勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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Appleとディズニー。この二つの企業はS.ジョブズが深く絡んでいることで知られている。Appleについては言うまでもなく、Appleの創業者であり、かつ救世主である。一方、ディズニーについては、21世紀に入ってからの低迷打破のきっかけをR.エドワード・ディズニーとともに導いた(ピクサー買収後、ジョブズはディズニーの個人筆頭株主だった)。

二つの企業はジョブズそしてウォルト・ディズニー二人の人物の備える共通する理念を見事に踏襲している。それは「量を質に転化させる技術」だ。

これを説明するに当たって、黒子を登場させよう。申し訳ないがAppleのライバルと言われているSamsungを引き合いに出してみたい。ご存知のように、現在、最もスマートフォンの発売台数が多いのはSamsungだ。ただし最近は付加価値でiPhoneに押され、価格で中国製に押されと、旗色が悪いが。

Samsungは「量が質に転化しない」典型的な企業だ。そのやり方は「とにかく盛ること」。使えようが使えまいが機能を盛り、デザインの評判のいいところをコテコテと盛り、CMも類似企業の評判のいいところをひたすら盛る。特に後者二つは、露骨なくらいAppleのそれをパクりまくるので有名だ。で、技術的には結構イケてるのだけれど(ご存知のようにiPhone6のA8チップの製造のかなりの部分をSamsungが請け負っている)、この技術がこういった「盛り」によって、かえって目立たないという残念な結果になっている。

一方、Appleは盛らない。技術的な側面は、ある意味Samsungより劣る(Appleはパーツ製造のほとんどを外部に依存している)。にもかかわらず、製品としての魅力はSamsungを大幅に上回る。
この原因を考えるに当たってはディズニーの理念、とりわけウォルト・ディズニーの提唱したテーマパークという考えを持ちだすとわかりやすい。テーマパークとは「一定の空間を特定のテーマに基づいて作り上げる遊戯施設」ということになるが、実のところ、これは正鵠を射ていない。その証拠に83年、日本に東京ディズニーランドがオープンした後、次々とこの定義に基づいたテーマパークが作られたが、そのほとんどが失敗に終わっている。

テーマパークとは、ただ単に「テーマに合わせて情報を盛る」ことによって作られる空間ではないのだ。無論、ディズニーランドにもディズニーに関する大量の情報が盛り込まれている。しかしながら、実はこの「盛り」は一定の整序の下に盛られているのだ。つまりテーマには「空間デザインを統一する」ことだけでなく、「配置されたものそれぞれに物語が提示され、そしてそれが幾重にも折り重なることでより大きな物語=テーマが設定される」という側面があるのだ。

単に盛るだけなら、それはただの「ごった煮」。ところが情報を整序し、「物語」の中に配置することで、それはごった煮ではなく、ある種の世界観を構築することになる。

言い換えれば、空間を構築するに当たっては、先ずさまざまなアイデアを盛ってみるが、その後、テーマ=物語に従って取捨選択が行われ、さらに、それがいわば「一筆書き」のストーリーとして感じられるように配置し直されるのである。だから、空間それ自体に、情報が盛り過ぎられていて混沌としているという印象を抱くことはない。パーク内は驚安の殿堂、ドン・キホーテではないのである。

Appleもこのやり方を踏襲している。とにかく情報を集めるが、ユーザーに何を使わせたいのか、どんなライフスタイルがあり得るのかを検討を重ね、それにふさわしいものがチョイスされ、さらにこれが一筆書きになるように組み合わされる。こうやっていわば徹底的に濾過を繰り返した部分だけが製品の機能として採用されるわけだ。つまり、Appleのミニマリズム、シンプルさ、実は背後に膨大な情報が前提され、そのなかから提案したいものだけが選択されているというわけだ。たとえば、AppleはマックにBlu-ray/DVDドライブを搭載しない。また新しい薄型MacBookもポートが一つしかない。これらはメディアの未来を見据えた理念に基づいている。前者は「ディスクはもはやオワコン」つまり「ハードメディアによるデータ提供はやらない」「データの供給ははダウンロードで」、後者は「モバイルのパソコンは軽く、余分なものが一切ついておらず、全てはネットでやりとする」ということで外された。つまり、これら製品はいわば「大吟醸」。情報の多くが削り落とされて、いわばコンセプト=エッセンスのみになっており、ムダがない。

こういった「背後にある不可視の膨大な情報」を一般人は知る由もない。ただし、無意識のうちに、われわれはそこに独特のオーラを見てしまう。新たにリリースされたAppleWatchはその典型で、あれで何が出来るのか、恐らく使ってみなければわからないはず。にもかかわらず、いきなり好調な販売の滑り出しを見せてしまうのは、要するにそこに「新しい機能」ではなく「新しいライフスタイル」を消費者が見てしまうからだ。いや、厳密に言えば「Appleだから、新しい提案があるはずだ」と思ってしまうからだ(ひょっとしたら、実際にはその提案は魅力的なものではないかもしれないのだが)。そして、そういった妄想を喚起する根本的な要因こそ、背後に不可視ながら無意識に前提されてしまう膨大な情報なのだ。そして、これがAppleという企業の(そしてディズニーという企業の)付加価値=ブランドイメージを構築している。そう、これがAppleWatchを含むアップル製品のオーラなのだ。

Samsungにはそれがない。製品は、たとえば盛ったものをそれぞれ外していった場合、何も残らない。言い換えればライフスタイルの提案が、そこにはない。強いてあるのは、結局、「いろいろ盛って客を引き、一儲けしよう」といったような「理念無き理念」あるいは「メタ理念」ということになるのだろうか……。

Appleの理念についてしばしば指摘されるのが「引き算」。つまり、必要なものだけを残すという考え方なのだが、それは単なる引き算ではなく「物語」=ライフスタイルの提案あっての引き算なのである。

絶好調のiPhone6

iPhones6が相変わらず好調だ。2014年に入りiPhoneは格安中国スマホ、韓国のSamsungやLGに押されてジリ貧かと思いきや、画面を大型化した瞬間、ユーザーが一気に再びiPhoneへとなびいてきたことはすでにご存知のことだろう。お陰で、iPhoneよりもはるかに早く大型スマホを発売していたSamsungが煽りを食らってしまった。価格では中国スマホに負け、ブランド力ではAppleに負け、中途半端な商品に堕してしまったのがその原因だろう。しかも、これが日本やアメリカだけでなく、中国、いや自国の韓国でも同様の事態を招いているのだ(ただし、シェアはSamsungがまだトップを維持している。)。

しかしながら、ジリ貧と思われていたiPhoneがV字回復したのは、要するに大型、とりわけ5.5インチというスマホをユーザーたちが待ち焦がれ、遅ればせながらやっとのことでリリースしたからだと言われている。4インチ以上のスマホを頑なに拒絶していたS.ジョブズの予見は完全に外れてしまったわけで、そういった意味ではAppleはジョブズ路線を超える次のステップを見いだしたと言ってよいのかも知れない。

ただし、このモノノイイはちょっと外れているところもある。待ち焦がれていたと言っても、発売してからも伸びがよいという事実は別の話。いいかえれば、それはユーザーが何らかのプラスアルファをそこに見たからと考えなければ帳尻が合わない。じゃあ、それは何だろう?

iPadを駆逐するiPhone6Plus

iPhone6、とりわけPlusのそれはきわめて奇妙な現象を発生させているという感がないでもない。ちょっと僕の例だけれど、一つエピソードを。

昨年9月、iPhone6発売と同時に、僕は早速それまでのiPhone4から乗り換えることとした。チョイスしたのはiPhone6Plus。購入した際には「こりゃ、ちょっとデカすぎるな?」と、かなりヤバイと感じてしまった。「ただのiPhone6(4.7インチ)にしておけばよかった……」

ところがで、ある。使い込むうちに僕の認識はどんどんと変わっていったのだ。この画面の大きさ、実に心地よい。何が心地よいって、ビデオもガンガン見る気になるし、長文の記事も読む気になる。英文も読む気になる。しかもそれがポケットから取り出して即といった具合なのだから。この経験はこれまでのiPhoneでは無かった。4インチのiPhone4の時代。さすがにこの大きさだと細かい文章を長時間読む気になれなかったのだ。そういった作業は専らiPad(時にパソコン)の役回りだった。つまりパソコン―iPad―iPhoneの使い分けが出来ていた。ところがiPhone6Plusは違う。易々と長文にトライできる。これは、ただ画面をデカくしただけで、全然新奇性がないと揶揄された指摘とは、全く正反対の実感なのだ。やっぱり、字はこれくらい大きい方が見やすい(まあ、自分が五十代と年寄りであることもあるのだけれど)。気がつけば、以前に比べiPhoneに接する時間は格段に延びていた。結局、こっちの方が「しっくり」きたのだ。完全にアディクト状態に。

だが、その一方で全く触らなくなってしまったものがある。当然ながらiPadだ。発売直後、iPadを購入しワクワクしていた自分はいったいどうなったんだ?と思うほど。もっとも、最近はちょっと利用頻度が減っていたことも確か。どうもiPadは「帯に短したすきに長し」の感が強いのだ。つまりパソコンほど本格的に仕事は出来ないし、その一方でスマホほどカジュアルでもない。本を読むとかゲームをやるにはいいんじゃないかと思えないでもないが、その実、あまりやらなかったことも確か。本を読むなら、どちらかというとKindleくらいの大きさの方が手軽でいい。よく考えてみれば、電車の中で馬鹿デカいiPadを広げて読書している姿は結構、マヌケでもある(Surfaceもイマイチの普及のようだ)。そして、iPhone6Plusで本も読めるという状態に。で、今や我が家のiPad四台は、カミさんがゲームをヒマつぶしにやることを除いてほとんどオワコン状態になっている。

しかしながら、こういったiPhone6PlusによるiPad浸食といった状態、おそらく自分だけではないんではなかろうか。iPadを含めたタブレットPCの受容はどうも頭打ち、iPadに至っては売り上げは全くかんばしくない。アラン・ケイのダイナブック構想を具現したかのようなiPad≒タブレットPCだったが、どうもダイナブックの構想(コンピューターの最終形態は子どもが外で気軽にいじれるタブレットになるというコンセプト)はタブレットではなく、大型スマホ、つまりファブレットの方がふさわしいということに、現状ではなりつつあるようだ。

で、こうなるとAppleまた他の企業も次の一手に出てくるだろう。一つはさらに大きなファブレット、つまりiPhone6Plusが文字通り6インチになるということ。これはあるかも知れない(で、iPadminiが完全に死亡する)。そしてもう一つの方向がタブレットPCの大型化だ。ただし、この受容は一部のユーザーに限られるだろうが(アート系ニーズか?)。

タブレットPCの新しい道はビジネス・ユース

Appleは時々、こういった自社製品の「共食い」をためらいもなくやってしまうことがある。例えばiPhoneはどう見てもiPodを駆逐してしまったとしか考えられない。そして今やiPhone6PlusがiPadを駆逐しつつある。タブレットPCとは、しょせん一過性のメディアに過ぎなかったのだろうか?

いや、そうでもないだろう。おそらく売り上げの伸びは頭打ちで、今後漸減していくだろう。ただし、なくなることはない。おそらく、こうやってパーソナルな市場をファブレットに食われたことによって、タブレットPCは新たな自らの居場所を見いだすのではないだろうか。それはズバリ、ビジネス市場だ。企業や医療の現場での測定機器、クラブなどでの入会手続き、レストランの会計マシン、銀行などでの手続きの道具、教育用、こんなところでは実に大きな力を発揮するのではないか(ただし、こうなるとiPadminiは最も中途半端な製品になるけれど。miniはビジネス・ユースとしても中途ハンパだ)。家庭のリビングルームに鎮座するという当初のジョブズの構想(iPad発表時、ジョブズはステージ応接椅子を置きパフォーマンスして見せた)は完全にハズレだ。むしろリビングルームで各種ディバイスのハブ的な役割をするようになるのはファブレットだろう(リモコンにもなっているはずだ)。

ファブレットの大いなる可能性

ちなみにファブレットはさらに大きな可能性を秘めていると考えることも出来る。例えばこれがBluetoothでキーボードやマウスと、さらにディズプレイとワイヤレスに繋げられるということになったらどうなるか。言うまでもなく、それはスマートフォンがパソコンに転じた瞬間を意味する。つまりスマホ一台あればほとんど事は済んでしまうのだ。携帯しているときはただのスマートフォン。ところが一旦、オフィスや自宅に持ち込めば、瞬時に大型ディズプレイで操作するパソコンに。こうなると、今度はパソコンがスマホ=ファブレットに駆逐される番だ。つまりスマホは電話であり、インターネットディバイスであり、ミュージックプレイヤーであり、SNSであり、カメラであり、アプリであり、さらにパソコンでもあるということになるのだ(ちなみに、iPhoneがもし、こういった形で進化するとiOSは存在してもMacOSは死滅するということになる。そしてマックもまた死滅することになるかも。もっとも、Appleならやりかねないことだが)。

この予想、かなり現実味があるのではないかと、僕は思っている。そして実は、これこそがA.ケイがイメージしたダイナブック構想の最終形態なのかも知れないとも思っている。

コンピュータ=人工無能はわれわれの幸福度を上げる

前回は、コンピュータが実質的に「人工無能」であり、オウムのような条件反射を膨大な数で持っているに過ぎない、しかしビッグデータに集められたデータはあまりに膨大であるがゆえにチューリングテストに合格してしまうほどのパターンを保持し、それが結果として統計的にわれわれを最も快適な環境を作り出してくれていることを説明しておいた。例えばチェスのチャンピオンにコンピュータが勝利するなんてことがあたりまえのように発生するのは、こういった理由による。コンピュータはチェスの手に関する膨大なパターンを暗記し、その中から最適値を選択するパターン・プログラムに基づいて次のコマを進める。そういった「問題処理」レベルではとっくに人間を凌駕してしまったのだ。ところが「問題解決」、つまりパターンとパターンを組み合わせてメタパターンを作り上げる、つまり関係性について思考するというような主体性を伴う「意味論レベル」の知能は残念ながら持ちあわせていない(このパターンは結局のところ人間がコンピュータにプログラムをインプットしている)。

また、G.オーウェルが予想したビッグブラザーのような、われわれを監視・統制して自由を奪うようなコンピュータが登場することがないことも指摘しておいた。「支配しろ」というプログラムを人間がインプットしない限り、それは不可能。そして、そういった事態が発生すると懸念するのはいわゆる「陰謀史観」で、まったくもって現実的ではないし、実際にこういったことはプログラムミスといったヒューマン・エラーが無い限りは発生しない(つまり人工無能=コンピュータの責任ではない)。むしろコンピュータは統計的にこういったエラーを回避するプログラムが書き込まれ二重三重の防御がなされることになる。つまり、人工無能のおかげでヒトラーが誕生することはかえって出来なくなってしまうのだ(コンピュータ科学と認知科学の巨匠であるマーヴィン・ミンスキーはコンピュータ研究において、この三十年間、専ら統計=数値を処理させることだけに焦点が当てられ、意味=言語を理解させる研究が行われていないことを批判している。ミンスキーに言わせればコンピュータの言語研究は、やはり「人工無能=cognition」のそれであって「人工知能=recognition」ではないということになる)。

つまり「人工無能」のおかげで、われわれの幸福度は相対的に上昇するのだ。

ただし、この「快適さ」「幸福度」、実はかなり危険なものでもある。前回の、そして今回のタイトルを覆して表現すれば「ビッグデータはビッグブラザーにはならない」が、別の側面、メディア的な側面からするとビッグブラザーとしての機能を果たしてしまう。後半はこのことについてメディア論的に考えてみよう。



行動の規格化

考えられるのは二つの側面だ。
一つは前回指摘したことと重複するが、多様な人間的事象について次々と情報がビッグデータに集積され、それが統計的に解析されて「最適値」を返すようになり、なおかつこの最適値に対してリアルタイムに人間行動をフィードバックし更新し続けることで、きわめて快適な環境をわれわれが享受できることになり、これに抗うことが出来なくなるという側面だ。

それ自体は「すばらしいこと」のように思えないこともないが、これはわれわれの行動それ自体の規格化=均質化といった現象を生むことを結果することでもある。つまり、人間は意味世界に暮らしており、それぞれが勝手な解釈をし、勝手な行動をしているのであるけれど、ビッグデータが作り上げるシステムが、こういった自由気ままな行動の背後で、身動きが出来ないほどにまでわれわれの行動を規定してしまい、他のチョイスを許容しない環境が作り上げられる。言い換えれば行動においていくつかのチョイスがデジタル的に提供されることはあっても、アナログ的なチョイスが許容されないことになる(つまり、与えられた選択肢のなかからどれかを選ぶことだけがこちらの仕事となり、その選択肢の範囲の設定や、選択肢と選択肢の間の選択は不可能になる)。これは、実はもうすでにとっくに消費の世界では進行済み。今や世界の人々がコンビニやショッピングモールで規格化された商品を購入し、またAmazonのようなネット販売を利用して商品を購入し、ファーストフード店でハンバーガーやピザを食べるという同質化=グローバル化された行動をとるようになっている。

こういった”統計的データがこちらに強制してくる行動パターン”は快適ゆえ、それに飼い慣らされていることには気づかない。いや、たとえ気づいたところで快適なので「だからどうした?」ということになる(こういった規格化された権力のことを哲学者の東浩紀は「環境管理型権力」と読んでいる)。そう、ビッグブラザーはどこまでもやさしくわれわれを管理するのだ。

認識の細分化

もう一つは、それとは逆に人間を完全にバラバラにしてしまうという側面だ。これはイーライ・パリサーの「フィルターバブル」という概念で説明するのがいいだろう。例えばあなたのAmazonやfacebookのホームページをチェックしてみてほしい。そこに出てくる画面は、他のメンバーとは全く異なる情報で埋められているはずだ。これは、ユーザーであるあなたが頻繁にこれらページにアクセスし、そのデータがサーバーに送られ、ビッグデータと照合されて、あなたにとっての最適値としてカスタマイズされたかたちで情報が返されてくるからに他ならない。

やはりこれもまたきわめて快適なことでもある。あなたにとっておいしい情報ばかりで埋め尽くされるのだから。ところが、これはかなり危ないことでもある。というのも、それは「おいしくない情報はそこから排除される」ことだからだ。その結果、あなたの情報環境はインターネットとビッグデータのアルゴリズムによって「あなただけの世界=フィルターバブル」になってしまう。つまり、徹底的に個別化された世界の中で暮らすことになり、あなたは孤立する。おいしいものばかり食べていたら食べ物のバリエーションが狭まり、なおかつ味盲になり、世界は食べられないものでいっぱいになってしまうのと同じことだ。

規格化と細分化による社会的統合の崩壊?

そして規格化とフィルターバブルは相乗効果をもってあなたをいっそうビッグブラザーの管理下に従えることになる。つまり羊飼いと牧羊犬の監視する空間(=フィルターバブル)の中では、思いっきり自由なのだが、監視された空間の外に出ることは決して許されない。しかし、快適ゆえ、あなたはそのことに一切気がつかない。で、こういった「徹底した個別化対応によって、実は均質化をもたらす超管理社会」を推進するのが、実はビッグデータという存在なのだ。

それは結果としてわれわれが孤立化されたかたちで徹底した管理下に置かれることを結果する。しかし、これがさらに突き進めば、社会はアトム化された人間によってバラバラになり、社会統合を失ってしまうのではなかろうか?

…………いや、待て!よく考えれば、そんなことはないだろう。人間はバラバラになってしまうかも知れないが、そのバラバラの人間をビッグデータ=ビッグブラザーは統計的に管理することで社会統合を代替してくれるはずだから。これぞ、超管理社会と言わずしてなんと言おうか。


25世紀、宇宙人が地球にやってきた。するとそこにはきわめて整備された文明が存在した。ゴミ一つ落ちておらず、システムは完璧に作動していた。しかし、宇宙人は首を傾げた。地球には完璧に整備されているシステムはあるのだが、肝腎なものが存在しなかったからだ。

肝腎なものとは?……そこに住み、システムの恩恵を受ける「宇宙人」のこと。……そして宇宙人とは……もちろんわれわれ人間=地球人にほかならない。システムを構築した人間はビッグデータに守られて孤立化し、関わりを失い、人口を減らし、ついには消滅したのだった。しかし、システムはいつまでも稼働し続けていたのだ。さながら人間が存在するかのように。

ビッグデータの恐怖?

「ビッグデータ」という言葉が、最近あちこちで使われている。その定義は比較的曖昧だが、一般的には「Google、Amazon、iTunes、各種SNSに蓄積されたデータ」などがビッグデータを備える典型的な存在として語られることが多い。共通するのは、ユーザーがこれらを利用することで、当該サーバーに個人に関する情報(文字、画像、映像、音声等)がリアルタイムで次々と蓄積されていき、膨大な情報量になるというもの。こういったシステムによってわれわれが恩恵を受けているのが、例えばAmazonのアカウント・サービスだ。ここでは、これまで閲覧・購入した履歴がサーバーに蓄積され、これが同様にアマゾンを利用したユーザーのデータと照合、解析されて「おすすめの商品」を紹介してくる。つまり、個人の閲覧・購入した「パターン」が次々と蓄積され、そこから統計的に同質のパターンを抽出し、次いで、その同質パターンに従いながら、新たなユーザーのパターンを予測する。新たなユーザーが新しいパターンを作っていたり、既存のユーザーが新たなパターンを構築すると、やはり同様にこれがフィードバックされ、このパターンが更新されていく。

こういったビッグデータの特徴に対し、しばしば危惧の念を持って語られるのが、ビッグデータが悪用されるのではないかという不安だ。Googleであれ、Amazonであれ、facebookであれ、膨大な個人データが1カ所のサーバーに集積されるわけで、そうなると、このビッグデータを特定の人間や組織が独占してしまい、これを自由に操作することが出来れば、これらデータを利用して個々の人間をコントロールできる。そして、もしそういった行為をする人間や組織がヒトラーやナチスのような野望を抱いていたら、世界は一部の人間によって完全に支配されてしまう。まさにG.オーウェルが小説『1984』の中で描いた中央制御的コンピュータ、ビッグ・ブラザーによる人間の支配が可能になる。これは恐ろしいことではないのか?

こういった懸念、僕は「楽観的な悲観主義」と考える。ちょっとシステムを単純に考えすぎているのではないか?しかも、悲観的な側面でという意味合いなのだけれど(いわゆる”陰謀史観”的な被害妄想と同様の心性だ)。実は、こういった懸念、結構杞憂に過ぎない、そしてこのシステムの恐ろしいところはもっと別のところにあると僕は考えている(オマエこそ楽観的で単純すぎるというツッコミが入りそうだが)。では、なぜこういった見解を採るのか。このことをメディア論的に説明してみたい。

コンピュータ、実は何も考えていない

スマホをお持ちの方は、音声認識アシスタントの機能を利用されている方も多いのではないだろうか。iPhoneなら「Siri」、docomoなら「しゃべってコンシェル」なんかがそれだ。日本語で「近くのラーメン屋は」で話しかけると「この周辺には10ヶほどのラーメン屋があります」といった具合に返してきて、店舗のリストをずらっと並べてくれる。まあ、それなりに気の利いた答えを返してくる。これのおもしろいのは、正確なところは驚くほど正確だが、トリビアなところは全然ダメなところだ。

そしてもう一つ特徴的なのは、回線に繋がっていないと使用不可能なこと。こうなるのは、実はこの音声アシスタントシステムがビッグデータをエンジンとして機能しているからだ。スマホで音声認識アシスタントに話しかけると、回線を通じてネットサーバーにそのデータが送られ、解析される。つまりあなたの話しかけた言葉はスマホが処理しているのではなくて、クラウド上に、いわば「外注」され、処理されているのだ。つまり音声認識アシスタントシステムは膨大な情報があって初めて可能になるのであって、スマホはその端末として機能しているに過ぎない。で、こういったかたちでユーザーがこのシステムを利用すると、使うたびにデータがメインサーバー上に送られ、そこで分析が行われる。ただし、コンピュータが考えているというのではなく、アルゴリズムに基づいてパターン解析をしているにすぎない。つまり、あなたの尋ねてくるデータと類似したデータをパターン化して行く。つまり統計的にパターンを処理していくわけだ。


コンピュータはオウムと同じ

音声アシスタントシステムは、こうやって不断に学習=パターン解析を続けることで、次第に正確性を増していく。ただし、これ、実は考えているわけではない。比喩的に説明すれば、これはオウムや九官鳥のおしゃべりと同じメカニズムに基づいている。

オウムは言葉を覚えさせると、そのシチュエーションでキチッと返事をする。これはだいぶ昔の話だが、僕が高校の頃、玄関でオウムを飼っている友人がいた。この友人を「鈴木」という名字としよう。で、この友人宅に行きドアをノックし「鈴木さ~ん」と声をかけようとすると、こちらが名前を呼ぶ前に、扉の向こうから「鈴木さ~ん」と声が聞こえてくるのだ。そう、オウムは扉のノックと「鈴木さ~ん」という声を条件反射、つまり刺激ー反応図式で学習してしまったのだ。この時、オウムはノックと鈴木さんの関係を全く理解していない。そして「鈴木さん」の意味も理解していない。ただ単にパターンを認知=知覚(cognition)したに過ぎないのだ。

で、これをものすごい記憶量と処理能力で可能にするのがサーバー上のコンピュータに他ならない。つまり、あなたがSiriと話をしているように見えても、相手はこちらのことなど全く理解しておらず、こういった「オウム返し」のパターンを膨大な数だけ記憶し、こちらが喋ったことに対してパターン解析し、統計的に割り出されたパターン的に近似のものの回答を返してくるだけなのだ。
ということは、ユーザーが使い込めば使い込むほどパターン認知は正確性と多様性を備えるようになり、さながら「考えている」かのように、こちらに対応することが可能になる。つまり文字化すればチューリング・テストに合格するようなコンピュータが登場するのだ(逆に言えば、トリビアな情報については、こういった「ユーザーとサーバー上のやりとり」がほとんど行われないので、返すパターンをコンピュータが知らず全く使いものにならない)。

だが、これは言い返せば、コンピュータは何ら判断能力を持ちあわせていない、言語学的に表現すれば意味論的世界についてはなにもわからないということでもある。例えれば「味の成分は分類できるし、おいしい料理を作ることは出来るけれど、自分はその味が決してわからない」というのがコンピュータの脳なのだ。いわば「人工無能」。Siriは”Speech Interpretation and Recognition Interface”(=発話解析認識インターフィス)の略称だがrecognition=認識の定義を「本質を理解し正しく判断すること。また、そうした心の働き」とすればSiriは全く認識能力を備えていないことになる(recognitionをcognitionと変更して発話解析認知インターフェイス、つまり”Sici”とすれば、適切な名前ということになるだろう)。

ということは、まずコンピュータの方が勝手に世界を理解して判断し、自ら主体的に思考し、行動し始めると言うことは現状では考えられない。『2001年宇宙の旅』に登場するHALのように、人を殺したり、判断を誤ったりするようなことは決してない。(判断を誤ったとしたら、それは純粋にプログラミングミスだ。人を殺すとするならば、殺してよい条件がパターンとしてプログラムらされていなければならない。そしてそれを入力するの人間の側だ。だが、それに対してはA.アシモフが定義した「ロボット三原則」のようなこれを否定するメタプログラムがパターン化されることになる。もっともロボット三原則の第一条は絶対法則で「人間に危害を加えてはならない」だが)。

快適な「人工無能」

ただし、こういったかたちで夥しい数のデータが日々蓄積されると、われわれはこうやって作り上げられたパターンに抗うことが難しくなっていく。それはビッグデータが作り上げたパターンがわれわれを強制すると言うより、われわれの行動の集積がパターン化された「集合知」となるためだ。そして、統計に基づいて不断にこの集合知がヴァージョンアップされるためだ。

J.スロウィッキーはネット上で集合知が生まれることを指摘した。つまり、はじめは間違った情報がアップされても、いろんな人間がこれに改訂を加えることでだんだんと正確なものになっていくと指摘したのだが、残念ながら人間において、これは不可能だ。問題はフィルター・バブルが発生するからだ(これについては後述)。人間の場合、いくら情報を集積してもあっちこっちからツッコミが登場してまとまらない。様々な認識が様々な見解を生むので、結果として”喧々囂々”の議論になってしまう。つまり「人間は意味的世界に生きており、アタマがいいのでまとまらない」。

ところがコンピュータはバカであり、愚直だ。ひたすらデータを集め続け、アルゴリズムに基づいてこのパターンを見いだす作業を続ける。だから、どんどん統計的な確率が上がっていき、正確になっていく。いいかえればコンピュータに関しては「みんな意見は案外正しい」、いや「みんなの意見は正しい」ということになる。ただし、間違えてはいけないのは、やはり個々のデータに価値判断が含まれてはいないということ。集合的に解析したパターンを抽出しているだけなので、いわば「多数決の結果、趨勢を占めたものが正しい」という判断しか下せないのだ。投票した人間全員が間違っていても、それはコンピュータにとっては正しいものとなる。つまり「コンピュータは統計的世界に生きており、アタマが悪いのでまとまる」。

価値判断を全く下すことができない、でもチューリングテストには合格してしまう「人工無能」=コンピュータ。しかし、これに従うことによって、われわれは快適な生活が約束されることになる。たとえば前述のAmazonの「おすすめ」を思い浮かべてもらいたい。次々と商品を提示してくるが、かなり気が利いている。自分が読んだ本の作者の新作などをいち早く提示してくれるからだ(で、思わずポチってしまうのだけれど)。

また、これは交通システムのことを考えてみてもよくわかる。現在、交通システムの発達によって渋滞はかなりの程度低減されてはいる。おそらく現在の交通量を鑑みれば、この渋滞の少なさは高く評価してもよいだろう(以前のシステムなら、慢性的な渋滞に陥っているはずだ)。これが可能になったのは、要するにクルマを運転している「個人」ではなく、クルマの流れという「交通量」のみに注目し、統計的に処理したから。ただし、現状でも渋滞は発生する。じゃあ、これはどうやったら解消できるか。なんのことはない、よりデータを集積し統計的に処理しパターンを厳密化し、アルゴリズムに基づいてパターンを解析し、交通システムを配備すればよいだけの話なのだ。たとえば、何十年後かに高速道路の自動速度制御システムのようなものが完成すれば、渋滞は全て解消し、交通事故は激減し、クルマの利用者は安全かつ快適に目的地に到達することが出来るようになる。それは、膨大な数のクルマの流れをフィードバックし統計的に処理することによる必然的結果だ。そしてこの時、われわれの交通事情についての満足的は相対的に上昇する。つまり快適レベルについての幸福度が上がる。渋滞でイライラすることも居眠り運転の危険性もなくなるのだから。だから、われわれは、この「人工無能」に抗うことが出来ない。

だが、これは要するに究極の管理状態、つまり「超管理社会」の出現を意味する。われわれはコンピュータ社会の「飼い慣らされた羊」となる。ただし羊飼いに鞭を打たれるのではなく、やさしく管理されて。

ところが、この「快適さ」、実はかなり危険なものでもある。では、それは何か?(続く)

本格的な普及を見せるタブレットPC

23日未明(米22日)、第5世代iPad(iPad Air)、第2世代iPadminiが発表された。新製品の特筆すべき特徴は、A7チップによる高速化はもちろんだが、iPadが200gの軽量化を行ったこと(400g台に突入)、そしてiPadminiがRetinaディスプレイに対応したことだろう。それに先だって、ほぼ同時期にNOKIAとMicrosoftが新型タブレットPCを発表し、これに対抗しているが、これはタブレットPCというカテゴリーが新しいメディアとして実質的に認知されたこと、そしてiPadがやはりタブレットPCのリーダーであることを意味するのではなかろうか。

スマホの新規購入者はマーケットの普及曲線(E.ロジャース)からするとレイトマジョリティからラガードの領域に達しつつあるし(新規購入者の88%がガラケーではなくスマホをチョイスしている)、パソコンに至っては下降曲線を描いている。一方、タブレットPCは今が旬だ。

この市場拡大を牽引するのがiPadシリーズで、現状ではこれに各社がぶら下がるかたちでユーザー包囲網を作り上げようとしている(だから、iPadの発売に他社が新製品をぶつけてきているわけだけれど)。興味深いのは前述したように、タブレットPCの普及とパソコンの低下が逆相関を示していること。僕はここに一定の因果関係があるとみている。つまり「パソコン売り上げの低下原因はタブレットPCの普及のため」という関係だ。今回はこれについて考えてみたい。

パーソナルコンピューターの理念は「家電」

1972年、ゼロックス社パルアルト研究所のアラン・ケイは「A Personal Computer for Children of All Ages」の中で、パーソナル・コンピューターの未来のあるべき姿として「ダイナブック」というコンセプトを立ち上げる。これはA4サイズの板にディスプレイとキーボードが配置されたコンピューターで、誰でも容易に操作することができ、かつ持ち運び可能な個人ユースのディバイスというものだった(イメージ図上では芝生の上で子どもがダイナブックをいじっている)。

このときケイが発想していたのはナード=パソコン・オタクのツールではない。つまりプログラムを書いたり、難しい計算処理をしたりする機械ではなく、文字を書いたり、音楽を聴いたり、音声をやりとりしたり、絵を描いたりするという「家電」的なイメージだった(前述のイメージ図では女の子はヘッドフォンを装着している)。そして、その端緒として73年にAltoというマシンを開発する。これは現在のデスクトップ、ウインドウ、マウスからなるパソコン・アーキテクチャーの元祖で、Appleのスティーブ・ジョブズがこれをヒントにMacintoshを開発したのは有名な話だ。そして、その発展系がタブレットPCだった(これもジョブズが手がけたわけで、それゆえにこそジョブズは「パソコン=PCを生み、PCを葬り去った男」と呼ばれたのだけれど)。

ということは40年を経過して、この構想はタブレットPCで達成されたということになる。しかもタブレットPCにはキーボードはない。その一方で無線システムが標準装備されインターネットに接続するという機能が加わった。つまり40年もかかったが、実現したものは、当初の構想のさらに先を行くものだった。

パーソナルコンピューター=家庭用の、家電としてのコンピューターを「パソコン」と定義した場合、既存のパソコン(デスクトップマシンやノートパソコン。以下、ケイの構想するパソコンと区別するため、これらを”PC”と呼ぶことにする)はダイナブック→タブレットPCという流れの中間形態と定義づけることが出来るだろう。ただし、それは重くて、しかもバッテリーが持たないので携帯しづらく、操作も難しいものだった(加えて高価格だった)。だからPCはダイナブックのカジュアルさからは、はるかに遠いところにあった。

もちろん、こういったハンディは次第に克服されていった、つまりPCは家電には近づいていったが、結局、タブレットPC、そしてスマホの出現によって、そのアーキテクチャー自体がオールドファッションになってしまったことは否めない。致命的なのは、家電としてのパソコンというレベルではPCはきわめてとっつきにくかったところだ。だからユーザーはスマホとタブレットPCへと移行していったのだ。ちなみに、2015年にはPCとタブレットPCの売り上げが逆転することが予測されている。

タブレットPCとPCの融合

もちろん、現状ではその性能面からして、タブレットPCはまだまだPCにはかなわない。大がかりな作業、たとえば大量の文書作成、DTP、Webデザイン、ビデオ編集、そして高度な統計解析といったCPUの性能を要求する作業には非力だ。また、タッチパネルによる操作は、マウスやペンタブレット、キーボード入力での迅速な処理といった作業と比べて能率が悪い。

ただし、これは時間的な問題だろう。ムーアの法則(CPUの処理能力が18~24ヶ月で倍になるという経験則だが、実際そうなっている)の通りにテクノロジーが日々進歩を遂げれば、当然、こういった処理能力と負荷のかかる作業もタブレットPCに搭載されるCPUで十分可能になるだろう。また、いずれタブレットPC用に、こういった入力ディバイスも出回るだろう。で、こうなったとき、おそらくタブレットPCとPCは統合されてしまうのではなかろうか。実際、現在MicrosoftやAppleが取り組んでいるのがPCのOSとタブレットPC/スマホのOSの統合だ。たとえばMicrosoftのSurfaceはタブレットPCにキーボードを合体させるという発想だ。まあ、サーフェスを見ると、どう見てもノートパソコンなのだから(ただし、PC自体は一部のニーズ、つまりヘヴィーユーザー用に限定されるかたちで残存するだろう。そして、それはいわば現在スーパーコンピューターと呼ばれているマシンの仲間入りということになるのではないだろうか。ただし、いずれにしても一般向けとしては不要なものになることは確かだろう)。

パソコンって、何?

ダイナブックとしてのパーソナルコンピューターが、タブレットPCによってその正体を現した現在ではあるが、実を言うとタブレットPCはPC同様、パソコンであるがゆえにPCが抱えているのと同じ問題を相変わらず抱えている(もっともその「問題」は「諸刃の剣」でもあるのだが)。

タブレットPCがiPadとしてその姿を現した2010年時、iPadは先ず「電子書籍」として注目を浴びはじめる。メディアはこぞってiPadを「紙媒体に変わりうる書籍」といったイメージで報道したのだ。「数年後には全て電子書籍になっている」とまで報道したメディアもあった。

ところが、実際にはそうはならなかった。相変わらず紙媒体は販売されているし、iPad、そしてその後のアンドロイド系のタブレットPCが電子書籍とみなされることもなかった。もちろん、タブレットPCで電子書籍を読む層が出現したことは事実ではあるが、タブレットPCの普及原因はそれだけに限定されるわけではない。むしろゲームや文書作成、インターネットブラウズ、スケジュール管理、画像・映像編集、あるいはシステム管理の端末といったかたちで実にさまざまな用途に用いられるようになったことの方が大きい。そう、これがPCが抱えていたのと同じ「汎用性」という問題なのだ。つまり「いろいろなことに使えるが、どうもイメージが曖昧模糊としていて、つかみどころがない」。

PCの場合、これがマイナスに作用した。つまり「取っつきにくさ」と「汎用性=曖昧さ」がシナジーを引き起こし、多くの人間が、これを「難しそうなマシン」と認識してしまったのだ。一方、一般の人間にとってはPCとやれることがほとんど同じであるのにもかかわらずスマホが普及したのは、前者の「取っつきにくさ」がなかったからだ。「ケータイとiPodのセットにインターネットブラウザがオマケについている」というのがスマホに対する当初のユーザーの認識だったろう。つまり、前者の日常携帯品の二つが合体したツールというイメージが取っつきにくさを打ち消していた。それゆえ、この「汎用性=曖昧さ」はむしろ「便利なもの」、例えばゲームハードでいろいろなゲームをやるような感覚で好意的に捉えたられたのだった。

だが、スマホは小さい。携帯性は極めて高いが、さすがにこの小ささだとやれる作業が物理的に限定される。だがタブレットPCはこの「小ささ」のハンディを越えるとともに、携帯性を維持し、なおかつ取っつきやすさはスマホと同じ(OSが同じなので、スマホユーザーにはこちらの面でも取っつきやすい)。だからスマホ同様、汎用性がポジティブなもの、つまりアプリがゲームのような便利なものに見える。そして、こういったとっつきやすく、親しみやすいものこそがパーソナルコンピューター=ダイナブックの本質なのだ。

あらためて言おう、パソコンは家電でなければならない。そしてタブレットPCはこのパソコンの命題を達成したのだと(スマホとの分業の側面があることも留保しておく必要があるが)。

今回のAppleの二つのiPadのリニューアルは、そういった意味で家電的意味合いを今ひとつ前進させたものと言えるだろう。iPadは「iPad Air」と名称を変え、重量を400g台にまで軽量化させ(同サイズの既存のマシンでは最軽量)、その携帯性を高めた(寝床でiPad Airを使っていて眠気とともに顔の上にiPadが落ちてきたり、腕や肩が凝ったりということから逃れられる重さになった)。iPadminiは高画質化によってその再現性を高めたのだけれど(ともにA7チップによる高速化が図られている)、これは高性能と携帯性をいっそう押し進めることで、「汎用性」の利点を今一歩押し進めたものと言える。おそらくAppleは近いうちにこれに装着する純正のキーボードをリリースするだろう(ただし、あくまで補助的なもの、つまり文字入力などに利用したい層のみにアピールするために。MicrosoftのSurfaceとは異なり、Appleはあくまで「板一枚」というパソコン=ダイナブックのイメージを維持するはずだ。MicrosoftのSurfaceはPCの延長線上のディバイス、AppleのiPadはパソコンの完成形態。だから前者はキーボードが前提されたタブレットPCで、後者はタブレットPCにおまけでキーボードがつけられるというイメージを踏襲する。そして勝者は後者だ。なぜって?キーボードや細々と機能がつけられボタンだらけのリモコンなんてインターフェイスは、家電にはふさわしくない「とっつきにくいもの」だからだ)。

今回のiPadのリリース。パソコン=ダイナブックという理念を着実に踏襲しているという観点を踏まえれば、やはりiPadは他のタブレットPCの追随を許さないとみなすことが出来るのではなかろうか。

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