勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: ニューシネマパラダイス分析

絶体絶命の中での、代打逆転満塁ホームラン

映画「ニューシネマパラダイス」の主人公トトと恋人エレナが結ばれるシーンの映像構成の分析をおおくりしている。三つのコントラストの内の、今回は二つめと三つ目にメスを入れる。

やるせなく、ニューシネマパラダイスの映写室に戻ってきたトト。腹いせに映写機に貼り付けていた去年のカレンダーを剥がし、ビリビリに破いてしまう。そして頭を映写機にぶつける。カメラは場面転換することなく、ゆっくりとトトに向かっていく。この悲しみ、苦しみは実に切なく映る。ところが、その時「サルバドーレ(トトの正式名)」という声が……。なんとエレナが自らニューシネマパラダイスの映写室にまでやってきたのだ。エレナは兵士=トトの思いを感じ取った王女としてやってきたというわけだ。そして、この時、われわれはハッとさせられる。われわれがつい今し方まで見ていた映写機の前で悲嘆に暮れるトトの映像の視点がエレナの目線からの映像であったということに気付くのだ。そして、徐々にトトに向かって近づいていることも。これはエレナがトトに話しかけた瞬間、このカメラは第三者の客観的な視点になることでわれわれにフィードバックされる仕掛けになっている。だから、ハッとするのだ。

二人は近づき抱擁し合うのだが、この時、積極的にアプローチをかけるのはトトよりもむしろエレナである。エレナはトトのガンバリに報いようとしているという演出。そして、エレナが近づいていく映像が今度はトトの視点に変更される。トトは遂に満額の回答を獲得したのだ。手をさしのべていくのも、キスを働きかけるのもエレナの側。まさにエレナはトトにメロメロになっていた。

観客であるわれわれとしては、見事な手品を見せられた気分に浸ることができる。あれだけ落としておいて、場面が変わってもさらにガッカリした状況で、突然思いが叶う、つまりエレナが登場するのだから。花火のコントラストと同様、このどん底まで突き落としてからの突然の持ち上げは、こちらをまるでジェットコースターに乗せたような心理状態に陥れるのだ。観客の多くは、ここで思わず涙してしまう。

そこまでやるか~?の演出。トルナトーレは執拗だ!

だが、このコントラストを極端にすることで、観客を感動の坩堝に巻き込むトルナトーレの手法はさらにダメを押す。

激しく抱き合い、キスをするトトとエレナ。すると、上映されている映画の前半が終わり、フィルムのリールが空回りしはじめる。後半のフィルムを装填して続きをはじめないトトに業を煮やした客席の観客たちが、トトに罵声を浴びせる。ところが、二人は愛し合うことに夢中で、そのことに全く気がつかない。一方、この時、観客たちは客席の中で傘を差している。雨が降ろうが映画を見たいという観客たちの映画に対する情熱もスゴイ。しかし、二人はそんな情熱よりもさらに上を行くというわけだ。今度は共同体の人々の映画に対する情熱とトトのエレナへの情熱のコントラストを用いることで、トトの気持ちを強さをデフォルメしているのだ。

そしてこのシーンのラスト。二人が抱き合う画面の左には空回りするフィルムが映し出されるのである。(続く)

オマケ:ロマンスシーンの演出テクニック

最後に、映画の構成の仕方として超ベタでありながら、ほぼ完璧と思われるシーンのテクニックをこの映画の1シーンから紹介しておこう。それはトトがエレナを口説き落とす一連の過程だ。ここでは三つのコントラストが用いられ、見ているわれわれの涙腺を緩ませる。

エレナが好きでたまらないトト。しかし、彼女の前に出ると緊張してしまい、雷が鳴りそうな状態で「今日はいい天気だね」と言ってしまったり(直後雷鳴がとどろく)、思い詰まって電話で告白すると、なんと相手がエレナの母親だったりと、失態を繰り返す。

そこで、トトはこの悩みをアルフレードに告白する。するとアルフレードは兵士と王女の「おとぎ話をはじめる」。あまりに強い恋心で耐えられなかった兵士が王女に告白する。それに感動した王女は「百日の間、私の部屋のバルコニーの前で待って。そうすれば私はあなたの元へ」と約束する。

この物語を聞いたトトは、自分を兵士、エレナを王女と見立てこれを実行する。ただし、バルコニーの下で待つと宣言したのはトトの方。演出の妙はここからだ。

徹底的に落胆を演出する手法~落胆と歓喜のコントラスト

エレナに荒行を宣言した夏の日以降、トトはシネマパラダイス終了後エレナの家の前で毎日のように待ち続ける。だが、秋、冬と時は過ぎていく。このガンバリにエレナは徐々に心を開いていく。エレナ、実は部屋のブラインド越しにトトを見ていたのである。

1955年の大晦日の夜が訪れた。トトはいつものようにエレナの家の前で。あたりは新年を迎えようとする人々が家の中で、その瞬間を今か今かと待ち受けている。そして、彼らはみんなで、そして大声でニューイヤーのカウントダウンをはじめるのだ。すると……エレナ部屋のブラインドが動いた。トトの期待は高まる。もちろん映画を見ているこちらも同じ期待を抱く。カウントダウン終了、新年の開始と同時にエレナはことブラインドを開け、トトに彼を迎えるあいさつをするのでは。つまり、新年の始まりこそが兵士と王女の物語の百日目にあたるのでは、と。

ところが、期待に反してブラインドは閉じてしまう。その動きは開けるのではなく、完全に閉めるためのものだった。トトは強く落胆する。そしてここで哀愁を帯びたマイナーコードのBGMが。だが、トトを除くジャンカルドの人々は別だ。新年が明け、大喜びで雄叫びを上げる。その叫びが響き渡る中、トトはコートに襟を立て、寂しそうに道を歩き始める。通りの窓からは酔っぱらった住民がワインのボトルを次々と道ばたに放り投げ賑やかさを助長する。そして、トルナトーレはこの歓喜と落胆のコントラストを一層強調するために、道の先に花火まで揚げてしまう。人々の新年の歓喜が高まれば高まるほど、トトの無念さが強く、見ているこちら側に伝わってくるのだ。寂しいのはトトだけ。そう、トトは、そしてわれわれは深い絶望に陥れられる。(続く)

映画の終わりに掲示されるFineの意味

トトがアルフレードに形見として贈ったフィルムが最後に映したもの。それは′Fine′というエンドマーク。トルナトーレ監督は、このFineに実にたくさんの意味を込めている。

一つめ。これはベタにアルフレードが編集した映画の終わり。

二つめ。「ニューシネマパラダイス」という映画の終了。

三つ目。アルフレードの人生の終わり。

四つ目。共同体があった時代の終わり。

そして五つ目。それは映画の時代の終わりである。映画館はかつて共同体の人々とともにあった。広場の中心にあり、そこで映画は人々の地上の楽園を演出していた。つまり映画天国=シネマパラダイスだった。ところが、情報化、消費社会科の進展、そして個人主義の跳梁によって共同体は消滅。共同体と一心同体であった映画もまた消滅する運命となった。

では、映画、そして映画館=シネマパラダイスはどこへ行ったのだろう?……結局、映画はビデオやテレビに吸収されて天に召されていった。つまり映画は地上のパラダイスから新しい天国のパラダイス=ニューシネマパラダイスへと去っていったのだ。

映画大好き男、トルナトーレが映画に贈った手向けの花

「えっ?今も映画はゲンキだよ!」といいたくもなるが、80年代の終わりは実際、映画の存亡が問われていた時期だった。入場者数はどんどん現象いていくという事態が発生していたのだ。そうニューシネマパラダイスのオーナー・チッチョが言うように「テレビやビデオのおかげで」すっかり人々の娯楽の座から引きずり下ろされていたのだ。だから、この時期に、映画が消滅することを予期し、そのことに哀惜の意を込めてこういった映画へのオマージュをトルナトーレが作ったことはよく理解できる。実際、トルナトーレは、映画の随所にラブロマンス映画の典型的な、そして極めてベタな手法を織り込んでいる。ただし、極めて見事な「骨太」の手並みで。映画大好き男、トルナトーレ=トトの「映画の時代の終わり」に対する強烈なオマージュが、ここにはある。

もっとも、その後、映画はシネマ・コンプレックスという手法を採用することで復活を遂げる。今年、久しぶりに入場者数の減少が見られたが、ここ数年は右肩上がりの入場者数の増加を見せていた。ただ、現在盛況なのはトルナトーレがこの映画の中でトリビュートした映画、つまり「みんなの映画」=人々のコミュニケーションを喚起する娯楽、ではない。むしろ個人向けの映画だ。映画は徹底した合理化をし、なおかつ個人の嗜好に合わせるように快適性をあげ、そしてテレビでは見れないような大型スクリーンを用意することで「オレの映画」=ひとり密かに消費する娯楽、として復活したのである。

ラストシーン涙うるうるのメカニズム

前回はニューシネマパラダイスのキスと裸のシーンの連続からなるラストシーンがなぜ泣けるのかについて、そのストーリーの構成から解説した。つまり、陳腐な映像が、その背後にトトとアルフレードの厚い信頼と友情を保証するメディアとして機能しており、そのことが涙を誘っていると言うことを。ここで伝達されているのはキスと裸ではなく、信頼関係なのだ。

さて、今回は涙腺をゆるめるメカニズムのもう一つについて展開してみる。それは、いわば「サブリミナル的効果」とでも言うべきものだ。これは情報を意識ではなく無意識に働きかけてインプットし、相手をコントロールしてしまうという効果。たとえば映画やCMの一コマにメッセージを入れておくと、これを見ている側は意識上では認識できないが無意識上にはこの情報が置かれ、そのメッセージが見ている側に潜在的効果を催すというものだ。有名なエピソードとしては映画の中に一コマ「コーラを飲め」と入れたところ、その映画館でコーラの売り上げが普段より上がったという例があるとされている。

ちなみにサブリミナル効果は科学的に実証されているわけではない。そして、この映画の中にこういうかたちでメッセージが一コマだけ放り込まれているというわけでもない。ただし、ここでは実質的にこのサブリミナルな効果が涙腺を緩ませる機能を果たしている。

ニューシネマパラダイス式のサブリミナルとは

サブリミナルとは表現してみたものの、ニューシネマパラダイスの中のやり方はかなりあからさまではあるし、映画の技法を知っている人間ならすぐそれと見破ることができるものでもある。では、具体的に見てみよう。

いくつものキスシーンや裸のシーンが登場する。そしてその背後にはBGMが流れているのだが、このサウンドと映像の絡みがミソだ。曲が盛り上がるところ、そして主題が転換するところ。その部分で挿入される映画のキスシーンのすべてが、実はオーディエンスのわれわれが既に映画の中で見ているものなのだ。いや、厳密に言えば、それは「映画の中で見ることになっていたもの」なのである。始めこそ単なる映画の、われわれの知り得ないキスシーン。ところが、主題が転換するやいなや登場するのは『シチリアの漁民』の中で展開されているキスシーンが映される。岩場でのそれだ。これはシネマパラダイスの観客たちか固唾をのんでキスシーンを待っていたあの映画である。で、神父の判断によって当然のことながらこのシーンはカット。そこで観客たちは落胆する(ただし、トトだけがこの落胆を聞いて笑っている)。

ここで、われわれはハッとさせられるのである。「そうか、ジャンカルドの人たちが見られなかったキスシーンはこれだったのか」。こう思うと同時に、われわれの記憶は、この映像越しに、あるいはこの映像をメディアにあのシネマパラダイスの中で繰り返されていたジャンカルドの人たちの共同体的な賑わいへと振り向けられるのだ。しかし、このフィルムを見ているのは映画監督トト、そして現代である。ということは、その映像の背後に映るものは、もはや失われたノスタルジー。見ているわれわれはトトとともに、過去のあの時代をめぐらせる。そう、トトが欲しくてたまらない世界へ、われわれを誘うのだ。ただし、それは決して手に入れることのできないものなのだが。

そしてこの後は、シネマパラダイスで映されていた(そしてわれわれも見ることの出来なかった)映画で、しかもそれを見ることの出来なかったキスと裸が連続する。イタリア喜劇の帝王トト、喜劇王チャップリンのキスシーンなどなど。見ている側は次から次へとあの懐かしい人々への邂逅をくゆらせる。音楽がドンドンと盛り上がり、サビの部分に達しながら。だが、たいていの客は、なぜ涙が出てくるのかを理解できないまま涙を流す。言うまでもなく、サブリミナル効果がよ~く効いているのだ。つまりこのキスと裸のシーンは、映画の冒頭で入れておいた情報に無意識でアクセスするようにし向けているというわけだ。。

さらに最後の締めは、なぜか女が足を洗うシーンと、やはりキスのシーン。このシーン、フィルムが老朽化してしまい、完全にぼけてしまっているのだが……これは古いからぼけて見えないないのか、それともトトが涙で目が曇って映像をちゃんと見ることが出来ないのか……(続く)

映画「ニューシネマパラダイス」の名シーンといえば

ニューシネマパラダイスの中で、名シーンとして映画史に刻まれているのがラストだ。

アルフレードの葬式への参列のためにジャンカルドに戻ってきたトトは未亡人となったアルフレードの妻アンナから形見を渡される。それは自分が死んだらトトに渡すようにアルフレードに言われていた一本のフィルムだった。

葬式が終わり再びローマで映画監督としての仕事に戻ったトト。すると自分の作品が賞を受賞したとの知らせが。ところが、そんなことに喜ぶことすらなく、トトはスタッフにこのフィルムの上映を命じるのだった。

たった一人の映写室。そこでアルフレードの形見のフィルムが始められた(ちなみに、この時、映写を担当するのはJ.トルナトーレ。いわゆるカメオ出演だ)。そして、そこに映し出されたものは。おびただしい数のキスシーン、そして裸のシーンだった。次から次へと登場する名作のキスシーン。これを観ているわれわれの涙腺はなぜか緩み、涙が止まらなくなる。なぜなんだろう。

共同体の人間の強い連帯が、そこにある

ちゃんと映画を観ている人間なら、なぜこんなフィルムをアルフレードがトトに渡したのかはすぐに分かるはずだ。シネマパラダイスの時代に記憶をさかのぼってみよう。こんなシーンがあった。

シネマパラダイスの映写室に入り浸るトト。神父の指示に従ってキスシーンと裸のシーンをカットするアルフレード。しかしこの切り刻みの作業の時には少しだがフィルムを切り刻まなければならない。この切れ端が映写室にはころがっている。トトは、このフィルムの切れ端をちょろまかして宝物にするのを日課にしていたのだ。

ところが、切れ端どころか結構長いフィルムがそのまま映写室に残っている。キスシーンと裸のシーンをカットするのはシネマパラダイスだけ。ということはシネマパラダイスでの上映が終了したらまたつなぎ合わせて元に戻し、他の映画館のロードショーに回さなければならないのだ。ところが、アルフレードは時には、それがどこ場所だったのか分からなくなり、そのまま放ったらかしに。これが結構な量になっていた。

ある日、これをめざとく見つけたトトがアルフレードに懇願した。

「どうせ残っていて使わないんだから、自分によこせ!」

いったんは拒絶したアルフレードだが、トトのしつこさに負け、このフィルムを「いずれくれてやる。そのかわり二度と映写室に来るな」という約束を取りかわしたのだ。

このフィルムは、その約束を果たす「いずれ」の日がやってきたことを意味している。アルフレードはトトとの約束をちゃんと守ったのである。だからこそ、フィルムはキスシーンと裸のシーンになったわけだ。

そう、ここでは共同体の連帯、そしてトトとアルフレードの強い絆がフィルムを媒介に描かれている。その強い関係をベタに言葉でなく一本の、しかも共同体があった時代からしたら「上映禁止」のシーンで埋められたフィルムという、いわば安っぽい、下卑たもので伝えるというコントラストが、観ている側をハッとさせる。そしてこれを観ていたトトは涙を浮かべながら思わず「アルフレードのやつ」と言ったような表情を浮かべる。「アルフレードは草葉の陰でしたり顔し、そして自分にアッカンベーをしてきやがった」。トトは涙ながらにこのシャレを通しての愛情表現に舌を巻くのである。

ただし、ここで観客に涙腺をゆるめる効果を促すのはこれだけではない。(続く)

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