「あんたの話ばかりしていた。あんたが好きだったのよ」そして、その後続けて「あんたに逢いたいとは決して言わなかった。戻ってくるなとは言った」。そして死ぬ間際には「あんたを呼ぶな」とすら言ったというのだ。
アルフレードが危惧していたのは、唯一ジャンカルドに残しておいたトトのエレナへの思いだった。アルフレードはジャンカルドにエレナが住んでいることをおそらく知っている。そして以前にも述べておいたことだが、トトにおいてはジャンカルドという共同体に対する深い愛情と、エレナに対する恋心は癒着している。言いかえればエレナの思いの背後にトトはジャンカルドという共同体を見ている。だから、自分が死んで、その葬式にトトがやってくれば、必ずやエレナのことを見つけ出し、このジャンカルドの村にくすがってしまう恐れがあることをアルフレードは危惧していたのだ。事実、アルフレードの葬式にやってきたトトはエレナの娘を発見し、ローマでの仕事をほったらかしてエレナ探しに奔走する。しかも、見つけた後は、再びエレナと添い遂げようと画策を始める。そう、この画策が成功してしまったならば、やはりトトは再びジャンカルドの街に逆戻りだ。それはトトの才能の終わりを意味する。ジャンカルドの共同体が消滅するように。トトへの限りない愛情を抱くアルフレードには、それは決して認めることのできない事態なのだ。だから、念を押したのだ。
しかし、トトは葬式にやってきた。ただし、幸運なことにアルフレードの思いを理解しているエレナがそれをはねつけることで、トトは再びローマで才能溢れる映画人としての暮らしを続けることができるというかたちで話は落ち着く。もちろん、共同体の時代にあった親密性の横溢を得ることは決してできないままではあるが……。
アルフレードこそ共同体における神だった。ということは……
もうおわかりだろう。アルフレードこそジャンカルドにおける神という存在だったのだ。ただし、それはかつて共同体の権威として機能していた教会を中心としたキリスト教の神とかぶってはいるが、ちょっと違っている。アルフレードとはさらに上の視点からすべてを見渡す、超越的な存在なのである。こう考えると、この映画の展開はもう一つ深くツッコンで理解することができる。
シネマパラダイスが存在したとき、アルフレードは常に映写室、そしてそのベランダから映画館内と広場を鳥瞰していた。つまりアルフレードという神が、その”眼”によってジャンカルドの人々を監視することで、共同体は円滑に機能していた(ちなみに、アルフレードの仕事が休みなのはイエス様が亡くなった13日金曜日だけだ。いいかえればここでイエス=アルフレードという図式が出来上がっている)
ところが、シネマパラダイスが焼け落ちた。そしてアルフレードは”眼”が見えなくなり、そして映写室やベランダに立つことができなくなってしまった。つまりジャンカルドの村から神の視線が消失した。ニューシネマパラダイスはそういった状況で営業を開始する。そう、もうここには神は存在しない。だから、後は崩壊していくしかないというわけである。
そしてアルフレードは死んだ。ということはこれは神の死であり、それは神を頂点に構成されていた共同体の死を意味している。だから共同体も消滅したのだ。(続く)