勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: ニューシネマパラダイス分析

アルフレード、神の視線(3)


三十年後まで見通していたアルフレード

いや、アルフレードの念の押し方は、かなり徹底している。死ぬ間際のことをアルフレードの妻・アンナはトトに次のように語った。

「あんたの話ばかりしていた。あんたが好きだったのよ」そして、その後続けて「あんたに逢いたいとは決して言わなかった。戻ってくるなとは言った」。そして死ぬ間際には「あんたを呼ぶな」とすら言ったというのだ。

アルフレードが危惧していたのは、唯一ジャンカルドに残しておいたトトのエレナへの思いだった。アルフレードはジャンカルドにエレナが住んでいることをおそらく知っている。そして以前にも述べておいたことだが、トトにおいてはジャンカルドという共同体に対する深い愛情と、エレナに対する恋心は癒着している。言いかえればエレナの思いの背後にトトはジャンカルドという共同体を見ている。だから、自分が死んで、その葬式にトトがやってくれば、必ずやエレナのことを見つけ出し、このジャンカルドの村にくすがってしまう恐れがあることをアルフレードは危惧していたのだ。事実、アルフレードの葬式にやってきたトトはエレナの娘を発見し、ローマでの仕事をほったらかしてエレナ探しに奔走する。しかも、見つけた後は、再びエレナと添い遂げようと画策を始める。そう、この画策が成功してしまったならば、やはりトトは再びジャンカルドの街に逆戻りだ。それはトトの才能の終わりを意味する。ジャンカルドの共同体が消滅するように。トトへの限りない愛情を抱くアルフレードには、それは決して認めることのできない事態なのだ。だから、念を押したのだ。

しかし、トトは葬式にやってきた。ただし、幸運なことにアルフレードの思いを理解しているエレナがそれをはねつけることで、トトは再びローマで才能溢れる映画人としての暮らしを続けることができるというかたちで話は落ち着く。もちろん、共同体の時代にあった親密性の横溢を得ることは決してできないままではあるが……。

アルフレードこそ共同体における神だった。ということは……

もうおわかりだろう。アルフレードこそジャンカルドにおける神という存在だったのだ。ただし、それはかつて共同体の権威として機能していた教会を中心としたキリスト教の神とかぶってはいるが、ちょっと違っている。アルフレードとはさらに上の視点からすべてを見渡す、超越的な存在なのである。

こう考えると、この映画の展開はもう一つ深くツッコンで理解することができる。

シネマパラダイスが存在したとき、アルフレードは常に映写室、そしてそのベランダから映画館内と広場を鳥瞰していた。つまりアルフレードという神が、その”眼”によってジャンカルドの人々を監視することで、共同体は円滑に機能していた(ちなみに、アルフレードの仕事が休みなのはイエス様が亡くなった13日金曜日だけだ。いいかえればここでイエス=アルフレードという図式が出来上がっている)

ところが、シネマパラダイスが焼け落ちた。そしてアルフレードは”眼”が見えなくなり、そして映写室やベランダに立つことができなくなってしまった。つまりジャンカルドの村から神の視線が消失した。ニューシネマパラダイスはそういった状況で営業を開始する。そう、もうここには神は存在しない。だから、後は崩壊していくしかないというわけである。

そしてアルフレードは死んだ。ということはこれは神の死であり、それは神を頂点に構成されていた共同体の死を意味している。だから共同体も消滅したのだ。(続く)

アルフレード、神の視線(2)

アルフレードは神の視線

繰り返そう。アルフレードは結局、二つのマクロな視線を持っている。一つはジャンカルドの外を見る視線。映画を通して、ジャンカルドの村人の中で唯一、これをすることができる。そしてもう一つはジャンカルドの人々の動き、ジャンカルドの内部を上空から見る視線。いったん外部の視点に立ち、振り向いて今度はジャンカルドの内部を覗くのである。外部、内部双方に向けてマクロな視線を持ち、状況を観察している。これは言いかえれば神の視線に他ならない。アルフレードの視線はすべてお見通しの視線なのだ。

ということは、これからジャンカルドがどうなるか、そして映画がどうなるかということも知っていてるのは当然ということでもある。だからこそ才能溢れるトトをジャンカルドから追放する必要があると考えたのだ。

ニューシネマパラダイスのこけら落としの時、映写室の中で映写技師を務めることになったトトにアルフレードは語る

「学校を辞めてはいかん。これはオマエのやる仕事ではない。映画館とオマエの関係もこのままうまくはいかない(トトはアルフレードが何を言っているのか全く理解できていないのだが)。オマエには他の仕事がある。もっと大切な。」

兵役から帰ってきたときもトトに忠告する。

「ここは不毛だ。毎日ここにいると、ここが世界の中心に見える。でも世界は変わっている。この村を出たら当分の間、帰るな。おまえはわしより目が見えない。」「それは誰のことば」「いや、誰のことばでもない。わしのことばだ。人生は映画と違って複雑だ。村を出ろ。ローマへ戻れ。もうおまえとは話さん。うわさ話を聞かせろ」

この時、アルフレードの語る背後には十字架が立っている。

さらに、ジャンカルドから列車で旅立つときには

「村へ戻るな。村をわすれろ。手紙も書くな。全て忘れろ。帰ってきてもわしの家にはいれてやらん。自分の全てを愛せ。子供の頃映画を愛したように。」

とダメを押す。”これからは個人主義の時代がくる。ということは共同体はもう終わり。そしておまえがおもしろがっているかたちでの映画も終わり。だからおまえは新しい時代の映画を作って才能を開花せよ”アルフレードのメッセージはこれだ。こう考えるとすべてをお見通しのアルフレードがトトのエレナの関係を引き裂いたのも、非常に納得がいく。(続く)

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(ベランダから群衆の行動を観察、分析するアルフレード。これは’神の視線’に他ならない。映画『ニューシネマパラダイス』より)

アルフレード、神の視線

アルフレードはトトに何を見ていたのか

映画の中でわれわれがいちばん不可解に思えるのは、アルフレードがトトの成長とともに、トトをジャンカルドから追放しようと動き出すことだ。外に出ろといい、エレナとの関係を引き裂き、結果としてトトはローマに向かい、以降30年以上にわたってジャンカルドの地を踏むことはなかった。

アルフレードはジャンカルドの村と映画の行く末を知っていた。またトトの才能もまた熟知していた。そして、もしトトがこのままジャンカルドに居続ければトト=万能者の才能は開花することなく、ジャンカルドの中に埋もれ、共同体の死とともに彼の存在もまた、消えていくということも、また知っていた。だからこそ、アルフレードはトトの才能を花開かせるべく、嫌がるトトを無理矢理ジャンカルドから追放した。このことはすでに述べたが、不思議なのは、なぜそんな眼力・洞察力をアルフレードが持ち得ていたかである。

しかし、そのことも映画を子細に検討すれば見えてくる。

アルフレードはジャンカルドの村の中で唯一共同体の外部を知っている存在

アルフレードは自らのことを「無知でバカ」と呼んでいる。そう、確かに意識の上でアルフレードはその通りの存在だ。実際、小学生レベルの知識すらない。だからこそ小学校卒業資格試験を受けに来たとき、問題がわからずトトにカンニングさせてくれ依頼したのだ。そして、他にやるアタマがないので映写技師をやっているのだとトトに告げてもいる。

ただし、この事実は表層に過ぎない。アルフレードにはジャンカルドの人間が決して所有することのできないマクロなモノの見方、つまり状況を鳥瞰する力がそなわっていたのだ。なぜか?それは映写技師として映画越しに様々な現実を見てきたからだ。映画はジャンカルドの人間にとっては村の外=社会・現実を知るための数少ない窓。そこから送られてくる情報をつぶさに見、しかも何度も繰り返してチェックし続けているのがアルフレードに他ならない。

アルフレードはトトに映画の写し方を教えたくないといい、その理由を語る。

「同じ映画を100回も見る。一人で画面のスターに話しかけることも。寂しい仕事だ。この仕事をやったのは自分がバカだったから。愚か者のやる仕事だ。でも、お客が一杯になって楽しんでもらうとうれしくなる。お客を笑わせると、自分が笑わせたように思えて、皆の苦労を忘れさせたと思える。」

アルフレードは映写技師として何度も映画を見続ける内に二つの視点を獲得している。

一つは、共同体の外の状況を見る視点だ。映画、そして映画ニュースが伝える情報をじっくりと吟味する時間がアルフレードにはある。同じ映画を何度も観るから当たり前だ。つまり最先端の情報を常に入手している立場にある。ということは、社会学的にいえば「公衆」というカテゴリーに属する人間に該当する。社会がどう動いてきて、これからどこに行くのかがある程度読める感度が涵養されているのだ。外部に対して高感度なアンテナを張り巡らしている存在なのだ。

人々の動きを読み取ることができる

もう一つは大衆の動きを見る視点だ。シネマパラダイスに客がいっぱいで、閉め出されたとき、客たちはアルフレードに何とかしてくれと頼む。アルフレードは「こればっかりはどうにもならない」と答えるのだが、結局、広場の建物に映画を見せてしまう。そのときの客の行動についてアルフレードはトトに向かってこう評していた。

「大衆は考えずに行動する」

これはスペンサー・トレーシーのことばを借用したのだと暴露するが、大衆=客の動きを熟知した視点であることに違いはない。アルフレードは映写室から常に映画館内の客の動きを観察しているのだ(だからこそ、目が見えなくなっても、トトの前で「今、映像のピントがボケている」と指摘することができたのだ。彼には客の姿は見えないが、そのざわつきからピントがボケていることが判断できるのだ。この時、アルフレードは「説明は難しい」となぜそう判断できるのかについては理由を語らなかったが)。
共同体の人々の行動が理解できるのは、映画館の中を見られるからというだけがその理由ではない。映画館=シネマパラダイスは広場の中央に位置している。そして映写室の窓は広場に面している。しかも上階に位置するため、広場の人々の動きもつぶさに観察できるのだ。(続く)

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(上、昨夜が二人の愛の物語の終わりであることをエレナに告げられたトト。中、映画館爆破の砂煙の中から現れたキチガイ。下、キチガイは個人主義=クルマで埋め尽くされた広場=駐車場へと消えていった。映画『ニューシネマパラダイス』より)

エレナへの思いの背後にある本当に欲しいもの、それはトトが自ら破壊したものだ

故郷ジャンカルドを捨てローマの都会人として生きるトト。めまぐるしく愛人を換えるトト。田舎を捨て、都会に出て成功を遂げたが、その代償として何かを失った。それは表向きはエレナに象徴される愛である。しかし、この愛は、もう一つのものとつながり、それと癒着している。そして、実はエレナはその象徴に過ぎない。本当にトトが欲しいものは、エレナの先にあるものだ。そのことにトトは中年になってもいまだに気づいていない。

繰り返そう。トトは映画を愛し(=人々を愛した)共同体を裏切り続ける(=個人向けの映画を見せた)ことで、共同体を脱出し、共同体を捨て、そして、今度はローマで共同体が受け入れないような映画を作ることで共同体を破壊して、一個人としての成功を獲得した(それはアルフレードの望んだものだったが)。だがそのしっぺ返しとしてトトは大きなものを失うことになる。共同体がはぐくんでくれた愛・愛他心・無条件に人を愛することを何処に行っても得られない、その結果が、愛のない個人主義の世界だった。そのことを母は見抜いている。しかしながら共同体は崩壊しており、彼はこの道しか選ぶすべはなかったのだ。

そう、トトが本当に欲しかったものは、エレナが住まう空間に存在する共同体的なつながりとしての「愛」なのだ。彼が求める愛は、あのジャンカルドという共同体とともに存在した人と人のつながりの中に存在するもの。それを自らの映画を作るという欲望のためにトトは破壊してしまった。というとことは、自分の映画を作るという欲望の実現は、イコール自らが欲している愛の喪失とセットになっている。だからこそその象徴としてのエレナは決して獲得することのできない。そこに老けたエレナは存在するが、トトがそこに見ているエレナは「まぼろし」なのである。そして、エレナはそのことをよく知っているからこそ、二人の最後の逢瀬を「大人の夢」そして「最高のフィナーレ」と称したのだった。

相反する二つを同時に獲得しようとするトトの欲望は、どだい無理な話なのである。愛は共同体とともに存在したのだから。

トトもまた、キチガイと同様、自らの欲望を実現することによって、自らの存在基盤を失ってしまったのである。(続く)

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(上、昨夜が二人の愛の物語の終わりであることをエレナに告げられたトト。中、映画館爆破の砂煙の中から現れたキチガイ。下、キチガイは個人主義=クルマで埋め尽くされた広場=駐車場へと消えていった。映画『ニューシネマパラダイス』より)

エレナへの思いの背後にある本当に欲しいもの、それはトトが自ら破壊したものだ

故郷ジャンカルドを捨てローマの都会人として生きるトト。めまぐるしく愛人を換えるトト。田舎を捨て、都会に出て成功を遂げたが、その代償として何かを失った。それは表向きはエレナに象徴される愛である。しかし、この愛は、もう一つのものとつながり、それと癒着している。そして、実はエレナはその象徴に過ぎない。本当にトトが欲しいものは、エレナの先にあるものだ。そのことにトトは中年になってもいまだに気づいていない。

繰り返そう。トトは映画を愛し(=人々を愛した)共同体を裏切り続ける(=個人向けの映画を見せた)ことで、共同体を脱出し、共同体を捨て、そして、今度はローマで共同体が受け入れないような映画を作ることで共同体を破壊して、一個人としての成功を獲得した(それはアルフレードの望んだものだったが)。だがそのしっぺ返しとしてトトは大きなものを失うことになる。共同体がはぐくんでくれた愛・愛他心・無条件に人を愛することを何処に行っても得られない、その結果が、愛のない個人主義の世界だった。そのことを母は見抜いている。しかしながら共同体は崩壊しており、彼はこの道しか選ぶすべはなかったのだ。

そう、トトが本当に欲しかったものは、エレナが住まう空間に存在する共同体的なつながりとしての「愛」なのだ。彼が求める愛は、あのジャンカルドという共同体とともに存在した人と人のつながりの中に存在するもの。それを自らの映画を作るという欲望のためにトトは破壊してしまった。というとことは、自分の映画を作るという欲望の実現は、イコール自らが欲している愛の喪失とセットになっている。だからこそその象徴としてのエレナは決して獲得することのできない。そこに老けたエレナは存在するが、トトがそこに見ているエレナは「まぼろし」なのである。そして、エレナはそのことをよく知っているからこそ、二人の最後の逢瀬を「大人の夢」そして「最高のフィナーレ」と称したのだった。

相反する二つを同時に獲得しようとするトトの欲望は、どだい無理な話なのである。愛は共同体とともに存在したのだから。

トトもまた、キチガイと同様、自らの欲望を実現することによって、自らの存在基盤を失ってしまったのである。(続く)

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