勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 教育問題

インターネット、そしてスマホ時代の大学講義のあり方について考えてみたい。今回はスマホによる板書の撮影の是非について考えてみよう。

大学の学期末テスト。試験実施にあたっては、教員によって様々な制限が課せられる(制限のかけ方は任意)。最も厳しいのは試験への資料等の持ち込み全て不可というもの。ここから辞書持ち込み可、ノート持ち込み可、教科書持ち込み可、どんどんゆるくなっていくとコピー持ち込み可、さらには全て持ち込み可という具合になっていく(中には自著を買わせて、これを持ち込まないと不可。しかも試験中、担当教員が巡回し、テキストを開いて奥付にハンコを押すという作業を行う「辣腕」の教員も存在する。これ「テキスト持ち込みは義務、ただし奥付に教員のハンコのあるものは不可」という規定で、ようするに売れない本を無理矢理買わせるという、限りなくアカハラっぽいやり方だ。残念ながら実在する)。

そこで問題になることがある。それは「自筆のノートは持ち込み可だがコピーは不可」というレベル。この間隙を突いて、新手の手法が登場した。それは「スマホによる板書の撮影画像の持ち込み」だ。コピーは、一般的に他の受講生がとったノートをコピーしたもの。これを不可にする根拠は、恐らく「欠席しているにもかかわらず、他の人間の作業を都合よくいただいている」「ノートをとる努力をしない、不謹慎な行為」といったところだろうか。撮影は他の学生のコピーではない。だから前者のモノノイイは該当しない。ま、写真もある意味コピーだからコピー不可というのが該当するんだろうか?また「ノートをとる努力をしない」というのは、もう「なんだかな~?」と感じる世界に僕には思えてならない。これじゃ、まるで授業=勉強が「スポ根」に見えてきてしまう(もちろん、メディア論的には「ノートをとる」という行為自体が、勉学へのモチベーションを高めるという側面があることは認めるにやぶさかではないけれど、費用対効果的にはあまり意味がないと考えるので)。

しかしながら、板書の撮影、ものすごく意見が分かれている。大学の中には全学的に板書の撮影を禁止しているところもある。

板書撮影は著作権に抵触する?

たとえば「撮影は著作権に抵触する」といった意見。しかし、これはちょっと矛盾している。そもそも板書とは書き写されるため、つまりコピーされるための行為。だから、撮影が著作権に抵触するのであるならば、ノートとりも同列ということになるだろう。もう少し突っ込んだ議論だと、板書はよくても、撮影の際に教員が映るからダメ、つまり教員の肖像権の問題が発生するというものがある。ちょっと法律は疎いので、これはひょっとしたらマチガイかもしれないが、講義というパブリックな空間でパフォーマンスを展開する教員というのは公人なのでは?だとすれば肖像権というのは抵触しないことになる。また、教員が気になるのならば、板書を適当なところで一旦打ち切り、本人が教壇から退く、つまり黒板の外に消えて撮影を許可すればよいだけの話だ。

こういった議論はさておき、板書の撮影を合理的にやめさせる方法はもちろんある。それは「板書の撮影禁止を学則に明記すること」だ。原則、学生は大学の校則を遵守することを認めて入学していることになっているので、この場合は当然、罰則の対象としても構わない。つまり「権威」で押し切るというやり方なんだけど(笑)

板書撮影は授業効率を高める手段でもある

僕は、原則、板書の撮影を認めている。その理由は次のようになる。
ノートをとるという作業、実は「とる」という行為に意識が集中した結果、むしろ学習がはかどらなくなるという側面も備えている。中高時代にものすごく丁寧なノートをとっている生徒(女子に多かったという記憶がある)がいたが、その生徒たちが他の生徒に比べて成績がよいということは必ずしもなかった。むしろ、ほとんど板書らしきものをせず、ひたすら教員の授業に耳を傾け、必要な箇所をノートよりも教科書に直接書き込んでいたような連中の方が成績がよかった。なんのことはない、彼らは授業に集中していたのだ。

そう、僕が板書の撮影を認めるのは、要するに授業中は話の方に集中して欲しい、そして究極的には学習内容を自分のものとして欲しいと考えるからだ。もしペンを動かすのなら、それは板書ではなくてメモであるべきだ。この場合、ノート=メモは講義を聴いて思いついたことを書き付ける場所。つまり、ポイントを押さえておくために使用されるものになる。ただし、その際、教員側は授業内容を教科書や配布プリントに記載しておくという配慮を行っておく必要がある。あたりまえの話だが、復習(あるいは予習)する学生のニーズに応えなければならないからだ。比較的効果的なのはPowerPointで授業を展開し、その際にスライドのプリントを同時配布し、そこに書き込んでもらうやり方だろう。恐らくこれが一番効率的なのではないだろうか(ただし、教員が怠慢になって、一旦作成したスライドを延々続ける恐れがある。また、そしてスライド投影中は教室が暗くなるデメリットも。つまりメモをとりづらい)。

「思いをめぐらせる時間」を提供することこそ講義には必要

こんな配慮を教員側が行えば、板書などという「思考を中断させる恐れのある行為」を省略できるし、前述したように講義に集中できるし、さらに余った時間で、講義内容について学生側が様々な想いをめぐらすことが出来る。重要なのは、この「思いをめぐらすこと」。勉強というのは「暗記」で終わるものではなく、さらに「暗記したものを道具に、いろいろと考える」そして「それを自分なりに使いこなす=編集する」ものでもあり、そして、むしろこちらの方が重要と考えるからだ。

たとえば、『ドラえもん』で面白いのは、のび太がひみつ道具を使って問題解決をするところではなく、それを悪用≒応用するところにあるのだけれど、これって「学び」の本質を突いている。たとえば「ジャイアンに使ったひみつ道具をしずかちゃんに使ったらどうなるのかな?」といったのび太の妄想を思い浮かべていただきたい。ここに読者が関心を寄せるのは、ようするに、作品と自らの思考がインタラクティブになるからだ。つまり思考の揺らぎが読者側にももたらされる。それこそが知的な快感なのだ。

だから、この「思いをめぐらせる」時間を用意する手段があれば、勉強というのは基本的には面白いものになるのだ。そう考えると、メディアテクノロジーが高まった現代において「板書」という授業方法はもはやオールドファッションと言えるんじゃないんだろうか。

結論。学生の学習効率を考えれば、板書の撮影、別に構わないと思う。ただし、授業中にカシャカシャやられると、他の学生の迷惑になるし、音にイラッとくる教員もいる可能性があるので、その辺のマナーは守ってもらう必要があるけれど。

みなさんは、どうお考えになられるだろうか?

※次回は、授業中のスマホ利用(今回の講義の写真撮影以外)のあり方について考えてみたい。


福岡教育大で大学教員(准教授)が学生に対して安倍政権及び安全保障法案反対のデモ練習をさせていたことが物議を醸している。「戦争法案反対」「安倍は辞めろ」などの文言を復唱させたのだが、このことを学生がTwitterに書き込んだことがきっかけで事件が拡散した。

とりあえず、この報道は事実という前提で(ねじ曲げて報道されている恐れもあるので)、大学教育の現状とあり方について考えてみよう。

「政治的な信条を教育の場に持ち込んで、しかも練習までさせて洗脳教育するなど不届き千万!」と、この教員を弾劾することは容易い。ただし、こうやって弾劾することで済む問題ではないと僕は思っている。根はもっと深い(もちろん、この教員を擁護するつもりは一切ないけれど)。こういった事態が発生する構造的問題を考えてみたい。

誰も「個」が確立していない?

福岡教育大学はかつては国立ではあったが、現在は独立法人(国立大学法人)である。国立大学が文科省(あるいは文部省)管轄下にあった場合、大学教員は公務員、つまり役人であり、思想信条を業務に持ち込むことは禁止されていた。また公的機関ゆえ、原則、大学がビジネスを展開し営業利益を上げることも禁止だった。しかし、現在は独立法人であり、その活動は大幅に自由になった(ことになっている)。ということは、極端な話、今回の件、大学側が「オッケー」と言ってしまえば、実は何ら問題はないという状況にある(もちろん、そんなことはないだろうけれど)。この准教授はどうやら大学側の処分の対象になるようだが、それは「公務員」だからではなく、福岡教育大という組織の方針の問題に基づいている。この認識は前提しておいた方がよいだろう。そしてそれは大学における教育の本質と関わっている。

ただし、問題は福教大にこういった教員が出現し、そして学生がそれに従い、さらにこれがネット上に拡散され、全国的に知れ渡ったという事実だ。

先ず、教員。これ、はっきり言ってヤバイとしか言いようがない。前述したように、教育と煽動、あるいは洗脳を混同している。原則、大学教育は科学における専門領域の情報を提供するのが基本。だから、この行為は間違っている。当該教員は、おそらく学生を「個人」として認めておらず、「保護すべき存在」「しつけを施す存在」という前提に基づいている。つまり、「おまえたちはよくわかっていない。だから、自分の言うことを訊けばよいのだ!」というパターナリズム。この人、安倍政権と同様、人権(この場合、学生のそれ)を尊重していない。

ただし、である。これ、学生の方のリアクションもまたヘンなのだ。学生自身が、これがおかしいと言うことで、教員や大学側に異議申し立てをすれば済む話なのだが、これはどうやらなかったようだ。だって、学生たちは素直に練習しちゃったんだから。言い換えれば、学生たちもまた「保護されるべき存在」「しつけられる存在」という無意識の前提がある。自らの人権に対する自覚に欠けている。

そして、これがメディアで取り上げられること。これもまたヘンだ。なぜ取りげられたのか?Twitterにアップされたからだ。これでもって話はマスメディアの目に触れるものとなり、大々的にピックアップされることになった。「安全保障法案」という時節ネタ、そしてメディアが虐める対象のひとつである教育分野であるということもあって「これはおいしい」とメディアは考えたのではないか。ということは、メディアも当該教員、学生と同様、自らの立ち位置に対する自覚がない。業績原理(視聴率や発行部数)の僕である。

そこで、大学側としては看過することが出来ず、当該教員に対し規則に照らし合わせて厳正に対処する」と大学の公式サイトにコメントした。これまた、メディアが取り上げることがなかったら、こんなことはしなかっただろう。そう、大学もまた自覚がないのである。

もし「個」が確立していたら……

さて、これ。もう少し個人が「しっかり」としていた、つまりそれぞれの「個」が確立していたら状況は異なっていたのではないか。試みに「しっかり」しているシチュエーションで、今回の事件をアレンジしてみよう。だいたいこんな感じだ。

教員が洗脳的な学習を実施する→受講生たちから意義があがる→侃々諤々となる→大学当局がこれを感知する→大学側で対処を行う。「大学教育は科学に基づく情報の提供であり、政治的な煽動は不適切」という原則に基づいて、既存の教員が何らかの罰則を受ける。メディアはそのことを知らない。

ところが、今回の事例の場合、現代の典型的なパターンとして、ここにインターネットとマスメディアが介在した。つまり、現場では「煽動=洗脳学習」が黙々と実行される→表向き、学生の反対はない→学生の一部がネット上でその事実をアップする→マスメディアが取り上げる→全国規模の大騒ぎになる→大学側が後手に回る形で対処する。

もし、今回の事件でTwitterへのアップがなかったら、どうなっていただろう?このことはなんの問題にもならず、当該教員は今後ともこういった煽動=洗脳教育を推進していくだろう。なぜって?Twitter的なタレコミ以外に発覚する可能性がきわめて低いからだ。逆に言えば、こういったことは実際、現在の大学のあちこちで発生している可能性が考えられると言うことでもある(まあ、そういった意味ではSNSは便利な道具でもあるのだけれど)。

進学率50%越えの弊害

かつて大学進学率が20%以下であった時代(1960年代まで)、大学生はエリートだった。だから、かなり主張もした。60年代の学生運動などはその最たるものだっただろう(もっとも、それ自体もファッションだったという見方もあるけれど)。彼らは自分たちを「学生」と呼び、教員や大学組織と個人対個人、あるいは個人(または集団)対組織という図式で渡り合う人間が少なからずいた。だから、こんな洗脳をやらかす教員がいたら弾劾されるか、あるいは完全に無視されるかのどっちかだったのではなかろうか。それなりに「個」が存在していた。だから、大学側も専門分野の情報を提供していさえすればよかった。テキトーな授業でも学生たちが自助努力をしてくれた。

ところが50%を超え、大学は「とりあえず行っとくところ」といった「ビール」みたいなものになってしまった。当然、彼らはエリートではなく大衆。そして、時代の趨勢は過保護、人権の徹底的な擁護、ヘタすると弱者が最強の強者になる可能性を孕む方向に進んでいく。学生たちは「保護されるべき受益者」という自覚があるのか、自らを「学生」とは呼ばず、「生徒」と呼ぶ(僕は、学生たちがこの言葉を使う時には、「君たちは学生なんだよ」と言うことにしている)。ということは、学生への対応は実質上「生徒指導」となる。ということは、手取り足取りの指導が必要になる。で、実際そういった指導が必要になっていることも確かではある。そして、今やそのことは学生の親、そして社会が要請していることでもある。USJで、集団で破廉恥かつ迷惑な行為を学生が行った際、その件について謝罪したのが親ではなくて、学生たちが所属する大学だったという事実は、まさに社会が大学に「生徒指導」を要請していることの傍証だろう(これって、本来謝罪すべきは親のはず)。「しつけ」、つまり有無を言わさぬ「学習」「訓練」を大学側も要請されるようになったのだ。それが50%越えの弊害。しかし、大学はもうそこまで来ているので、教員側としては、こういったことへの対処は当然のノルマとなる。う~む……。

こういった状況を踏まえれば、教員の側としては洗脳や煽動にならないよう、慎重に「学習」「訓練」を施さなければならないという、なかなか難しい課題をこなさなければならなくなる。だが、それを勘違いすると政治的な考え方まで手取り足取り教えてもよいとする輩が一部登場する(大学教員は、もともと大学に所属することが目的でここを目指してきたので、教育についてはあまり関心がないし、スキルもないという人間が多い)。それが、今回の事態を結果した。

大学に所属し、学生を指導している自分にとっては、こういった大学とそれを取り囲む現状が、今回のような勘違いを生む温床としてあるように思えてならない。


(オマケ)
そして、今や大学側が一番の弱者(お客さんが減っているので)。当然、これら問題について熟考すべきという課題を突きつけられていると言うことは、肝に銘じておくべきだろう。もちろん、僕もその課題を処理しなければならない当事者の一人ではあるのだけれど。デカいツラなど、してはいられないというのが大学の現実なのだ。



前回はオンライン英会話が安くなる仕組みについて説明した。ポイントは1.フィリピンと日本の物価・人件費の違い、2.英語コンプレックスを煽られて登録したのはよいが、その実ほとんど使用していない多くのユーザが存在する、の二つにあると指摘しておいた(ちなみに2の場合、そのほとんどが数ヶ月で退会するのだが、必ずと言ってよいほど、割引と称して「最初の三ヶ月分の入金」を要求されるので、たとえば一月6,000円とすれば18,000円を徴収されてしまう)。

さて、後編では、この「大量入会、大量退会」のシステムが授業にどのように反映されるかについて考えてみたい。

レベルが上がれば上がるほど、対応できなくなる

ちょっとだけやって、すぐにやめてしまうという人間が大量に存在するということは、教える側からすれば、こういった層に対する対応=指導法だけを学んでいればよいことになる。

で、おそらくこれらの層の中心はまさに英語コンプレックスが高く、メディアで英語を煽られているユーザー。授業レベルなら初級、よくても中級程度ということになる。そして、これらの層のためには、ちゃんとしたテキストが用意されている。”Hello.”,”How are you?”,”I’m fine,thank you.”みたいな初歩的なスキット練習だ。教師の方も、これはしょっちゅうやっているので十分に対応が可能。ただし、初級でも終わりの方になると、ちょっとおかしくなることも。これはそこにまで到達せずに退会したユーザーが大量に存在することを暗示させる。このことについては中級やビジネス英会話(これも中級)でも同じだ。いや、こちらのほうが対応が少々おぼつかなくなってくるレベルは早い(ということは、その多くはここまでには到達しない)。ということは、レベルが上がれば上がるほど対応がおぼつかなくなってくるということになる。

自己紹介やテキスト読みでお茶を濁す

現在の僕のレベルはintermediate~advanced(TOEIC800点台程度)といったところ。このレベルになると教材を用意しているところはほとんどなくなる。なので、外部の英文が教材として用いられる。具体的にはBBC、CNN、NHK、VOA、TEDが提供しているサイトの英文がそれだ。で、この場合、教員は原則原文を読んでいない(教材としてリストアップはされているが、時事ネタなので流動的。記事はどんどん変更されるため、いちいちチェックしてはいないのだ)。それゆえ、授業はこれを読むことから始まる。先ず教員の方が内容を理解しなければならないのだ。これが、たとえばNHKの「ニュースで英会話」(HNKのBSニュースの記事がテキストになる)くらいだったら文章が短いのでよいのだが、他のものはこれに比べるとかなり長い。それゆえ、これを読むだけで7~8分は必要になってくる。ところが、授業時間は25分。しかも、教員の多くは授業開始に先立って「週末は何してた?」みたいな雑談から入ってくる。で、放っておくとこれが10分も続いてしまい、ということはテキストについての学習がトータルで10分もないなんてことになってしまう。

また、初めてレッスンを受ける教員の場合、自己紹介を必ずやらされる(これははっきり言って時間の無駄なのだが、とにかくこれで引っ張られる)。これが10分近く。もしこの自己紹介に「週末何してた?」が加われば、あたりまえの話だがテキストに入ることは実質的に不可能だ(しかも、教員は頻繁に入れ替わるので、ヘタすると自己紹介を無限にやらされることになる)。

で、このレベルになると(このレベルでさえも?(>_<))もはやマニュアルは存在しないので、その対応はアドホックなものになってしまっている。つまり、教員が気づいた項目にその都度対応するというパターンになる。いいかえれば、体系立てられた指導法はもはや存在しない。要するにこの程度のレベルでさえもユーザー=受講者はきわめて少なくなってしまっていて、対応法が確立されていないのだ。

文法を教えないのは初心者には致命的

ちなみに初級・中級であっても、そこで指導されるのはスキットと身体的学習のみ。なぜか文法については、ほとんどのオンラインスクールにはカリキュラムが用意されていない。あたりまえの話だが、文法なしで英語を喋るなんてのは、生まれたときから英語圏にいるか、メチャクチャ長い間英語圏で暮らしていない限り不可能。なので、このレベルで学習しても、結局は突っ込んだ会話やリスニングに到達するのは限りなく難しい。そう、要するに「トラベル英会話」のレベル以上の能力を期待することは出来ないのだ(とはいうものの、25分で文法指導はちょっとムリか?)。

「オンライン英会話はまだまだ始まったばかり」、これが僕がレッスンを受講してみて受けた感想だ。現状ではニッチ商売の域を出ていない。

自分でカリキュラムを組み立てられれば問題は無い

だからといって、これが使えないかと言えば、そうでもない。学習の体系立てをユーザーの方がやればいいだけの話なのだから。僕の場合、1.自己紹介や雑談を極力カットしてしまう、2.記事を大急ぎで読む(時間稼ぎ。ただし、アクセントや感情をしっかり入れて。つまりこちら大急ぎで読んでも教師がわかるように周到に練習をしておく。まあ、これはこちら側の学習にもなる)、3.文法的な質問をしない(予備校で英語教師をやっていたこともあるので、文法はあらかた解る)、4.会話に必要な表現や単語はメッセージに打ち込んでもらう、5.定番の教師を決めて専らその教師のレッスンを受ける、6.初めての教師の場合には文の短いNHKの「ニュースで英会話」を指定する、といったような工夫をやっている。ようするに、こちらがカリキュラムを組み立てられることが出来れば、これはこれで安くて便利な英会話なのだ。

英会話教室の革命であることは、間違いない

ただし、オンライン英会話、これからも発展していくだろう。期待したいのはスケールメリットが現れること。ユーザー層がどんどん増え、それに従ってシステムも完備されているというかたちだ。すでにDMMが英会話に乗り出して、現在テレビで大キャンペーン中だが、こういった大手が入ってくると状況は一変するだろう。そして、あまたあるオンライン英会話、そして既存のフェイス・トゥ・フェイスの英会話レッスン(高額)が淘汰されていくのだろう。考えられるのは低廉=オンラインによるサービス、高額=フェイス・トゥ・フェイスの体系立てられたサービスという二極化。つまり「大衆化=一般化」と「高級化=排他化」(バブルはじけた後のスポーツクラブ再編成みたいなものかな?)。まあ、いずれにしても、これがインターネット時代の所産であるということは、間違いない。


オマケ:「英会話をやりたいけれどオンラインはフィリピン人なのでフィリピン訛りが気になる」なんてことを思っている人がいたら、そんな人はそもそも英会話をやる資格が無いと思った方がよいですよ。そういった「訛りレベル」のことにツッコミを入れられるのは相当レベルの高い非人間だけなので。で、英語熟達者の場合、その訛りレベルを自ら修正する力も持ちあわせているはず。

オンライン英会話は使えるか~レッスンを体験してみた

近年「英会話の価格破壊」として人気急上昇中のオンライン英会話。その魅力はズバリ「低価格」。30分程度のマンツーマン・レッスンが一回につき200円以下という破格の料金で受けられる。現在DMM、レアジョブ、ラングリッチあたりが大手三校。
じゃあ、自分もやってみようとばかり、9月始めからレッスン(一日一回コース)を受け始めた。ちなみにほぼ毎日なので、すでにトータルレッスン時間が50時間に達している。で、こんなことをやっているおかげで、そろそろいくつかシステムが見えてきた。そこで三ヶ月ほど試してみた結果をレポートしてみたい。前半は「低価格になるカラクリ」。

一日200円以下になるカラクリ・その1:人件費

しかし、それにしても1レッスン200円以下というのは安すぎだ。DMMなら最高75円になる(ただし、特別価格)とも謳っている。なので、はじめにそのカラクリについて確認しておきたい。というのも、実は、このカラクリこそが教育システム=カリキュラムの構造に大きく影響を及ぼしていると考えられるからだ。

ひとつは、あたりまえの話だが、まさにインターネット時代のメリットを最大限に生かしたから。英会話教師はそのほとんどがフィリピン人。そしてもちろんフィリピン在住。なのでテレビ通話アプリ・スカイプを利用して日本とフィリピンを結ぶのだが、要するにフィリピンの人件費の安さ、ネット通話が無料であることを利用してこのビジネスが生まれたのだ。

一日200円以下になるカラクリ2:日本人の英語コンプレックスに訴える

ただし、である。いくら賃金格差があるといっても、これじゃ教師の時給は最低150円以下ってなことになってしまう(DMMの場合、最安で75円なのだから、これを基準に教師の取り分を見積もれば時給は数十円程度と、とんでもなく低いということになる。しかしながら教師はそれなりの訓練を受けているし、その全てが大卒、あるいは大学生。そう、いくらなんでもこんなに時給が低いわけはなかろう。でも、なんでこんな安い価格が設定できるのか。

その答えは「英語というコンプレックスを利用した釣り」にあるといっていい。とにかく日本人の英語コンプレックスはハンパないというか、メディア的に助長されてしまっている感が強い。英会話関係の広告がテレビCMや電車内、ネットなどで夥しく展開され、そのどれもが「英語喋れないヤツは国際人じゃない」みたいな煽りがあたりまえのように行われている(実際には、そんなことは全然ないのだが)。半面、英会話で目ざされている到達目標はあまり明確にされていない。英会話には、たとえばトラベル英会話、日常英会話、ビジネス英会話、本格的なネイティブとの議論が出来る程度の英会話など、用途に応じて様々なレベルがあるのだが、これがみんなゴチャゴチャに扱われる。で、恐ろしいは、用途の設定が曖昧な結果、常にに先ほど列記した最後のレベル「本格ネイティブとの議論が出来る程度の英会話」がメディア的に設定され、これに到達すべく一律に英語コンプレックスを煽り続けるのだ。ようするにクルマを運転するのなら、安全に運転できればよいのに、一律F1レーサーを目ざさなければならないようなあやしい構図が設定されている(正直な話、日本人の英会話のレベルはメディアによる設定に比べれば遙かに低い。いいかえれば「永遠に達成不可能な目標」がメディア的に垂れ流しにされている)。で、こういった英会話ビジネスに入れば、突然ネイティブとペラペラとコミュニケーションが出来るような幻想が振りまかれている。

「じゃあ、英会話やらなけりゃ」となるのだけれど、フェイス・トゥ・フェイスの英会話レッスンはベラボーに高いので、これはムリ。そこでお手頃なインターネット会話が登場するのだけれど。実は、同様にこちらの方も、こういった煽りをうまく利用したビジネスになっている。

僕が利用している英会話は最大手のひとつ。システムは他のものとほぼ同じで一回につき25分のレッスンが受けられるが、これが一日一回で一月6000円程度。一回は200円ほどということになる。レッスン予約はサイトの予約ページに飛び、時間帯を選び、該当する時間枠をクリックすると受講可能な教師の写真が登場し、これをクリックして完了する。

で、この時、気になることがある。講師の数だ。リストを見てみると300名程度がリストアップされているが、各時間帯ごとに見ると対応できる教師は最大で20名程度。時間帯によっては(早朝など)数名という場合も。しかしながら、登録されている生徒数は膨大で、当然この程度の人数では処理しきれないはず。にもかかわらず、開始時間間近になっても予約可能な教師が存在するのだ。

これは、どういうことか?

この答えはこうだ。その安さに乗じて膨大な数の消費者がオンライン英会話に登録する。ただし、ほぼ全員が英語コンプレックスの持ち主。なのでレッスンは緊張しまくる(英会話教師たちの多くが日本人はナーバスだと指摘していた)。で、ほとんど英語が話せない。教師の方が一方的に話すというような展開でもしないと、会話よりも沈黙が流れる時間になってしまう。その結果、コンプレックスは返って助長される。で、だんだんとレッスンから疎遠になっていく。ただし、最初の三ヶ月とかは「割引」と称して一括入金を義務づけてくるところが多いので、結局たとえば一ヶ月6000円ならば18000円を払い込み、その実受けたレッスンは数回だけと言うことに。要するに膨大な数の非アクティブ・ユーザーが存在するわけで、だから教員数は一枠に付き20名程度で十分に処理可能。一方、このユーザーたちが支払った授業料が教員に還元される。だから彼らに支払われている給与は時給二桁ということには必ずしもならないわけだ。

もちろん、やる、やらないはユーザーの任意だから、これは悪徳商法というわけではない。自己責任、つまり「やらないヤツが悪い」だけなんだから。ということは、僕みたいな貧乏人は「意地でもやってやろう」(笑)と考える。なので、一部だが、毎日のようにガンガンやっているユーザー=生徒もいるわけなんだけど。

ところがこの構造、教育システムそれ自体、つまりマジメにガンガン授業を受けている人間にも大きな影響を及ぼしているのでは?しかも悪い方に。では、それは何か?(続く)

研究編:研究という権威とどう関わるかで態度は変わる

大学に生息する珍種の教員についてご紹介している(あくまで珍種、亜種です。あしからず)。後編は研究・事務編。ちなみにここでの様々なエピソードは文系教員を対象にしている。大学教員は教育者でもあるけれど「本来は研究者」というアイデンティティがある。つまり、「研究が好きで学者になった」というタテマエがある。で、このタテマエがどう展開するかで研究や事務に対する態度も変わってくる。

「これでいいと思います!」というご託宣

大学院時代の仕事は研究者にめざし研究会への参加、論文作成、学会発表・参加、主任教授のカバン持ちなど、いろいろとやることがある。で、院生の中には大学院というのは結構響きがいいと思っている人間がいる。大学が「最高学府」、ということは大学院は「チョー最高学府」ってな認識があるからだ(さながら「最高裁判所」のあとに「バッチリ裁判所」とか「ハイパー裁判所」とかがあるという感じか?)。おまけに、今や大学院はかなり入りやすい(文科省の指導によって定員を大幅に増やしたため)。自分が所属した大学の偏差値プラス5とか6とか、いやそれよりもっと偏差値の高い大学の大学院に意外と簡単に入学することが出来る(学歴コンプレックスの固まりみたいな学生たちは大学院に入ることでルサンチマンを晴らしたり学歴ロンダリングをやったりするのだけれど)。

で、こんな認識をもっていると大学院時代で、すでにいおエラい方になる場合もある。たとえば、学会でオモシロイ発言をする人間が登場する。学会発表の席で、某有名T大学の院生のやった質問・コメントがその典型だ(発表者ではない)。学会発表では発表の後に質疑応答があるが、その際、件の院生は「それでいいと思います。あなたのやっていることは合っています」とコメントしたのだ。おいおい、あんたはいつから大先生になられたんだ?それとも神なのか?当然、その場は唖然とした空気に包まれた。つまり”中二病”(ちなみに、このエピソード、あっちこっちから報告があった。しかも、これをやるのが、なぜか決まってT大院生なのだ)。

大学教員生活は余生

で、なんとか大学に職を得ることに成功するのだが、そのうちの一部の者が就職した瞬間、研究をスッパリとやめてしまう。ようするに「上がり」ってなわけだ。その一方で、困ったことに学務も教育もやらない。いいかえれば三十代で「余生」に入る若者が登場する。こういった人間は大学からすれば「不良債権」。何にもやらない分を他の教員や職員がフォローすることになる「焦げ付き」になってしまうのだ。大学の人選は公募か特定採用が基本。前者は広く公募を募って書類と面接で選考する。後者はいわゆる「一本釣り」。そして、この二つの中間形態の採用方法があるのだけれど、いちばんフェアに思えているようで、実はリスクが高いのが公募なのだ。書類だけだと業績しか見ることができないので教育と事務能力を測定できない。なので、面接や模擬授業を選考項目に加えるのだけれど、これとて一回きりが原則なので、上手く切り抜ける人間は結構多い。採用人事は、いわば「スカを引かない」ために行われるという側面があるのだが、どうしても紛れ込んでしまう。特定採用のようなコネの方が安全という場合が、間々ある。

で、こういう輩は結局、権威主義。大学教員という職業が社会的ステイタスであり、これを獲得したいというのが先ずあって、そのタテマエとして「研究が好き」となっているという体裁を装っている考えるのが正鵠を射ているだろう(だから就職した瞬間、カミングアウトして研究をやめてしまうのだけれど)。ちなみに大学教員になったところで、そんなに高額な給料がもらえるわけではない(国公立ならフジテレビ社員の半額くらいか?まあ、平均年収よりはマシだが)。ということは、やっぱりネームヴァリューに関心があるというわけだ。

「私は研究者」という強烈なアイデンティティ

一方、その逆もある。研究者というアイデンティティがメチャクチャ強い人間だ。「全ては研究のため」「自分は研究のために大学に所属している」という信念ゆえ、こちらには一生懸命だが、その反動で教育と学務をほとんどやらない。で、こういうタイプは二つに分かれる。一つはそちらの研究に没頭するので優秀なタイプ。ジャンジャン業績残して、とっとと上の大学へと移動する。上の場合「研究中心の大学」なので、本人からすればそれまでの大学は「腰掛け」としてうまく利用したということになる。

まあ、これはこれでいい。著名な学者がかつてこの大学に所属していたというのは大学に箔がつくからだ。それなりに貢献している。マズイのは研究があまりにオタク過ぎて、当該学問分野でも相手にされないタイプだ。教育や学務をやらない、その一方で研究機関としての大学にも貢献しない、研究ばっかりやっているので社会性がない。というわけで、これもやっぱり「不良債権」扱いとなる。

学会でご託宣を宣う

就職が決まると研究をだんだんとしなくなるので、学会発表も減ってくる。調べればわかることだが、学会の発表者って、その多くがまだ就職先が決まっていない若者たちなのだ。ただし教員にとって学会はかつての仲間との再開の場でもある。しかも大学からその費用が出るので出席するにはやぶさかではない(とりわけ北海道や沖縄で学会を開催すると参加者が増えるのは、なにをかいわんやである)。

で、出席してギャラリーとして参加するのはよいのだけれど、中には迷惑な連中も存在する。やはり、発表者について質問やらコメントをするのだけれど、これが完全にピント外れというか、我田引水というか。自らの関係筋の発表がなされると、その発表についてコメントするのではなく、持論を展開してしまう。つまり相手の話を聞かず長々と高説を垂れてしまうのだ。その間、他のギャラリーは延々待たされることになるのだけれど、まあ迷惑きわまりない。

学務編:やってもらうことが基本

事務は職員の仕事

最後に事務=学務についても触れておこう。学内の事務、つまり学務も教員の重要な仕事の一つだ。しかしながら、これを極力やろうとしない輩が存在する。先ず書類の提出が遅い、あるいは提出しない。職員の方も慣れたもので、ある程度書類が出てこなければそのままスルーするか、こちらの方でさっさと処理してしまう。こっちの方が遙かに経済効率がよいからだ。それゆえ会議の議事録、進行表等の作成は全て職員が担うところが結構多い。これって、教員が手がけることで学務に対する自覚が涵養されていくという効果も期待できるのだけれど。しかし、教員にやらせておけばいつまで経っても出来上がらないので、やっぱり効率性を踏まえて職員がさっさと処理する。つまり、教員は上げ膳据え膳をやってもらえる「お殿様」となるのだが、これがデフォルトになってしまうと、ただただおエラい方になっていく。これこそ「大先生誕生」の構図である!

パーティの席上で、人は向こうからやってくるものと考える。

パーティの席上での教員の行動パターンも興味深い。基本、こちらも「上げ膳据え膳」という状況を期待している。たとえば、初めて出会った場合。名刺を先に差し出すのは相手の方。いや、後からであっても出してくれるだけまだマシ。中には、その都度「実は、名刺を切らしておりまして」と言い訳し、名刺を決して配らない教員もけっこういる。これ、言うまでも無いことだが、ビジネスの世界では余裕で失格の行動だ。

また、酒宴の席では専ら1カ所に立ち続ける。椅子がある場合はそこに座り続け、他の参加者が挨拶しに回ってくるのを待つ。これは傲慢と言うよりも、自分から席を立って挨拶するといった社交を経験したことがないから。で、着席しているときは手持ち無沙汰なので、たまたま隣に居合わせた社会人、あるいは教員と話し込むことに。教員同士なら相互扶助(見知らぬ空間で手持ち無沙汰になることなく、やり過ごすことが出来る)になるが、相手が社会人の場合だと教員のおもりをさせられることになる。

前回述べたが、最近、大学は過当競争の中にあるので教員も営業に駆り出される。たとえば企業説明会などを開き、その後で立食パーティが催されたりするのだが、その時、会場の隅の方に集まりヒソヒソ話をしている連中が教員だ。怖くて見知らぬ人間に名刺を差し出すことが出来ないのだ(前述したように、持っていないという輩もいる)。で、お客であるはずの企業の人事担当の方が名刺を持ってやってくることに。

でも椅子取りゲームは好き

こんな輩がある程度力を持ってしまうと学務それ自体が立ち行かなくなることも発生する。大学を「余生の場」と捉えている教員にとって、この環境は是非とも守るべきもの。だから、現状の環境を変更したくない。そこで、構造を変化させないようと努力し始める。いわゆる保守反動、アンシャンレジーム志向。で、これと学者気質と結びつくと質が悪い。学者というのは要するにオタク。施行細則にものすごく細かいという性格がある。で、この性格が保守反動と結びつくと大学規定を熟読し、どんな新しい提案も「規定違反」という解釈を構築して変革をストップさせてしまう。で、とにかく誰よりも規定を読み込んでいるので、最終的に誰も反論できない。かくして大学組織は旧態依然としたまま運営が続けられ、気がつけば時代から取り残されることに。ちなみに私大で理事長とか理事会がワンマン経営している場合は、こうはならない。ただし、それがよいかというと話は別。今度は理事会がわけのわからない裁量で大学運営を振り回し始める。

ちなみにこういったたぐいの教員は元々権威主義なので、偉くなることは大好き。教授になること、役職に就くこと、派閥を作って政争を繰り広げること、こんなことに血道を上げる輩も、まあ結構いる。セコイ「白い巨塔」ごっこみたいな状態を繰り広げて余生を楽しむのだ。という足の引っ張り合いなんて茶番もまた、展開される。

ということで、あっちこっちの大学に生息する大学教員たちの亜種の生態とその行動について今回は紹介させていただいた。こんな輩が大学教員の中にいると考えると、まあ教員も「人の子」ってなことになるんだろうか。

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