勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」)というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第4回。「匿名性」の図式を利用してTwitterについて考えてみたい。ちなみに、このSNS、結構ややこしい。

Twitterと匿名ヴァーチャル空間的存在~属人性を利用して自由度を最大化

Twitterは140字以内で原則、不特定の他者に対して情報を発信するという、機能的にはシンプルなSNSだ。だが「匿名性」を巡って、利用のされ方は意外と複雑だ。その利用方法が必ずしも一つの象限に限定されていない。しかも、それらが絡み合っているからだ。それが結果として「ゆるいつながり」とか「わかりづらい」と言われる理由になっている。

まず、Twitterの典型的な使われ方とされているのは、第三象限(匿名+無名+非名)だ。ここでユーザーは「匿名ヴァーチャル空間的存在」になる。そしてこの象限での典型的な利用法とされているのは、Twitter論の先導者である津田大介が指摘する「属人性」に基づくものだ。

とはいうものの、この「属人性」ということば、ものすごくわかりづらい(津田の『Twitter社会論』(洋泉社 2009)での説明も、おそらくほとんどの読者は理解できなかったのではないか)。おそらく、これは法律の「属人主義」からとったものだろう。これは「法的な解決に当たって対象となっている行為を行なった者の国籍や住所など,人を基準にして決定を行う立場」。たとえば、アメリカ人がわが国で犯罪を犯した際には、日本の法律ではなくアメリカの法律に基づいて裁かれるといった場合がこれに該当する。ちなみにその反対は「属地主義」だ。だけれど、やっぱりこれでもわかりづらい。そこでざっくりと「超訳」的に説明すると次のようになる。

たとえば、あなたがスペインのワインについて知りたいと考え、その専門家に問い合わせるとする。その時、あなたが関心を持っているのは「スペインワイン専門家」、つまり「その人それ自体=人格」(これは「属人性」に対する「属地性」に該当する)ではなく、その人が持っている「スペインワインについての専門的知識」、つまり「その『人』に『属』する知識」ということになる(だから「属」「人」性)。この場合、その知識(この場合スペインについての専門知識)を持っている人間=専門家であれば、誰でも構わない。これを属人性と考えるとわかりやすいと思う。

Twitterは、この属人性が極めて高いSNSだ。ユーザーは思い思いにツイートする。それは、まさに「つぶやき」「ひとりごと」ではあるけれど、その人の知識の世界に関する内容がしばしばつぶやかれる。そして、そのツイートは不特定多数に発信される。一方、受信する側は、自分の興味関心に基づいて任意に検索をおこなう。つまり、先ほどのスペインワインならば、検索窓にこれを打ち込むと、ユーザーたちのスペインワインに関するツイートが次々と現れる。この時、検索をかける側は原則、ツイートした人間それ自体(≒属地)に関心はない。そこから導き出された情報=データ(つまり「スペインワイン」)にもっぱら関心がいくのだ。

こういったかたち、つまり誰が書き込んだのかが考慮されないで読まれるという前提によって、書き込む側にはツイートする内容にかなりの自由度が与えられる。facebookのニュースフィードに書き込みづらいコメントはTwitterでつぶやくといった使い分けがしばしばなされるのは、こういった匿名性(この場合、ツイートする本人は匿名かつ無名な存在)に基づいている。で、相互に情報だけが交換されて、その人物については考慮されないがゆえに「ゆるいつながり」と呼ばれるのだ。で、Twitter論者たちはこういった使い方を専ら言及し、推奨している。

匿名ヴァーチャル空間的存在(第三象限)から現実模倣的存在(第二象限)へ

ところが、話はそんなに簡単ではない。こういった使い方だけで終わらないのがTwitterの難しいところなのだ(だから「わかりづらい」のだけれど)。

たとえば属人性に基づいてツイートを続け、それがある分野に特化された形になってくるとフォロワーたちがツイートを継続的にブラウズするようになる。いわば「お得意さん/リピーター」となってメルマガ的な要素をツイートが備えていく。こうなると、ブラウズする側はツイート側の「情報それ自体」すなわち属人性よりも、「ツイートする人間」すなわち属地性へとその関心が移行する。「その情報を知りたいから」から「その人が情報を発信しているから」にアクセスする動機がシフトするのだ。するとフォローされている側は次第に有名性を高めていき、その存在が第二象限、つまり「現実模倣的存在」へと変化していく。それは言い換えれば発言へ責任性の発生であり、ツイートする側は第三象限の時のような発言の自由度を喪失する。失言をしようものなら炎上、素性を暴かれて丸裸、社会的権威を失墜するなんてことにもなりかねない。こうなるとツイートする側は第一象限同様、発言に慎重性を要請されることになり、ツイートしづらい状況に。で、しばしば、その利用をやめるということに。

学生による第二象限的な用い方

また、学生たちの多くがTwitterを「匿名ヴァーチャル空間」(第三象限)ではなく「現実模倣空間」(第二象限)として利用している。LINE/mixiの匿名性について展開した前回(第3回)で説明したが、学生たちはこれらのSNSを匿名でありながら、実際には実名を知っている有名な存在と互いを認識しながらコミュニケーションを行っている。そして、このパターンをTwitterでも踏襲するのだ。

彼らの相互フォロー数は100人未満。フォローする相手の実名はほぼ知っている、というかリアルな日常世界で常に関わっている相手。この相手とヴァーチャルで関わるツールとしてTwitterを使用している。

ただし、これはかなりヤバい使い方でもある。学生たちがTwitterを第二象限として利用することは、その性質上、コミュニケーションが仲間内のプライベートなものとなることを意味する。ところがTwitterは第二象限と同様、匿名性を旨としてはいるものの、属人性の部分についてはオープンだ。ところが第二象限は属地性、つまり互いの人格に基づいてコミュニケーションする空間なので、本来ならばクローズドでなければならない。これを第三象限のオープンなTwitter上で展開すれば属人性ではなく属地性、つまりプライベートな部分が世界中に垂れ流しという事態を生んでしまう。Twitterが「バカッター」「バカ発見器」と揶揄されるのは、こういった若年層の「匿名性の誤用」に起因している。つまり実質実名付きの匿名性を勘違いして無名匿名空間に晒してしまう。だから、仲間内でやるようなおバカな行為がTwitter上に流され、それがメディアを賑わすような事件に至るというわけだ。

セレブ=実名著名人はTwitterにおいても現実空間的存在(第一象限)

Twitterは、わが国で勃興時、タレントや政治家・知識人などメディアに露出する著名人たち(以下、セレブ)がツイートし、場合によっては一般人がこれらセレブにリツイートされたりすることがウリといった宣伝のされ方をしたことがあった。だが、これはあくまでTwitterを普及するための「釣り」「煽り」であり、実際の使われ方とはかなり異なっている。

セレブたちはTwitter上においても原則、現実空間的存在(第一象限)として扱われる。実名が晒されているし、Twitter上でもその名で登録しているので、あたりまえといえばあたりまえだが、言い換えれば、それは一般のユーザーたちと異なり、Twitter上でも様々な自由の足枷が科せられているということでもある。たとえば匿名ヴァーチャル空間(第三象限)的な発言は絶対に不可能(もちろん別のアカウントと匿名を持ち、全く異なる存在としてツイートしている分には別だが)。ヘタにやったらそれこそバッシングの嵐、大炎上といったことになりかねない。これはよく政治家たちがやらかすことで、いわば担保が付いている分だけ、一般人なら自由なツイートのはずのものがバッシングの対象となる。

もちろん、だったらやらない方がよい、というわけではない。Twitterは誰とでもコミュニケーションが可能。ということは、普段はアクセスが難しいセレブであっても何らかの関わりが可能になると思わせることができるし、広報手段として利用する場合も効果的だからだ。つまり「いつでもあなたに何らかのかたちで反応しますよ」「私の日常をリアルタイムで追うことが出来ます」というわけだ。ただし、これを真に受けてはいけない。セレブ側はあくまで広報としてこれをやっているわけで、やっぱり肝心の情報を提供することはない。もし、仮にそんなことをやっているとしてら、それはあまりに不用心であり、前述したように一般人から何らかの攻撃を受けかねない。

混在する利用方法

こうやって考えてみるとTwitterは原則「匿名ヴァーチャル空間」(第三象限)であったとしてもしばしば「擬似現実空間」(第二象限)へと転じる可能性を秘めていること、場合によっては実名やプライバシーが垂れ流しになる可能性があること、さらにセレブにとっては「現実空間」(第一象限)でしかないこと、そしてそれらが混在する形で利用されていることを確認した。それゆえ、Twitter利用に際しては、現在自分が匿名性のどの部分で関わっているのかを常に注意を払う「Twitterリテラシー」が必要となる。そしてその分類が結構ややこしい。だから「わかりづらい」のである。

さて、次回は最終回。SNSを離れて匿名性を考えてみたい。トピックを当てるのは「BLOGOS記事への匿名コメント」だ。その構造について、やはり「匿名性のマトリックス」を用いて展開する。(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第3回。「匿名性」の図式を利用して第二象限(匿名+有名)のSNSであるLINE/mixiについて考えてみたい。

LINE/mixiと 現実模倣空間的存在

匿名+有名+非名の第二象限の典型的なSNSはLINEとmixi(ここではmixiはほぼ「オワコン」なのでLINEを中心に扱う)。この二つは様々な機能があるが、実質的にはほとんどグループ内のメッセンジャー的な使われ方しかしていない(僕が教える学生400名ほどにアンケート調査をした結果、たとえばLINEだったらほとんどトークだけ。通話機能すら接続がイマイチということもあってあまり使われていなかった。ちなみにLINEの利用率はスマホとガラケーを足して99%)。たとえハンドルネームで匿名であったとしても、互いの存在、そして実名も現実世界が担保になっているためよく認知されている。ただし、グループで括られているため、その密室性は高まる。利用に際しては、仲間内の「ひそひそ話的・ここだけの話」的な文脈が登場するのだ。

プライベートな関係による互いの自由度の確保と拘束

それゆえ、第一象限(facebookが該当)の現実世界空間的存在によるコミュニケーションよりも別の意味で拘束性が発生する。第一象限は礼儀・倫理・慣習・道徳といった世間一般的な作法が関わる者同士を拘束するが、こちらの場合は仲間内の、ややもするとウェットな関わり合いが相互を拘束する。つまりプライベートに構築された関係性は、グループ外部による自由の拘束からは逃れられるものの、内部では相互の自由を拘束する。

それゆえ、この象限はまだ社会性が低く、人間関係が未熟で、狭い人間関係を維持することに執着する若年層に重宝がられる。トークのグループ機能で仲間を括れば、その中はクローズな関係が維持できるからだ。しかも、この範囲で発言している分には、それがメンバー外の人間に知られることはないので、発言に対して社会的責任は生じず、自由に振る舞える。

ただし、前述したように相互に強く関係性を拘束する。そして、これは自分たちだけの間に形成された関係性、マナー、黙契ゆえ、拘束性は第一象限のFacebookよりも強い。たとえば、これらをグループ内で守ることの出来ないメンバー=友だちは、グループ内の結束を見出すものとして除外されるといった現象を生じる。そして、それが結果として現実世界でのイジメに接続するような可能性を高めていく(その一方で、このイジメは、いじめる側のメンバーについては連帯を高め、グループの閉鎖性を高めていく)。それゆえ「mixi疲れ」という言葉に象徴的に現れるように、しばしば人間関係の疲れを起こしてしまう。また、これは社会圏を非常に狭く限定する恐れも有している。そうなると、今度は実際の社会に出ないでやりすごすためのモラトリアム・ツールとしてライン/mixiが機能してしまうこともしばしば発生する。

大人が使えばプライベート活性化ツール

とはいうものの、これは大人の感覚=認識で使えばプライバシーを防衛しながら、プライベートを楽しむための格好のSNSとも言える。恋人同士がラインを通じて常に接続し続けることが出来るわけで(スマホはウェアラブルなので、こういった密着環境がいっそう容易に構築可能だ)、「あなたと私のラブラブモード」のメインテナンス、活性化ツールとしては抜群の機能を発揮するのだ。また、これはたとえば家族間で親子が連絡を取り合うためのツールとしてもうまく機能する。今や子どもの方もスマホ持ち。そしてこれを使った友達とのコミュニケーション手段もそのほとんどがLINEだ。ということは、親が子どもを管理しようとするならば、LINEはきわめて便利なものになる。LINEはもはや子どもたちのコミュニケーションのためのプラットフォームとして機能している状態なので、そのプラットフォームに親が乗り入れることが可能(もちろんリアルな友だちと形成するグループとかは別立てのグループやトークだが)。そうすると、親は子どもがいつ、どこで、何をやっているのかを常時把握できるのだ。

そう、この象限のSNSは、ある意味、実名の第一象限よりプライベート性が全然高いのである。

次回はTwitterの匿名性について。(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)今回はこの「匿名性」の図式を利用してメジャーなSNSのうちFacebookについて考えてみたい(ちなみに、ここで「匿名性」とは、こういった「匿名-実名」「有名-無名」「著名-非名」といった概念を包括する上位概念として用いていることをお断りしておく)。

facebookと現実世界空間的存在

facebookは実名制を担保にしたSNSであり、その中でユーザーは典型的な1=現実世界空間的存在(実名+有名+非名)となる、匿名とは対極にある存在。それゆえ必然的にfacebook上では現実世界におけるマナーがそのまま持ち込まれる。

現実空間持ち込みの窮屈さ
ただし、この「現実世界の持ち込み」は諸刃の剣でもある。現実世界的な責任性が持ち込まれるゆえ、そのレベルでは相互に信頼を寄せており、安全なコミュニケーション関係を維持することが出来るが、反面、というか当然のことながら現実社会の責任性が担保となるため、現実世界が規定する自由の拘束度もそのまま持ち込まれるからだ。だから、発言が「無責任である」とか「マナーに欠ける」といった面については敏感にならねばならない。

facebookにおける空間認識の誤用とトラブル

ところが、この特性、いいかえれば「facebookリテラシー」が涵養されていない場合には不適切な用い方がなされ、それがしばしばコミュニケーション上でトラブルを起こす。たとえば、facebook上にプライベートを公開する際には、その範囲に対して注意深さが必要だ。にもかかわらず、これはしばしば見受けられるのだが、周囲が見たくもないような情報を公開してしまうということがおこりうる。そのうち、最も頻繁に見られるものの典型として「自分の子どもの日常に関する写真の公開」をあげることが出来るだろう。まあ、愛する自分の子どもの成長ぶり、かわいらしさを公開したいというのは「親バカ感覚」ゆえわからないでもないが、それをそのまま受け取ってくれるのはごく一部の人間、つまり身内や親密な相手レベルに限られる。それ以外の人間にとっては、それはただの「うざったい情報」でしかない。これをやる場合は、そのことを理解してくれる人間をグループ機能にまとめて、そちらに公開するか、第二象限=2現実模倣空間的存在となることができるLINEやmixiを使うのが正しいということになる(つまりSNSの場を変えて、明確に「身内ネタ」に落とす)。これはよく考えてみればあたりまえで、現実世界では、こういったことはあまりやられていないし、やれば迷惑がられるのがオチだ。つまり現実世界の「公私の区別」はfacebook上でも意されなければならない。

ところが、これがSNSというヴァーチャルな空間ゆえ、facebookが現実空間と変わらないものであることが認識しづらい。そして、こういったfacebookの「誤用」が、結果としてfacebookそれ自体をうざったいものとみなし、それが結果として「facebook離れ」やfacebookに関する嫌悪感を生んでいることも事実だろう。またfacebookのこういったメディア特性にふさわしい利用の仕方を認識できなかったユーザーは「あれはただの同窓会名簿だ」と一蹴してfacebookから離れていく。

現実空間をヴァーチャルに持ち込むことで現実空間を活性化

言い換えれば、facebookは実名制かつ有名であること、そして非名であることを有効に活用することで初めてその機能が十全に活用できるようになるSNSなのだ。前述した「同窓会的利用」の有効的な活用もその一つ。別に不仲になったわけでもないが、生活空間が異なるようになったため、あまり関わりがなくなったような相手とfacebookを通じて関係を復活させるという「グローバルヴィレッジ(マクルーハン)」的な使い方をする際に、facebookは大きな威力を発するのだ。また、グループで括り、それを限定されたメンバーの連絡網として仕事などに利用する(グループ内はクローズドになる)と、その利便性はいっそう高まる。つまりニュースフィードで「友達」たちの近況をチェックしつつ、その一方でグループで日常的に連絡を取り合うことで、facebookはコミュニケーション・プラットホーム的な機能を有するようになり、この二つの機能がプッシュ機能として働いて、きわめて社交的空間を作り上げていくのである。

要するにfacebookは、実名+有名+非名の現実世界を、あくまでヴァーチャルにあげたものにすぎないので、現実世界の人間関係やルール・マナーがそのまま適用されるのだ。だから基本的にコミュニケーション能力の高い人間にとってはヴァーチャルな世界を用いてリアルを活性化することになるので至って便利なSNSということになる。

次回はmixi/LINE、Twitterと匿名性について展開する(続く)

「匿名―実名」だけのスケールでは説明は十分ではない

インターネット上、とりわけSNS上で「匿名」はどのように機能するのだろうか。今回はSNSを中心に「匿名性」について考えてみたい。

匿名は無名=存在が知られていないというわけではない
先ず、「匿名」ということばについて確認してみたい。「匿名」というのは「匿」「名」。レ点読みすると「名を隠=匿す」となる。それゆえ対義語は「名を隠さない」、つまり「実名」となる。ということは、一見すると「匿名は名を隠している人間の存在が知られておらず、実名は知られている」ということになるのだが、これは間違っている。匿名であったとしてもよく知られている人間は山ほどいる。またその逆も同様だからだ。

ということは、「実名―匿名」という二分法だけでは、匿名の性質がわからない。そこで、これに「有名―無名」という、もう一つの二分法を挿入してみよう。これはその人間の存在=人格・人物が「名前」の認知の有無にかかわらず知られているか否かという軸だ(この「有名」は、一般に使われている「有名人」のそれではない。認知度の規模の大小にかかわらず、一定範囲で存在=人格が知られているという意味)。また、この軸の他に、さらに補足として、先に挙げた「有名人」で使われるような社会一般に用いられている「有名」、つまり広く世間に認知されていることを、ここでは「著名」、一方、社会一般に用いられている「無名」、つまり周辺のみに知られ、世間には知られていない言葉を「非名」という言葉で便宜上表現しよう。つまり「実名―匿名」「有名―無名」そして「著名―非名」となる。

さて、これら「匿名性」(あるいは有名性)を、前者二つの軸を中心にマトリックスを構成すれば次のようになる。

第一象限:実名+有名

名前と顔が一致し、しかもその存在=人格を認知しているという人物が該当する。リアル上では身内、友人、知人が該当する。当然、一般人の場合、世間的には知られていないので非名な存在だ。一方、ヴァーチャル上では、自らの名前=実名がネット上に晒され、かつその存在=人格・人物が知られている場合だ。非名で典型的なのはメールのやりとり(相手と実生活での関わりが前提される)、そしてSNSならばLINEとFacebook上のメンバーが該当する(ただし、ハンドルネームを利用する場合は非該当)。ただしLINEは非名のレベルが極めて高い。有名なのは原則、身の回りの人間だけだからだ。当然、情報の双方向性も高くなる。ただし、Facebookは「友達」を増やしていけば著名な方向に向かう潜在性を有している。

 一方、実名+有名で「著名」な存在は政治家、そして実名で露出するタレント、有名人などが該当する。これらの人物については、情報の受け手は彼らの存在を直接的には知らないが、彼らがどのような活動を行っているのか、どのようなパーソナリティなのかをメディア越しにはよく知っている。 情報の流れは一方向的だ。

第一象限的は一般的な匿名の対極にある。自らの発言にはリアルな自分の存在が常に担保としてつきまとう。それゆえその発言に際しては責任性が生じる。たとえば知り合いの他者に向けても、その関わり方には一定の礼儀が重んじられるし、他者への配慮が前提とされる。著名であれば、その責任性はさらに大きくなる可能性が高い。著名人の「失言」などは、その責任制を象徴的に示す事態で、しばしばスキャンダル的な扱いさえ受ける。

第二象限:匿名ー有名

名前それ自体は知られていないが、存在は認知されているといった人物が該当する。非名のレベルでは、例えばSNSのmixiなどでハンドルネームを使用している状況が該当する(LINE、Facebookもハンドルネームを利用すればこちらに該当する)。お互い匿名であるが、mixiを介してやりとりする相手のそのほとんどは日常的に関わっている人間であり、実際にはその名前を知っている。またネットを介して匿名で知り合い、実名を伏せつつ関わり合い続けるような場合もこれに該当する。以前「ネカマ」がネット上で話題になったことがあるが、これなどは男性が匿名を利用して女性を装い相手の男性と関わるわけで、関わり合いが深まることで結果として互いの人格が知られるようになる(たとえ、その人格が仮想のものであったとしてもだが)。

著名のレベルはやはり有名人が該当する。芸能界なら、たとえばデーモン閣下が典型。実名は知られていないが(判っているのは名字の小暮だけ)、その存在=人格はつとに知られている。マツコ・デラックスや叶姉妹もまたこのカテゴリーに属するだろう。これらの人物のホントのところはほとんどわからない(まあ調べれば実名がわからないこともないが。たとえば叶姉妹は実際には姉妹ではない。しかし一般的にはそういったところに関心は向いていない)。また、ネット上の例を挙げればブロガーのちきりんは匿名であり、こちらは顔も実名も知られていないが、ブロガーとしての存在=性格は著名だ(彼女の場合、支持する読者たちは彼女の書くネタと言うよりも彼女だからそのブログを読む。つまりブログを書く人格に関心を持っている)。一般人だと、ちょっと前に流行った「生協の白石さん」あたりか?

第二象限的な存在の場合、匿名であったとしても、人格がある程度発言の担保となる。非名の場合は、実質的に相手の存在を知っていれば(mixiでの関わりなど)、これは第一象限とほとんど同じ、つまり実名ということこととなるし、相手の存在=実名を知らない場合でも、人格の一貫性が担保として機能している。ということは発言においては実名と同様の責任性が生じる。ただし、匿名と実名が照合できない人間にとっては佐野対象が特定されない。それゆえ、この象限での関わりは知っている同士の親密性やプライベート感覚が強くなる。要するに「ここだけの話」といったシチュエーションが成立する。

著名の場合には、非名における「実名認知」「実名不認知」の中間的な立場となる。前述の例としてあげたデーモン小暮、マツコ、叶姉妹などは姿が露出しているので実名認知に近い。ただし匿名として別人格を演じているというレベルでは一般人のそれとは異なっている。それゆえ、この手の著名の場合には責任性が生じるが、一般には別人格を演じているという前提が認知されているので、責任性が若干留保され、比較的自由な発言が可能となる。異界系?(デーモン小暮)やニューハーフ系(マツコ)などが領域横断的に発言が許されるのは、こういった立場に自らを置いているからだ(たとえばデーモン小暮は角界のご意見番を「魔界」の立場から語ることで相撲界からは重宝がられている。いわばトリックスター的扱いだ)。まあ、逆に言えば、別人格としての責任性が発生するのだが。ちきりんや生協の白石さんの場合、別人格を演じているわけではないが容姿や属性が不明ゆえ、実名不認知的な存在となる。そして、この場合、人格と言うよりも属人性、つまりこれら人物が持っている知識や見解といったところが一般の対象となる。もちろん、この2人も自らの専門とする領域での発言には責任性=人格の一貫性要求が生じる。さもなければその著名性は担保されない(このカテゴリーに属するアメリカで有名な存在は「偽ジョブズ」だ。本物ではないにもかかわらず「スティーブ・ジョブズ」と称し、アップルに関する様々な情報を流したり、コメントしたりしていたが、その情報がきわめて詳細かつ正確だった、つまり発言に責任があったので偽物であるにもかかわらず、多くの支持者を得た)。

第3象限:匿名+無名

2ちゃんのほとんど、いわゆるハンドルネームや名無しさん、そしてブログなどにコメントする匿名の人間、そしてTwitterにハンドルネームで登録している人間が該当する。このような存在はSNS上で自らが反応=コメントすることは出来るが、直接自らに反応されることは、原則無い。ある場合は、コメントに対して直接ツッコミを入れられる場合に限定される。もちろん、この場合、あくまでハンドルネームや名無しさんとしての立場に対してツッコミが入る。ということは、この立場では、発言に際してはかなり自由な態度がとれる。いいかえれば無責任な発言が可能となる。最終的にリアルな自分=人格が危害を被る可能性がほとんどないからだ(ツッコまれてヤバくなったらフェードアウトすればよい)。当然ながら、この象限では著名な存在は論理上、あり得ず、非名だ。

第4象限:実名+無名

名前を晒してはいるが、その存在を知られていないといった存在。リアルな世界では名簿に記載されているような人物(名前と顔が一致しない)。ヴァーチャルでは実名でアップされているブログのほとんど。これらの閲覧数は一日、二桁程度であり、だから、名前を晒したところでほとんどの受け手に、その存在が知られることはない(ただし二桁程度の閲覧者のある程度が仲間内なので、この範囲においては「実名+有名」となる)。この象限でも著名な存在は論理的にあり得ず、全てが非名だ。


こうやって匿名の中身を整理してみると、結局、実質的に①実名―有名―非名、②実名―有名―著名、③匿名―有名ー非名、④匿名―有名―著名、⑤匿名ー無名―非名、⑥実名ー無名―非名の六つのカテゴリーが登場することがわかる。ただし一般人はほとんど非名なので実質的に②や④の立場に置かれることはない。


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そして、ネット上で、われわれはこれらの特性を無意識のうちに察知し、それぞれのメディア特性に基づいて使い分けをしているのだけれど、この使い分けがかなり適当ゆえ、しばし混乱が起きている。そこで、この混乱状況について、もう少し単純化した形で考えてみよう。わかりやすいように、それぞれの象限にネーミングを施そう。先ず、一般人のみがそのシチュエーションに入り込むものだけ、つまり1、3、5、6について。1は「現実世界空間的存在」、2はバーチャルだが現実をそのまま持ち込んだだけなので「現実模倣空間的存在」、5は「匿名ヴァーチャル空間的存在」、6は「非存在」。


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そこで次回はSNSFacebook、Twitter、LINE、mixiといったSNSが「匿名性」を軸に、どのように使い分けられているのか、あるいは誤用されているのかについてみていこう。ちなみにFacebook=「現実世界空間的存在」、mixi・LINE=「現実模倣空間的存在」、Twitter=「匿名ヴァーチャル空間的存在」として、振る舞うのがそれぞれのSNS上での原則だ。(続く)

個人情報保護法の徹底、インターネット環境の偏在化に伴って、以前にも増して意識されるようになった「匿名」ということば。しかし、プライバシー防衛に関するヒステリックなほどの対応の加速(テレビの画面はボカシだらけ、マンションやアパートの玄関に表札をかけない、マンション住民が自治会や理事会に世帯構成員の名前どころか人数を告げることすら拒絶するなどなど、今や日本人はプライバシーに関して完全に過敏になっている)によって、とにかく「匿名」であること、言い換えれば「実名」が表に出ないことが重要視されている。僕の知り合いの中に「絶対にFacebookはやらない」と断言する人間がいるが、まさに、これなどは、この「実名」「匿名」という分節に過剰になっている典型例だろう。

もちろんプライバシーを保護するために「実名を隠す」「匿名である」と言うことそれ自体は重要ではある。しかしながら、ちょっとヒステリックになりすぎなんではないか?あたかも腫れ物に触るかのようなこの対応。かえって危険なんじゃないだろうか?これじゃ、臭いものに蓋。ますます生ゴミの中身が発酵して危険意識が高まるだけだ。そして匿名の扱い方をおかしくするだけだ。

ということで、今回は、この「匿名」についてインターネットとの関わりで考えてみたい。で、最終的に提案したいのは「匿名」「実名」という考え方の賢い使い分けだ。先ず、今回は「匿名による誹謗中傷コメント」の構造について考えてみる。

匿名のメリット~自由な発言のワンダーランド

先ず、匿名であることのメリットは何か?言うまでもなく、自らが発した発言に対して責任を負う必要がない点だ。だから、ある意味、発言はナンデモアリだ(もちろん、その発言を発した匿名の人間のプロフィールを暴き立てるという連中もいるが、その際にはもはや、それは匿名ではない)。こういった「やりたい放題」の場所は、いうまでもなく2ちゃんねるだ。「便所の落書き」とも揶揄されるこの掲示板。匿名であるがゆえに、「荒らし」は起こるは、「祭り」は起こるは、とにかく賑やか。誹謗中傷的な話題にも事欠かない。ただし、そこには実名では語ることの出来ないインサイドな情報、言えない情報も流れてくる。それが議論それ自体を活性化するということもありうる。

匿名という名の「通り魔」

ただし、匿名であると言うことは「通り魔的行動」もまた可能になるということでもある。2ちゃんねるのような掲示板であれば「便所の落書き」的なものであるがゆえに、誹謗中傷、過激なコメントであったとしても、それはあくまでも落書き上のこと。つまり匿名の他者に向けられたもの。特定の他者に向けられたものではないし、たとえ特定の他者に向けられていたとしても、その特定の他者もまた匿名の他者。いいかえれば、「これらはあくまでヴァーチャル世界での出来事」と済ましてしまえば、まあそれで事は収まる。

ところが、コメントされる方が実名で、これに対してコメントが匿名で、しかも内容が誹謗中傷である場合、これは2ちゃんねるとは異なった状況が展開される。誹謗中傷が特定の他者に向けられているため、まさにこれは「通り魔的行動」になるのだ。つまり、「これを書いているヤツがいけ好かない。だったら殴ってやれ!」となり、便所の落書きをする掲示板が、突然、生身の人間に転じてしまう。しかも、自分はあくまで匿名ゆえ「通り魔的」に誹謗中傷を浴びせ、そのままやり逃げしてしまえば、コメントした側は傷つくことはない。一撃をくらわせたことに快を覚えるだけだ(時に、他のコメントにカウンターを食らうことはあるけれど)。BLOGOSなどに寄せられるコメントの中には、こういった「通り魔的コメント」が散見される。

ちなみに、僕のブログにもこういった「通り魔的コメント」がなされることがあるが、原則ほとんど内容を無視している(まあ、「恥ずかしい事をなさっているのに、お気づきにならないようだ。お気の毒に」くらいには思うけれど)。また、匿名でのコメントで酷いもの(中身を全く読めていない、ことばの一部だけを取り上げて恣意的な解釈を繰り広げる、自分の意見だけをもっぱら展開する、なぜか僕についての個人的な誹謗中傷をあげつらうなど)については一切、返事をしない。まあ、こんなコメントにいちいち目くじらを立てているようじゃ、ブログなんか書けないんだけど(笑)

フィルターバブル:匿名コメントによる誹謗中傷はコメントする当人の社会性の後退を促す

また、匿名での誹謗中傷コメントの場合、発言にブレーキがかからないので、これをもっぱら匿名上で展開する人間は、イーライ・パリサーの指摘する「フィルターバブル」を来すことになる(『閉じこもるインターネット』E.パリサー著、井口耕二訳、早川書房2012)。これは、情報をインターネット上で任意に収集していくことで、情報がパーソナライズされ、その結果、自分だけの情報宇宙が構築される現象を指している。(今や検索エンジンや協調フィルタリングシステムによって、あなたは好きな情報だけを収集し、それ以外のものを排除することが出来る。たとえば、身体の具合が悪いとき「自分は癌だ」と思って検索をかければ、実際はそうでないのに自分が癌でしかも不治であるとか、反対に実は癌なのに「癌ではない」と思って検索をかければ癌とは無縁であるという結論に達することが出来るのだ。つまり、自分の思いに合わせていかようにでも情報を収集し、任意の世界観を作り上げることが出来る。詳細については本ブログ「自分の病気の症状をネットで調べると……必ず死ぬ?」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/04/15参照)こういったフィルターバブルの歯止めをかけるのがリアル、言い換えれば実名による責任ある発言なのだが、それがないということは、フィルターバブルによって構築された世界観に基づき、責任の発生しない匿名によるコメントによってネット上にコメントすることで、どんどんと自閉的な世界観を構築することが可能になってしまうのだ。そして、気がつかないうちにきわめて偏狭な、そして社会性のない世界観が作り上げられていく。ただし、それが通用しないことは実際のリアル=現実世界に関わらない限り自覚することは不可能。つまり、ひたすらネットにアクセスし続けることでタコツボ的な世界は維持され続ける。パーソナライズを続ける限り、自らを正当化する情報が延々とインプットされ続けるからだ。かくしてフィルターバブルはどんどん膨れあがっていく。

なぜ実名で公開されている情報に、匿名で誹謗中傷コメントを浴びせるのか

ブログなどで実名でコメントしている人間に対する、匿名による誹謗中傷コメントは、こういった人間が自閉的世界へ自らが閉じこもっていること=社会性が喪失されているという事実を抑圧するには格好の手段である。相手は実名、つまりリアル世界と接続している人間だ。ならば2チャンネル上のようにバーチャルな人間=匿名の人間にコメントで誹謗中傷するよりも、自らのコメントに社会性が生じているようにみえる。また、誹謗中傷コメント上で、匿名でコメントしている同士が呉越同舟して実名=リアルのコメントを誹謗中傷すれば、今度は「自分と同じことを考えている他者がいる」ということになり、その場限りではあるが社会性らしきものを獲得できる。便所の落書きより、生身の人間の方が反応がありそう、つまり「殴り甲斐=社会と関わったという実感」がある。しかも、殴った相手の反応を見る可能性を期待できるし(コメントし返してくるかも知れない)、その一方で、間違ってもこちら側は匿名だから「殴り返される」心配は無い。

こうやって、匿名によって実名ブログなどへのコメントに誹謗中傷を浴びせる人間は、自らフィルターバブル状態をメインテナンスしていくというわけだ。だから、常習化する、つまり、やめられない。なんのことはない、それはヴァーチャル上でのアイデンティティ確保・メインテナンスの手段なのだから。しかし、その結果、自閉性=非社会性はますます高まっていくことになってしまう。つまり「匿名によるネット上へ誹謗中傷的コメントは自傷行為」。

この非社会化のスパイラルから脱却する方法は……そりゃ、簡単。実名でコメントしている人間には実名でコメントすればよいだけのこと。ただし、それは、当然のことながら、そこからリアルの作法が適用されるということでもある。つまり「殴れば、殴り返される恐れがある」。ということは、おいそれとは殴ること、つまり誹謗中傷を浴びせることが出来なくなると言うことなのだけれど。

次回は本題の「実名と匿名の使い分け」について考えてみたい。

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