勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 若者文化・オタク

大学教員という仕事を二十年以上もやっているので、あっちこっちの大学で学生の行動を観察し続けることができる環境にいる。ここ数年、感じているのが、あちこちで言われている「若者の○○離れ」という現象だ。クルマ離れ、海外旅行離れ、テレビ離れ、ラジオ離れ、本離れ、雑誌離れ、新聞離れ、アルコール離れ、セックス離れ、音楽離れ、マンガ離れ……などなど、枚挙に暇が無い。コーヒー党の僕からすると、最近の学生たちは明らかにコーヒー離れでもある。研究室にはコーヒーメーカーが置いてあって自由に飲めるようになっているのだけれど、コーヒーを好んで飲むゼミ生は僅かしかいない。研究室にマンガを持ち込むものもいない。そう、一見すると、確かに,いろんな分野で若者は「○○離れ」なのだ。

でも、これ、はっきり言って全てウソだろう。事実を間近に見ながら、こう主張するには、ちょっとわけがある。

「何」から離れているのか

問題は「離れる」という言葉と扱い方だ。たとえば「蓮舫は芸能界から政治家に転身した」という場合、蓮舫という一人の人間が芸能界を離れたことを意味する。つまり同一人物が「○○からら離れた」「Aを捨てた」「Aの下を去った」あるいは「AからBへ移行した」ということになる。一方「若者の○○離れ」の場合はこれとは異なっている。同一の若者がクルマやアルコールやテレビへの志向を失ったというのでは無い。こちらの場合は世代論の問題になるので「現在の若者は以前の若者に比べてクルマやアルコール、テレビを志向しなくなった」というふうに理解することになる。ということは、現在の若者は端からクルマやアルコール、テレビを志向していないわけで、「離れた」わけではなく目が行っていない。言い換えれば「最初から離れている」

これが「若者の○○離れ」に見えるのは、それより上の世代の立ち位置で現在の若者の嗜好をみているからだ(マーケットのターゲットとなるコーホートが見えなくなって困っているというビジネス上の困難から来る嘆きもあるだろうけれど)。たとえば50代の僕の世代なら若い頃、その多くはクルマやアルコール、テレビを志向した。だいたい大学に入れば、否応なくアルハラ的に酒を飲まされており(笑)、しかもこうした、いわば「乱暴な通過儀礼」が世代の共通体験としてしてあった。誰もが、あるいは多くが志向していたわけで、そういった一枚岩的な若者時代の体験に基づけば現在の若者は、なにかにつけて「○○離れ」に見えるだけなのだ(皮肉っぽく言えば、この時代の人間たちもこういった一枚岩的な志向(あるいは嗜好)から外れたものについては「離れていた」ということになる)。

「○○離れ」は多様化の必然

若者たちが、メディアが喧伝するようなかたちで「○○離れ」しているのはあたりまえだ。情報化、消費社会化の進行で多様化があたりまえのインフラが構築され,必然的に嗜好が多様化しただけなんだから。典型的なエピソードを一つあげてみよう。今も昔も学生たちの間でコンパは盛んだけれど、昔と今ではちょっと違っている。僕らの世代なら、店にやって来たら飲み物の注文はいうまでもなくビール。「とりあえずビール」ってやつだった。アルコールが飲めない人間だけがそのことを宣言し、その人間だけはウーロン茶とかコーラになっていた。だから幹事は比較的楽な仕事だった。ところが今は全然違う。幹事はコンパに先立ちメンバー全員に飲み物の注文を聞かなければならない。ビール、焼酎、チューハイ、ワインとかいうレベルではなく、もっともっと細かくなる。そして三割くらいはノンアルコール・ドリンクだ。これは、僕らの世代からすればビール離れしているように見えるけど、彼らは自分の嗜好に基づいて注文しただけ。つまり細分化しただけ。だから「離れ」ではなく「多様化・細分化」なのだ(ちなみに二次会は飲み屋で無くカラオケになる)。

で、たとえばクルマ。かつては男性の多くに所有願望があったけれど、現在はそんなことはなくなっている。クルマは維持費がかかるし、クルマ以外に関心を抱くモノも多い。だから食指が伸びないだけ。もっとも細分化・多様化しているのでクルマに入れ込む若者も、もちろんいる。で、入れ込むと、これはオタク的なアプローチになるのでカネのかけ方もハンパではなくなったりするわけで。つまり好みが分散化しただけ。言い換えれば、若者の「○○離れ」を上位世代が語るとき、それは自分たちの世代の若い頃の同質性、均質性を語ってしまっていることになるのだ。

ただし、上位世代も情報化、消費社会化の影響を受け多様化・細分化している。僕らの世代でももう嗜好はバラバラ。そのことはさておいて、まあ「若者の○○離れ」を語っているんだけど。彼ら(僕も含めた)には若者時代の共通体験があり、これが現在の若者が「○○離れ」しているように思わせているに過ぎないのだ。比較対象はあくまで「自分の若い頃」と「現在の若者」。

若者の同質性=プラットフォームへの志向

じゃあ、現在の若者の多くが入れ込んでいるもの、言い換えれば同質的な傾向は無くなっているのか。つまり「とりあえずビール」的な存在は消滅したのか。そんなことはない、しっかり存在している。彼らの多くはカラオケに入れ込んでいるし、スマホに入れ込んでいるし、アイドルに入れ込んでいるし、アニメ・フィギュア・コスプレに入れ込んでいるし、ディズニーランドに入れ込んでいる。で、これらは巨大な市場を形成している。かつてのクルマやマンガ、テレビのように。

若者の同質性を形成する市場に共通するのは、それらがプラットフォーム化していることだ。たとえばディズニーランドをあげてみよう。ここにやってくゲストたちのご贔屓キャラクターは必ずしもミッキーマウスというわけではない。ミッキーやミニーの他にダッフィー、ジェラトーニ、マックス、トゥードルダム&トゥードルディー、こひつじのダニー、J.ワシントン・ファウルフェロー、リトル・グリーンマンといった「泡沫」キャラクターが登場し(いくつ知ってました?(笑)ちなみにダッフィーは泡沫キャラではありません)、Dヲタと呼ばれるディズニーオタクの細分化した嗜好に対応している。

駅のプラットフォームは様々な路線が乗り入れる場所。ここでの「プラットフォーム」はそのメタファー。ディズニーの場合は世界それ自体が膨大で、多様性に満ちているのだけれど、ディズニーランド内では膨大な情報(番線数)が用意されることで、さまざまなディズニーに関する嗜好(≒路線)が乗り入れ可能になっている。つまりプラットフォームは多様性を受け入れる「箱=システム」なのだ。いいかえれば「違っていてもいいんだよ」ということを保証する環境。だから「とりあえずディズニーランド」

先ほどあげた若者が入れ込んでいるものは全てこれ、つまりプラットフォームだ。アイドルはジャニーズやAKB48といった大きな箱が(推しメンはそれぞれ異なる)、アニメ・スマホ・コスプレも様々なキャラクターを許容する箱が(コミケットやコスプレイベントはさながらこの箱の実体化といえる。で、それぞれバラバラのマンガを志向し、コスプレをする)、カラオケはみんな勝手に好きな曲を歌う空間=箱が、そしてスマホは好きなことに興じるためのたくさんのアプリが入っている箱=スマホ本体とOSが存在し、個別の嗜好に対応する。その一方で、それらはがプラットフォームの中に包摂されていることで、自分が孤立していないこともまた保証する。つまりプラットフォーム自体が形式的に、うっすらと同質性を保証しているのだ。だから「とりあえずジャニーズ、AKB48、カラオケ……スマホ」。そしてコンパは「とりあえずコンパ」(だからコンパそれ自体は衰退していない)。

この流れは不可逆的だろう。そしてさらに多様化は進んでいくだろう。ということは先行世代からすれば後続世代の行動は、これからもすべからく「○○離れ」に見えるということになる。

というわけで、「若者の○○離れ」というモノノイイには全く根拠が無い。「大人から見れば若者はいろいろなモノから離れているように見える」だけなのだ。

IT mediaビジネスONLINEのサイトで『「PCが使えない学生が急増」の問題点』と題した記事が掲載された(8月4日、甲斐寿憲氏)http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1608/04/news084.html)。
要約すると「PCを使ったことがない新社会人が急増している。社会人の必須スキルとしてのPCを使えるよう、高校生や大学生のうちに所有したり、使ったりすることが必要」と主張するものだ。

大学教員としてメディア論を専攻し、また学生たちをずっと観察してきた人間からすると「これ、ちょっと、違うかなあ」という印象を抱いた。むしろ「いや、パソコン、若い頃は持ってなくてもいいんじゃないの?」と思えないでもない。かえって無駄じゃないの?これをメディア論的に考えてみよう。

昔の学生はパソコンスキルに長けていた?

氏の議論は「昔の学生はそうでなかった」という前提に基づいている。40~50代は10代ではマイコンブームがあり、「少年たちは雑誌に掲載されたプログラムを入力してゲームがしたいがために、親に頼んで高価なマイコンを購入してもらった」。また、学生時代はPCに触れる機会がなかったが「社会人になってから、会社の研修などを通じてPCのスキルを磨い」た。「アラサー世代は1990年代のWindows95、98、XPブームを経験している。学生時代にPCを買って、ワードの使い方などを習得した人が多い」という。

これ、ウソでしょ。自分はマイコンブームにハマり、BASICを学び、自腹で高価なパソコン(「PC」と表記するとMacが除外されているとみなす御仁もいるので、以降カタカナで「パソコン」と表記)を購入し、ゲームもプログラムした経験があるけど、こんなヤツはオタクなマイノリティだった。パソコンなんか高くて買えません(NECのPC9801を使えるようにいろいろ取り揃えると40万くらいした。しかもそれで使えるワープロはほとんどクソで、ワープロ専用機を別に所有していた)。費用対効果が低いから、当時の若者でも購入した層はマイノリティーだったはず。第一、ゲームしたいならプログラムするよりファミコン買えば手っ取り早かったわけで、話が完全に矛盾している(これは80年代の話です)。アラサー世代がWindowsブームに熱狂したという話も、正直言ってききません。僕が大学生を教え始めたのは90年代初めくらいからだけれど、実質的にはネットに繋げない(可能だけれどコンテンツはショボく、通信速度は遅く、通信料は高く、接続もそれなりに知識が必要で、一般には親密性の薄いものだった)。パソコンに興味をもっている人間なんて、やっぱりマイノリティだった。これは自分がパソコンユーザーだったゆえに実感がある。

ゼロ年代がパソコンを所有する理由は「インターネットに接続できるから」だった

でも90年代末くらいから、学生たちはパソコンを所有するようになる。理由は二つ。プッシュ的な要因は、大学に入学したお祝いとして親が買い与えたから。で、これはどう使われるかというと、ほとんど「寝たまんま」という状態になる。稼働するのはレポート作成時のみというのが一般的。つまり、もっぱらWORDを使うだけの「ワープロ専用機」の「お勉強道具」。「EXCEL?それってなんですか?」「EXCEL=出来れば触れたくない、勉強に特化されたソフト」「表作るだけ。でも計算の必要ないからWORDでできる」という認識の方が強い。ただし21世紀に入ってインターネット使用料が安くなると、ネットを使うというプル要因が登場する。つまりネットブラウザとして活用するようになっていった。ただし、これとてブログをやるとかショッピングをするとかという時代ではなかった。また、ゲームをやってもよいけれど、パソコン用のゲームというのはギャルゲーみたいな、ある程度マニアックなイメージが付着していたことも確かだろう。ゲームをするというのは一般のゲームハードを使用する方が普通だったはずだ。つまり、当時からあまりパソコンなんか使っていないのだ。だって、原則、勉強以外は必要ないんだから。

スマホでパソコンは限りなく不要に

で、「パソコンいらない」に拍車を駆けたのが事実上2008年に出現したスマホだった(ここではiPhoneの発売をもって「スマホの出現」とみなす)。パソコンに頻繁にアクセスする動機はインターネット接続だけ。ところが、スマホはこの環境をパソコンよりもはるかに簡単、しかもウェアラブルなかたちで実現した。また、ここにはゲームもカメラもついている。便利なアプリもついている。動画も自由に見ることができる。GPS搭載だから待ち合わせや店探しも簡単。加えてソーシャルメディアが加わった。これら新しい機能はハードを持ち運びできる点で圧倒的にアドバンテージが出てくるわけで、だったら当然チョイスされるのはパソコンではなくスマホになる。結果、スマホは様々なメディアをブラックホールのように呑み込んでいった。ゲームしかり、カメラしかり(もはや単体カメラを持ち歩くというのは一眼レフで趣味としてという場合に限定されつつある。中堅デジカメ市場はほぼ壊滅状態)、カーナビしかり、タウン情報誌しかり。

パソコンもそうだった。パソコンはインターネット機能にあまりお呼びがかからなくなり、お勉強道具、ワープロ専用機に戻ったのだ。だったら、そんなもん、要りません。IT mediaの記事は、若者にとってパソコンは高いというイメージがあると指摘しているけれど、これもウソ。Netbookはそれこそ3万円くらいからある。記事によれば「高い」と認識しているのは、パソコンでも唯一付加価値のついているMacBook(とりわけMacBookAir)だけは欲しいと思い(ドヤリングが出来るからか?)、それがノート型だとまあ10万円くらいから始まるので「高い」ということになるのだとしているのだけれど、ポイントはそこにはない。Netbookがパソコンに思えないところが問題なのだ。つまり、パソコンは「アウトオブ眼中」(「死語の世界」です)。MacBookは「パソコン」ではなくて「MacBook」という認識なわけね。

さらにWORDの存在だってアブナイ。今、スマホでワープロというかワード使えますよ。フリック入力でレポートを作成し、これをプリントアウトしたり、メール送信したりして提出する学生も多い(フリック入力早いので長文も苦にならない若者多し!)こうなると、唯一残ったワープロの機能も危ういわけで。う~ん、オワコンか?

なんのことはない。パソコン、もうある意味ではオールドメディアになっていると考えた方が早いのだ。筆者の甲斐氏には「パソコン=必需品」という無意識の前提がある(ま、氏はそういった世代なんでしょう)。もちろん、社会人としては、そうだろう。就職した瞬間、デスクの前にはパソコンが置かれているはずだから、そういった主張自体は理解できないでもない。社会では必需品であることは言うまでもない。だからといって中高校時代からそんなものを無理矢理やらせても意味がないし、よって「お勉強道具」のパソコンを与えても、ほとんど効果はないはずだ。やらされる時間が終われば、すぐさま彼らはスマホに持ち替えるはずだから。馬を水飲み場(=パソコンの前)まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。すぐ横にはもっと美味しいジュース(=スマホ)がある。言い換えれば甲斐氏の無意識の前提は、いわゆるコーホート効果、つまり同年代に経験したものについての相対化がなされていないことに由来している。自らの世代の共通認識が必ずしも一般性、普遍性を備えているとは限らないことの省察を欠いているのだ。

若者がパソコンを使えないわけじゃあ、ありません。使わないんです!

じゃあ、現代の若者、とりわけ学生は社会人になってからパソコンが使えなくて困るということになるのか?そんなことはないだろう。40~50代は、学生時代にはPCに触れる機会がなかったが「社会人になってから、会社の研修などを通じてPCのスキルを磨い」たと甲斐氏が指摘するのと同様に、現在の若者も入社してからスキルを磨いてどこが悪いのか?

そして、もう一つ甲斐氏が見落としていることがある。学生、そんなにバカじゃありませんよ。やっぱりWORDで教員がレポートを要求すれば、そのほとんどはパソコン使って作成し、提出してくれます(前述のスマホでのフリック入力という強者もいますが、別にやっていることは同じなわけで、何か問題があるんでしょうか?)。で、たとえばアパート住まいの若者のかなりの数がパソコンを持ってはいないけれど、自宅にいた頃は親がパソコンを持っていたから、それを使っていたわけでWORDはできるのね。付け加えれば、無料で自由に使えるパソコンが置いていない大学なんてないんです。それでやってれば十分でしょ。ましてや自宅住まいだったら、そのまんま親のパソコン使えばいいわけで。だから、パソコン、いらない!

パソコンからスマホへ、主役メディアの交代、パソコンは純然たる「お仕事マシーン」に

若者たちはパソコンを使えないのではなくてパソコンを所有していないだけ……でも、パソコンのスキルは上の世代に比べると落ちる?入社当初はそうかもしれません。しかしパソコンで何をやるかはスマホで勉強済みです(プログラムするとか、専門的な職種でない限り。でも、そうした職種に就いている若者は、原則的には入社してからスキルを学んでいるというのが普通です。理系の学生は除きますが。これは昔も今も代わりがありません。またデザインや編集系の仕事の職種に就きたがっている若者はパソコンを所有しています。それは「彼らの欲望を実現する必須の装置」だからです。ただしこの場合、ほとんどMacになります)。スマホというのは、いわば一般の利用においては「パソコンの進化形」。だからインターフェイスが簡略化しているだけで、やることはそんなに変わりません。つまりスマホをやればやるほど、社会人になったときパソコンのスキルアップも早い。

パソコンが消滅することは当分ないでしょう。ただし、全てのメディアがそうであるように、新たに出現したメディアと既存のメディアの機能が重複してしまったときには、オールドメディアは駆逐されるか、重複しない部分で生き延びるか、あるいは新しい機能を再定義されるかという道を辿ることになる。パソコンの場合、後ろの二つが該当するのかなあ?というのが僕の印象です。言い換えると「純然たるお仕事マシーン」になる(そういえばIBMって”International Bussines Machine”(=国際お仕事機械)って名前だったよなぁ。あの名称は正しかったんだ!)。ちなみにパソコンのエンターテイメント的部分の多くはスマホの他にスマートテレビみたいなメディアによって駆逐されちゃうでしょう。S.ジョブズはしばしば「パソコンを生んでブレークさせ、パソコンを葬り去って逝った男」みたいに言われていますが、積極的にスマホ、タブレットPCを推進したことの背後には、こういったメディアの法則への認知があったかもしれません(大画面スマホがタブレットPCを駆逐するというのは解らなかったみたいですけど)。

喉が渇けば、自ら水場に向かいます

学生はパソコンが出来ない?心配ありません。馬が水を飲みたくなれば水飲み場(=パソコンの前)まで自分で行きますから。社会人となったとき、彼らの前に立ちはだかるのは「生きる」「稼ぐ」という、必需品としての「水」=パソコン。すぐに必死になってやりはじめるはずです。もっとも、オフィスで使うパソコンの用途って、一般にはそんなに難しいものだとは、とても思えませんが?あるいは難しいものなら、大学でフツーにパソコンいじってても、全く使いものにならないんですけどね。特化されちゃっているから。で、これって、昔から全然変わってないことでもあります。

パソコンを学んでおけ?そんなのは杞憂なんじゃないんでしょうか?

オタクが生まれた状況

オタクは社会的性格、つまりもはやわれわれ日本人全てが性格の中の一部として取り込んでいる心性。だから「オタクな人がいる」のではなく「あなたの中のオタク」、いいかえれば「われわれは、皆おたく」、つまり日本国民全体が、その成分の一部を共有する人格を有していると、前回(http://blogos.com/article/106752/)は指摘しておいた(もちろん専業オタクといった部類の人間もいるだろうが)。だから、ここでは誤解を避けるために、われわれの中の「オタク的性質」「オタク的性分」として議論を進めていることをお断りしておく。

オタク的性質とは、簡単にまとめてしまえば「一部の限定領域に過剰に自らの関心を向ける傾向」をさす(ちなみに、これは80年代末から延々繰り返されてきたオタク論のなかでも不変の指摘だ。だから僕のオリジナルの定義というわけではない)。当初はマンガ、アニメ、フィギュアおたく(当初は「オタク」でなく「おたく」とひらがな表記されていた)などがその典型として語られていたが、現在では膨大なジャンルにオタクが存在する。そしてわれわれのほとんどが、その中のどれかのジャンルに関わっている。今日では「換気扇オタク」「トイレットペーパーオタク」なんて、一般には理解不能みたいなオタクも存在する。

こういった「ジェネラル」ではなく「トリビア」な方向に関心が向かってしまう、つまりオタクな存在にわれわれがなってしまうのは、ある種、社会的必然と言っても過言ではない。かつてとは異なり、現代ではアクセス可能な情報が膨大になり、それらの中から任意に一つを選択すれば、多くの場合、それは必然的に「トリビア」なものにならざるを得ないからだ。そして、こういった嗜好は基本トリビア過ぎて、周囲の人間とのコミュニケーションのネタとしては成立しない。それが結果としてコミュニケーション不全を引き起こすし、仲間を探して、また情報を探してタコツボ的にネットにいっそうアクセスするという行為へと人々を向かわせる。だが、こういったトリビアな嗜好であったとしても、ネット上で展開すれば「同好の士」を見つけ出すことができる。そして、それを利用してビジネスもまた成立する。この循環が膨大なオタクジャンル、そして膨大な数のオタク、あるいはオタク的性質を備えた人格を生み出したのだ。要は、社会システムが、単にオタクを拡大再生産させているに過ぎない。だからオタクが社会的性格になるのは「あたりまえ」なのだ(もちろん、僕もオタクの一人なのだけれど)。

オタクとマニアの違いは何か

オタクは市民権を獲得し、裾野の広がりを見せようとしている。なので、もうちょっとオタクの特性についてツッコンで考えてみたいと思う。ちなみに、ここでは90年代に岡田斗司夫たちが展開した、オタクの市民権獲得のための議論、つまりネガティブからポジティブへという文脈ではない(こんな議論はとっくに終わっている)。むしろ、ニュートラルな立ち位置を「情報へのコミットメント」という視点から考えていく。とりわけ、ここではオタクの前身?であるマニアとの違いでオタクを考えてみよう。で、ここでは「非オタク」「真性オタク」「マニア」と三分類してみたい(後者二つはオタクの下位分類)。

オタクと非オタク……情報アクセスへの限定性

先ず、オタクをオタクでない非オタクとの関係で位置づけておく。これは、繰り返すが、あなたの中にあるオタク成分の部分と非オタク成分の部分と考えてもらっていい。この区分を行うために「情報へのアクセス」傾向についてのマトリックスを用意した。縦軸が情報の質についての軸で、関心が情報の「形式」に向かうのか「内容」に向かうのかというもの。「形式」へのアクセスが勝っている場合、「情報の中身」よりも「情報収集という行為それ自体」が情報行動を促す動機となる。簡単にいいかえると、集めること、コレクションすること、いわば情報を「押さえる」ことに関心の比重がある。一方、「内容」に関心が向かう場合、その情報の手触りであるとか、いわれであるとか、物語がどうなっているのかという点にベクトルが向かう。情報収集はあくまで、そういった中身の吟味のための手段に過ぎない。

一方、横軸は情報アクセス範囲の広さに関するものだ。つまり「広い」=情報アクセスが広範囲に渡るのか、それとも「狭い」=情報アクセスが一部に限定されているか。

こうすると第一象限=形式+広い、第二象限=形式+狭い、第三象限=内容+狭い、第四象限=内容+広いとなり、オタクに該当する情報アクセスは第二、第三象限が該当する。第一象限はオタクからは全く遠い情報行動で、いわゆる、かつての「大人」がやる行動一般での情報アクセスだ。いろんなことを満遍なく適当なレベルで収集し、コミュニケーションにおいて儀礼的レベルで活用するというようなやり方がその典型だ。パワーでこれをこなせる人間がいたとすれば、いわゆる「百科全書」的な物知りということになる。一方、第四象限は広範な範囲の情報についてものすごい理解力で認知しているということになるわけで、まあ、こんな人はほとんど存在しないといっていい。強いて挙げれば辣腕プロデューサーとかが該当する。イメージするのは秋元康とか池上彰あたりか?(笑)

そこで狭い、つまり限定的領域にアクセスが向かう傾向(第二+第三象限)を、まず広義のレベルで「オタク成分」としよう。



オタクと非オタク
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オタクはマニアと真性オタクからなる

オタクはしばしば、かつて「マニア」と呼ばれていたものと人格が重複する。つまり、限定した情報領域へ熱狂する傾向については同じだ。だったら、ずっとマニアという言葉で通せばよかったのだが、そうはならなかった。ということは、この二つはある部分は共有した性格を持ちながら、一部で根本的に異なっていると考えなければならない。この区分が第二象限=形式+狭い、第三象限=内容+狭いに該当する。前者がおたくで後者がマニアだ。つまり広義のオタクというカテゴリーは狭義のオタク=真性オタクとマニアに別れる。

もう少し細かく見ていこう。時系列的に古い第三象限のマニアから考えてみる。マニアの場合、情報を押さえることはもちろん重要だが、その中身を吟味することについてもこだわる。例えばかつての「鉄道マニア」の場合。彼らは鉄道という世界について個人的な世界観を持ち、持論を展開するという特長があった。情報を押さえる=所持するだけでなく、これを吟味し、物語として繋げていたのだ。これは、当時はまだ情報アクセスに関するインフラが充実していなかったことに由来する。情報アクセスが難しく、その絶対量も少なかったため、必然的に限定された情報をこねくり回すことが一つの行動様式になったのだ。マニアは少ない情報を何度も反芻し、カスタマイズして物語を構築していたのだ。いわば、妄想度が高い行動。だから、やたらと蘊蓄を語る(ただし、情報量は真性オタクと比べれば大したことがない)というパターンになった。

一方、第二象限の狭義のオタク=現在のオタク=真性オタクの場合、情報は形式面、押さえることが重要。そしてオタクを巡る情報アクセスに関するインフラはきわめて充実している。それゆえ、必然的に情報量は膨大となる。とにかく欲望に忠実に、次から次へとザッピング的に新しい情報を入手するといった「情報収集」という行為それ自体が目的化するのだ。当然、ひとつひとつを吟味する時間はなくなっていく。こういった行為、つまりひとつひとつの情報について「物語」や「いわれ」を考えるのではなく、ひたすら膨大な情報をゆりかごとしつつ、これに包まれることで、オタクはアイデンティティを実感する。「萌える」という行為は、情報という記号の表層に熱狂する行為をさすが、これが現代のオタク=真性オタクの基本的な情報行動様式と言っていいだろう。だから、彼らは情報量こそ多いけれど、それぞれの内容についての意味性は希薄。だからオタク同士のコミュニケーションにおいては、その内容を議論すると言うよりも、ひたすら持っている情報を提示し合うというパターンになる。要するにコレクションを互いに提示するが、それぞれについて深く突っ込まない(というか話せない)。そしてこちらの側も、妄想する。ただしストーリーを作って妄想するのではなく、対象それ自体に妄想する。つまり「萌え」。「萌え」に理屈はない。そこにあるのはアイデンティフィケーション=自己同一化だ。結局「萌え」とは、そこに自分を見ている。こういった情報の断片に自らが没入することで、価値観が多様化した現代をヘッジする戦略をとるのが、われわれ現代オタクの情報行動なのだ。

オタクと非オタクを使い分ける健全性

こういった情報消費を行うオタク的心性。繰り返すが、一般的な社交性を備えた人間にももはやフツーに備わっている。一般社会においては、まさに「一般人」つまり第一象限的な人格として社交的に振る舞うが、その一方でプライベートな領域では一般には了解不可能なオタクとして振る舞い、ネット等を介して了解者=同好の士を捜し、もう一つの世界を構築する。オタク成分は社会的性格となった。だから、こうやって自らのオタクと非オタク的成分を使い分けて生活を続けること、これが現代社会においては、ある意味、最も「健全」な情報行動生活様式と言えるのではないだろうか(もちろんオタクで突っ走って生計を立ててしまったり、あるいは社会的不適応を起こしたりする人間も一部存在するだろうが)。

時代は、もはやそんなところにまで来ていると、僕は考えるのだが。

オタクについて言及すると怒り始める人がいる。

僕がブログでオタクについて言及すると、必ず一部の人間から猛烈な反発を食らうという面白い現象が起きる。で、こういった反発をされる人間、恐らく自分がオタクであり、そのことについて何らかのトラウマ≒コンプレックスがあり、その部分に僕の書いたブログが抵触し、過剰な読み=文面を吟味せず自らの潜在的な否定的コンテクストに基づいて一方的な解釈=誤読を行い、そして僕に向かって「けしからん」ということになるのではないかと考えている。ちなみに、僕自身はオタクに関しては完全にニュートラルに社会学、メディア論的立場から考察を進めているに過ぎないのだけれど、どうも「当事者」という自覚がある人間からすれば、そういうふうには読み取れないらしい。

もっとオタクはポジティブに捉えられても、いいんじゃないか?「自分がオタクで、どこが悪い!」「オタクはすばらしい!」ってな具合に。ちなみに、こんな議論ですら、90年代半ば、オタキングで名を馳せた岡田斗司夫がとっくに議論していることでもあるのだけれど。

社会的性格としてのオタク

社会学には「社会的性格」という考え方がある。社会学者D.リースマンの言葉で「ある特定の社会、文化、歴史的状況において、人々が共通して備えている性格」のこと。たとえば若者論の議論で70年以降から生まれはじめ、70年代末には社会的性格、つまり日本人全体が備えている性格として指摘されたものに「モラトリアム人間」というのがある。これは精神医学者の小此木啓吾によるものだが、小此木はモラトリアム人間、つまり「いつまでも大人になろうとしない若者」の心性が現代人全般に広く浸透していることを指摘するためにこの用語を用いた。

そして、「オタク」というのも、もはや社会的性格だ。「アニメやフィギュアなどの一部の趣味の分野に熱狂し、コミュニケーションが苦手で、相手と関わる時にも「君と僕」という第一人称、第二人称ではなく、距離を置いて「おたく」と呼び合う、社会性の低い一部の若年層の男子」というかつての定義などとっくに意味をなしていない。言葉の定義は転じて「一部の趣味の分野に熱狂する人々」くらいの意味合いで捉えられているはずだ。かつて首相を経験した鳩山由紀夫や麻生太郎、そして防衛大臣を務めた石破茂などが、自らを堂々と「オタク」と称することを憚らないなんて時代になったのだ(鳩山と麻生は「マンガ・アニメおたく」、石破は「ミリタリーオタク」)。キャラクタービジネスのブロッコリー、後にカードゲーム会社・ブシロードを立ち上げた木谷高明は2012年、アニメ関係とは関連が薄い、というか関係が見えないプロレスの団体・新日本プロレスを買収し、現在ではプロレス人気の復活に一役買っているが、木谷、実は幼い頃からの熱狂的なプロレス・オタクで、その夢を叶えたに過ぎない。そして、オタクとしてビジネスモデルを作り上げてしまっている。また、2004年の時点でオタク市場はすでに4000億円(野村総研調べ)を超えていると言われており、それから11年が経過した現在、その規模は数兆円(何をオタク市場と計算するかについては異論があるが)に達していると考えても良いだろう。自らもオタクと称する経済評論家・森永卓郎もすでに五年以上前に「市場は1兆円を超えている」と指摘している。つまり、オタクが社会性を獲得し、もはや時代を動かそうとしているというわけだ。

「オタクなあなた」ではなく「あなたの中にあるオタク」を論じる時代の到来

だから、おたくについては考え方を「トリビアなことに熱狂的に入れ込む、日本人の中の、一部の人間」、いいかえれば「オタクなあなた」ではなく、社会的性格、いいかえれば「あなたの中のオタク」と考えるべきなのだ。

83年、中森明夫がコミケでオタクをネガティブな形で発見し、88年、幼女連続誘拐殺人事件を犯した宮崎勤がやはりネガティブな形でオタクのイメージをブレイクさせたのだけれど、こんなことはもはやとっくに”昔の話”。オタク、もっとポジティブであってもいいし、別に気にすることでもない。なので、僕がオタクという言葉を用いる時に、そんなに過敏になっていただかなくても、いいんじゃないかと思う(笑)オタクなんて、もうとっくにフツーなんだから。

今やわれわれ日本人は共通してオタク魂を何らかのかたちで備えている。

スマートフォンの先端に装着して、自分の方にカメラを向け自らを撮影する「自撮り棒」が若者の間で大人気だ。このディバイスが発明されたのはもう40年近くも前に遡るそうだが、ニョキっとバーを伸ばして撮影している姿、やたらと目立つ。

自撮り棒はカメラの備えている致命的な欠点を補ってくれる。カメラとは、あたりまえの話だが原則、撮影者が被写体になることができない。タイマーを使う手もあるが、明確なアングルを決めるというのはちょっと無理。で、これが可能になる便利なツールというわけだ。

そこまでして撮りたいのか?

ただし、である。これを使って「自撮り」している風景、なんとなく傍目からは(とりわけ年配者からは)不自然に思えないこともない。「そこまでして自分を撮りたいのか?」みたいな印象を抱く人間、結構多いらしいのだ。

そこで、こんな物言いが出てくる。若者は承認願望が強い。だが現代社会において弱者、しばしば社会的にはほとんど存在が無きに等しい。そこに自撮り棒。これは「存在証明」「自己主張」にはもってこいに映っているのではないか……若者論論者なら、こんな分析をするかもしれない(若者論は、しばしば「自己」とか「アイデンティティ」とか「存在証明」みたいな言葉を使いたがる領域なのだ)。ただし、もしあなたがこういった分析に同意したとするなら、それは単に「自撮り」することに躊躇する自分の立ち位置を無意識に正当化しようとしているゆえに、そうなるに過ぎないのだと考えたほうがいい。もとより、彼らの自撮りの理由はメディア論的視点からすれば、もっと他のところにあると見るべきなのだ。ちなみに、昨年の夏、僕はバンコクとタイのリゾート、暮れにはバルセロナに滞在したが、旅行者の集まる繁華街やリゾートのあちこちでこの自撮り棒を目撃した。これは一昨年には見られなかった風景だ。そして、これを利用している人間は別に日本人に限定された話ではない。欧米、アジア、とにかくあっちこっちからの人間が利用しているのだ。なんのことはない。現代社会における便利なツールと考えた方が的を射ている。この連中が存在証明したい、自己主張したいなんて思っているとは、到底思えない。

自撮りを巡るインフラの変容~テクノロジーの側面

自撮り棒が突然ブレイクした背景には、あたりまえの話だが「撮影する」という行動におけるインフラの変容=整備があることを踏まえる必要がある。いまどきの若者の特殊事情とか特殊気質によるという説明は、ちょっと×なのだ。

かつて自撮り棒は「珍発明」のカテゴリーに属していた。重たいカメラを棒の端に付け、こちらに向けて撮影する姿は、不格好を超えて滑稽だったからだ。先ず、カメラ自体が重すぎる。またシャッターを切るのもなかなかたいへん。そして、結局のところモニター(=ファインダー)を見られないからアングルも決められない。ということは、タイマーとほとんど同じ機能しか無いにもかかわらず、がさばるわけで、こんなものを旅先に持ってくる人間など「変わった人」でしかないという位置づけになる。

ところが時代は変わった。カメラはスマホのカメラ機能に代替され、前面カメラでディスプレイをモニターしながらアングルやポーズを確認できる。ジャッターもBluetoothを利用しているからリモートで楽チン。また、スマホ自体が軽量だから、これに合わせて自撮り棒も大幅に軽量化できるし、がさばることもない。バックにちょいと忍ばせ、必要な時に取り出して棒をスルスルっと伸ばすなんてことが出来るのだ。もちろん自分だけを撮るだけでなく、自分を含めて仲間と撮影することも可能だ(というか、こちらの方が主流)。

自撮りを巡るインフラの変容~情報意識の側面

自撮りするという行為自体にも抵抗がなくなっている。これにはいくつかの要因がある。先ず1つは90年代半ばに登場したプリクラの存在だ。これで仲間と連れだってプリクラ・マシンで撮影することがコミュニケーションの一つとして位置づけられた。もはや三十代から下のプリクラ世代がプリクラ撮影に躊躇するなんてことはないだろう。で、プリクラのようなカジュアルなコミュニケーションツールに、自撮り棒を利用した撮影というスタイルが仲間入りしただけの話だ。ここで、自撮りに対する抵抗は一歩後退する。つまり、ただ単に「あっ、これ、便利じゃん!」。

もう一つはケータイ、そしてスマホにおけるカメラ機能の存在だ。かつて銀塩の時代、カメラはまさにホビーのひとつであり、それなりに費用のかかるものだった。ところが、いうまでもなく現在は全く異なっている。フィルムを購入する必要はなく、デジタル的にデータを取り込むだけ。だから失敗したくないので気合いで慎重に撮るなんてことはせず、とにかくこちらもカジュアルな感覚でジャカジャカ撮影してしまうのだ。そのジャカジャカ感が、翻って自撮りという撮影スタイルを生んだとしても何ら不思議はない。しかも、撮影行為はもはや男性に限られたものでもなくなった(「カメラ女子」なんて言葉もフツーに使われている)。もちろん、さっきは否定的な書き方をしたが、自撮りには自己確認=存在証明のための行為という側面もある。これはかつての若者だったら日記なんてのがこれに相当するのだろうけれど、これがカメラというメディアが身近になったことで、同じレベル=メディア性に降りてきただけのことだろう。カメラは日記になったのだ。そして、その際に自撮り棒を使うというスタイルも一部に生まれた。

コミュニケーションツールとしてのカメラ、そして自撮り

スマホの時代、こういった撮影のカジュアル化、それに伴った自撮りのカジュアル化はさらに加速したといえるのではないか。前述したように撮影したフィルムならぬデータ・ファイルはパソコンなどのストレージに保存可能であるだけでは無い。いや、今日ではこれをSNSにアップするというほうがむしろ一般的だろう。しかもこれがほとんど瞬時に行われる。つまり、撮影→即アップという流れ。

こうなると、たとえばFacebookやインスタグラム、LINEに挙げれば、即コミュニケーション・ツールとして写真が機能することになる。いわば「どこでもプリクラ」。この時、もはや「撮影」という行為は限りなく透明な行為となっているのではないか。つまり、コミュニケーションすることが先にあり、そのメディア=手段としてたまたま撮影、自撮りが登場するだけに過ぎない。

この意識が定着しているとすれば、若者たちが自撮り棒で自らを撮影する行為は自己確認でも何でもない。ただの「ネタ」だ。まあ、もちろん存在証明的に撮影している若者もいるだろうが、そちらはむしろマイノリティだろう。

そう、自撮り棒が流行るのは、自己アピールと言うより、むしろ撮影を巡るインフラ、とりわけケータイ→スマホとSNSの普及というインフラによって技術的、そして心性的に生み出された必然的結果と考えた方がよいのでは?そういったニーズを的確に捉えたツール、それが自撮り棒。だからヒットしていると、僕は考えている。

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