勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

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ブログをアップする側の悩み

ぼくがブログを運営し、BLOGOSに転載され、コメント欄も設けていることを知人が知ると、しばしばこんな指摘を受ける。

「コメントの誹謗中傷によく耐えられるね?自分は、あんな感じで罵詈雑言を浴びせられるのにはとてもじゃないけれどガマンできない!」

そういえば、BLOGOS上でコメントを受け付けていないブロガーも散見される(コメント欄の設置については任意ゆえ、拒否することも出来る)。

僕の答えは、

「まあ、鈍感力で(笑)」

というもの。

書き込まれるコメントのうち、三割程度は完全に的を外してしまっているか、あるいはブロガーに対する誹謗中傷(ブロガーの属性に基づいて、そこから憶測するかたちで行われるものが多い。さしずめ僕の場合は「大学教員」という肩書きを踏まえての攻撃だ。「大学なんて“象牙の塔”にいるから、オマエは世間のことを全然知らない」みたいなモノノイイがそれ)になる。

僕がこういった「誹謗中傷系」のコメントが三割くらい入ってしまうこと(コンテンツにもよるが)について、前述したように「鈍感力」で適当にスルーすることにしているのは、議論やコメントはなんであれ、ある程度こういったピントはずれの発言・コメントが含まれること、他者を自己満足の道具にとする輩が含まれるのは、ある程度やむを得ないと考えているからだ。これはネットではないが、大学では授業改善を目指して「授業評価アンケート」を実施する。アンケートなのでほとんどが選択式だが、終わりに筆記回答式の自由記述欄があり、ここでは、しばしば「声がヘン」「容貌がおかしい」といったような、質問事項とは直接関連のない誹謗中傷のコメントが寄せられる(脆弱性の高い教員の中には、怒りはじめる者すら現れる。まあ、これもまた「大人気ない」のだが)。で、やはりこの割合が似たようなものなのだ(つまりコメントの三割くらい)。双方に共通するのは「匿名で責任性の回避が担保されていること」。それを逆手にとって言いたい放題をやってしまう人間が残念ながら必ず一定の割合で存在するのだ(ちなみに実名になったら、これは限りなくゼロになる)。

こういったブログに対する誹謗中傷コメント。第三者的な視点、つまりニュートラルな視点からこのコメントを読み返してみると、かなりみっともないものにみえる。コメントを書き込む側の「リテラシーの低さ」、そして「痴性」つまり「知性が存在しないこと」を世間一般にさらけ出してしまっていることになるからだ。いわばTwitter上でコンビニの冷蔵庫に入った写真をアップするのと基本的に同じ構造。「みっともない」「やってはいけない」ということに自覚がない。

そこで、今回はメディア論、とりわけ記号論の概念を用いつつ、この「痴性溢れるコメント」がなぜ発生するのかについて分析してみたい。

テクスト、コンテクスト、知識体系

分析に当たって「テクスト」「コンテクスト」「知識体系」という三つの概念を説明しておく。

先ず、次の問題を解いて欲しい。


問題1:以下の空欄を埋めなさい。

(a)□肉□食
(b)品□方□
(c)天□大□


問題2:カタカナの部分を漢字になおしなさい。

派手なカッコウをした男


問題3:長さ16㎝の角材があります。これを4等分すると一つは何㎝になりますか。


この三つの問題、それぞれの答えは「一般的」には次のようになる。

問題1-(a):弱肉強食
問題1-(b):品行方正
問題1-(c):天下大平

問題2:派手な「格好」をした男
問題3:4㎝

だがこれは唯一の回答とは言えない。それぞれ別の回答例を提示してみよう。

1-(a):焼肉定食→定食屋でこの問題を出したら、たぶんこっちだろう。
1-(b):品川方面→駅での出題だと、多分こうなる
1-(c):天丼大盛→これも定食屋、天照大神→神の国の宮崎県民に出題するとこうなることがある(これ、実話です)。ちなみに「天下大平」は誤表記で、正しい綴りは「天下太平」で「大」のところが「太」になるが、同じような問題を連続して出題された場合(この場合は三番目)、ほとんど誰も疑うことなく「下」と「平」を入れてしまう。

2:派手な「滑降」をした男→スキー場でこの問題を出したら多分こちらの熟語が入るだろう。

3:16㎝、8㎝→角材を縦に切れば16㎝の角材が四本とれる。角材を横に2等分し(それぞれ8㎝)、次にそれぞれを縦に2等分すれば8㎝の角材が四本とれる。いずれも当分であることに代わりはない。

さて、以上の問題に対して複数の回答が出現すること。これはテキスト、コンテクスト、知識体系が絡み合うことに起因する。

わかりやすいように一番最初の問題を例に取ってみよう。「□肉□食」がテクスト、つまり「書かれたもの」。この□欄に埋める文字を考えるにあたり、この問題が出題されるコンテクスト=文脈が候補として上がってくる。つまり「弱肉強食」「焼肉定食」の二つ。このどちらを選択するのかが、コンテクストをテクストとした広義のコンテクストである「知識体系」ということになる(ちなみに、これは記号論ではさらにスキーマとフレームに分類されるが、細かくなるので省略)。知識体系は、いわばコンテクストをチョイスするメタコンテクスト=「空気」に該当するもの。つまり、前者の場合は「これは国語の問題であり、こういったところに埋める内容は「四字の故事成語でなければならない」」と考え、後者は「食堂ではいろんな定食があり、その中のひとつが選ばれる」と知識体系が判断するのだ。ちなみに逆の知識体系に基づいてコンテクストを充当した場合(試験で「焼肉定食」、定食屋で「弱肉強食」を選択した場合)は「空気が読めない」(言い換えれば知識体系が誤ったコンテクストを選択した)ということになる。で、このようなメカニズムが、先ほどの全ての問題に該当している。

さて記号論における意味のこの三つのレベル、そのままブログ記事とコメントの関係、そしてそのコミュニケーションの齟齬にピッタリとあてはまる。

先ずテキスト(先ほどの例だと□肉□食の”設問”)がブログ記事に該当する。これをコメント者は読み込むのだけれど、その際、この文面がどういったコンテクスト=文脈で語られているかについて想定する。前述の例だとテクスト「□肉□食」を「弱肉強食」「焼き肉定食」どちらのコンテクスト(狭義のコンテクスト)で読むのかを判断する。そして、この二つのどちらを選択するかは(あるいは他の選択肢もあるかも知れないが)本人の知識体系=広義のコンテクストに基づいている。だからブロガーとしては「弱肉強食」と読ませたくても、コメント者が「焼肉定食」というコンテクストを支持するといった状況が発生する。これがブログ発信者のメッセージとコメント者の受信、つまりブログ解釈の齟齬となる。

齟齬を避けるためにブロガーとコメント者がすべきこと

こういった「齟齬」を避けるためにはブロガー、コメント者双方が”テクストに対する周到性=用心深さ”を備えることが必要となる。

ブロガー=発信者としては、コメント者に自らのテクストが意図した知識体系=広義のコンテクスト(=空気)に基づいてコンテクスト(狭義)を選択してもらうために、1.可能な限り平易かつ曖昧性を排除した表現を心がける、2.自らの属性を公開し、コメント者にその知識体系=広義のコンテクストに基づいて読んでもらえるよう方向付けを行うといった工夫をする。僕の場合、1については文章は偏差値50程度の大学が入試で出題している国語の論説文程度の難易度にすること、言葉の定義を明瞭にすること(たとえば「□肉□食」なら、設問に「四文字の『故事成語』を完成させよ」と明記する)、2についてはプロフィールに「大学教員」であること、「メディア論、記号論」等を専攻していることを明記する(もっとも、これが裏目に出る場合もある。大学研究者であることを示し、そちらの分野のプロパーであることを示すつもりが、前述したように「大学教員だから世間を知らない」というかたちでコンテクストを読み込まれてしまうこともあるからだ)。

一方、コメント者としては、1.テクストを丁寧に読む、2.コンテクスト(狭義)を適切に選択するためにブロガーの知識体系(コメント者の側からこれを表現すれば「ブロガーの意図」)が何なのかを斟酌すること、となる。

自らの知識体系を最優先=絶対視する

ところが誹謗中傷、ピントはずれになってしまうコメント者は、この手続きを踏もうとはしない。

先ず、ちゃんと読んでいない。これはマナーとしては問題外だろう。で、ブロガーの立場からすれば、このレベルならばコメントする資格はないとみなし、完全にスルーしても構わないだろう(要するに、この読み方では偏差値50程度に達していないので「足切り」させてもらっている。実際に本人が偏差値50であるかどうかはともかく、まともにテストを受けていないのだから、こちらも相手にするわけにはいかない)。

しかし、これよりも問題なのは、テクストを読解する力はあるのだけれど、こちらが意図した知識体系=広義のコンテクストが意図している狭義のコンテクストとは異なるコンテクストがチョイスされてしまう場合だ。つまり、前述の「□肉□食」の問題ならば、設問が国語の問題であり、従ってここでは「故事成語を埋める」ことを「空気」として読んでもらうことが要請されているのだが、その空気を読まず「焼肉定食」と埋めてしまう場合だ。

こうなってしまうのは、コメント者の方に先ず自分が主張したいことが先にあり、それを絶対視し、それに基づいてテクストに対するコンテクストを埋めてしまうからだ。言い換えればブロガーと意図などどうでもよく、とにかく「言いたい放題」を展開したいという動機が前面に出ているというわけだ(この辺の「不用心さ」を促進してしまうのが、責任性回避を可能にする「匿名性」にほかならない)。

このレベルだと、本人はブロガーの鬼の首を取ったような気分にはなっても、冷静にブログを読んでいる一般の読者からは、このコメントが「勘違い」「自己顕示」に読めるわけで、結果として痴性をまき散らす、きわめて恥ずかしいコメントになってしまうのだ。

相手を尊重する姿勢

結局、こういった「痴性溢れるコメント」をしないようにするためには、コメント者はあたりまえの話だが、1.ブログを丁寧に読むこと、2.コメントの際には自らの立ち位置、つまり知識体系から導き出したコンテクストが、ブロガーの知識体系と合致しているか、つまり独りよがりの意味づけになっていないかについて敏感さを持つことがポイントとなるだろう。言い換えれば、自らがコンテクスト(狭義)をチョイスする知識体系=広義のコンテクスト(=空気)をも対象化=相対化する作業が必要なのだ(ブロガー側がわかりやすい文面を心掛けることが重要であることは、あたりまえだけれど)。

ただし、こういうふうに言ったところで、こういった「空気の読めない」誹謗中傷系のコメントがなくなるとは思えない(実名のみの議論とすればなくなるだろうが、それでは匿名であることのよさが失われてしまう)。僕が言いたいのは、コメント者はそういった痴性をまき散らさないように心掛けた方が身のためだと言うことだ。ROMである膨大な数の第三者の閲覧者が、それを見ているのだから。


※オマケ:ちなみに「どうせコメントする奴なんてそんなもんなんだから、そんなことをゴチャゴチャ言う方が間違っている」と言う、いわゆる「ちゃぶ台返し=ニヒリズム」のコメント、実は最も質の悪いものとなる。これは「秋の味覚は松茸かそれとも秋刀魚か?」と論じ合っているときに「いずれどっちもクソになるのだから同じ」という「議論を無化する詭弁」であり、議論の場での典型的なルール違反であり、生産性がないからだ。まあ、そう思ったときには沈黙しておくのがマナーだろう。

公共圏がルサンチマン消費の場に転じるとき

ただし、である。ここに匿名でコメントする側の「ルサンチマン」が付加された場合、これは一転して個人攻撃・誹謗中傷といった様相を呈してくる。コメントする側の多くは前述したように日常生活空間においては実名だが無名、その存在をほとんど知られていない。それに対して内心忸怩たる思いを抱いているような場合にはこれを払拭する、つまり「コノウラミハラサデオクベキカ」という感覚を持ってブログマガジンのコメント欄への書き込みをはじめる。その際、行われるのは、上記の第三象限における匿名性の特徴の乱用だ。つまり、自分が「匿名」であり「プライバシーを侵害されたり、責任性を課されたりすることがない」ことを悪用して、ブロガー=第一象限の存在に対して「上から目線」で攻撃を開始する。ブログマガジン上で社会的存在あるいは著名な人物と対等になったことを履き違え(ブロガーとコメント者は匿名化によって対等性を確保されたはずなのだが、こういったルサンチマン的心性を保持する場合にはデフォルト的=無意識裡には自分が劣者、ブロガーが優者と本人は認識してしまう)、コメント欄で議論をするよりもブロガーに対して力関係上凌駕してしまおうというかたちでルサンチマンが炸裂する。ちなみにこれはリアル、つまり対面上ではほとんどあり得ない状況だ。こんなことを対面上で行えば無視されるか逃げられるかのどちらだからだ。まさに見知らぬ相手に突然「馬鹿、アホ」呼ばわりされるシチュエーションなのだから。で、そういった「非常識」は社会的コードとして共有されているので、一般的には行われない。ところがネット上はこのコードがまだゆるい、メディア・リテラシーが未成熟な状態。そこで、ルサンチマン的心性が思わず作動してしまうと言うわけだ。

 

「意見交換に基づく議論の豊穣化」から「どっちが偉いかのドツキ合い」へシフトする議論の目的

で、こうなると、当然ながら、もはやブログマガジンのコメント欄は公共圏としては機能しない。ルサンチマンを晴らすという私的欲望を達成するために、手段はナンデモアリ(人格攻撃、議論の入れ替え、属性攻撃、差別発言、枝葉末節のあげつらいなどなど)のパワーゲームになる。だから公共圏としての議論などどうでもよい話になり、ひたすらブロガーをたたきつぶすということが目的となってしまう。それが個人攻撃・誹謗中傷という形を取るのだ。また「上から目線」という態度を取るのもルサンチマン的な心性がなせる業と考えられる。要するに「議論には、その参加者は上も下もない。目ざすべき第一は議論の豊穣化」という認識がとれない。「どちらが勝つのか」という視点(もちろん、自分が勝つことが前提されている)がすべてなので、勝利のポーズをとり続けなければならない。それが結果として、個人攻撃・誹謗中傷を旨とするコメント者に「上から目線」というスタンスを取らせるのである。ベタに表現すれば「虚勢を張る」ということになろうか。

 

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ブロガーがまともに対応すればルサンチマン消費にとっては「思う壺」

ブロガーとしては「これはただの人を利用した自己顕示」「見ず知らずの他人に抜きキャバ嬢を強要させる行為」(表現がお下劣ですいません<(_ _)>)と判断し、スルーしてしまえばよいのだが、ブロガーがブログマガジンのコメント欄を公共圏とみなし、コメント欄に書き込む人間を公共的存在と捉えればマトモに対応することになる。しかし、こういったブロガーの態度は「ルサンチマン」なコメントの書き手、つまりルサンチマン消費を目的とする者にとっては格好の餌食と映るのだ。要は、これはイジメとまったく同じ構造だ。イジメの発生はいじめられる側にも、ある意味原因がある。それは、いじめられる側がイジメに対して反応してしまう点に求められる。もし、いじめる側がイジメの対象に対して働きかけても、これにいじめられる側が全く反応しなかったらイジメはほとんど成立しない。反応するがゆえに、いじめる側は「手応え」を感じ、いじめることについての動機が発生する。とりあったがゆえに、ルサンチマン消費を志向するコメント者にとっては「これはやっつけるべき存在」と映るのである。ちなみにやっつけた先にはカタルシスが待っている(やっぱり、人間はコミュニケーション動物なのだ)。

 

つまり、ブロガーがマトモに対応したがゆえに、その社会性を備えた存在と自分は関わることが出来た、これでヴァーチャルな形であれ「社会性が確保できた」という実感が得られるのだ。さらに実名、あるいは著名なブロガーに対して個人攻撃・誹謗中傷を行うことで優越性が確保される。「社会性を備えた存在を叩いたのだから自分にはもっと社会性がある」と認識されるのだ。この時、コメント欄を通してブロガー叩きをおこなう「同好の士」が存在すれば、連帯性、ブロガー叩きが自分だけでないという点で社会性(まあ、タコツボ的な社会性でしかないのだけれど)、さらに相互承認によるメタ連帯性も確保できる(つまり「セレブを一緒に叩く俺たちはイケてる」)。また、叩くブロガーが世間一般でよく知られている著名人であれば、今度はヴァーチャルではなくリアルな世界でのネタとして機能する。つまり「オレが○○(著名ブロガー)を叩いたら、あいつこんな馬鹿な反応したんだぜ!」と知人に吹聴することで、さらに優越性を一つ加えることも出来るのだ。

 

テレビの著名人を叩くより叩き甲斐がある!

ちなみに、これはテレビに登場する著名人叩きよりリアリティが高い。前回、説明例としてAB2人の人間に共通する友人Cの悪口を二人で展開することでコミュニケーションの表出機能、すなわち親密性、カタルシス、優越性、さらにメタレベルでの親密性を獲得可能になることを示した。こうすることで表出のための共通ネタ(この場合はC)を獲得できるとともに、自分たちのプライバシーは保護され、リスクは回避される。つまり、いじめる側といじめられる側が固定される。だがテレビの場合、C、つまりいじめられる側はメディアの向こうに存在するアクセス不能な他者。だから、ABの間のネタにこそなるが、どれだけいじめようが決してCから反応されることはない。これでは、イジメとしてはちょっと「手応え不足」である。

 

ところがブログマガジンのブロガーの記事に対するコメントはそうではない。C(この場合ブロガー)が反応してくれる可能性がある。また、前述したように、ブロガーを一緒に叩く「同好の士」をコメント欄で見つけることもできるわけで、こうなるとこちらのほうがはるかに「手応え≒interactivity」を感じることを期待できるのだ(つまり「イジメ甲斐」がある)。そのこと無意識裡に発見した人間は、それゆえ、嬉々としてブロガー叩きをはじめるのだ。

 

繰り返すが、もうこの時コメントの書き込みは「アジェンダに対しロジックで解を求める、あるいは解を合意形成する」という公共圏の中での理性的な振る舞いではなくなっている。目的は「議論を展開するブロガーを潰すこと」へと転じるわけで、そのため書き込み内容はどんどん人格攻撃的な内容にシフトしていくのである。気がつけば、当初やっていた議論は何だったのかすらわからなくなっている。目的に関係ないのだから議論の内容などどうでもよいのである。

 

擬似社会性は揮発性、その末路は……

ただし、それは結局のところヴァーチャル空間での擬似社会性の獲得でしかない。ブロガーを叩けば、その瞬間社会性を確保できたかのように思えるが、とどのつまりヴァーチャル上での自己満足の域を出ていないからだ。その一方で、個人攻撃・誹謗中傷を行うコメント者は責任性の付随しない中での横暴を振る舞う身勝手な存在であり、ブロガーにとっては迷惑な、公共性を持ってコメントを閲覧したり自ら書き込んだりしている他のコメント者にとっては場を荒らす見苦しい、みっともない存在。つまり「ヘンな人」でしかない。

 

そして、そのツケは、結局、個人攻撃・誹謗中傷を行う当事者の現実社会でのさらなる社会性の後退を結果し、存在論的には自分が第四象限で全く社会的に存在価値のない「電子時代の一ビット」をいっそう自覚させられることになる。

 

ただし、残念なことに他に社会性を実感する手段がないので、これは嗜癖化する。まあ、こういったネガティブ・フィードバックによる負のスパイラルはクレーマーなどとほとんど同等の心性と言ってよいのだろう。

 

で、こういったブロガーに対する個人攻撃・誹謗中傷を行うコメント者、残念ながら一定の数で必ず存在する。だから、これに対する対応もまたブロガー、さらにコメントする側(自分がなりかねないことも含めて)は考慮していかなければならないだろう。まあ、おそらくこういった空間がさらに一般化し、メディア・リテラシーが上昇していく中で、多少は減ってはいくだろうが(ただし、なくなるということは絶対にない。で、僕らとしては、それを「メディア利用の必要経費」として受け入れなければならないのだけれど)。

 

匿名でブロガーに個人攻撃・誹謗中傷をなさっているコメント者のみなさん。ヴァーチャル上でもリアル社会で適用されているマナーは必要なんですよ。そうでないと議論は出来ません。匿名で自由だからと言って勝手な振る舞いをやっているようでは、いずれ世間から「みっともない」と言われるのがオチです。また、あなたの社会生活が危うくなっていく畏れもあります。たまたま、まだこういったコメント欄がそんなには世間に知られていないので、今のところはやれているようですが、こういったヴァーチャル上の公共空間が成熟した暁には、あなたの「みっともない」がコード化=常識化しますので、お気をつけください。

 

ブログマガジンやブログでのコメント欄で、なぜブロガーに対する個人攻撃・誹謗中傷が発生するのかについて、現代人のコミュニケーション様式の変容、とりわけ表出機能(共有意識、カタルシス実感、優越感を獲得しようとするコミュニケーションの側面)の側面から考えている。前回はコミュニケーションの二側面(「伝達」「表出」)について確認し、表出機能を作動させるために必須となるネタのアクセス先が「コミュニケーションに関わる当事者の共通の知人」から「テレビ上の著名人」へ移行しつつあることを指摘しておいた。今回は、いよいよ表出機能とコメント者の個人攻撃・誹謗中傷の関連についてメスを入れていく。

 

孤立と連帯のバランスを図る

ブログへ個人攻撃・誹謗中傷を行う人間は、その多くが日常生活では第四象限、つまり実名だが無名、そして世間的には知られていないという存在(実名+無名)にポジションが位置していると考えられる。

 

情報化に伴う原子化・タコツボ化によって、こういった「電子時代の一ビット」的な、自らの存在感が感じられない閉塞状況に多くの人間が追い込まれている。しかし人間は「コミュニケーション動物」。何らかのかたちで他者と関わり続けることを欲する。ただし、他者との関わりについてはプライバシー防衛についてきわめて敏感になってもいる。そして、この感覚が他者との生身の関わりを阻害する。それゆえ、「他者と関わっていたい」が「他者と関わっていたくない」というディレンマに置かれている。1人では寂しい、だから他者と関わっていたい。しかし他者と関わると寂しくはなくなるが、プライバシーが侵害される、そして勝手気ままではいられなくなる。そこで、こういった「究極の選択」を解消・両立させる方法、つまり「1人でいても他者と関わっている」「他者の存在は実感するが、プライバシーも確保する」という欲求、すなわち「孤立と連帯のバランス」を可能にする環境があちこちに登場した(たとえば「第三の空間」としてこれを実現可能にするスターバックス、みんなでいても1人を確保できる「みんなぼっち」の空間であるカラオケボックスなど。いずれも1人でいながら他者を感じることが出来、その一方で勝手気ままも可能だ)。

 

BLOGOSにコメントすることから得られる社会性と公共圏

ブログマガジンでの匿名によるコメント投稿もまた、この一つとして位置づけられる。日常生活では第四象限に置かれ、自らの社会的な存在感を感じることの出来ない人間が、BLOGOSのようなブログマガジンにコメントする。ブログマガジンはブログとりまとめサイトであり、閲覧者も多い。ここにコメント者として加わることでネタを共有し、またヴァーチャルな形で不特定の他者と議論をすることでネット上での連帯感・親密感を獲得することが可能となる。さらに匿名、つまり第三象限(匿名+無名)のポジションからのコメントは、より自由な形でコメントが可能となる。自らが匿名ゆえ、プライバシーに関する防衛が可能で、多少逸脱したコメントをしてもコメントした側は安全な場所にいることが出来るからだ。記事に対してコメント者同士が議論を戦わせると言ったこともあるが、その際にはプライバシーが伏せられているので純粋に議論だけでの関わりも可能になる(実名者に対する関わりとは異なり、属人性≒肩書きなどに左右されることなく議論が進められる)。コメント者は匿名性を利用してブログマガジン内の議論に参加することで、自由を獲得し、他者を実感する。もちろん、カタルシスも獲得可能だ。

 

またブログマガジンでのブロガーは著名な人物も多い。あるいはそうでなかったとしても、その分野についてのプロパー的な「第一象限=現実世界空間」的存在。言い換えれば社会的存在として認知されている。これらとコメント欄を通じて関わることによって、今度は「社会と関わっている」という実感も獲得できる。

 

ただし、互いに実名での議論はちょっとはばかられるという側面もある。その理由の一つは、やはり実名によってプライバシーが露出すること、責任性が課せられること。また、著名な社会的存在と関わることに対する緊張(たとえば属人性に権威を感じてしまう)というのもあるだろう。

 

そこで第四象限からよりも、匿名化することによって第三象限からアプローチ=コメントすることでこれらの「リスク」を回避することが可能になる。つまり「プライバシー防衛」「より自由な発言の許容」「第一象限の著名な社会的存在との対等な関わり」(匿名者が意識してしまえば「ある程度」の域を出ないが)を確保できる。まさに、ブログマガジンのコメント欄は孤立と連帯を確保しながら社会と関わる空間として機能するのである。これがブログマガジンの実名と匿名が様々に絡み合う効果的な側面だろう。J.ハバーマスが指摘する「公共圏」が成立するインフラとなる。

 

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(その2に続く)

匿名によるコメントは、なぜ時によってブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になるのだろうか。これは、実は現代社会におけるコミュニケーション様式の変容に由来するものと僕は考えている。今回の特集の最後に、これを考えてみたいと思う。最初に誤解のないようお断りしておく。ここから展開する内容は匿名の投稿の内、あくまで「ブロガーへの個人攻撃・誹謗中傷になっているもの」に限る。言い換えれば匿名投稿全般を指しているわけではない。つまり「匿名投稿はダメ」と主張しているわけではない(これ自体はコメントの自由度を確保可能という点で実名によるコメントとは異なるメディア性、そして社会的メリットがある)。

コミュニケーションの構造

一旦、ちょっと話を変える。以前にも本ブログで展開した内容だが、なぜワイドショーがテレビで放送され続けるのか?実は、これは人間のコミュニケーションにとって必要な要素を、このコンテンツが含んでいるからだ。

言語学者のA.マルチネはコミュニケーションがなされる場合、二つの目的が設定されることを指摘している。一つは相手に対する情報の伝達だ。いわゆる「用件を伝える」というのがこれに該当する。これをコミュニケーションの「伝達機能」と呼ぶ。もう一つは「用件を伝えるという儀礼的行為」によって達成される、コミュニケーションに関わる人間関係のメインテナンスとカタルシスの獲得だ。つまり伝達内容がネタとなり、それを対面的な場で相互に披露することで、互いの親密性を確保したり、相手に話をすることでスッキリしたりするというのが、それ。こちらは「表出機能」と呼ぶ。

で、コミュニケーションの大半は、実は後者の表出機能のために行われている。これは、われわれの日常会話のほとんどが、まあ意味のない「たわいのないもの」であることを振り返ってみればわかるだろう。つまり伝達しようとしてやっているのではなく「関わりたいから」「話したいから」やっている(言い換えれば伝達内容はどうでもいい)。そして、人間関係やメンタルヘルスのために、この「たわいのないもの」はきわめて重要な役割を果たしている。実際、「たわいのないものを交わす相手」こそ「仲のよい相手」となっている。

テレビ・ワイドショーの社会的機能

しかし、表出機能を作用させるためにはコミュニケーションを開く共通の地平が存在しなければならない。それがネタだ。だが、価値観多様化の中で嗜好が細分化され共有するネタを見つけにくい状況に。そういったとき、テレビによるワイドショー、そして報道は格好の共有ネタを提供するメディアとして機能する。視聴率が下がったといっても、やはりマスメディア。視聴する人間の数は個別のウェブサイトの比ではない(BLOGOSでの話題もテレビに端を発するものが多いことからも、このことは理解できるだろう)。テレビはネタとなる共通話題を提供する格好のメディアなのだ。

悪口がコミュニケーション活性化を促す

さて、ネタを介してわれわれがコミュニケーションを成立させる際、そのアウトプットとして求められている「親密性」と「カタルシス」を最もお手軽に獲得できる方法で、それゆえ頻繁に用いられているものが「うわさ」、もう少し限定してしまえば「悪口」だ。うわさ・悪口はコミュニケーションにおいて親密性とカタルシスのみならず、「優越性」も付与し、コミュニケーションをいっそう活性化させる。

悪口によるコミュニケーション活性化のメカニズムは次のようになっている。

知人AとBは、共通の知人Cをネタに会話をはじめる。この時、ネタになるのはCに対する話題だ。ただし、これが悪口・うわさとなればコミュニケーションの表出機能がより効果的に機能する。

先ず、互いがCに対するネタを語ることでカタルシスを感じることが出来る。人間はコミュニケーション動物。何かを話さないではいられない。しかも、話をする際には、それに対してリアクションしてくれるものが欲しい。言いたいことを自室で独白しても、まあ、むなしいだけだ。ところが、そこにこの発言に対してリアクションしてくれる存在(相手が、実際のところはその伝達内容を受け取っていなくても構わない。「話を聞いてくれる」という行為が儀礼的にでも成立していればそれで十分だ)がいるとカタルシス効果は圧倒的に高まる。

しかも、この時ネタが悪口であれば、さらに都合がよい。AとBがともにCをこき下ろすことで、それぞれはCに対する差異化が働くからだ。つまり2人は「自分はCよりもイケている」と考え優越性を抱くことが出来る。つまりネタを共有することによる「親密性」、語ることによる「カタルシス」に、この「優越性」が加わる。いや、それだけではない。さらにAもBも悪口によって優越性を獲得すると、今度は「Cよりもイケている『私たち』っていい感じ」「イケてる2人」という具合にメタレベルでの親密性もまた獲得できるのだ。本来、差異化=優越性を獲得するためには、何らかのかたちで比較する対象よりも自分が優れている必要がある。ところが、これは努力を要するわけで、なかなか大変。しかし、悪口はこれを容易に達成可能にする。なんのことはない。自分を上げるのではなく、他者を下げることによってこれが獲得できるからカンタンなのだ。だから悪口はやめられない。まさに「人の不幸は蜜の味」なのである。

ところが、これはプライバシーの侵害という弊害も生じる。相互にコミュニケーションを活性化させるためには不断にネタとなる共通の知人を探さねばならない。しかし自らが属している生活圏に共通の知人はそんなには存在しない。ということは今度は自分がコミュニケーションに関わっていない場合(たとえばAが関わらず、BとCによるコミュニケーションが行われる場合)、今度は自分の悪口(この場合Aの悪口)がそこに展開されることが必然的になってしまう。しかも、それは原則プライバシーに関わる内容。だから、これをやりつづけると互いのプライバシーがどんどん暴露されてしまう。

しかし、現代はプライバシーについてきわめて敏感だ。そんなことやられちゃ、たまらない。そこで、この悪口によるコミュニケーションをプライバシーの侵害なしに達成可能にする方法が現れた。それはCをマスメディア越しに登場する著名人に固定してしまうことだ。これでネタとしては使えるし、悪口を言われる側が固定される。ワイドショーや芸能週刊誌、そして一般の週刊誌が「マスゴミ」と揶揄されながら生き残っているのは、いわば、こういったわれわれのコミュニケーション活性化のための「必要悪」だからなのだ。

テレビにおけるネタ機能の衰退

ただし、最近ではこういったマスコミもまた必ずしもネタとしては機能しなくなっている部分がある。インターネットの普及で、さらに価値観そして情報アクセス先が多様化し、テレビであっても誰もが必ず見ているというわけではなくなり(視聴率は下がり続けている)、ネタとして機能しづらくなってきたからだ。また、ネタがない(厳密に表現すれば「ネタが細分化され、共通のネタにたどり着きづらくなった」)ので、生身の他者と対面で第三者(この場合、メディア越しの人間)の悪口を言い合う機会は、かつてと違って得づらくなっている。さらに知人の悪口をベラベラ喋れば、「この人、私の悪口も喋ってるのでは?」と、周囲から警戒されかねない。

とはいってもわれわれは何らかのかたちで表出、つまり共有意識、カタルシス実感、そして優越感というものを獲得したい。で、 そういったニーズの捌け口の手段の一つとして機能するのが、ブログマガジンやブログへの個人攻撃・誹謗中傷という行為なのだ。

でも、どうしてそうなるのか?(続く)

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「匿名性」について考えている。匿名は「実名-匿名」(「名を名乗る」ー「名を隠す」)「有名-無名」(「存在が一定範囲で知られている」-「存在が知られていない」)というマトリックスで分類することが出来る。さらに、これに「著名-非名」(「存在が広く一般に知られている」ー「存在が知られていない」)という下位類型が加えられる(これは有名のサブカテゴリーと考えてもらっていい。実質的に無名と非名はほぼ同じ)。今回は第5回。番外編として「匿名性」の図式を利用して、BLOGOSのようなブログマガジンに対してなされる、匿名によるブログへのコメントの構造について考えてみたい(これは一般のブログ、つまり一日の閲覧者が二桁程度のものは該当しない)。

僕のブログも含めてBLOGOSに転載されるブログ(ブロガーはブロゴスへ直接投稿しているわけではなく、それぞれブログを任意のサーバーにアップし、これをBLOGOS編集部が転載している)へのコメントのうち、匿名によるものには辛辣なものがしばしば見られる。内容の枝葉末節を取り上げて一方的に持論を展開してみたり、文面をよく読むこともせずいきなり否定してみたりするなんてのはまだいい方で、よくあるのがブロガーに対する人格攻撃・誹謗中傷的なコメントだ。僕の場合だとプロフィールに大学教授としているので、これについて噛みついてくる。たとえば「あんたは大学なんていう”象牙の塔”にいるから、なんにもわかっちゃいない」みたいなモノの言い方だ。今回使用した概念をで説明すれば僕の属人性に基づいて僕を誹謗中傷する、言い換えればブログの内容とは全く関係のない側面から攻撃してくるのだけれど。

一方、同じコメントでも実名で書き込まれているものはこうはならない。その多くは、こちらの内容をよく吟味した上でコメントを返してくれる(もちろん、匿名であってもマトモなものもある)。

こういったコメントが生まれる構造はどうなっているのか。今回(前半)は、匿名性に関する構造からこれを考えてみよう。

ブロガーとコメント者は異なる象限に置かれている

例によって匿名性のマトリックスにあてはめつつ展開してみる。匿名でコメントする書き手は「匿名ヴァーチャル空間」(第3象限=匿名+無名+非名)に置かれた存在だ。匿名+無名という二重のバリアに守られて自由な発言が許容される。社会的通念や常識にとらわれることなく活発に議論を展開することが可能になるのだ。だが、これを履き違えたときに発生するのがブロガーに対する前述したような人格攻撃・誹謗中傷、難癖もどきのコメントとなる。これは、どれだけ書き手=ブロガーを叩こうが、自らが叩かれ返す、つまりしっぺ返しを受けることは原則あり得ない。ブロガーの方がコメントに対し反論したしても、無視すればそれで終わり。だから、思いっきり叩いてやれ!という感覚だろう。

一方、叩かれる側のブロガーは「現実世界空間的存在」(第一象限)つまり「実名+有名+著名」か「現実仮想空間的存在」(第二象限)つまり「匿名+有名+著名」の立場に置かれている(著名度はブロガーによって差がある)。いずれの象限に置かれていようとも、ブロガーには社会的責任性が大きくのしかかってくる。また、第一象限の場合は完全に面が割れているので、その責任性はさらに大きくなる。

ということは、ブログで議論を展開する際にも発言には要注意ということになる。個人に対する誹謗中傷、名誉毀損の恐れがあるもの、明らかな事実誤認、ウソを流すことといったことは避けられなければならない(ただし、これは論文や新聞記事というわけではなく、あくまでも「オピニオン」なので、あまりに厳密な規定を設けてしまうと、かえってブログの柔軟性が失われる。このように考えればブログというのは完全なジャーナリズムと言えるものではない特性を備えるとみなすべきだろう。そして、そこにブログの魅力があることも確かだろう)。

BLOGOSは実名と匿名の対決にしばしばなってしまう

BLOGOS上では必然的に完全実名(書き手=ブロガー)と完全匿名(匿名によるコメント者)という図式になる。コンテンツについて「責任性を帯びた存在」と「責任性を留保された存在」による議論の応酬になるわけだ。言うまでもないが、この図式では書き手は圧倒的に不利だ。責任性を負うがゆえに発言への慎重さが求められるからだ。一方、コメント者は、責任性を留保されているがゆえに自由に発言が出来る。そこで、前述したようなブロガーへの誹謗中傷、個人攻撃的な発言がしばしばなされることになる(ただし、閲覧者のほとんどはROM=リードオンリーメンバーであり、こういったコメントをする者はごく一部と考えるのが健全だろう)。で、その際、両者の間に発生する構造はJ.ベンサムのいう「パノプティコン」そのもの。コメント者が監視人、ブロガーが囚人となる。つまりコメント者からはブロガーが見えるが、ブロガーからはコメント者が見えない。だから、気の弱いブロガーだったらブログマガジンに自分のブログが転載されるなんて恐ろしくて出来ないだろう。原則、殴られっぱなしになること、しかもいつやられるかわからないことを受け入れなければならないのだから。


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ペンサムのパノプティコン。周辺に配置されているのが独房。真ん中に監視小屋が有り、監視小屋からは全ての独房が見えるが、独房から監視小屋の監視者は見えない。

ブロガーに求められる対コメント・リテラシー

ブログマガジンが、BLOGOSが謳うように「意見をつなぐ。日本が変わる」という社会的機能を担うとするのであれば、こういった匿名者によるコメントはけしからんので、いっそのこと匿名によるコメントは許可しないようにすればよい。まあ、こんなふうに考えたくもなるが、それじゃあ匿名による自由度の圧殺になってしまい、匿名が備える議論の柔軟性に欠けてしまうのも事実。

そこで、僕はブログマガジンに転載されるブロガーの側にも「対コメント・リテラシー」を涵養すべきではないかと考えている。ちなみに、このリテラシー、一言で表現してしまえば赤瀬川源平が言うところの「鈍感力」となる。

先ず匿名での個人攻撃・誹謗中傷について。はっきり言ってこんなものは無視すればよいと思う。たとえば、今回の例で示した、僕の属人性に向けた攻撃「あんたは大学なんていう”象牙の塔”にいるから、なんにもわかっちゃいない」みたいなモノの言い方の場合、要するにこちらの人格には関係なく、たまたま職業が「大学教員」であったことから、それに対するステレオタイプに基づいてこちらを攻撃してくるわけで、いわば「難癖」。こういった的が外れているものにいちいち対応する必要などないだろう。ということで、ちょっと「イラっとする」くらいのことはあるかも知れないが、まあ鈍感力を持ってスルーする(笑)。匿名でのコメントのある程度は、こういったものが必ず含まれていることを前提とみなしてしまえばいいのである。

ただし、個人攻撃の中でも単なる人格攻撃を域を超え、差別的だったり、あまりに度を過ぎたようなコメントは「誹謗中傷」としてサイト運営者に通報するというかたちで処理をする。以前「おまえは○○人(人種名が入る)だから、そんなことを言うんだ」といったコメントが書き込まれたことがあった。僕自身は日本人で、○○人ではないが(まあ○○人でも一向に構わないけれど)、これは○○人をあからさまに差別する内容なので通報させていただいた。

一方、匿名であってもブログをよく読み、議論を投げかけてくれるようなコメント者には真摯に対応する。なんといっても「意見をつなぐ。日本が変わる」という方針にこれは適っているので。そうやって議論が深まっていけば、BLOGOS自体の社会的貢献度も高まるはずだ。

なお、実名でコメントしてくる場合は、当然「実名と実名の関わり」ゆえ、両者が社会的責任を担保にしつつ議論を応酬することになるわけで、これはいわゆる「公論の場」として成立することになる。コメントに対してこちらもコメントで返すといったことは有意義なことであると考えている。

匿名コメント者に求められるコメント・リテラシー

そして、こういったブログマガジンへのコメント書き込みをする者にも、当然ながら、いわば「コメント・リテラシー」が求められる。単なる誹謗中傷的な発言をすることが、Twitterにおける「バカ発見器に引っかかる」行為と構造的には同じ、つまり、メディア特性を理解せずに行っている「お恥ずかしい」行為であるということが認識され、ある程度控えられるという状況が生まれることが、まあ健全な方向だろう(実際にそうなるかどうかはわからないが)

しかし、なぜ、こういったブロガーを中傷したり、揚げ足取りをするようなコメントをしてしまう心性が生まれるのだろうか。実は、これは現代社会における情報化の必然的結果と僕は考えている。では、それは何か?(続く)

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