勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 教育問題

就活ルール廃止が学生を混乱に陥らせる

2021年からこれまで経団連が設定していた就活ルールが廃止される。いわゆる紳士協定が完全撤廃されることよって、現大学二年生はいつでも内定を取ることが可能な状況が発生するのだ。言い換えれば完全なる自由競争。だが、僕はこの廃止を非常に危惧している。就活と学業の関係がゴチャゴチャになるからだ。学生たちは年がら年中就活に関わらなければならず、学業どころではなくなる。事実、現在の大学4年生の状況が典型で、4年生のゼミナールが成立しなかったり、授業にまともに出席できないという事態が発生しているのだ(中には、就活の欠席を欠席とカウントしないという「配慮」(蛮行?)を行う教員もいるらしい。いいのか?そんなことして?)。

廃止積極的肯定論におけるエリート主義

このルール廃止を積極的に肯定する立場がある。「就活」と「学業」の二項対立は間違い。二つは相互補完的な関係にある。つまり就活をうまくこなすことの出来れば学生は学業もうまくこなせる、その反対も同じ。つまり、これらは互いにスキルを補い合っているのだと指摘する。そして、そうした補完関係をより促進するために早いうちからインターンに取り組むのがよい。実際、早々にインターンを開始した学生は社会と大学の関係をよく踏まえ、双方に好結果を生み出しているという。

残念ながらこうした指摘は理想論かつ極めて偏ったものでしかない。また論拠も曖昧だ。早々から就活やインターンをはじめるのは活動力が旺盛な学生たちだ。つまり「就活をうまくこなすから学業もうまくいく」「学業をうまくこなすから就活もうまくこなす」「インターンを積極的にこなすから学業や就活もうまくこなす」というのは、いずれも相関するが因果関係的には無根拠なのだ。むしろ、この関係を説明するの最も妥当な回答は「もともとこうしたスキルを備える学生が学業、インターン、就活いずれもうまくこなすしているだけ」となるはずだろう。つまり根元のスキルは同じ。小学校で成績のよい児童は概ね全ての科目においてよい成績をあげることができるが、これは点を取るスキルがはじめにあったから、全ての科目で優秀になるのと同じメカニズムに基づくと考えるとわかりやすい。

学生は今も昔も就職には受動的な存在

大多数の学生は残念ながらそのようにはなっていない。大学三年次ともなると、彼らは就活にソワソワし始める。これは大学の就職支援部が学生の尻を叩きはじめるからだ。セミナーが始まり、リクルート会社への登録が3年生全員を集めて行われ、そしてリクナビやマイナビがさらにこの尻叩きに拍車を駆ける。その結果、なんだかわからなくても就活はしなければいけないという強迫観念に自動的に駆られてしまうことになる。

こうした大多数の学生は就職戦線において自らを柔軟にコントロールすることが出来ない「活動力がさほど旺盛でない就職弱者」の若者だ。で、これら学生に対して就職ルールが廃止されたらどうなるかは火を見るよりも明らかだろう。大学入学早々、就活のために大混乱に陥るという事態が発生する可能性も考えられる。

インターンの早期開始でスキルを磨くことは一見現実的のように思える。だが、現状ではインターン制度は未発達。全員がインターンを受けられるのは限られた学生で、しかも企業によってはたった1日だけのインターンといった帳尻だけを合わせているものも多い(僕は学生たちに「1日だけのインターンなんてほとんど意味ない。利用されているだけ。本当のインターンは中長期にわたるもの」と教えている。ちなみに僕もインターン推奨者の一人ではある)。そして、これら有益なインターンを獲得する学生は当然、就職強者、つまりはじめからスキルを備えた若者たちなのだ。

学生のスキルアップをさせようとしないリクルート産業

ただし、もし仮にインターン制度が充実し、多くの学生がこれに参加できるようになったとしても、実は大きな問題が立ちはだかっている。企業と学生の間を取り持つリクルート産業の存在があるからだ。これら企業は、当然のことながらこのインターンにも介入してくるだろう。そして、現在と同様、システムの中で大多数の学生を「管理」(「就職脅迫」と言い換えてもよいかも知れない)し始めるだろう。その結果、インターン制度は骨抜きにされ、学生は大学在学中は右往左往させられることになる。事実、大多数の学生は現在リクルート産業に「おんぶに抱っこ」の状態なのだから、結局、これまで同様、あるいはこれまで以上に没主体的、かつ受動的にリクルート産業にコントロールされることになる。しかも四年間も。インターンによる自律性や社会性と確立というのは、こうしたリクルート産業という存在がある状況では、効果が薄いと判断せざるを得ない。ちなみに、これはいまどきの学生に主体性が足りないと言っているわけではない。この年代の若者はまだ未成熟であるから、むしろこうなるほうがあたりまえ。今も昔も大学生はそんなもんなのだ。

就活もネオリベラリズムの時代が到来する

ただし、これは一部の活動的な就職強者の学生にとっては福音だ。大学就職支援部やリクルート産業を縦横無尽に駆使することがえきる能力を備えていれば、これら学生にとっては「鬼に金棒」、やりたい放題となる。
しかしながら、こうした学生はマイノリティだ。そして偏差値が低くなればなるほどこの割合は減っていく(もちろん上位偏差値校であっても、やはりこの手の学生はマイノリティなのだが)。そして、やはりリクルート産業の管理下に置かれることになる。これでは主体性の形成もままならない。
結果として、こうした状況は、いわば「就職ディバイド」を生むことになる。言い換えれば就活のネオリベラリズム化。マタイ効果によって、富めるものはより富み、貧しい者はより貧しくなる。そして、大学生の過半数が後者に属することになる。

法政大教授の田中研之輔氏はこの解決策として「ターム&プール」を提唱している。これは春休みと夏休みにインターンも含めた就職活動を集中させ、それ以外は学業に集中する。要するに二つを平行させつつも分離させる、しかも双方を関連させるというアイデアだ。ただし、氏はリクルート産業が介在することによる「就活のシステム的管理」について考慮していない(企業の力を舐めてはいけない)。また、大学は「知的怠惰」という重要な機能を担っている。ギャップイヤーなどはその典型で、これももう一つのインターンシップではあるが、これらについてもアイデアからは除外されている。

さしあたっての処方箋はルールの厳密化だ!

現状では、就職に関してはある程度のルールを採用すること、残念ながらこれがいちばん無難な方策ではなかろうか。極端なことを言えば就活ルール、すなわち就活解禁日を企業に厳守させて、違反した企業に採用禁止といったペナリティを科すのが対蹠法的に見て、現状では最もシンプルで現実的と僕は考える。

ただし、これはあくまで対蹠法であり、根本的な解決策とは当然言えない。その一方で大学生と企業のマッチングに関するシステムを企業ーリクルート産業―学生を真剣に考える必要があることもまた確かだろう。企業のリクルートはイイカゲン、リクルート産業もイイカゲン、そして学生もイイカゲンという現状では学生の質は低下するばかりなのだから。こうしたインフラを整備した時、田中氏の提案するようなプランが初めて現実性を帯びてくるはずだ。

世界のトランペッター日野皓正が中学生をビンタ!だってさ。で、何か?

言質(げんち)という言葉がある。これは大辞林では「交渉事などで、後で証拠となるような言葉を相手から引き出す。」と定義されている。つまり、相手から言葉を引き出せば、それは確たる証拠になるというわけだ。つまり「あんたはあの時、こう言っただろ?」というわけだ。

たしかに言質は相手から直接引き出した一次資料なので説得力があるように見える。しかし、実際のところどうだろう。むしろ昨今のマスコミによる事件やトラブルの報道では、この言質が悪用されているように僕には思える。

そのことの典型を示すのが日本を代表するジャズ・トランペッター、「ヒノテル」こと日野皓正をめぐる「ビンタ報道」だ。2017年8月20日、東京都世田谷区で開催された「Dream Jazz Band 13th Annual Concert」の最中、割り振られた時間を超えてもドラムソロをやめない中学生の演奏を制止するため、ヒノテルは客席からステージに上がり、中学生のスティックを取り上げた。しかしそれでも素手で演奏を続ける当該生徒に、今度はビンタでこれを制止させたというもの。これが新潮の記事となり、さらにはサイトではその映像がアップされた。つまりこれらは「世界のヒノテルが公開の場で子供に暴力を振るった」言質というわけだ。暴力=悪という絶対的正義を前面に押し立て、その証拠に基づいたヒノテルへの非難が新潮の報道基調だった。

同様の事件が小学校でもあった。7月13日、所沢の小学校で学級担任の四十代の男性教諭が四年生の男子児童に対し、「(三階教室の)窓から飛び降りろ」「明日からは学校に来るな」「34人(クラス生徒数)だけど、これからは(当該児童を除く)33人でやっていこう」と暴言を吐いたというもの。これも、このような発言=言質が確たる証拠となり、最終的に学校側が謝罪している(実は、実際になされた発言は異なっていたのだが)。

しかし、この二つ、その後、様々な後日談を生んでいる。暴行、暴言を行ったとされる側に対する擁護論がどっと沸いてくるのがその基本的なパターン。結果、ネタ的に盛り上がる。

「そろそろ、こういった間抜けなマッチポンプ的な議論は、みっともないからやめませんか?マスコミの皆さん」

僕は、こう言いたい。ハッキリ言って、頭悪すぎです。


テクストとコンテクスト

言質というのは便利なもので、とにかく「証拠」になるわけだから強い、説得力が圧倒的という印象がある。しかし実際のところ、これはとんでもないマチガイだ。それを二つの用語を用いて説明してみよう。

一つは「テクスト」。これは「表現体」と訳されるが、言葉の通り真実の内、表に現れているところ=見えているところを指す。語りそれ自体、文章それ自体、映像それ自体。これらはテクストだ。ただしテクストには、背後にそれを下支えする「コンテクスト」、言い換えれば「文脈」が存在する。言い換えれば二つは「事実」とその「背景」。テクストとコンテクストの関係は氷山に例えるとわかりやすい。氷山のうち、水面上に浮き出ているところがテクスト、海中に隠れているのがコンテクスト。ということはテクストは、ベタな表現通り「氷山の一角」でしかない。真実は「水の中」なのだ。そしてコンテクストの方が圧倒的に情報量が多い。

「ヒノテル・ビンタ事件」も「窓から飛び降りろ事件」も、当然コンテクストが存在する。ただし、それはテクスト=氷山の一角しか見えないわれわれには計り知れない。だから、それについて語るべき資格を持っていない。

コンテクストを捏造するマスコミ

ところが、マスコミは当事者に成り代わってこのコンテクストを含めて報道を展開する。ただし、マスコミとて氷山の水面下のことについてはわれわれ同様、わかっていない。そこで言質=氷山の一角、つまり表面部分を取り上げて、これに水面下=コンテクストを任意に加えていく。この二つの事件について共通するマスコミの立ち位置は前述したように「暴力は絶対否定されるべき(二つは物理的な暴力、心理的な暴力という点で異なってはいるが)」という、マスコミが疑うことを知らない”絶対是”に基づいたコンテクスト作りだ。ヒノテルと中学生の関係、所沢小学校教員と生徒(当該の生徒及び他のクラスの生徒)、さらには暴言を訴えた生徒の親との関係など。これらについてマスコミは全くコミットメントしていない。いいかえれば、いいかげんな文脈作り=コンテクストづけをやっているに過ぎないのだ。で悪者はヒノテルと教員になる。しかも、後続する報道はほとんどやらない。そんなの面白くないのでネタにならないし、費用もかかるからやらないと決めているんだろうか?

ハッキリ言おう。こうした報道姿勢は、これを取り上げたマスコミの無知を晒していることになるだけだ。スキャダリズムに基づいて、氷山の一角の言質だけを取り上げ、悪者を同定してバッシングを展開し、センセーショナルなネタとして世間に流布する(悪者となる対象は基本的に強者。つまりセレブや役人や大会社のお偉いさんなどの「妬みの対象」とオーディエンスが思っているだろうとマスコミが想定している人々)。こうなるといちばんの加害者がマスコミで、取り上げられた人間(事件の中で加害者とされた人間。被害者とされた人間も含まれる)が被害者ということにならないだろうか。

われわれは、もうとっくにマスコミの無知に気づいている。だからマスコミ離れする?

オーディエンスのわれわれとしては、もうこうした揚げ足取り的な報道については適当にスルーするような心性が出来上がっていても良い頃だ。というか、もう出来ているのでは?と僕は踏んでいる。そのことを知らないマスコミがオーディエンスを「無知な輩」と認識し、上から目線で愚弄しているだけ。つまり「こんないいかげんな報道でも、あいつらアホだから大丈夫」。

いや、アホなのはあんたたちでしょう。マスコミ離れはどんどん進んでいるんだから。マスコミは、もうちょっとというか、猛勉強したほうがいい。いたずらに言質を取り上げて騒ぐなんてことはもう止めないと、これまで以上に一般からは支持を失うことになるのが関の山なんだから。

おしまいに、ヒノテル・ビンタ事件について、僕の感想を述べておきたい。

「いやーヒノテル、74歳になったのに、相変わらず熱いよね。で、全然やめない中学生も熱い!こりゃ、ジャズのスゴイインタープレイだぜ!」

もちろん、これも僕の勝手なコンテクスト付け(ジャズ大好き人間がでっちあげたそれ)であることをお断りしておく。真相は闇の中。そして、その真相=コンテクストをえぐり出すことこそ、実はマスコミの仕事にほからならない。そのへんのところをマスコミは認識して欲しい。

インターネットは語学学習のための最高の環境

本気で語学(今回は英語に焦点を当てている)を学ぶ気があるのならば、はっきりいって、現在では現地まで行かなくても十分学習は可能だ。インターネットを中心としたメディア環境が十全な学習環境を用意してくれるからだ。ネット上にはタダで学べる教材が山ほど転がっているし、Skypeを利用すれば格安でマンツーマンの英会話授業が受けられる。現地、たとえばアメリカで使われている句動詞やイディオムを学びたければ、映画を見て字幕(英語)を参照しながら覚えればいいだけの話だ。さらに熟達したなら応用練習として欧米のテレビ番組をチェックすることもできる。ようするに、その気になれば語学、とりわけ英語はタダ同然で学習することが十分可能なのだ。

では、留学しないでどうやって勉強するか?関心のある方はその参考例として有子山博美(ウジヤマヒロミ)さんのサイト「Romy’s English Cafe~英語学習お助けサイト~」をチェックしてみて欲しい。彼女は語学留学することなく上記のような方法で英語ペラペラになった御仁だ(TOEICも満点。ただし本人は「こんなものは、実践英語にはなんの役にも立たない」と一刀両断している。あんな「お上品」な英語は、はっきり言って使いものにならないというわけだ)。ちなみに彼女の実力、そしてその方法を手短に知りたければHapa Eikaiwaの「Hapa 英会話Podcast66回」(http://hapaeikaiwa.com/2015/07/31/第66回「インタビュー:国産バイリンガル(romy)」/)が参考になる。ただし、このインタビュー、全部英語です(もちろんPodcastでも聴ける)。

「英語を学ぶ」前に「英語を学ぶ学び方を学ぶ」必要がある。

もちろん、英語をどう学んでいけばよいのかについてのスキルは絶対に必要。つまり、語学を学ぼうとする人間は「語学を学ぶ」よりも先ず「語学を学ぶ学び方を学ぶ」必要がある(僕は英語のプロパーではないので、この学び方を結局、アメリカに来てから三ヶ月ほどでリサーチした格好になった)。だから、これを知らなければネットのどの教材を使っても、Skype英会話をやってもダメ。もちろん語学留学してもダメ。逆に言えば、やり方を知っていさえすれば、どちらでもうまくいくし、カネと時間に余裕があるのだったら、もちろん、海外の方が「カンヅメになる」「コミュニケーションチャンスが広がる」という点でアドバンテージが出てくるけれど。まあ「学び方を学ぶ」環境、インフラができていないのは語学だけでなく、全ての課目がそうなんだけれど(ホリエモンが「大学は不必要」なんて辛辣なことを言っているのは、こうした教育環境のダメさ加減にツッコミをいれているわけで、今回取り上げた「英語勉強しようと思ったら現地に行く必要はない」というのと、まったく同じことだろう。要は方法論の問題のわけだ。で、それがネット時代の今なら、やり方次第で、いかようにもなる)。

語学産業に踊らされるなかれ

現在の日本は「国際人=語学が堪能」といったとんでもない勘違いが一般に定着しているし、英語ができる人間はグローバルな人材などと勘違いされている。一方で、大学を卒業した人間からすれば英語を10年間も学んできてこのザマということで、そのコンプレックは強い。この弱みにつけ込んで、やれ語学留学だ「聴き流すだけの英会話」だ(みなさん、間違えないでくださいね。聴き流すだけで英語ができるようになるなんて絶対ありえませんからね)、二週間の集中特訓だ(フィリピンで盛ん。二週間で英語が喋れるようになるなんてのは明らかにウソです(笑)。英語を使う度胸がつく程度)なんてビジネスが市場を賑わしているわけで。

語学を学ぶ「目的」と「方法」を明確化しよう 

語学の学習を考える際に必要なことは結局、二つだろう。

一つは「なんのために語学をやるのか」をはっきりさせること。いいかえれば設定するレベルをあらかじめ決めておくこと。海外旅行を楽しむレベルならそれこそシチュエーションだけを覚え、後はカタコトで話せれば事は足りる。仕事上で必要ならば、その範囲でだけ技術を磨けばそれで十分。ネイティブ以外とコミュニケーションするなら1500語だけでコミュニケーションを行うことを推奨するグロービッシュで十分だろう(グロービッシュでは、英語を「言語」ではなく、たんなる「道具」と割り切っている)。カネがあるなら通訳をつけてもいいだろうし。

ところがゴロツキ英語産業は「こうすればペラペラ」「ネイティブと渡り合うことができる」(ネイティブって誰?ただの米国人コンプレックス?)とベラボーに高い設定をこちらに投げかけてきて、英語産業の商品群購入を脅迫してくる。しかし、これら産業が「めざせ!」と煽っているレベルは学習者のほとんどが到達不可能なレベルであることは覚えておいた方がいい。もっとも、これだけ高い設定をしておいて顧客を引き込めば、延々とカネを巻き上げることができるという仕掛けなのだけれど(TOEICやTOEFLも、この片棒を担いでいるといえないこともない。TOEIC900点以上を取得したところで、ネイティブの英語は全然わからないはずなので。ネイティブはあんなに上品な英語は喋りません。”in and out”は「インナナァ」、”one of them”は「ワナブゼ(ム)」ですよ。ほとんど「揚げ豆腐(I’ll get off”)」「掘った芋いじくるな(What time is it now?”)」の世界。ちなみに「今何時?」は”Do you have the time?”が訊き方のメイン)。

そして、もうひとつは前述したように、まず最初に「学び方を学ぶ」こと。良心的な語学ビジネス、だからこそ儲かる語学ビジネスってのは、実はこの「学び方を学ぶ」ことを教えるビジネスなろう。ここに目をつけられないってのも、語学産業がまだ成熟していないってことなんじゃないんだろうか。でも、これって解ってしまうと、実は語学勉強にカネは必要ないということもわかってしまうんだけど。

海外で1年語学を学んでも、その成果は……

最近、大学で留学と称して語学研修、とりわけ英語学習のために海外に一年間ほど出かける学生が目立って増えてきた。実際、僕の周りの学生たちもこの流れに乗じている状態。ただし、その成果はどうだったかというと……「なんだかなぁ?」といったところが正直なところなのだ。アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアなどで語学学校に通ってみたのはよいのだけれど、まあなんというか、ほとんどモノになっていない。日常生活での簡単なやり取りはできるようにはなったけれど、込み入った話とかはほとんど無理。リスニングも苦手というパターンが実に多いのだ。

もちろん、例外もある。面白いのは、その多くが途中で語学学校をドロップアウトしていることだ。つまり「こりゃ使いものにならない」と学校に三行半をつきつけてバイトなどに精を出し、そこで現地や他の国からやって来た若者と仲間になり、あるいはハウスをシェアするなどして、自らを英語漬けの環境に置いた一群だ。恋人ができて、これがネイティブだったりすると「無料の(ある意味、有料だけど(笑))専属トレーナー」になるわけで、そりゃ、すこぶる語学の上達が早い。

しかしなぜ語学学校に行っても、多くがたいしたことにはならないんだろうか。その理由を、今回、僕は身をもって理解した。

現在、僕はロサンゼルスの隣町トーランスに滞在している。ご多分に漏れず、僕も語学はてんでダメといった「自信」がある人間。なので「じゃあ語学学校でも、とりあえず行ってみますか」と、半ばフィールドワーク(つまり「学生たちが語学が上達しない原因」を探る)も兼ねて三ヶ月ほど通ってみた。で、その結果は「あ、こりゃ、ダメだ。使えん!」という結論。はっきりいって、限りなく時間の無駄。自分でやった方がはるかに早い。当然、辞めました(もったいないので、授業はマジメに全部出席しましたが(笑))。そして、なぜ、語学学校に通っていた連中がうまくならないのかも解ったような気がする。そこで、実験台となった自分の環境についてお話ししたいと思う。これはあくまで僕の事例に過ぎないが、どうも一般性があるように思える。というのも、語学学校経験者(教え子等)の話と僕の体験が実にうまく一致したからだ。

同じで異なるレベルの生徒が同居する

見つけたのはアパートから徒歩圏内にある語学学校。とはいうものの、細々と経営しているという学校ではなく、国内にいくつもの学校を抱え、教科書も自ら開発している(出来はなかなかすばらしい。ライティングのテキスト(パラグラフ・ライティングの技法)などは、翻訳すれば十分、文章の書けない日本の学生を指導する教材として通用する。教育システムについてはきちんと整えられたところだ。

入学にあたって、まずいわゆるプレイスメントテスト、つまりクラス分けテストを受けた。だが、これがその後の進行に大きく影響を及ぼすものだった。試験はリスニング、スピーキング、文法、リーダーの四部から構成されていた。それぞれ25点ずつ。これで自分のクラスはレベル7のうちの6に振り分けられた(最高レベルが7)。僕がダメだったのは前半部分。後半はほぼパーフェクト。つまり後半偏重の成績。要は「聴けない、話せない」。僕と同じようなパターンで得点をとった生徒の出身者はアジア勢。韓国、台湾、タイ、そして日本。ま、中・高・大学とマジメに英語の授業を受けてきた一群(僕は研究者なので、英語が読めるのは、まあ、あたりまえ)。これをAグループとしよう。ところが、この得点配分と正反対、つまり前半パーフェクト、つまり「聴く、話す」ができて後半がダメ、でも結局獲得した得点は同じといった一群も同じクラスに組み入れられる。その多くがメキシカンやヨーロッパ勢。彼らに共通するのは、すでに数年米国に滞在していることだ。だから、それなりにリスニングとスピーキングができる。じゃあ、この連中がなぜ語学学校に入ってきたかと言えば、ようするに「読めない、文法解らない。よってスピーキングはできるが滅茶苦茶(かつての「じゃぱゆきさん」の日本語と同じ、単語が羅列されるもの。「ワタシ、コレ、ダメ、マンガ、スキネ、デモ」みたいな喋り)、リスニングも一定レベルで足踏みしている。だから立ち入った話はできない。なので、ちゃんと英語を学びたいと考えたというわけだ。これはBグループと呼んでおこう。

誰も語学が上達しない構造

そして、この二パターンが混在することによって「二重の不幸」が訪れる。授業は個人指導ではなく、クラス単位の指導(アメリカで個人指導を受けたら授業料は三倍くらいになるので、語学留学した若者は、だいたいこのクラス授業を受けることになる)。午前中いっぱいの授業が週五日続くという、なかなかハードな内容なのだけれど、ただハードなだけで効率がものすごく悪いのだ。

授業で教員はとにかく話し続ける。生徒は必死に内容を理解しようとするのだけれど、ハードルが高すぎて全体の二割も解らない(話し方はネイティブのそれよりは遅く、かつ平明な単語を使用してくれてはいる)。課題が出されるたびに生徒たちは右往左往する。聴こえないからやり方がわからないのだ。とはいってもパターンは同じなので、次第に手順だけは解るようになるのだけれど。

この中で教員の指示や話を理解できるのは当然Bグループ。こうなると授業中のコミュニケーションは教員とBグループが中心となる。教員もリアクションしやすいから、必然的にそちらに話を振るようになっていく。当然、Aグループは蚊帳の外。そして、このコミュニケーション状況に恐れをなして石化、墓標化、地蔵化?する。だからいつまで経っても「聴こえない、話せない」。固まったまま。じゃあ、Bグループには恩恵があるのかと言えば、こちらにも困難が待ち受けている。週末のテストで高得点を取るのはもっぱらAグループになるからだ。彼らにとっては、今度は文法やリーダーのハードルが高すぎるのだ。だからBグループの目標も達せられない。ちなみに下のクラス、たとえばレベル3以下となると、ほとんど日本人、韓国人、中国人からなるクラス編成になっていて、しかも母国からやって来たばかりの、いずれもAグループに属するタイプ。ところがレベルが低い分だけリスニングもスピーキングも弱いので、授業はひたすら教員が喋りっぱなしということに。でも生徒たちは解らないので、生徒の側からすれば授業は「お通夜状態」に。沈黙が続くと同時に、教員の「講義という名の読経」が流れる。そして休み時間ともなると「やれやれ」ということで、同じ国からやってきた生徒と母国語での語り合いとなり、これが仲間意識を助長して学校以外は専ら一年間母国語を使い続け、語学は結局、なかなか上達しない。というわけで「まあ、効果は低いかな?」といったのが、この学校でのフィールドワークの結論だった。ちなみに「こりゃ、もったいない」と思ったので(笑)、僕は相手が日本人であっても一切日本語は使わなかった(やる気のある連中は、これに付き合ってくれた)。

語学学校ドロップアウト組に待ち受ける落とし穴

ならば、とっとと語学学校を辞めてバイトやネイティブの仲間を見つけた方が勝ち。ネイティブの恋人ができれば完全勝利!というふうになるのか?というと、やはりそれもまた違っているだろう。実社会(とはいってもバイトだが)に出て、ネイティブと語り合う時間が日常になったのだから上達が早いのはあたりまえと思うのは早合点に過ぎない。というのも、こちらのコースを選んだ連中は要するに、前述のBグループに加わったわけで、日常生活のごぐごく実践的なコミュニケーションは難なくこなせるようになるけれど、基礎が養われないから喋りは「じゃぱゆきさん」のそれ(ネイティブとのコミュニケーションの際の常套パターンの”Yeah”みたいな間投詞(単語が綺麗に繋がらないので、必然的にこうなる)が頻用されるというのが共通した特徴。「なーんちゃって陽気なアメリカン」気分ってところだろうか)。結局、つっこんだ話はできない(とはいっても、実用性ではこちらのほうが明らかに上だけれども)。

でも、こうやって1年間海外で生活し、帰国してきた一群は、たとえば日本で英語を使う機会となれば、それなりに対応が可能(Aグループは控えめに。一方、Bクループは積極的。「イェーイ!」のノリが「喋れる」というイメージを自他に向けてアピールするので)。そして、その対応は、英語コンプレックスに満ちた一般の日本人から見れば「英語ペラペラ」に見える(とりわけBグループ)。そういえばYouTubeに「英語ペラペラの芸能人」的なビデオがよくアップされているけど、これが典型的なそのレベルだろう。低いレベルなのだけれど、英語苦手の一般人にはペラペラに見える(ちなみに宇多田ヒカル、シェリー、伊藤穣一なんてのは、もちろん例外)。で、このことってのは、立ち位置を変えてみるとすぐにわかる。ちょっと考えてみて欲しい。芸能界で日本語のうまい外国人って思い浮かびますか?デーブ・スペクターやパックンくらいでしょ?(この人たちの喋りは、完全にアカデミックです)。あとはみんな、ちょっと、ヘン。これをひっくり返して考えてみればわかる。そう、英語をというか「言語という文化」をナメてはいけないのだ。一朝一夕にマスターできると思うのは、とんでもない勘違いなのだ。

ちなみに、これくらいの英語でも、一定環境の中でなら、なんとかなる、というか十分に使える。僕が、いま滞在しているここトーランス市はトヨタとホンダの米国での本拠地があることで有名で、日本からこちらに転勤等で送り込まれてくる社員がいるのだけれど、この一群はちゃんと仕事ができているという(あたりまえだが)。そして英語もそこそこやれるらしい。ただし、社内のみで。というのも現地スタッフは日本から派遣されてくる日本人社員の対応に慣れている。つまり英語を母国語としない相手への話し方をしてくれるし(語学学校の英語教師の喋りと同じ)、技術面では当然共有する部分が多いからコミュケーションも可能(トーランス市で日本人向けの語学学校を30年経営しているBYB English Centerのオーナー・セニサック陽子さんのコメント。この学校はこれら会社に所属する生徒が結構いる)。日本人野球選手が大リーグに行ってもそこそこメンバーとコミュニケーションできているというのは、こういった事情による。帰国した新庄剛志が英語ペラペラだとか聴いたことはないし、現在シカゴカブスに在籍しているムネリンこと川崎宗則は大リーグ5年目だがほとんど英語ができない(彼がウケているのはパフォーマンスが面白いからに過ぎない)。でも、ここでは「野球」というもう一つの「言語」が担保になっている(まあ、コミュニケーションは言語の前にコンテンツが無けりゃ出来ないのは、英語であろうが日本語であろうが同じなので。コミュニケーション能力≠語学力という認識が必要)。(つづく)

前回のスマホによる板書撮影の是非に続き、今回は授業へのスマホ持ち込み、及び授業内での使用の是非について考えてみたい。

先ず、講義でのスマホ使用について
講義中にスマホをいじることを禁じている教員がいる。つまり「私が講義をやっているのに、スマホをいじって内職をやっているなど、けしからん」といったところだろうか(笑)。実際、授業中スマホをいじる学生が見られるのは、教員の間ではもはや日常的な風景。SNS、ネットブラウズ、ゲームなんてことやっているわけなんだけど。これに業を煮やし、受講生のスマホを取り上げた教員もあったとか。

スマホを講義中に使い始める理由

しかし、どうなんだろう……
講義中、スマホをいじって内職するのは教員、受講生双方に原因があるだろう。
先ず教員側。思いっきりつまらない授業、あるいはわけのわからない授業、あるいは聞き取れない授業を展開し、これに学生側が愛想を尽かし、でもそれでは手持ち無沙汰なので、とりあえずスマホをいじるなんてことが考えられる。でも、これって、授業に全く配慮のない教員(やっつけで授業をやっているような教員)の場合、実はWINーWIN関係が成立する。学生側の利益は先ほど説明済みだが、教員側の場合でも「講義が静かになる」というメリットがあるのだ。スマホいじりは授業では原則単独でやっている。その際、私語がなくなるからだ(もっとも、隣通しでYouTubeをブラウズし、笑ったり語り合ったりするという辣腕学生も存在するが)。講義は静寂さを保ちながら進行していく(「なんだかな~」とういう状況でもあるけれど)。結果として「講義」という「形式」が成立する……。

また、学生の側に、そもそも講義をまともに聞く意志がなければ、当然、スマホに指先が向かうだろう。まともに聞く意志がないのは忍耐力が無い、そもそも授業に全く関心が無い、出席をとるのでとりあえずいるなどなど、まあいろいろ理由があるのだろうけれど。

中には、こんな事例もあるという。
真面目な学生。だが教員が講義で説明した単語の意味がわからない。そこで、それを調べようとスマホをいじった。その行為を教員が気づき、これを「内職」と捉えて退出を命じた。もちろん単位取得資格も剥奪。「誤解を招く行為」ということなんだろうが。この時、教員ははじめから講義中のスマホ使用禁止を宣言していたわけではなかった。本人は積極的に学ぼうとしていただけなわけで、う~ん、これは可哀想。

講義中に使っていても、実は誰にも迷惑がかからない……神経質な教員以外は

僕は講義中スマホをいじっていても原則、構わないという方針で講義を進めている。それは、前述したどれかに原因が該当すると考えるからだ。つまり、こっちの授業がダメか、学生がダメ(あるいは両方)。前者の場合であるならば僕の責任なので、これはそうならないように工夫をしろという受講生からのメタメッセージと受け取ることにしている。ちなみにスマホを講義中にいじることに僕がさして頓着しない理由は二つ。一つはこれも前述したように私語がなくなるという恩恵があること(つまり「勝手に内職やってろ。黙っていて他の受講生に迷惑かからないんだから、放っておこう。ま、試験で痛い目に合うのは本人なので」という認識。ちなみに、画面を隣の人間と眺めながら喋っていたら、こりゃ当然、迷惑だから止めさせる)。もう一つは授業関係で調べてもらうというのは授業に耳を傾けようとする積極的な姿勢であると考えられるから。内職なのか、それとも関連事項の調べごとなのかは割合簡単に判断がつく。関連事項の調べごとの場合、一斉に調べ始めることが多いから。これが察せられた場合には、僕の方でスマホをいじっている受講生一人を指名し、調べている内容をたずね、こちらの方で説明することにしている。この場合は、授業内容に学生たちが関心を持ったか、あるいは僕の説明が舌足らずだったかのどちらかのサインであると判断している。もちろん調べることそれ自体を制止することはない。ま、調べ始めたら関連事項に次々とネットサーフィンされて、授業がおろそかになっちゃうのは困りものだけれど。

ゼミ進行ではスマホは格好のツールになる!

次にゼミでの使用について。
ゼミは、言うまでもなく少人数で学生と教員がインタラクティブに関わる形式の授業。ここではスマホの使用はむしろ積極的に活用した方が授業は活性化する。

たとえば、ちょっとでもわからないことがあったら即座にネットで調べさせる。学生の場合、言葉の使い方もかなり間違っているので、これもスマホでソッコー調べさせる。またゼミはインタラクティブな授業形式なので、はじめから用意していたもの以外の学習項目も登場する。こんな時、スマホは本当に便利だ。彼らにとって(僕らにとってもだが)、スマホは実に忠実な執事、家庭教師として機能してくれるのだから。だから、僕のゼミではスマホは全員(教員も含めて)常に机の上。で、誰かがよいデータを引っ張り出してきたら、これを大型のディスプレイに表示して共有する。その昔、辞書を引くのは「片手3秒で」なんて言われたものだけれど、現在はこれがスマホに取って代わった。そして、とにかくわからないことが出てきたら、すぐにスマホで調べる癖を付けさせる。これで「バカの壁」を超えることが出来るわけで。だから、わからないことがあってボヤッとしてた時には「指を動かせ!」と口を酸っぱくして言うことにしている。で、これができるようになった学生は強い!

おもしろいのは、ゼミの最中、スマホを私用に使っている場合だ。これも内職になるのだけれど、同じ内職でも講義とは全く異なった位置づけになる。というのも、これをやられると、ものすごく不快な雰囲気がゼミ全体に広がってしまうのだ。つまり、他のゼミ生たちが「アイツ、完全にやる気がない」というふうな印象を抱き、授業の雰囲気に水を差しモチベーションを下げてしまう。ちなみに、ゼミ内での私用のスマホ利用の場合、操作は机の下になり、下を向いているので、すぐにそれとわかる。少人数、狭い空間で相互が見える状況では、私用に使うといっても、結局、十分に周囲に迷惑がかかるわけで、教員が不謹慎と思うのみならず、他の学生もまた(いやむしろこちらの方が)不謹慎と思う。これについては禁止するというのが、まああたりまえだろう。

スマホの教育利用はまだ始まったばかり、いや、始まってもいない?

もちろん、これ以外にも授業にスマホを活用する方法はいろいろ考えられるだろう。大学側、教員側はスマホという新しいメディア(もはや新しくもないが)に戦々恐々としているのではなく、もう少し活用する方にアプローチすべきではなかろうか。もっとも、そのアプローチはスマホの特性を考える前に、先ず教育をどうするべきかを考えることから始めなければならないのだけれど。


オマケ:ゼミでのインターネットやSNS、スマホの活用法の僕の論考及び実践例については本ブログ「クラウド時代のゼミナール運営術」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/62869697.html、「機能していない大学のインターネット環境」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64558702.html、「卒論作成ツールとしてのパワーポイント」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/63563644.html等を参照されたい。

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