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匿名コメントが個人攻撃・誹謗中傷に転じる構造~匿名性とは何か(7)番外編・後編(その2)
公共圏がルサンチマン消費の場に転じるとき
ただし、である。ここに匿名でコメントする側の「ルサンチマン」が付加された場合、これは一転して個人攻撃・誹謗中傷といった様相を呈してくる。コメントする側の多くは前述したように日常生活空間においては実名だが無名、その存在をほとんど知られていない。それに対して内心忸怩たる思いを抱いているような場合にはこれを払拭する、つまり「コノウラミハラサデオクベキカ」という感覚を持ってブログマガジンのコメント欄への書き込みをはじめる。その際、行われるのは、上記の第三象限における匿名性の特徴の乱用だ。つまり、自分が「匿名」であり「プライバシーを侵害されたり、責任性を課されたりすることがない」ことを悪用して、ブロガー=第一象限の存在に対して「上から目線」で攻撃を開始する。ブログマガジン上で社会的存在あるいは著名な人物と対等になったことを履き違え(ブロガーとコメント者は匿名化によって対等性を確保されたはずなのだが、こういったルサンチマン的心性を保持する場合にはデフォルト的=無意識裡には自分が劣者、ブロガーが優者と本人は認識してしまう)、コメント欄で議論をするよりもブロガーに対して力関係上凌駕してしまおうというかたちでルサンチマンが炸裂する。ちなみにこれはリアル、つまり対面上ではほとんどあり得ない状況だ。こんなことを対面上で行えば無視されるか逃げられるかのどちらだからだ。まさに見知らぬ相手に突然「馬鹿、アホ」呼ばわりされるシチュエーションなのだから。で、そういった「非常識」は社会的コードとして共有されているので、一般的には行われない。ところがネット上はこのコードがまだゆるい、メディア・リテラシーが未成熟な状態。そこで、ルサンチマン的心性が思わず作動してしまうと言うわけだ。
「意見交換に基づく議論の豊穣化」から「どっちが偉いかのドツキ合い」へシフトする議論の目的
で、こうなると、当然ながら、もはやブログマガジンのコメント欄は公共圏としては機能しない。ルサンチマンを晴らすという私的欲望を達成するために、手段はナンデモアリ(人格攻撃、議論の入れ替え、属性攻撃、差別発言、枝葉末節のあげつらいなどなど)のパワーゲームになる。だから公共圏としての議論などどうでもよい話になり、ひたすらブロガーをたたきつぶすということが目的となってしまう。それが個人攻撃・誹謗中傷という形を取るのだ。また「上から目線」という態度を取るのもルサンチマン的な心性がなせる業と考えられる。要するに「議論には、その参加者は上も下もない。目ざすべき第一は議論の豊穣化」という認識がとれない。「どちらが勝つのか」という視点(もちろん、自分が勝つことが前提されている)がすべてなので、勝利のポーズをとり続けなければならない。それが結果として、個人攻撃・誹謗中傷を旨とするコメント者に「上から目線」というスタンスを取らせるのである。ベタに表現すれば「虚勢を張る」ということになろうか。

ブロガーがまともに対応すればルサンチマン消費にとっては「思う壺」
ブロガーとしては「これはただの人を利用した自己顕示」「見ず知らずの他人に抜きキャバ嬢を強要させる行為」(表現がお下劣ですいません<(_ _)>)と判断し、スルーしてしまえばよいのだが、ブロガーがブログマガジンのコメント欄を公共圏とみなし、コメント欄に書き込む人間を公共的存在と捉えればマトモに対応することになる。しかし、こういったブロガーの態度は「ルサンチマン」なコメントの書き手、つまりルサンチマン消費を目的とする者にとっては格好の餌食と映るのだ。要は、これはイジメとまったく同じ構造だ。イジメの発生はいじめられる側にも、ある意味原因がある。それは、いじめられる側がイジメに対して反応してしまう点に求められる。もし、いじめる側がイジメの対象に対して働きかけても、これにいじめられる側が全く反応しなかったらイジメはほとんど成立しない。反応するがゆえに、いじめる側は「手応え」を感じ、いじめることについての動機が発生する。とりあったがゆえに、ルサンチマン消費を志向するコメント者にとっては「これはやっつけるべき存在」と映るのである。ちなみにやっつけた先にはカタルシスが待っている(やっぱり、人間はコミュニケーション動物なのだ)。
つまり、ブロガーがマトモに対応したがゆえに、その社会性を備えた存在と自分は関わることが出来た、これでヴァーチャルな形であれ「社会性が確保できた」という実感が得られるのだ。さらに実名、あるいは著名なブロガーに対して個人攻撃・誹謗中傷を行うことで優越性が確保される。「社会性を備えた存在を叩いたのだから自分にはもっと社会性がある」と認識されるのだ。この時、コメント欄を通してブロガー叩きをおこなう「同好の士」が存在すれば、連帯性、ブロガー叩きが自分だけでないという点で社会性(まあ、タコツボ的な社会性でしかないのだけれど)、さらに相互承認によるメタ連帯性も確保できる(つまり「セレブを一緒に叩く俺たちはイケてる」)。また、叩くブロガーが世間一般でよく知られている著名人であれば、今度はヴァーチャルではなくリアルな世界でのネタとして機能する。つまり「オレが○○(著名ブロガー)を叩いたら、あいつこんな馬鹿な反応したんだぜ!」と知人に吹聴することで、さらに優越性を一つ加えることも出来るのだ。
テレビの著名人を叩くより叩き甲斐がある!
ちなみに、これはテレビに登場する著名人叩きよりリアリティが高い。前回、説明例としてAとB2人の人間に共通する友人Cの悪口を二人で展開することでコミュニケーションの表出機能、すなわち親密性、カタルシス、優越性、さらにメタレベルでの親密性を獲得可能になることを示した。こうすることで表出のための共通ネタ(この場合はC)を獲得できるとともに、自分たちのプライバシーは保護され、リスクは回避される。つまり、いじめる側といじめられる側が固定される。だがテレビの場合、C、つまりいじめられる側はメディアの向こうに存在するアクセス不能な他者。だから、AとBの間のネタにこそなるが、どれだけいじめようが決してCから反応されることはない。これでは、イジメとしてはちょっと「手応え不足」である。
ところがブログマガジンのブロガーの記事に対するコメントはそうではない。C(この場合ブロガー)が反応してくれる可能性がある。また、前述したように、ブロガーを一緒に叩く「同好の士」をコメント欄で見つけることもできるわけで、こうなるとこちらのほうがはるかに「手応え≒interactivity」を感じることを期待できるのだ(つまり「イジメ甲斐」がある)。そのこと無意識裡に発見した人間は、それゆえ、嬉々としてブロガー叩きをはじめるのだ。
繰り返すが、もうこの時コメントの書き込みは「アジェンダに対しロジックで解を求める、あるいは解を合意形成する」という公共圏の中での理性的な振る舞いではなくなっている。目的は「議論を展開するブロガーを潰すこと」へと転じるわけで、そのため書き込み内容はどんどん人格攻撃的な内容にシフトしていくのである。気がつけば、当初やっていた議論は何だったのかすらわからなくなっている。目的に関係ないのだから議論の内容などどうでもよいのである。
擬似社会性は揮発性、その末路は……
ただし、それは結局のところヴァーチャル空間での擬似社会性の獲得でしかない。ブロガーを叩けば、その瞬間社会性を確保できたかのように思えるが、とどのつまりヴァーチャル上での自己満足の域を出ていないからだ。その一方で、個人攻撃・誹謗中傷を行うコメント者は責任性の付随しない中での横暴を振る舞う身勝手な存在であり、ブロガーにとっては迷惑な、公共性を持ってコメントを閲覧したり自ら書き込んだりしている他のコメント者にとっては場を荒らす見苦しい、みっともない存在。つまり「ヘンな人」でしかない。
そして、そのツケは、結局、個人攻撃・誹謗中傷を行う当事者の現実社会でのさらなる社会性の後退を結果し、存在論的には自分が第四象限で全く社会的に存在価値のない「電子時代の一ビット」をいっそう自覚させられることになる。
ただし、残念なことに他に社会性を実感する手段がないので、これは嗜癖化する。まあ、こういったネガティブ・フィードバックによる負のスパイラルはクレーマーなどとほとんど同等の心性と言ってよいのだろう。
で、こういったブロガーに対する個人攻撃・誹謗中傷を行うコメント者、残念ながら一定の数で必ず存在する。だから、これに対する対応もまたブロガー、さらにコメントする側(自分がなりかねないことも含めて)は考慮していかなければならないだろう。まあ、おそらくこういった空間がさらに一般化し、メディア・リテラシーが上昇していく中で、多少は減ってはいくだろうが(ただし、なくなるということは絶対にない。で、僕らとしては、それを「メディア利用の必要経費」として受け入れなければならないのだけれど)。
匿名でブロガーに個人攻撃・誹謗中傷をなさっているコメント者のみなさん。ヴァーチャル上でもリアル社会で適用されているマナーは必要なんですよ。そうでないと議論は出来ません。匿名で自由だからと言って勝手な振る舞いをやっているようでは、いずれ世間から「みっともない」と言われるのがオチです。また、あなたの社会生活が危うくなっていく畏れもあります。たまたま、まだこういったコメント欄がそんなには世間に知られていないので、今のところはやれているようですが、こういったヴァーチャル上の公共空間が成熟した暁には、あなたの「みっともない」がコード化=常識化しますので、お気をつけください。
匿名コメントが個人攻撃・誹謗中傷に転じる構造~匿名性とは何か(7)番外編・後編(その1)
孤立と連帯のバランスを図る
ブログへ個人攻撃・誹謗中傷を行う人間は、その多くが日常生活では第四象限、つまり実名だが無名、そして世間的には知られていないという存在(実名+無名)にポジションが位置していると考えられる。
情報化に伴う原子化・タコツボ化によって、こういった「電子時代の一ビット」的な、自らの存在感が感じられない閉塞状況に多くの人間が追い込まれている。しかし人間は「コミュニケーション動物」。何らかのかたちで他者と関わり続けることを欲する。ただし、他者との関わりについてはプライバシー防衛についてきわめて敏感になってもいる。そして、この感覚が他者との生身の関わりを阻害する。それゆえ、「他者と関わっていたい」が「他者と関わっていたくない」というディレンマに置かれている。1人では寂しい、だから他者と関わっていたい。しかし他者と関わると寂しくはなくなるが、プライバシーが侵害される、そして勝手気ままではいられなくなる。そこで、こういった「究極の選択」を解消・両立させる方法、つまり「1人でいても他者と関わっている」「他者の存在は実感するが、プライバシーも確保する」という欲求、すなわち「孤立と連帯のバランス」を可能にする環境があちこちに登場した(たとえば「第三の空間」としてこれを実現可能にするスターバックス、みんなでいても1人を確保できる「みんなぼっち」の空間であるカラオケボックスなど。いずれも1人でいながら他者を感じることが出来、その一方で勝手気ままも可能だ)。
BLOGOSにコメントすることから得られる社会性と公共圏
ブログマガジンでの匿名によるコメント投稿もまた、この一つとして位置づけられる。日常生活では第四象限に置かれ、自らの社会的な存在感を感じることの出来ない人間が、BLOGOSのようなブログマガジンにコメントする。ブログマガジンはブログとりまとめサイトであり、閲覧者も多い。ここにコメント者として加わることでネタを共有し、またヴァーチャルな形で不特定の他者と議論をすることでネット上での連帯感・親密感を獲得することが可能となる。さらに匿名、つまり第三象限(匿名+無名)のポジションからのコメントは、より自由な形でコメントが可能となる。自らが匿名ゆえ、プライバシーに関する防衛が可能で、多少逸脱したコメントをしてもコメントした側は安全な場所にいることが出来るからだ。記事に対してコメント者同士が議論を戦わせると言ったこともあるが、その際にはプライバシーが伏せられているので純粋に議論だけでの関わりも可能になる(実名者に対する関わりとは異なり、属人性≒肩書きなどに左右されることなく議論が進められる)。コメント者は匿名性を利用してブログマガジン内の議論に参加することで、自由を獲得し、他者を実感する。もちろん、カタルシスも獲得可能だ。
またブログマガジンでのブロガーは著名な人物も多い。あるいはそうでなかったとしても、その分野についてのプロパー的な「第一象限=現実世界空間」的存在。言い換えれば社会的存在として認知されている。これらとコメント欄を通じて関わることによって、今度は「社会と関わっている」という実感も獲得できる。
ただし、互いに実名での議論はちょっとはばかられるという側面もある。その理由の一つは、やはり実名によってプライバシーが露出すること、責任性が課せられること。また、著名な社会的存在と関わることに対する緊張(たとえば属人性に権威を感じてしまう)というのもあるだろう。
そこで第四象限からよりも、匿名化することによって第三象限からアプローチ=コメントすることでこれらの「リスク」を回避することが可能になる。つまり「プライバシー防衛」「より自由な発言の許容」「第一象限の著名な社会的存在との対等な関わり」(匿名者が意識してしまえば「ある程度」の域を出ないが)を確保できる。まさに、ブログマガジンのコメント欄は孤立と連帯を確保しながら社会と関わる空間として機能するのである。これがブログマガジンの実名と匿名が様々に絡み合う効果的な側面だろう。J.ハバーマスが指摘する「公共圏」が成立するインフラとなる。

(その2に続く)
匿名コメントが個人攻撃・誹謗中傷に転じる構造~匿名性とは何か(6)番外編・中編
コミュニケーションの構造
テレビ・ワイドショーの社会的機能
悪口がコミュニケーション活性化を促す
テレビにおけるネタ機能の衰退
BLOGOSにおける匿名コメントの構造~匿名性とは何か(5)番外編・前編

ブロガーとコメント者は異なる象限に置かれている
BLOGOSは実名と匿名の対決にしばしばなってしまう
