2005年、時の首相小泉純一郎は郵政民営化を巡ってその賛否を問うべく衆議院を解散、選挙を行い、その結果、小泉劇場と呼ばれる自民党の大勝を招いた。だが、今回の参議院選挙では、こうした「○○劇場」は多分、起こらないだろう。ただし、自民党は勝利する。また公明党、共産党も。そして「○○劇場」、今後発生する可能性は極めて低いとも僕は考えている。
年齢が低い方が政治への関心度は相対的に減少している
その理由を挙げてみよう。まずデータから。
総務省の統計によれば1988年から2017年の間に参議院選挙の投票率は65.0%→54.7%と15.7ポイントの減少を見せている。若干の波はあるが原則、漸減状態にある。これを世代別に見てみると20代:47.5%→35.6%で25.1ポイント、30代:65.3%→44.2%で32.3ポイント、40代:70.2%→52.6%で25.1ポイント、50代:75.4%→63.3%で16.1ポイント、60代:79.9%→70.7%で11.5ポイント、70代:66.7%→61.0%で8.5ポイントと世代が下がるにつれて投票率の低下率が上昇する傾向がある(これは衆議院選挙の投票率も同様)。つまり全般的に投票率は減少傾向にあるが、年齢が低くなるほどその傾向が高くなる。加齢とともに投票率は上がるという一般的な傾向があるが、それらを考慮しても、今後ますます投票率は低下することになる可能性が高い。
私的な関心へベクトルが向かう若者たち
次にメディア論、とりわけ若者論的立場から考えてみよう。
かつて七十年代までは「大衆の時代」と言われていた。マスメディア、とりわけテレビや新聞が世論を形成し、これが選挙に大きな力を及ぼした。というのも、これらへのアクセス度、そして信頼度が非常に高かったためだ。60年代末の学生運動の終息以降、若者たちは私的な生活にそのベクトルを向け、政治への関心を失ったかのようにみえたが、実はその間もそれなりに政治的意識はあり、若者は投票に足を運んでいたのだ。その際、投票を考慮する主たる情報源がマスメディアだった。
だが全般的に政治に関心が低下すると、それに伴って若者の関心も低下していく。そして、マスメディアも消費的情報を増大させつつ、提供情報を多様化させ、これに伴って支持政党なしの無党派層が増大していく。そこで、90年代以降、こうした無党派層をどのように取り込むかが政党にとっての課題となったのだ。
テレビとインターネット(SNS出現以前)間の情報循環が「劇場」を発生させていた
これに成功したのが小泉純一郎だった。小泉自身「無党派層は宝の山」と表現していたが、まさにこれを獲得することに成功したのだ。その要因、実はインターネットの普及が大きく関係していると僕は見ている。ゼロ年代はまだスマホ出現前夜(iPhoneの発売は2008年7月)、だがインターネットはパソコンベースで徐々に普及を見せていた。ブログも普及、またソーシャルメディアもmixiや2ちゃんねるといった初期のものが人気を博していた。
そして、この時、インターネットとテレビ・新聞はまだ蜜月的関係にあった。ソーシャルメディアで話題になったものがあると、これをマスメディアがプッシュ・メディア的機能を利用してピックアップした。つまりテレビや雑誌がネット上で盛り上がっていることをマス機能を用いてバイラルした。すると今度はマスメディアが取り上げた話題が再びインターネット上に還流、さらにソーシャルメディアやブログなどでこれらが取り上げられ、それが再びマスメディアがピックアップという循環によってブームが起こるという「マスメディアとインターネットによる情報のスパイラル」が発生していたのだ。小泉劇場が発生した大きな要因の一つがこうした二つのメディアによる共犯的な循環にあったのでなかろうか。そして、この時、小泉的な「ワンフレーズ・ポリティックス」は旨く機能した(地方なら宮崎・東国原英夫の「宮崎をどげんかせんといかん!」だった)
ソーシャルメディアがテレビとネット間のバイラルを打ち消す
ところが、スマホの普及によって状況は変わってくる。ゼロ年代には有効だったインターネットとマスメディアのスパイラルによるブーム=劇場の発生というメカニズムが消滅するのだ。スマホ、そしてFacebook、Twitter、Instagramといったソーシャルメディアの出現と普及は、個人の嗜好を加速度的に細分化していった。それによって人々は自らのトリビアルな関心領域の情報を入手するようになる。言い換えれば、それは問題関心が全体的イシューから個人的なそれへとシフトしたことを意味する(社会学ではこのような状況を「再帰的近代化」(W.ベック、A.ギデンス)と呼ぶ)。また、情報発信についても、発信手段がホームページやブログからソーシャルメディアに代わることによって、誰もがネット上に自らの情報を気軽にアップするようになる。インプット、アウトプット、どちらにおいても、それぞれが関わることがバラバラになっていったのだ。いいかえれば、大衆は求心的な中心(近代)を否定してモザイク化し、さらにタコツボ化するようになった(「リキッドモダニティ」Z.バウマン)。
そして、こうした嗜好の極端な細分化が結果として、それまで発生してたインターネットとマスメディアによる情報のスパイラルによるイベント化=劇場化を無効にすることになった。
たとえば、ゼロ年代のようにマスメディアがブログ、2ちゃんねる、そしてソーシャルメディアから話題となっている情報をピックアップし、この情報をバイラルしたとしよう。ところが、ソーシャルメディアによって細分化されたインターネット領域では、マスメディアによってプッシュされた情報は、むしろソーシャルメディアのユーザーたちによる情報発信によってかき消されるように作動するのだ。インターネット上、とりわけソーシャルメディア上の話題がマスメディアに取り上げられても、すぐさま、これを否定する見解がソーシャルメディア上から提示される。しかも、様々な方面から。いや、それだけではない。その次にはこの「否定する見解を否定する見解」まで、さらにその次までもが出現する。だから、一定以上の広がりが難しくなるし、話題の有効期間も限りなく短期化されてしまうのだ。
最近発生したこの典型的な例は、大津で発生した園児を死傷に追いやった交通事故だろう。事故発生直後、散歩に連れて行ったレイモンド淡海保育園が行った記者会見で、マスメディアは保育園を加害者的な立場見立てながら質問を行った。これがソーシャルメディア上で批判されることになる。すると事故死した児童の親から保育園を援護するコメントが。次いで、このコメントをマスメディアが取り上げると、今度はソーシャルメディア上でマスメディアがコメント全文のうちのどこを省いていたかが各マスメディアごとに晒されていた。そこで形勢不利と考えたのか、マスメディアは本件については口をつぐむようになった。これじゃ、盛り上がりようがないだろう(する必要もないけれど)。
選挙も、結局これと同じメカニズムが発生することになる。つまりブームになる前にこれをかき消す情報が様々な形でソーシャルメディア上に挙げられ、雲散霧消するのだ。だから、お祭りは盛り上がりそうになった瞬間、かき消されることになる。「年金の他に2000万円が必要」という騒ぎも、しばらくすれば忘れ去られるだろう(ひょっとして、ソーシャルメディアはガス抜きの機能も果たしているかもしれない。「(100年安心のはずが2000万円必要だって?ふざけるな」と、ソーシャルメディア上でコメントしてしまえば、これで満足してしまうといったような……)。
政治オタクばかりが選挙に行くようになれば……自民、公明、共産、そしてれいわ新撰組が勝利する
では、そうなると次回参院選はどうなるのか。当然ながら、無党派層は全くなびかない。そして個人化=私的生活にベクトルが向いているので、公的な活動である選挙に関心を抱くことはなく、投票には行かない。その一方で、政治にもともと関心を持っている層が、やはりソーシャルメディア等を媒介にして結びつく。そうなるとインターネット=ソーシャルメディアは支持政党ありの人間にとっては政党への支持意識を強化する方向に働くことになる。
必然的に投票率は下がるが、いわば「政治を趣味にする層」は必ず投票に行くことになる。だから結局、勝利するのは基礎票がしっかりしている自民党、公明党、共産党なのだ。いいかえればインターネット→スマホ→ソーシャルメディアの普及というメディアの流れは政治への関心を加速度的に減少させるが、その反面で政治オタクを発生させ、その層によって選挙が展開されることになるのだ。
だが、この「政治オタク化」は既存の「支持政党あり」の層だけを指しているわけではない。無党派層の中にも「政治を趣味にする層」、言い換えれば嗜好が多様化した中の一つとして「政治に(趣味として)関心を持つようになった層」が、これまたソーシャルメディアを介して結びつくようになる。ただし、これもまた多様化した層の中の一部の層でしかないために母集団が小さい。だから小泉の時のような「劇場」にはならない。「トリビアルなオタク集団」ゆえ、せいぜいが町内会祭りの神輿担ぎ程度にしかならないのだ。しかし、ネットを介して全国からかき集めれば、これはそれなりの力を得ることにはなるだろう。おそらく、こうした層は「ワンフレーズ・ポリティックス」ではなく「ワンイシュー・ポリティックス」、つまり限定された争点を前面に打ち出し、これを深く展開して、萌えた政治オタクからの支持を取り付けるだろう。いうまでもなく、このやり方で「新しい無党派層」を掘り起こしている(しかし、絶対に政党的には巨大化することはない)のが山本太郎率いるれいわ新撰組だ。おそらく、れいわは「政治オタク」の票を取り付けることで、支持基盤のはっきりしない党の中で唯一勝利するだろう。
だが、それは選挙というシステムが機能不全を起こしはじめたことを意味しているということでもある。選挙や政治もまたオタク化していくというわけだ。そして、この傾向は不可逆的な現象だ。ソーシャルメディア的なものが個人化を進めれば進めるほど政治は「一部のオタクのもの」になっていくのではなかろうか。