大学教員という仕事を二十年以上もやっているので、あっちこっちの大学で学生の行動を観察し続けることができる環境にいる。ここ数年、感じているのが、あちこちで言われている「若者の○○離れ」という現象だ。クルマ離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ、ラジオ離れ、本離れ、雑誌離れ、新聞離れ、アルコール離れ、セックス離れ、音楽離れ、マンガ離れ……などなど、枚挙に暇が無い。コーヒー党の僕からすると、最近の学生たちは明らかにコーヒー離れでもある。研究室にはコーヒーメーカーが置いてあって自由に飲めるようになっているのだけれど、コーヒーを好んで飲むゼミ生は僅かしかいない。研究室にマンガを持ち込むものもいない。そう、一見すると、確かに,いろんな分野で若者は「○○離れ」なのだ。
でも、これ、はっきり言って全てウソだろう。事実を間近に見ながら、こう主張するには、ちょっとわけがある。
「何」から離れているのか
問題は「離れる」という言葉と扱い方だ。たとえば「蓮舫は芸能界から政治家に転身した」という場合、蓮舫という一人の人間が芸能界を離れたことを意味する。つまり同一人物が「○○からら離れた」「Aを捨てた」「Aの下を去った」あるいは「AからBへ移行した」ということになる。一方「若者の○○離れ」の場合はこれとは異なっている。同一の若者がクルマやアルコールやテレビへの志向を失ったというのでは無い。こちらの場合は世代論の問題になるので「現在の若者は以前の若者に比べてクルマやアルコール、テレビを志向しなくなった」というふうに理解することになる。ということは、現在の若者は端からクルマやアルコール、テレビを志向していないわけで、「離れた」わけではなく目が行っていない。言い換えれば「最初から離れている」
これが「若者の○○離れ」に見えるのは、それより上の世代の立ち位置で現在の若者の嗜好をみているからだ(マーケットのターゲットとなるコーホートが見えなくなって困っているというビジネス上の困難から来る嘆きもあるだろうけれど)。たとえば50代の僕の世代なら若い頃、その多くはクルマやアルコール、テレビを志向した。だいたい大学に入れば、否応なくアルハラ的に酒を飲まされており(笑)、しかもこうした、いわば「乱暴な通過儀礼」が世代の共通体験としてしてあった。誰もが、あるいは多くが志向していたわけで、そういった一枚岩的な若者時代の体験に基づけば現在の若者は、なにかにつけて「○○離れ」に見えるだけなのだ(皮肉っぽく言えば、この時代の人間たちもこういった一枚岩的な志向(あるいは嗜好)から外れたものについては「離れていた」ということになる)。
「○○離れ」は多様化の必然
若者たちが、メディアが喧伝するようなかたちで「○○離れ」しているのはあたりまえだ。情報化、消費社会化の進行で多様化があたりまえのインフラが構築され,必然的に嗜好が多様化しただけなんだから。典型的なエピソードを一つあげてみよう。今も昔も学生たちの間でコンパは盛んだけれど、昔と今ではちょっと違っている。僕らの世代なら、店にやって来たら飲み物の注文はいうまでもなくビール。「とりあえずビール」ってやつだった。アルコールが飲めない人間だけがそのことを宣言し、その人間だけはウーロン茶とかコーラになっていた。だから幹事は比較的楽な仕事だった。ところが今は全然違う。幹事はコンパに先立ちメンバー全員に飲み物の注文を聞かなければならない。ビール、焼酎、チューハイ、ワインとかいうレベルではなく、もっともっと細かくなる。そして三割くらいはノンアルコール・ドリンクだ。これは、僕らの世代からすればビール離れしているように見えるけど、彼らは自分の嗜好に基づいて注文しただけ。つまり細分化しただけ。だから「離れ」ではなく「多様化・細分化」なのだ(ちなみに二次会は飲み屋で無くカラオケになる)。
で、たとえばクルマ。かつては男性の多くに所有願望があったけれど、現在はそんなことはなくなっている。クルマは維持費がかかるし、クルマ以外に関心を抱くモノも多い。だから食指が伸びないだけ。もっとも細分化・多様化しているのでクルマに入れ込む若者も、もちろんいる。で、入れ込むと、これはオタク的なアプローチになるのでカネのかけ方もハンパではなくなったりするわけで。つまり好みが分散化しただけ。言い換えれば、若者の「○○離れ」を上位世代が語るとき、それは自分たちの世代の若い頃の同質性、均質性を語ってしまっていることになるのだ。
ただし、上位世代も情報化、消費社会化の影響を受け多様化・細分化している。僕らの世代でももう嗜好はバラバラ。そのことはさておいて、まあ「若者の○○離れ」を語っているんだけど。彼ら(僕も含めた)には若者時代の共通体験があり、これが現在の若者が「○○離れ」しているように思わせているに過ぎないのだ。比較対象はあくまで「自分の若い頃」と「現在の若者」。
若者の同質性=プラットフォームへの志向
じゃあ、現在の若者の多くが入れ込んでいるもの、言い換えれば同質的な傾向は無くなっているのか。つまり「とりあえずビール」的な存在は消滅したのか。そんなことはない、しっかり存在している。彼らの多くはカラオケに入れ込んでいるし、スマホに入れ込んでいるし、アイドルに入れ込んでいるし、アニメ・フィギュア・コスプレに入れ込んでいるし、ディズニーランドに入れ込んでいる。で、これらは巨大な市場を形成している。かつてのクルマやマンガ、テレビのように。
若者の同質性を形成する市場に共通するのは、それらがプラットフォーム化していることだ。たとえばディズニーランドをあげてみよう。ここにやってくゲストたちのご贔屓キャラクターは必ずしもミッキーマウスというわけではない。ミッキーやミニーの他にダッフィー、ジェラトーニ、マックス、トゥードルダム&トゥードルディー、こひつじのダニー、J.ワシントン・ファウルフェロー、リトル・グリーンマンといった「泡沫」キャラクターが登場し(いくつ知ってました?(笑)ちなみにダッフィーは泡沫キャラではありません)、Dヲタと呼ばれるディズニーオタクの細分化した嗜好に対応している。
駅のプラットフォームは様々な路線が乗り入れる場所。ここでの「プラットフォーム」はそのメタファー。ディズニーの場合は世界それ自体が膨大で、多様性に満ちているのだけれど、ディズニーランド内では膨大な情報(番線数)が用意されることで、さまざまなディズニーに関する嗜好(≒路線)が乗り入れ可能になっている。つまりプラットフォームは多様性を受け入れる「箱=システム」なのだ。いいかえれば「違っていてもいいんだよ」ということを保証する環境。だから「とりあえずディズニーランド」
先ほどあげた若者が入れ込んでいるものは全てこれ、つまりプラットフォームだ。アイドルはジャニーズやAKB48といった大きな箱が(推しメンはそれぞれ異なる)、アニメ・スマホ・コスプレも様々なキャラクターを許容する箱が(コミケットやコスプレイベントはさながらこの箱の実体化といえる。で、それぞれバラバラのマンガを志向し、コスプレをする)、カラオケはみんな勝手に好きな曲を歌う空間=箱が、そしてスマホは好きなことに興じるためのたくさんのアプリが入っている箱=スマホ本体とOSが存在し、個別の嗜好に対応する。その一方で、それらはがプラットフォームの中に包摂されていることで、自分が孤立していないこともまた保証する。つまりプラットフォーム自体が形式的に、うっすらと同質性を保証しているのだ。だから「とりあえずジャニーズ、AKB48、カラオケ……スマホ」。そしてコンパは「とりあえずコンパ」(だからコンパそれ自体は衰退していない)。
この流れは不可逆的だろう。そしてさらに多様化は進んでいくだろう。ということは先行世代からすれば後続世代の行動は、これからもすべからく「○○離れ」に見えるということになる。
というわけで、「若者の○○離れ」というモノノイイには全く根拠が無い。「大人から見れば若者はいろいろなモノから離れているように見える」だけなのだ。