インターネット、そしてスマホ時代の大学講義のあり方について考えてみたい。今回はスマホによる板書の撮影の是非について考えてみよう。
大学の学期末テスト。試験実施にあたっては、教員によって様々な制限が課せられる(制限のかけ方は任意)。最も厳しいのは試験への資料等の持ち込み全て不可というもの。ここから辞書持ち込み可、ノート持ち込み可、教科書持ち込み可、どんどんゆるくなっていくとコピー持ち込み可、さらには全て持ち込み可という具合になっていく(中には自著を買わせて、これを持ち込まないと不可。しかも試験中、担当教員が巡回し、テキストを開いて奥付にハンコを押すという作業を行う「辣腕」の教員も存在する。これ「テキスト持ち込みは義務、ただし奥付に教員のハンコのあるものは不可」という規定で、ようするに売れない本を無理矢理買わせるという、限りなくアカハラっぽいやり方だ。残念ながら実在する)。
そこで問題になることがある。それは「自筆のノートは持ち込み可だがコピーは不可」というレベル。この間隙を突いて、新手の手法が登場した。それは「スマホによる板書の撮影画像の持ち込み」だ。コピーは、一般的に他の受講生がとったノートをコピーしたもの。これを不可にする根拠は、恐らく「欠席しているにもかかわらず、他の人間の作業を都合よくいただいている」「ノートをとる努力をしない、不謹慎な行為」といったところだろうか。撮影は他の学生のコピーではない。だから前者のモノノイイは該当しない。ま、写真もある意味コピーだからコピー不可というのが該当するんだろうか?また「ノートをとる努力をしない」というのは、もう「なんだかな~?」と感じる世界に僕には思えてならない。これじゃ、まるで授業=勉強が「スポ根」に見えてきてしまう(もちろん、メディア論的には「ノートをとる」という行為自体が、勉学へのモチベーションを高めるという側面があることは認めるにやぶさかではないけれど、費用対効果的にはあまり意味がないと考えるので)。
しかしながら、板書の撮影、ものすごく意見が分かれている。大学の中には全学的に板書の撮影を禁止しているところもある。
板書撮影は著作権に抵触する?
たとえば「撮影は著作権に抵触する」といった意見。しかし、これはちょっと矛盾している。そもそも板書とは書き写されるため、つまりコピーされるための行為。だから、撮影が著作権に抵触するのであるならば、ノートとりも同列ということになるだろう。もう少し突っ込んだ議論だと、板書はよくても、撮影の際に教員が映るからダメ、つまり教員の肖像権の問題が発生するというものがある。ちょっと法律は疎いので、これはひょっとしたらマチガイかもしれないが、講義というパブリックな空間でパフォーマンスを展開する教員というのは公人なのでは?だとすれば肖像権というのは抵触しないことになる。また、教員が気になるのならば、板書を適当なところで一旦打ち切り、本人が教壇から退く、つまり黒板の外に消えて撮影を許可すればよいだけの話だ。
こういった議論はさておき、板書の撮影を合理的にやめさせる方法はもちろんある。それは「板書の撮影禁止を学則に明記すること」だ。原則、学生は大学の校則を遵守することを認めて入学していることになっているので、この場合は当然、罰則の対象としても構わない。つまり「権威」で押し切るというやり方なんだけど(笑)
板書撮影は授業効率を高める手段でもある
僕は、原則、板書の撮影を認めている。その理由は次のようになる。
ノートをとるという作業、実は「とる」という行為に意識が集中した結果、むしろ学習がはかどらなくなるという側面も備えている。中高時代にものすごく丁寧なノートをとっている生徒(女子に多かったという記憶がある)がいたが、その生徒たちが他の生徒に比べて成績がよいということは必ずしもなかった。むしろ、ほとんど板書らしきものをせず、ひたすら教員の授業に耳を傾け、必要な箇所をノートよりも教科書に直接書き込んでいたような連中の方が成績がよかった。なんのことはない、彼らは授業に集中していたのだ。
そう、僕が板書の撮影を認めるのは、要するに授業中は話の方に集中して欲しい、そして究極的には学習内容を自分のものとして欲しいと考えるからだ。もしペンを動かすのなら、それは板書ではなくてメモであるべきだ。この場合、ノート=メモは講義を聴いて思いついたことを書き付ける場所。つまり、ポイントを押さえておくために使用されるものになる。ただし、その際、教員側は授業内容を教科書や配布プリントに記載しておくという配慮を行っておく必要がある。あたりまえの話だが、復習(あるいは予習)する学生のニーズに応えなければならないからだ。比較的効果的なのはPowerPointで授業を展開し、その際にスライドのプリントを同時配布し、そこに書き込んでもらうやり方だろう。恐らくこれが一番効率的なのではないだろうか(ただし、教員が怠慢になって、一旦作成したスライドを延々続ける恐れがある。また、そしてスライド投影中は教室が暗くなるデメリットも。つまりメモをとりづらい)。
「思いをめぐらせる時間」を提供することこそ講義には必要
こんな配慮を教員側が行えば、板書などという「思考を中断させる恐れのある行為」を省略できるし、前述したように講義に集中できるし、さらに余った時間で、講義内容について学生側が様々な想いをめぐらすことが出来る。重要なのは、この「思いをめぐらすこと」。勉強というのは「暗記」で終わるものではなく、さらに「暗記したものを道具に、いろいろと考える」そして「それを自分なりに使いこなす=編集する」ものでもあり、そして、むしろこちらの方が重要と考えるからだ。
たとえば、『ドラえもん』で面白いのは、のび太がひみつ道具を使って問題解決をするところではなく、それを悪用≒応用するところにあるのだけれど、これって「学び」の本質を突いている。たとえば「ジャイアンに使ったひみつ道具をしずかちゃんに使ったらどうなるのかな?」といったのび太の妄想を思い浮かべていただきたい。ここに読者が関心を寄せるのは、ようするに、作品と自らの思考がインタラクティブになるからだ。つまり思考の揺らぎが読者側にももたらされる。それこそが知的な快感なのだ。
だから、この「思いをめぐらせる」時間を用意する手段があれば、勉強というのは基本的には面白いものになるのだ。そう考えると、メディアテクノロジーが高まった現代において「板書」という授業方法はもはやオールドファッションと言えるんじゃないんだろうか。
結論。学生の学習効率を考えれば、板書の撮影、別に構わないと思う。ただし、授業中にカシャカシャやられると、他の学生の迷惑になるし、音にイラッとくる教員もいる可能性があるので、その辺のマナーは守ってもらう必要があるけれど。
みなさんは、どうお考えになられるだろうか?
※次回は、授業中のスマホ利用(今回の講義の写真撮影以外)のあり方について考えてみたい。