソナリティ

知識があるような無いような存在であるコメンテーター。だが、放送側としては、コメンテーターの役割はそれでいいのだ。というのも、前述したように、実際のところコメンテーターに求められているのはコメントの内容ではなく、その語り口、極言してしまえばパーソナリティそれ自体にあるからだ。だから、本当のことを言えばコメンテーターの知識や見識など実はどうでもよい。定期的にコメンテーターとして番組に登場し、そのパーソナリティが認知されることで、視聴者は次第にコメンテーターのパーソナリティそれ自体に、そしてそのパフォーマンスに注目するようになる。そして親密性を抱くようになる。言い換えれば、コメンテーターはタレント性を帯びていく。そうすると、コメンテーターの存在自体が視聴率を稼ぐメディアとして成立するようになっていくのだ。

ということは、コメント内容よりも、むしろコメンテーターが面白かったり、物議を醸したりする方が、実は局としては好都合なのだ。しかも、いざとなったら責任はコメンテーターに帰することが出来る。

古市憲寿というパーソナリティはとっても便利だ

便利なコメンテーターの典型は古市憲寿だ。古市は一塊の大学院生でしかない。『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)という脱力系の若者論がウケ、これをきっかけにテレビにコメンテーターとして登場するようになった。ただし、これだけだとコメンテーターとしても一発屋で終わったはず。ところがそうなっていないのは、しばしば物議系の発言をやってしまうから。ただし、古市は個人攻撃はやらず、もっぱら脱力系で、半ば第三者的、無責任的なコメントを繰り返す。こういった物議を醸すコメントは、物議であっても古市個人の責任性が問われることはほとんどない。原則、他人の攻撃にはならないので「返り血を浴びる」可能性が低いのだ。いわば「ちょっと風変わりで無責任な発言」。これがエキセントリックゆえに目立ち、テレビ局側としてはそのパフォーマンスをおいしく感じるゆえに、いわばトリックスター的に重宝がられるのだ。また、古市の場合、ただの大学院生という不安定な存在、そして若者一人でしかないという立場が、この脱力系・無責任発言をモラトリアムにいる人間がやっている視聴者は無意識に位置づけ、これを許容・免罪する担保になっている。

そして、古市が使いやすい理由。実は冒頭のエピソード、つまり僕が当初コメンテーターを断られた際の理由とピッタリ一致する。コメンテーターはあくまで個人の視点からのコメントしかしない存在。ところが視聴者はそのことがわからず、時として、こういったコメントがテレビ番組でなされた際には、コメンテーターではなく、番組自体が非難の対象となるということが、しばしば発生する。前述した、報道ステーションでの古賀茂明の発言などはその典型だろう。ところが、古市は「無責任な脱力系発言をする若造」という文脈が視聴者の間で認識されている。となると、古市の発言は、あくまで「古市という一個人の発言」ということになり、コメンテーターという立場を視聴者は勘違いしないで済むからだ。そして、もし仮に古市がもっと物議を醸す発言をして問題になったとしても、局側としては「これはあくまで古市が言ったこと」といって知らぬ存ぜぬを決め込むことが出来る。だから古市という存在は局側にとっては安全パイでもあるのだ(『特ダネ!』で古市がコメントする際に見せる小倉智昭のほとんど無視した冷たい対応が、面白い)。
ただし、古市がどこかの大学の専任教員となったとすれば、この担保はなくなる。今度は社会学者というプロパーの立場から責任性を持った発言を要求されるわけで、こうなると古市のこの脱力系のコメントは同じことをやったとしても、非難の対象となるだろう。もう大学院生という免罪符はないからだ。

コメンテーターも、あくまで自らの知識や見識を背景にすべき。ただし……

まあ、視聴率さえ稼げればそれでいいというのが局側の無意識の立ち位置。だから古市みたいなパーソナリティは便利なわけなのだけれど、これでは局もコメンテーターも”衆愚状態”、マスゴミ扱いされるのがオチだ。コメンテーターとしての機能は何らかのかたちで定義される必要がある。やはり、まずは自らの専門分野を立ち位置として「その分野から○○を見たらどうなるか」という視点を堅持するのがコメンテーターの役割だろう。そして、ここに当然、パーソナリティ、つまりタレント性も欠かせない。

さしあたり、このへんのところをもっとも上手く演じているのは経済評論家・獨協大教授の森永卓郎あたりではなかろうか。森永は経済研究所や経企庁務めの経験のある経済プロパー。これがコメンテーターの知識の担保になっていると同時に、自らオタクと自称するように、そのパーソナリティにおいても一定のマニアックなキャラを確保し、それが視聴者の親密性を生み、メディアで重宝がられている(その森永さえ「番組を降ろされるなんてことはしょっちゅう」と、古賀騒動の際にはコメントしていたが)。そして古市のようなトリックプレー=キワモノ的な関心を引きつけるわけでもない。つまり、きわめて”まっとう”なのだ。

視聴者側としては(そして局の側も、さらには場合によってはコメンテーター自身も(例えば香山))、そろそろ「コメンテーターのコメントは、あくまで一個人の見解」であることを、もうそろそろ「あたりまえ」と思ってもいいんじゃないんだろうか。

4月4日、日刊ゲンダイで歌番組が80年代のような活況を呈している、復活の兆しを見せているという記事が掲載された。NHK「歌謡ポップス☆一番星」、BSジャパン「名曲にっぽん」、テレビ東京「木曜八時のコンサート~名曲!にっぽんの歌」などが人気だという。また、この勢いに乗じてフジが森高千里を司会に起用し「水曜歌謡祭」を、CSの歌謡ポップスチャンネルが「クロスカヴァー・ソングショー」を開始させる。調子のいい時は視聴率10%超えもあるらしい。

こりゃ「景気のいい」話と思えないこともないが……いや、事態、実はむしろ深刻と考えた方がいい。そのことは現在、テレビ局で一部の「景気のいい」番組のジャンルの共通点を考えてみるとよくわかる。ここで取り上げたい番組ジャンルは刑事・探偵物、サスペンス。個別の物だと朝ドラ、そして「笑点」(報道、アニメ、スポーツ中継等は除く)といった類いだ。

高視聴率に見えるのは消去法の結果

実は、これらは本当のところを言うと「景気がいい」というよりは消去法の結果、残ったものと考えた方がいい。いずれにしても、視聴率はかつてのような景気のよさとは異なっている。つまりテレビ番組は全体的にはジリ貧だが、これらはかろうじて持ちこたえている方といった認識の方が正しい。で、これらに共通するのは、ようするに視聴者層が偏っていると言うこと。いずれも五十代以上が対象。この層はインターネットへの親和性が低く、なおかつ、もはや保守反動的な心性を持ち主が大半なので、新奇なものについてはあまり関心が向かわない。そんなオーディエンスが向かうメディアは、もはやオールド・メディアになりつつあるテレビのコンテンツだ。中でも刑事・探偵物、サスペンスはその最たるもので、ほとんどお決まりのパターンが展開されているだけ。朝ドラ、「笑点」に至っては超マンネリだ(「13年前半に放送された「あまちゃん」を除く)。しかもこの層の多くは子育て終了、仕事もリタイアしているわけで、暇をもてあましている。それゆえ、必然的にテレビに向かう時間は増える。なので、この層を掴んでさえいれば、テレビ局としてはとりあえず、その場を凌ぐことが出来る。

うっかり忘れていた「歌謡番組」

そして、このパターンの一つとして忘れ去られていたのが歌謡番組だったのだ。これは、番組の中身を見てみるとよくわかる。これらは、たとえば長らく続けられている「ミュージックステーション」とは出演者のラインナップが大幅に異なっている。「ミュージックステーション」はオリコン上位のミュージシャンが登場するが、歌謡番組に登場するのはいわゆる「歌謡曲」の「歌手」だ。そして往年のヒット曲を歌うのだ。五木ひろし、森進一、小柳ルミ子、北島三郎、石川さゆり、香西かおり、布施明などなど。とうの昔に薹が立った声、歌い過ぎで妙に小節が入った歌い方で得意満面、ドヤ顔で歌い上げるのだ。若手を登場させる場合にも、持ち歌ではなく往年のヒット曲を歌わせる。なんのことはない、かつてなら「思い出のメロディー」だった番組パターンなのだ。こういった番組構成が高齢者層を対象としていることは言うまでもないだろう。ちなみに司会に森高を起用したり、若手に古い歌を歌わせたりするのは、それなりの若年層(といっても四十代から上)の取り込み戦略だろう。とはいうものの、この層はネット世代なので、あまりなびかないのではなかろうか。

要するにこういうことだ。若年層をターゲット音楽番組がジリ貧だった。ネット世代は音楽番組なんか見ない。勝手に音楽ソースにアクセスするか、お気に入りのミュージシャンのライブに出かける。で、音楽の志向も多様化しているので、それぞれお気に入りはバラバラ。つまりミュージシャンたちの支持層は狭い。ということはテレビ出演はちょっと考えられない。だからますます見ない。「ミュージックステーション」を見るのは、それ以外のとりあえずメジャーな連中を、仲間内でのコミュニケーショネタにするために押さえておくという位置づけ(つまり、お気に入りのミュージシャンは出演していない)。だから、テレビ局側としては番組をやろうにもやりようが無い。で、歌番組をヤメていたところに、「おや、よく考えてみればサスペンス、笑点、朝ドラ視聴者層は音楽番組見るよね」ってなことになったんでは(というか、たまたま、そこそこ視聴率をとっていたので気づいたというのが正解か?)。

いずれにしても先は暗い

だが、これは結局のところ枯渇しようとしている池の水の残った部分にすがっているという状況でしかない。つまり、いずれこの層も失われていくわけで、そうなった時、テレビはより深刻な事態を迎えることになる。

歌番組、一時しのぎにはよいかも知れないが、10年後にはもはや頼れるものにはなっていないだろう。少なくとも、現状をスタイルを何らかのかたちで変更しない限りは。

小保方、佐村河内、野々村、小渕、矢口……

ご存知のようにテレビというメディアは、もはやある意味オールド・メディアとして長期低落傾向を辿っている。もちろん、インターネットの普及がその主たる原因であることは言うまでもない。スマホの普及で、われわれのメディアアクセス時間は、テレビよりももはやインターネットの方が長く、その比率は若年層になると一層高くなっている(ちなみに、スマホの普及によって、メディア接触の絶対的時間数は増加している)。もちろん、この原因にはテレビ自体の質の低下も含まなければならないが。

今後、テレビというメディアは、その特性としてこれまでとは異なったアプローチを採用しないことには、この低落傾向に歯止めがきかなくなるだろう。これまでのように刑事ドラマや若手お笑い芸人をひな壇に並べるようなお手軽(アタマを使わない)かつお手頃(カネのかからない)番組をやっていても、それはメディアとしての死を待つだけということになりかねない(僕のまわりの学生たちは若手お笑い芸人をおもしろがってはいるが、憧れたり、尊敬したりとかはしていない。ほとんど「ただの芸人」的扱いだ。いわば「おもしろいことをいうタレント」。その半面、たけしやタモリといった長老たちをものすごく尊敬しているのだけれど(笑))。

さて、こんな形でもがき苦しんだテレビ局が最近、半ば偶然発見したキラー・コンテンツがある(もちろん「半ば偶然」なのでテレビによる努力の賜では、ない)。2014年、スキャンダルや事件で話題になった映像を思い出して欲しい。小保方晴子STAP細胞問題、佐村河内守ゴースト問題、野々村県議の号泣、小渕優子の政治資金不正運用問題、矢口真里の謝罪?カミングアウト?これらに共通するもの、それは映像が「記者会見」というコンテンツのかたちをとって一般に浸透したことだ。とにかく、今年話題になった人物のベスト・ファイブみたいな人物が、この記者会見というコンテンツに絡んでいる。実際、これら記者会見が今年のメディアを飾る大きな記号として展開したことは、どなたも納得していただけるだろう。そこで今回は、なぜ記者会見が注目されるに至ったのか、つまりテレビ的な立場からすれば視聴率を取れ、視聴者の立場からすればネタとして扱え、当事者からすればパフォーマンスの格好のチャンスとなったのかについて考えてみたい。

ナマという特性を最も生かすことが出来る記者会見

テレビの視聴率低下要因の一つは、前述した要素(ネットの普及とテレビ局の怠慢)の他に視聴者側のリテラシー向上といった側面も見逃すことは出来ない。今や若年層、というか50代半ばくらいから、つまり60年代以降生まれより下の人間のテレビ・リテラシーはかなり高い。この世代は、生まれたときからテレビがあった世代。そして、後者になればなるほど、成熟したテレビ・メディアのコンテンツ、そしてそれ以外のメディア・コンテンツに馴染んできている。だから刑事物とか時代劇とかのパターンはとっくにお見通し、バラエティ芸人たちのギャグもどちらかというと批評家的な見方だ(つまり上から目線)。これは報道も同様で、ほとんどクリーシェ、つまり定型パターンで出来事が報道されていて、これにはかなりの視聴者がうんざりしている(だから、これら報道を取り上げて「ヤラセ」だとか「マスゴミ」と揶揄するわけなのだけれど。テレビよ、視聴者をナメてはいけない)。なので、テレビ側がこしらえたコンテンツは、よっぽど手が込んでいるか、予想外のものでも見せない限り注意を向けてくれない(逆に、徹底的に作り上げれば、ちゃんとまなざしを向ける。2013年の「半沢直樹」「あまちゃん」はその典型だろう。いいかえれば、テレビ側が相当くだらないものしか作れないということを、これは傍証するものでもあるだろう)。

こういった「こしらえ物」が功を奏さないときに、唯一役立っているものがある。それはスポーツ中継だ。なぜって、これはナマだからだ。なんのことはない、それから先が読めない。だから目が離せず、思わずえんえんと見てしまう(マラソンの結果を知りつつ、後で録画を全て見るという人間はかなりのマラソン・マニアだろう(笑))。そう、スポーツ中継はテレビがもはやお手軽に(必ずしもお手頃ではないが)頼れるコンテンツなのだ。

ちなみに報道でもナマの部分には当然人気がある。そして、このナマの部分のコンテンツのひとつが「記者会見」中継だ。とにかく先が読めない。そしてどういった発言、パフォーマンスが飛び出すのかに視聴者は首っ引きになる。小保方晴子が、佐村河内守が、小渕優子が、そして矢口真里が崖っぷちに立たされた状態で、なにをやらかしてくれるのか?「その時、予想だにせぬ展開が!」ってなわけだ。要するに、この時、テレビは編集権を記者会見の当事者に投げてしまっているわけだ。

ナマ記者会見を煽るインターネット

もちろん記者会見の生中継は今に始まった話ではない。有名なのは72年6月17日に行われた佐藤栄作首相の退陣記者会見で、この時には記者たちとの行き違いがあり、その結果、記者席から全て記者が退室し、佐藤がたった1人でテレビに向かって喋り続けるというパフォーマンスを展開している。また、ナマの記者会見はしばしば政治の場面ではニュースなどに挿入されている。

ところが、そうではないのだ。上記に挙げた2013年に行われた記者会見、実はその多くがテレビではないところ=別メディアで中継されている。それはニコ生とかUstreamのインターネットテレビだ。しかも全中継されているものも(ただし、小渕と矢口はテレビで全てをナマ放送した)。となると、これら「全中継」「ほぼ中継」というコンテンツの編集権は視聴者≒ネットユーザーにも与えられることになる。そこでテレビの報道とは異なる独自の切り口で映像を編集し、これをYouTubeなどにアップしてしまう。それが「STAP細胞はありまぁ~す!」とか、野々村県議の「ゥオゥウア゛アアアアアアアアアアアアアーーーゥアン!」「私は日本を解体~!(ホントは「私は日本を変えたい!」)(いずれもキャプション)へのクローズアップになる。そして、これがSNSに拡散させられると、今度はこれをテレビが取り上げる(これまた、お手軽かつお手頃だ。他人の褌で相撲を取っているのだから。ただし、テレビはマスメディア。このネタの格好の拡散メディアとして機能する)。こうやって、記者会見はテレビとネット、テレビ局とユーザーが相互に編集内容を融通し合う中で循環し、結果として記者会見は格好のメディアイベント、そしてスペクタクルと化していくのだ。そして、この「ナマ」と「映像のユーザーサイドでの編集」「メディア側の取り上げ」によって、これら記者会見は格好のコミュニケーション・ネタとして突出する。その結果、こういったメディアの往還によって記者会見は圧倒的に活気づくのである。

テレビはユーザーを利用することで、いや、ユーザーに依存することによってカネを稼ぐ手段を、結果としてではあるが、発見したのだ。


記者会見の当事者もパフォーマンス次第

こんなユーザー主導?あるいはテレビ・メディアとユーザーの化かし合いによるコンテンツの成立。要するに、メディアにとってもユーザーにとっても「ネタ」となっているわけだけれど、こうなると記者会見の当事者はたまったものではないということにならないか?本人たちの意志=本意にかかわらず、おもしろおかしく切り取られた部分のみが記号として先行、イメージの趨勢を形成してしまうのだから。だから本当の小保方、佐村河内、野々村、小渕、矢口とはどういう人物なのかは、はっきりいってわからない。で、実際、これら人物のうち小保方、佐村河内、野々村三者は徹底的にネガティブなイメージを作られてしまった(もっとも、野々村はネガティブというか、ほとんどお笑いだったが)。

ところが、これまたやり方次第で記者会見を格好のチャンスに転じてしまう記者会見の当事者たちも存在した。たとえば佐村河内のゴーストライターをやっていた新垣隆、そして小渕優子がその典型だ。新垣はゴーストライター、本来なら佐村河内と同罪だが、記者会見での誠実さがこのイメージをかき消し、その後テレビのレギュラー出演やコラボ・アルバムの作成など、引っ張りだこの人気者に転じた。小渕は言うまでもなく、政治資金の不正運用を巡って法相を辞任したが、会見での凜とした姿勢がかえって「後援会の失態を1人で背負っている」というポジティブなイメージを作り上げ、12月の衆議院選では前回を上回る圧勝(なんと開票50秒で当確が打たれた!)という結果をもたらした。2人とも「被害者」というイメージに転じたのだ。もちろんこれもまた、これら人物たちの本当の姿かどうかはわからない。つまり、これもまたイメージ。ただし、こちらの場合は当事者が結果としてうまく利用しているパターンになる(本人が意図的であるかどうかは別の話として)。記者会見もパフォーマンス次第なのだ(ちなみに矢口の場合は、いまだそのイメージが定まっていない。本人は開き直って「肉食系」として売り出そうとしているが、となるとそれまでの平謝りパフォーマンスがインチキになってしまうので、そのままではネガティブなイメージを払拭することは出来ない)。

こうやって考えてみると、テレビメディア、視聴者(そしてインターネット)、当事者の三者にとって生中継記者会見は御利益があるということになる。繰り返すがテレビにとってはお手軽でお手頃なメディア・コンテンツとして、視聴者=ネットユーザーにとってはコミュニケーションのメディア=ネタとして、当事者にとってはメディア的な自己イメージ形成の手段として(ただし、ポジティブなイメージを植え付けることに成功した場合に限るが)。

だから、これからも記者会見は「おいしいコンテンツ」として重宝されるだろう。そして、これは恐らく当分、飽きられることはない。なぜって?それはナマだから、そしてパターンがないから。まあ、あんまりやると「記者会見の文法=クリーシェ」みたいなものが出来上がって、定型化することもあるかもしれないが、当分は先の話。だから、これからも記者会見を僕らは楽しむ(楽しまさせられる?)ことになる。これだけは間違いないだろう。

※本ブログの関連記事は産経デジタル12月22日「記者会見の“エンターテイメント化”なぜ起こる?」(http://www.iza.ne.jp/topics/events/events-5750-m.html)を参照。


オマケ:紅白はオモシロイ!

このブログ、紅白を鑑賞しながら執筆しました。最近の紅白は、はっきり言って面白い。それは「お手軽でなく」(メチャクチャ手が込んでいる)、「お手頃でなく」(矢鱈とカネがかかっている)、そして何よりナマを最大限に生かす工夫をしているからだ。サザン出演という隠し球(まあ、最後は桑田がライブで事前にバラしてはいたが、番組表には掲載されていなかった)、「花子とアン」スタッフによる吉高由里子へのサブライズ(吉高、バッチリ泣いてくれました)、樽美酒のマルガリータなんてのもそうだが、究極は昨年と同様、ド素人の司会投入だ。昨年は綾瀬はるかと能年玲奈、そして今年は吉高由里子。もう噛むなんてのはあたりまえで、このド素人がどんなハプニングをやらかすかがハラハラドキドキもんで目が離せない。吉高は緊張しまくってわけがわからなくなってしまう半面、ノってくると危ないツッコミを平気でかますという「翔んでる女優」「プッツン女優」(死語を二つ並べてみました)をやってくれて痛快。究極はトリの松田聖子の緊張ぶりを国民に向かって公表してしまうというパフォーマンスでした(ギリギリ)。これぞナマの魅力!

ゆるキャラでくまモンと人気を二分するふなっしー。一般のご当地キャラが人気を博するのは地方自治体の観光課、そして広告代理店、さらにはメディアの後押しがあったりするからだが、ふなっしーの場合、ちょっとその事情が異なっている。いちおう、ふなっしーは船橋のご当地キャラ、地元名産の梨から生まれた「梨の妖精」ということになっているが、ご存知のように非公認キャラ、つまり船橋市から認めてられておらず、地元を背負っていない。いわば個人が「勝手にやっている」状態。また、当初はあちこちのイベントに乱入する”究極のインディーズ系”だった。だから、一般のゆるキャラの文脈から見ると、その人気は不可思議だし、ものすごく違和感がある、というか理解に苦しむ。

僕は、このブログを通じてゆるキャラブームやくまモンの分析等を行ってきたが、いつまで経ってもよくわからないのがこの「ふなっしー人気」だった。だが、ちょっと最近、その秘密が少しだけれど見えてきたような気がする。そこで、今回は、このふなっしー人気についてメディア論的に考えてみたい。

最初にお断りしておくが、ふなっしーの考察は今回が初めてではない。本年7月5日のブログ「アニメ=漫画文化の爛熟を象徴するふなっしー人気~ふなっしーはなぜパリでウケなかったのか」(http://blogos.com/article/89923/)で、普通のゆるキャラ以上に詰めの甘い「ゆるい」デザインとコンセプト(そもそも、そんなもんあったのか?と思うほど)であるにもかかわらず、ふなっしが一般に受け入れられた背景には、日本人のゆるキャラに対するメディア・リテラシーの高まりが存在したという論考を行っている。だが、こちらはふなっしー自身というより、ふなっしーを巡るインフラの変化に焦点を当てたものだった。で、今回はふなっしーのキャラクターそれ自体についての考察をやってみたいと思う。視点は二つ。一つは「着ぐるみ=スキン」とふなっしーを演じる人物、つまり「中の人」との関係について。もう一つはふなっしーのパーソナリティ面での魅力について。つまり二つのブログを合わせるとトータル三つの視点からの分析になる。ちなみに分析は、記述が後になればなるほどふなっしーそれ自体について語るということになる。

ふなっしーだけが備えるリアルなパーソナリティ

先ず「着ぐるみ=スキン」と「中の人」との関係について。ふなっしーが他のゆるキャラと圧倒的に異なっている点が二つある。
一つは「喋る」こと。もちろんふなっしー以前にも喋るキャラクターは存在した。たとえばガチャピンがこれに該当するが、これはアテンドという方式で「中の人」と喋る人間は異なっている。声が着ぐるみ=スキンの中と言うよりも後ろの方で声優が喋り、それに合わせて中の人が振り付けを行うというしくみだ。ところがふなっしーは中の人にマイクが装着され、自ら喋る。それゆえ、中の人はその場に応じて臨機応変にアドリブが可能になっている。一方、一般のゆるキャラは喋らない。だからアドリブも飛ばしづらく、表現も限定される(この表現力の弱さを逆手にとって表情を取っ払ってしまったのがくまモンだ。あれは驚いている顔と言うことらしいが、いかようにも解釈できる。だが、それは言い換えれば「得体が知れない」と言うことでもある)。

もう一つは、中の人を常にKという同一人物が演じていること。一般のゆるキャラの場合、喋れないのでキャラクターの役割が限定されるが、その代わり複数の人物が交代で中の人を演じることが可能になる。だが、それはゆるキャラに詳細なイメージを盛り込めないということでもある。人によってキャラクターの動きが異なってしまえば、そのアイデンティティが崩壊してしまうからだ。しかし、これによってゆるキャラは着ぐるみ=スキンを除くと、総じて「キャラの薄い存在」となる。はっきり言ってパーソナリティが弱いのである。ところがふなっしーはそうではない。常に中の人は同一人物であり、これがアドリブを飛ばしやすいという利点と相まって、ふなっしーに人格の一貫性=アイデンティティとそこから派生するパーソナリティを与えることに成功している。

この二つは言い換えればふなっしーが「ゆるキャラ」「ご当地キャラ」ではなく「タレント」と位置づけられているということになる。

異形タレント

ふなっしーに対するわれわれの認識を明瞭にするために、一つの軸を用意しよう。軸の一端は「ゆるキャラ」、もう一端は「異形タレント」だ。そしてふなっしーはこの軸の中間に位置しており、それが独特の魅力を発揮することに成功している。前者=ゆるキャラの説明は省略するが、後者=異形タレントについてはバナナマンの日村、はんにゃの金田、オードリーの春日あたりをイメージしていただきたい。こういった異形タレントは、強烈であやしげなルックスという「つかみ」があることで先ず注目を浴び、その後パーソナリティが認知されたという点で共通している。

ふなっしーはこの異形タレントの中に位置づけることが出来る。ゆるキャラ以上に文法がメチャクチャな着ぐるみ=スキン、甲高い声でエキセントリックな喋り、キレた動きとパフォーマンス、そして非公認で。これら特徴は一般のゆるキャラからすれば明らかに異形なのだ。だから、先ずオーディエンス=われわれとしては「なんじゃ、こりゃ?」ということで関心(記号論の用語を用いれば異化作用)を持たざるを得ない。

で、喋る、着ぐるみ=スキンと中の人が常に同一人物であるという先ほどの特徴がこれに加わることで、ふなっしーは俄然、キャラクターとしてのイメージに奥行きが感じられるようになる。つまり、ここでふなっしーがパフォーマンスを繰り広げれば、もはやこれはゆるキャラではなく、まっとうな異形タレントという位置づけになってしまうのだ。

着ぐるみ=スキンが伝えているのは中の人のパーソナリティ

他のゆるキャラとの違いをメディア(=メッセージを伝達する手段)という言葉を使って表現すれば次のようになる。一般のゆるキャラはその「着ぐるみ=スキン」というメディアを使って「ご当地イメージ」というメッセージを伝えている。ところがふなっしーは「自らのタレント性」を伝えている。伝えるものが違うのだ。だから、ふなっしーは必ずしも船橋を背負っている必要はないし、われわれもふなっしーに船橋を見てはいない。むしろ、ふなっしーに見ているのは「中の人のパーソナリティ」なのだ。だから船橋市非公認であったとしても何ら問題はない。いや「非公認」であることは、逆に他のゆるキャラとの差異化を図る究極のブランドとして機能しさえしている。こうなると異形タレントの範疇すら乗り越え、普通のタレントとみなしてもよいほどということになる。そういえば、われわれはだんだんとふなっしーの容姿=スキンなどどうでもよく、むしろパフォーマンスの方に関心を抱くようになっていないだろうか?

ゆるキャラとタレントの「いいとこ取り」で魅力を倍増

ふなっしーは着ぐるみ=スキンと中の人が同一で、喋ることによって、ゆるキャラとタレント双方の特長を併せ持つ「いいとこ取り」のキャラクターでもある。タレントとしては許容されない行為を行ったとしても、ゆるキャラならそれが許容されている場合には免罪されてしまい、さらにそれが独自の魅力となってしまうのだ。

前述したように、よく知られるふなっしーのキャラは「キレ」である。まずゆるキャラであるにもかかわらずキレのいい動きをする。だが、もし一般のタレントが同じような動きをしたとしても、われわれがその動きに注目することはないだろう。あくまで「ゆるキャラであるにもかかわらず」という立ち位置でふなっしーを見るゆえに「キレがいい」と思うだけなのだ。この時、ふなっしーはタレントとして演じていながら、われわれはふなっしーをゆるキャラの立ち位置から眺めている。もう一つの「キレ」つまり、すぐにブチギレるというのも同様の理由から魅力へと転じることになる。たとえば、先頃YouTubeにアップされたふなっしーのビデオを見てみよう。ここではファミマの新製品「ふなっしーまん」をふなっしーが食レポするのだが、ふなっしーは目隠しされていてこれがなんだかわからない。試食後、目隠しを外され、それがふなっしーまんであることが判明した瞬間、ふなっしーは「共食いだなっしー!」と絶叫してブチギレ、怒りに震え叫びながらテーブルをひっくり返しディレクターとカメラマンを殴りつける。
もちろんヤラセだが(最後に「でも、おいしかったなっしー」と宣伝する如才なさも忘れていない)、こういったアブナイというかエッジなパフォーマンスが可能なのは、要するにふなっしーが「ゆるキャラ」として見られているからだ。もしこれが一般のタレントだったら単にアブナイだけになってしまう。この「ダメなはずなのに、立ち位置をこちらが変えてみてしまうのでダメでなく、しかもオモシロイ」というのが、こちらに快楽を誘うという仕掛けなのだ。



イリュージョンというトリック

そしてこの逆、つまりゆるキャラだったら許されないのに、タレント=人間だから許されるというのも、もう一つの魅力になる。これも「ふなっしーまん食レポ」の中に見ることができる。着ぐるみを着ていれば当然ものを食べることなど出来ないはず。ところがふなっしーはこれが可能だ。頭の後ろ(背中?)にチャックがあり、そこから飲食物を取り込むことが出来るからだ。こういった中の人が着ぐるみ外部に出て行くような穴=チャックをゆるキャラが見せることは反則であり、許されない。ところが、梨汁補給(水分を中の人が確保する)とか、こういった試食の際にはこのチャックから飲食物の出し入れがおこなわれ、これが堂々と映される。このこと(チャックの名前、あるいはこういった行為)のことを、ふなっしーは、自ら「イリュージョン」と呼んでいる。つまり「このチャックと、今やっていることは幻影です」、言い換えれば「これはなかったことにしてね」ということになる(同様にゆるキャラなのに人間的事情、つまり中の人の都合のためにゆるキャラらしくない行為をする際には「大人の事情ってもんがあるなっしー」とやる)。こういったゆるキャラに設定された役割からの逸脱に対し、われわれはふなっしーをタレントという立ち位置から見ているわけで、そのズレがまたふなっしーの魅力ということになる。

ふなっしーは、ゆるキャラと中の人のパーソナリティが映画『マスク』のように一体となって、その両方が交互に出現することで、独特の魅力を作り上げているというわけだ。

ガンバリズムというパーソナリティ面での魅力

ただし、こういったアドバンテージを持ってしても、まだふなっしーの魅力を語り尽くしたことにはならない。これにもうひとつ、パーソナリティ自体の魅力が加わるのだ。ただし、こちらの分析については、紙面の都合上、今回はさわりだけにしておきたい。

その魅力は「ガンバリズム」というところになるだろうか。つまり非公認キャラとして認められず、着ぐるみとしてもブサイク。だが、こういった負の要素だらけにもかかわらず、インディーズとしてたたき上げ、現在の成功へとたどり着いた。その「根性的なストーリー」がキレるアシッドなキャラクターとよく馴染む。子どもだけでなく大人、とりわけサラリーマンあたりに結構人気があるのは、ふなっしーが逆境をガンバリズムで克服する姿に思わず自らを投影してしまうからなのでは?(だからこそ「非公認キャラ」は、逆に「究極のブランド」なのだ)。自分は相変わらずこき使われて、あまり成功しているわけでもないが、われらがふなっしーはガンバって今の地位に登り詰めた。だからふなっしーを自らの代償的存在として、そのガンバリにエールを送ってしまう。そんな魅力があるのかもしれない。

もはやタレントのふなっしー。だったらドラマの主役をやってもおかしくない。『西船橋警察捜査課ふなっしー警部の事件簿』なんてのはどうだろう?(笑)ラストシーンで泣き叫びながらブチギレ、事件の決着をつける人情派のドラマなんてやったら、案外オモシロイかも?

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