勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 安宿街カオサン

3.カオサン安宿街史とバックパッカーの情報行動変容

今回は調査したタイ・バンコク・カオサン地区の安宿街史について情報・消費インフラの変容を中心に概略を示そう。
 

3.1勃興期:80年代~民家の中に、民家改造型ゲストハウスが出現

王宮北のカオサン・エリアにバックパッカー向けのゲストハウスが建ち始めたのは78年。しかい、80年代末まで、このエリアはバンコクを訪れるバックパッカーたちが第一に目指す安宿街ではなかった。欧米バックパッカーのほとんどはルンピニ地区のマレーシア・ホテル周辺、日本人の場合はバンコク中央駅西のチャイナ・タウン、ジュライサークル・エリアに投宿していた。僕がカオサンをはじめて訪れたのは82年だったが、この時には民家を改造したゲストハウスが数軒という状態で、街はむしろ単なる通り、住宅街という感じで、安宿があるというのはよっぽど探さないと解らない状態だった。
 

3.2急成長期:90年代、バックパッカーの聖地に

カオサンが変容し始めるのは90年代からだ。ゲストハウスやレストラン、土産物屋が民家を改造したり、軒先に店を設けたりするかたちで次々と開かれ、これに伴って旅行代理店も建ち並び始める。90年代半ばには日本人経営による旅行代理店(M.Pツアー)もオープンした。また、ゲストハウス、レストランも改造型から専用の建物になり、さらに、これら事業に企業が加わることで施設が大型化、本格化し始める。周囲には、これらの他に旅行者の便宜を図るためのコンビニエンス・ストアやファースト・フード店がオープンし、空間自体が旅行者の母国とさして変わらない環境を形成し始めていった。
 

3.3カオサンが観光地と化していく

環境の変化に伴ってバックパッカーのカオサンでの行動様式も変容する。それまでは旅の中継地として、カオサンはもっぱら投宿するエリアと位置づけられていた。航空チケットの手配などをバンコク繁華街の旅行代理店へ向かい、旅の準備が出来次第、次の旅行へ向かっていたのだが、次第にカオサンにやってくることそれ自体が旅の目的という意味合いを備えていった。カオサンに行ってゲストハウスに入り浸り、バーでよろしくやるといったスタイルが生まれたのだ。
 

3.4旅を巡る情報インフラの充実と旅スタイルの変容~はがきからネットカフェ、さらにはパソコン、スマホへ

旅を巡る情報インフラも大きな変化を見せる。それまではバックパッカーの旅の情報収集は、ガイドブック、口コミが中心的な手段だった。つまり、ガイドブック『地球の歩き方』を持ち歩き、ドミトリー=相部屋の宿に寝泊まりして、他の旅行者から情報を入手したり、ガイドブックの情報ノート(旅行者が旅の情報を任意に書き込んだもの)をチェックしたりすることで、さまざまな旅のノウハウを手に入れていた。また、日本との連絡手段は国際電話と郵便だった。ただし、前者は高くつくため、短い時間で済ますか、相手払いのコレクト・コール、あるいは緊急時の利用が一般的で、細かい内容を伝えるならば手紙やはがきと言うことになった。
 
ところが96年にインターネット・カフェがオープン。インターネット利用による国際電話サービスも開始され、さらに通信事情がダイヤルアップからISDNへと改善し、旅行者たちがこれらを積極的に利用するようになるにつれ、旅行者たちの情報行動は変容し始める。旅先に関する情報入手についてはガイドブックの他にインターネットからの情報入手が加わり、またチケットの手配やホテル・ゲストハウスなどの予約もネットを通じてというスタイルが普及する。連絡手段もインターネットによる電子メールが中心となり、インターネット・カフェが林立する中、こういったインターネットを巡るインフラが競争を始めることで、一時間の高速インターネット使用料金が50円程度にまで下落すると、安宿街でもっぱらインターネット・カフェに入り浸るという旅行者も出現した。メールで自国の知人・友人・身内と連絡を取り、ネットを閲覧し、旅行の手続きをし、日本のサイトを閲覧し、さらにスカイプ=ビデオ電話でおしゃべり興じるというように、ほとんど日本と変わらぬライフ・スタイルをカオサンにおいても取るようになっていったのだ。
 
だが、安宿街を巡る情報環境の変容は、2005年以降、さらに進行していく。その一つはWi-Fi環境の出現だ。それまでインターネット利用はインターネット・カフェで、しかも有料でというものだったが、2005年からはパソコン接続、2007年頃からはWiFiによる無料ネットーワーク・サービスを始めるゲストハウスやレストランが出現する。これはネットが使えることが客を呼び込む手段とみなされたためだった。さらに2008年、小型でWi-Fi接続、カメラ付属の低廉ノートパソコン・ネットブックが市場に出回り始めると、今度はこれを持ち歩くバックパッカーが出現。また2009年頃からはiPhoneをはじめとするスマート・フォンを持ち歩くものも現れた。
 
これに伴って、今度はネットカフェが減少していく。旅の情報入手スタイルはパソコン・スマート・フォンを携帯し、ゲストハウスやレストランで無料のWi-Fiサービスに接続し、旅情報だけでなく、日本の情報、消費・娯楽に関するものなど様々な情報にアクセスするのが次第に主流になり始めた。
 

3.5非日常に日常を持ち込む

こういった情報環境、消費環境の充実は、集約すれば概ね以下のようなライフ・スタイルがカオサンで出現したことを意味している。情報行動のほとんどはネット環境を利用することで処理し、飲食についてはファースト・フード、コンビニエンス・ストア、さらには日本料理店などで自国と同じ食生活を行う。ゲストハウスはエアコン、ホットシャワー付きの個室を利用する(以前はファン、コールド・シャワーのドミトリー利用が中心だった)。ようするに、これは自国=日常で暮らすのと同じ環境をタイという異国=非日常に持ち込むと言うことに他ならない。日本とタイの相違点は、物価が低いので日本で生活するよりも費用がかからず(おおむね三分の一以下)、それゆえ、日本よりも快適に暮らすことが可能となる点だ。旅行ライターの下川裕治は、こういった海外の安宿街などで旅をせず長逗留する若者たちを「外こもり」と表現している。
 
ただし、こういった消費・情報インフラの整備によって可能になった「非日常に日常を持ち込む」という行為は、同様なライフ・スタイルが可能であるならば、何も海外である必要は必ずしもない。そして、バックパッカーの間に生まれたこの認識は、翻って海外というエリアでの生活の利便性の悪さを浮き立たせることになる。食生活が異なる、衛生状態が良好ではない、言葉が通じないなどがそれだ。こうなると、むしろ海外バックパッキングはあまり魅力のないものとなっていった(ちなみに、21世紀に入ってから日本人バックパッカーに注目を集めるようになっているのは日本国内、沖縄や周辺の離島である。ここでは、海外でのバックパッキングに伴う不便性を補うかたちで「低廉で非日常を日常に持ち込む環境」を成立させているからである)。(続く)

2.2バックパッキング熱の低下

80年代の後半から右肩上がりに上昇していった海外旅行者数。ところが1996年の1780万人をピークに海外渡航者数は漸減していく。そしてこれに付随するかのようにバックパッキングという旅行スタイルも人気が低下していった。しかも、その人気の低落は、一般の海外旅行よりも著しかったのだ。
 
この原因として考えられる要素はいくつかある。一つは旅行スタイルの多様化である。80年代、若者にとって海外旅行のための選択肢はパック・ツアーかバックパッキング程度に限られていた(留学というスタイルもあったが、現在と違って留学はまだそのインフラが整備されておらず、留学可能な若者は国費留学生などの特権的な存在にのみ可能なものだった)。ところが、90年代後半ともなると海外旅行スタイルの選択肢が多様化、バックパッキングはあまたあるスタイルの一つという位置に追いやられることになった。つまり「客層」が他のスタイルへと分散してしまったのだ。
 
また、バックパッキングが最も低廉な旅というわけでは必ずしも無くなったことも大きい。海外旅行インフラの整備によって、短期の旅ならスケルトン・ツアーと呼ばれる「航空券とホテルをセットにした滞在型のパック・ツアー」の方が安くつくという状況も出現した。また、海外の知人・友人宅への宿泊といった「お手軽」な手段も一般化していく。加えて、経済的な変化も要因として加味する必要があるだろう。景気低迷に伴い、可処分所得の減少した若者たちが、比較的高くつく海外旅行をレジャーの一つから除外したことが考えられるのだ。
 

2.3海外イメージの相対化とバックパッキングの凋落

また、こういった外的要因だけでなく内的要因、すなわち若者の意識の変化もバックパッキング、そして海外旅行の人気が低落した原因と考えられるだろう。その最たるものは「海外イメージの希薄化」あるいは「海外イメージの日常化」、集約すれば「海外イメージの相対化」に求められる。
 
90年代以降の若者に特徴的な傾向として、しばしば指摘されるのが「内向き」指向だ。上昇志向が低く、日常生活を謳歌することをライフ・スタイルの中心とするその心性は、まず身の回りに関心を持つという行動傾向を形成するようになった。その一方で、インターネットを中心とした情報環境の充実で海外の情報は頻繁に入ってくる。また流通システムの発達で海外の商品も低廉なかたちで身の回りに配置されるようになる。こういった変化は、かつて日本人が海外に対してあこがれていた「非日常としての場」としてのイメージをすっかり相対化させた。その結果、現在、若者たちに起きているのが「洋風文化離れ」である。映画ではかつての”洋高和低”という構図が09年には逆転し、音楽においても好まれる中心は海外のそれではなくJ-POPになっている。
 
旅行においてもこの傾向は顕著で、とりわけ海外旅行の人気は全般的な低下が見られる。中でも、二十代若者の海外旅行離れ、とりわけ二十代女性のそれは著しい。また、海外に関するこういった情報、消費インフラの国内における充実は、翻って、海外に出かけることに対するデメリットを引き立たせることにもなった。「言葉が通じないのは大変」「食事が合わない」「時差ボケがイヤ」「治安が悪い」といったイメージの台頭がそれだ。
 
また、バックパッキングに付随していた「スノッブ」なイメージが相対化されたことも大きいといえるだろう。かつて、自分の足で歩くバックパッキング、しかも旅自体が安易ではないアジアを旅すると言うことは、ちょっとした「蛮勇」とみなされ、他者との差異化においては格好の手段と位置づけられていた。だが、アジアのイメージが相対化され、また現地においても、そういった「蛮勇をふるう」ようなエリアが近代化とともに消滅していったと言うこともあって、バックパッキングは差異化のための有効的な手段としては位置づけられなくなったのだ。
 

2.4メディアにおけるバックパッキン情報インフラの減少

一方、バックパッキングについては、その人気の低落がいっそう著しい。1996年以降、バックパッキングに関する情報誌・紀行文などの出版数は著しく低下した。たとえば、海外の格安航空券と安宿を紹介した雑誌「格安航空券ガイド」(ぷれいすα)は03年に休刊。バックパッキングのノウハウをコンテンツとした雑誌「旅行人」は1996年には月刊であったが、次第にその発行間隔が広がり、現在では年二回にまで発行回数を減少させている。『地球の歩き方』も90年代前半には、読者投稿記事を外し、反面で高級ホテルを紹介するなど、バックパッカーの貧乏旅行向け編集を打ち切り、一般向け海外旅行ガイドへと編集方針を変更している。また、バックパッカーを相手に格安航空券を手配していた四季の旅社、アクロスといった旅行会社も消滅(アクロスはエイチ・アイ・エスが吸収)。その業態を一般向けに変更し、パック・ツアー、とりわけ個人向け短期・低予算・滞在型のスケルトン・ツアーを全面展開した格安航空券会社のエイチ・アイ・エスが旅行業界を席巻することとなった。これらはバックパッキングがもはや若者の旅行スタイルからも後退しようとしていることを物語る。
 
現在、バックパッキングは、もはや一部の若者の、いわば「オタク的な趣味」と位置づけられようとしている。そして、このことは今回のカオサン調査でハッキリと浮き彫りになったのだ。(続く)


イメージ 1

2010年夏のカオサン。夜になると露天で通りが埋め尽くされる。

 

バックパッカーの聖地・カオサンなう

今回は80年代以降、若者を中心に普及していったバックパッキングという海外旅行のスタイルでの情報行動、対メディア行動の変化について、タイ・バンコク・カオサン地区でのフィールドワーク・サーベイを通して報告してみたい。とりわけ今回は旅における危機管理に焦点を当てる。考察の中心は1996年と2010年に実施された二つの調査比較だ。
 

1.バックパッキングとカオサン

はじめに今回対象となるバックパッキングという旅行スタイル、そしてバックパッカー(バックパッキングを行う旅行者の通称)が投宿するカオサン地区について概略確認しておこう。
 
世界では70年代、わが国では80年代以降、若者の間ではバックパッキングという旅のスタイルが流行し始める。バックパッキングとは、航空券のみを購入し、海外を宿泊地の予約などなしで周遊、滞在する自由旅行スタイル。こういった旅行スタイルの普及とともに、タイ・バンコクは欧米、そして日本からの旅行者が世界を旅するためのハブ的存在としてバックパッカーが集結するようになった。
 
またこの旅行スタイルに合わせ、バックパッカーが集結する、通称“安宿街”と呼ばれるエリアを世界各地に形成されるようになる。そして、そのうちの世界最大のエリアがバンコク中央、王宮北に位置するカオサン通り(以下、カオサン)一帯だ。カオサンにはゲストハウス、レストラン、旅行代理店、土産物屋などのバックパッカー向け施設が数多く存在する。たとえばゲストハウスひとつとっても百件以上が軒を連ねている。ここには欧米、アジア、オセアニアからたくさんのバックパッカーたちが集結している。
      

2.バックパッキング史概略~アジアを中心に

 

次に日本でのバックパッキングの歴史についてちょっと見ておこう。

 

2.1バックパッキングの普及

小田実の紀行文『なんでもみてやろう』に象徴されるように、60年代、すでにバックパッキングを行う若者が出現している。だが、当時は外貨持ち出し制限(なんと2万円。これで一体何ができると言うんだ?)、為替レートの固定相場制(1ドル=360円、今だとMac1コが360円となる)などもあり、一般の若者にとって海外は遠い存在だった。それゆえ、若者のバックパッキングの歴史は、実質的には70年代後半あたりからと見なすのが妥当だ。とりわけ78年に出版を開始したバックパッカー向けガイドブック『地球の歩き方』の影響は大きい。本書は、若者たちに出来るだけ長い期間、安く海外旅行することを提案する。そして、これが当時の若者の支持を受け、バックパッキングが若者、とりわけ学生たちの間で流行し始めるようになったのだ。また、この時期からテレビや雑誌などのメディアにおいても海外の情報が頻繁に流されるようになるなど、メディアを通して海外イメージの一般化が進む(日本テレビ「アメリカ横断ウルトラクイズ」がその典型)。そして86年のプラザ合意によって急激に円高が進行すると、経済的負担が大幅に減少したことから日本人の海外旅行熱は上がり、91年には年間と後者数が一千万人を突破。バックパッキングも、大いに人気を博するようになっていった。
 
若者たちのバックパッキングという貧乏旅行は80年前後までは、その行き先が欧米中心であったが、次第にアジアへとシフトし始める。その理由の一つに、八十年代前半から半ばにかけて『地球の歩き方』が立て続けにアジア各国版を刊行し、これを読んだ若者たちが、アジアが欧米よりもはるかに安く旅行できることを発見したという経緯があった。82年インド編、85年タイ編が出版されると、これらの国には若者が大挙して押し寄せるという現象が発生した。

 

しかし90年代半ばをピークに海外旅行人気は、なぜか下り坂になっていく。(続く)


「目的をもたない旅」の先にあるもの


Yさんは、今回で海外旅行が4回目。とはいっても、初めての海外旅行が昨年の夏。ということは、この一年でこれだけの海外旅行をこなしていることになる。そして今回が初めてのバックパッキング。三度の海外経験でバックパッキングが自分の旅行スタイルには向いていると考えるようになった。そのスタイルとは「ボケーッとすること」。Yさんは旅に、そしてバックパッキングに何を求めているのだろうか。(196)(8/7、午後二時半~四時。Buddy Lodge内、World Coffeeにて)


アメリカの語学研修で受けたカルチャー・ショック

-----海外旅行のきっかけは
昨年の夏、はじめて海外に出かけました。行き先はアメリカ。大学のスタディ・プログラムに一ヶ月ほど参加したんです。そこでは提携大学で英語レッスンの毎日でした。とにかくハードで、それをやっていると一日が終わってしまう。海外に来たことがわからなくなるくらい忙しい。取れる自由時間は、食事や移動のほんのちょっとしたあいだくらい。でも、その間にアメリカ人の日常生活が垣間見えて……実はこのプログラムでいちばんカルチャー・ショックを受けたのが、こういったちょっとした時間に見聞きした風景でした。たとえば鉄道の中では、たまたま居合わせた人が、まるで昔からの友人のように気軽に話をする。また、レストランでは家族や仲間が本当にゆっくりと、しかも話をしながら食事をする。日本がで自分がやっているあくせくした生活とは全く違うマイペースさが、とてもすばらしいものに見えたんです。いや、それどころか、こういう生活こそが正しくて、自分の生活が異常にすら思えるようになって。


ボーッとするならバックパッキングがいい

-----それがバックパッキングとどう結びついたんですか
こういった海外の人たちの普通の生活を見たり、聴いたり、感じたりしてみたい。そのためにはヘンな目的なんか持たない方がいい。語学勉強なんかより、街や人の風景をボーッと見ていたほうがよっぽど人生勉強になる。だったらバックパックキングがいいと考えたんです。
もっとも、今年の二月と三月に訪れたタイと台湾はパック・ツアーでした。まあ、友人といっしょに出かけたという理由もあったんですが。タイは、ツアーのスケジュールをこなしただけという感じで、完全に消化不良……これはかえってフラストレーションになりました。一方、台湾は航空券、ホテル、そして空港とホテルの送迎だけのフリープラン。期間こそ三日と短かったのですが、とにかくブラブラと街を歩き、台湾の人たちの行き交う姿をボーッと眺めることが出来て。これが今回のバックパッキングの引き金を引きましたね。では、今度は長期で旅してやろう、と。

-----今回の旅の予定は
一ヶ月かけてラオス、カンボジア、ベトナム、そしてタイを回るつもりです。とくにラオスは期待してます。というのもあそこには何もない、のんびりしていると聞いているので。とにかく街にたたずんで景色を眺めたり、現地で知り合った人と話をしてみたり……その国、その文化の時間の流れに身を任せていたいと思っています。もっともボーッとしたいなんて、ちょっとバックパッカーとしては失格かも知れませんね。よくある「自分探し」みたいな意識とは全然遠いところにあるので。


ボーッとすることの本当の理由は?

----バックパッキングの目的が「目的を持たずにボーッとすること」というわけですね。でも、なぜ「目的を持たない」という目的なんでしょう。
日本では大学の勉強がもの凄く多いんです。ノルマだらけで、とにかく一日中勉強に時間を支配される。そこで、ちょっとのんびりしようと思って、スタディ・ツアーやパック・ツアーをやってみたら、やっぱりここにもノルマがあった。勉強のほうは自分が選んだ道なので仕方がないとは思っていますが、だったら旅行くらいギューギュー詰めでない、何も考えないような時間を過ごしてもいいんじゃないか。いや、旅行に出かけてノルマのない時間の中に自分を置いてみようじゃないか。振り返ってみると、そんなふうに考えたんじゃないかと思いますね。
でも、よく世間で言うような「充電」と言う感覚とも違います。ボーッとしているだけで、何かを詰め込んでいるというわけではないですからね。自虐的に表現すれば、ちょっとした「現実逃避」かも知れませんね(笑)



(インタビュー後記)

「自分はバックパッカーとしての資格がない」というような、控えめな態度で対応するYさん。確かにバックパッキングにありがちな「冒険」とか「私さがし」というのとはちょっと目的が違うようだ。目的を持たないのが目的なのだから。しかし、そうやって異国の空間に漂う中で、実は日本での生活の整理を、ゆっくりと行っているように思えた。もし、そうだとすれば、彼の旅の目的もまた一般のバックパッカーとはスタイルが違いこそすれ、「私さがし」ということになるだろう。

バンコク安宿街・カオサンでのバックパッカーインタビュー第二弾をお送りします。


世界が計算不可能なことを教えてくれたキリマンジャロ


Sさんは29歳のサラリーマン。自由で闊達な社風で知られている自動車会社の営業で働いている。バックパッキングは大学時代にはじめて以来、ずっと続けている。そして今回はなんとタンザニア。というよりもキリマンジャロ制覇。十日間の短い旅行期間を有効に活用して頂上までたどり着いたのだが。キリマンジャロが彼に見せてくれたものは想定外のものだった。


計算可能な人生をやってきた

-----バックパックキングはじめたきっかけは
これをバックパッキングと言っていいのかはちょっと疑問かも知れませんが、自分がバックパッキング的な気持ちではじめた最初の旅は南アフリカ行きでした。実は、一年間の語学留学だったんです。学ぶ言語は英語。だったらアメリカとかカナダとかを目指すのが普通ですが、南アフリカを選んだのには、きちんとした理由がありました。それは、そこに行くことが自分の将来にとって有利と考えたから。南アフリカは治安が悪かったり、アパルトヘイトの問題があったりと、国家としては一目置かれた存在。そんなところに一年行ってたなんてことになれば、就職の面接の時に目立つだろうと考えたんです。

-----実際にはどうでした
てきめんでしたね。南アフリカのことを話し始めた途端、面接官は食いついてきましたからね。おかげでいわゆる一流どころの企業からはいくつも内定をもらい、そして第一志望の現在の会社に入社したわけです。自分の人生はこんな感じで、だいたい何をやるかについて想定して、計画を立てて、これを着実に実行していくという感じで。まあ、それがだいたい成功してきたというところはありますね。しかし、今回のキリマンジャロ行きで、この「計画通り、想定内」という認識が大きく崩れてしまいました。

自然は計算通りにはいかない

----キリマンジャロでは何があったのですか
ガイドやヘルパーを三人ほど雇ってキリマンジャロを目指したのですが、途中でほとんど高山病という状態になってしまい、結局、下山するときには両脇を抱えられてと言うことに。自分としては、十分な準備と計画を立てて、しかも高山病対策までしていたんですが、それでもダメだったというのはショックでした。とにかく、やろうと思っても全く身体が動かない。くやしいというか。しかし、いちばんショックだったのは、自分の自信が失われたこと。「全て計画すればそれは必ず実現可能」というようなこれまでの思い込みが、自然の脅威によって一気に打ち崩されてしまったんです。
ショックでしたね。しかし、それと同時に新しいことも発見しました。実はこれまで、自分は「無意識のうちに自分が達成可能なことにのみハードルを設定して、単にそれを達成してきただけにすぎない」ということに気づいたんです。

新しいハードルを発見した

-----もう少し詳しくお話しいただけますか
出来ることを出来てそれに満足しているだけ、ということに気がついていなかった。これが自分にとって見えない壁、限界だったんです。ところが今回、自然が自分に提示したことは現在の自分では出来ないこと。だから当然、これを達成できない。それは、さっき言ったように、自分が一定の枠の中でしか行動していなかったことを教えてくれたんです。でも同時に、今度は自分が目指すべき新しい世界を見せてくれもしました。つまり、これからは「出来ること」ではなく「出来ないこと」を設定し、これにチャレンジしていく。そうすることで、現在の自分がXだとしたら、これにチャレンジしていくことで今度はX二乗、さらにはX三乗の自分に到達できる。これは、これからの自分の仕事にも十分に生かせることだと考えますね。自分の殻を認識し、それを打ち破っていくこと。それはつらいことだけれど、最終的には満足度の高いものになる。そういった意味では、新しい、チャレンジしていくものを教えてくれると言うことで、バックパッキングはこれからも続けていくでしょうね。

インタビュー後記

“Sさんにとっては、これまでのバックパッキングは、実は日常の延長でしかなかったのでは?”インタビューの中でふとよぎったのがこの印象だった。これまで三十回ほどのバックパッキングを経験している彼だが、実はそれは、ちょっと辛口の表現をすれば「点数稼ぎ」、ややもすれば「出世の道具」。それが今回、キリマンジャロで自然と対峙することで、この点数稼ぎが「自分自身の成長」へ向けられたのではないか。つまり三十一回目にして、彼は新しいバックパッキングの意味を見いだしたのだ。

↑このページのトップヘ