勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: マンガ・サブカル



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「一休さん」と「ゴルゴ13」を接合させたパロディ「ゴル休3」


パロディのオリジナリティ

前回はオリジナリティというものが実は全て二次創作的に、既存のスタイルをパクることで成立することを示してきた。さらに既存のものに新しいものを付加したり、既存のものと組み合わせ、どちらでもない新しいイメージや意味を受け手に喚起した際、それがオリジナルなものになる、そして創造力があるものになることを指摘しておいた。

今回は、前回の「低燃費少女ハイジ」と同様、こういった二つの作品を無理矢理掛け合わせ、新しいイメージを喚起しているものについてもう一つ紹介しておこう。ただしこちらはアマチュアの作品だ。

作品名は「ゴル休3」。このタイトルから予想出来るように、本作品は「ゴルゴ13」と「一休さん」を掛け合わせたものだ。作品は「一休さんの虎退治」をベースにしたパロディだ。

まず一休さんの「虎退治」から。原作は次のような下りだ。

一休さんをギャフンと言わせたい殿様が一休さんを殿中に呼びつけ、無理難題をふっかけることから始まる。それは「屏風の虎が夜になると外に出てきて、ウロウロして困るので、これを退治してくれ」というもの。屏風に描かれた絵が実物になって出てくることなどあり得ない。しかし一休さんは、正座し、例によってアタマをポクポク叩きながら瞑想することでとんちを思いつく。

まず、殿様に虎を捕まえるための縄の用意を要請する。そしてやおら屏風の前に立ち、殿様に語りはじめたのだ。

「お殿様、これから虎を屏風からおびき出します。そちらにいては危ないですから屏風の裏にお回りください。それから屏風の裏を叩いて虎を外におびき出してください」

一休さんは虎を縄で捕まえることについては意欲満々である。ところが、まず殿様が屏風から虎を出してくれないことには捕まえられない。しかし屏風に描いた虎だから出てくることができない。これで勝負ありである。

これが原作なのだが、「ゴル休3」では一休さんはゴルゴ13になっている。そして全く同じシチュエーションで虎退治を考えるのだが……ゴル休3がやったのは銃で屏風に描かれた虎の眉間を撃ち抜くことだった。唖然とする殿様……

この作品の妙は、一休さん、ゴル休3どちらにしても殿様は返り討ちに遭って唖然とすることだ。一休さんからはとんちで、ゴル休3は銃という暴力装置を用いられることによって(そしてゴル休3で唖然とする殿様の顔はゴルゴ13の中で登場する人物が唖然とする顔と全く同じ表情で描かれている)。結果が全く同じなのだが、キャラクターが異なってくるとその方法が違う。だから、ここでは飄々とした一休さんと寡黙なゴルゴ13のコントラスト、そして一休さんの設定とゴルゴ13の一休さんというキャラクターのシチュエーションでの場違いさが、受け手の側にある種の快感を誘うのだ。しかもその手段も知恵VS暴力とコントラストをなしている(ちなみに、このシリーズは他にもあるが、それらにはこれほどの作品の絶妙さは、残念ながら無い)。(続く)





文原聡の"World of Golden Eggs"と宮崎駿の“アルプスの少女ハイジ”が接合され、妙なリアリティと不思議な快感を誘う日産自動車の「低燃費少女ハイジ」


二次創作の問題点について考えている。今回は創造力についての二回目。
前回、創造力=オリジナリティの前提として、唯一無二の比較不可能な特性はオリジナリティとして認められることがないことを指摘しておいた。言い換えれば、あるものがオリジナルであるためには比較すべき対象があり、それとの差異でオリジナリティが評価されるということになる。

創作は全て著作権侵害?二次創作?

だが、それはとどのつまりオリジナリティというのは、すべて「パクり」の上に初めて成立するということになる。つまり、これまでの技法や技術をパクリ、それに新しいことを一つ加えるというのが実はオリジナリティの条件になるというわけだ(逆にそうでないものは確実に排除される。たとえば生前V.ゴッホは自らの作風と比較すべきアートがなかったために全く認められず、ひたすら排除され続けた。認められたのは死後、既存のコードとの比較が可能になるよう弟テオが紹介したことによる)。ということは、全ては先達が残したものをパクらなければオリジナリティは生じないということでもある。つまり、それは創作は全て著作権に触れると言うことになってしまうのだ。

そして、これはとどとつまり、次のことを意味する。つまり

”オリジナリティは実は著作権とは何ら関係がない”

さらに

“原則、全てのものは二次創作である”


だから、鉄わん波平がオリジナリティがあり、サザエボンにはないという言い方は無意味な比較なのだ。言い換えれば、それはオリジナリティというものが別の側面から考えなければならないということでもある。

差異化の次に評価すべきこと

さて、ならばオリジナリティはどういった視点から評価可能になるのだろう。まず、ただ差異があるだけならそれはオリジナリティ=創造力ということにはならない。それは単に「違う」というだけのこと(たとえば一般に人間の顔の違いを「オリジナリティ」とは言わない)。オリジナリティを備えるためには、この「違い」に何らかの評価が与えられるという条件が加えられることが必要だ。つまり、「他とは違っているけれど、それはただの違いとか間違いとかではなく、それを受け取る側に心を揺さぶるものがあり、その違いを違いではなく、自分の共感として受け入れたい、新しい意味として解釈したい」という心性を喚起することが、オリジナリティを生むということになるのだ。

低燃費少女ハイジのオリジナリティ

たとえば、今回の特集ですでに取り上げた文原聡とジブリのコラボによる「低燃費少女ハイジ」を考えてみよう。ここでは文原の描くWorld of Golden Eggsの「四角い口のキャラ」と「ハイジのキャラ」は異なっているにもかかわらず、これらが無理矢理掛け合わせられている。ところが、これが不思議な快感を視聴者に与える。それは文原がもっぱら描いているエキセントリックなキャラと、ハイジの脳天気な元気さが妙なマッチングを奏でてしまうところだ。この二つのキャラは異なるのだけれど、エキセントリックさと脳天気さに共通する部分が、この二つの異質性にブリッジを架けてしまうのだ。その共通部分とは、たとえば「ハイテンション」という言葉で表現できるものだろう。文原キャラもハイジもハイテンションな性格。これが脳天気とエキセントリックという異なるものを繋いでしまうと言うわけだ。

そうなると、この異質なものが妙なフュージョン、あるいはケミストリーを発生させ、ハイジ視点からは異質なエキセントリックさを、一方文原視点からはやはり異質な脳天気さを感じさせ、しかも双方の視点も否定されることなく互いに両立しつつ主張し合うということになり、結果としてハイテンションを媒介にエキセントリック+脳天気がわれわれに新しいイメージをこのキャラクターに抱かせるようになるのだ。これがオリジナリティと言われるものだろう。

しかし、これでは全ての作品についてのオリジナリティ=創造力についての議論になってしまう。それでは今回取り上げてきた二次創作の世界は、どういった観点からオリジナリティが評価できるのだろうか?(続く)



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iPhone4と4SはiPhoneという共通項があるから比較可能だが、カップヌードルとピカチュウを比較することはちょっと難しい。比較のためには共通項が必要だからだ。

オリジナリティとは何か~完全に唯一無二のそれは、ない

二次創作の問題点について考えている。問題点は二つ。著作権と創造力。今回からは創造力=オリジナリティについて考えてみたい。

”オリジナリティ溢れるものは創造力溢れるものだ。まあ、確かにそうだろう。オリジナリティとは他の人間がやっていないことに手を染めることだからだ。しかし、こういったものの言い方はちょっと問題がある。他の人間がやっていないことをやってもそれがオリジナルなものだとか創造力溢れるものだとは必ずしも言われない場合が間々あるからだ。いや、われわれがやっている「他の人間がやっていないこと」はたくさんあるわけで、それらはもちろんオリジナリティ溢れると評価されることはない。これはメディア論=記号論的立場からすると、オリジナリティが、「あるもの」とセットになって初めて成立するという事情によるからだ。

オリジナリティに必要なことは比較可能なこと

そのあるものとは「オリジナルでないもの」だ。あるものがオリジナリティがあるとか創造力に富んでいるとか評価されるときには、そういった評価の基準が必要だ。その評価の基準とはあくまで既存のオリジナルでないものとの比較によって可能になる。

そして問題は、この「比較」という行為だ。比較できるものというのを考えてみればいい。二つの例を出そう。一つは「iPhone4とiPhone4Sはどちらが速いか」、もう一つは「カップヌードルとピカチュウはどっちが悲しいか」。これは前者はスッキリと意味が通るが後者は理解に苦しむものだ。前者の場合は”iPhone”というスマホのジャンルがあって、そのバリエーションとしてiPhone4とiPhone4Sが登場する。つまり、共通部分があって、はじめて二つのスピード比較が可能になっている。ところが後者の場合はカップヌードルとピカチュウの間の共通項を見いだすことが難しい。だから、なんか屁理屈な共通項でも考えない限り「悲しさ」の比較は不可能だ。 ただ違っているだけでは、それは「間違い」であり、排除されてしまう。後者の場合だったら「おまえ、何わけのわからないこと言っているんだ?」と一蹴されることは間違いない。

つまり「比較」が可能になるためには、比較対象になる二つのものが共通部分を持ち、なおかつ差異化部分を備えている必要があるのだ(全部共通だったら、同じものゆえ比較はできない)。そしてその差異化された部分が新しいもので、何かわれわれの意味解釈を迫ったりする場合に、その作品や商品はオリジナリティがあると言われるのだ。

つまり、こういった差異化の部分からオリジナリティ=創造力は初めて評価されることになる。ただし、差異があるだけではそれはオリジナリティと呼ばれることはない。言い換えればオリジナリティの条件は、既存のオリジナルでないものをいかに積み込み、そしてその上に新しいスタイルを付加できるのか、あるいは付加したものによって既存のスタイルの変更を迫るのかにかかっていると言える。


差異化がこちらに既存のスタイルの変更を迫る。これがオリジナリティと創造力の定義だと言える。次回はこれをもう少し深く展開してみよう。(続く)

二次創作環境の充実

二次創作の問題点について考えている。問題点は二つ。著作権と創造力。で、今回も前回に続き著作権について二次創作を含んだ包括的な視点から考える。
前回、著作権に何ら根拠がないこと、そして情報化に伴って様々な情報にアクセス可能になったために著作権という存在が曖昧になっていることを指摘しておいた。とりわけ後者においては無許可でデータを利用するというスタイルがネット環境の充実によって当然のこととされるようになっている。

そして、こういった「インフラ」の充実が、翻って二次創作という世界を押し広げていったのも事実だろう。ネット上には様々なキャラクターのデータが合法、違法にかかわらずアップされているので、これを利用したり、さらにこれらデータを組み合わせて二次創作することは実に簡単だ。つまり、著作権侵害についてはもはやこれを防衛できないというレベルにまできている。

著作権を侵害された側の対応策は自らが先にパクることだった

だが、こんなことをされては制作側=著作権を保有する側にとってはたまったものではない。当然、著作権を保有する側がそのまま手をこまねいているわけではない。こちらもしたたかに様々な手を打ち始めている。映像関係を取り上げればジブリやディズニーがそれだ。この二つの企業、著作権についてうるさいことではつとに有名だ。他のマンガやアニメと違って、ネット上にこれら作品の二次創作を見つけることは非常に難しい。しかし前述した通り、こういった厳しいチェックを行っているジブリやディズニーでさえも、巨大なネット上ではもはや全てを管理することは難しい状態になっている。

そこで、この二つの企業はどうしたのか?なんと、自らが先んじて二次創作をやってしまうという手段に打って出たのだ。わかりやすく説明するために、二つの企業が採った全く同じ戦略を取り上げてみたい。それは文原聡のキャラクターとのコラボ、具体的にはWorld of Golden Eggsとのコラボだ。文原の作品はフラッシュアニメでキャラクターがすべからくエキセントリックで、かつ口が四角であることに特徴がある。

エキセントリック・ハイジ

先ずジブリ。これはアルプスの少女ハイジと文原キャラクターを掛け合わせた「低燃費少女ハイジ」だ。ここでハイジは持ち前の明るいく元気なキャラクターを、文原風の脳天気でエキセントリックなキャラクターへとアレンジし直して描かれている。ハイジの脇を固めるクララなどのキャラクターも同様で四角い口にエキセントリックなキャラクターだ。

キモいミッキー

一方ディズニーだが、これはディズニーキャラクターが四角い口をして顔がほとんどWorld of Golden Eggsになってしまっている。ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、プルート、そしてピーターパンやティンカー・ベルに至るまで。但しこちらの場合はキャラクターデザインのみで、これがストーリー上で展開することはない。つまり「エキセントリックなミッキー」というキャラクタは設定されていない。それでも、カワイイというよりはキモチワルイみっけー出あることは確かだ。でも、これがウケている。

オリジナルって、いったい?

で、これはよくよく考えてみれば二次創作、そしてサザエボンや鉄わん波平と全く同じ手法であることは明らかだ。つまり二つのキャラクターを掛け合わせて別のキャラクターを作り上げてしまうというそれだ。

ただ、こういった制作者側が自らやってしまう二次創作は、そうでないものとひとつだけ違うことがある。それは……制作側が自ら二次創作をやっているのだから、これは「オリジナルのアレンジ」というとことになるということ。

しかしこうやって考えてみれば、それがオリジナルであるか否か、そしてそれがクリエイティブであるかどうかは著作権の視点からは全く関係ないという結論が下せることがわかるだろう。そう、著作権とは、もっぱら既得権に関する事柄で作品に対するパクリとかオリジナルと言う次元の問題ではないのだ。では、二次創作はアートとしてはどのように評価されるべきなのだろうか?(続く)

著作権の恣意性

二次創作の問題点について考えている。前回、そのポイントが著作権、そして創造力の評価の二点にあると指摘しておいた。つまり問題点は1.パクリであるか否か、2.創造物=オリジナリティのあるものとして認められるのか。そしてこの二つ、二次創作(いや創作物全ても含めて)の是非を問う際にゴチャゴチャになって議論されている傾向がある。そこで、本特集ではそれぞれを分離して個別に議論してみようと思う。

先ず著作権、つまりパクリにまつわる問題について、しばらく考えてみたい(ここでは一旦二次創作の話は脇に置いておく)。著作権とは自らの思想感情を表現した作者に対してその独占的使用権を認める法律。他者が勝手に使用した場合、処罰の対象になる。 ということは法律的には著作権法に触れる場合は「パクリ」、そうでない場合は「オリジナル」ということになる。 保護される期間は著者死亡50年後まで。映画の場合には制作後70年となっている(国によって異なる)。だが、それは保護期間が過ぎれば法律的に、それを利用しても「パクり」にはならないということでもある(もうここで、すでにパクリ≠オリジナリティナシという図式が出来上がっているのだけれど)。

著作権の有効期限が変化している

ただし、この有効期限に明確な根拠はない。一例を挙げれば映画の著作権は2003年までは50年だった。現在、たとえばディズニーのクラッシックス(ミッキーマウスの短編とか五十年が過ぎた「白雪姫」などの長編アニメ)が書店で千円以下で発売されているのは著作権切れゆえパクリではなく合法で、いわゆる「パブリック・ドメイン」として発売されている。ところが、「白雪姫」はディズニーも販売している。こちらは通常価格(DVDやBlu-rayで数千円程度だがパブリック・ドメインよりは遙かに高い)。違いはディズニー版がデジタル・リマスターしている点。当然、画質はBlu-rayではるかにいいし、音もDTS-HDマスターオーディオ7.1chサラウンドでキレイだ。で、こちらの場合は著作権がある。というのもデジタル・リマスタリングするという行為が「制作」に該当するので、それを施した時点から著作権が生じるのだ。こちらは2003年以降に行われているので、著作権はリマスタリングした時点から70年間有効ということになる。こうやって、著作権を拡大解釈して、その利権を確保し続けようとしているわけだ。

著作権の曖昧化

一方、著作権の根拠が曖昧ゆえ、こういったディズニー的な狡猾な利用法を採用する一方で、利用する側もその隙間をついてこれを侵犯しようとする。たとえば高校生や大学生が一般的にやっている著作権侵犯を取り上げてみよう。それはミュージック・ソースをネットからタダでダウンロードする方法だ。ネット上にアップロードされている音楽データをCabos、LimeWireといったソフトウェアを使って検索、ダウンロードする。こうするとタダでいくらでも好きな音楽をダウンロードできてしまう。このやり方は音楽データのアップロードは違法だが、ダウンロードは合法という制度的隙間を利用したものだったが、2010年には法律が変更され、ダウンロードも禁止されることで不可能になった。

ただし、これも実はザル法であることは高校生や大学生なら誰でも知っている。彼/彼女たちは、相変わらずネットから音楽データをタダでバンバン、ダウンロードしているからだ。彼らが音楽データをダウンロードするアクセス先はYouTube。そしてこちらのダウンロードは合法。これはYouTubeが映像をアップロードするサイトであり、映像には音が当然ついてくるので、こちらの音については問題がないという規定に基づいている。これを悪用して、音楽データをアップロードする側はとってつけたような映像を音楽データに加えてアップロードする。そして、これをダウンロードする側は、一旦ビデオを丸ごとダウンロードし、その後にビデオ画像を消去し、デジタルオーディオプレイヤーにインストールして楽しむ(これを行う無料のソフトウェアもアップロードされている)。こういった”パチンコの両替”的な手続きを経ることで、音楽は事実上タダと言うことになる。その結果、CDの売り上げがガタ落ちになるという要因の一つとなっていったわけなのだけれど。

二次創作もやりたい放題

さて再び二次創作に話を戻そう。二次創作はストーリーや設定、世界観、キャラクターなどを勝手に拝借して別の作品を作ってしまうわけで、これは結果としてこういった著作権が引っかかっている作品を個人的都合によって利用してしまうという点では音楽データのダウンロード行為とほとんど変わるところはない。だから、それはしばし違法行為として訴えられることもある。しかし、ネット上にはこういったデータは合法、違法にかかわらず様々アップされている。そして、二次創作もおびただしい数のものがアップされている。こうなってくると制作者の側は著作権侵害についてもこれを防衛できないところにまで来てしまっているのだが。

ところが、こういったパクリなのか二次創作なのかわからないものが巷に出回るということがデフォルトになったとき、著作権やオリジナリティに関する考えはあらぬ変容を見せ始めたのだ。(続く)

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