勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: マンガ・サブカル

26万人の米アニメオタクがロスに集結


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ロサンゼルス、コンベンションセンターで7月1~4日にかけてアニメエキスポ2016が開催された。これは日本アニメーション振興会が主催するイベント。第一回は1992年で、この時の入場者数は1700名程度だったのだが、今回は四日間で、なんと26万人がここを訪れた。もちろん、北米最大のフェアだ。日本のアニメは今や「ジャパニメーション」と呼ばれ、世界的にも知られているところとなったが「じゃあ、実際、アメリカではどうなっているんだろう?」と、最近のアニメにはあまり詳しくない僕も、日本独自のこの文化(かつてサブカルチャーと呼ばれたそれ。もはや、とっくにメインカルチャーになっているが)がどうなっているんだろうかと、中を覗いてみることにしたのだが……いやはや、驚きました。アニメ、マンガ、ゲーム関連の企業ブースが立ち並び、シアターやホールではシンポジウムが開催され、さらにはメイドカフェ、漫喫まで準備されている。こちらの予想より遙か先を行っていました。

訪れたのは7月3日。友人の「混んでいるから早めに行った方がよい」とのアドバイスに従って午前十時過ぎには中に入ったのだけれど、すでにセンター内は大量のオタクでごった返していた。会場周辺には二万台の駐車スペースが確保されていたのだけれど、これも正午には満杯。とにかくスゴい勢いなのだ。

会場内には夥しい数の日本語表記が、そしてブースからはアニメ声優とアニソンの日本語が鳴り響く。……ところが会場にやって来たアニメオタクやブースを運営している人間からは日本語は一切聞こえない。すべて、英語。アジア系の入場者もいるが、もちろん全員が英語。そして、やはり夥しいほどの数のコスプレイヤーがいる(もちろんカメラを向ければポーズを決めてくれる)。で、残念ながら、その多くが、こちらに造詣がない自分にはなんのキャラクターか判別が付かない。うずまきナルトやルフィ、悟空、初音ミク、ジブリキャラなんてのもいるけれど、こういったメジャーキャラは完全にマイノリティ。で、あちこちに”OTAKU”というロゴが誇らしげに貼られている。


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会場はまあコミケ的なのだけれど、そこはアメリカ流、どちらかというと巨大なパーティー会場といった趣が強く、それぞれのブースで、それぞれのお気に入りキャラに入れ込んでいる。ここにもはや「物見遊山」的なムードは一切ない。もちろん、今の日本のコミケと同様、かつてのオタクの暗いイメージもない。その成熟度はジャパニメーション、アニメオタク、コスプレオタクの裾野の広がりを強く感じさせる。どうみても、ここに来ているアメリカの若者はプロパー、つまり完全なオタクなのだ(スターウォズ・R2D2の実物大リモコンを持ち込んで通路で動かしていたなんて勘違いもあったが、これはご愛敬と行ったところだろうか。多分、絶滅危惧種(笑))。

米国発のオタク文化?

実感したのは、こうしたジャパニメーションの海外進出は、もはやクレオール化していて独自の文化と化しつつあることだ。起源はもちろん日本だけれども、ローカライズされてしまっていて、もはや別の文脈で解釈、あるいはカスタマイズされている(「オタク」という言葉が”OTAKU”と表記されているのはその典型。ただしこの表記がなされたのはすでに二十年近く前になるけれど、それがさらに一般化して”OTAKU=cool”という認識が定着しているのだろう)。

その中で気になったブースを二つほど取り上げてみたい。もちろん日本のアニメ文化がローカライズされるという意味でだが。両方のブースとも結構な数の客が群がっていた。

一つはジブリキャラクターの浮世絵化?鳥獣戯画化?のブース。広重の東海道五十三次絵の世界を設定にして、ここにジブリキャラが広重風で描かれているといった趣向。下の写真は「千と千尋の神隠し」の千とハクのこれまた和風の絵。この組み合わせは思いつかなかった。


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もう一つは、なんとディズニーキャラクターを引用したモノ。ブース運営者の名称は「18+」。つまり「18禁」=成人指定の作品群で、ディズニーアニメのキャラクターがエロに描かれているのだけれど(ディズニー以外もいろいろありました)、ようするにこれは二次創作ややおいという日本の伝統とディズニーという米国の伝統の合体といったところだろうか。下の写真は『アナと雪の女王』のエルサのエロバージョン。いわば、二次創作ややおいの形式=フォルムが米国の内容=コンテンツによって拝借され、米国独自のスタイルに変貌しているといってもよいのかもしれない。


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正直なところ、これらがメイドインUSAなのかメイドインJapanなのかは解らない(ネットで調べてみたが、該当するサイトは米国のそれだった)。だから、僕の勘違いであったならばオタクのみなさんにお詫びをしなければならないけれど、これがメイドインUSAのものであったとするならば、ジャパニメーションやアニメ、マンガ、コスプレオタクの文化は、その起源である日本を離れ、独自の文化を築きつつあることになる。すくなくともアニメEXPO2016の異常なほどの賑わい、訪れるオタクの本気度から察する分には、これがメイドインJapan生まれのメイドインUSA文化と了解してもよいのでは……そう思わずにはいられなかった。

もし、こうやって文化というモノが輸出され、輸入された文化の中に流し込まれ、一般化したとするならば、実を言えばそれこそが日本文化の世界への浸透であることの証明ということになるんだろう。日本車(米国の通りは日本車がマジョリティ)、寿司→SUSHI、ラーメン→Ramenといった、もはや米国では日本を感じさせることすらなくなりつつある文化のように。(ちなみに、これら定着したメイドインJapanも、米国では、ちょっと日本のそれとは違っている)。

ビートたけしを創始者に見立てたカップヌードル新CM「OBAKA's大学に春が来た! 篇」が新しい。津田大介は「ネットとTVの融合って本来はこういうことじゃないかな」とツイートしているが、その通りだと思う。今回は、このCMの新しさについてメディア論・記号論的に分析してみよう。

広告とは何か

広告は商品・サービスを露出して認知度を高めることで、これらの売上を伸ばし利益を得ようとする行為だ。ただし、商品価値の高め方についてはやり方が二つある。フランスの社会学者J.ボードリヤールは、これをマルクス経済学をヒントに「使用価値」と「記号的価値」と呼んでいるが、これを、ざっくりと説明してみよう。

ひとつは商品・サービスの機能的な優位性を押し出すやりかた。我が社の洗剤の方がよく落ちますよとか、我が社のクルマの方が安全ですよとかといったのがこの典型。
もう一つは商品・サービスに付与された意味=イメージを押し出すやり方。所有したり享受したりすることで他者との差異化を図ることができるもの。典型はブランド品で、身に付けることで「自分は他人よりイケてる」と思うことが可能になる。たとえば、時計は使用価値ならば時刻がわかれば事足りる。これだとガラポンで出てくる時計も、もはや正確に作動する。ところが、大人がガラポンで取ってきた時計を身に付けることは、先ずない。結構な価格の時計を購入する。タグホイヤーのチタンフレーム○○モデルみたいなヤツだったら100万くらいしてしまう。ということは、ここに記号的価値が生まれる。ガラポン時計300円、タグホイヤー100万円なら100万-300円=99万9700円が記号価値、つまり「オレはおまえたちとは違うんだぜ、ザマーミロ」と自慢するための経費となる(米社会学者S.ヴィブレンはこれを「衒示的消費」と呼んだ)。この価格が差異化を保証しているからだ。80年代バブルの頃の、この典型CMがクラウンだった。キャッチコピーは「いつかはクラウン」。つまり「おまえら、今まだカローラだろ。がんばってクラウン買ってみな。社会の勝利者として威張れるから」というイメージを購入するために高々のカネをクルマに投じたというわけだ。

カッコイイ、カッコ悪いだけの広告には意味がないの時代に

こういった記号的価値に根ざすマーケティングが80年代バブルを象徴する典型的な戦略だった。使用価値は近似化して商品は訴求力を持たなくなったと広告会社が吹聴したからだ。だからカッコイイがウリになった。感性豊か、クリスタル、トレンディー、そしてナウい感覚(いまだに、ちょっとゾッとする死語群だが)。で、こういった記号価値に根ざしたCM・広告はどんどん加速し、差異化してさえすればよいという形で過激化した。その典型は「カッコ悪い」をウリにするというもので、当時の仲畑貴志(「タコが言うのよ」)、川崎徹(「ハエハエカカカ、キンチョール」)といったコピーライターたちが意味不明のキャッチコピーでCMを彩ったのだ。

しかしながら、この過激化は商品そのものの価値を売上に結びつけるというCM・広告それ自体が持つ機能から乖離していく。その象徴的な存在が1984年に放送された三菱自動車・ミラージュのCMで、エリマキトカゲという、当時はほとんど知られていない、ジラース(ゴジラに襟巻きをつけた怪獣。ウルトラマンに登場)みたいな動物が2本足、つまりつっ立った状態で砂漠を疾走しているというものだった。CMは大評判となり、エリマキトカゲはアッという間に人気者になったが、肝心のクルマの売上はサッパリだった。これは要するにCMの放つ記号的価値がミラージュというクルマと結びついていなかった(あるいは視聴者が結びつけることが出来たかった)ことが原因だった。いいかえれば購入することで差異化を可能にする機能を持たない、ただの差異化だったのだ。で、当時、こんなCMが勘違いで山ほど登場し、何の有効性もないことが判明すると、やがて作られなくなってしまったのだ。

「いまだ!バカやろう!」はカップヌードルの売上と、どう繋がるのか

ただし、記号的価値に訴える商品戦略自体が無効になったことを、これは意味しない。記号的価値が消費者の何らかの購買欲と結びつけば、これは功を奏する。前述のクラウンのCMは確実に消費者の利得が約束されていたから機能していたのだ。

今回の「OBAKA's大学に春が来た! 篇」はこの記号的価値を一歩推し進めたものだ。クラウンは単なる他とのクルマとの差異化だが、これは企業それ自体の差異化だ。「いや、そんなものは前からあるよ。『三菱地所を見に行こう♪』とか『クラレのミラバケッソ』とか『旭化成のイヒ』とか『日立のこの木何の木』とか。」

ところが、これはこういった一連の企業存在の差異化CMとは一線を画している。上記のコピーは、ほとんどが未来に向けて自らを奮い立たせるために、いわば思いついたもの。根拠が希薄。ところがこのCMには企業理念の他に歴史もキチッと盛り込んでいる。その表現方法もまた新しい。つまり手法においても差異化が図られている。


CMをよく見てみよう



はじめに「OBAKA's university」の表示とキャンパス全景。大きなケットルが見える。

銅像化している学長のたけしがキャンパス内を闊歩する

たけしのセリフは以下の通り。

「バカになる、それは自分をさらけ出すことだ。」
「しがらみなんて取っ払って、常識とか忘れたふりして、あんた自身の生き方を貫くってことなんだよ。」
「世間の声とかどうでもいい。大切なのは自分の声を聞くってことだろう。」
「お利口さんじゃ、時代なんて変えられねぇよ!」
「諸君、いまだ!バカやろう!」


このセリフにふさわしい人物(教員)が四名登場する。


・小林幸子
キャッチフレーズ:衣装は建設するものへ 
肩書き:機械工学部教授 
小林「人の心は一瞬で掴まなきゃ、ダメなの!」
→ご存じ、小林幸子は紅白の大がかりな演出で有名。しかしスキャンダル絡みで紅白から外された。そこで演歌とは関係のないゲームの世界に道化として入り込み、そこでも大がかりな演出を貫き通したラスボスとなった。つまりバカになり自分をさらけ出した。その結果、小林は復活を遂げ、紅白に復帰した。やはり大がかりな演出で。

小林「ここ、もっと大きく」
→この時、小林はこれまで以上に巨大な2016テラ幸子の作成画面を指示している。いまだ未来を見ているのだ。人の心を一瞬で掴むべく。


・畑正憲
キャッチフレーズ:ネットバズ動画の父 
肩書き:生物学部ムツゴロウ教授
畑「(蛇に噛まれた時)もう息できなかったよ。噛まれて初めて解ることってあるんだよね」
→畑がバズ動画の父かどうかはあやしいが、動物物で50年も貫き通した。周囲から変な人間と呼ばれようとも、しがらみを取っ払い、常識を忘れたフリをして、自分の声を聞き続けた。


・矢口真里
キャッチフレーズ:危機管理の権威
肩書き:心理学部准教授
矢口「二兎追う者は一兎も得ず」 
受講している女子学生:「ね、これ実体験だよね?」「だよね」。
→ご存じ、完全な自虐ネタ。矢口もまた畑と同様、しがらみ取っ払い、常識を忘れたフリをして、自らを貫き通している。

口「やっちゃえ、みなさん」
→矢口も自分の声を聞いた。そして受講生にそういった未来を切り開くことを訴えている。


・新垣隆
キャッチフレーズ:才能はシェアする時代へ
肩書き:芸術協力学部教授
新垣「そうだ、その調子。うん、肩の力を抜いて」(ピアノ指導をしている)
→ここで自虐ネタでは、もっとスゴいスキャンダルの人物である新垣が登場。しかもゴーストであることを正当化するという、とんでもない自己パロディ。念を押すがごとく、ピアノを指導している相手はほとんど佐村河内だ。つまり「ピアノが弾けない=楽譜がわからない。でも才能はある、だからシェア」

そう、ここに出る全員がお利口さんをやめた。またこのCMの中でもやめている。言い換えれば「バカ」をやっている。

OBAKA’s Universityとは世間にとらわれることなく、しがらみも非難も乗り越えてバカをやることを教育する大学なのだ。そして、ここに登場した四人は、言うまでもなく「バカやる」ことで時代を切り開いてきたし、これからも切り開いていく。だから、「そうだ!」われわれも未来に向けてOBAKA’s universityで「バカやろう!」と提案しているわけだ。

ここに登場する人物に関連するのはスキャンダル(畑は微妙だが)。しかもこれがインターネット絡みで起きている。つまり、裏でバカをやっているのがバレた。しかし、そのバカを貫き通すことが重要ではないか、恥も外聞もなく。それが時代を変えていくのだからと、高らかに宣言しているのだ。お利口さんじゃ、時代なんか変えられないのである。そう考えるとたけしが学長(銅像化しているので創始者だろう)というのは適役だ。80年代、たけしは暴力的に「毒ガス」を吐き続け顰蹙を買ったが、貫き通した。それが結果としてたけしに芸能界の重鎮の位置をもたらし、さらに映画監督として世界に名を馳せることになる。しかも、いずれにおいても規格外な試み、つまり「バカやろう」を続けた。スキャンダルや犯罪にさえ絡みながら。そして、現在もこのスタンスを貫いている。だから学長なのだ。

究極の「バカやろう!」を続けた安藤百福

これが日清食品の何を示しているかは、その歴史を知っている人間にとっては明白だ。創業者の安藤百福のことなのだ。日清を代表する商品はチキンラーメンとカップヌードルだ。これらに共通するのは「邪道」。どれもラーメンだが本当のラーメンからはほど遠いところにある。チキンラーメンは保存が利くように油で揚げてしまった。カップヌードルは何のラーメンなのか、いまだに解らない。ところが油で揚げるという発明がインスタントラーメンの世界を、あらかじめカップに入れてあるというギミックがカップラーメンの世界を誕生させ、それを世界中に普及させてしまった。つまり日清=百福のルーツは「バカやろう!」にある。インスタントラーメンは日本で最も優れた発明と賞賛されることもあるが、まさに百福は常識外れ、お利口さんではなく、常に自分の声を聞くことで時代を作ったのだ。ようするに、このCMは企業理念を現在のインターネット文化を取り込み、かつバッシングというお利口さんたちがやっている愚劣な行為をやんわりと批判する形で示している。しかも、バッシングされたバカやった当の本人を登場させて。陰でこれら人物を叩けば常識にとらわれていて嫌らしいが、本人が登場すると、このOBAKAはポジティブな洗練されたものとなるのだ。

CMはここで終わらない。最後に”CRAZY MAKES the FUTURE”の表示。横にカップヌードル、
そして「おいしい、の、その先へ。NISSIN」。これは百福の「そうだ!バカやろう!」の精神を未来に向けてNISSINがこれからも続けていくと宣言しているのだ。つまり、これからもOBKAな商品を提供し、世界を驚かせていきますよと。

ただし、最後にたけし学長、いやたけし自身が(目の色が銅像の色から白目に変わっている)、しっぺ返しをする。

「馬鹿野郎!(苦虫をかみつぶしたような顔をして)」

そう、所詮こいつらは馬鹿野郎、つまりどうしようもない連中なのだ。百福も、そしてたけし自身も含めて。だから、すばらしい。

OBAKA’s大学は馬鹿野郎な教員が「バカやろう!」と理念を掲げることで未来を切り開く場所。そして真の創始者は安藤百福その人、そしてOBAKA’s大学とは日清食品のことなのだ(だからシンボルがラーメンにお湯を注ぐケットルになっている)。その精神を購入しようと(ただし、無意識理に)、消費者はカップヌードルを買い続けるのである。

※CMに詳しければ、このCMコンセプトがS.ジョブズ復帰時にAppleが展開した”Think Different”キャンペーンに基づいていることはすぐに解るだろう(キーワードはCrazy)。ただし、OBAKA編は大阪のシャレと自虐が入っているところに独自性、文化があるのだけれど。


"Think Different"のCM


二次創作のオリジナリティ=創造力について考えている。その評価基準は二つあると述べておいた。そしてそのひとつが「原作以上に原作らしい作品をつくり、原作をリスペクトすると同時に、これを凌駕してしまう」ところにあることを、ドラえもんの二次創作「タイムパラドックス」を例に示した。

原作を徹底的に改編し、自らが原作になってしまう

今回は評価基準の二つ目について展開してみよう。これは前回とは全く逆の方向へ作風を振ることによって可能になるものだ。

それは、原作を素材に、ある程度原作を無視し独自の世界を作り上げてしまい、そしてそちらで別のリアリティを生んでしまうような場合だ。この典型はディズニーが繰り広げてきたアニメ制作の姿勢、批判も込めてディズニフィケーション(Disneyfication)と呼ばれる手法に典型的に見て取ることが出来る。

ディズニフィケーションという手法

ディズニーの長編アニメと言えば、その多くがグリムやイソップと言った童話を改編して作られていることはつとに有名だ。たとえば89年の作品「リトル・マーメイド」。この原作はアンデルセンの「人魚姫」なのだが、設定も内容も大幅な変更が加えられている。まず、人魚姫のキャラクター。原作は地上の世界を夢見はするが、自らが置かれた不遇な環境にひたすら耐えるという姿勢が前面に現れている。一方、リトル・マーメイドの方は先ず名前がアリエルへと変更されている。そして同様に地上の世界を夢見るが、地上の世界へ行くことを積極的に選択する陽気で無鉄砲なアメリカ人へと変更されている。そして、これもお決まりだが、こういった主人公を支えるキャラクターが横につく(リトル・マーメイドの場合はロブスターのセバスチャン)。そして、その精神はディズニーの哲学「夢は必ずかなう」や「いつか王子様が」といったものによって彩られている。また、作中の中にセックス、バイオレンス、残虐な描写というものも削除されている。

ストーリーも変更されている。原作の最後で王子と結ばれることなく人魚姫は泡となって消え、不幸な最期を遂げるのだが、リトル・マーメイドは晴れてプリンスと結ばれハッピーエンドを迎えるのだ。

そして、こういった手法によって作品を世界展開し、最終的に原作よりもこちらの改編したものが原作=オリジナルとして認められてしまう。

あのお子様ランチの、そして商業主義に徹したディズニフィケーションのどこが優れているのだ?とツッコミが入るかもしれないが、実際のところこういった「改編」が広く世界的規模で人口に膾炙し、人々の支持を受けたという事実を踏まえれば、これは「新しい創作=オリジナリティ」と認めざるを得ないだろう。もはや人魚姫の方が「改編・改作」になってしまったのだから。

著作権が曖昧になり、二次創作が氾濫する中で

最後に、今回の特集について改めておさらいをしておこう。まず著作権とオリジナリティ=クリエイティビティには実はなんの関連性もないことを確認した。次にオリジナリティが既存のパターンに新たなものを付加し、それが多くの人間に意味解釈の場を与えた時、それは生まれること、言い換えれば全てのオリジナル作品は二次創作であることを確認した。三つ目にわれわれが一般に指している二次創作=原作の改編のオリジナリティが二つの視点から認められることも確認した。一つは原作以上に原作らしい贋作を作ることによって、もうひとつは原作を徹底的に改編してしまい、その改編度が人々から支持を受け、原作よりもこちらが原作になってしまうような状況が出現することによって。

著作権の保護が限りなく難しくなり、その一方でそれに対抗する手段として著作権を保有する側が自ら著作権に手を染め改編するというような行為が次々出現している現代。僕らは著作権という考え方を根本的に考え直さなければならない時期に来ていると言えるだろう。ただし、それだからこそ作品のオリジナリティについて、深い、そして用心深い洞察を行わなければならいという課題もまた、僕らは突きつけられている。そのことは肝に銘じておくべきではないだろうか。

二次創作の評価すべき二つの基準の一つ目として「原作をいかに踏襲し、さらにこれを乗り越えられるか」という点を、ドラえもんの二次創作作品「タイムパラドックス」を例に説明している。前回は本作品がキャラクター設定において原作のキャラクターを完全に踏襲した上で、成長し大人になったキャラクターが描かれている点について指摘しておいた。しかし、設定に対する徹底はこれだけではない。今回は他の部分についても見ていく。

のび太とドラえもんの友情も一切変わっていない

次いでこれにキャラクターの関係もキッチリと温存されている。のび太は動かなくなったドラえもんを自らの知識と技術で動かすべく猛勉強をはじめるのだが(なんとテストで出来杉をはるかに抜くダントツの成績を高校でとっている)、こういったモチベーションが働くのはドラえもんとの友情を維持したいという強い情熱に基づいている。そして一見すると性格がガラっとかわってしまったかのようにみえるのだが、それは違う。こういったドラえもんとの友情の強さゆえに、みずからのおっちょこちょい、不真面目さ、すぐにしずかちゃんの風呂場を除こうとするエッチさを隠蔽するのだ。ガリ勉するのび太を周囲は変わったというが、しずかちゃんだけがこれを否定する(だから結婚するのだけれど)。逆に言えば、これらがストーリーの最後に、なぜ彼がかつてののび太を封印していたかの伏線となっており、その実のび太は一切変わっていなかったのだということが、ラストシーンで明かされる。復活したドラえもんの前でのび太は子供に戻り、泣きながらドラえもんに抱きつくのである(しずかちゃんも子どもに戻っている)。



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 大人の子どもが修復したドラえもんに抱きつく、子どもに戻ったのび太。ドラえもんには耳が付け加えられている。


脚本の妙、世界観の一致

そして世界観やストーリーの整合性も完璧だ。ストーリーの冒頭は首相官邸。ここで総理の出来杉が二人の男を招集する。ジャイアンとスネ夫だ。出来杉は二人を呼び出した理由を語る。それは「タイムパラドックス」に関することがらだった。ジャイアンとスネ夫は、子供時代ドラえもんの秘密道具を利用して、様々な未来的な経験をしている。夏休みはタイムふろしきに乗って必ず別世界をドラえもん、のび太、しずかちゃんと旅していた(映画版)。だから、そういった未来がいずれやってくることも二人は知っている。ところが、実際の技術の進歩はあまりに遅い。これは、おかしいんじゃないか。このままではタイムパラドックスが起きてしまう。ところが、この遅れを一気に取り戻す瞬間が一人の技術者によって今なされようとしている。そのことを出来杉総理は二人に伝えるのだ。でも、なぜジャイアントスネ夫なのか?その技術者とはのび太だったからだ。つまり技術の進歩とは、とどのつまりのび太が技術者となりドラえもんを修理し、二人の記憶を温存したままにドラえもんを復活させることに他ならなかった。



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ドラえもんを復活させるのび太博士とその妻・しずか



開発者の名前が決して子供ののび太に明かされなかった理由

ちなみに、動かなくなったドラえもんを動かそうとしてのび太がドラミちゃんに開発者のことについて問い合わせても「それは厳重な秘密になっていて、自分の回路にも二重三重にプロテクトがかかっている」といって答えてくれない。なぜか?要するにドラえもんの開発者とはのび太だったからだ。もし子供ののび太にいずれ自分がドラえもんを直すと言ったことが知られたら、のび太のグータラさが前面に出てきて、のび太は勉強しなくなり、ドラえもんを修理する技術者にはなれなくなる。それは言い換えればドラえもんを作り出すことが出来ない、ようするにドラえもんがはじめから存在しないという「タイムパラドックス」に陥ってしまう。だから、子供ののび太の性格をいちばんよく知っている開発者・大人ののび太(本人だからあたりまえなのだけれど)は未来のタイムパラドックスを起こさせないように、子供ののび太に勉強をさせなければならない。そこで、開発者を決して教えないように開発者を明かすことについてシールドをかけたのだ(ドラえもんが動かなくなった時点で、すでに未来と現在の間の行き来が不可能になっているのは……大人ののび太がそのように指図したというふうに理解すると話はキレイにまとまる)。



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技術者の名前は未来からも通達された超重要秘密事項だった。



ちなみに、画風についてもものすごく原作のスタイルを学んでいる。のび太がビックリしたときには体中に電撃が走っているし、ジャイアンが突然ドラえもんが消えたことを思い出して怒りだし、首相官邸のテーブルをドンとたたく(”ドン”とカタカナの吹き出しがある)なんて、藤子の細かい技法までがあちらこちらで用いられているのだ。



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この”驚愕”の画像スタイルは藤子F不二雄のオリジナルだ。しっかり踏襲されている。



明らかに原作、そして藤子に対するオマージュになっている!

まあ、こうやってこの作品を見ていると本当にビックリする。一番感じるのは、これを制作した二次創作者がどれだけ「ドラえもん」が大好きで、そしてその作品を大事にし、リスペクトている、つまり作品に深い愛情を抱いているかと言うことだ。それがしっかりと伝わってくる。だから、自分が二次創作を行ったとしても、絶対に藤子F不二雄の作り上げたドラえもんの世界を壊さないような配慮を徹底的に行っている。だが、それは結果として藤子以上に藤子らしい二次創作を可能にさせているわけだ。つまり、この二次創作は出来杉、いや出来過ぎなのだ。(続く)



ドラえもんの最終回を想定した二次創作「タイムパラドックス」


二次創作のオリジナリティ

ここまで創作というものが、実は全て二次創作であるということを明らかにしてきた。

しかし、これは全てのものにおけるオリジナリティが該当すると指摘することになるわけで、いわゆる一般的に呼ばれている二次創作に限定されるオリジナリティに限った話ではなくなる。では、こういった「二次創作」(つまり、ここまで展開した「全ては二次創作」という定義ではなく、一般的に言われている二次創作のこと)のオリジナリティはどのように定義されることができるだろうか。

基本は前述の「低燃費少女ハイジ」「ゴル休3」と同じだ。つまり上に述べたように1+1が3にも4にもなってしまい、見ている側が、これに新しい意味を読み取ろうという状況が前提となる。ただし、二次創作は原則、同一作品の設定やキャラクター、ストーリー背景などを借用して別の作品を作り上げるものだ。じゃあ、この場合、どうやったら1+1が3になったり4になったりするんだろう。

オリジナルの全てを厳密に踏襲し、オリジナル以上にオリジナルな作品を作る
これには二つの回答があるだろう。ひとつは原作のキャラクターや設定などの全てを踏襲しながら、作品を別の作者が作り上げ、それが結果として原作以上に原作のコンセプトや理念を踏まえ、原作を超えてしまうような場合だ。原作者が見てびっくりし、「自分の作品以上に自分の作品らしい」と思わせるような解釈を迫る力のあるものが二次創作のオリジナリティの一つと言えるだろう。

ドラえもんの最終回「タイムパラドックス」のリアリティ
これもまた、具体的に一つ二次創作の作品を指摘しておこう。それはドラえもんの最終回という想定で作られた「タイムパラドックス」という二次創作だ。ちなみに、この作品は二次創作の世界では極めて有名な傑作だ。

ストーリー:動かなくなったドラえもん。しかし修理すれば……

ストーリーはある日、ドラえもんが全く動かなくなってしまうことから始まる。困ったのび太はドラミちゃんにタイムテレビでそのことを連絡。すると、その原因がバッテリーが切れたことであることがわかる。ならば交換すればよいのだが、ドラえもんの記憶のバックアップ回路は耳におかれているため、ネズミにかじられてしまって耳のないドラえもんはバッテリーを交換した場合には元どおりにこそなるが、のび太との思い出を全て消されてしまい、二人は全くはじめから関わり合いを結ばなければならなくなる。

ドラミちゃんはのび太に二つの選択肢を与える。一つは未来にドラえもんを連れて行き前述のようにバッテリーを交換して、新しいドラえもんと関わること。もう一つは、未来に希望を抱いてドラえもんの記憶を残したまま再び稼働させる技術者が現れるのを待つこと。

のび太が選択したのは後者だった。そして数十年後、その技術者が現れる。その技術者とは?

藤子F不二雄の世界全てをリスペクトし、踏襲する

詳細については原作がアップされているYouTubeをご覧いただきたいが、ここでこの最終回を作成した作者は、見事に藤子F不二雄の描いたドラえもんの世界をキッチリと踏襲している。

キャラクターを一切改変しない

先ずキャラクター設定。時代設定が数十年後になっているのでキャラクターは成長しているのだが、子供時代の性格をしっかりと踏襲しており違和感がない。たとえば「のび太の結婚前夜」「おばあちゃんの思い出」といったドラえもんの作品(オフィシャルのもの)をいくつも手がけている渡辺歩の作品の中では、それぞれのキャラクターの一部が強調され、なおかつ改変されている。のび太はおっちょこちょいだが、礼儀正しい、生き物を大切にするキャラクターに、ジャイアンは乱暴だが友情に厚い男に、しずかちゃんはフェミニストが怒りそうな「銃後の守り」をする献身的な女性にアレンジされているのだ。ところが“最終回”はこういったデフォルメが一切ない。だから、各キャラクターはそのまま成長しただけといった印象を受け、違和感がなく、大人と言ってもリアリティがある。ちなみに最後にドラえもんは復活するのだが、その復活第一声は「のび太君。宿題は終わったのかい!?」。つまり、ドラえもんののび太に対するキャラクターも全くそのままだ。



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復活したドラえもん。全くキャラクターが変わっていない。そして両耳がついている



いや、変わっていないのはそれだけではない。とにかく、藤子Fが最終回を描いたらこうなるという、想定が徹底されているのだ。それは何か?(続く)

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