勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: Apple

新型iPhone5G機能の搭載を見送った。これについては中国国内で中華・韓国スマホに後塵を拝することになるのではとの懸念が出ている。


典型的な記事が、これだ。


”5G対応の新型iPhone、アップルは中国市場で取り残される恐れも

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-09-11/PXNTI66JIJUO01



でも、これってAppleのこれまでの戦略をよくわかってないんじゃないかな?


Appleは、その戦略にあたっては二つの方向性を採用してきた。


ひとつは、このテクノロジーに将来性があると睨んだ場合には、どこよりも早く導入する姿勢だ。1991年、アップル初のラップトップ・Powerbook100ではキーボードをノッチ側に前進させ、手前をパームレストにしてセンターにトラックボールを配置(後にトラックパッドに変更)、現在のラップトップのスタイルを作り上げた。またフロッピードライブを廃止しUSBLANポート、CDドライブもどこよりも早く導入している。当初、iMacの大ヒットで大混乱を招いたが後にWi-Fi機能(これも業界初だった)を搭載することで解決した。そしてこれらがテクノロジー、インターフェイスとして普及しているのは言うまでも無いだろう。この場合、アップルは技術普及の牽引役を務めている。


もう一つは、新しい機能に他メーカーがざわついても、それが実際に使いものになるか、あるいは時期的に適切であるかを検討し、最終的に敢えてすぐには後追いしないやり方だ。典型的な戦略は2008年、NetbookというWi-Fi標準装備で既存のPCより小ぶり、ただし性能は低い安価なラップトップが流行したときのことだ。ジョブズは「あんな過渡的なものはクソだ」と無視し追従しなかった。そして、最終的にこの指摘はiPhoneiPadの出現によってNetbookが消滅することで証明された。またBlu-rayのドライブも時代遅れとして一切採用しなかったが、これはネットベースでのインストール時代の到来を見越してのことだった。


ただし、後追いをしないわけではない。する場合にはインフラの整備を見極め、それらとの整合性を突き詰め、満を持して完全な製品をリリースする。それがiPodiPhoneだった。iPodについてはアプリケーション・iTunesと連動させ、極めて容易な手順での操作を実現。それがハードディスク(今日ではメモリー)内蔵型の携帯音楽プレイヤーの爆発的普及を可能にした。iPhoneはトラックパッドの技術を援用してマルチタッチコントロールを実現している。iPadも同様で、リリースの時点でインターネットやパソコンとの整合性が高度なレベルで取られていた。ご存じのように、その操作はタッチパネルでスタイラスペンを用いなかった。いいかえれば、これは「後出しジャンケン」のパターン。ただし、万全の体制で最強の手を打ってくる。


今回、アップルの戦略は後者に該当すると判断した。いま5Gに切り換えてもコストが高くつくだけで、実質的には使いモノにならないから無用の長物。たとえば中国が5Gの整備を急いだとしても、モノになるまでにはまだ数年かかる。中郷以外の市場については5Gは明らかに時期尚早。だったら、そんな不要なものはつけず、価格を抑えて中国製や韓国製に押される市場に対抗したほうが賢明。そして、ある程度5Gのインフラが整備され、他メーカーが矢継ぎ早に商品を出している間にじっくりと検討し、リリースする際には完全なソリューションを搭載して市場を席巻する。これまでのやり方に基づけば、アップルはそう判断しているように、僕には思える。


逆に言えばiPhoneXユーザーには今回のリリースは買い控えするのが賢明と言うことでもある。もっともXより以前のユーザーにとってはそろそろ買い換え時期ゆえ、新しい写真機能やバッテリー持ちのよさなどは背中を押す要素に映るだろう。


というわけでiPhoneXユーザーの僕は、今回はパスです。


「遂にこの日が来た!」

6月9日早朝に開幕したAppleのWWDC2015で、6月30日からAppleが新たな音楽ストリーミングサービスを開始することが発表された。ストリーミングサービスとは動画や音楽の配信サービスを意味するのだけれど、ここで発表されたのは、さしあたり音楽に関するもの(一部動画も含まれる)。サービスのポイントだけを一言で言ってしまえば、そのうちのサブスクリプション・サービスの部分、つまり「音楽の定額聴き放題」ということになる。月額9ドル99セントでサービス側が提供する楽曲をいくらでも利用可能。Appleは2009年にストリーミング=サブスクリプションサービスを展開するLalaを、そして昨年はヘッドフォンメーカーとして大人気のBeats Electronicsを買収しており(AppleのBeats買収のねらいは、Beatsが所有するサブスクリプションサービス”Beats Musicにあったと言われている。当然、これらがApple Musicのベースになっていると考えられる)、サービス開始は時間の問題と言われていた(ちなみにサブスクリプションについての僕の論考についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/65404213.htmlhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/65045539.html、およびhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61609826.html、を参照されたい)。

こういったサービスは日本ではNapster、Sony Music Unlimitedなどでかつて利用可能だったし、日本以外なら6000万人のユーザーを抱えるSpotifyもすでにある。だから「何を今更、Appleが」の感がないでもないが……。いや、そんなことは全くない。これはミュージックライフの革命と言った方が早い。と言うのも、既存のサービスとはいくつかの点でまったく異なっているからだ。

WWCDのキーノートでは三つの点が強調された。「革命的な音楽サービス」「24時間3カ所からのラジオ」、そして「ミュージシャンとファンの交流」がそれ(今回、ラジオの論考は省略しました)。

「革命的な音楽サービス」と?

先ず「革命的な音楽サービス」について(ちなみに、このコピーは”Revolutionary music service”だが、これは2007年にS.ジョブズがiPhoneのキーノート・スピーチでiPhoneを紹介する際のコピーの一つ「革命的な携帯電話」=”Revolutionary mobile phone”になぞらえているのだろう)。

このサービスは、先ず既存のサービスと同様、クラウド上にある数千万曲に定額で自由にアクセスできること。ストリーミングはもちろん、ダウンロードしてオフラインで聴くことももちろん可能だ。また自分のコレクションを作成できるが、このコレクションは楽曲のデータのみがダウンロードされるだけで曲自体はクラウド=iCloud上にある。だから、パソコンやスマホ、タブレットのメモリーを食わない。ただし、これだけだと、これまでのサービスと代わるところはない。問題はここから。

My Music:お気に入りのコレクションを自分の所有する全てのディバイスで

その1:すでにサービスが開始されているiTunes Matchと同じ機能を備える(AppleではApple MusicとiTunes Matchは独立した機能と公式ページで説明しているが、説明を読む限りではまったく同じ。どうなるんだろう?)。あなたの音楽コレクションがAppleMusicによってデータを読み取られ、Appleミュージックのライブラリーと照合が図られる。しかも、このデータはiCloudと呼ばれるクラウドサーバー上にアップされているので、共有するディバイス全てにライブラリーが反映される。あなたがiPhoneで新しい曲を登録する。そして家に帰ってパソコンのiTunes(あるいはApple Musicというアプリに置き換わっているかもしれない。後述)を開くと、すでにそこには新しい曲がリストとしてリストアップされているというわけだ(iTunes Matchの場合、ユーザーのコレクションの音質が悪かったりした場合には、iTunes上のデータと置き換えてくれるというサービスもあるが、これがこちらに反映されるかどうかは不明)。この機能は”My Music”という名前が付けられている。

For You:あなたのお気に入りの世界を広げてくれる

その2:その1で見たクラウド上へのユーザーデータの収集は、必然的にユーザーの膨大なデータをiCloud上に集積することになる。しかもAppleMusicを利用すればするほどそのデータはいっそう膨大になっていく。そう、ここに世界中の人々の音楽の嗜好に対するビッグデータが誕生するのだ。

そして、このデータは当然グーグルやAmazonと同じやり方でマーケティング、あるいはセールスとして活用される。ユーザーサイドで考えられるのは、当然ながらAmazonのような「リコメンド・サービス」だ。Apple Musicは膨大なデータをアルゴリズムに基づいて、あなたのオススメの曲を紹介してくるのだ。しかも、ここからがAppleらしいところで、単に統計的な処理に基づいてデータを返してくるのではなく(グーグルやAmazonはこれ)、データをAppleのスタッフたちが検討して提案するのである(かつての「ロボ検」に対する「人検」をイメージしていただくとわかりやすいかも)。iTunesにはGeniusという機能があり、これを利用すると、お気に入りのジャンルの曲(スムースジャズ、ラテン、ロック、ポップなど)を集めて勝手に再生してくれるのだけれど、これはあくまで自分のコレクションの整理。ところがApple Musicでは数千万曲の中からあなたの気に入ると思われる楽曲をチョイスして再生してくれる。しかも、これはもちろんタダ。つまり、Amazonがリコメンドサービスのあとに購入を誘ってくるのとは違う。このオススメをダウンロードしても定額料金が変わることはない。当然、自分が好きな音楽についての世界が広がっていくことになる。この機能には”For You”という名前が付けられている。

New:あなたの気に入っているミュージシャンや関連筋の新譜を紹介

その3:データは強力なマーケティングの武器としても用いられる。インターネット上には膨大なデータが存在するが、ものすごくトリビアなものになると、さすがにデータを探し出すことは難しい(学術的な資料などがその典型。まあOPACみたいなものもあるけれど)。音楽も同様だ。ビートルズみたいなメチャクチャポップなものならAppleも簡単にライブラリーに並べることは可能だけれど(著作権をクリアしていればという留保は付く)、インディーズのごく一部のファンしか抱えていないようなどマイナーなミュージシャンを効率よくライブラリー化することは現状ではちょっと無理。ところが、Apple Musicはこれを可能にする。サービスを受けているユーザーがそのトリビアなインディーズミュージシャンの曲をコレクション化すると、これが自動的にiCloud上に反映される。Apple Musicとしては、その内、ユーザーのコレクション数が増えてきているような楽曲で、なおかつAppleのスタッフが「これはいい!」と思った場合、今度は同じような音楽を嗜好するユーザーたちにオススメとして提供する。この機能には”New”という名前が付けられている。これって、まあ、ヘタすると市場操作になるんだけど……。

Connect:ミュージシャンにも取り分が

そして、このサービスはミュージシャンとリスナーの関係も取り持つ機能を備えている。これまでのサブスクリプションサービスはミュージシャンたちには評判がよいとは必ずしも言えなかった。「膨大な数の楽曲を一挙ひとまとめにして聞き放題で○○円」ってなのがこのサービスなので、自分の取り分が減ってしまうと考えられたからだ。S.ジョブズはiTunes Storeを開始する際、ダウンロード販売をミュージシャンの取り分を考えていた。インターネットの普及によって違法ダウンロード、そしてナップスターのようなピア・ツー・ピアのシステムによって音楽の著作権に関する無法地帯状態が出現していることに対して、廉価のダウンロード販売(一曲¢99)という形でそれを保証したのだ。そしてiTunes Storeは世界最大の、いわば「レコード・CD販売店」となった。ただし既存の小売店を破壊していったのだけれど 。

しかし、このシステムを破壊するものがサブスクリプション・サービスだった。現状のCDなどのハードメディアやダウンロード販売にサブスクリプション・サービスが加わると、正直、前者二つは食われるだけになる。そして、ミュージシャンの利益はどんどん下がっていく。またダウンロード販売で稼いでいたAppleもここ数年は販売が頭打ち、さらには減少傾向となってもいた。

Apple Musicはかつてジョブズがやったように、再びミュージシャンの利益を保証するようなシステムを考えた。それがこの”Connect”だ。ミュージシャンたちは自分専用のプロフィールページを持ち、そこから自由に情報発信を行うことが出来る。たとえば、アップルのサイトにも記されているように、書きかけの歌詞、バックステージで撮ったスナップ、新しいビデオのラフカットなどをアップできる。これは、いわば「ミュージシャン自らが手がける濃密なライナーノーツ、ジャケット、ミュージッククリップ」と表現できる。しかもミュージシャンはこの機能を利用してファンからのフィードバックを得ることも可能。つまり、ここはミュージシャンにとってもマーケティングの空間となるのだ。そして、この編集権は、すべてミュージシャンの側にある。AppleMusicは透明な存在だ。

Appleだけが、可能なサブスクリプション・サービス

いかにもAppleらしい革新的な音楽配信サービス。「まあ、よく考えてあるわ」と脱帽せざるを得ない。ここで展開されているのは単なる「音楽聴き放題」ではなくて、「音楽聴き放題をメディアとしたわれわれの音楽聴衆スタイルの根本的な変更」だからだ。そして、これは「ガリバーであるAppleだからこそ可能な戦略」と言える。

こういったサブスクリプションサービス。わからない人には取っつきにくいものでもある。「音楽は購入し、そして聴くもの」という固定観念をなかなか外しづらいからだ。だから、これまで日本でも前述したようないくつかのサブスクリプションサービスがあったけれど、さほど普及することはなかった。「一部の音楽大好き人間だけが知っているサービス」みたいなものだったのだ。これを聴くためにはそのサイトにして登録する、専用アプリをダウンロードするという手続きもあり、これがちょっとメンドクサイ。「毎月カネを取られるのもちょっと」と感じる者も多い。つまりこういったサービスは、あくまでプルメディア、つまり消費者が任意に入り込むものだった(音楽大好きな僕のところの学生たちであってもサブスクリプション・サービスを利用する者はごく僅か。ある日、僕が件の学生にSony Music Unlimitedを紹介すると、驚いたように即座にメンバー登録したなんてこともあった)

ところがApple Musicの場合はそうはならない。こいつはプッシュメディア、つまりAppleが働きかけて、こちらが知らないうちに利用するようになってしまうメディアだ。
現在iPhoneを利用しているユーザーがどれだけいるのだろう?iTunesを利用しているユーザーがどれだけいるのだろう?そりゃ、膨大な数だろう。ウチの学生を例に取れば、もうほとんどがこれだ。これがiOS(そしてMacOS、AppleWatchOS)がアップデートされた時(100カ国で6月30日がその日にあたる。間違いなく日本もその一つに入っているはずだ)、そこにApple Musicの紹介が登場し、ポチっとやるだけでこのサービスに加入することになる。これまでのiTunesの上にこれが自動的に乗っかる形だろう(ひょっとしてiTunesは消えてしまい、前述したようにこれがApple Musicという名前に変更されているかもしれない。MacOSの写真編集アプリが”iPhoto”から”写真”へと変更された時のように)。しかも3ヶ月間無料という「トロイの木馬」も付いている。そう、実にスムースにこのサービスに移行してしまうのだ。しかも月額9.99ドル。まあ日本だと1300円くらいだろうけれど、これくらいだったらウチの貧乏学生も喜んで加入してしまうのではなかろうか。こんなことを始めるiPhoneユーザー(アンドロイド版もリリースされる)が一挙に出現するのだ。

ミュージックライフを変更する

そうなると、われわれを音楽聴取スタイルは根本的に変更されてしまうだろう。先ず、考えられるのは「音楽を所有する」という概念の崩壊だ。聴きたい時に聴きたい曲を聴く。そして好みに応じてコレクションする。しかし、コレクションした者は物理的媒体ではないので、本みたいにずらっと並べて楽しむ、つまり「知識をカネをかけて所有する」という感覚が消滅する。音楽は純粋な消費物へと転じるのだ。

また「聴きたい曲」というのは、いわば自分にとって快適なものだから、「快適なものであればジャンルは問わない」ということになる。ということは、ジャンルは目安にしかならない。「私はロックばっかり」ってなことには必ずしもならなくなるのではないか。ただし、その反面、ものすごくトリビアになっていくことも確かだろうけれど。

おそらくほとんどのレコード/CD店は潰れてしまうだろう。また、既存のサブスクリプションサービスも、恐らくApple Musicに回収されてしまうだろう(つまり、消えてなくなる)。そして、前述したようにミュージシャンの活動スタイル、とりわけビジネス・スタイルのそれも根本的に変更されるだろう。言い換えれば、音楽というメディアにおけるパラダイムシフトが、これから数年のうちに発生するのだ。

ただし、これだけは言えることがある。それは、

「われわれは、ますます音楽を聴くようになる」

ということ。しかも、大量のリスナーが加入すれば、むしろ音楽市場規模は拡大する(毎月定額を払ってくれるユーザーが大量に存在すれば、時々CDやダウンロード販売を利用してくれるユーザーよりも売上は増大する。しかも収入も安定する)。

そして、

「Appleはますますガリバー化する」

ということ。(たぶん、そのうち動画でも同じことを始めるだろう。これはAppleTVとのセットになるんだろうけれど)

これは楽しみでもあるし、「怖いもの見たさ」でもある。


Appleは、とうとうパンドラの箱を開けてしまったのだ。

私、仕事柄(文筆業)、カフェにMacBookを持ち込んで仕事をすることが多い人間です。とりわけSTARBUCKSは落ち着くカフェ。スタバは「第三の空間」をウリにしています。パブリックでもプライベートでもない、そのいいとこ取りをした快適な空間を提供なさっているおられます。もうちょっとご説明申し上げますと、パブリックな空間は「賑やかでよろしいのだけれど、人がいるのでうざったい」、プライベートな空間は「勝手気ままに出来てよろしいのだけれど、ボッチになるので、ちょと仕事がはかどらない」。で、第三の空間というのは、要するに「賑やかでよろしく、プライベートも保てる」。こうなると煮詰まることなく文筆作業もサクサクと進むわけで。また、あそこはWi-Fiにも繋がるというわけで、これまた便利な空間。「私の日常」として愛用させていただいております(ドヤ)。

ところが、最近、巷がかまびすしい。スタバでMac、とりわけあの薄いMacBook Airを持ち込んで作業している輩がウザイなどといわれ、それを揶揄する「ドヤリング」などという言葉も生まれたほど。

でも、これって、私のことじゃ、ありませんか?

困るんです、そんなこと言われても、ねぇ(ドヤ)

でも、何でこんな言われ方、するんでしょう?なんでスタバ+MacBook Airだと「ドヤリング」になるんでしょう?

一つは、確かにスタバでMacBook広げ、光る白いリンゴマークを「ドヤ顔」で見せびらかしながら、さも「オレって仕事やってる~ぅ!」みたいな輩を見受けることも事実です。でもって、こういう輩は「真性ドヤリング」。スノッブなアホとして見下しても構わないでしょう。コイツはパソコンも仕事のこともMacのこともな~んにもわかっていないヤツですから。仕事の中身はカラッポのはず。

しかし、こんな輩は私のようなプロフェッショナルが「日常」のようにやっていることに対して、「ドヤリングやってんな、あのおっさん」などとあらぬ疑いをかけられる大きな原因ともなっているゆえ、メイワク千万な存在以外の何者でもありません(ドヤ)。

しかし、なんでスタバだと、そしてMacBookAirだとドヤリングになるのでしょうか?たとえば「スタバでLenovo」はなぜドヤリングではないのでしょう?(「マックでLenovo」だったら絶対にドヤリングとは言われないでしょうね。むしろ、その姿はオタクとか社畜とうイメージかもしれません)。

なんのことはありません。単なる記号=ブランドの問題です。スタバというオッシャレーなカフェ(最近は、あまりにあっちこっちにあったり、ブルーボトルコーヒーなんかの進出もあったりして、ちょいと記号性は下がり気味ですが)とMacBookAirというAppleブランドの、そんでもって激薄パソコンのフラッグシップみたいな位置づけのノートブックが白いリンゴの光を放っているのが、そう見えるんでしょうね。まあ、やっかみ的な人間の妄想とジェラシーが生み出すイメージの問題といったところでしょうか(ドヤ)。
私のように、プロフェッショナルとしてAppleの初代ノートパソコン、PowerBook100の頃、つまり24年前からずーっとこういう「日常」を続けているプロにとっては、こういうドヤな輩とか、ドヤを揶揄する輩の存在は、本当にメイワクしてしまいます(ドヤドヤ)。

仕方がないから、これからはマックでMacBookAir広げることにしましょうか?いやいや、そんな妥協は許されません。あそこのコーヒーでは、ちょっと……雰囲気も落ち着く感じではありませんし、だいいち椅子が硬すぎます。やはり、こんな表面だけの連中、つまりこれ見よがしな輩と、これ見よがしを揶揄する輩を相手にしているようではプロとは言えませんからね(ドヤ)

申し訳ありませんが、今後とも軽くスルーさせていただきます(ドヤ)

スタバでドヤリングしていますけど、何か?(ドヤドヤドヤドヤ……)

AppleWatchの影でMacBookが大幅リニューアルされた。既存のMacBook、MacBookAirはCPUを中心としたスペックアップ、そして待望の12インチRetinaディスプレイ搭載MacBookの登場だ。これは当初予想されたMacBookAir12インチかと思いきやAirではなく、MacBookという名称だった。ということは現状では、セグメンテーションはRetinaディスプレイつき=MacBook、Retinaなし=MacBookAirということになる。

そして、この12インチMacBookについて賛否両論がかまびすしい。で、ここでは徹底的にこの新製品をヨイショする形で展開してみたいと思う。ただしメディア論的に。

とにかくこのMacBook(以下、MacBook12)、いかにもAppleらしい、というかジョブズのDNAをしっかり踏襲したモデルとなっている。そのキモは「潔さ」「セグメントの徹底」だ。これらによってユーザーにパソコンの新しいあり方を提示している。つまり教育しようとしている。それは、さながらかつてiMac投入した際にSCSIとフロッピードライブを取り外してしまったように、あるいは顧客からビジネス層をバッサリ切り落としてしまったように。そしてパソコンが無いと使えないミュージックプレイヤー、iPodをリリースしたように。

こういった潔さは、得てして多くの既存のユーザーを混乱させる。つまり「それ取っちゃ、おしまいでしょ」「これまでのこちらの財産が使えなくなるのはどういうことだ!」。しかし、Appleは常に前しか向かない。そのために過去を「潔く」バッサリと切り捨てる。これこそジョブズ主義というところだろうか。

MacBookへのツッコミ

しかしながら、例によってこういった「潔さ」に突っ込みが入る。論点は次の四つあたり。

一つ目はポートをUSB-Cとオーディオジャックを除き、全て取っ払ってしまったこと。しかも電源込みでUSB-Cのポートは一つだけ。「ディスプレイ表示も、USBディバイスの挿入も、電源供給もこれ一本って、いったいどうやるんだ。電源つないだ瞬間終わりでしょ。え、アダプターがオプションである?で、9000円?ふざけるな!」

二つ目はスペックの低さ。CPUは現状のCore i5より30%遅いCoreMだ。「これじゃあビデオやデッカイ画像を編集しようとしたら、トロくてどうしようもないんじゃね?それからストレージ256GBと512GB。まあ、MacBookAirも同じだけれど、あっちの場合はUSBのポートが複数あるから、そこに外部ストレージをつなげばいい。ところが、こっちは一個しかないわけで。これじゃあ、どうにもならないでしょ。ディスプレイにも繋げないし。クリエイターにとっては使いものにならないよ」

三つ目は見た目。ディスプレイ裏のアップルロゴが光らなくなった。「これじゃスタバに行って、MacBook広げて、ドヤ顔しても目立たないじゃないか。オレってイケてないわけで、スタバに行く意味がなくなる」

四つ目はキーボード。キーボードは少々大きめ。しかもクリックが浅い。「なんじゃ、このペラペラ感は?打ちづらい、許せん」

さて、こういった反論に全てひっくり返す形で説明してみよう。反論する視点は二つ。先ず一つ目は「この新しいMacBook12のユーザーは誰か?」という視点から。

コア層はライトユーザー

よく考えてみても欲しい。MacBook、そしてMacBookAirを利用するコア層はどのような人たちだろうか?その性能から狭義のクリエイターあたりがイメージされるのがマック製品だ。つまり映像や画像を加工したり、音楽を作ったりといった層。そういった人間たちは大型ディスプレイにMacを繋ぎ、CPUをぶん回し、メモリーを湯水のように使う。だからグチャグチャいろいろ差し込むためのポートは無いわ、CPUはトロいわ、メモリーは無いわで、新型MacBook12は明らかに力量不足。おまけにロゴが光ってないから、スタバで「オレって、クリエイター」とドヤ顔することも出来ない(もっとも、このマシンはメチャクチャ薄いので、ゴールドなんか持ってスタバに行けば、ロゴが光らなくても十分に目立つだろうけど(笑))。

しかし、コア層がクリエイターというのはウソだろう。MacBookAirやMacを利用するユーザーのほとんどはテキストの書き込み、パソコンブラウズ、メールのやりとり、ちょこっとゲームをやるといった作業をメインとするライトユーザーのはずだ(これはあまり使わないと言うことでは必ずしもない)。そんなユーザーには機敏に動くスペックも大容量のストレージも、外部に映すモニターもはっきりいって不要。そして、Macをフツーに使いこなしたいので、スタバでもタリーズでもドトールでもどこでもいい。「オレってスタバでMacでイケてる」じゃなくて、「チョコッと仕事したいからスタバ、タリーズ、ドトール、あるいはマック(マクドナルド)へ」なのだ。

そういった人間にとってMacBook12は最高にイケてるパソコンに見えるはずだ。軽くて小さいから携帯しやすい。Retinaディスプレイはキレイ。しかもバッテリー容量は十分。作成した書類はクラウドにあげれば終わり。そもそもデータは重くないので、クラウドじゃなくて内部のSSDに放り込んでおいてもストレージを圧迫しない。つまり、カジュアルに使いこなすコア層にとって、こんなに魅力的なパソコンは存在しない。まさに革命。まあ唯一困るのはiPhoneを充電することが出来ないことか(する場合にはMacBook12のバッテリーから頂戴するということになるわけだけれど、その際にはMacBook12が電源に繋げない)。

そして、ここでクリエイターさんにツッコミを入れようと思う。あのね、クリエイターって映像、画像、音楽をいじくり回す高城剛さんみたいな人ばかりじゃないんですよ。そりゃ、定義が狭すぎる。こちらもコア層は、実はテキストベースの仕事をこなす人のはず。だから、クリエイターのうちMacBook12は使えないなんて言っている御仁、ちょっとゴーマンかましているような気がしますが(たとえばhttp://blogos.com/article/107769/)。モノを書くという点では僕もクリエイター。で、僕にとってはこのマシン、とてつもなく魅力的に見える。

要するに、このマシン。端っから狭義のクリエイターさんたちを切り捨てているのだ。だって、マイノリティだから、儲からないし(笑)

パソコンの新しいあり方を提示する

次はメディア論的立場からMacBook12を絶賛してみよう(笑)
で、ここでは権威に頼って、このパソコンがすばらしいことを説得してみたい。メディアに関する預言を当てまくることで有名な二人の偉人の言葉をここで引用する。ひとつはメディア論の父、M.マクルーハンの言葉だ。

「われわれはまったく新しい状況に直面すると、常にもっとも近い過去の事物とか特色に執着しがちである。われわれはバックミラーを通して現代を見ている。われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」

この言葉は最高にクールだ。人間というのは保守的なもので、新しいものが出てくると面食らってしまう。未来を見ることは好きだが、未知の未来は怖い。それゆえ過去を見ながら、過去の慣習の延長上にしか未来を見ることができない。だから「未来に向かって、後ろ向きに進んでいく」のだ。

で、これじゃあ、何も生まれない。「新しいもの」はつねに「奇異なもの」。それで何が出来るのか全く予想がつかないものだ(Appleに詳しい林信行氏はAppleWatchのハンズオンでこれを絶賛しているが、残念ながら実際に触れてもいない僕には、これが何が出来るの想像つかない。一方、MacBook12は確実に未来が見える)。だから、その出現の際には、その多くが過去、そして既存のものを正当化して、新しいものを否定する。60年代ビートルズが出現した時、大人世代が「あれは騒音」といって一刀両断したなんてのがその典型。だがビートルズはその後われわれの音楽のメインストリーを構築することになった。

MacBook12への批判は、まさにこういった「未来に向かって後ろ向きに進む」人間たちからのものだ。面白いのは、こういった批判を、未来を見ているはずのクリエイターがやっていることなんだが(笑)(ちなみにこういったクリエイターのみなさんは狭義の「クリエイト」という「お仕事」をおやりになられているので、Macの購入はMacProかiMac、MacBookProの15インチがオススメです。っていうか、たぶん持っているはず)。僕はマックを10台以上保有しているけれど、こういう「クリエイター的お仕事」、つまり映像、画像編集をやるのはやっぱりiMacかMacBookPro15、つまり高スペックのマシンでMacBookなら当然ディスプレイに接続して使っている。チョコチョコ物書きは現在MacBookAirの13だが、正直言うと11の方がコンパクトでいい。13にしているのは年齢の問題。つまり老眼の目にはちょっとキツい文字の大きさなのだ(泣)。

MacBook12への批判パターンで、この図式が最もあてはまるのは新しいキーボードについてのツッコミだ。今回のリニューアルでキーボードはシザー構造からバタフライ構造へと変更された。これによってキーは一層薄くなった。で、より軽いタッチ、つまりペラペラな感じで入力出来るようになったのだが、この入力感にツッコミが入ったのだ。

実は、かつて僕も同じような経験をしている。Appleのノートパソコンの名前がiBook/PowerBookからMacBook/MacBookProへ変更された際、キーボードは大幅な変更がなされている。キーが薄くなり、入力時に押し込み感覚が減って現行のペラペラになったのだ。「こりゃ押しづらい」、当初はそう思っていたのだが、慣れてみると全く逆だった。僕みたいにキー入力の速い人間にとってはこの薄さ、ペラペラ感は馴染むにつれて、ものすごく快適なものになった。そして、このキーボードスタイル、その後のウインドウズ・パソコンでもデファクト・スタンダードとなってしまった。で、その後、MacBookAirが薄型パソコンのデファクト・スタンダードになったこともよく知られているところだ。

そして今回そのリニューアル。つまり、さらに薄くなるとともにバタフライ構造によってキーのぐらつきが一切なくなった。で、やっぱり最初はまごつくだろう。しかし、慣れれば、結局、また同じことが起こる。つまり慣れれば慣れるほど速く入力が出来、しかもミスタイプが減る。「う~ん、こりゃスゴイ」ってなことに。で、結局、このバタフライ方式が、数年後にはパソコンのデファクト・スタンダードになっていく。

よくよく考えてみれば、Appleの「潔さ」「セグメントの徹底」はMacBook12に限った話ではなかったのだ。USBにしても、フロッピーの撤廃にしても、Wi-Fiの標準装備にしても、Appleは同じようなうことをやって来た……そしてパソコンの未来を開いてきた。そして今回、AppleはMacBook12でパソコンを再発明したのだ。

未来を創る!

で、シメにもう一人の権威の言葉を援用しよう。ご存知、Appleの創始者S.ジョブズのコメントだ。

「未来を予測することなんか簡単だ。未来を創ってしまえばいいのさ」

MacBookPro12はまさに未来を創っていることが明確にわかるモデルだ(ただし数年先くらいまでだろうけど。そのさらに先を創ろうとしているのがAppleWatchだろう。これが本当に未来を創ることが出来るかどうかは、あまりに壮大すぎてちょっとまだ予想がつかないけれど)

もう数年もしないうちに、街中が(そしてスタバが)、MacBook12の、いやMacBook12のスタイルを真似たパソコンでいっぱいになっていることを予想すること。実は、とっても現実的なことなのではなかろうか。

絶好調のiPhone6

iPhones6が相変わらず好調だ。2014年に入りiPhoneは格安中国スマホ、韓国のSamsungやLGに押されてジリ貧かと思いきや、画面を大型化した瞬間、ユーザーが一気に再びiPhoneへとなびいてきたことはすでにご存知のことだろう。お陰で、iPhoneよりもはるかに早く大型スマホを発売していたSamsungが煽りを食らってしまった。価格では中国スマホに負け、ブランド力ではAppleに負け、中途半端な商品に堕してしまったのがその原因だろう。しかも、これが日本やアメリカだけでなく、中国、いや自国の韓国でも同様の事態を招いているのだ(ただし、シェアはSamsungがまだトップを維持している。)。

しかしながら、ジリ貧と思われていたiPhoneがV字回復したのは、要するに大型、とりわけ5.5インチというスマホをユーザーたちが待ち焦がれ、遅ればせながらやっとのことでリリースしたからだと言われている。4インチ以上のスマホを頑なに拒絶していたS.ジョブズの予見は完全に外れてしまったわけで、そういった意味ではAppleはジョブズ路線を超える次のステップを見いだしたと言ってよいのかも知れない。

ただし、このモノノイイはちょっと外れているところもある。待ち焦がれていたと言っても、発売してからも伸びがよいという事実は別の話。いいかえれば、それはユーザーが何らかのプラスアルファをそこに見たからと考えなければ帳尻が合わない。じゃあ、それは何だろう?

iPadを駆逐するiPhone6Plus

iPhone6、とりわけPlusのそれはきわめて奇妙な現象を発生させているという感がないでもない。ちょっと僕の例だけれど、一つエピソードを。

昨年9月、iPhone6発売と同時に、僕は早速それまでのiPhone4から乗り換えることとした。チョイスしたのはiPhone6Plus。購入した際には「こりゃ、ちょっとデカすぎるな?」と、かなりヤバイと感じてしまった。「ただのiPhone6(4.7インチ)にしておけばよかった……」

ところがで、ある。使い込むうちに僕の認識はどんどんと変わっていったのだ。この画面の大きさ、実に心地よい。何が心地よいって、ビデオもガンガン見る気になるし、長文の記事も読む気になる。英文も読む気になる。しかもそれがポケットから取り出して即といった具合なのだから。この経験はこれまでのiPhoneでは無かった。4インチのiPhone4の時代。さすがにこの大きさだと細かい文章を長時間読む気になれなかったのだ。そういった作業は専らiPad(時にパソコン)の役回りだった。つまりパソコン―iPad―iPhoneの使い分けが出来ていた。ところがiPhone6Plusは違う。易々と長文にトライできる。これは、ただ画面をデカくしただけで、全然新奇性がないと揶揄された指摘とは、全く正反対の実感なのだ。やっぱり、字はこれくらい大きい方が見やすい(まあ、自分が五十代と年寄りであることもあるのだけれど)。気がつけば、以前に比べiPhoneに接する時間は格段に延びていた。結局、こっちの方が「しっくり」きたのだ。完全にアディクト状態に。

だが、その一方で全く触らなくなってしまったものがある。当然ながらiPadだ。発売直後、iPadを購入しワクワクしていた自分はいったいどうなったんだ?と思うほど。もっとも、最近はちょっと利用頻度が減っていたことも確か。どうもiPadは「帯に短したすきに長し」の感が強いのだ。つまりパソコンほど本格的に仕事は出来ないし、その一方でスマホほどカジュアルでもない。本を読むとかゲームをやるにはいいんじゃないかと思えないでもないが、その実、あまりやらなかったことも確か。本を読むなら、どちらかというとKindleくらいの大きさの方が手軽でいい。よく考えてみれば、電車の中で馬鹿デカいiPadを広げて読書している姿は結構、マヌケでもある(Surfaceもイマイチの普及のようだ)。そして、iPhone6Plusで本も読めるという状態に。で、今や我が家のiPad四台は、カミさんがゲームをヒマつぶしにやることを除いてほとんどオワコン状態になっている。

しかしながら、こういったiPhone6PlusによるiPad浸食といった状態、おそらく自分だけではないんではなかろうか。iPadを含めたタブレットPCの受容はどうも頭打ち、iPadに至っては売り上げは全くかんばしくない。アラン・ケイのダイナブック構想を具現したかのようなiPad≒タブレットPCだったが、どうもダイナブックの構想(コンピューターの最終形態は子どもが外で気軽にいじれるタブレットになるというコンセプト)はタブレットではなく、大型スマホ、つまりファブレットの方がふさわしいということに、現状ではなりつつあるようだ。

で、こうなるとAppleまた他の企業も次の一手に出てくるだろう。一つはさらに大きなファブレット、つまりiPhone6Plusが文字通り6インチになるということ。これはあるかも知れない(で、iPadminiが完全に死亡する)。そしてもう一つの方向がタブレットPCの大型化だ。ただし、この受容は一部のユーザーに限られるだろうが(アート系ニーズか?)。

タブレットPCの新しい道はビジネス・ユース

Appleは時々、こういった自社製品の「共食い」をためらいもなくやってしまうことがある。例えばiPhoneはどう見てもiPodを駆逐してしまったとしか考えられない。そして今やiPhone6PlusがiPadを駆逐しつつある。タブレットPCとは、しょせん一過性のメディアに過ぎなかったのだろうか?

いや、そうでもないだろう。おそらく売り上げの伸びは頭打ちで、今後漸減していくだろう。ただし、なくなることはない。おそらく、こうやってパーソナルな市場をファブレットに食われたことによって、タブレットPCは新たな自らの居場所を見いだすのではないだろうか。それはズバリ、ビジネス市場だ。企業や医療の現場での測定機器、クラブなどでの入会手続き、レストランの会計マシン、銀行などでの手続きの道具、教育用、こんなところでは実に大きな力を発揮するのではないか(ただし、こうなるとiPadminiは最も中途半端な製品になるけれど。miniはビジネス・ユースとしても中途ハンパだ)。家庭のリビングルームに鎮座するという当初のジョブズの構想(iPad発表時、ジョブズはステージ応接椅子を置きパフォーマンスして見せた)は完全にハズレだ。むしろリビングルームで各種ディバイスのハブ的な役割をするようになるのはファブレットだろう(リモコンにもなっているはずだ)。

ファブレットの大いなる可能性

ちなみにファブレットはさらに大きな可能性を秘めていると考えることも出来る。例えばこれがBluetoothでキーボードやマウスと、さらにディズプレイとワイヤレスに繋げられるということになったらどうなるか。言うまでもなく、それはスマートフォンがパソコンに転じた瞬間を意味する。つまりスマホ一台あればほとんど事は済んでしまうのだ。携帯しているときはただのスマートフォン。ところが一旦、オフィスや自宅に持ち込めば、瞬時に大型ディズプレイで操作するパソコンに。こうなると、今度はパソコンがスマホ=ファブレットに駆逐される番だ。つまりスマホは電話であり、インターネットディバイスであり、ミュージックプレイヤーであり、SNSであり、カメラであり、アプリであり、さらにパソコンでもあるということになるのだ(ちなみに、iPhoneがもし、こういった形で進化するとiOSは存在してもMacOSは死滅するということになる。そしてマックもまた死滅することになるかも。もっとも、Appleならやりかねないことだが)。

この予想、かなり現実味があるのではないかと、僕は思っている。そして実は、これこそがA.ケイがイメージしたダイナブック構想の最終形態なのかも知れないとも思っている。

↑このページのトップヘ