勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 政治診断

2005年、時の首相小泉純一郎は郵政民営化を巡ってその賛否を問うべく衆議院を解散、選挙を行い、その結果、小泉劇場と呼ばれる自民党の大勝を招いた。だが、今回の参議院選挙では、こうした「○○劇場」は多分、起こらないだろう。ただし、自民党は勝利する。また公明党、共産党も。そして「○○劇場」、今後発生する可能性は極めて低いとも僕は考えている。

年齢が低い方が政治への関心度は相対的に減少している

その理由を挙げてみよう。まずデータから。
総務省の統計によれば1988年から2017年の間に参議院選挙の投票率は65.0%→54.7%と15.7ポイントの減少を見せている。若干の波はあるが原則、漸減状態にある。これを世代別に見てみると20代:47.5%→35.6%で25.1ポイント、30代:65.3%→44.2%で32.3ポイント、40代:70.2%→52.6%で25.1ポイント、50代:75.4%→63.3%で16.1ポイント、60代:79.9%→70.7%で11.5ポイント、70代:66.7%→61.0%で8.5ポイントと世代が下がるにつれて投票率の低下率が上昇する傾向がある(これは衆議院選挙の投票率も同様)。つまり全般的に投票率は減少傾向にあるが、年齢が低くなるほどその傾向が高くなる。加齢とともに投票率は上がるという一般的な傾向があるが、それらを考慮しても、今後ますます投票率は低下することになる可能性が高い。

私的な関心へベクトルが向かう若者たち

次にメディア論、とりわけ若者論的立場から考えてみよう。
かつて七十年代までは「大衆の時代」と言われていた。マスメディア、とりわけテレビや新聞が世論を形成し、これが選挙に大きな力を及ぼした。というのも、これらへのアクセス度、そして信頼度が非常に高かったためだ。60年代末の学生運動の終息以降、若者たちは私的な生活にそのベクトルを向け、政治への関心を失ったかのようにみえたが、実はその間もそれなりに政治的意識はあり、若者は投票に足を運んでいたのだ。その際、投票を考慮する主たる情報源がマスメディアだった。

だが全般的に政治に関心が低下すると、それに伴って若者の関心も低下していく。そして、マスメディアも消費的情報を増大させつつ、提供情報を多様化させ、これに伴って支持政党なしの無党派層が増大していく。そこで、90年代以降、こうした無党派層をどのように取り込むかが政党にとっての課題となったのだ。

テレビとインターネット(SNS出現以前)間の情報循環が「劇場」を発生させていた

これに成功したのが小泉純一郎だった。小泉自身「無党派層は宝の山」と表現していたが、まさにこれを獲得することに成功したのだ。その要因、実はインターネットの普及が大きく関係していると僕は見ている。ゼロ年代はまだスマホ出現前夜(iPhoneの発売は2008年7月)、だがインターネットはパソコンベースで徐々に普及を見せていた。ブログも普及、またソーシャルメディアもmixiや2ちゃんねるといった初期のものが人気を博していた。

そして、この時、インターネットとテレビ・新聞はまだ蜜月的関係にあった。ソーシャルメディアで話題になったものがあると、これをマスメディアがプッシュ・メディア的機能を利用してピックアップした。つまりテレビや雑誌がネット上で盛り上がっていることをマス機能を用いてバイラルした。すると今度はマスメディアが取り上げた話題が再びインターネット上に還流、さらにソーシャルメディアやブログなどでこれらが取り上げられ、それが再びマスメディアがピックアップという循環によってブームが起こるという「マスメディアとインターネットによる情報のスパイラル」が発生していたのだ。小泉劇場が発生した大きな要因の一つがこうした二つのメディアによる共犯的な循環にあったのでなかろうか。そして、この時、小泉的な「ワンフレーズ・ポリティックス」は旨く機能した(地方なら宮崎・東国原英夫の「宮崎をどげんかせんといかん!」だった)

ソーシャルメディアがテレビとネット間のバイラルを打ち消す

ところが、スマホの普及によって状況は変わってくる。ゼロ年代には有効だったインターネットとマスメディアのスパイラルによるブーム=劇場の発生というメカニズムが消滅するのだ。スマホ、そしてFacebook、Twitter、Instagramといったソーシャルメディアの出現と普及は、個人の嗜好を加速度的に細分化していった。それによって人々は自らのトリビアルな関心領域の情報を入手するようになる。言い換えれば、それは問題関心が全体的イシューから個人的なそれへとシフトしたことを意味する(社会学ではこのような状況を「再帰的近代化」(W.ベック、A.ギデンス)と呼ぶ)。また、情報発信についても、発信手段がホームページやブログからソーシャルメディアに代わることによって、誰もがネット上に自らの情報を気軽にアップするようになる。インプット、アウトプット、どちらにおいても、それぞれが関わることがバラバラになっていったのだ。いいかえれば、大衆は求心的な中心(近代)を否定してモザイク化し、さらにタコツボ化するようになった(「リキッドモダニティ」Z.バウマン)。

そして、こうした嗜好の極端な細分化が結果として、それまで発生してたインターネットとマスメディアによる情報のスパイラルによるイベント化=劇場化を無効にすることになった。

たとえば、ゼロ年代のようにマスメディアがブログ、2ちゃんねる、そしてソーシャルメディアから話題となっている情報をピックアップし、この情報をバイラルしたとしよう。ところが、ソーシャルメディアによって細分化されたインターネット領域では、マスメディアによってプッシュされた情報は、むしろソーシャルメディアのユーザーたちによる情報発信によってかき消されるように作動するのだ。インターネット上、とりわけソーシャルメディア上の話題がマスメディアに取り上げられても、すぐさま、これを否定する見解がソーシャルメディア上から提示される。しかも、様々な方面から。いや、それだけではない。その次にはこの「否定する見解を否定する見解」まで、さらにその次までもが出現する。だから、一定以上の広がりが難しくなるし、話題の有効期間も限りなく短期化されてしまうのだ。

最近発生したこの典型的な例は、大津で発生した園児を死傷に追いやった交通事故だろう。事故発生直後、散歩に連れて行ったレイモンド淡海保育園が行った記者会見で、マスメディアは保育園を加害者的な立場見立てながら質問を行った。これがソーシャルメディア上で批判されることになる。すると事故死した児童の親から保育園を援護するコメントが。次いで、このコメントをマスメディアが取り上げると、今度はソーシャルメディア上でマスメディアがコメント全文のうちのどこを省いていたかが各マスメディアごとに晒されていた。そこで形勢不利と考えたのか、マスメディアは本件については口をつぐむようになった。これじゃ、盛り上がりようがないだろう(する必要もないけれど)。

選挙も、結局これと同じメカニズムが発生することになる。つまりブームになる前にこれをかき消す情報が様々な形でソーシャルメディア上に挙げられ、雲散霧消するのだ。だから、お祭りは盛り上がりそうになった瞬間、かき消されることになる。「年金の他に2000万円が必要」という騒ぎも、しばらくすれば忘れ去られるだろう(ひょっとして、ソーシャルメディアはガス抜きの機能も果たしているかもしれない。「(100年安心のはずが2000万円必要だって?ふざけるな」と、ソーシャルメディア上でコメントしてしまえば、これで満足してしまうといったような……)。

政治オタクばかりが選挙に行くようになれば……自民、公明、共産、そしてれいわ新撰組が勝利する

では、そうなると次回参院選はどうなるのか。当然ながら、無党派層は全くなびかない。そして個人化=私的生活にベクトルが向いているので、公的な活動である選挙に関心を抱くことはなく、投票には行かない。その一方で、政治にもともと関心を持っている層が、やはりソーシャルメディア等を媒介にして結びつく。そうなるとインターネット=ソーシャルメディアは支持政党ありの人間にとっては政党への支持意識を強化する方向に働くことになる。

必然的に投票率は下がるが、いわば「政治を趣味にする層」は必ず投票に行くことになる。だから結局、勝利するのは基礎票がしっかりしている自民党、公明党、共産党なのだ。いいかえればインターネット→スマホ→ソーシャルメディアの普及というメディアの流れは政治への関心を加速度的に減少させるが、その反面で政治オタクを発生させ、その層によって選挙が展開されることになるのだ。

だが、この「政治オタク化」は既存の「支持政党あり」の層だけを指しているわけではない。無党派層の中にも「政治を趣味にする層」、言い換えれば嗜好が多様化した中の一つとして「政治に(趣味として)関心を持つようになった層」が、これまたソーシャルメディアを介して結びつくようになる。ただし、これもまた多様化した層の中の一部の層でしかないために母集団が小さい。だから小泉の時のような「劇場」にはならない。「トリビアルなオタク集団」ゆえ、せいぜいが町内会祭りの神輿担ぎ程度にしかならないのだ。しかし、ネットを介して全国からかき集めれば、これはそれなりの力を得ることにはなるだろう。おそらく、こうした層は「ワンフレーズ・ポリティックス」ではなく「ワンイシュー・ポリティックス」、つまり限定された争点を前面に打ち出し、これを深く展開して、萌えた政治オタクからの支持を取り付けるだろう。いうまでもなく、このやり方で「新しい無党派層」を掘り起こしている(しかし、絶対に政党的には巨大化することはない)のが山本太郎率いるれいわ新撰組だ。おそらく、れいわは「政治オタク」の票を取り付けることで、支持基盤のはっきりしない党の中で唯一勝利するだろう。

だが、それは選挙というシステムが機能不全を起こしはじめたことを意味しているということでもある。選挙や政治もまたオタク化していくというわけだ。そして、この傾向は不可逆的な現象だ。ソーシャルメディア的なものが個人化を進めれば進めるほど政治は「一部のオタクのもの」になっていくのではなかろうか。




財務省の福田淳一事務次官が複数の女性記者にセクハラ発言をしていたことが物議を醸している。そして今回、バーでやり取りした女性記者との音声データが公表された。「おっぱい触っていい?」「手縛っていい?」といったベタにセクハラ的な次元の音声がそれだ。こうした「音声」という決定的な証拠がある以上、もはや福田氏のセクハラは明らかだが、さて、じゃあ「これで更迭」とバッサリ切ってしまってよいものだろうか?

朝のニュースやワイドショーをチェックしてみると、もはや福田氏は完全にクロである。麻生大臣も「事実ならアウト」としているし、それ以前に「処分を考えていない」と明言したことに対し、今度は大臣自身の責任問題まで指摘されている。つまり「やることが遅いんだよ!」という文脈。

実際、メディアの福田氏に対する報道はすでに「アウト」という前提で展開されている。その際、福田氏の経歴が紹介されている。東大法学部を卒業し大蔵省に入省、財務省で辣腕を振るう。性格は豪放磊落であるなどなど。しかし、これらはどうみても「エリートだから世の中をよく知らない」というベタで偏見に満ちた前提、学歴コンプレックスの人間の溜飲を下げるような展開だ。

こうした報道の仕方、ちょっと問題ではなかろうか?そこで、ここでは敢えて、いったん福田氏を擁護する形で議論を展開してみよう。ただし誤解を招かぬよう僕の立ち位置を最初に示してから。つまり「福田氏は、いずれにしてもセクハラ」。

こんな文脈で福田氏を擁護してみよう。今回のスキャンダルもちろん森家計問題に端を発している。そこで女性記者が事実関係を掴むべく事務次官にアプローチした。ただし、接近してきた女性記者たちがあまりに執拗で事務次官はウンザリしていた。そこで、なんとかこれを拒絶する方法はないだろうかと事務次官は考えた。

「そうだ、セクハラまがいの話をして話を煙に巻こう!」

そして福田氏は実行に移した。

ただし、福田氏はこの戦略の副作用を予想できていなかった。女性記者の一人が音声を録音していたのだ。肝心のネタをゲットできなかった件の記者。それなら、この「セクハラ発言」はスキャンダルとしてはもってこい。で、報道。事は大騒ぎになり、麻生大臣は「事実とすればアウト」とコメント、メディアは「すでにアウト」という辞令を発するに至った。

実は、メディアがやっていることは、この時点で人権蹂躙だ。鬼の首を取ったかのように取り上げることが出来る根拠は音声データにある。だから「間違いない」というわけだ。

そんなことはないのだ。たとえばメディアのインタビューで、インタビューイーがある人物についてコメントを求められたとしよう。そしてインタビューイーが「あいつはバカだ!」とコメントしたとする。ところが、この「バカ」という発言は当該人物への親密さや凄さ、規格外れの大胆さを表現する褒め言葉だった。しかし、これを取材した側はインタビューイーと当該人物が揉めているように演出したいがゆえに「アイツはバカだ!」だけを音声的に切り取り、それを擁護するようなコメントを拾い集め、他の賞賛している部分を全てカットして報道した。必然的結果としてインタビューイーの意図とは異なるインタビュー記事が出来上がった。つまり音声や映像、それ自体は事実であったとしても真実を語っているかどうかは別なのだ。そこには編集者側の加工が存在する。

これと同じ危険性が、今回のスキャンダルにはある。音声が事実でも、意図は別なところにある可能性があるからだ。もし、これが完全にセクハラで更迭に値するならば、メディアは明確な証拠を提示しなければならない。その方法は「女性記者と福田氏のやり取りの音声を全て公開すること」だ。それで白黒はハッキリする(女性記者の匿名性を確保したければ音声を変更すればよい)。つまり女性記者があまりにしつこく事務次官に突っ込んでいたら、我々は「こりゃ、酷いな?」ということになり、文脈を理解することが出来る。逆に、そうでないとすればこれは完全にセクハラ、福田氏は更迭だ。

現状の女性記者の音声を省略した報道はメディア側の文脈に基づいた悪意的なそれでしかない。だから、事実がハッキリしていない現状でメディアがやっていることは人権蹂躙なのだ。もう少しまともな報道をやって欲しい。

ただし、である。福田事務次官の戦略は女性記者を退散させる方法であっただけであったとしても、それでも十分にセクハラだ。懲戒には十分値するだろう。更迭レベルかどうかはさておいて。

さて、福田事務次官、どういったコメントをこれからするのだろうか。

ちなみに、もう一つ事務次官がセクハラであるかどうかをハッキリさせる方法がある。それは「福田氏が本件について男性記者に対してどうコメントしていたか」だ。

残念ながら後藤健二氏が殺害された模様だ。非常に残念だが、問題はまだ始まったばかりという見方も出来る。これからわれわれはテロリズム、そして国際社会の一員としてどのような立場をとっていくべきかが重要な課題として残されたのだから。

先ず、絶対に避けるべきは、ベタで恐縮だが「憎しみの連鎖」だ。そして、これがわれわれ日本人の中にも芽生えた可能性がある。後藤氏の殺害を受けて、ひょっとすると日本人の中には「戦争における憎しみの感情」を初めて感じた人間がいるかも知れないからだ(お恥ずかしい話だが、僕も報道を受けて、一瞬「ムッ」とし、直後に「いかんいかん」と反省した)。しかし、もしそうであるとするならば、それこそが「憎しみの連鎖・スパイラル」メカニズムの正体であることを肝に銘じなければならない。この憎しみは「償い」と称する行為を相手に求めることになる。それが「やられたら、やりかえせ」という感情へと繋がっている。

安倍首相は後藤氏の殺害報道を受けて「この罪を償わさせるために国際社会と連携していく」とコメントした。これはいけない。「償い」という言葉を用いたことで、ISISに「やっぱり、オマエはアメリカ側だったのか。われわれが人質を殺したのはきわめて正しかった。そして今後、日本は敵対する勢力であることが認定されたので、同じように日本人を捉えて殺害することには正当性がある」と認めさせてしまったことになるからだ。そして、この場合「国際社会」とは広義ではなく狭義、つまり米英を指すものになってしまう。あくまで「日本は人道的支援なんだから、あんたたちは間違っている、勘違いしている」としなければいけないのだ。

次に、この事態を受けてこれから政府、そしてわれわれはどうするべきかを考えること。実はこちらの方が、広義(=グローバル)の国際社会における一員として日本を考える場合には重要だ。

僕は政府には、自らのテロに対する日本の立場を、国際社会により具体的に提示する、すなわち「『軍事的な手段以外』で、テロ全般を無くす方向に尽力する姿勢」を明確に表明することを期待したい。一方、われわれの側としてはイスラム文化をこれを機にもっとよく理解することが重要だと考える。世界人口の22%、15億人にも及ぶイスラム教徒を、われわれ日本人はあまりに知らない。だからこそ「イスラム国」を国家と勘違いするような事態、さらにはイスラムと言えば紛争やテロの報道ばかりがなされるので「イスラム教は邪教」みたいな誤認が生じているわけで。そして、こういったイスラム文化の理解=誤解において重要な役割を担っているのがマスメディアだ。こういったステレオタイプを助長してきたのは、実はマスメディアによるところが大きいことは言うまでも無いことだろう。それゆえ、マスメディアにはこれを機に「イスラムとは何か」(まあ、これでもものすごく大きなカテゴリーだが)を認知させることを期待したい。もちろん、僕らもまた自らこういった情報にアクセスすることが必要なことは言うまでもないことけれど。

問題なのは、後藤・湯川氏にはちょっと失礼な表現になるけれど「後処理」だ。そして、これをいかに上手くやるかが彼らへの弔い、そして日本の未来へと繋がっている。これだけは間違いないだろう。

ISISによって後藤健二氏と思われる音声メッセージ第三弾が29日に投稿され、イラク時間同日日没(日本時間同日深夜)までにリシャウィ死刑囚がトルコ国境に移送されなければ、ヨルダン軍のパイロット(ムアズ・カサースベ氏)は直ちに殺害されると警告した。

日本メディアが報道する「ISIS VS 日本」という図式

今回の事件、われわれはISISによる後藤氏(そして湯川氏)拘束事件、つまり「ISISと日本の問題」と捉えるべきではない。ところが日本のメディアは専らこの側面から捉え、希望的観測も交えて、かなり偏った見方をしている。テレビでの解説者の論評もこちらの文脈が趨勢を占める。このノリは、さながら飛行機事故が起きた際、真っ先に「日本人乗客は……」と報道するのとよく似ている。日本に関することだけに関心が向かってしまい、事の全体像が見えていない「視野狭窄」に至っているように思える。

そうではない。これは先ず始めに「ISISとヨルダンの問題」、あるいは駆け引きの問題なのだ。そして現在、後藤氏は、いわば、その駆け引きの「道具」として利用されているに過ぎない。このことは、われわれが今回の事件の立ち位置を「ISIS VS 日本」から「ISIS VS ヨルダン、それに付随する日本」へシフトすることで、はある程度見えてくるはずだ。

「ISIS VS ヨルダン」図式から見えてくる事態の本質

そこでISIS側の思惑という立ち位置をから考えてみよう。当然、ISISとしては今回の事件を利用して、自らの社会的な影響力、そして金銭的利益、これらを最大化したいはずだ。ところが、もしこれを対日本という立ち位置でやったらどうなるか?あたりまえだが費用対効果はきわめて低いことになる。金銭的利益はともかくとして、日本という当事国とは必ずしも言いかねる国に属する人間を相手にすることは、いたずらに社会的な評価を悪化させるだけ、つまり「ならず者」のイメージを助長するだけなのだから。つまり、大義が立たない。

ところが、これまでの戦略を対ヨルダンという立ち位置で見るとISISはきわめて狡猾なやり方をしていると判断できる。先ず湯川氏の首を刎ね、こちらが本気であることを示すことで相手側に脅威を与える。次に24時間以内にリシャウィ死刑囚を解放しなければ後藤氏の命がないこと、いやそれ以前にヨルダン・パイロットに命がないことを後藤氏の口から語らせた。つまり「どんどんやらないと、あんたのところの兵士の命はないよ、こっちは本気だからね」という強烈なメッセージを相手=ヨルダンに与えることに成功している。で、今回の第三弾でダメを押している。これで、思惑通りヨルダンも困惑した。ヨルダン政府がパイロットとリシャウィ死刑囚の交換といった条件を出してきたのだ。だが、残念ながらISISがそんなものを受け入れる気などさらさらないだろう(その理由は後述)。そして、この「ヨルダンの困惑」、まさにISISにとっては「思う壺」だったのではなかろうか。

なぜ、後藤氏とリシャウィ死刑囚の交換なのか

ISISによるこれら要求で重要なのは、ちょっと不思議に思える「後藤氏のリシャウィ死刑囚との交換」という条件だ。これに、あたかもパイロットの命という「オマケ」が付いているように見える。ところがそうではない。重要なのはパイロットの方が本命で、むしろ後藤氏の方が「オマケ」と認識した方が理に叶っている。ISISにとって政治的に価値があるのはパイロット=ヨルダンの方、だから後藤氏=日本については簡単に交換条件を出してくるが、パイロットの方はそうではない。実際、現在のところ、パイロットを解放するとは一言も言っていないのだから。そんな「おいしくないこと」はやらないのである。

要するに、これは後藤氏の画像と音声を利用してヨルダン政府に圧力をかけているとみるのが適切なのではなかろうか(後藤氏は、もちろん言わされているに過ぎないが、これがかえって強烈なインパクトとなる)。そして、実のところ後藤氏の解放など、ISISにとっては取るに足らないこと。ただし、これを自らの威厳発揚のためのメディアとして最大限利用してやろうと考えていること。言い換えれば、今回の人質交換を利用してパイロットの値段(政治的そして金銭的)のつり上げを図っている。こんなところではなかろうか。

そして、ISISの最も狡猾なやり方(そして多分そうするのではないかと僕は思っているのだけれど)は、前述したようにリシャウィ死刑囚との交換によって後藤氏は解放されるがパイロットの方はそうではないことだ。後藤氏と交換したから処刑を中止してやっただけ。拘束は今後も続く。そして、もし解放して欲しければ……次の要求を突きつけてくる。つまり、このパイロットを、もっともっと「おいしく」いただこうと考えるのだ。具体的にはカネ、そしてより重要な人物の釈放(複数の政治犯)などがそれだ。ISISの側、そしてISISの対ヨルダン戦略という立ち位置を想定すると、僕にはISISの思惑がそんなふうに見えてくる。

ISISにとってリシャウィ死刑囚はそんなに価値のある存在ではない?

ちょっと考えてみて欲しい。リシャウィはテロに失敗した人間であるゆえヨルダン民衆にはインパクトが強いが、政治的に重要な存在であるかと言えば、そうではないだろう。言い換えれば、社会的インパクトを除くと、ISISの将来にとってそんなに費用対効果の高い存在ではない。それゆえISISは後藤氏とリシャウィを同等の価値と踏んでいて、とりあえず次の戦略のための前フリ、そして威嚇として利用しているのでは?(ところが、日本のメディア的な立ち位置だとリシャウイ死刑囚はきわめて価値が高く、パイロットとの交換条件として十分間尺に合っているように認識されている)。メディアの使い方の狡猾なISISのことだから、これくらいのことはやりかねない。

繰り返そう。「ISISと日本、そしてそれに付随するヨルダン」的なメディア報道に距離を置き、この問題がむしろ「ISISとヨルダン、そしてそれに付随する日本」という問題として考えて見ることで、今回の状況は初めて読めてくる。僕はそんなふうに考える。

肝腎なのは「他者の視点に立つこと」。たとえ、それが「ならず者」であったとしても、だ(もちろん、これは「思いやる」ことを意味しているのではない)。

ちょいと後出しジャンケンみたいで申し訳ないが、今回はメディア論的立場から今回のイスラミック・ステート(以下IS)による日本人人質事件について考えてみたい。つまり、2人が拉致されて2億ドルが身代金として要求されていたときに、日本政府はどのような立場を採ればよかったかをメディア論的視点から考えてみようというものだ。ちなみにメディア論的視点とは、日本政府の今回のテロ=事件への対応は、今後の日本政府の社会的評価も踏まえた場合、どうするべきだったかという視点だ。つまりパフォーマンスとしての効果の視点。具体的に見ていくのは1.国際的な日本評価への対応、、2.テロ及びテロリストへの対応、3.人質への対応、そして4.日本国民への対応の四点だ。これらそれぞれについて見ていく。

安倍首相、何やってんの?

湯川・後藤氏両氏のISによる拘束について政府の見解は「言語道断の許し難い暴挙であり、強く非難する。後藤氏に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」というもの。これを安倍首相も菅官房長官もひたすら繰り返すのみ。湯川氏が殺害されたことが濃厚となった25日ににおいても同様のコメントを繰り返した。

これは、あまりに情けない。これって自分の娘がならず者に陵辱されている場面に居合わせた親が「言語道断の許し難い暴挙であり、強く非難する。娘に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」と言っているようなものだ。その間、何も事は展開されず娘は次々と陵辱されていく……。こんなふうな比喩を用いると政府の弱腰がものすごくよくわかる。そして、アメリカという庇護者が早くなんとかしてくれないかな?とただ突っ立って待っている。その親を周囲が見たらどう思うか……もちろん「なんて無責任な、自己保身に固まった親なんだ」と呆れるはずだ。つまり、非難はするけど何もしないのだから(してはいるだろうが、したことにはなっていない)、それはただの自己正当化でしかない。日本政府が上記の発言を繰り返せば繰り返すほど、具体的内容が無い分、虚しく響いてくる。言い換えれば、ここでのメディア性は「空虚な発言が醸し出す不信感」ということになるだろう。国際的な信用なんか得られるはずはない。どんどん日本のイメージは悪くなるだけだ。

また、こういった「ちんたらモード」は、必然の結果として湯川氏の殺害を招いてしまった。陵辱どころか、殺されてしまったわけで、この対応もまた無策と言わざるを得ない。もちろん、日本国民もあきれ顔と言ったところか。こりゃ、マズい。

立ち位置をはっきりさせよ!

これら四方向への政府の対応としてすべきことは、メディア論的には「立ち位置をはっきりさせること」だ(で、これが安倍政府にはなくてグニャグニャなわけなんだけれど)。実は明確な方針(声明やスローガンではない)さえキチッと立てれば、この事件、ある程度なんとかなるはずではないのか?ちなみに、今回、僕が提案しているのはメディアを利用して「負を正にかえる」政府の戦略だ。つまり現在、ISによる日本人拘束というネガティブな国際的大事件は全世界的に注目を浴びている(ここ二日間のあいだにセビリア人、ルーマニア人とこの件について話をしたが、やっぱり自国でも大きく取り上げられていると報告を受けた)。こんな時にこそ、日本政府の明確な態度を示すことで、日本が国際社会の一員としての立ち位置をはっきりさせるとともに、それが翻って「日本」という国家の国際的な認知に繋がるはずなのだ(たとえば第二次世界大戦時、スイスが19世紀以来の「永世中立国」という立ち位置の下、戦争に荷担しなかったが、これは「永世中立国」であることが国際的に認知されていたからに他ならない)。これくらいの「したたかさ」は欲しい。

そこで、立ち位置を明確にするやり方を三つほど紹介してみたい

1.断固としてテロリズムと戦う

一つは「テロリズムを絶対に許さない」という姿勢だ。このやり方はアメリカ、イギリスのやり方だ。
現在、日本政府はそう語ってはいるが、前述したように弱腰。仮にこの態度を徹底すれば、必然的に「テロリストとは交渉しない」ということになる。当然、拘束される2人のクビは刎ねられる。ただし、日本政府の「対テロリズム」に対する国際的に立ち位置は明確になる。そしてテロリストのこういったやり方が日本に対しては功を奏さないこともまた、認識させることが出来る。でも、殺害された2人にはどうケアすればよいのか?殺されたものは仕方がないが、この2人はパスポートを取得して海外に出かけているわけで、当然、日本国としてはパスポートを所持している人間の安全を保障する義務がある。ただしできなかった。で、この場合、政府が違反を起こしたことになるので、当然ながら遺族には補償金を支払うことで対処するというスタンスを作る。

この場合、言うまでも無く「戦う」ことになるので、アメリカが主導する対シリア・イラクのテロリストへの戦いに加わることになる。で、もしこのテロ集団、つまりISを、日本のメディアが訳す「イスラム国」、言い換えれば「国家」とみなせば、これはテロの掃討の戦いではなく「戦争」となる。その場合には、憲法九条は完全に破綻するのだけれど(米英ははっきり言って、このならず者集団をほとんどこんな感じ、つまり「国家レベル」で認識しているのだろう。アメリカはならず者・アルカイダの掃討といって国家であるイラク・フセイン政権を打倒してしまったくらいなんだから。ビル数本を破壊された程度で、しかもそれがテロ集団であるにもかかわらず、国家を破壊してしまうって、いったい……。テロ集団=国家という歪んだこの図式は今回も同じだ)。で、これ以降、再び日本人がISに捉えられても、それは「しかたがない、あきらめろ!」という政府のスタンスを明確に出来る。そしてISは完全に無視されるので、この戦略が日本に対しては効かないことを認識させられる。日本人も、今後おいそれとはシリア、イラクへは入り込めなくなる。これで、いわゆる「自己責任」が正当化されてしまうからだ。

2.ひたすら秘密裏に交渉する

救出を目指してひたすら交渉する。ただし全て非公開とする。交渉過程、身代金、交渉ルート、これらを完全にトップシークレットとしてメディアには一切、公開しない。そして、突然、人質が解放される。もちろん、この後も何があったのかは一切説明しない。こうすることで、対外的には国家=政府としての威厳を保つことが出来る(というか、要するに内部で何が行われているのか解らないので、事態を闇に葬り去るだけなのだが)とともに、人質の救出も可能となる。これはフランス、スペイン、ドイツ、イタリア、トルコが採用したやり方だ。ただし、この場合、ISが「二匹目のドジョウ」を狙うという後遺症が残ってしまう。


3.ジョン&ヨーコ+憲法九条オシ戦略を展開する

もし、仮に安倍政権が憲法九条を堅持する意志があれば、ちょっとメルヘンチックであるけれどこんなやり方もある。最初に名前を付けておけば、さしずめジョンとヨーコが標榜した”War is over, if you want it”戦略だ。つまり「戦争なんかありません」というおおっぴらな宣言。

先ず日本政府はISの卑怯なやり方に、安倍首相と同様「言語道断、許しがたい」と非難する。だが、その後、突然手のひらを返したかのように「2億ドルを支払う」と宣言してしまう。これだとISに完全に屈したことのように見えるが、ここで理屈を立てるのだ。

「わが国の憲法には憲法第九条に「戦争放棄」という項目があり、未来永劫、戦争を仕掛けない、荷担しないことになっている。そして世界平和を常に追求している。だから今回の支援も政情不安で苦しめられている非戦闘員、つまり一般人に向けて実施することとした。そもそも戦争など出来ないと憲法に決められているのだから、戦争を仕掛けることなどわが国は端っから無理なのだ。それゆえ、ISのこの紛争への米側からのわが国の荷担という主張は全くの誤りだ。ただし、苦しんでいる人は今回、日本が支援しようとしているISに対立する側の一般人だけではない。IS側の戦いに関わらない一般人も同様だ。ならば、この人たちも平和主義的観点から援助しなければならない。よって、ここに2億ドルを「身代金」ではなく「援助」として提供する。ただし、わが国は平和主義である。繰り返すが戦争には一切加わることが出来ない。ということは、この支援によってIS側が獲得した2億ドルもまた、一切軍事的な予算として運用することは一切、出来ない。仮に、そのような運用が行われた場合には、憲法九条の規定が間接的にであれ抵触してしまうからだ。それゆえ、われわれは、もしISがそのような形で援助を活用しようとするのであるならば、これを提供できない。相互に国家や文化を尊重する「友愛」の精神があるのならば、このことはわかるはずだ。われわれはイスラムの人々の文化・人民を尊重するが、見返りとしてわれわれの文化・人民の尊重も望んでいる。そして、この平和主義=戦争放棄を踏まえれば、現在、ISがわが国に対して「英米に荷担している」というのは全くの誤りであることは容易に理解可能であるはずである。よって、ISはその認識の誤りを認め、相互尊重という名の下、拘束されている日本人は即座に解放しなければならない。2億ドル支援はそれとは全く別件のもの。そして組織ではなく人々への支援として認識されたい。」

まあ、こんな感じでやったらどうか?これなら平和憲法に基づいた立ち位置は明確だ。この日本人拘束を逆利用して平和憲法を世界的に認知させることが出来る絶好のチャンスとなる。そう、スイスが永世中立国であることが認知されているように。これを立ち位置に、ISに対して、いわば「平和の爆弾」を投げ込むわけだ。それが「身代金」ではなく「非戦闘員への経済援助」という名目になる。ISもこれを認めないわけにはいかなくなる。そして人質は解放、この一連の事態を知った日本人は日本が平和国家であるということのアイデンティティを確保するようになる。でも、もし仮に人質が解放されなかったら?大丈夫だ、そうであっても日本の立ち位置は世界中に認知される。一方、ISは今まで以上に「ならず者」扱いされる。「広告宣伝費」とみなせば安いものだ。つまり費用対効果は絶大。「負を正にかえる」とは、こういったことを意味する。そう、これくらいのしたたかさがあっても、いい(「甘い」とツッコミが入りそう?(笑))。

ブレないこと!

三つ目は脳天気で荒唐無稽に思えるかも知れない。まあ、実現は難しいだろう。だが、ここでのポイントは、要するに今回指摘している「負の状況を利用して自らの立ち位置を内外に明確に示す」ということだ。これは三つの戦略案すべてに該当する。そして、中でも最もメディア論的にインパクト大なのが三つ目なのだ。もっとも、安倍政権は憲法九条なんか要らないと思っているんだろうが。

そして、この三つ。どれを選択するにしても迅速にやらなければならない。「即決」というのがメディア的効果として非常に有効だからだ。それによって「ブレない国家」というイメージを対外、そして対内的に植え付けることが出来る。

ところが安倍政権はチンタラしていてブレまくっている。で、どうなった?言うまでもなく2人の内の1人が殺害されてしまった(未確認だが)。そして、事態は一層深刻化した。もし、またチンタラしているうちに今度は後藤氏が殺害されたら、それは本当にマヌケなことになってしまう。日本人を救出できなかったという無能さだけではなく、ブレまくるどうしようもない日本政府というイメージもまた世界に広まっていく。そしてISは「こりゃオイシイ、またやってやろう」ってなことになる。国民も「やっぱり、安倍はダメだ」ということにもなる。ようするにあらゆる方向から舐められることになるのだ。言い換えれば、今やっているやり方がいちばんマズい。

どちらでもよいから、安倍政権は立ち位置を明確にし、迅速に行動せよ!さらに酷い事態を招く前に。

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